第14話 心のユキサキ

 毎月この日だけは、お店を休みにすることになっている。これで三年目。少なくとも七回忌まではこうしようという話だから、後三年はこの状態が続く。それは別に構わない。ユキのことを忘れたいなんて思わないし、忘れられるとも思えない。

 ただ、何度やってきてもこの日をどういう気持ちで受け止めれば良いのか、判らないのだ。


 悲しめば良いのか。

 喜べば良いのか。


 いや、喜ぶのは間違っている。可愛いユキが死んだ日なんだから。お祝い事なんかじゃないなんてのは、重々承知の上だ。

 ユキがいた頃の家の中を思い出すと、胸の奥が重くなる。ユキのことは大好きだった。ユキがいなくなって、お父さんもお母さんもすごくショックを受けた。


 サキだってそうだ。妹のユキが亡くなって、誰よりも苦しんだ。


 今だって、苦しみ続けている。これは罰なのかもしれない。心の片隅、目の届かないずっとずっと奥の方で。


 ユキなんていなくなってしまえば良い。そう願うことが、なかったとは言い切ることができなかった。


「おはようございます」

「ああ、コウちゃん、よく来てくれたね」


 春が来て、空気に温かさが感じられるようになって。天気だけが、どんよりと曇っていた。まるで、サキの心の中を表しているみたいだ。何も見えない。はっきりとしない。その向こうに、青空があるだなんて信じられない。

 制服のスカーフを、胸元できゅっと結ぶ。鏡に映る自分の顔を見て、サキは口の端を持ち上げた。これは笑顔じゃない。ただの皮肉。今日この時、この場所で笑うことなんて許されていない。


 会えて嬉しい。

 言葉を交わせて嬉しい。


 そんなことを、考えてはいけないんだ。


「おはよう、コウ」

「ああ、おはよう、サキ」


 高校生になって、また一段と背が伸びた。「コウちゃん」なんて似合わない。ふいっ、とコウはサキから視線を逸らした。身体の奥に、鈍い痛みが生じる。本当に、どんな表情を浮かべれば良いのだろう。

 仏壇の置かれた和室に、サキの家族と、コウがそろった。これで何度目だろうか。まだ色褪せないユキの遺影を前にして、手を合わせて、その冥福を祈る。ユキを誰よりも可愛がっていたお母さんが、軽くしゃくりあげる。お父さんがその背中を抱き締める。

 コウは、サキの隣で静かに目を閉じたままだった。それもずっと、繰り返しおこなわれてきた儀式の一部にすぎなかった。


 しんと静まり返った六畳間で、サキは大人びたコウの横顔と、無邪気なユキの写真を見比べた。


 駄目だ。


 どれだけの時間が経とうとも、サキには二人の間に入ることは出来ない。それは大きな裏切りであって、決して口にしてはいけないことだった。

 いっそのこと、生きていてくれれば。

 コウの手を取って、明るく玄関から飛びだしていってくれれば。


 これ以上追いかけようだなんて、思わなくて済むのに。


 サキの眼から、つぅっと涙が一筋こぼれ落ちた。これもまた、毎月決まりきった出来事の一つとなっている。サキ自身はその事実に、まるで気が付いていなかった。



 交通事故だった。雨の降る住宅街を、ユキは一人で歩いていた。当時付き合い始めたばかりの、コウと待ち合わせをしていた。八代やしろコウはユキとサキの、共通の幼馴染だった。

 走ることが大好きで、とにかくじっとしていることが出来なかったサキと比べて、ユキは物静かで大人しい女の子だった。サキとは一歳違いで、並んでいるとしょっちゅう比較された。

 真っ黒に日焼けして男の子みたいなサキ。色白でふんわりとした雰囲気のユキ。足して混ぜて割れば丁度良いのに、などとからかわれて笑われるのがしばしばだった。


 サキは別に、自分がそうであることを変えようなどとは思わなかった。人には、持って産まれた性質というものがある。サキはきっと、自分の「女の子」をお母さんの中に置いてきてしまったのだ。ユキはサキの分まで、それを持ってこの世に生を受けた。なら仕方がない。サキは自分についてはあきらめて、「女の子」はユキに任せることにした。


 やはり一つ年下のコウがユキと付き合うと知った時も、それは当然のこととして受け入れた。男っぽくって年上で、陸上にばっかり打ち込んでいるサキを選ぶよりも、実に理に適っている。サキ自身、ユキのことは女子として素敵だと思うのだから間違いない。泣き叫びたい気持ちは全部喉の奥に押し込めて。

 サキは、二人の交際を喜んでみせた。


 それが縫い傷だらけの、物言わぬぼろぼろの姿で戻ってくるだなんて。サキの心は、その時一度壊れてしまった。


 棺に取りすがって、サキは大声で泣いた。大切な、もう一人の自分。「女の子」の自分。大好きな人と結ばれる自分――サキは沢山の想いをユキに寄せていた。それはもう叶わない。

 昔自分の中に閉じ込めておいた悪い感情が、サキを責め立てた。いなくなってしまえば良い。サキから奪ったものを、返してほしい。そんなどうしようもないワガママをいだいてしまった自身の幼さを、サキは恥じた。

 大きな箸でユキの骨を取り上げている最中に、コウと目が合った。コウが自分を非難していると感じて、サキはその場を逃げ出した。黒いいばらが、サキを縛り上げていく。眠れ。眠れ。


 この気持ちは、絶対に目覚めさせてはいけない。ユキは消えてしまった。お姫様なんていないんだ。


 しつこい。本当にしつこい。

 何回も何回も殺しているのに、まだ死なない。死んでくれない。


 早くいなくなってくれればいいのに、また月命日にはコウはやってくる。


 それだけ好きだったんだ・・・ユキのことが。


 コウを見て生まれてきた気持ちを、サキはそっと手に取ってナイフで一突きする。産声を上げる前にとどめを刺して、自分の中に広がった血溜まりの池に沈める。ほら、また一つ死体が増えたよ。馬鹿だね、サキは。



「コウちゃん、ご飯食べてく?」


 コウはほんの少しだけ考える素振りをしてから、首を横に振った。「そう」とお母さんは寂しそうな顔をした。コウと食事をしても、ユキの話しか出来ないのならあまり楽しいものにはならない。コウもそれが判っているのだ。

 店は閉めてあるので、裏の玄関まで見送ることにした。コウは何も言わない。サキも、どう声をかけて良いのか判らなかった。


 コウが訪ねてきてくれることは、正直嬉しい。それがどんな理由であっても構わない。

 でもユキの命日をだしにして、ユキを裏切るような真似はしたくなかった。


「コウ、学校には慣れた?」


 コウが学校指定のローファーにかかとを収めるのを見届けて、ようやくそれだけを言葉にした。コウは今年、サキと同じ高校に入った。三月にそれを報告された際には、びっくりした。コウはサキよりも勉強が出来るし、もっと進学に有利な学校に通うものだとばかり思っていたからだ。


「まだ一ヶ月だからね。なんとも言えないかな」

「そっか。何か判らないことがあれば・・・」


 そこで、サキは口ごもった。この先を続ける資格が、サキにはあるのだろうか。ユキがいないのを良いことに、浮かれた心持ちでコウと一緒の学生生活を送ろうとしている。


 サキの手の中には、何もない。

 ただ、コウの好きだったユキの姉。それだけだ。


「部活とかに入れば、色々と教われるんじゃないかな? 私の知り合いの男子が、ハンドボール部に入ってるよ」


 それが、今の精いっぱいだった。靴を履いたコウが、玄関に立ってサキを見つめている。昔はユキと同じくらいだったのに。三和土たたきにいて、サキと目の高さが変わらない。きゅう、と胸が締め付けられた。


「サキは、陸上部?」

「うん。相変わらず走ってる」


 そうしていないと、余計なことばかり考えてしまうから。ユキのことも、コウのことも。全部を振り切って、真っ直ぐに走り抜ける。頭の中が真っ白になって、その瞬間がたまらなく心地好かった。


「サキらしいな」


 コウが、ふっと笑みをこぼした。


 驚いて顔を上げるサキの前で、「じゃあな」という別れの挨拶と共に扉が閉まった。サキはその場で、ぼんやりと立ち尽くしたまま。口の中で小さく、ユキに対して謝った。



 ごめんなさい。サキはどうしても――コウのことが好きです。




 髪に付いた塩素を丁寧に洗い流して、ドライヤーで乾かす。毎度のことなんだけど、これが手間がかかるんだ。ロングの子なんかはもっと大変そう。ふんわりヘアーは高校に入ってからヒナのトレードマークであり、チャームポイントなんだから。ハルに今日も可愛いね、って思ってもらうために一生懸命だ。


 曙川あけがわヒナ、十六歳。高校二年生。ノーキューティクル、ノーライフ。


 水泳部の活動が終わって、女子更衣室はわいわいと大賑わいだった。来月に大きな大会を控えているので、部活の後半、プールはそれに出場するガチ勢に全面明け渡される。友達のサユリも、最近はタイムを着実に伸ばしていてばっちり出場メンバーに入っていた。ぷかぷか浮かんでいるだけのヒナなんかは、お呼びでない訳だ。とほほ。

 制服に着替えて、鏡の前で確認。髪はふわっと、肌はさらっと。石鹸とプールの匂いって、薬っぽいけど清潔感も感じられて嫌いじゃない。ハルはどうかな。スカートの丈は去年よりもこっそり短くしてる。スカーフの下に隠れてるけど、そっちの方もさりげなくワンサイズアップ達成。こちらも、ハルのお気に召してくれるといいな。


「お疲れー、ヒナはこの後どうする?」

「えーと、ごめん。グラウンドの方を覗いてみる」


 訊くだけ野暮だったか、と水泳部の友人がぺろっと舌を出した。いやまあ、ご想像通りですよ。ヒューゥ、と一斉に冷やかされる。有名税みたいなものだ。赤面しながら一人、ヒナは更衣室を後にした。


 朝倉あさくらハルは、ヒナの幼馴染。同い年の十六歳。最初に会った時のことなんて覚えていないくらいの昔からの顔馴染で、幼馴染だ。


 小学校三年生の時、ヒナは雨の中怪我をして動けなくなっているところをハルに助けてもらった。それ以来、ずっとハルのことが好き。ハルも、ヒナのことを一番に気にかけてくれている。今では優しい両想い。高校に入って、告白してもらって。そうそう、お付き合いを始めて一周年です。やったー。このまま素敵な高校生活を送れるといいな。

 高校一年の終わりに、ハルはヒナにプロポーズしてくれた。お互いにまだ学生だし、ハルは十六歳で法的に結婚は認められないしで、実際にはまだ何年か先の話にはなるんだけど。でも、本人たちは心に決めました。ここまで変わらなかったんだから、この気持ちはずっと今のままなんだって。うひゃあ、超大胆!


 ・・・でも、学校では清く正しい関係でいなければならないのです。何しろヒナとハルは、この学校で最も有名なカップルだからね。二人の味方をしてくれている担任の美作みまさかカオリ先生をガッカリさせないためにも、模範的な行動というヤツを示さなければならないのですよ。

 まあ言わるまでもなく、学校でそこまでいちゃいちゃしようとは思わない。ハルもヒナとの交際はすごく真面目に考えてくれていて、とても大事にしてもらっている。別にそこまで我慢しなくても、いいのに、ねぇ?


 ハルはハンドボール部に所属している。中学まではバスケットボール部で、身長が伸び悩んだのもあってスタメン落ちしたのを気にしていた。ウチの高校のハンドボール部は本気度が低いお遊び部活で、友達に誘われて軽い気持ちで入部した。

 そうしたら、ちょっとした事情によって今年は部員数が激増して、ハルは部活に真剣に打ち込むようになってしまったのだ。そんな話聞いてないよ。ヒナとしてはもっとこう、ゆるーくて足元から三センチくらい宙に浮いてるような、そういうお気楽な日常モノの方が好みだったのになぁ。

 それに、スポーツ物って大体盛り上がってくるとひどい怪我をするじゃない? ハルにそんな目には遭ってほしくないなぁ。双子ではないから、交通事故で試合前に死んじゃったりはしないか。弟のカイは今年中学に進学した。あちらは勉強もできるサッカー少年。でもハルの代わりにはならない。残念。


 校庭では陸上部とハンドボール部が活動していた。ヒナのいた屋内プールから、状況はばっちりと把握済みだ。さっきまでダッシュとパス練習で、今は紅白戦。ハルが活躍するところをこの眼に焼き付けておかないと。さあ、ハルはどこかな?


