☆プロローグは絶望とともに



 初まりは、その時から終わりが確定していた。




「お前には、生花が似合うなァ」


 そう言って、禍星と呼ばれた彼は目を細める。

 明星の頬に優しく添えた手から、一房の黒髪がさらりと流れ落ちた。


 正体が露見し捕らえられた彼が、今日までそっと隠し持っていたのは、一輪の椿だった。手折られて数日経過した花は既にしおれかけていたが、しかし薄暗い牢の中でも彼女の黒髪によく映えた。

 満足げに微笑み、彼はそっと明星を撫でる。


「いつか市で見かけた髪飾りより、大概似合っているよ。やはりお前は籠の鳥でいるよりも、野に咲く花でいる方が美しい。それを花も分かっているのだ。

 それとも、良いのは紅だろうか。力を持つ巫女様というのは、狂おしいほどの紅が似合うように出来ているのか」

「……分からない」


 途方に暮れたように力なく呟いた彼女の言葉に、けはは、と彼は笑みをこぼす。


「気にするな。まもなく死人になる男の戯れ言だ」


 軽く告げた彼の台詞に、ぐっと何かを堪えるように彼女は目を閉じた。




 二人が出逢ったのは、賑わう市でのことだった。

 外の世界に焦がれて忍んだ半幽閉の巫女と、巫女への足がかりを探して忍んだ隣国の刺客と。互いの事情を知らぬ二人が出逢い、皮肉にも心を通わせた。

 幾度かの逢瀬を重ねた後、しかし二人は事態に気付き。やがてほどなく男は素性を気取られ、囚われた。


 そして間もなく。彼は、殺されようとしている。

 彼の国を滅ぼす儀式の贄として、他ならぬ彼女の手によって。




 時刻は夜半。何日も隙を見計らい、ようやくここまで忍んで来た。しかしあまり長居は出来ない。いずれ誰かに悟られるだろう。そうなれば、終わりだった。

 けれどどうしても離れがたくて、格子を隔てて彼らは互いの手を合わせる。


「明星。俺は、国を出たときから命などとうに捨てた身。今更どうなろうと構いはしないさ。こうしてお前に会えたんだ、悔いはない。

 だがな。……お前は、これでいいのか」


 問われた彼女は、少し困ったように首を傾げた。


「これが私の運命だ。致し方ないさ、禍星」

「……またお前は、そんなことを」


 囚われているのは、禍星と名乗るその青年。

 だがしかし。本当に囚われているのは、誰か。


 明星は、柔らかく笑いながら言った。


「事実だからなぁ。いい加減、受け入れもする。……ただ」

「ただ?」

「……もし。もし、私がここから自由になりたいと、そう願ったときには。その時は、どうかお前が私を殺してはくれまいか。

 そして、もし叶うのなら」


 一息置いて。

 彼女は、目を閉じたまま静かに願った。


「その時は。『禍星』ではなく、その真の名を私に教えておくれ」


 彼は息を飲む。

 禍星、というのは。彼の仮初の名だった。彼の国では、血縁の者と、そして伴侶となる人物にしか本来の名を告げない。真の名を告げるということは、即ち、自分の人生を相手と分かち合うと誓うことを意味した。

