第15話 みずイロ

 ごうごうと、轟音があちこちから聞こえてくる。音と共に、ありとあらゆる感覚がぐるぐると回っていた。上も下も、前も、後ろも。何も判らない。判りたくない。


 フユは、このまま消えてしまいたかった。


 知らないのなら、それが一番だ。理解できないという程に、幸せなことはない。そんなのは、随分と昔に思い知らされていた。血の海の真ん中で目覚めた時から、ちゃんと――


 ずきん、とフユの胸の奥が痛んだ。ああ、まただ。どうして。フユには、心と身体がある。この小さなフユという存在は、世界という広大な空間の中ではたった一握りの肉塊にしか過ぎないのに。

 心だけは、どこまでも伸びていって。見も知らない誰かの内側を、フユの目の前に見せつけてくる。


 その理由は、はっきりとしていた。人の欲望を叶えて、破滅へと追いやる魔性の呪具。『銀の鍵』だ。


 よこしまな魔法使いたちが、その力を我が物にしようとして人の道に外れた実験をおこなった。『銀の鍵』を持つ者が、自らの欲望によって滅びるというのなら。欲望どころか、心もない者が持てばどうなるのか。その力を自由に使役させることの出来る、生きた機械のような存在を作り出せるのではないか。


 結果は簡単だった。『銀の鍵』は、持ち主にその場にいる全て人々の心の内側を映し出す。何もない、からっぽだったフユの中身は――その場にいる魔法使いたちのどす黒い欲望によって、瞬時に満たされてしまった。


 何故、生きているんだろう?


 人は誰しも、己の存在に対して疑問をいだきながら生きている。そこにいることに、明確な理由なんてない。そんなものはなくても、朝になれば目を覚ますし、お腹が減ればご飯を食べる。生きようとする。


 でもフユには……それすらなかった。


 フユは、作られたうつわだった。『銀の鍵』の力を使うためだけに、準備された肉体。人造人間ホムンクルスでは、『銀の鍵』は反応しなかった。『銀の鍵』の使い手は、あくまで人間である必要がある。


 空っぽで、何もない。

 心を持たない、人間。


 それが――フユだ。


 こんなフユを、助けてくれた人がいる。真っ白い魔法使い。白い魔法使いは、フユを血溜まりの中から連れ出した。悪い魔法使いたちの手の届かぬ場所へと、導いてくれた。沢山の愛情を与えてくれた。


 そしてもう一人、女の魔法使いがいた。栗色の柔らかい髪が、きらきらと光っている。その人はいつだって、フユのそばにいてくれた。フユのことを、「大好き」だって想ってくれた。フユを抱き締めて、「大切だよ」って言って笑ってくれた。


 でも、フユは。


 フユは。



 ……フユは、生きていてはいけないんだ!



「フユ!」


 叫びが聞こえた。同時に、ぐいっと腕が引っ張られる。手首が痛い。誰かが、フユの手を掴んで引っ張っていた。

 途端に、肉体の感覚が戻ってきた。冷たい。苦しい。轟音が響き渡っている。目が開けられない。ただはっきりとしているのは。


 フユと繋がっているあの人のてのひらの熱い感触だけは、確かに感じられた。


榊田さかきだ君、ここよ! お願い!」


 ああ、やっぱりだ。

 やっぱり、助けてくれた。この人なら、そうしてくれると思っていた。判っていた。判っていたのに、フユは自分を止めることができなかった。ごめんなさい。


 虹色の光が、フユの周りを取り囲んだ。もう痛みも、何も感じない。強い魔法の力で取り囲まれている。『銀の鍵』に比べれば大したことはないけれど、人が持つには充分過ぎるくらいのものだ。ふわり、と身体が持ち上がる。温かくて、心地よい。


「フユ、フユ!」


 沢山名前を呼ばれて、一杯抱き締められた。何回「ごめんなさい」を繰り返したのか、覚えていない。色々な人がフユの周りに集まってきて、心配してくれているのが判った。


 みんなフユに、生きていてほしいと願っていた。



 そう、あの日からずっと――

 フユは、生きている。




 フユの心の中には、荒野が広がっている。灰色の雲で埋め尽くされた空の下に、赤茶けたごつごつした地面。ヒナはナシュトの視せる霧の湖があまりお気に入りではない様子だが、これに比べれば全然マシだろうに。心象風景は本人の心持ちひとつで、いかようにでも変えられる。ただその本質、土台となる部分に関してだけはいかんともしがたかった。


 同じ『銀の鍵』を持つ者なのに、ヒナはフユとは全然違っていた。そもそも『銀の鍵』をどうやって手に入れたのか、というところからしておかしい。父親の出張土産の中にまぎれていた、とか言うのだ。どんな偶然だって、そんな奇跡を産み出すなんてあり得るはずがない。どうせナシュト辺りの計画した、人間の想像を超えた遠大な目論見でも関係しているのだろう。それをフユやヒナが気にしたところで、恐らくは何の意味も持たなかった。

 ナシュトとはここではない夢の地球、幻夢境カダスに住まう神々に仕える神官であり、自らも魔術の神である高次存在のことである。ナシュトは『銀の鍵』の守護者となって、その持ち主の導き手となる使命を帯びている。それを半裸の変質者と言ってのけるヒナは、やはり只者ではない。何しろ普通の人間でありながら、万能の願望器たる『銀の鍵』の誘惑に打ち勝ってみせたのだ。


 あまねく人の心を読み、自由に操作する力を持つ『銀の鍵』。それを使えば、世界なんて思いのままだ。ヒナにだって、人並みの欲求くらいはある。叶えたい願いだって、ない訳ではない。


「間に合ってます」


 それが、このたった一言でオシマイだった。カダスの神々も玉座の上ですっ転げたことだろう。フユもその話を最初に聞いた時は、呆気あっけにとられてしまった。そして、涙を流して大笑いした。すごい。この世界には、こんながいるんだ。フユの不幸話なんて、吹っ飛んでしまうくらいの馬鹿馬鹿しさだった。


 ヒナには、好きな男の子がいた。幼馴染のハルだ。二人の馴れ初めについては、もう耳にタコが出来るくらい聞かされたのでどうでも良い。ヒナの心の中を覗くと、九割はハルのことで埋め尽くされている。こういうのを「恋愛脳」というのだそうだ。悩みが少なそうで何よりだ。残りの一割の中に自分の姿があるのを発見して、フユはほっとした。友達のことも、一応は意識の中に置いてくれてはいるらしい。ヒナは良い子。ちょっとハルのことが好きすぎるだけ。


 『銀の鍵』なんて使ってハルの気持ちを自分に向かせるのは、インチキだ、ズルだ、チートだ。こっちは真剣に恋愛してるんだ、神様風情が舐めてんじゃねーゾ!


 ……確かそんなような啖呵たんかを切って、ヒナは『銀の鍵』との契約を断った。ところが『銀の鍵』の約定には、「拒絶」という選択肢が存在していなかった。普通の人間なら、自らの欲望を叶えてくれる願望器なんてホイホイ飛びつくものだからね。


 フユの場合は、願望を持たぬ者との契約で『銀の鍵』は暴走した。

 ヒナの場合は、願望を自らの意思のみで解決する者として『銀の鍵』は暴走した。


 並べてみれば良く判る。ヒナこそが正当なる『銀の鍵』の所有者であり、カダスへと至る道を示される選ばれし者なのだ。


 もっとも、当の本人にはそんなつもりはさらさらないらしい。高校入学後、目出度くハルから告白されて交際をスタートさせて、高校二年生の現在はラブラブの真っ最中だ。ハルからは一足早いプロポーズまで受けて、ヒナは毎日浮かれ気味に過ごしている。クラスメイトの男子たちの脳内の言葉を借りるなら、「もげろ」といったところか。


 そんなヒナとは、フユは一番の友達でいる。『銀の鍵』が複数並び立つのは、極めて珍しいことなのだそうだ。まあ、当人たちからすればそんな話は知ったことではない。フユもヒナも、望まないままに『銀の鍵』の力を得るに至った。これは一種の、「被害者の会」だと思ってもらえれば良い。


 フユは、ヒナがうらやましい。『銀の鍵』なんてものともせずに、恋する女子高生として何事もなく生活している。フユにはできないと思っていたそれを、難なくやってのけていた。

 その上、フユにも手を差し伸べてくれた。きっと、同じになれるよ、って。嬉しかった。ヒナの友達も、良い人たちばかりだ。フユとも、分け隔てなく仲良くしてくれる。宮屋敷の仲介でこの学校に来て、本当に良かったと思えた。後は――


「封印を、解くのですか?」


 フユの隣に、カマンタが立った。燃えるような赤い髪に、紺碧の瞳が輝く白い肌の女性の姿。カマンタもまた、ナシュトと同じ『銀の鍵』を守護する神様だ。カマンタはいつだってフユの隣にいてくれる。『銀の鍵』がフユの左てのひらにある限り、フユとカマンタの絆は決してなくならない。ヒナはナシュトとトレードしたいみたいだけど、残念ながらこればっかりはお断りだった。


「どうかな。まだ早い、と思ってる」


 心象世界の荒れ地の真ん中には、巨大な金属の扉が屹立きつりつしていた。高さは、五階建てのビルくらいはあるか。心の中の世界だから、スケールにはあまり意味はない。見た目のゴツさも、頑丈さと比例している訳ではなかった。


 この封印の扉を作ったのは、魔法使いだ。いましめという名目で、フユの中にあるいくつかの記憶をここに閉じ込めた。それがどんなものなのかは、実際に開けてみなければ判らない。


 封印を解くこと自体は、フユには何ら難しくはなかった。所詮は人間の、魔法使いが作り出した代物に過ぎない。『銀の鍵』は究極の魔術触媒でもある。フユの気が向きさえすれば、破壊はいつでも可能だった。


 今の今までそれをしていないのは――フユが望まなかったから、に他ならなかった。


「魔法使いさんとの、約束だからね」


 フユの命の恩人であるその人の名前は、この物々しい封印の向こう側にあった。『おせっかい』なんて二つ名を持つ、心根の優しい美しい魔女だ。フユが一人で暮らすことが決まった際に、魔法使いの総元締めである宮屋敷は魔法使いさんと『銀の鍵』の関係に清算を求めてきた。


 本来、魔法使いにとって『銀の鍵』は禁忌の品である。それは宮屋敷であっても変わらない。魔法使いさんは特例として。フユの身の回りの面倒を見ることを許可されていただけだった。

 フユが魔法使いさんの手を離れるなら、二度とその接点がなくなるようにしなければならない。そのための手段は、お互いに記憶を操作して、具体的な情報を意図的に忘却する、というものだった。

 とはいえ、それは儀式的な建前にしかならなかった。何しろフユは『銀の鍵』だ。人間の魔法使い風情の記憶操作魔術など、屁でもない。せいぜい「やりましたよ」というポーズを、他の魔法使いたちに対して示すという程度の話だった。


「でもね、フユ、約束して」


 記憶の封印をほどこし終えた後で、魔法使いさんはフユを抱き締めてそう語りかけてきた。目の前にいるとても大切な人の名前が思い出せなくて、フユはとにかく苦しかった。こんな封印なんて、すぐにでも破壊してやりたいくらいだ。涙を流すフユの髪を、魔法使いさんはいとおしそうな手つきででてくれた。


「フユが一人の人間として、しっかりと生きられるって。そう思える時まで、この封印は解かないでおいてね」


 その言葉にどんな意味があるのか、フユには判らなかった。でも、血の通ったとても大事な約束であるとは感じられた。答えはきっと、封印の扉の向こうにある。それを見ることが出来るのは――少なくとも、今ではなかった。


「時が来るまで、私は待つよ。魔法使いさん」


 フユはもう、昔のフユではない。ヒナがいて、学校の友達がいて。何も寂しくはないし、つらくない。

 この封印だって、きっとその存在ですら忘れてしまえる時が来るのだろう。そうなれば、封印自体がその意味をうしなうことになる。


 魔法使いさんは、そんな未来を望んでいる。フユには、そう思えてならなかった。




 賑やかなのは、正直に言って好きじゃない。誰かがしゃべっている声が聞こえてくると、どうにも落ち着かないからだ。昼飯を食べている時もそう。宮下はまあ、ラジオが鳴っているとでも思っておけば別にどうでも良い。朝倉ぐらいが丁度良いんじゃないかな。ただ朝倉の場合は、隣りにいる曙川が四倍くらい口を開いているから結果的にバランスが悪い感じはするが。