「ヒナ」


 うっせぇ。

 今盛り上がってるんだよ。ヒナちゃんの高校青春グラフィティの真っ最中なの。

 イロモノ、怪談、宇宙的恐怖コズミックホラーはすっこんでろ。


 ヒナの隣に、唐突に違う世界の存在が現れた。間違いなく場違い。運動に汗を流す高校生たちの中に、半裸で毛皮をまとった銀髪の男とか。たとえイケメンであっても編集削除で対応だ。誰かフォトショ持ってこい。

 ヒナの左てのひらには、『銀の鍵』が埋め込まれている。手にした者を神々の住まう幻夢境カダスへと導く、究極の願望器だ。あらゆる魔術の触媒となり、人の心を読み、操作するという危険な力を持っている。

 鍵の持ち主をカダスへといざなう道標の役となるのが、鍵の守護者にして神官であるナシュトだ。エジプトでは魔術の神としてブイブイ言わせていたらしい。知らんがな。ヒナには学校で習った、津田仮面とかいう王様ぐらいしか判らない。ん、なんかおかしいか? まあいいや。


 見ての通り、ヒナは超忙しいんだけど。何か用?


「いや、大した話ではないが――」

「あら、曙川先輩。ご自分の部活の方はどうされたんですか?」


 出たよ。

 次から次へとお邪魔虫ばっかり出てくる。こういう展開はノーサンキューだ。ここはハルがカッコ良くシュートを決めるところを、ヒナがまぶしそうに見つめる場面でしょう? ハル、素敵。やっぱりヒナは、ハルのことが好き。卒業までなんて待たなくても良いから、ヒナをがっつりハルのものにして、って・・・


「後輩の話くらいは真面目に聞いて下さい。それでもって、ハンドボール部の活動中はマネージャーの私を通してください」


 ぐぬぅ、生意気だな。ヒナの前で、ジャージ姿の女子が腰に手を当ててふんぞり返った。黄色いパンジーのヘアピンがきらり、と陽光を反射する。ジャージのラインの学年色は一年生だ。そう、これが今年ハンドボール部の大躍進を作り出した張本人。


 ハンドボール部女子マネージャー、一年生の山嵜やまさきハナだった。


「水泳部はもう終わったのよ」

「嘘ですね。いい加減学習してください」


 ハナの右眼が、真紅の輝きを帯びていた。ああもう面倒臭い。ハナは『真実の魔眼』というややこしい力を宿している。どんな小さな嘘も見逃さない、厄介な魔術だ。術者を完全に欺瞞から隔離するためとかいう理由で、『銀の鍵』であってもその心を操ることはできないのだそうだ。ヒナには他人の心なんて覗き見する趣味はないから、関係ないけどね。


「私は来月の大会に出ないから、今日は終わりで良いの」

「ああ、邪魔だから追い出されたんですね」


 嫌らしい笑い方するなぁ。一応仲直り、ってことにしたじゃんか。ふん、とハナはヒナから顔を背けてグラウンドの方に向き直った。ハンドボール部の部員たちが、土まみれになりながら走り回っている。鋭いパスが、ゴール前にいる一人の手に渡った。


 ハルだ!


 日焼けしにくい体質のせいで色白ではあるけれど、背も高くなって、筋肉もついてたくましくなった。片てのひらでボールをしっかりと掴んで、ぐるっと身体を回してディフェンスを掻い潜る。うん、バスケの時につちかった動きだ。そのまま、前にジャンプしてシュート! ハル――


「朝倉先輩、ナイッシュー!」


 ヒナが声を出そうとする寸前に、ハナに先を越されてしまった。軽くずっこける。ああ、もう! 恨みがましく睨み付けたが、ハナは素知らぬ様子だった。はいはい、判ってますよ。人を好きになるのは自由。誰を選ぶのかはハルの勝手。ヒナがそう言ったんです。確かに、言ーいーまーしーたーっ!


 ヒナは『銀の鍵』を使わない。そんな力でハルの気を引くのは間違っているからだ。ハナの方も『真実の魔眼』で良い目を見たことなんてないから、あまり積極的には使おうとはしない。

 これは正々堂々、女同士の勝負だ。ふんだ。ヒナはもう、ハルと結婚の約束までしてるんだからね。周回遅れなんかに負けてたまるもんですか。



「よっ」


 練習が一段落して、ハルがヒナの方に駆け寄ってきた。さわやかに片手を挙げて挨拶なんかしてくる。はいはい、カッコいいですよ。高校に入って、ハルは随分と印象が変わった。何て言うか、大人の余裕? 中学の頃はもうちょっと、ちっちゃなガキ大将みたいだったのに。変に落ち着いた感じがするよね。


「朝倉先輩、ちゃんと整理体操してくださいね」

「判ってる。サンキュー、山嵜」


 ハナは複雑な表情で小さくうなずいた。まぁ、ハルったらすっかり『たらし』じゃないですか。そういう思わせぶりな態度は、ヒナ感心しないな。ハナなんて冷たくあしらうくらいで丁度いいんですよ。ビコーン、と真紅の瞳がヒナの方に向けられた。おおこわ。くわばらくわばら。

 そんな二人の無言の応酬を、ハルはきょとんとして見つめていた。『銀の鍵』も『真実の魔眼』も、基本的にはハルを含めてみんなには内緒にしてある。こんな力があると判ったら、まともな神経の持ち主なら気味悪がって友達付き合いなんかしてくれなくなるからね。

 話す前から全部考えていることが判っちゃってたり。ちょっとした誤魔化しもすぐに嘘だと看破してしまったり。そんなの嬉しくもなんともない。健全な人間関係というのは、相互不理解を埋め合わせていこうとする意志から生まれるのです。おお、なんかヒナ今頭いいこと言った気がする。すごい。


「おー、曙川食堂は旦那のお迎えに来たのかぁ?」


 ハルのストレッチを手伝っていたら、かすかな雑音が耳に入ってきた。んー、なんだろう。最近耳鳴りがひどいなぁ。部活とか頑張りすぎて疲れているのかもしれない。ハルも根詰めすぎないでさ、帰りにクレープでも食べていかない? 糖分補給は大事だよ?


「あれ、ひょっとして聞こえてない? 完全に二人の世界に入っちゃってる?」


 クッソうるせぇなぁ。

 あまりにしつこいのでそちらの方に顔を向けたら、結構なファンタジーワールドが展開されていた。じゃがいもが、しゃべってる。ヒナ、トラックに跳ねられた覚えはないけどそういう異世界にでも転生しちゃったのかな。じゃがいもが人間の言葉を話す世界。ご一緒にポテトはいかがですか、とか自分からお勧めしていくスタイル。何それ、面白くない。一次選考落ち確定。

 ハルの友達で、ヒナの中では永世名誉じゃがいもの称号を得ている、宮下とかいう根菜だった。可哀そうなくらいモテないんだけど、救済してやろうという気も起きないほどのクズです。割とどうでもいい。しっしっ、と手で払う仕草をするのも面倒臭かった。


「宮下先輩、ダッシュ2本さぼりましたよね? 後輩に示しがつかないので今からでもやってきてください」


 ハナにぎろり、と睨まれてじゃがいもは激しく狼狽うろたえた。ハンドボール部の敏腕マネージャー、ハナに対して小手先のごまかしは通用しない。そういうこすいズルをする姿勢が見透かされて、モテないという無慈悲な現実につながっていくのだよ。やーいやーい、ばーかばーか。


「え? そうだったっけ? 覚えてないなぁ」

「あー、3本だったような気もしてきました。そのうち4本だったことになると思います」

「シャッセン、すぐに行ってきます」


 二年生の先輩相手でも物怖じしないこの対応が、ハナの人気の秘密だった。当人は真面目にマネージャーをしているだけだと謙遜しているが、こういう白黒はっきりとした物言いがウケて、ハンドボール部の部員は着実に増えてきている。見た目が可愛くてしっかり者で、気遣いもできる。非の打ち所がないよね。

 これでハルに横恋慕してるんじゃなければ、良い友達になれそうなんだけどなぁ。


「ハンドボール部は大会とか出ないの?」

「最近になってようやく頭数がそろったような状態ですからね。公式戦の予選大会はまあ、活動実績のアリバイ作りみたいなものですよ」


 ハルに訊いたのに、なんでハナが返事をするんだ。抗議の視線を送ったが、完全に無視された。おのれ。


「やるだけのことはやってみるさ。何も目標がないとだらけちゃうからな」


 ここのところ、ハルはすごくやる気に満ちていた。ヒナの方を振り向いて、にっこりと笑ってくれる。え? ひょっとして、ヒナのためだったりもするのかな。そうやって頑張ってるハルの姿はとても素敵だけど――


「ですよね、ほっとくとみんなダラダラしちゃうんだから。しっかり気合を入れていきましょう、朝倉先輩」


 こっちのお邪魔虫も元気になっちゃうんだよなぁ。ああああー、あーあ。



 「着替えてくる」とハルは更衣室の方に向かった。

 「クレープなら私も行きます。抜け駆け厳禁」とハナがそれについていった。うー、今日はフユは街の図書館に、貸し出し予約をしていた本が来たからって先に帰ったし。ユマは文化祭実行委員の集まりで、遅くなるって言ってたし。せっかくの放課後デートのチャンスだったのになぁ。二年生になってから、ハルとちゃんとしたデートってしていない気がする。二人はこれでも相思相愛で、彼氏彼女の関係なんですよ? それってどうなんだ?


 昇降口の方に移動しようとしたところで、はた、と足を止めた。部活のない生徒はほとんど下校していて、下駄箱の周囲にはほとんど人影がない。傾いた陽射しに照らされて、ほんのりとオレンジ一色に染まった世界の中に。


 ヒナは、友達の姿を見つけてしまった。


 すらりとして長い脚が、陸上用の短パンから伸びている。しっかりと引き締まった細い四肢は、ほんのりと汗に濡れてきらめいて見えた。スレンダーで、頭身が高い。ショートカットの髪は無造作なようで、それでいて実にその雰囲気にマッチしていて美しい。

 黙って立っていれば王子様みたいにも思えるけど、でもやっぱりヒナにとっては奇麗な女の子の方がしっくりとくるかな。一年生の時に同じクラスで友人になった、サキだった。

 そういえば陸上部も校庭で活動していたんだっけ。そちらも一段落したのだろうか。何気なくサキに声をかけようとして、ヒナは慌てて近くの柱の陰に身を隠した。待て待て、待て。一人じゃないぞ。なんだ、あれ。


 サキは誰かと向き合っていた。男子だ。ただ漫然と立ち話をしている、という空気ではない。ヒナはこっそりと様子をうかがった。大佐、至急ダンボールを送ってくれ。もっと近くで聞き耳を立てたい。乙女センサー全開。

 男子はサキよりも背が高くて、細身で華奢きゃしゃな印象を受けた。制服のサイズも大きめだし、あれは一年だな。声を荒げてこそいないけど、言い争っているようにも見える。今の口の動きは、「放っておいてくれ」かな?


 え、修羅場?

 ヒナ、修羅場に居合わせちゃったの?


「何やってんですか」


 ぶわぁああ!

 知らない間に、ハナがすぐ隣に立っていた。び、びっくりさせないでよ。口から喉が飛び出そうになっちゃったよ。いやそれ、どんな状態だよ。とにかく声を出さない状態で驚いたから、謎めいたポーズを取ってしまった。ハルがいなくて良かった。サキにも、気付かれてないよね。


 サキは男子から離れて、校庭の方に走っていた。慌ててサキの視界に入らないようにハナを引っ張って柱に密着する。流石さすが短距離走の期待のエース、足が速い。あっという間に遠ざかっていってしまった。男子はしばらくその場に立ち尽くしてから、早足に校門から外に出ていった。あー、えーと。


 これってひょっとしなくても、痴情のもつれ、ってヤツ?


「曙川先輩、今の人、何か憑いてます」


 へ?

 何かって、何?

 っていうか、どっちに?


 ハナが眉間にシワを寄せて考え込んだ。簡単には説明しにくいものなのか。ハナの『真実の魔眼』は、不可視の存在をもしっかりと捉えることが可能だ。そういったモノが常に悪さをするとは言い切れないが、今の状況からして良いものであるとも思えない。


 ねぇ、ナシュト、何か判る?