 初めて彼は苦しげな表情を浮かべ、彼女の手を強く握りしめる。


「……今、その名を告げるのでは駄目か。自由が無くとも、未来が無くとも。俺はとうにお前へならこの名を差し出せる」

「駄目だ」


 きっぱりと拒絶して、強い口調で明星は続けた。


「今生では叶わない。次の生での、希望にしたいのだ。

 だから、お願いだ、禍星。約束してくれ。必ず私を、自由に」

「分かった。約束しよう、明星。必ずお前を、自由に」


 彼の声を聞いて、彼女は安堵したように木の格子へ額を合わせた。厚い牢は二人を隔て、彼の額には届かない。

 さらりと流れ落ちた彼女の艶やかな黒髪には、刺した赤い椿がよく似合った。






 二人が話をしたのは、まだたったの数日前であった。

 人払いをした神殿の一角。彼女は、今回は堂々と正面から牢の前に辿り着く。

 気配を察した彼は、格子に寄りかかったまま振り返らずに言った。


「来たか、明星」


 格子の向こうで、禍星は笑う。

 横からちらりと窺える彼の横顔には、恐怖も恨みもない。ただ緩やかで、静かな諦念がそこにあるだけだった。


「お前に殺されるのなら致し方ないな」


 軽い口調でそう言うが、当の彼女は黙ったままだ。

 彼はやはり振り返ることなく、代わりに牢の天井を見上げる。


「俺の顔を目の当たりにしたら、お前はきっと迷うだろう。

 こうして背を向けている。儀式に要るのは血なのだろう。形式に問題がないなら、このまま一思いに刺せ」

「禍星」


 彼の言葉を遮るように口を開くと、彼女はその場に座り込んだ。

 まもなく、がちゃりと鈍い音がして牢の戸が開く。驚いて、彼はようやく振り返り、明星の顔を見上げた。

 そこにいたのは、ひどく真剣な眼差しの彼女だった。禍星の手を引き牢の外に連れ出すと、明星は座り込んだままの彼の両手を握りしめ、じっとその瞳を覗き込んだ。



「私を殺せ、禍星」



 明星の申し出に、彼は言葉を失う。

 構わず、彼女は畳み掛けるように言った。


「禍星。私はお前を助けたい。どうか、ここから逃げてくれ」

「何を、言って」

「私を殺してここから逃げろ。

 今度こそ。今度、こそ、私はお前を助けたいんだ」


 言って、明星は彼の手に短剣を握らせる。

 それは儀式用の剣。本来であれば、彼女が彼を殺し、彼の血を吸う為の剣だ。抜身の剣は、炎に照らされ鈍く光った。


「廊下を出た先、右手の戸を開けてある。そこから裏手の森へ進めば、人の目はしばらく誤魔化せるだろう。私がよく使った道だ。

 巫女を殺したお前はこの国では重罪人になる。けれどお前は、彼の国の者だ。お前は国を救った英雄となるだろう。逃げ延びて、彼の国で幸せになれ」

「馬鹿を言うな」


 ようやく我を取り戻した禍星は、彼女を見上げながら声を荒げた。


「この期に及んで何を血迷ったことを。今日は連中が待ち焦がれた儀式の日だろう。敷地内から逃げきれる訳がない。どれだけ見張りがいると思っている」

「大丈夫だ。お前はどこまででも逃げられるよう、どこまでも好きなところに行けるよう、まじないをかける。

 お前の足なら、必ず逃げきれる」


 この国一番の巫女が言うのだ、信じろ、と、彼女は笑ってみせた。しかし握る手の力は強く、決して彼の手から剣を離そうとしない。刃の切っ先は、彼女の方へ向けさせていた。

 頭を振って彼は否定する。


「そういうことじゃない。俺は、お前を」

「……分かっているさ、禍星。

 けれど、約束しただろう。私を。きっと自由に、してくれるのだと」


 穏やかに笑んで、そう言うと。

 彼女は、彼の腕の中に飛び込んだ。


 彼の手に、無理矢理に握らせたままの短剣は。

 静かに彼女の身体へ沈み込む。



 とぷり、と剣を握る彼の手へ、温かい液体が流れ落ちた。

 彼に枝垂れかかるようにして、彼女の身体は崩れ落ちる。



「明星!」


 彼は、明星の身体を抱きとめる。慌てて横たえるが、彼女の胸元には柄まで深々と剣が刺さっていた。どうしようもなく溢れだす奔流が、彼女の純白の衣をみるみる紅に染めていく。


「何故。どうして、明星!」

「言うな。……あまり、大声を挙げては、流石に人が来るぞ」

 

 明星は弱々しく笑い、彼の口を塞ごうと手を伸ばす。

 が、彼女の腕は頼りない手つきで空を彷徨い、彼の顔まで届かない。今度は彼が彼女の手をそっと握りしめ、自身の頬に当てた。

 光を失いかけた明星の目は、その手に導かれるようにして、悲痛に歪んだ彼の顔を捉え。

 満足気に、赤い唇を開いた。



「なあ。禍星。

 ……お前は。私にとって、綺羅星そのものだったよ」



 そう、独り言のように言い残すと。

 彼女の手は力を失い、禍星の手からはらりと滑り落ちた。


 主の事切れを察したかのように、髪に差していた椿の花が地面に落ちる。とうにしおれきってしまい、赤茶に変色した花は、彼女の血の色に染まって再び紅に戻った。

 彼は、虚ろな目でそれを拾い上げる。


「やはりお前は。籠の鳥よりも、野に咲く花でいる方が美しい」


 禍星は、こつりと彼女と額を合わせる。

 数日前には、叶わなかったそれ。


「……約束は。果たしたぞ、明星。

 けれど。約束が、違うではないか」


 じっと目を閉じ、彼は椿の花を握りしめた。



「俺はまだ、お前にこの名を告げていない。

 逝くのが早過ぎるぞ、明星」



 そう呟いて。

 彼は、静かに彼女の亡骸をかき抱いた。


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