 高橋は最近、普通に付き合いが悪くなった。二年生になって吹奏楽部に途中入部した、というだけでも驚きなのに。目当てが女子だというのだから更に、だ。あいつ、そんなに森下チサトのことが好きだったんだな。一人の女子にそれだけの情熱を捧げられることを、むしろうらやましいとすら思った。


 そういう時は、笑顔で送り出してやるっていうのが友達ってものだ。

 振られたら盛大に残念会してやろうぜ。


 ……宮下は大体一言多い。それのせいで女子人気が下がっていることを、自覚しているのかいないのか。これだけ自分に正直に生きられるというのは、それはそれでいっそ清々すがすがしいくらいに感じられる。まあだからこそこうして、つるんでいられる訳だが。


 その宮下に連れられて、昼食は集団でわいわいと摂ることになっていた。食事なんて、栄養が身体に入ればそれで構わない。宮下曰く、曙川が朝倉のために手作り弁当を作ってくるのがしゃくで、そのおこぼれに預かるのだとかなんとか。ちょっと何を言っているのか判らない。宮下は競馬とかはやらない方が良い。今後の人生、なるべく馬関係からは距離を取って生きていくことをおすすめする。蹴られて死ぬ可能性は、低くたもっておくに越したことはない。

 流されるままにその集団に加わってしまったことで、シュンヤも『朝倉の恋路を邪魔し隊』といういかにも残念なグループの一員とされてしまった。曙川は文句を言いながらも、毎日しっかりとみんなで取り分けられる料理を一品作ってきてくれた。朝倉は本当に、良い彼女を持ったと思う。逆に、宮下は一生独身であるべきだ。

 高橋は高橋で、曙川の作るおかずに期待して弁当箱に白飯だけ突っ込んでくる始末だった。シュンヤにはそこまでの神経の図太さはない。ある意味尊敬できる奴だと感心した。もっとも、今は友達以上彼女未満の森下チサトと二人で、この集団からは離脱していってしまった。先に一人で、大人の階段を昇ってしまうのか。寂しいぞ、サトイモ。同じ根菜仲間じゃないか。


 朝倉以外の男子には一切興味のない曙川は、未だにシュンヤの名前すらロクに覚えていなかった。朝倉が教えてくれたところによると、宮下はジャガイモ1号、高橋はサトイモ――で、シュンヤがジャガイモ2号なのだそうだ。別にそこまで外観がジャガイモに似ているとは思わないのだが。恐らくは人間でなければ、何でも良いのだろう。昼におかずをめぐんでもらっている身分だし、その点に関しては取り立てて文句を言うつもりはなかった。

 曙川がシュンヤのことをどう思って、どう評価しているかなんて毛の先ほども興味はない。どうせ朝倉しか見てないのだから、気にすること自体に意味がなかった。曙川は確かにそこそこ可愛いし、世話焼きで料理上手な素敵な彼女だとは思う。でも絶対に欲しいかと問われれば、別にそうでもなかった。曙川は独占欲が強くてヤキモチ焼きっぽいし、何よりシュンヤはもっとスレンダーな女性の方が好みだった。



 まあはっきり言ってしまえば、曙川の友人であるところの因幡いなばフユ――彼女の方が、シュンヤにとっては格段に魅力的に感じられた。



 因幡は一年の三学期に転校してきた、何だか色々とワケありの女子だ。触れただけで折れてしまいそうな手足に、黒くて長い髪。優しくてとろんとした垂れ目の似合う、物静かな美人だった。

 最初にその姿を見た時、シュンヤは思わず呆然ぼうぜんとして見惚みとれてしまった。心の深いところを、てのひらでそっと撫でられた感じがした。周りの男子はほとんど気にも留めていない様子だったが、シュンヤは一瞬で因幡という女子の虜にされてしまっていた。


 それから、無意識のうちに因幡の姿を目で追う毎日が始まった。


 因幡の一番の友だちは、曙川だ。出席番号が近いというのもある。曙川が朝倉と一緒にいない時は、ほとんどの場合因幡と話をしていた。曙川では物静かな因幡とは性格が真逆な気もするが、それゆえに意気投合したりもするのだろうか。その辺りは、シュンヤには良く判らなかった。

 しかしそのお陰もあって、因幡は曙川を中心としたグループ――すなわちシュンヤと同じ交友関係の輪の中にいてくれた。お昼もまとまって食べることができる。こればかりは、曙川と宮下にグッジョブと伝えたい。『いいね』なら一千回以上連打してやる所存だ。


 一年生のバレンタインデーの時には、曙川のせいで家庭科部の手伝いに駆り出される羽目になった。シュンヤもチョコレートの配給係を任命された。男子諸兄には微妙な表情をされたが、それはそっくりそのままシュンヤだって同じことだった。

 二月十四日は、因幡の誕生日でもある。サプライズパーティーをするという話だったので、そんな馬鹿なイベントにも参加したのだ。因幡はとても喜んでくれた。シュンヤも嬉しかった。その時、シュンヤは初めて因幡が心から笑う顔を見た気がした。それが驚くくらいに印象的で、まぶしくて。心の中にずっと居座って、いつまでも消えてくれなくて。


 ……ていに言ってしまえば、シュンヤはすっかり恋に落ちてしまった。


 因幡は身体が丈夫ではない。体育の授業は見学ばかりだった。ジャージを着ている事自体が珍しい。

 因幡は勉強はそこそこに出来る。転校してきて最初の定期テストでは、学年の上位三分の一に含まれていた。シュンヤよりも順位が上だったので、これには本気でびっくりした。

 因幡は曙川を中心にして、誰とでも仲良くなれた。おっとりとしていて人当たりが良く、あまり敵を作らない性格が人気の秘訣だ。曙川辺りは、是非見習うべきだろう。


 それから、因幡は本を読むのが好きだった。二年生になって最初の役割決めで、シュンヤは去年から続けて図書委員に立候補した。その後最初の委員会の会合で因幡に挨拶されて、思わずのけぞってしまうくらいの衝撃を受けた。


「よろしくね、和田君」


 クラスが分かれて、因幡との接点は昼休みに限定されるのかと少々寂しく思っていた矢先の出来事だった。その時は、特に意識して図書委員になった訳ではない。それだけに、シュンヤは動揺を隠しきれなかった。


「あ、うん」


 挙動不審丸出しでなんとかそう応えたシュンヤに、因幡は笑いかけてくれた。不思議と、胸の奥が暖かくなって。


 同時に、きりきりと痛みだした。



 図書室では静かに、なんていうのは建前だ。せいぜいばたばたと走り回ったり、大口を開けて笑う奴がいないという程度のことでしかない。この高校の図書室は、それでもかなり静かな部類に入る。みんな勉強熱心――という学生らしい理由は存在しなくて、単に利用する生徒の絶対数が少ないという、実に情けない話だった。

 今日の図書当番はサボり、というか、真面目に来ている図書委員の方が珍しい。そんな状態なので、シュンヤは最初に司書のおばさん先生に顔を覚えられてしまった。特に仕事熱心なつもりはない。単純に、この図書室の空気とか雰囲気が好きなだけだった。

 そこに一年の三学期から、因幡フユが加わった。優秀な人材のオンパレードだ。おばさん先生は因幡のことをいたく気に入って、司書室で一緒になってお茶を飲むくらいの関係にまでなっていた。

 それをうらやんだりねたんだり、ということはない。素直に、因幡が自分の居場所を増やすことが出来てシュンヤは嬉しく思った。当番の日に貸出カウンターに立っていると、ひょっこりと顔を出して手伝ってくれたりもする。因幡のそういったさりげない優しさが、シュンヤにはとても嬉しく感じられるのと同時に。


 酷く、心苦しかった。


 シュンヤの初恋は、小学校の頃だった。華奢きゃしゃで身体の弱いシュンヤは、休み時間はいつも教室の窓から校庭を見下ろしていた。その中で、一際まぶしく輝いて見える女子がいた。

 自分に無いものを持っているその子に対する感情は、一種の憧れだったのかもしれない。シュンヤはその子に夢中になった。ドッジボールが強くて、徒競走でも男子に負けないくらい速くて。すらりと背が高く、きりりと引き締まった表情が素敵だった。

 シュンヤ自身にも、その想いがどうしようもないものだとは理解出来ていた。どんなに好きになっても、報われるはずはない。その子とシュンヤでは、住んでいる世界があまりにも違いすぎた。シュンヤはドッジボールでは開始と同時に外野だし、走れば学年でも最下位を争うくらいでしかない。その分勉強を頑張っているつもりだったが、そっちだっておよそデキるとは言い難いレベルの成績でしかなかった。


 ほこれるものがない。シュンヤの毎日は、ただみじめなだけだった。だから、力強いその子の姿を遠巻きに眺めることで、自らの心を慰めていた。


「和田シュンヤ? ああ、なんかいつも見てるよね。ちょっとキモチワルイ」


 その言葉を耳にしたのは、本当に偶然だった。誰もいないと思っていた放課後の教室に、その子はクラスの中でも格好良いと評判の男子と二人でいた。付き合っているとか、そういう概念はシュンヤの中ではまだ曖昧だった。それでも、二人が何か特別な関係にあるということだけは何となく察していた。


 判りきっていた事実を突き付けられて、シュンヤの恋は終わった。シュンヤは全てにおいて中途半端だ。女の子にモテる要素なんて、一つも持ち合わせていない。

 運動は出来ない。勉強は人並み。ロクに面白い話も出来ない。外見なんてジャガイモだ。

 それから、シュンヤは女子との関係を極力断つようになった。近くにいたって、お互いに良いことなんて何もない。自分の勘違いで相手を傷付けるくらいなら、最初から好きになんかならなければ良いのだ。


「和田君」


 突然声をかけられて、口から心臓が飛び出るかと思った。ああそうか、司書室にいたんだっけか。慌てて振り返ると、因幡が立っていた。細くて、白くて。そのままポキリと折れてしまいそうに思われて、ちょっと心配になる。でも不思議と因幡の中には、強い芯みたいなものが一本通っていると感じ取れた。


「待ち合わせ?」

「ああ、うん。そう」


 大体いつも、こんなはっきりとしない応答を返すことになる。後で自己嫌悪におちいるのは必至ひっしだ。ドギマギとした態度を、おかしく思われたりはしないだろうか。シュンヤはただでさえ自分の内面を表現するのが下手くそだった。周囲にあらぬ誤解を与えないようにするだけで、精一杯だ。


「ふーん。そういえばヒナも、ハンド部が終わるの待ってるって言ってたっけ」


 曙川ヒナの彼氏であるところの朝倉ハルと、シュンヤが今待っている宮下は同じハンドボール部に所属していた。インターハイ予選がおこなわれるこの時期は、本来なら曙川も水泳部で忙しいはずなのだが。選手枠とは関係ないお遊び部員なので、逆にヒマヒマであるなどと昼休みに話していた。


「和田君は、部活とかやらないの?」

「あんまり、考えてないかな」


 多人数のグループで活動するのは、シュンヤの好みではなかった。一応入学した最初の頃は、文芸部を覗いたりもしてみた。静かでひっそりとした雰囲気を期待していたら、そこは女子部員たちのお茶会の集まりとなっていた。シュンヤでは場違いもはなはだしい。気が付いたら同じ帰宅部の朝倉や高橋とつるんでいて、ほとんど活動していないハンドボール部の宮下が加わった。


 ……それが今や、シュンヤだけが純粋な帰宅部員となっている。酷い裏切りだとは思わないか?