「それをさっき伝えようとしたのだ」


 ナシュトがイケメンをてのひらで覆って、首を横に振った。あらま、それはどうも気が回りませんで。神様の託宣をロクに聞こうともしていなくて、こりゃまたすいませんね。あいたたやれやれどっこいしょ。




 スタートラインに立つと、それだけでぴりぴりとした緊張感に襲われる。それはまんざら嫌なものでもない。これから始まる自分との戦いに、むしろある種の恍惚こうこつささえ覚えるくらいだった。

 ゴールの位置をじっと見据える。今回は、あそこまでだ。長いようで短く、短いようで長い百メートルという距離。時間にすれば、十三秒と少し。最近は調子が良ければ、十二秒台も出せるようになった。タイムが縮まるたびに、溜め息が漏れる。何も考えないでいられる時間は、長いままでいてほしいのに。なかなか上手くいかないものだ。


 昇降口を抜けて、男女が並んで歩いていくのが判った。なんでそれを見つけてしまったのか。やり過ごしてしまえれば、心がざわめくこともなかった。膝を曲げて、クラウチングスタートの姿勢を取る。遠くで、話している声が聞こえる。楽しそうな、笑い声。こんなにも離れているのに、どうしてここまではっきりと届くのだろう。腰を持ち上げて、前へとつんのめる。


 スターターピストルが、乾いた音を響かせた。



 コウとは、幼稚園の頃からの友達だった。一つ年上のサキは、妹のユキと同じような子分という感覚でコウに接していた。コウは大人しくて引っ込み思案で、サキが二人をぐいぐいと引っ張っていくのが日常だった。

 前を歩くサキが、コウとユキの関係の変化を悟ったのは中学に上がるくらいの頃だった。ユキがコウのことを意識して、一緒にいる時間が長くなった。サキのことを放っておいて、二人で話をすることを好むようになった。ああ、そうなんだ、と悟って。


 サキは、自分の心にふたをすることに決めた。


 別にコウは、運動神経が悪い訳ではない。単純に意識の問題だ。一度本気でかけっこをしてみたら、サキは危うく負けてしまうところだった。身長も、歩幅も全然違うのに、だ。コウは「サキに勝ちたかった」と本気で悔しがった。その気概があるならば、いつかは抜かされてしまうかもしれない。その時、サキはどきどきと胸が高鳴っていた。

 コウと走ったら、どんな風景が見えるだろうか。サキはコウの背中が見てみたかった。自分を追い抜いて、どこまでも加速していく姿。それはきっととても腹立たしくて。

 同時に、とても嬉しいものに違いない。サキはそこで、ようやく自分の感情の正体を知った。


 でも、コウはサキの隣に並んでくることはなかった。コウが選んだのは、ユキだった。それはサキにとっては最も残酷で――それでいて、何よりも一番納得しやすい結論でもあった。


 サキから見てもユキは美人だし、コウともお似合いだった。幼いころからサキに振り回された仲間同士、気が合うところもある。ユキは中学に入学してすぐにコウに交際を申し込んで、そのまま付き合うことになった。ユキにその話を報告されて、サキは笑顔で祝福した。


「よかったね。おめでとう」


 掛け値なしの本音だった。本当に良かったと思う。相手がユキなら、サキは満足だった。何しろユキは、サキが母親の中に置いてきた「女の子」を全部持っているのだ。まるで自分が選ばれたかのように誇らしかった。


 その代わり、サキはコウの顔が見れなくなった。

 二人が一緒にいると、逃げ出すようになった。


 そして今まで以上に、陸上に打ち込むようになった。速く、もっと速く。あの日視た、コウの幻影に追い抜かれないために。走っている間は、頭の中が真っ白になる。何も考えない。心の奥底の痛みも、流すはずの涙も、みんな後ろに置いていける。


 十三秒に満たない、ほんのわずかな瞬間で良い。限られたほんの一握りのランナーズハイを求めて、サキは地面を蹴り続けた。ただひたすらに。一心に。


「サキ」


 ゴールを抜けて現実に戻ってきたところで、声が聞こえた。針の先のように縮んでいた視界が、徐々に広がっていく。遠く、校門の辺りでコウが手を振っている。ああ、ダメだ。


 ぎゅうう、と心臓が締め付けられた。今、サキは喜んでしまった。サキがコウを見つけたのと同じに、コウもサキに気が付いてくれた。手を振って、声援を送ってくれた。これが、とてつもなく嬉しかった。

 コウの横で、ユキがじっとサキの方を凝視していた。コウと結ばれるのは、ユキだ。大丈夫、ちゃんと理解している。この感情は、サキが持つべきものではない。それがコウのためでもあるし、ユキのためでもある。ぐっと奥歯を噛み締めて、こらえる。


 軽く手を振って、サキはきびすを返した。もう一回だ。そうすれば、きっと何もかも忘れられる。サキは誰にも追い抜かれることはない。その相手は、トラックの中にはいないのだから。



 二人の仲が順調なことに、サキは満足していた。そうであってくれなければ困った。ユキはサキにとって、「女の子」の自分だ。可愛くして、恋をして。好きな男の子と結ばれてくれるなら、これ以上の喜びはない。サキはコウのことが好きだ。そしてこの気持ちを叶えてくれるのは、ユキなのだ。


 ユキの髪をすいていると、サキはとても幸せな気分になれた。コウはこんな素敵な女の子と結ばれるんだ。サキにはない、たくさんの魅力がそこにはある。うらやましいという気持ちはあったが、それは嫉妬とは微妙に異なっていた。


 ――相手がユキなら、このまま素直にあきらめきれる。


 サキにはそんな確信があった。だって、ユキだ。見も知らない誰かではない。ユキのことは、サキが一番よく判っていた。


「コウが好きな感じにしてあげるからね」

「もう、やめてよお姉ちゃん」


 コウのことだって、サキは十分に理解していた。それなりに長い時間を共に過ごしてきたのだ。ショートトラックなら何本分だろうか。疲れ果てて倒れてしまうに違いない。そんなことを考えて、くすくすと笑っていたのが懐かしかった。



 ユキは中学一年生の六月に、交通事故に遭って息を引き取った。

 雨の降りしきる日の午後、コウとの待ち合わせに急いでいる最中のことだった。




 ぼがががが、とお弁当箱の中身を一気にかき込んでハナの昼食は終わった。「お行儀悪い」とクラスメイトのルカにたしなめられたけど、急ぐんだから仕方がない。水曜日のお昼休みは、先輩たちと図書室で待ち合わせることになっていた。


 入学してまだ数ヶ月も経っていない内に、ハナはえらくとんでもない目に遭うことになった。期待していたのは、憧れの朝倉先輩との甘くて甘くて、後ついでに甘ったるくてとことん激甘な高校生活であったはずなのに。どういう訳か知らないが、『銀の鍵』なんていうおかしな先輩たちと行き会ってしまった。

 ハナにも『真実の魔眼』っていう、いかにも中学二年生くらいのラノベかぶれが考えそうな謎能力が備わっている。あまりにも荒唐無稽だし、どう考えてもこれで良い目は見れそうにもないので他人には内緒にしてきた。それがこの学校には、それを上回る扱いに困った人たちが生息していたのだ。


「おーい、ハナちゃん。こっちこっち」


 図書室に入ると、ほっそりとした身体つきに、とろんとした穏やかな垂れ目の女子が手を振ってきた。制服のスカーフの学年色は、二年生だ。この集まりの発起人であり、『銀の鍵』を持つ一人である因幡いなばフユ先輩だった。


「今日はこっちなんですか?」


 因幡先輩は貸し出しカウンターの近くにある、個人作業用の机の近くに椅子を置いていた。図書室の、一般生徒がいるエリアで話をするのは珍しいことだ。因幡先輩は図書委員で司書の先生と懇意にしているので、普段は司書室でお茶とお菓子まで出してもらう始末だった。


「んー、ヒナがねー」


 ちらり、と因幡先輩の目線が横に動いた。ああ、そこにいたんですか。机に向かって丸くなっていたので全然判りませんでした。一瞬だけハナの方に顔を向けて、「ううー」とうめき声をあげる。知りません。どうせ宿題を忘れた、とかなんでしょう?

 案の定、曙川ヒナ先輩は午後の授業で提出する宿題を、急ピッチで進めているところだった。教室でやると、朝倉先輩がいて集中できないからここに持ってきたのだそうだ。自分のことをよく把握しているとは思うけど、めてあげるべきかどうかは悩ましいな。


 ってことは待てよ、今なら朝倉先輩とお昼休みを過ごせるチャンスではなかろうか?


 ハナのよろしくないたくらみを察したのか、曙川先輩が物凄い形相で睨みつけてきた。はいはい、やりませんよ。今日はそもそも、因幡先輩が中心の集まりなんですから。ははは、と因幡先輩は力なく笑った。


「じゃ、始めましょうか。『大いなる世界の善意』の会、『おせっかい』の活動です」


 そのネーミングセンスはどうなんだろうか。とは言え因幡先輩は気に入っているみたいだし、あえて突っ込む必要はないのかな。曙川先輩が「おー」とやる気のない返事をしてシャーペンを振り上げた。はいはい、そっちはなるべく宿題の方に集中しててくださいね。



 『おせっかい』は、ゆるいクラブ活動みたいなものだ。因幡先輩が、曙川先輩とハナに声をかけて結成した。この学校で妙な力を持っている三人で、目に視えない世界を上手く活用していこう、とかなんとか。要は人助けとか、そういった感じ。卒業していった先輩や、因幡先輩の古い恩人の魔法使いに触発されたのが切欠きっかけだということだった。

 後はこういった面倒臭い力を持っている以上、それを悪いことに使ったりしてないよね、という相互監視だ。ハナの場合は嘘を見通すくらいだけど、『銀の鍵』は冗談になっていない。その『銀の鍵』が唯一見通せないのがハナだから、「悪いことに使ってませんよね?」「ハイ」で一発確認完了となる。曙川先輩や因幡先輩を疑うつもりがさらさらなくても、こういうのは手続きが肝心だ。


「ヒナから聞いたんだけど、サキに何かあったんだって?」


 今日の議題はそれらしい。曙川先輩の背中が、ぴくんと反応した。しゃべりたいんだろうなぁ。でもまずは宿題を終わらせないとですよね。


「サキという先輩と、私と同じ一年生の八代コウくんですね」


 サキ先輩については、ハナは全くと言っていいほど情報を持っていなかった。曙川先輩と、因幡先輩の共通の友人で、陸上部に所属しているというくらいか。それ以上は何も知らない。苗字だって聞いたことがない。同じ校庭で部活動をしている関係で、顔ぐらいは見たことあるかなぁ、程度だ。

 そんなハナに、因幡先輩はサキ先輩の事情を説明してくれた。今から約三年前に死んでしまった妹、ユキの存在。一つ年下の幼馴染である八代コウ。聞いてて、ハナは胸の奥がもやもやとしてきた。それって、実は出口がない話だったりしません?


「サキ先輩は、八代くんのことが好きなんですよね?」

「うん。それで間違いないと思うよ」


 自信あり気に、因幡先輩は首肯した。嘘はない。ということは、こっそりとサキ先輩の心を覗いたのかも知れないな。曙川先輩は友達の中を視ることを極端に嫌うから、因幡先輩は大っぴらにはそういうことを口にはしない。ハナもこういう時は、余計な詮索はしないようにと心掛けている。お互いに目配せして、合図しあった。

 だとすると、サキ先輩は八代コウにどう触れていいのか計りかねている、という感じだろうか。随分とつらい話だ。例えば、朝倉先輩を残して曙川先輩がいなくなったとして、ハナはどうすれば良いのか。

 すかさず喜びいさんで朝倉先輩にアタックをかけるほど、ハナも無神経ではない。そうなったら、きっと朝倉先輩は悲しむ。嫌だな。手を差し伸べて、支えてあげたいとは思うけど。そこに一切の下心がないだなんて、ハナには自信をもって断言することはできない。

 そうだね、何をするのにもためらってしまうか。時間が解決してくれるまで待って、それからまた一から始めようとするってところかな。


 でもそこに至るまでには、どれだけの長い年月が要求されるのか。ハナにはさっぱり。見通しのつけようがない話だ。


「・・・サキは、もっと自分の気持ちに正直になっても良いんじゃないかな」


 曙川先輩の言葉には、迷いが含まれていた。かすかな嘘の匂い。これは嘘というより、『本当にしたい』という願いか。


「サキはもう、十分に苦しんだよ。死んでしまった妹さんに遠慮していたら、サキも、そのコウくんもいつまでも前に進めない」


 その言葉は、曙川先輩が自分に言い聞かせているものだった。曙川先輩はサキの友達だから、サキの幸せを優先して判断を下す。そしてそのことを自覚しているからこそ、曙川先輩の声には今一つ力がこもっていなかった。


「そんなお二人の近くに、私には女の子が寄り添っているのが視えました」


 長い髪を水草みたいにゆらゆらと揺らしている、中学生くらいの少女だった。一目で、この世のモノではないと判った。サキ先輩と八代コウの間に立って、二人の顔を見比べて。少女は、声にならない声で何かを訴えようとしていた。


「あれが、ユキさんなんですかね?」


 十中八九、そうだった。二人の中で、ユキの死は少しも風化していない。その想いが、ユキという存在をこの世界に繋ぎ止めている。死者を留めるものは得てして、生者の未練だ。強い負の連鎖が、サキ先輩と八代コウの間には発生していた。

 そしておそらく、八代コウの方にも何らかのわだかまりがある。サキ先輩と八代コウが別れた時、ユキは八代コウについていった。サキ以上に、八代コウにはユキへの強い感情が残されているのだ。それが何かとか。判りたいような判りたくないような。ハナはやるせなくなって溜め息をいた。


「スッパリ後腐れなく解決! とはいきそうにないですねぇ」


 どう転んでも、何処かに何かが置き去られていきそうだ。そうと決まっているのなら、曙川先輩の言う通りに生きている人間の幸せを第一に考えるべきだろう。もしユキが死んでしまってからも八代コウのことを求めているというのなら、その繋がりを断ち切ることも検討しなければならない。


 最悪――無理にでもこの世から退場していただくことになっても、だ。


伝手つてがあるから、問い合わせてみる予定。最近バタバタしているみたいで、イマイチ連絡が付かないんだけどね」


 因幡先輩の周辺事情は、何かと複雑だった。親族と呼べる人は一人もいないし、『銀の鍵』なんていう特殊な異能力者でもある。ハナには想像もつかないことだが、そんな因幡先輩の諸々全てを理解できる人、というのがいるらしい。因幡先輩の生活は、住居から何からまとめてひっくるめて、その人が一切合切の面倒を見てくれているとのことだった。

 そういった支援のお陰もあって、因幡先輩はここで普通の高校生として生活していられる。同じ力を持つ曙川先輩と出会って友達にもなれたし、ハナとも知り合えた。なかなかどうして、その人というのは因幡先輩にとっては人生レベルでの恩人なのではなかろうか。

 それなのに、因幡先輩はその人とはある程度距離を置いている素振りだった。細かいことに関しては、デリケートな内容だろうから訊かないようにはしている。ただ、『銀の鍵』のことを知っていて、なおかつ高校生一人の身分と生活を保障できるとか。どう考えても、『その人』とやらはまともな相手ではありえないが。


 まあ、こういう時にはその異常さがかえって役に立ちそうかな、とも思えるんだけどね。


「魔法使い、とかですか?」

「んー、そんな感じというか、今回はより専門的な人に見てほしいかな。その辺りも質問してみるよ」


 どういう専門家スペシャリストなのかは知らないが、心強いことに変わりはない。何にせよ、自分のすぐ近くでそういう不可思議な現象が起きているというのは、精神的に落ち着かないものだ。サキ先輩の直接の友人である因幡先輩や曙川先輩なら、尚更のことだろう。ハナだって、ルカがそっちの世界に足を踏み入れたとか言い出したら気が気じゃなくなる。オカルトだろうが何だろうが、トラブルなんて無いに越したことはない。


「うぇー、これ絶対終わらないよぉう」


 静かにしていると思ったら、曙川先輩は完全にハマっている様子だった。昼休みだっていつまでも続く訳じゃない。やれやれ、と因幡先輩は肩をすくめた。


「ヒナ、それの提出が遅れたらきっと補習だよ?」

「二年になってから、補習だけは受けないつもりだったのにぃー」


 それはあれか、一年の時には補習を受けたことがあったのか。ハナは他人事ながら心配になってきてしまった。朝倉先輩も、どうしてこんなのを好きになっちゃったのか。ハナもそんなに勉強は得意な方じゃないけど、ここまではいかない。幼馴染って、そういうものなの? あーあ、うらやましい。ハンデありすぎじゃん。


 サキ先輩と八代コウも、幼馴染だ。そして、ユキも。

 死んでしまっているユキは、八代コウをどうしたいのだろうか。う、怖い考えになってしまいそうだ。これ以上深く掘り下げるのはやめておくか。


 そんなことよりも、目の前にいるこの情けない恋敵をどのようにして出し抜けば良いのか。そちらの方が非常に重要、かつ喫緊きっきんの課題だった。


「うううー。むぅーりぃー」


 ホントに、ねぇ。




 雨が降っている。

 手が冷たい。顔も冷たい。

 それだけじゃなくて、身体全体が冷たい。


 アスファルトにぶつかった雨粒が、音を立てて弾けて割れる。それが幾つも幾つも重なって、ざぁ、という雑音ノイズを形作る。耳に入ってくるのは、そればかりだ。後は何もない。世界は騒々しくて、同時に静寂に包まれている。

 じんわりとした熱が、お腹の奥の方からあふれ出してきた。寒くて、熱い。道路の堅い感触。折れて、転がった水色の傘。お気に入りっだったんだ。壊れちゃったかな。大事にしてたのに。もう、ダメなのかな。


 ユキは、このまま死んじゃうのかな。


 不思議と、そう考えると楽になった。生きたいという願望は当然のようにある。ただそれとは別に、ユキにはずっと悩んでいることがあった。

 答えを出すべきか、出さないべきか。ずっと迷っていた。いや、そうじゃない。本当は判っていた。判っていたからこそ、今日だって重い足を引きずって、ゆるゆると道を歩いていた。


 だからこれは、神様が与えた罰なのだ。


 もっと早く、ユキは認めなければいけなかった。それなのに、いざとなると言葉にすることができなかった。せっかく手に掴んだ幸せを、放したくないと願ってしまった。


 大好きな、コウ。


 ユキは小さな頃から運動が苦手で、姉のサキに置いていかれてばかりだった。そんな時、振り返ってユキを引っ張ってくれたのはいつもコウだった。

 コウはいつだって、ユキのことを待っていてくれる。ユキに合わせてくれる。独りぼっちになんかさせない。追いつけないほど遠くになんか――いかない。


 その向こう側には、いつもサキがいた。ユキとコウが並んでいる姿を、じっと見つめている。サキの気持ちは判っていた。コウに、追いかけてきてほしいと願っている。ユキはそれを知っていた。知っていたけど、許したくなかった。


 コウは、ユキのものだ。


 いつだって、そのために頑張っていた。可愛いお洋服を着て、話し方も仕草も気遣って。コウに選んでもらえるように。立ち止まってくれるように。前を見ないままでいてくれるように。

 ずっと、努力していたんだ。


 腕が上がらない。痺れていて、感覚がない。それでも、持ち上げる。ああ、血でべったりと汚れている。嫌だなぁ。こんなの、コウに見せられない。


 好きだよ、コウ。


 告白して、彼女になれた時は嬉しかった。よかった。これで、コウは自分だけのコウになってくれるんだ。そう思って、安心した。もう、サキの背中を見ないで済む。ユキはコウと共に、違う道を歩いていく。一緒に、手を取り合って。


 サキも認めてくれた。そうだよね。もうずっと、ユキの方がコウといる時間は長かったし、距離だって近かった。当然の結果だ。そう信じて、何も疑わなかった。


 ああ、意識が朦朧もうろうとしてきた。

 この後、コウと会わなくて本当に良かった。


 嫌な話を聞かされないで済むから。

 ユキは最後まで、コウの彼女だった。

 そうだよ、ユキは死ぬまで、コウのただ一人の恋人だったんだ。


 それで――



 それで、いいじゃないかっ!



 誰かが、ユキのてのひらを取った。はっとして、顔を上げる。雨が止まった。空間を埋め尽くす、無数の水滴。その向こうで、遠巻きにユキの姿を眺めている人の群れ。まるで雑踏の中の大道芸人に招かれたみたいに、ユキはそこの中心に立たされた。

 つややかな黒髪が、はらりと崩れて優雅な音色をかなでたように感じられた。黒い手袋に包まれた繊細な指が、ユキの手を包んでいる。時間はまだ、動いていない。いや、そうじゃない。


 ユキの時間は、この瞬間に終わったのだ。


「・・・それで、いいの?」


 闇色の瞳が、ユキの裏側まで見通してきた。病的なまでに白い、ビスクドールを思わせるなめらかな肌。ユキとそれほど年の変わらない、まだあどけなさの残る顔つきの少女だ。少女はそっと、桜色にうるんだ唇を近付けてくると。


「大丈夫、私に任せて」


 ユキの耳元で甘美な言葉をささやいて、あやしい微笑みを浮かべてみせた。



「私は――邪悪な死霊術師だから」



 ユキには何も判らない。


 ただ、どうしてもこのままにはしておけない。そんな想いだけが、その存在を支えていた。




 朝の空気は清々すがすがしい。そりゃあもう、普段の三倍増しくらいで。冬が終わって、陽が長くなったのもあるかな。夏服には早いけど、ぽかぽかとした温かささえも感じられる。うん、それもこれもハルが一緒にいてくれるからだ。

 ハンドボール部に朝練はない。ハルとはいつもみたいに早朝、通学路の途中にあるコンビニで待ち合わせしている。ハルの分のお弁当まで準備しなきゃだから大変。でも、この幸せには換えられない。人の少ない早朝の通りを二人きりで登校する、ヒナの甘くて大事な蜂蜜タイムだ。


 これが少し前には、ハナのせいで散々な目に遭った。既にハルと付き合っているヒナに対して、一方的にライバル宣言してきてさ。それを聞きつけた野次馬的一年生女子共がどやどやと押しかけてきた挙句あげくに、「ハナちゃんが可哀想かわいそうだとは思いませんか?」って――


 思うワケねぇだろうが、このボケナスが。


 あのね、ヒナだってすっごいすっごい大変な思いをして、ようやくハルとお付き合いできているんだからね。傍目はためにはもうラブラブチュッチュにしか見えていないのかもしれないけど、それは血のにじむような土台があってこその結果なの。

 それに、言う程アツアツカップルしてないから。できてないから。むしろしたいの。今だって本当は腕とかぎゅーって抱きしめて、いっぱいいっぱいハルにくっついて、頭とか髪とか撫でてもらって、超幸せボンバーを全方位に向かって放ちまくりたい所存なわけ。ドゥーユーアンダスタン?


 で、所詮は他人事でしかないニワカ勢は、ハルとヒナの登校時間に合わせることがすぐにできなくなったのでした。ふははは、ざまぁみろ。人の恋路に口を出してる暇があったら、自分のことをなんとかしなさいってことですよ。


 ようやく戻ってきた静かな日常に、今朝はハルと顔を見合わせて思わず吹き出してしまった。去年は色々あって、ヒナたちは学校で公認同然のカップルになった。冷やかされたりなんだりもあって、二年生でも同じクラスになれて。もうそろそろ一緒にいるのも当たり前なことだと、周囲の評価も落ち着いてきたところだったのに。

 ハルには感謝だ。今こうしてヒナが安心していられるのは、ハルが一年生の時に告白してくれたから。二人の気持ちは同じだよって、ちゃんと認め合うことができている。『銀の鍵』なんかなくたって、心は一つだって信じられる。


 それって、とてもすごいことだ。


 ヒナがハルのことを、男の子としてしっかりと意識し始めたのは小学校三年生の時。ハルもその頃から、ヒナのことを大事にしてくれていた。そうやってお互いのことを想い続けて、結ばれるっていうのはなかなかないんじゃないかな。


 ――だから、サキのことを考えると苦しくなる。どうにかしてあげられないのかと、思い悩む。


「そうか。なんか、大変だな」


 ハルには、とりあえずサキとコウの関係だけを相談した。「ハナが何か憑いてるって言ってたよ」とか、余計なことはお口にチャック。ハナの評価を『不思議ちゃん』にしてやりたいところだけど、ヒナが後輩のことを悪く言うみたいに思われるのはノーサンキューだ。嘘は何一つ含まれていないのにね。おかしいね。


「私は、サキに幸せになってほしいかな」


 サキは、幼馴染のコウのことをずっと好きだったんでしょう? 妹のユキがいるから、それをあきらめてきた。ユキが死んでしまって、そこにつけ込むみたいになってしまうのは確かにいなめない。

 でも、だからといってその気持ちを殺してしまっては、いつまで経ってもサキがむくわれないじゃないか。


 二年になってサキとはクラスが別れてしまったし、今は大会前であまり変な刺激を与えたくはなかった。サキ自身の考えというものもあるだろう。ヒナも馬鹿じゃないから、自分の意見を押し付けるようなことはしないつもりだ。