「みんなそれぞれ、やりたいことが違うから仕方がないよね」


 因幡はそう言うと、くすりと笑った。不思議だ。まるでシュンヤが何を考えていたのか、一瞬で悟ってしまったみたいに感じられる。因幡と会話をしていると、たまにこんなことがあった。だから落ち着くのかもしれない。シュンヤは物事を言葉にして伝えるのが苦手だった。因幡はそれを先回りして、何事もなかったかのようにして言葉を繋いでくれる。


「そういえば、これ。和田君が来たら渡そうと思ってて」


 差し出されたのは、新書サイズの小説本だった。昔から人気のある、長いシリーズだ。シュンヤもこの図書室で借りて読み始めていたが、三巻がなかなか返却されずにやきもきとしていた。いい加減そろそろあきらめて、古本屋で購入してしまおうかと思案していたところだ。


「お取り置きしておきました」

「ありがとう」


 こうやって、因幡はシュンヤの望むことをしてくれる。それは本当に、心の底から嬉しいと感じられた。


 でもそれは、シュンヤの胸の奥で小さな痛みを生じさせる行為だった。


 これでまた一つ、因幡のことを好きになってしまう。優しくされるだけで、気持ちが大きく傾いた。我ながら、安いしチョロいと情けなくなる。シュンヤは因幡のことなんて、何も解っていない。解った気になっているだけだ。


 本を受け取ると、シュンヤはうつむいた。親切にしてもらうと、そのせいで自分が嫌になった。こんな感情を抱いてしまうのが、気持ち悪くてどうしようもなかった。


 ……因幡はどうして、シュンヤをかまってくれるのか。


 声に出して訊けるはずのない問いかけだ。その答えが何であれ、シュンヤには受け止める自信がなかった。気にすること自体に、意味がないと思った。


「和田君」


 因幡の声は、ゆっくりとしていて耳に心地よい。何かに例えるのはとても難しいが、敢えて言うならプールの中で吐いた息が泡となって浮かんでいく音に似ている。しんとした静寂しじまの中で、ゆらゆらと、地上からの光を浴びて漂っていく泡沫うたかた。そのまま呼吸することを忘れて、目を閉じて微睡まどろんでしまいそうになる。



「私は多分、和田君が考えているようなどんな女の子でもないから」



 ……えっ。


 シュンヤが息を呑んだ次の瞬間には、因幡の姿は消えていた。司書室に続く扉の向こうから、話し声が聞こえる。曙川と、それからハンドボール部のマネージャーをしている一年生の山嵜やまさきだったか。

 それから、因幡もいる。


 カウンターの裏にある椅子に、シュンヤは腰を落とした。今の言葉は、何だったのだろう。頭の中を、因幡の顔がぐるぐると回っていた。白くて細い指が、シュンヤの心に触れていった。そんな感覚が、いつまでも離れてくれなかった。




 高校二年生になって何が一番困ったかといえば、それはもう課題の数が激増したということに他ならない。一週間の間にいくつもいくつも、ご丁寧に締め切りまでもが似通っている。これはきっと、先生たちが結託してわざとやっているに違いない。ヒナとハルの青春を邪魔しようだなんて、実にけしからん。ただでさえ部活だ何だで一緒にいる時間が少なくて、フラストレーションが溜まりまくっているというのに。


 曙川ヒナ、十六歳。目下の悩みは、彼氏ともっとイチャイチャしたいってことです。


 その素敵な彼氏であるところの朝倉ハルは、ヒナの幼馴染。小さな頃から家族ぐるみで一緒に育ってきて、ヒナはずっとハルのことが好きだった。ハルの方もヒナをとても大事に想ってくれていて、同じ高校に入学して、告白されて、晴れて両想いの恋人同士になりました。イェーイ。

 恋愛小説なら、もうそこでハッピーエンドで終わって良いって感じ。良い話だった。だがちょっと待ってほしい。「好きです、付き合ってください」「はい、喜んで」っていう場面で終わっちゃったら、その後のお楽しみはどうなっちゃうのかってコトですよ。

 大事なのはその後じゃないですか、ねぇ。だって、ヒナはハルのことが好き。これについて語り出すと周囲が若干引く程度には好き。友人の一人で同じ水泳部に所属しているサユリに言わせると、若干どころかドン引きされてるみたいだけど、そのぐらい好きなんだからしょうがない。

 高校生活が、どっかのアメリカンなシュガーシロップべったべたのドーナツばりに甘だるいもので、何が悪いんだか。クラス替えの時は戦々恐々としていたのだけど、担任の美作みまさかカオリ先生のナイスアシストでばっちりとハルとは同じクラスになれました。やったー。ヒナは知っているよ、この後二年から三年になる時には、クラス替えはないんだって。これはもう、人生勝ち組も同然ってことなんじゃないですかね。勝ったな、がはは。


 一方のハルは、ヒナのことをとても大切にしてくれている。将来の二人の関係までを含めて、きちんとヒナと約束してくれたし。ヒナとの高校生活を良いものにするために、色々と我慢しているとも言ってくれた。えへへ。別にヒナは、いつでも良いのにな。まあ、そういう条件でカオリ先生にも大目に見てもらっている訳で、あんまり無茶はできないか。ちぇー。

 そんなヒナの彼氏様、ハルは今日もカッコいい。今やハンドボール部のエースですからね。ぽちゃぽちゃとプールに浮かんでいるだけのヒナとは格が違うのですよ。チビだった中学生時代とは比べ物にならないほど背が伸びて、最近はしゃがんでもらわないとキスもできない。筋肉もついて、体つきががっしりとしてきた。そんなハルにぎゅってされると、すごくドキドキする。

 しかも周りからは、「最近、朝倉くん落ち着いてきたよね」なんて評価もされちゃっていたりして。昔のハルを知っている人からすると、ハルってちょっと喧嘩っ早くて尖っている印象があったからね。高一の時も、ヒナとの関係をからかわれてカッとしてしまったことがあった。それが二年生になってからのハルは、ヒナもびっくりするくらい大人しくて、ややもすると貫禄みたいなものすら感じられる。

 一体全体、どうしちゃったんですか、ハルさん?


「いいだろ、別に」


 ハルに訊いてみたら、顔を真っ赤にしてそんなコメントをいただいてしまった。を、これはひょっとして、彼女の存在の影響ってヤツですか? んー?

 部活も順調、彼女とも順調で、人生順風満帆って感じなのですな?

 いいよー、どんとこいだよ。だったらヒナも頑張って、ハルの良い彼女になれるよう努力するね。「朝倉の彼女、大したことなくない?」とか、言われたくないもんね。お弁当も毎朝頑張って作っているし、ハルのお友達の根菜類にもそつなく対応しているし。こう、ベタベタし過ぎず、それでいてさり気なく一緒にいる。あ、小うるさい羽虫は追い払わせてもらいますからね。ニワカのくせにハルに付きまとってくるんじゃねぇぞ、クソ女共がぁ。こちとら人生かけて恋愛しとるんじゃあ、ボケがぁ!


「ヒナ、ちょっと良いかな?」


 やん。なぁに、ハル? ヒナ、ちょっと妄想の世界にトリップしちゃってた。ナシュトとかいう銀髪が、視界の隅で溜息ついてたみたいだけど気にしなぁーい。学校の中にあんな半裸の変態がいるはずがないから、きっと幻覚です。気にしなぁーい。


「化学の課題だけどさ、あれの資料って何だっけ?」


 ……ええっと、ハルさん? それってひょっとして、二週間くらい前に出された宿題のことをおっしゃってます? 化学のヒゲマンジュウ先生が、「これ一学期の成績にダイレクトに響くからな」って言ってたアレですよね?

 資料に使う本が図書室にしかなくて、しかも貸出禁止のクソでかい本で。ヒナも他のみんなとぎゃあぎゃあ騒ぎながらなんとか仕上げた、あの課題のことですよね?


 ハル、もしかしてまだやってないの!


「部活が忙しくてさ」


 ショック。ヒナの彼氏、勉強の方はイマイチでした!

 いや、知ってたけどね。ヒナも成績については似たり寄ったりだし。同じ高校に入ろうって、二人揃って猛勉強したのは良い思い出だよ。あの頃は、若かったなぁ。

 なんて、悠長に思い出にひたっている場合じゃない。マズいよ、滅茶苦茶マズいよ。ハル、今日は部活休んで図書室に行かなきゃ。


「誰かのを写させてもらえれば、それで良いんだけどさ」


 あのね、ハル。みんなもう、前回の化学の授業の時に提出しちゃったの。ハルはなんか、内職で忙しかったみたいだから気付かなかったみたいだけど。あのヤバさを感じ取れなかったのだとしたら、ハルの危機管理能力をちょっと疑っちゃうよ。はいはい、解りました。その辺りも、ヒナがどぉーんと面倒を見てあげます。取りあえずは、図書室へ直行。急ぎましょう。



 図書室は、ヒナにとっては第二の部室というべき場所だ。水泳部が休みの時は、大体ここにいる。あ、別にヒナはブンガク少女でもなんでもないからね。最後に読んだ本って、教科書以外だとなんだっけ? 傍若無人ぼうじゃくぶじんな冷蔵庫? とかいう文庫本。新婚という言葉には、特別な魅力を感じてしまうよね。


「やぁー、ヒナ。いらっしゃい」

「ごめんね、ハルのせいで」


 カウンターのところでニコニコ笑っている長い黒髪の女の子が、ヒナの友人でもう一人の『銀の鍵』――因幡フユだ。クラスの図書委員で、すっかりここのヌシと化している。他にもヒナはフユと、それから一年生の爆弾小娘との三人で、ちょっとしたサークル活動みたいなことをおこなっていたりもするのです。


「朝倉先輩、練習に影響するから宿題はちゃんとやっておいてくださいって言いましたよね?」

「悪い、山嵜やまさき。基礎練は自主的にやっておくから」


 なんだ、いたのか。


 フユの隣りにいた小バエの存在は、意図的に見落としていた。ヒナと視線がぶつかって、むむむっ、と睨み合う。ハルの前で喧嘩はご法度。なので、この場はこれで引いておく。ヒナはこれから、ハルと一緒に課題図書を探しにいくのです。そして、二人で楽しいお勉強タイム。ハナはそこで、指でもくわえて見学してなさい。


「曙川先輩は、水泳部じゃないんですか?」

「今日はお休みなんです」


 「へぇー」と応えたハナの右の瞳が、ヒナとフユにだけ判るように真紅に染まった。嘘じゃないですー。インターハイに出ない組は、邪魔だから休んでて良いって言われてるんですぅー。

 ハナの右目には、強力な魔術式が埋め込まれている。『真実の魔眼』、だとかなんとか。人の心を読む『銀の鍵』をも寄せ付けない、失われた禁断の秘法なのだそうだ。そんなものをなんで極一般的な女子高生であるところのハナが見に付けているのかについては、ナシュトに言わせればなんかこう……運命論的な? とにかくそういうアレなんだという。うん、ヒナには難しいことは良く判らない。


 ただ、ヒナにもよぉく理解できていることとしては、このハンドボール部マネージャーの山嵜ハナは――ヒナの恋敵だった。


 今年の春になって入学してきたぽっと出の新人のくせに、ハルのことが好きだなんて。生意気も良いところじゃないですかね? ハルはしっかりと断ってくれたんだけど、ハナの方は未練がましくまだぶんぶんとハルの近くを飛び回っている。わずらわしいったらありゃしない!


 それにあの、『真実の魔眼』だ。その力は人のいた嘘を、例えそれが何であったとしても見通してしまうらしい。ハナはそれのせいで過去につらい目にあったこともあるようだけど、今のヒナにとってはお邪魔虫という以外の何モノでもなかった。ことあるごとに「部活サボりましたね」とか「補習抜け出してきましたね」とか。しまいには「朝倉先輩の気を引くために、わざと判っていないふりをしましたね」とかツッコんでくるから始末に負えない。うるせー、そういう駆け引きはあばいちゃいけないんだっての。

 ハナがハルのことを好きなのは、極端に嘘が少ない人、という理由もあるのだそうだ。まあ、昔からそういうの下手だったからね、ハルは。真っ直ぐで、誤魔化しに頼らないで。ふん、ヒナはハルのそういうところ、そんな妙ちきりんな力に頼らなくたってちゃんと気付けてるんだから。負けないぞぉ。


「で、さあ、ヒナ。申し訳ないんだけど、課題の資料のことだよね?」

「うん。ハルがまだやってないって言うから」


 そうそう。ヒナは今日は、そのお手伝いをしなければならないのですよ。ふははは、二年生の課題だから、ハナには解るまい。ヒナはしっかりとサユリに教わってますからね。「ヒナはもうちょっと、危機感とかを持った方が良いよ?」とかいうありがたいコメント付きで。うん、自覚はある。イヤとにかく、一回は通して終わらせているんだから、ちゃんとハルのお手伝いくらいはできますよ?


「あの本さ、誰かが借りていっちゃったみたいなんだよね」

「ふへぇ?」


 ええ、えええー?


 何それ? 授業の課題で使うんだから、貸出禁止になっているはずだよね? ヒナも持って帰ろうとしてサユリとフユに全力で止められたから良く覚えているよ。ちょっとコンビニのコピー機まで運ばせてくれればそれで充分だったのに。仕方がないから携帯のカメラで撮ったら、見ただけで吐きそうなくらいつまらない画像が一枚増えた。あ、あれを消さないでおけば良かったのか。ハル、ごめん。ヒナはあんなお経みたいな文字の羅列を、ハルとの思い出でいっぱいのメモリーの中に残しておきたくなかったんだ。


「今更他にやってない人がいるとも思ってなかったんじゃないかな」

「まいったなぁ」

「一応返却予定日が明日になってるから、一日待ってみてよ」


 それ、提出期限ギリギリじゃないですか。ヒナとハルの叡智を結集させたとしても、果たして間に合うのかどうか。こいつは厳しい戦いになりそうだぜ。

 とか考えていたら、ハルはさっさと図書室から出ていこうとしている。あれ? ハルさん?


「ないものはしょうがないだろ。今日のところは部活にいってくる」


 ハル、思い切りが良すぎ! せっかくヒナと一緒の時間が作れるのに、ハルはそれで構わないの? 本がないなら、このままヒナと放課後デートするとか。最近あんまりそういうのしてないよ? ヒナ、欲求不満が溜まりまくって爆発しちゃいそう。


「山嵜、また後でな」


 ハナがもう、満面の笑みでうなずく。それからちらり、とヒナの方を一瞥いちべつ。くっはぁ、ムカつく。この小娘まじムカつく。ハルの気持ちとか、そういう問題じゃない。この勝ち誇った態度そのものが超ムカつく。


「ヒナ、ありがとう。今夜電話するから」


 ハルが、名残惜しそうに手を振ってくれた。うん、待ってる。えへへ、今日はちょっとだけ長電話する予定なんだ。やっぱり二人の語らいの時間って、大事だからね。ハルもヒナの声を聞いていたいんだって。メッセージとかだと、どうしても細かいニュアンスまでは伝えきれないから。もちろん、本当は会って話すのが一番。それがもっと気軽に出来るようになれば良いんだけど、でもその頃にはきっと、ハルとは同じ屋根の下にいたりなんかするんじゃないかな。


 なーんて。


「はいはい、じゃあさっくりと用事の方を済ませちゃいましょうよ」


 おやハナさん、どうしてそんな「クッソつまんねぇ」なんて顔をしてらっしゃるのですか。ああ、『真実の魔眼』が邪魔をして、ハナさんが今どんな心持ちでいらっしゃるのか、ヒナにはまるでうかがい知ることがかないません。いやぁ、残念だなぁ。ねえねえ、今どんな気持ち? どんな気持ち?


「二人共すごいなぁ」


 溜め息交じりに、フユがそうつぶやいた。別に、大したことじゃないですよ。こんな勝ち負けの決まりきった戦いを毎度挑んでくるハナちゃんが、なんと健気けなげなものかと感心しているだけです。ヒナ的には、適度な緊張感を得られて丁度良いかな、とかなんとか思ったりして。ふふふ、勝者の余裕ってヤツですかね。


「幼馴染なんて、すぐに飽きられちゃうんですから。今のうちにせいぜい喜んでおけば良いんです」


 言うね、この子は。そうならないためにも、ヒナだって努力してるんですよ。漫然とハルの隣にいるだけじゃないんですー。選ばれ続けることには理由がある。愛されて十何年だっけ? とにかく、たゆまぬ努力があってこその、ハルの彼女なんです。


「そうか。それは難しそうだな」


 フユは寂しげに笑った。何だかちょっと様子がおかしい。ヒナはハナと目を見合わせた。フユは元からややテンション低めではあるけど、今日のはまた微妙にそれとは違う。『銀の鍵』で心を……ってのはやめておこう。

 ヒナとフユは友達。そういうのはナシの方向で。貸出カウンターの中に入ると、ヒナたちの自主活動サークル『大いなる世界の善意』、通称『おせっかい』の本日の活動が開始された。




 入口の方からわいわいと話し声が聞こえてきたので、視線を向けて確認した。やっぱり、曙川だ。朝倉も一緒にいるので、賑やかさが五割増しといったところか。あれだけ健気けなげに好きになってもらえるなんて、なかなかないことだろう。

 その周りをちょろちょろとしているのは、山嵜か。確か、宮下が入れ込んでいる一年生の子だ。まあ確かに可愛いとは思うが、シュンヤの好みではなかった。

 大体あの子は、朝倉に一目惚れしてハンドボール部にマネージャー志望で入ってきた、とか言ってなかっただろうか。宮下に勝ち目なんてあるはずがなかった。朝倉には曙川という彼女がいるが、だからといって宮下がそのおこぼれに預かれるという理屈はどっこにも見当たらない。いや、あってたまるか。


 それでも自分の感情に正直になって、真っ直ぐに突っ走れる宮下のことはちょっとすごいと思った。シュンヤなら一人にフられたらそれだけで、高校生活の三年間を暗黒の中で過ごせる自信がある。何故負けると判っている戦いに挑んで、予想通りに玉砕して。そこであきらめれば良いのに、また繰り返しアタック出来るのか。

 メンタルが鈍感……と言ってしまえばそれまでだ。宮下の女子に対する考え方は、同性のシュンヤからしてもあまり褒められたものではなかった。何のために彼女が欲しいのか。朝倉に自慢したいとか、なんかこうエッチなことをしてイチャイチャしたいとか。宮下の発想はある意味健全であり、そしてゲス極まりない無意味なものでもあった。


 ――何のために、か。


 視界の隅に、因幡が映った。因幡は不思議だ。一度もシュンヤの方を見ていなくても、ちゃんとここにシュンヤがいることを把握している。その証拠に、今手元にあるこの本を持って立ち上がれば、サッとシュンヤの貸出カードを準備して待っていたりする。それを考えただけなのに、因幡は一瞬カウンターにあるカードボックスの方に手を伸ばしたように思えた。いやいや、それは流石に考えすぎだ。因幡のことになると、シュンヤはちょっとおかしくなる。


 シュンヤは因幡と、どうなりたいのだろう。ふしだらな考えが脳裏をよぎる。こんなことを因幡に知られたら、軽蔑けいべつされて、嫌われてしまうに違いなかった。

 図書室の書架の陰で、細くて折れてしまうそうな因幡の手を握って、シュンヤの方に引き寄せる。本の匂いに囲まれながら、そっと因幡に顔を近付ける。


 それから……


 そうだ。結局シュンヤは、因幡をどうしたいのだろうか。異性として、因幡のことを好きなのは自分でも自覚している。問題はその先だ。

 宮下辺りなら、身勝手な妄想を垂れ流すだけで小一時間は費やしてくれるだろう。よくもまあ、それだけいやらしくもくだらないことばかり考えられるものだと、感心させられるくらいだ。

 高橋はその手の話題にはあまり乗ってこなかった。最近頑張ってアプローチしている森下とは、今のところ音楽仲間で優しい関係であるとのことだった。とはいえ、そういうことに興味がない訳ではないらしい。「付き合えるなら、付き合いたいよ」ともコメントしていた。向こうもまんざらではない様子だし、余程のヘマを打たない限りはそうなるものだと思われる。


 朝倉を相手にこの手の話題は――ご法度はっとだ。曙川とのことをちょっとでも茶化そうものなら、割とマジなパンチが飛んでくる未来が訪れる。曙川でそういった不埒ふらちな想像をされること自体が嫌なのだという。それはまた、随分と入れ込んでいることで。曙川みたいに判りやすい好き好きオーラを発したりはしていないが、実際には朝倉の方も大概に曙川にぞっこんだった。

 それでいて、あの二人は学校では変にベタベタせずに『清い』男女交際をつらぬこうとしていた。学校公認とか言われちゃっている以上、そうそうただれた関係にはなれないとか。曙川の方が積極的に迫っている印象だが、シュンヤに言わせれば朝倉だって相当に欲求不満を溜め込んでいるに違いなかった。


 朝倉と、曙川。あの二人みたいな関係は、確かに楽しそうに思える。ただ、シュンヤが望んでいるものとは少々異なっているようにも感じられた。


 別におっぱいがどうとかキスがどうとかには、そこまでの興味はなかった。当然、全くないとも言わないが。でもそれがメインでないことは確かだった。

 だって因幡だ。細くて白くて。そんなことしたら、きっと壊してしまう。触れる時には、細心の注意を払わなければいけない。


 シュンヤは因幡と、この本の森で静かにしていられればそれで幸せだった。お互いに好きな本を持ち寄って、二人でページをって。そこに書かれた物語について語り合えれば、それで満足してしまいそうだ。


 人を好きになるって、こういうことで良いのだろうか?


 因幡とは、恐らく友人関係でいるのだと思う。学校にいる異性の中で、一番言葉を交わす相手であるのは間違いない。因幡の、まるでシュンヤの心を読んでいるかのような不思議な行動に。


 シュンヤはもう、すっかりとりこにされていた。


 判っている。それは単純に、シュンヤが『判りやすい』というだけのことだ。きっと因幡でなくても、シュンヤのやることなんて何もかもお見通しなのだろう。それが曙川だろうが誰だろうが、得られる結果は同じだ。図書室で本を読んで、ぼそぼそと二言三言口を開くだけのシュンヤなんて、人間としては簡単極まりない。

 こんな面白くもなんともないシュンヤが、誰かに好きになってもらえるなんて到底思えなかった。ただここにいて、因幡の姿を遠目に眺めて。身勝手な妄想にひたっているのが、関の山だ。


 シュンヤは因幡フユと、どうなりたいのだろうか?


 その答えは、何度となくシュンヤの中で繰り返されている。別に、どうなりたいとも思わない。和田シュンヤは、因幡フユとどうなることだってできない。だからここでこうして、因幡フユと同じ場所で、同じ時間を過ごせることだけを喜ぼう。


 そんな『キモチワルイ』男子が、和田シュンヤだ。シュンヤは小さく溜め息を一つ吐くと、本のページをめくった。




 和田シュンヤ? 誰だっけ?


「曙川先輩言うところの、ジャガイモ2号ですよ」


 ああー、ジャガイモか。ジャガイモはジャガイモって言ってくれないと判らないや。ヒナはジャガイモをジャガイモとして認識しているからね。で、2号だからアレだ。うるさくない方のジャガイモだ。うるさい方のジャガイモは、即座に死ぬべき。あいつ昨日、ヒナが作ってきた八宝菜にケチ付けやがった。しかもハルの目の前で。百万回殺しても飽き足らないね。


「宮下君はヤングコーンが嫌いなんだって」


 知らんがな。好き嫌いせずに何でも食べやがれってんだ。そんなんだから彼女どころか、女子全員から総スカン喰らったりするんだよ。ハルから聞いたけど、あいつクラスの女子から完全無視されてるんだってよ? で、寂しいからってうちのクラスにまで来て、ヒナとかユマとかと話してるんだって。バッカじゃねぇの?


「宮下先輩は、歩くセクハラ広告塔ですからね。どうしようもないです」


 ハナにまでそんな評価をくだされてしまうジャガイモ1号に、ソラニンのめぐみあれ。せめて苦しまずに死ねよ。


 ……じゃなくって。

 えーっと、2号の方だよね。和田君。うん、印象が薄すぎて、ヒナは今の今まで存在を忘れていたよ。きっと忍者とかが向いているよね。忍法空気人間、みたいな。ダメか。


「その和田君なんだけどね……」


 フユが珍しく、言いにくそうにもごもごと口ごもった。ん? 何でしょう、その反応。ヒナのセンサーがビビビッと感知してしまいましたよ。え、まさかですか? まさかなんですか?