 サキの結論は、どちらに転ぶのか。コウに憑いているユキがどんな影響を与えているのかも、現時点では定かではない。状況によってはサキの意思を無視して、『銀の鍵』を使った力ずくの解決に頼ることになる。


 そういうのは正直、もうやりたくなかった。去年の夏、ヒナはやはり同級生の友達、サユリに対して『銀の鍵』を使った。サユリは自分自身を傷付けるほどに厳しく、自らをりっする妄執もうしゅうに悩まされていた。

 その強固なくさびを、ヒナは一刀両断に断ち切った。サユリはヒナにとって、大切な友人だったからだ。それがたとえサユリの願わない道であったとしても、サユリには元気でいてほしかった。夢を追いかけてもらいたかった。六月の大会では、サユリは水泳部の選手として出場する。そのことをヒナは、心の中で誰よりも喜んだ。その方がずっと、サユリらしいと思えた。


 そして同じくらい――ヒナは人知れずに傷ついた。サユリは何かを得るのと同時に、何かを失った。原因は、ヒナのワガママだ。ヒナが望んだ未来を、サユリには選ばせてしまった。その後悔を理解できるのは、同じ『銀の鍵』であるフユだけだった。


『ヒナの判断は優しい。それでいいんじゃないかな』


 フユは、正しいとも間違っているとも言わなかった。その通りだ。そんなことは、誰にだって判りはしない。だからこそ、『銀の鍵』なんていらないと思う。ヒナは、そんなゆがんだ力になんか頼らない。


 自分のことに関しては、誓ってそう言える。

 でもそれがサユリや、サキのことになったら――


「ヒナ」


 ぽふん、と頭の上に大きなてのひらが乗せられた。ふわっ。油断してたからこれは効く。ハル、素敵だな。いつもこうやって、ヒナがしてほしいことを判ってくれる。ハルに何も話せないとき、黙ってヒナのことを支持して慰めてくれる。


「多分、そんなに悩むことはないんじゃないかな」


 そう・・・なのかな?

 この前昇降口でサキとコウが話をしているのを見ちゃたんだけど、あんまり平和そうではなかったよ。お互いに何かを抱えていて、それが打ち明けられずに、その手から離せないままって感じ。

 それは多分、死んでしまったユキのことだ。どうあがいたって、そのわだかまりは残ってしまう。三年の月日が流れても、コウの背中にはユキの姿がくっきりと表れている。ハナがそれを、ばっちりと視てしまったわけだし。


「俺にはそういうの、よくわかんないんだけどさ」


 そう? ハルさん、ここのところすっかりジゴロじゃないですか。知ってますよ、クラスの女子の間でも人気が高まっているって。ヒナと一緒にお昼にお弁当食べていて、それが可愛いとかなんとか。それ、ヒナのものですから。ヒナの作ったご飯を食べて喜んでいるハルの笑顔は、本当なら他の誰にも見せたくないのに。それを生み出したのはヒナです。ヒナなんですー!

 もうね、どいつもこいつもホント油断ならないったらありゃしない。中学の時なんて、みぃーんなハルなんて見向きもしなかったくせに。「ハルカッコいいよ」って言ったら、「ああー、はいはいまた始まった」ってな扱いまでしておいて。それがなんという熱いてのひら返し。ハルもね、そういうの安売りしちゃダメだから。ヒナは知っているよ、イケメンを無駄にしているナシュトとかいう神様を。


「俺はヒナと一緒にいたいから、この学校を受けたんだ」


 うん、ヒナもそうだよ。懐かしいね。ハルと毎日勉強会した。頑張って同じ高校に行こうね、って。その努力があって、今の二人の関係がある。決して棚からぼた餅とか、なし崩し的とか、そういうのじゃないんだからね。世の中の幼馴染男女が全部うまくいっているとか、そんなのは妄想! ありえないんだから!


 ふがふがと憤慨していたら、かすかにフルートの音色が聞こえてきた。あちゃー、もうこんなところか。学校が近付いてきたので、本日の蜂蜜タイムは終了だ。

 ヒナとハルもかなり早起きをして登校しているけど、上には上がいる。吹奏楽部の朝練メンバーは、まだ空に星がまたたいている時間帯に個人練習を開始しているとか、半端ない。

 去年同じクラスだったヒナの友人、フルート奏者のチサトは本校舎の屋上を練習場所にしている。そこからはヒナたちが使っている通学路が丸見えだ。以前はそのことを知らなくて、校門の近くぎりぎりまでハルと楽しくじゃれついていたりして。大変恥ずかしい思いをいたしました。反省。


「あ、そういえばさ、今度の土曜日、ハンドボール部の活動が急に休みになってさ」


 あー、その話は聞いたわ。知ってたわ。意図的に記憶の中から消し飛ばしていたわ。

 ハル、ありがとう。ちゃんとその話題を振ってくれて。そうだよね、デート、してないもんね。こんな形だけのおままごとなイチャコラじゃなくて、もっとがっつりと恋人的なこともしたいよね。ハルも男の子だし、ヒナもハルとは将来のことまで約束しているから、全然オッケーなんでもアリだよ。むしろもう、ハルのものにしてもらいたいかな。高校生って、コドモじゃないし。

 でもね。


「えっとね、ハル。私ね――」


 フルートの旋律が、甘いメロディに変調した。チサト、貴様見ているな! 確かに一見するとヒナが顔を赤らめて、もじもじと何かそれっぽい言葉をつむぎ出そうとしているようには思えるだろう。しかぁし、残念ながらここはそんなロマンチックな場面ではないのだ。音声がお届けできないことが非常に残念です。



「私その日・・・補習なんだ」



 ハル、あなたの彼女は馬鹿です。努力が足りませんでした。ゴメンナサイ。




 欲しかったのは、コウと二人きりの時間だ。彼女とか恋人とか、そういうのはよく判らない。いつまでも一緒にいられればいいな、とは思う。感情としては、その程度のものだ。

 公園のブランコで二人で並んで、他愛もない話をするのが幸せだった。コウが、ユキのことだけをみてくれる。それが何よりも嬉しかった。コウ、どこにも行かないで。ここにいて。ユキから離れないで。


 サキが来ると、何もかもが台無しになってしまう。コウは、サキの方に走っていく。サキも、駆け足だ。ユキは二人に追いつけない。待って、って言うとコウが引き返してくる。悔しい。苦しい。


 コウがそばにいてくれるように、ユキは色んなことを頑張った。

 サキよりも綺麗に。サキよりも可愛く。それはみんな認めてくれた。サキだってユキのことを、自分よりも女の子だって。


 そうだよ。

 ユキはサキよりもずっとずっと、女の子だ。

 コウの幼馴染で、彼女で、お付き合いしている。

 ユキが、コウの彼女なんだ。

 それが良いって、サキも言ったんだよ。コウとユキはお似合いだって。二人がこのまま結ばれてくれれば、それが一番だって。


 きぃ、きぃ。


 ブランコがきしんだ音を立てて揺れている。

 コウの声が前から、遅れて後ろから聞こえてくる。

 唇が動く。キスすれば恋人になれる? 教えて、コウ。ねぇ、ユキはどうしたらいいの?


 コウが何かを口にした。

 知りたくない。そんな言葉、聞きたくない。いつも最後まで言わせずにさえぎった。抱き着いて、胸元に顔をうずめて。

 判っていないふりをして、引き留めた。


 急ブレーキの音と、強い衝撃が走って。

 ユキの身体から、ぱぁ、と赤い色彩が飛び散った。

 灰色の空に、真紅の絵の具。

 咲き誇る、曼殊沙華ヒガンバナ


 折れた傘と、ひゅうひゅうという自分の咽喉の奥から聞こえる音。


 そして降りてくる、おしまいのとばり


 ――心のどこかでは、これを喜んでいた。


 もうあの場所にはいかなくていいんだ。

 もうあの言葉を聞かされなくていいんだ。


 これからはずっと、ユキはコウの恋人でいられる。この場所で、ブランコは永遠に揺れ続ける。楽しいおしゃべりのひと時は、終わらない。これがただひたすらに繰り返される。繰り返し。リピート。ふりだしに戻る。おかえりなさい、ユキ。またイチから、ここで始めましょう。


 進まなくてもいい。そうすれば、壊れることもない。ユキはこれでいいの。判り切った未来なんて、見たくないから。ここで世界の全てを止めて、完結させてしまえればそれで幸せ。


 サキが、連れて行ってしまうこともない。二人を追いかけなくてもいい。コウを引き留めなくてもいい。


 きぃ、きぃ。


 もう不安になる必要はないんだ。

 コウ、ここでずっと一緒にいましょう? ユキはコウの彼女だから。たった一人の、恋人だから。


 コウのこと、好きだよ。本気だよ。そうじゃなきゃ、こんなこと思わないよ。


 どんなに綺麗になっても。

 どんなに可愛くなっても。


 コウが走っていくその背中を、止めることができない。


 お願い。



 ユキを――置いていかないで。




 猛獣のうなり声に似たビブラートたっぷりな重低音が、下腹の内側にまで響いている。どうしてこうなった。梅雨の近付いた曇天の下で、人も車も通らない旧道のトンネル前っていうシチュエーションは若干季節外れだ。ハナ的にはこういうのは、夏休みの特別番組とかでテレビの画面を介して観るものなんだけどな。


「ん? やっぱり視えちゃうものなの?」


 因幡先輩、それ、ワザと言ってますよね。ハナが『真実の魔眼』持ちだって判ってますよね。それに、ハナは知っているんですよ。ここが『恐怖! 心霊スポット百連発!』とかいう、頭の悪いヤンキーどもが喜んで飛びつきそうなコンビニ雑誌で紹介されている場所だって。

 ハナがどこでそれを読んだかとかはどうでもいいんです。問題はなぜ、ハナと因幡先輩が二人でここを訪れているのか、ということでしょう。


「夜の方が良かった?」


 勘弁してください。薫風の候、新緑の美しい五月の大自然に囲まれて、朽ちかけたコンクリートにぽっかりと穿うがたれた穴のまあ暗いこと暗いこと。間違いなく電気が通ってませんよね? しかもつい先ほど、フェンスのようなものを乗り越えた記憶があるのですが。ぶっちゃけこんな場所に制服姿の女子高生二人が入り込んでるのって、昼でもヤバいですよ。鬼ヤバですよ。


 やっぱり、因幡先輩の伝手つてとやらはまっとうな相手であるとは思えなかった。なんでまた、待ち合わせにこんな『心霊さん、いらっしゃぁい』なロケーションを選ぶんだか。せっかくの土曜日の午後、ハンドボール部の活動もお休みなのに。こんな肝試しに強制参加させられるだなんて、どんな罰ゲームなんだ。

 本当なら今日は、朝倉先輩と良い感じに抜け駆けできるはずだったのにな。悪いのは宿題をちゃんと提出できなかった、曙川先輩だもん。朝倉先輩は今頃、学校で曙川先輩の補習が終わるのを待っている。ハナはその間、朝倉先輩とちょっとばかりお話しさせてもらえれば良かったんです。千里の道も一歩から。大事なのはインパクトと、たゆまない努力。健気けなげで一途なハナの魅力に、朝倉先輩を少しずつとりこにしていっちゃうんだから。


「おーい、ハナ、中に入るよ?」


 ・・・ためらいがないな、因幡先輩は。こつーん、こつーんとローファーの音が反響する。空気が湿っていて、重い。ありがちな描写だと、ねっとりとしてまとわりつくような、って感じかな。まったりとしてしつこくない、と似ているよね。あれ、そうでもないか。ざっくりとして突き刺さるような、って言うと痛そうだ。ああもう、そういう方向に持っていかない!


 なるべく余計なことを考えて、意識を向けない努力はしているんだけど。


 どうしても、視界の隅をちらちらと『何か』の影がよぎっていく。はい、死霊ですね。死んだ人ですね。ここにも、そこにも、あそこにも。ワォ! ううう、視えるっていうのがこんなに恨めしく思えたのは久しぶりだ。何かここ、矢鱈と吹き溜まってません? 因幡先輩にだって同じに視えているはずなのに、なんでそこまで平然としていられるんだ。


「みんな死んでるしねー」


 ですよねー、じゃあ安心だー。


 ・・・ってなるかぁ! 死んでるから怖いんじゃないですか。ハナには視える以上の力はないんですから、いざという時はちゃんと守ってくださいよ?