 ――マジか。


 へぇー、そうだったんだ。ごめん、ヒナ、根菜のことは根菜としか見ていなかったからさ。感情なんてものが存在したこと自体が驚きだわ。などと失礼なことを口にしてみる。そういやサトイモも頑張ってチサトにアプローチしてるんだよね。結構仲良くやってるみたいだよ、あの二人。


「和田先輩ですか。あまり詳しくないですね」


 ちらり、とハナが図書室の奥の方に目を向けた。うん、いるね。貸出カウンターから見える位置に腰かけて、じっと本に読みふけっている。ジャガイモ2号って、あんな感じだったっけ? ハナの言う通り、あまり目立たない印象ではあるかな。一応昼休みには一緒にお弁当を食べてるけど、特におしゃべりとかをした記憶がない。物静かで、正直いてもいなくても同じというか。


「和田君は、話すと色々面白いことも言ってくれるよ。その、口下手なだけだと思う」


 コミュ障って奴ですかね。フユはヒナと違って、他人の心を読む行為にそれほど抵抗がない。ジャガイモ2号の気持ちだって、それで知ったのだろう。人から好かれるのは悪いことではないけれど、問題は相手だよね。フユ的にはどうなんだろうか。


「あのね」


 おう、そこは包み隠さずガッツリと言ってしまってくれたまえ。イヤならイヤで仕方がない。ハルの友達だからそこまで強くは出れないけど、上手く距離を作ってやることぐらいはできるでしょう。それとなくあきらめさせるとか、何か手はないかな。こういうのにあんまり魔術的な手段は使いたくないから、ナシュトとかカマンタには引っ込んでおいてもらわないと。

 さぁ、忙しくなってきたぞう。ヒナはこういう話が大好物だ。っていうか女子は普通、みんな恋バナが大好きだよね。それも相手がフユだっていうんだから、格別だ。


「……判らないの」


 ん?


 どうしたんだろう。フユはうつむくと、それっきり黙りこくってしまった。初めて見る顔だ。まるで、今にも泣き出しそう。ヒナは慌ててフユの肩を掴んで抱き寄せた。心なんか読まなくても、どうすれば良いのかなんてすぐに判る。ハナが無言で司書室への扉を開けてくれた。司書の先生は、本日は出張中。うん、ジャガイモ2号には見られたくないよね。フユを連れて、そそくさと三人で奥に退散した。


「ヒナ……私初めて、人の心を読んで後悔した」


 そうか。フユはジャガイモ2号――もとい、和田君の気持ちを知ってしまって、つらかったんだ。


「和田君はね、私のことを普通の女の子だと思ってるの」


 フユは普通の女の子だ。それはヒナも、ハナもそう思っている。『銀の鍵』なんて関係ない。フユは、フユだ。ヒナはフユの身体をぎゅうっと抱き締めた。ヒナと同じ力を持って、同じ苦しみを持つ女の子。もう一人の私。ヒナとフユで、違うところなんて何もない。ヒナがハルと幸せになれるのなら、きっとフユだって誰かと結ばれることができる。


「すごく……すごく大切に想ってくれているの」


 そうなんだ。ジャガイモ1号は少しは和田君を見習うべきだね。あいつ、女子ならホント誰でも良いって感じでさ。油断したらヒナだって何かされそうで、ちょっと怖いよ。ハルがいなけりゃ、あんな馬鹿にお昼ご飯なんて絶対に作ってやらないんだから。ハルももうちょっと友達は選んだ方が良い。根菜同盟はいかがなものかと思う。


「ヒナ、私は、どうしたら良いんだろう?」

「落ち着いて、フユ。大丈夫だから」


 フユは他人からダイレクトに好意を向けられたことがなかったのだそうだ。まあ、確かにフユは美人ではあるけど、男性からそういう目で見られるタイプの女子ではない。細くて、押せば簡単に倒れてしまいそうで。ジャガイモ1号言うところの「そそる」部分がないという感じか。ヒナなんて「マニアック」とか随分と酷い言われ様だよ。失礼しちゃう。これでもハルのために、色々と頑張ってるんだからね。


「和田先輩は、自分の気持ちが知られているとは気付いていないんですよね?」

「それは、そうだと思う。元々口数の少ない人だし、私の方もそれなりに気を付けているから」


 知られたくはないだろうなぁ。さっきも普通に平静をよそおって本を読んでたし。急にこっちが司書室に引っ込んじゃったから、そこはかとなく怪しいとは感じただろうけど。でもその後の密談の内容がこれであるとは、まず考えつかないだろうね。


「だったら、因幡先輩の自由で良いと思いますよ? 相手の気持ちが判ってるんなら、どっちに転がすも楽勝じゃないですか」


 ヒナの眼から黒目が消えて、背景に稲光が走った。ハナ、恐ろしい子。あんたなんてこと言うのよ。その通りだけどさ。


 フユには『銀の鍵』がある。だから和田君の好意に応えるのも、そつなくかわすのも思いのままだ。嫌われない程度に立ち回るなんて、朝飯前だろう。


 でも――


「それができないから、困ってるんだよね?」


 こくり、とフユはうなずいた。だよね。フユは初めて男の子から好意を向けられて、それをどう扱って良いか判らなくなってしまったんだ。

 そうだね、まずはフユの気持ちをしっかりと固めてみようか。フユは和田君のことを、どう思っているのか。恋愛とは切り離して、好きか嫌いか。嫌いじゃないのなら、どういう関係でいたいのか。まだ告白された訳でもないし、落ち着いてゆっくりと自分の気持ちを紐解いていきましょう。


「曙川先輩、恋愛相談とか乗れるんですね」


 悪かったな。それ、以前にも誰かから言われたような気がするよ。失礼極まりないったらありゃしない。


 ほら、ハナも相手がハル以外ならどぉーんと相談に乗ってやるから、さっさと誰かに恋しちゃいなさい。ん、なんでそんな嫌そうな顔をするの? ほらほら、ジャガイモ1号とか売れ残っててお得だよ。あのバカも、自分の女が出来れば少しは大人しくなるでしょう。さあさあ覚悟を決めて、世のため人のために人身御供になりなさいってば!




 フユの身体は、汚れている。フユとヒナの間に決定的な違いがあるとすれば、それだ。ヒナからはいつだって、ふんわりとした甘い香りが漂っている。優しい、女の子の匂いだ。フユにはそれがない。感じられるのは、鉄錆てつさびに似た血の臭いだけだ。


 和田シュンヤのことは、嫌いじゃない。人というのがどういうものなのか、フユはよく判っている。自分勝手で、よこしまで。ヒナが他人の心を覗かない方針なのは、人間に絶望したくないという理由もあるのだと思う。そう考えてしまえる程には、人の心の内側というのは自由奔放だった。


 そんな中にあって、和田シュンヤという人間の心はかなりマシな部類であるといえた。


 この学校に転校してきてから、フユは生徒や教師の内面は一通り眺めてきたつもりだった。一部に山嵜ハナみたいな例外はいたが、校内にはフユに害をなそうとする存在はいなさそうだ。魔法使いの才能を持つものは、大体千人に一人くらいの割合で存在するという。去年卒業したフミカ先輩に、ハナ。全校生徒の中に、一人いるかいないかといったところだ。身近には『敵』になりそうな相手がいないという事実は、喜ばしいことだった。

 それでもフユに対して敵意を持つ人間が、全くいない訳ではなかった。ただ、そこまで明確な悪意を持たれる程ではない、という立ち位置で済まされてはいたが。フユは学校の中では、『弱者』というカテゴリに分類されている。外見の要素は大事だ。お陰様で大して目立つこともなく、ひっそりと学校生活を送っていけそうなポジションに落ち着けていた。


 もっとも――この学校で最大級に人目を引くヒナと仲良くしている時点で、トラブルの種からは逃れられそうにはなかったが。


 和田シュンヤとは、そのヒナの交友関係を通じて知り合いになった。大人しくて、口数が少なくて。たまにぼそっと、面白いことを言ったりする。対人コミュニケーションが苦手な様子で、本を読むのが好き、という趣味がフユとは一致していた。

 二年生になって、図書委員で一緒になった。そんな理由でほんのわずかに二人でいる時間が増えただけで、不思議と胸の奥がざわついた。フユのうちに生まれたこの感情が何なのか、最初はまるで判らなかった。


 心の中を覗いてみると、和田シュンヤはフユの存在を強く求めていた。フユはあまりのことに衝撃を受けた。どうしてそうなるのか、まるで理解が及ばなかった。和田シュンヤの中で、フユは並んでその肩にもたれかかって同じ本を読んでいた。


 そんなこと……できるはずがない。


 もっと解りやすく汚してくれていたら、素直に嫌いになれたのに。どうしてこんなに、優しいのだろう。素敵な妄想だった。和田シュンヤがあんな風に笑うのだと、初めて知った。穏やかで、心地よい。大切に想ってくれている。大事にしようとしてくれている。その気持ちを正面から受け止めて、フユは何も考えられなくなった。


 和田シュンヤの心は、劣等感コンプレックスの塊だった。いつも引っ込み思案なのも、言葉が少ないのも、過去の経験が影響している。その記憶の片鱗に触れて、フユ慌ててそこから目を離した。

 これは、勝手に読み取ってしまってはいけないものだ。フユは和田シュンヤのフユに対する想いを、本人に断りなく知ってしまった。その上で、和田シュンヤの中身全てを見てしまって良いはずがない。


 和田シュンヤのことは、和田シュンヤ本人の口から聞かせてほしかった。


 カッコいい男子について、以前ヒナたちと話したことがあった。ヒナはとにかくハルがカッコいいと言ってきかなかった。基準値がそこにあって、しかも最高値なので他の男子に対する評価がまるであてにならない。ユマはハルも悪くないとしながらも、何人かの男子の名前を挙げていた。なるほど、それが一般的にカッコいい男子なのかとフユは感心した。

 気になったので、後でその男子たちの中を覗いてみた。どちらも現在交際中の女子がいて、その相手といかにエッチな関係になるかについて熱心に考えていた。まあ、正常だ。この辺りはおおむね他の男子生徒たちと何ら変わらなかった。

 ただ『カッコいい』男子がちょっと違ったのは、相手の感じ方や未来の在り方にまで思考が及んでいるところだった。なるべく長く、真面目に付き合っていきたい。相手に好かれるため、そして一緒にいるための努力は惜しまない。自分だけじゃなくて、可能なら相手にも喜んでもらいたいし、嫌がることは当然のようにしたくない。大枠において、ヒナとハルに近い感じだった。


 詰まるところカッコよさの根源とは、自分の中にある直近の欲望だけに捕らわれない、という結論で良いのだろうか。


 ヒナとハナにそれを話したら、「それは大事よねー」と妙に納得されてしまった。ヒナはハルと将来の約束まで済ませている。この前こっそりハルの中を見てみたら、ヒナと幸せな家族を作る未来を想像していた。うわぁ、これは恥ずかしい。でもハルがヒナのことをとても大事にしているのは、良く伝わってきた。

 だからちょっとだけヒナとエッチなことをしている場面もあったのは、許してあげることにしようと思う。ハルも他のみんなと同じ、健全な男子だった。実はそれを見て、フユは少々安心した。ヒナとハルって、なんだか特別すぎる感じがして。


 ではひるがえって、和田シュンヤは果たしてカッコいい男子、なのだろうか?


 フユと並んで本を読んでいる妄想を見た正直な感想は、「寂しい」だった。本当なら、もっと色々な自由度があっても良いはずなのだ。自分の中にある、好き勝手にして良い世界での話なのに。和田シュンヤはそこにおいても、フユを綺麗なままにたもとうとしているかのようだった。


 良いんだよ、もっと、思うさまに汚してくれても。


 恐らくは、それができないのだ。かすかな苦しみが感じ取れる。和田シュンヤという男子は、どこまでも小さく自分という存在を委縮させてしまっていた。これ以上はたとえ妄想であっても許せないのだと、自分自身を縛り付けている。ジャガイモ1号と混ぜて二つに分けると丁度良いのかもしれない。あ、いや、宮下君。まずまずい。すっかりヒナの思考がうつってしまっている。


 フユはそれを、特に「きたない」とは思わなかった。人として当然の行為だ。ヒナの中心で輝く思考を見た時に、フユはすっかり感化されてしまった。ヒナはやはりすごい。『銀の鍵』に選ばれるとは、こういうことだ。それを無理矢理左てのひらに埋め込まれたフユとは、何もかもが違っている。



「因幡さん」



 良くヒナが「口から心臓が飛び出そうになった」なんて言うのを、この時ほど実感したことはなかった。ビックリして椅子から跳ね起きた。図書室の、貸出カウンターの中。どうやら椅子に座ったままで、つい転寝うたたねしてしまっていたらしい。

 隣には、いつの間にか和田シュンヤがいた。どのくらいの間、フユは眠りに落ちていたのだろうか。和田シュンヤは、恐らくフユを見かねて図書委員の仕事を代わってくれていたのだ。カマンタ、何で起こしてくれなかったの!


「ご、ごめん!」

「いや、大丈夫。そろそろ閉館の時間だからさ」


 うわ、もうそんな時間か。鍵をかけて、放置されている本を戻して――という最終退出処理まで、和田シュンヤは全部済ませてくれたらしい。参った。ここまでされてしまうと、もはやグゥの音も出てこなかった。


「今日当番じゃないのに、ホントにゴメンね?」

「因幡さんだって当番じゃないでしょ?」


 それはまあ、そうだ。図書室のカウンターなんて、好きな人が適当に座っているだけになりつつある。大体はフユか、和田シュンヤの二択だ。そういう意味では、和田シュンヤの妄想はとても現実味を帯びている。そんな未来は、実は簡単に得られるかもしれないのだ。


 ――フユが、まともな女の子なら。


「鍵を職員室に戻してくるよ。因幡さんはもうあがって良いからさ」

「あ、それくらいは私が……」


 思わず無防備に手を伸ばして。


 てのひらが、触れた。


 よりによって、左のてのひら


 そこには、『銀の鍵』がある。


 フユが、普通の女の子ではいられないことの証。


 心の奥底にある、封印の扉が脳裏に浮かんだ。そこには、全部が詰まっている。フユの過去。覚えていてはまともに生きていけない、腐り切った記憶。魔法使いさんと過ごした日々と――


 その、名前。



「因幡……」



 和田シュンヤが、目を見開いた。理由は判っている。フユの顔を見て、驚いたんだ。ごめんね、和田君。和田君はちっとも悪くない。悪いのは、フユなんだ。


 涙が、どうしても止まらなかった。嫌だ。このてのひらが憎い。そこにある『銀の鍵』が憎い。フユを、ヒナとは違うけがれた存在におとめてしまうこの力が……憎い!


 気が付いたら、走り出していた。和田シュンヤに、謝らなきゃ。そうじゃないって、言わなきゃ。きっと和田シュンヤは傷付いた。フユが拒絶したって、勘違いしている。


 でも足が止められなかった。どこまでも、どこまでも。逃げたって、何も変わりはしないってっているのに。フユは必死で、逃げ続けた。誰から? それはいつだってフユのすぐ隣にいて、フユのことをあざ笑っている。


 フユ、お前は普通じゃない。血塗られた『銀の鍵』なんだって。


 ヒナ、助けて。フユの可能性。フユの光。輝き。



 ヒナ!




 陽が長くなった、と思う。ついこの間までは、この時間なら真っ暗だったはずだ。コンビニのあかりは、いつだって明るく夜を照らし出してくれる。いつだったか、ここで因幡を見かけたことがあった。あの頃は因幡のことを考えてこんな気持ちになるなんて、想像もしていなかった。


 コンビニの前、駐車場の縁石にシュンヤは独りで腰を下ろしていた。学校帰りの学生や、家路を急ぐサラリーマンがその前を通り過ぎていく。シュンヤは焦点の合っていない目で、ぼんやりとその人の列を見送っていた。


 見知らぬカップルが、寄り添って腕を組んで歩いていた。男も女も笑っている。幸せそうだ。胸の中が、もやもやとしてきた。どうしてこんな気持ちになるのだろう。シュンヤとは何の関係もない、縁もゆかりもない世界の話でしかないというのに。


 なんで――ほんの少し触れたただけのてのひらが、とても熱く感じられるのだろう。


「よ、遅くなった」


 制服姿の朝倉が、ぶらぶらと歩み寄ってきた。宮下は一緒じゃない。気を遣ってくれたのか。こういうところは、信用できる奴だと思っている。だから、朝倉だけにメッセージを送った。

 悔しいけど、この件に関しては朝倉の方が大先輩だった。シュンヤにはまるで理解の及ばない、未知の領域での出来事だ。


 とりあえず肉まんを買ってきて、朝倉はそれにかぶりついた。部活を始めてから、腹が減って仕方がないということだ。その話を曙川にしたら、厳密なカロリーコントロールをされそうになって慌てて誤魔化したらしい。世話を焼いてくれるのは嬉しいが、買い食いの自由まで奪われてしまってはたまったものではないだろう。


「朝倉はさ、どうやって曙川のことを大事にしているんだ?」


 聞きたいことを言葉にするのが、難しい。シュンヤの周りにいるカップルと言えば、朝倉と曙川だ。相談をするなら朝倉、という選択においては間違いはないとは思う。問題は、何をどう質問するべきなのかが全くまとまらないということだった。


「ヒナか。まあ、大事にはしているつもり、なんだよな」


 朝倉は照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。普段ならこんな話題を振っても、適当にはぐらかされるのが常だ。今日はいつもとは違う。シュンヤの真剣な様子を察してくれたのだろうか。それならとても有り難い。シュンヤは今、どうしても知りたかった。


 どうして朝倉にできることが、シュンヤにはできないのかを。


「見てれば判ると思うけど、あいつちょっと俺のこと好きすぎでさ。その気持ち自体はすごく嬉しくても、放っておくと何をしでかすか判らないんだ」


 その通りだ。曙川の朝倉への入れ込みっぷりは半端ではない。人生レベルでのパートナーとして、朝倉の隣の位置を完全に占めている。それを誰かに譲るつもりは、さらさらなさそうだった。曙川くらい可愛い女子にそこまで好かれるのなら、男冥利に尽きるのではなかろうか。宮下ではないが、朝倉は曙川のその気持ちに乗っかってしまえば、自分の欲求を満たすために何だって言って聞かせることが可能だろう。


「別に俺は禁欲的でも何でもないよ。ヒナとはまあ、いつかはそうなる。いつかってだけで、興味がない訳じゃない」


 正直に胸のうち吐露とろする朝倉の顔は、なんだか幼い子供みたいだった。シュンヤは黙って朝倉の言葉を噛み締めた。そうだな。朝倉の方も、曙川に負けないくらいには「好き」という気持ちを持っているのだ。


 ならば、何故?


「ただ、ヒナにはいつも笑っていてほしいんだ。学校で、教室で、部活で。俺の好きなヒナは、どこにいても明るく笑ってる」


 図書室のカウンターで静かにたたずんで、微笑んでいる。持っている本を閉じて、ゆっくりと振り向く。おっとりとしていて、あまり急いでいるところを見たことがない。はかなくて。強い風が吹けば飛ばされてしまいそうで。

 その手をつかんで、留めておきたいとまで思ってしまう。


「そんなのは、俺が勝手に考えているヒナらしさ、でしかないんだろうけどさ。それでも、俺はヒナにそうあってほしいんだ」


 朝倉が言わんとしていることが、シュンヤには痛いほど理解できた。そういうことだ。らしくあってほしいと願うから、それを壊したくない、守りたいと思える。朝倉の好きな曙川は、そういう曙川なのだ。そして――


 シュンヤの好きな因幡フユは、そんな女の子だった。


『私は多分、和田君が考えているようなどんな女の子でもないから』


 因幡は先に、シュンヤに答えを与えておいてくれていた。シュンヤはきっと、因幡のことを何も判っていない。ただぼんやりと、離れた場所から眺めていただけだ。か弱い見てくれに惑わされて、その本質を、中身をまるで知ろうとしていなかった。


 シュンヤは、因幡フユのことを何もらない。

 同じ場所で、同じ時間をどれだけ共有していたのだとしても。シュンヤにとって因幡フユは、図書室にいる線の細い女の子、以上の情報を持たない存在だった。

 誕生日は知っている。血液型も知っている。クラスも、出席番号も。体育を休みがちなことも。得意な教科が古典であることも。からいものがちょっと苦手で、好き嫌いは基本的にないことも。宮屋敷みややしきとかいう財団の支援を受けて、一人暮らしをしていることだって知っている。


 でも……そんな情報がいくらあったって、『因幡フユ』のことを判っているだなんて何も言えなかった。


「朝倉、俺さ――」


 因幡フユは、本当はどんな女の子なんだろう?

 シュンヤの知らない因幡フユは、まだまだ沢山ある。


「ん? なんだ?」


 朝倉はきっと、曙川のことを知らない。「知らない」ことを、ちゃんと理解している。だから自分の理想と重ねて、現実の曙川とぶつけ合っている。一致したり、外したり。それを繰り返すことを、楽しいと感じている。


 そうか。


「俺、好きな子がいるんだ」


 因幡フユのことを、知りたい。


 新しい因幡フユを見つける度に。驚いたり。喜んだり。時にはガッカリしたり。そんなことの連続を、お互いに共有したい。

 因幡フユだって、きっとシュンヤのことを判っていない。和田シュンヤという人間を、因幡フユに理解してもらいたい。静かなだけじゃなくて、もっと胸の奥深くにあるざわついた感情の塊も含めて。


「俺、その子のことを傷付けちゃったかもしれない」


 それが、合わないことだってある。思いがけずに出くわして、引いてしまったりもするだろう。そんな時に、どうすれば良いのだろうか。シュンヤは因幡フユの、何に触れてしまったのだろうか。


 理解できた。



 ――これが、恋だ



「朝倉、俺、どうしたらいいだろう?」




 午前の授業終了のチャイムは、いつものことながら一際美しい音色に聞こえた。無茶な勉強を午前中いっぱい押し付けられて、身体が栄養分を欲しているよ。ナシュトに言わせれば、こんな知識の詰め込みなんて『銀の鍵』の力をもってすれば造作もないこと、なのだそうだ。

 やれやれ、あのダメ神は本当に判っていない。神様ってのは、どうしてこう頭でっかちな考えに至ってしまうものなのかね。稲荷神社にいる土地神様の方が、断然話が通じる。いやいや、あの神様はどちらかと言えば女の子か。そういえば最近顔を出していないし、今度お菓子でも持って遊びに……じゃないや、お参りにでもいってみようかな。ヒナはまだ、人間の旦那さんとやらの顔を拝んだことがないし。何よりも、ひょっとしたら魔法使いさんにも会えるかもしれない。


「待ってたぜー、メシメシー!」


 食堂に向かうクラスメイトの流れに逆らって、我が物顔でヨソの教室に突入してくるのが根菜軍団だ。サトイモは相変わらず欠席。チサトいわく、今度二人で楽器屋にいくのだとかなんとか。名目上は部活の買い出しとなっているけど、当人たちの意識はすっかりデートになっている。マジか、いよいよだな。

 サトイモもチサトに対しては男子ィな一面を控えて、紳士的な態度を貫いてくれているとのことだった。あっはぁ、じゃあヒナにも感謝してほしいものだね。そもそも二人の縁を取り持ったのは、このヒナちゃんだと言えないこともなかろうもん。人の作ってきたオカズをムシャムシャと食い散らかしておいて。で、好きな女ができたら挨拶もなくバイバイとか。こいつはとんでもない根菜だよ。


「サキは今日も部活の方なのかな」


 学園祭実行委員のユマが、キョロキョロと教室内を見回した。サキは陸上部のエースで、最近はそっちが忙しくてあまり教室の中では見かけない。

 ……と、思わせておいてですね。あー、実はそっちも男のところだよ。王子様サキは、現在お姫様にクラスチェンジしようとしている真っ最中なんだ。あそこはちょっと、わだかまりが大きいから。じっくりと時間をかけて、お互いの気持ちに折り合いを付けていくんだろうね。幼馴染も色々だ。ヒナとハルは、ちゃんと二人だけでいられて良かったね。


「えー、曙川センセイ、本日のお昼の方は……?」

「ああん?」


 テメェこのジャガイモ1号、どの面下げてそんな戯言ざれごとをのたまってんだ? 人がハルの友達のよしみというだけで折角作ってきてやったオカズにケチをつけておいて、今更何を期待してんだよ? ヤングコーンが食えないだと? 高校生にもなって、くっだらねぇ食わず嫌いをぶちかましてるんじゃないよ。


「今日はシイタケ。シイタケのバターソテー。徹底的にシイタケ」


 げぇ、とジャガイモ1号が露骨に嫌そうな顔をした。はっはぁ、知っているよジャガイモ1号。お前がこの上なくシイタケを嫌っているということはな。丁度お母さんの実家から大量のシイタケが送られてきて、ぶっちゃけ曙川家では始末に困っていたところだったんだ。サービスで今回は無料にしておいてやる。さあ存分に味わうが良い!