「心配しないで。ハナの『視える』のに期待しているんだから」


 視ること、そして見抜くことに関しては、ハナの『真実の魔眼』は『銀の鍵』ですら凌駕する。特化型だからこそのアドバンテージがどうたらこうたら。その辺りの魔術的な理屈については、これっぽっちも興味がなかった。

 とにかくハナは、ここに罠が仕掛けられていないことを確認すれば良い。後は今回会う相手が因幡先輩にとっても初見だということで、その言葉に嘘がないことを証明する見届け人になる。責任重大なんじゃないですかね。その人って、魔法使いなんでしょう?


死霊術師ネクロマンサーだって聞いてる」


 語感からしてもう、嫌な印象しかいだけなかった。確かにそりゃ、死んだ人に関しては専門家だろう。こっちの疑問にも的確に答えてくれそうな、ベストマッチだ。


 でもそれって――ハナがいないところで、なんとかできないものですかねぇ?


「来たみたいだよ」


 ただでさえ冷え切っていたトンネル内の空気が、更に温度を下げた。ぴん、と張り詰めて、まるで氷の棺にでも閉じ込められたみたいだ。カリツォー・・・ってなんだっけ?


「ハナ、魔眼で相手の嘘を見抜くのって、目を閉じてても使える?」


 何ですか急に。

 多分、できますよ。声に嘘の匂いが乗っているのが判るというか。魔力自体は目に込められてますけど、視界を奪われても効果が消えるわけじゃないので。どのような手段を用いても『真実の魔眼』をあざむくことは不可能、です。ハイ。


「じゃあ、すぐに目をつぶってくれた方がいいかな」


 ふえぇ、ただでさえ怖いのに、目隠しプレイとか。因幡先輩じゃなきゃ、怒って帰ってますからね。トンネルの先に誰かの姿が見えたような気がしたところで、ハナはぎゅむっと固くまぶたおろした。見ない。絶対に見ない。因幡先輩が、力強くてのひらを握ってくれた。その温かさだけが、生者の世界との繋がり。そう思ったところで、落ち着いた雰囲気の女の子の声が辺りに反響した。


「初めまして、ですわよね因幡フユさん。『銀の鍵』との接触は禁則事項ですので、こんな場所を指定することになってしまって申し訳ないです。宮屋敷みややしきより非公式にですが、よろしくとの言伝ことづてを預かっております」


 ――全部、本当だ。


 え?

 何それ、ちょっと意味が判らない。


 禁則事項ってことは、『銀の鍵』とは話したりしちゃいけないってことなのかな。そう言えば以前聞いた魔法使いさんも、因幡先輩と直接会おうとはしてくれないみたいだった。それに。


 宮屋敷って、誰だ?


 ハナの不安を感じ取ったのか、因幡先輩が体を寄せてきてそっとささやいた。


「大丈夫。嘘がないのなら、この人は味方だ」


 ――これも、本当。


 因幡先輩には、ハナの知らない秘密がたくさんある。それは訊いてしまっても、良いことなのかどうか。ハナは、因幡先輩が自分から話してくれるまで、こちらからは尋ねないことにしていた。

 だって、図書室で一人でいるときの因幡先輩は。


 とても悲しそうな目で、どこでもない空間を見つめているから。


「八代コウという男の子についてです。私と同じ高校に通っているんだけど、何か心当たりはありますか?」


 暗闇の中に、因幡先輩が問いかけた。どうもさっきからおかしい。因幡先輩の存在は、しっかりとてのひらを通して感じられる。それに対する相手の声は、トンネルの先の方から流れてくる。


「ええ、あります。そうですか、その件に関してのことだったのですね」


 ただ、この気配はあからさまに『変』だった。具体的に何がどうと説明するのは難しい。『真実の魔眼』も違和感をビンビンに感知している。言葉に嘘はない。いつわりなのはそこではないのだ。ああくそ、なんだかもどかしい。


「八代コウは現在私が仕掛かっている案件です。どうかご心配なく。生きている方々に対しても、悪いようにはいたしませんよ」


 それは一体、どういう意味だ。嘘がない。その発言の内容は完璧な真実で満たされている。しかし唯一おかしいのは――



 この声は、偽物だ!



 真実を見抜いたハナは、思わず眼を見開いてしまった。魔眼が、そこにいる死霊術師の姿を赤裸々に映し出す。まるで人間の女の子そっくりな外見をよそおった。


「うわあああぁぁ!」


 邪悪な死霊術師が、にやりと口角を持ち上げた。




 あの日と同じ曇り空からは、いつ雨粒が落ちてきても不思議ではなかった。

 三年という決して短くもない月日が流れて、未だに何をする気力も沸いてこないことに驚いている。成し遂げられたことは、最低限度の一つだけ。本当に、情けない限りだった。


 サキの言う通り、部活でも始めて見ればいいのだろうか。中学時代のコウは、何をしていたのか。思い返そうとして、やめた。そこには、悲しみしかない。振り返ったところで、得るものなんて一つもなかった。


 ユキのことは、好きだった。


 その気持ちは本当だ。いつもコウのことを追いかけて、呼びかけてくれる。急にどこかにいなくなってしまったりはしない。コウのことだけを見て、コウのことだけを想ってくれる。優しくて、おしとやかで。綺麗に着飾って、コウの隣にいてくれる。


 それで、良かったんだ。


 雨が降る中で、コウは傘をさして立ち尽くしていた。ばらばらという音に紛れて、伝えてしまおうと思っていた。コウの胸の奥にある、どうしようもない感情。好きな人は、決まっていたはずなのに。それを受け入れて、幸せであると感じていたはずなのに。


 どうして、そんな残酷なことを告げなければならないんだ。


 遠くで救急車のサイレンが聞こえた。なぜか、胸騒ぎがした。時間になっても、ユキは来なかった。衣服が濡れて、手足が冷たく冷え切って。

 唇が真っ青になった頃になってようやく、公園の入り口にサキが駆け込んできた。


 サキは雨だろうがなんだろうが、いつでもお構いなしだった。傘もレインコートも身に着けない。きっと雨粒が落ちるのよりも早いんだ。ユキとそんなことを話して笑い合った。



 ――笑っていたんだ。



 気が付いたら、コウはその公園の前に立っていた。こんなことは、しょっちゅうだった。ここだけはいつも変わらない。近くの駄菓子屋は潰れて普通の民家になったし、広い畑も大きなマンションになった。

 どうして、この公園はまだあるのだろう。

 いっそなくなってくれれば、忘れることだってできるのではなかろうか。あの時のコウが伝えようとしていた言葉。コウを信じていたユキの笑顔。そして。


 どこまでも遠ざかっていく、サキの背中。


「コウ」


 サキの声がして、コウは動揺した。誰もいないと思っていた公園のブランコに、誰かが腰かけていた。・・・『誰か』なんてしらばっくれる必要はない。サキだ。ユキがいた場所に、サキがいる。その現実を見て、コウの心は乱れた。


 なんで。


『あのね、コウ』


 よく覚えている。白いワンピースだった。うっすらと、体のラインが透けて見えてドキドキとした。普段よりも、一歩距離が近い。サキは確か、中学校のグラウンドまで駆け出していた。それを追いかけようとしたコウを、ユキが呼び止めたのだ。


『私ね、コウのこと』


 言われるまでもなく、判っていた。ユキの気持ちなんて、改めて告白されるまでもない。コウもユキのことを、可愛くて素敵な女の子だと思っていた。いつか時が来れば、付き合うという可能性もあるだろう。比較的ありえる未来が訪れた。


 それだけの――ことなのに。


 コウは奥歯を噛み締めると、無言のまま後ろを向いた。じゃり、という音が足元から聞こえる。サキが手を持ち上げて、そのまま固まる気配がした。追いすがって、無理に引き留めることはしてこない。そうに決まっている。サキだって判っているんだ。


 だって、そうじゃなければいけないんだ。コウは、ユキを選んだ。ユキの想いを受け入れて、ユキと一緒にいようと心に誓った。それはコウにとって充分に幸せな選択だった。ユキのことは好きだった。絶対に。ちゃんと好きだったんだ。


 コウは、ユキのことが好きなんだ!


『コウ』


 耳に入ってきた呼びかけに、コウははっと息を飲んだ。サキの声なのか。それにしては、幼さが残っていて。後はどことなく。


 ――懐かしい。



『もう、いいんだよ』



 いいって、なんだよ?


 ずっと、後悔してたんだ。


 あの日、コウがユキのことを呼び出したりしなければ。


 こんなことにはならなかったんだ。


 コウに、勇気があればよかったんだ。


 ユキのこと、一番に好きだよって。


 いつまでも好きだよって。


 そう言えれば、言ってしまえれば。


 それで。


 それだけで――



『ううん、違うよ』



 ほんとうは、わかってた。


 みんな、わかってたんだ。



 だから、もうまえにすすもう?



 小さな手が、コウの指にそっと触れた。視えない姿。聞こえない声。


 そこにはいない、誰か。


 導かれるままに、コウはゆっくりと公園の中に足を踏み入れた。ブランコから立ち上がったサキが、すぐそこにいる。


 ずっと追いつけなかったサキと正面から向き合うと、コウの目から自然と涙がこぼれ落ちた。ぼろぼろと、後から後から際限なく。

 視界がにじんでよく見えないサキの顔も、ぐしゃぐしゃに濡れていた。




 此岸しがん彼岸ひがん。生者と死者は、異なる世界に属するもの。この世界は生きているもののためにある。ならばこの世界において、死者のことわりを受け入れるものは等しく邪悪であると判断される。

 死んだ人の言うことばかり聞いても、生きている者には何ら益はない。冷たく感じられるみたいでも、死んでしまえばもうこの世界からは離れるべきなのだ。いつまでもしがみついていたところで、お互いに良い結果を生み出すことはありえない。


 ゆえに、死者の言葉に耳を傾け、その願いを聞き届けようとする死霊術師とは、邪悪な存在である。


「死んでしまったユキちゃんは、何を願ったんですか?」


 恋人だったコウと、死んだ後も結ばれることか。

 それとも姉のサキと、コウが仲睦まじくなることに反対しているとか。


 ハナの質問に、死霊術師は穏やかな表情で語った。


「止めてしまっていた時間を動かすこと、です。ユキという子は、あなたたちが思うよりもずっと強い子なんですよ」




「サキ、俺はあの日、ユキに別れ話をするつもりだったんだ」


 コウの言葉が、サキの心臓をつらぬいた。どうして。


 ――どうして、そんな酷いことを言うんだ。


 そう口にしようとしたが、喉に詰まって出てくることはなかった。その理由に、サキには心当たりがないわけではない。それを期待してしまう自分が、情けなくてたまらなかった。ほら、また湧いてきた。早くナイフで刺して、殺してしまわないと。

 なかったことにしておかなければ・・・今度こそ取り返しのつかないことに。


「俺はユキに告白されて付き合うことにしていたけど、俺にはもっと好きな人がいたんだ」


 もう。


 もうやめて。


 そんなの、聞きたくないよ。


 その感情は、生まれてはいけないものなんだ。


 だって、サキなんだよ?


 ユキじゃないよ? 可愛くなんかなくて、いつもじっとしていなくて。


 走ることばかりで、少しも「女の子」じゃない。


 高校に入ってからも、「王子様」なんて言われて。女の子からきゃあきゃあ騒がれて。


 そんな自分でも良いかな、なんて。


 そうやって、ようやく何もかもをあきらめられそうになっていたのに。


 どうして?


 ――どうして、今なの?