「いいな、ちょっともらって良い?」

「うん。あんまり食べ過ぎないでね」


 そしてこれは、ハルの好物でもあるのです。それも見越してハルのお弁当の方の献立やカロリーも調整済みのヒナは、もう完璧なデキるお嫁さん間違いなし。ほぉーら、ハルが超ご機嫌でシイタケを頬張っているぞぉ。ジャガイモ1号は女子の前で食べ物の好き嫌いを露呈して、カッコ悪い姿をさらしてしまうが良いさ。ぬわっはっはっはっ!


「和田君はシイタケとか平気なの?」

「え、あ、まあ」


 ジャガイモ2号がシイタケ平気なのも、フユから情報入手済みなのだぁ。たった一人置いてけぼりになって、お子様として寂しいお昼休みを過ごすが良い。ざまあミソ漬け。


「曙川、お前、きったねぇ!」

「女子に向かって失礼だなあ。いつも綺麗にしてます。ハルの前で変なこと言わないで」


 ふん、だ。悔しかったらハルみたいにいい男になってみなさい。このところハルは他の女子に結構モテ始めてきていて、ヒナは不安でいっぱいなんだよ。胃袋掴んで繋ぎとめておくのだって、苦労してるんだからね。そこにケチなんか付けられちゃ、たまったもんじゃないんです。


 ぐぎぎ、とシイタケとにらめっこしている根菜に関しては、この際どうでも良い。問題は、もう一人の根菜と、フユだ。フユはいつもみたいに小さなおにぎりを取り出して、もそもそと無言で口に運んでいる。ジャガイモ2号も、黙々とシイタケに箸を伸ばしていた。あー、えーと。なんかちょっと空気が重いな。

 ユマもこの微妙な雰囲気を察したらしく、ヒナの顔色をうかがってきた。うん、まあ、ちょっとね。青春ってさ、色々あるよね。大したことのない、ボタンの掛け違えみたいなものなんだけど。当人たちにとっては、容易にそれを直すことができないっていうか。


「あー、せめてアサリにしてくれよ。アサリバターなら、俺好物なんだよ!」


 うるっせぇ、この腐れソラニン! 黙ってシイタケ食いやがれ。他の二人を見習いなさい。ハルなんて食欲旺盛で……って、ハルもうその辺でストップ。これ有塩バター使ってるから。美味しいのは判るけど、これ以上は塩分が心配。ジャガイモ2号も、どこも見ていない眼で機械的に食べ続けるのやめて。なんか怖いから。


「ごちそうさま」


 ヒナがバタバタしている間に、フユはさっさと食べ終えて席を立ってしまった。ジャガイモ2号が顔を上げても、お構いなしに足早に教室の外に出ていってしまう。うわぁ、ジャガイモ2号、そんな切なそうな視線を送らないでよ。フユだって別に、ジャガイモ2号のこと、嫌いって訳じゃないんだから。

 ハルが他のみんなに悟られないようにして、ヒナの腕にそっと触れてきた。うん、大丈夫。ジャガイモ2号の気持ちも、フユの気持ちも、ヒナは両方とも判っている。



 昨日の夜、ヒナはカマンタからのSOSを受けて慌ててフユのところに駆けつけた。フユは今までに見たことがないくらいに取り乱して、わんわんと声を上げて泣いていた。和田君を傷付けてしまった。自分はヒナのようにはなれない。そう言ってヒナにしがみついて、図書室であったことを話してくれた。

 そんなことはない。ヒナはフユを優しく抱き締めた。確かにヒナとフユは違う人間だ。ヒナみたいになりたいと願っても、それはとてもではないが難しいことだと思う。

 でも、フユは今回とても良くやっていると思う。和田君の気持ちを知ってからは、あまりそれを読まないように努力している。それをどう受け止めるべきかを、真剣に考えている。『銀の鍵』を使っちゃえば、それこそなかったことになんて簡単にできてしまうだろうに。フユは普通の女の子であろうとして、必死になってもがいている。ヒナは、そんなフユが可愛いと思う。


 和田君の方は、ハルが電話で教えてくれた。フユに対する感情を自覚して、とても気にしていたということだ。ハルは和田君に、好きな人のことをどうしたら大事にできるのかと相談された。ヒナ的には、ハルがその問いかけに対してどう答えたのかは気になるところだ。とはいえ、目下の問題はフユと和田君について。残念。これは後でたっぷりと聞かせてもらうことにしよう。


 いずれにせよ、二人はお互いに少々憶病になってしまっている感じかな。フユも和田君も、なかなかに繊細だ。どちらも傷付きやすい内面を持っているからこそ、それを相手に与えてしまうことを恐れている。うん、実はお似合いな気もしてきたね。フユだって今まで図書委員として仲良くしていたのだし、相性は悪くないと思う。


 ただ、妙なこじれ方をしたまま放置しておくと面倒なことになりかねないので、ここはヒナの手助けが必要なんじゃないですかね。お任せください。親友と、愛するハルのお友達のために一肌脱ごうじゃありませんか。あ、ついでにハナも協力してくれるってさ。あの子、フユのためなら力になりたんだってさ。へぇ、ハナの奴、いつの間にそんなにフユに懐いたんだか。


「うぐぁああ、やっぱりシイタケはシイタケだぁ」


 うるせぇ。シイタケ食ったって死にはしないよ。むしろ今この場にいる男子たちに限れば、「シイタケを食べれる男はモテる」というジンクスすらできつつあるよ。ジャガイモ1号は、どこまでいってもジャガイモ1号だ。女はあきらめて、種芋を土に埋めて増えるんだな。




 朝倉に相談して、少しは心が軽くなった――と思う。曙川を通してそれとなく確認してくれて、因幡はそこまで気にしていない、という話だった。

 しかし昼休みには因幡の態度はぎこちないままで、シュンヤが何か声をかけようとしてい間にすぐにいなくなってしまった。あの場で追いかけるのも妙な感じなので、背中を見送ることしかできなかった。

 曙川や朝倉には、なんだか申し訳がない。協力してもらっても、シュンヤがこんな体たらくでは仲直りどころではないだろう。ああ、宮下は別にあれで良い。特にそういうのは期待していないから。そういえばシイタケのバターソテーは美味かった。こういう時、朝倉のことがちょっとだけうらやましくなる。曙川はいい奥さんになりそうだ。


 で、その朝倉から本を取り置いてくれと頼まれてしまった。本来は貸出禁止のものなので、それ自体はやぶさかではない。どこかの規則に緩い図書委員が独断でやったことだ。シュンヤか因幡がいれば、間違いなく許可しなかっただろう。


 そうだ――図書室には因幡がいるかもしれない。


 そう考えると、シュンヤは気が重くなってきた。因幡は、明らかにシュンヤを避けていた。シュンヤのせいで、因幡には気持ち悪い思いをさせてしまったのだろうか。悪いことをした。曙川には「何でもない」と言いつつも、因幡がシュンヤのことを意識していることは確かなのだ。シュンヤにはそれが苦しくてたまらなかった。


 やはりシュンヤのこの感情は、持っていてはいけないものなのかもしれない。シュンヤが誰かを好きになるなんて、間違っている。相手を傷付けて、自分自身も傷付いて。誰一人として、得をすることがないじゃないか。

 因幡のことを大事に想うのなら、シュンヤは黙って消えていくべきなのかもしれなかった。昨日の夜、朝倉から聞いた言葉が耳の奥でリフレインしていた。


「俺なら、まず謝る。話を聞いてもらう。きちんと誤解を解いていけば、きっと判ってもらえるさ」


 それは、朝倉だから言えることだ。シュンヤの言葉なんて、誰が耳を傾けてくれるだろうか。既に、因幡のことは傷付けてしまった。シュンヤがどんなに言い逃れを並べ立てようが、許されるはずなんてない。口を開けば開くほど、気持ちが悪いとさげすまれる。

 今までが、ずっとそうだった。それならば、これからだってそうだろう。シュンヤは言葉をつむぐことをやめた。シュンヤが何を言ったところで、心なんて伝わるはずがない。シュンヤがシュンヤである以上、それは回避不可能な事象なのだ。


 誰かと解り合える。そんなのは、妄想だ。他の誰かになら可能かもしれないが、少なくともシュンヤには縁がない。いや仮にそれが正確に伝わったとしたところで、結果に変わりはないと言い切れる。


 シュンヤなんて、そこにいること自体が忌避されるような存在でしかない。


 誰かがいる横に、おまけのようにくっつている。朝倉がいて、宮下がいて。そこについでに、シュンヤがいる。シュンヤ単体なら、いても良いという理由がない。小説なら、登場人物一覧にだって載っていない。モブ、とでも呼べば良いのか。シュンヤだけがいたところで、世界という物語には何ら意味を持たせられるものではない。

 何故なら、誰もシュンヤという存在を必要としないからだ。シュンヤにいてほしい。シュンヤであってほしい。そんなことを、一体全体どこの誰が願うというのか。シュンヤ本人だって、いてもいなくても同じとしか思わないのに。朝倉にだって、宮下にだって強い理由がある。


 でもシュンヤには――


 白くて細い指が、シュンヤの心を撫でた。どうしてだろう。この感覚が、とても心地好かった。因幡といると、不思議とシュンヤの心は安定した。


 触られることで、形を得る。自分が何者であるのかを、知ることができる。そんな考えが、ぼんやりと浮かんだ。


 因幡は、ひょっとしたらシュンヤの心を読めるのかもしれなかった。馬鹿げてはいるが、そう思えるような出来事が何度かあった。ひょっとしたら、波長が似ているのかもしれない。どこかの財団に保護されて、たった一人で暮らしている虚弱な女子高生。因幡という女子にかつて何があったのか、シュンヤは知りもしなかった。

 曙川辺りなら、恐らくは話したことがあるかもしれない。それを聞きたいかと問われれば、シュンヤは別にそうは思わなかった。因幡フユは、因幡フユだ。今この時、シュンヤと同じ時間、同じ場所を共有している彼女以外に……シュンヤが求めるものは何もなかった。


 因幡の左手に触れた時、シュンヤは身体中を何かが巡るのを感じた。今までに感じたことのない、ざわめきのような振動。頭の奥がしびれて、一瞬全ての思考がぶっ飛んだ。未来へと続く道がえた気がした。それこそ気が狂ったのかもしれない。因幡フユと手を繋いで、歩いていくシュンヤの姿が浮かんだ。空港のロビー。これから向かう先は、見知らぬ国の、見知らぬ土地。そこで二人は、新しい仕事を始める。世界を股にかけた、壮大なおせっかい――