『好きだから、だよ』



 サキの手の甲に、誰かが触れた。温かくて、冷たくて。しとやかで繊細な、サキの中の「女の子」。視線を上げると、目の前にコウがいた。




 サキ先輩は、妹のユキに女の子としての全部をゆずるつもりでいた。自分の好きな相手であるコウについても、そうだ。女の子としての魅力がより強いユキと結ばれる方が、コウは幸せに違いない。妹のユキなら、サキ先輩自身も認めることができる。そんな想いでいたのだと、因幡先輩が教えてくれた。


 それはそれで、悲壮な覚悟だ。ハナで言えば、朝倉先輩を曙川先輩に任せる、ということかな。うん、心のどこかでは、それが相応ふさわしいって理解している。だからって、ハナの場合はそう簡単には認めてあげないけどね。ハナだって可愛いし。朝倉先輩のこと、ちゃんと幸せにしてあげられる自信だって持っている。根拠? そんなのは後付け設定でどうにでもなるんだって。


「サキは陸上部のエースだし、女子にはモテモテだ。女の子っぽさなんかなくても、十分に魅力的だ」


 サキ先輩の噂は、一年生にも届いている。ハンドボール部の活動をしていても、陸上部にカッコいい女子がいると話題になればサキ先輩のことだった。すらりとした長身で、ショートカットが良く似合って。去年の学園祭で、やきそば千食を完売させた伝説を持っているとかなんとか。ハナは遠目に見たことがある程度だけど、なんというか、同じ人類なのに骨格から別物なのだと自覚させられたね。


「ユキちゃんとは、全然違うタイプってことですか?」


 ああ、そういうことか。ハナと曙川先輩は、系統としては近い部類に入る。ふわっとして、ガーリッシュな感じ。綺麗系と可愛い系なら、可愛い系。かっこよさとは若干離れている。うん、若干。

 異性の好みなんてのは人それぞれだ。それにぶっちゃけ、サキ先輩って外見もかなり整ってますよね。女子人気は伊達じゃない。天は二物とか三物とかホイホイ投げ売りしすぎですよ。ハナだって曙川先輩とはいい勝負、負けてないつもりなんだけどなぁ。




「俺はサキと・・・同じ高校に通いたかったんだ」


 それは、ユキの気持ちを裏切る行為だった。コウは十分に承知していた。その上で、自分に嘘をき通すこともできなかった。

 表には出せない――隠された想い。許されないと知りつつも、コウにとってサキの高校に進学することは、どうしても譲れない一線だった。


 せめて、そこで顔を合わせることがあるという言い訳が得られなければ。

 ユキの月命日にサキの顔を見るという事実が、コウの中で罪悪感となって重くのしかかってきてしまう。


「サキ、ごめん。ユキ、ごめん。俺はずっと、ごまかしていたんだ」


 子供の頃から見つめ続けてきた、まぶしい背中。コウはいつだって、そこに手を伸ばしていた。前だけを向いて、真っすぐに駆けていくサキに並びたかった。同じ場所に立って、同じ景色を眺めたかった。


 同時にコウは、後ろから声をかけてくるユキのことも見捨てられなかった。ユキが好きだという感情は、確かにある。サキにはない魅力が、ユキの中にはあふれている。ユキはとても愛らしくて、周りにいる誰が見てもユキの方が美人であると評価を下すだろう。


 でも――



「ユキとサキは違う。俺が求めていたのはユキじゃなくて、サキなんだ。本当に好きなのは、サキなんだ!」



 サキの肩が、びくん、と震えた。最悪だ。そして、最低だ。コウのしていることは、ユキとサキの両方を傷付ける結果となってしまった。


 最初から、なんでそう言えなかったのだろうか。

 ユキの気持ちを知っていたのに。

 その場だけを取り繕って、交際を始めて。


 それなのに、サキの姿ばかりを視線の先に捉えて。

 ユキにその事実を告げようとしたところで、ユキは死んでしまった。


 コウにはもう、サキのことを想い続ける資格なんてない。

 遺影の前に座る度に、苦しくて苦しくて仕方がなかった。

 その行為が、ユキをしのぶためのものなのか、サキとの繋がりを保つためのものなのか。

 考えれば考えるほど、自分自身を許せなくなった。


 せめて。

 せめて、サキの近くにはいたい。

 いさせてほしい。

 その小さなわがままを満たすために、コウはサキと同じ高校に進学した。


 サキの噂を聞くとつらかった。

 サキの姿を見かけると胸が痛んだ。


 これは、罰だ。

 どんなに好きでも、コウはもうそこに首を突っ込んではいけない。

 走り抜けていくサキの背中を、黙って見送ることしかできない。


 自分から近付いておいて。

 寄ってくるなら、遠ざけるしかない。


 ユキに与えてしまった痛みに対する、コウが自身に課したむくいだった。


「サキ、俺はサキのことが好きだ。ずっと前から、ユキよりも、サキのことが・・・好きだったんだ!」


 身勝手なことを言っているのは判っている。許されるだなんて思ってもいない。


 嗚咽おえつが止まらない。言葉にしてしまったことで、ユキへの罪の意識がより一層強くなった。愛される資格も、愛する資格もない。サキにも、ユキにも、合わせる顔なんてなかった。


 ――やっぱり、サキの近くにいるべきじゃなかったんだ。


 静かに、そっと蓋をしておけば良かった。長い時間をかければ、忘れることも可能だったかもしれない。ユキのことも、サキのことも。全部雨に流されて、綺麗さっぱり消えてなくなって。


 そのまま、コウ自身も。



『そんなこと、ないよ』



 コウの背中に、てのひらが当てられた。小さくて、温かい。さっきから、ずっと感じている。こんなものは都合の良い解釈に基づいた、妄想の産物だとばかり思っていた。

 ユキの言葉を捏造ねつぞうして、サキへの気持ちを無理矢理に肯定するなんて。コウは卑怯者だ。小さな身体が、体重を預けてきた。ユキ。ごめんよ、ユキ。ユキのことだって、好きだった。本当なんだ。でもそれは、サキへの好きとは比較にならないものだったんだ。



『判ってる。別に、許すとか、そういうつもりはないから』



 コウはその場に膝を付いた。ユキがいる。うなだれると、涙が落ちて地面の上に染みを作った。この声がユキなら、コウはいくら謝っても、心が晴れることはなかった。

 土下座だって、なんだってする。サキの前から消えろというのなら、それに従う。コウがユキに与えてしまった仕打ちをかえりみれば、それは当然のことだった。


「コウ」


 今度は頬に、より確かな感触があった。コウは一息に現実の世界へと連れ戻された。指先の向こうに、命の脈動が感じられる。きゅっと吊り上がった、猫みたいなサキの瞳。そこに浮かんだ表情を見て取って、コウは思わず嘆息した。


「泣かないで。ユキがそう言ってる」




 死霊術師の言葉を信じるのならば、ユキはコウにもサキにも危害を加える意図はないとのことだった。安心、と言ってしまって良いのかどうか。因幡先輩は力強くうなずいて応えてくれた。ああまあ、それならそれで構わないんですけど。

 ハナ的には今のところ、この死霊術師が一体何者なのか、という方が断然気になるんですね。


 最初に因幡先輩が「目をつぶれ」と指示したのは、ハナの『真実の魔眼』が死霊術師の『本当の姿』を遠慮なくあばいてしまうからだった。何かと場慣れしている因幡先輩と違って、ハナは一般ピープルど真ん中だ。このトンネルの中をふよんふよんとしている死霊たちだけで、ばっちりと肝を潰している。

 そこにこんなのが出てきたら、そりゃあ悲鳴の一つくらいは余裕で上げますって。とりあえず自分で絶叫しておいて、「うっわ、あんまり可愛くないなぁ」とか自己嫌悪におちいりましたよ。こういう場合、せめて「きゃあ」って言おうぜ自分マイセルフ。


「死霊術師さんはその、生きている人間なんですよね?」

「一応そのつもりですよ」


 ははは、「一応」ときたか。なるほど。魔法使いとかその辺の世界っていうのは、奥が深い。ハナも『真実の魔眼』が使えるようになってからこれまで、理不尽に妙なものを目撃したりもした。はっきりと見えちゃうようになれば大抵のものは怖くなくなるとか、あれはデラタメだね。怖いよ。すっごい怖い。

 で、この死霊術師の場合はそれを飛びぬけて断トツで怖かった。


 外見は、中学生くらいの細めの女の子だ。黒いドレス風のひらひらとした服装に、黒手袋。長い髪の毛も黒一色。対照的に、素肌の方は真っ白だ。以前テレビでドールとかいう割と大きめの人形が紹介されていたことがあって、それに似ている気がした。


 ・・・っていうか、ほぼほぼそれだ。


 他の部分はともかく、眼を見たら歴然だった。この人――うん、便宜上この『人』の身体には、血が流れていない。

 血肉、そして生命。それらが一切感じられなかった。どこからどう見ても人間なのに、生き物ですらない。機械、っていうかそれが魔法なのか。本物そっくりの部品が組み合わされて、実になめらかな動きを作り出している。でもそれ、全てまがい物ですから。口を開けて声帯を震わせて発している言葉ですらも、精巧な偽物。ハナの『真実の魔眼』は、無情にもその本質を見抜いてしまった。


「『真実の魔眼』が相手ではどうしようもないですね。フユさんは良いお友達を持たれたようで。皆さん安心されますよ」

「それはどーも」


 因幡先輩は、どうしてそう普通にしていられるんだか。とにかく、サキ先輩に関しては死霊術師さんに任せてしまって問題なし、と。そういうことにして、こんな物騒なところからはさっさと退散しましょうよ。本体の視えない人型と会話しているなんて、どう考えてもまともじゃないですってば。


 しかし何よりも恐ろしいと思うのは、この死霊術師が当たり前のように街中を歩き回っていたとして――

 その正体を誰にも見とがめられそうにない、ということだった。


 ハナは『真実の魔眼』があるから気付けるけど、ここまで生身に近いと判別のしようがない。

 世の中にはこういった化け物みたいな存在が、果たしてどれだけ紛れ込んでいるのか。考えたら憂鬱ゆううつになってきそうだった。晩御飯を食べる頃までには早急に忘却しておくことにしよう、そうしよう。


「死霊術師さんは、お名前は何とおっしゃるのでしょうか?」


 何気なく訊いてみたら、なぜだか敬語になってしまっていた。よく判らないものを相手にしているという、苦手意識からかな。死霊術師はきょとんという顔をした。あれ、変な質問でしたか。まさか、リカちゃんとか言わないよな。商標とかに引っかかるぞ。


「魔法使いは、深い関わりを持たない相手にはあまり名乗ることはしないのです。貴女が今後も私とお付き合いを続けていきたいとおっしゃるのであれば、やぶさかではありませんが」


 いーえ、滅相もございません。

 魔法使いにも色々あるんでしょうけど、死霊術師は輪をかけて辞退させていただきます。ハイ。


「では二つ名だけ。『夢視る死霊術ネクロマンスオブドリーム』と申します。またの機会がありましたら、お手柔らかに」


 ええっと、ちょっとカッコいいな、とか思ったりしていないんだからね。機会なんかなくても構いません。ハナはそっちの世界とは無縁の、普通の女子高生なんです。




 コウとサキが、並んでブランコに座っている。二人ともいっぱい泣いた。ユキのために泣いてくれた。素直に嬉しいよ。ありがとう。


 コウの気持ちも、サキの気持ちも知っていた。ユキも、自分のことを本当は判っていた。ユキはただ、置いていかれたくなかったんだ。コウのことはちゃんと好きだけど、それ以上にサキに独り占めされるのが嫌だった。


 コウは優しいからね。ユキが告白すれば、絶対にオッケーしてくれるって思ってた。ユキは可愛いもの。そういう自分を、一生懸命に作っていた。だから、負けるはずなんかない。コウが付き合ってくれることになって、ほっとした。良かった。これで、ユキは二人に仲間はずれにされないで済むんだって。


 その代わりに、コウとサキがお互いを避けるようになってしまった。そうなるんじゃないかって、予想はしていた。思っていたよりも、ユキの受けるダメージは大きかったかな。だってそんなこと、望んでなんかいなかったんだ。


 コウがサキよりもユキの方を見て、ユキのことを優先してくれるのは、とっても幸せ。

 でも、ユキはサキとコウの関係を壊してしまった。二人の気持ちも知っていたのに。


 ユキは――悪い子だ。


「俺はユキのこと、忘れないよ。ユキと俺は、付き合ってたんだ。俺はユキのことが、好きだった」


 うん。ありがとう、コウ。


 ユキもそう思っている。幼くても、ユキとコウはその時れっきとした恋人同士だった。ユキは命の灯の消える最後の瞬間まで、コウの彼女だった。それが大事なことだ。


 ユキの時間は、そこで終わり。ああ、幸せだった。別れ話なんて、聞きたくないもの。人生にバツなんて付けたくない。わがままでもなんでも、ユキはコウの最初の恋人。そして、コウはユキにとって人生唯一の人。


 過去は譲らない。ただ、コウとサキの時間まで止めてしまうのは、本意ではないんだ。


「あたしはコウにはユキの方が似合ってるって、ずっと思ってた、素敵だなって。見ているだけで、満足してたんだ」


 ごめんね、サキ。サキが沢山のことをあきらめてしまったのは、きっとユキのせいだね。


 大丈夫だよ。サキはコウと、とってもお似合いだ。そうなってしまわないように、ずっとユキがコウのことを引き留めていただけ。サキには、サキの魅力がある。自信を持って、ね? ほら、少なくともここにいる一人は、サキのことをずっと想い続けてくれているんだから。


 今までのコウは、申し訳ないけどユキが貰っていくね。譲れないの。その代わり、これからのコウは・・・できればサキに任せたいかな。ううん、サキじゃなきゃ、ダメだ。そうじゃないと、ユキが壊してしまったものを取り戻せない。


 過去と未来で、半分こ。罪はお互い様だ。ごめんね、コウ。ユキは知ってました。ごめんね、サキ。コウはちゃんと返します。


 二人の手を取って、近付ける。三年、長かったね。ユキも、自分の中を整理するのにそれだけの時間が必要だったんだ。死霊術師の人がここまで導いてくれたんだよ。伝えたいことを伝えて、思い残すことなく安らかに眠れるようにって。


 ――たとえそれが、この世界のことわりに反することであっても。


「いいのかな、ユキ?」


 うん。コウの正直な気持ちを、サキにぶつけてあげて。サキはそういうの苦手だから、コウの方からリードしてあげること。あ、なるべく優しくね。サキだって、女の子なんだから。ユキにしてくれたのと同じように。できるよね?


「あたし、どうするのが良いのか判らないよ」


 なら、コウを信じて、コウに任せて。コウなら大丈夫。サキの大好きなコウだよ? ユキのことをこんなに想ってくれたんだから、サキはそれ以上に愛してもらえるよ。いいな。うらやましいな。


 そろそろ、お別れみたい。

 伝え忘れたこと、ないかな。


 サキもコウも、末永く幸せにね。

 ユキのこと、忘れちゃやだよ?


 生きているって、とても素晴らしいことだ。

 もっと色んなこと、したかった。


 ふふ、コウとキスとか。

 せめてその初めてくらいは貰っておきたかったな。

 サキ、がんばれ。


 お迎えが来ちゃった。

 はい、今いきます。

 マナさん、ありがとうございました。最高の『夢視る死霊術ネクロマンスオブドリーム』、確かに受け取りました。


 さようなら、コウ。

 さようなら、サキ。



 そしてさようなら――私。




 チャイムが鳴って、お昼休みになった。ヒナはもうバタンキューです。二年生になって、授業がまた一回り難しくなった気がするよ。選抜クラスのサユリなんかは、これの更に上をいっているんだよね。そりゃ、あかん。ヒナなんかあっという間に多項式の除法で鼻血噴いて倒れちゃうよ。因数分解って、人生に於いてそこまで大事なことかなぁ。


「ヒナ、お昼にしよう」


 ユマとフユがお弁当を手にヒナの席に集まってきた。お待ちかねの時間ですよ。ヒナもうきうきと机を動かそうとしたところで、ぽこんと頭の後ろを小突かれた。


「おいこら、曙川。あんまり面倒を起こすなと言っておいただろう」


 振り向くと、担任のカオリ先生が教科書を丸めて持って仁王立ちしていた。白衣の下のナイスバディが男子の間で人気沸騰中の、若くて美人な数学教師だ。アレだ、リケジョってやつ。頭が良くて一回りしちゃっているせいか、微妙な残念感が付きまとっているのがむしろ高い好感度を生じさせている。


「えー、何のことですか?」

「補習だよ! お前と朝倉に問題があると、みんな私のところに回ってくるんだ。頼むから信頼を裏切らないでおいてくれ」

「はぁーい」


 隣の席のハルの方にちらりと目線を送ると、困ったみたいに微笑まれてしまった。カオリ先生はヒナとハルの関係を認めて、その上で同じクラスにしてくれた恩人だ。不必要に波風を立ててしまうのはよろしくない。特に今回の一件は、ヒナが課題の提出をおこたったことが原因となっている。言い訳のしようがなかった。


「朝倉の方がちゃんとしてくれてるから何とか体面は保ててるけどさ、学校が二人を認めるのに足るということを、二人自身が示してくれないと困るのよ。そこのところ、自覚しておいてね」

「わかりました。すいません」


 そうそう、ハルは最近勉強の方も頑張っているんだよね。部活で活躍して、授業も真面目に受けて。何それ、完璧超人じゃね? 知らない間に、ハルが高スペックになっている。やん、ヒナの彼氏様って素敵すぎない?


「馬鹿言ってないで中間の勉強しとけよ?」


 言いたいことを言い終えると、カオリ先生は足早に教室を出ていった。白衣で風を切って歩く後ろ姿も、颯爽さっそうとしていて大人の魅力たっぷりだ。男子数名がうっとりとした顔で見送っている。ヒナもカオリ先生みたいになれたらパーフェクトなんだけどなぁ。圧倒的に知力が足りない。魅力は愛嬌、バストは詰め物でカバーします。


「土曜日は大変だったねぇ。せっかくのデートチャンスだったのに」

「自業自得だよ。でもどうせ、朝倉君には待っててもらったんでしょ?」


 ユマとフユが、ニヤニヤとしている。はいはい、フユの言う通りですよ。部活のないハルは、ヒナの補習が終わるまで学校の中をぶらぶらしていたんだって。ヒナが鼻の穴からニホニウムとかフロレビウムとかデンドロビウムとかの意味不明な言葉をぼろぼろと垂れ流しているところに、後光と共に降臨なさってくださりましたよ。まさに奇跡!

 その際、ヒナ的にはハルの隣に重金属類生意気物体であるところのハナがドヤ顔で存在していることを覚悟していたんだけど。意外や意外、ハルは一人でヒナをお迎えしてくれた。

 すごい、何あの子超気が利くじゃん。実は善人? ・・・とか思っていたら、携帯にフユからのメッセージが届いていた。あ、補習授業中は当然携帯の電源はオフです。バイブレーション音が気付かれただけで、教室の窓からガチで投げ捨てられます。ひどい。修羅の教室だ。

 で、何のことはない、ハナはフユに連れられてサキの件に関係しているらしい死霊術師を訪ねているとのことだった。死霊術師って普通に生活している分にはまず聞きなれない名詞だし、なんともおどろおどろしい響きだなぁ。ハナって、そういうの平気だったっけ? フユはいつも通りに飄々ひょうひょうとしていて、今朝も「あ、無事に終わったから」と軽いものだった。あそう。じゃあ深く考えなくても、別に良い・・・のか?


「おーっす、飯食いに来たぞぉ」


 何だおめぇら。呼んでねぇぞコラ。

 昼時になると別クラスからわざわざやってくるのが、じゃがいもコンビだ。宮下と和田。うるさい根菜と静かな根菜。通常、根菜は静かなものでしょう。マンドラゴラでもあるまいし。

 二人はハルの友達で、目当てはヒナが作ってきたおかず一品となっている。ヒナとしては、そろそろこのサービスからは手を引きたいんですけどね。あれだよ、英語の授業中とかに「なんで私、今更教室で自己紹介なんてしてるんだろう」って我に返る瞬間。それが今。今でしょ。

 元々はハルの友達ということで、頼まれて始めたことだったはずなのに。知らない間に第二学食みたいな扱いになっているのがマジで解せない。まずはハルに感謝しなさいよ。それからヒナにも感謝しなさいよ。更には調理場所を提供している、曙川家の皆様にも。材料費百円程度じゃ、これっぽっちも割に合わないんだからね。


 学食組の人の席を借りて、六人でぐるりと輪を作る。小学校とかの班活動みたいだ。ハルのお弁当は、毎度ヒナの手作りです。こちらは習慣化していただいて全然オッケイ。丹精込めて作っているからね。あっちの化学調味料と塩分と油にまみれた、高コレステロール物体には箸を伸ばさないよーに。


「油が美味いんじゃねーか。女はわかってねぇなぁ」


 うるせぇ、黙って食え。ラードでも一気飲みしてやがれ、ばーか。


「そうだ、フユ、後でサキのところに行ってみない?」


 「解決した」と言われたところで、それがどういう形を取ったのかは不明のままだ。フユからあらかたの説明は聞いていても、実際のサキを見るまでは安心はできなかった。

 死霊術師が、サキにもたらした答えとは何なのか。

 ことと次第によっては、こちらから殴り込みの一つでもぶちかましてやらなければならない。大体死霊術師を自称するとか、どうにも胡散臭くはないですかね。フユにそう言ったら声を上げて笑われた。今度会うことがあれば、是非面と向かってツッコんでほしいとか。いいっすよ、やるっすよ。補習さえなければ、ね。


「ん、その必要はないよ」


 サンドイッチをリスみたいに頬張りながら、フユはもごもごとそう口にした。何で、と訊こうとしてヒナも気が付いた。教室の入り口から、こそこそとこちらの様子をうかがっている女子がいる。背が高いし、後ろを通る別な女子から熱い視線を浴びてしまうのでバレバレだ。ああ、手間が一つはぶけたね。ヒナは「ちょっと」と言って席を立った。


「お、何だ、花摘みか? 横浜か? 四番か?」


 サツバツ! じゃがいも死すべし。お前、その隠語つまんねぇんだよ。高校生なのにおっさんレベル上げてどうするんだ。犬に縄くくり付けて引っこ抜かせるぞ。ゴルァ。


「ヒナ、やっほ」

「サキ、お久し。元気?」


 予想通り、そこにいたのはサキだった。クラスが分かれてから、部活が忙しいこともあって少々疎遠になってしまっていた。でも、大切な友達であることに違いはない。ぱっと見た感じだと、そこまでおかしなところはない、かな?


「ごめんね、ちょっとヒナに頼みたいことがあって」


 コウとのことをどう尋ねたら良いのか悩んでいたら、サキの方から用件を切り出された。ヒナにできることなんて、ほっとんど何にもないですけどね。ああ、教科書なら貸せますよ。もう驚くほどに真っさらで、新品同様。下手すりゃ一度も開いてません。ヤバいとは思っています。うん、切実に。

 サキは言葉を切ると、そろっと教室の中を覗き込んだ。ん、何かあった? ユマとフユ、それから根菜二つとハルがお昼を食べている。あ、こら、ハルの唐揚げを取るんじゃないよ。漬けダレにどんだけ手間がかかってると思ってるんだ。この欠食児童!


「うん。やっぱり、いいな」


 ぼそり、とつぶやいたサキの横顔を見て、ヒナは不覚にもときめいてしまった。サキは普段から王子様って感じで、可愛いよりもかっこいいし、どちらかと言えば中性的で、コケティッシュなイメージは希薄だった。


 それがその時には――きらきらとした女の子の顔をしていた。少なくとも、ヒナの目にはそう映った。


「あのさ、ヒナ。お願いだ」


 ヒナには判った。この表情はよく知っている。そりゃあもう何年もの間、毎日のように見続けてきたからね。

 そう、鏡に向かえば常にそこにいる。



「あたしに料理、というか、お弁当の作り方を教えてくれないかな?」



 恋する乙女の顔。サキは王子様から、お姫様にクラスチェンジしていた。


「掴むなら胃袋から、ということだね。サキも判ってますなぁ」

「え、いや、そういうつもりはなくてさ。ただ、朝倉っていつも、ヒナの作ったお昼をすごく美味しそうに食べるじゃないか」


 そうだねぇ。ヒナにとって、それは最高に幸せな瞬間だ。ハルのお世話をして、ハルが喜んでくれる。好きだなぁ、って、心の底からじんわりと愛情が持ち上がってくる。こうやって生きていくという行為の様々な過程の中で、大好きなハルと繋がっていたい。そんな願いが、きっと結婚とか、家庭を作るとか、そういう想いに変化していくんだと思うよ。


「なるほど。サキにはお弁当を美味しく食べてもらいたい人がいると」

「うええ・・・うーん、まぁ、そうだよ。ヒナと朝倉みたいではないけどさ」


 サキはあっさりと観念した。いやいや、判りませんよ? 第二の幼馴染カップルの誕生だ。その辺り、ヒナは先輩ですからね。どぉーんと頼っちゃってくださいよ。まずはご飯。食の相性。お味噌汁の味噌と具のコンビネーション。これ大事。


 熱く語り出したヒナと反比例して、サキの顔色がどんどんと青くなっていく。しょうがないじゃない、嬉しかったんだからさ。サキだってそのうちこうなるんだよ。覚悟しておくことだね。



 ・・・良かったね、サキ。

 ヒナは、サキのこと応援しているよ。死んでしまった妹さんに、色々と後ろめたく感じるところはあるかもしれないけど。


 それでも生きているサキの方が、真っ先に幸せになるべきだと思う。


 少なくともヒナは、サキの味方だ。ヒナが教えてあげる。人を好きになるのって、とっても楽しいことなんだって。それはこの世界の誰にも、神様にだって負けないくらいの、大きくて強い力を与えてくれる。


 さあ、最初の一歩を踏み出そう。



 その心の行き先に――沢山の輝きが満ちあふれていますように。

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