「和田君」



 因幡の声がした。顔を上げると、図書カウンターの向こうに因幡がいた。知っている。因幡の目には、涙が浮かんでいた。

 それをしたのは、シュンヤだ。ぐっと奥歯を噛み締めて、シュンヤは前に踏み出した。もし、因幡フユがシュンヤの心を読むのだとしても……


 今だけは、それをしないでほしい。シュンヤは自分の言葉で、因幡に全てを伝えたい。例えそれで、こんなに大好きな因幡フユに嫌われてしまうのだとしても。




 陽射しが強い。天気は快晴。風も穏やかで、出発には最適の日和ひよりだと思う。シュンヤは窓の向こうに広がる光景を眺めて、きゅっと目を細めた。

 シュンヤたちの搭乗する飛行機は、丁度ウィングに接続したところだった。ここから十時間以上のフライトを経て、それからまた別の便に乗り換えて。現地からの情報によると、日本よりも数段暑いという話だ。気を引き締めておく必要がある。


「うん、大丈夫だから。気にしないで、そっちこそお大事にね」


 すぐ近くのソファで、フユが携帯の通話を打ち切った。女子の会話というのは、いくつになっても長いものだ。それはフユであっても変わらない。

 シュンヤに言わせれば、フユは自分で考えているほど特別な存在などではなかった。甘いものが好きだし、友達とのおしゃべりも好きだし。悲しければ涙を流して、嬉しければ笑う。そして何よりも――


「ごめんごめん、ヒナがどうしても見送りに来たかった、なんて言い出すからさ」

「無茶を言うなぁ、あいつも」


 シュンヤのことを、こんなにも大切に想ってくれる。シュンヤはフユの隣に腰を下ろすと、ぐいっとその肩を引き寄せた。フユは少し驚いた様子だったが、黙ってシュンヤの好きにさせてくれた。読んでいる――訳ではなさそうだ。シュンヤに対してそれはしないと、以前した約束をかたくなに守り続けていた。一途いちず、とでも言って褒めてやれば良いのだろうか。


「二人目だし、そこまで心配することはないと思っているんだけど……アラタくんのことがあったからね」

「あれは滅茶苦茶だったからな」


 シュンヤは思わず苦笑した。人類史上初、神に啖呵たんかを切って平手打ちを喰らわせた女性だ。あの時はシュンヤの周りも、蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。一歩間違えば掛け値なしに、この世の終わり間違いなしだった。全く曙川ヒナには驚かされてばっかりだ。いや、今は朝倉ヒナか。どっちでも良い。旦那のハルは、自分が世界の命運を救ったことなんて、毛の先ほども勘付いてはいないのだから。


「ねぇ、シュンヤ?」

「ん?」


 フユがシュンヤの顔をじっと見上げてきた。栄養の足りていなさそうなほっそりとした顔つきは、学生時代から相変わらずだった。とろんとした垂れ目に凝視されると、ちょっとだけ理性が飛びそうになる。判ってやっているのか、いないのか。天然の邪視じゃしだとでも思っておこう。


「やっぱり、そういう幸せも欲しかった?」


 フユのてのひらが、そっと自身の下腹部に触れていた。そうか、まだ気にしているのか。シュンヤはフユの肩に置いた手に力を入れた。その答えは、もう何度となく口にしている。シュンヤの意思に、変わりはなかった。


「言ったはずだ。俺たちには、俺たちの幸せがあるって」


 疑うのなら、心の中でも何でも覗いてみれば良い。シュンヤはフユをそうやって愛すると決めていた。

 フユとヒナは違う。ハルたちが掴んだ幸せは、確かに世間一般では祝福されるたぐいのものだろう。籍を入れて、二人で助け合って生活して。子宝に恵まれて。そういう人生こそが、誰もがあこがれる日向ひなたの世界だ。


「俺はちゃんと、フユを幸せにする。俺のやり方で、フユの望むような形で、な」


 寒い季節に生まれた子供。その名前の意味を知った時、シュンヤは決意した。ならば、温かく迎えてやろうと。シュンヤにはフユを受け止められるような力は、何もない。宮屋敷の言うことに従うだけの、しがない下っ端の魔法使いだ。

 でも、フユを抱き締めてやることはできる。そばにいてあげることはできる。あの口うるさい宮屋敷の女当主に逆らってまで、『銀の鍵』をめとると決めたのだ。その覚悟だけは、誰にも負けていないと断言しても良かった。


「ありがとう、シュンヤ」


 フユの髪から、甘く良い香りがした。昔も、こうしてフユのことを抱き締めたかった。下心とか、生理的欲求とか。そういうものとはちょっと違う。フユはそうしていなければ、すぐにでも倒れて崩れてしまいそうだと。シュンヤには、そう感じられたからだ。

 その印象は、『銀の鍵』であることを知った今も変わりはなかった。フユは特別な何かなどでは、決して有り得ない。


 とても弱くて、泣き虫な――普通の女の子だ。


「さあ、行こう」


 シュンヤは立ち上がると、手を差し伸べた。フユの左てのひらには、『銀の鍵』がある。だからなんだ。フユはシュンヤにとって、誰よりも大切な人だった。

 約束した。必ず守り通すと。寄り添っている限り、二人は一つ。数多くの魔法使いたちによって愛されて、大事に育てられたこの女性を。


 シュンヤは自らの、ただ一人の妻とした。




 砕け散った封印の扉の向こうには、白い人影が立っていた。コートも、シャツも、スラックスも。全部、白。そうそう、こういう人だった。何ものにも染まらない、『白』の魔法使い。いかついその顔つきからは想像もつかないくらいに、優しくて純粋な心を持った人だ。


 天羽あもうセイ。


 思い出せる。フユは自分の中に浮かんだその名前を、何度となく口の中で繰り返した。もう二度と、忘れない。あの地獄から、フユを助けてくれた恩人だ。セイがいてくれたから、フユは今ここで生きていられる。懐かしい記憶が、次から次へとフユの中に戻ってきた。


「封印を、解いたのね」


 セイの後ろから、もう一人の魔法使いが姿を現した。栗色の髪が揺れる。柔らかい笑顔を見て、フユは胸の中がいっぱいになった。良かった。ちゃんと思い出せた。セイと一緒に、フユに生きることの喜びを教えてくれた大切な人。


 たちばなユイ。


 フユのかけがえのない、魔法使いさん。


「ユイ、私、もう大丈夫だよ」


 苦しみも、悲しみも。何もかもを、フユは受け入れられる。どんなにつらくても、痛くても。フユがここにいることを望んでくれる人がいる。フユのことを、愛してくれる人がいる。抱きとめてくれる人がいるんだ。


 未来へと繋がる潮流アカシックレコードは、決まり切った道を示している訳ではない。これはあくまでも、可能性の一つにしか過ぎなかった。

 でも、充分だ。和田シュンヤは、フユと共に生涯をかけて歩く道を選んでくれるかもしれない。この学校で見付けた、三人目の魔法使いの素質を持つ者。まさかこんな近くにいたなんて。フユは驚くのと同時に、とても嬉しくなった。


 強い繋がり、絆を感じる。カマンタもうなずいた。因果が強い。そりゃあヒナとハルに比べれば、何だって大したことのないものにしか感じられないだろうけど。フユにとっては、最大級に太いパイプだった。

 恐らくは今後フユの運命がどんな流れになったとしても、和田シュンヤとはほとんどの道のりで交差することになる。魔法使いと禁忌の『銀の鍵』として、二人は出会い、お互いを認め合う。和田シュンヤはフユを『銀の鍵』ではなくて、因幡フユという一人の女性として扱ってくれる。フユの中にある痛みも、肉体に刻まれた傷跡も。全てを認めた上で、愛してくれる。


「そんなことって、あるんだね」

「フユは自分で思っているよりは、魅力的な女の子だと思うよ?」


 ユイの残留思念が、なかなかに恥ずかしい言葉を投げかけてきた。もしかして、フユが封印を解くのはこういう場合ケースなのだと予想していたのではなかろうか。ユイもあなどれない。ユイはくすり、と微笑むと隣に立つセイの腕をぎゅっと抱いた。そうそう、二人は恋仲だったんだっけ。

 ユイの中にある気持ちを何の気なしに読んで、ぽろりと口に出したら随分としかられたものだ。ユイもセイも、お互いについて思っていることを、少しも言葉にしようとはしなかった。なのに、ちゃんと判っているみたいなところもあって。実は二人は、『銀の鍵』なんじゃないかって考えたことすらあった。


「『銀の鍵』なんて、いらないんだよ?」


 ヒナも似たようなことを言っていた。本当に伝えたいことは、目を見るだけで判るって。ああ、その通りだと思う。フユも和田シュンヤと視線を合わせただけで、何となく理解できた気になった。


 不思議だ。今なら、全部を受け入れられるとすら思える。これは和田シュンヤのお陰。世界が反転する。ユイとセイが手を振っている。ばいばい、またね。思い出せたから、今度はきっと本人に会いにいけるよ。二人が幸せになれたかどうか、一度は確認しておかないとね。


 現実の時間なら、一秒にも満たなかった。まばたきして、息を吐いて、その程度だ。その間に――和田シュンヤは、フユと共に同じ光景を見ていたはずだった。




 図書室には、フユと和田シュンヤだけがいた。ハナが美作先生と結託して、何やら暗躍した結果らしい。図書室が使えなくて困った生徒もいただろうに。こういうのは「おせっかい」としては、やり過ぎの部類に入るんじゃないですかね? やれやれだ。

 貸出カウンターを挟んで、フユは和田シュンヤの手を握っていた。体温と、鼓動を感じる。それから、魔力の流れも。うん、間違いない。今一時的に、和田シュンヤは通過儀礼イニシエーションを経て魔法使いになった。フユは魔法使いじゃないので、これはあくまで仮の物。フユが見ているもの、聞いているもの、感じているものを、和田シュンヤにも受け取ってもらいたかったから。

 大丈夫だよ、シュンヤとこうして手を重ねているの、嫌じゃない。この前は、ちょっとびっくりしちゃっただけ。シュンヤの気持ちは、ちゃんと判ってる。それはついさっき、ここで見聞きした内容でもう理解できているよね?


「因幡、お前……」

「だから言ったでしょ? 私は和田君の考えているような、どんな女の子でもないって」


 変なの。そんなフユのことを、シュンヤはまだ好きみたいだ。判っているのかな? 人の心を読む、化け物なんだよ?


 フユは作られた『銀の鍵』なんだ。寒い季節に生まれたから、「フユ」。そんないい加減な名前だけを与えられて、他には何もなかった。空っぽだった。欲望を食い物にする『銀の鍵』を制御するためだけに、フユは悪い魔法使いたちの手によってそう造り上げられた。


 実験の結果、不完全な『銀の鍵』を宿したフユを助けてくれたのが、天羽セイ。

 フユを他の魔法使いたちからかくまって、育ててくれたのが、橘ユイ。


 宮屋敷は、この国で一番大きな魔法使いの組織。『銀の鍵』であるフユは禁断の存在であって、魔法使いたちは宮屋敷によって極力直接の接触を避けるように命令されている。今の当主はその辺りの融通が利く人なので、ユイやセイのやっていることを大目に見てくれていたし、今もフユの生活を全面的にバックアップしてくれている。

 とはいえ、怖い人たちであることには間違いがないんだ。シュンヤはそれに逆らってまで、フユと結婚するんだって。馬鹿だなぁ。宮屋敷に逆らう魔法使いなんて、フユはほとんど聞いたことがないよ。ありがとう。


「色々ありすぎて、良く判らないんだけどさ」


 そうだね。情報量過多だよね。シュンヤはついさっきまで、普通の男の子だったんだから。魔法使いとか、『銀の鍵』とか。あと、何でヒナの名前が出てくるのか、とか。判らないことだらけだと思う。


「その、それはつまり、俺の気持ちとかは全部、因幡には判っちゃってるってことか?」


 シュンヤは顔を赤面させてそう口にした。まさかの、そっちか。そんなのとっくだよ。フユは、化け物なんだよ? そんなのを好きになっちゃって、シュンヤも災難だね。

 なのに、全然気持ちが変わらないっていうのもまた変だ。フユのこと、ちっとも怖がらないんだね。手も繋いだままだ。気持ちが流れ込んでくる。うん、素敵だ。ヒナの言葉を借りるなら、愛を感じるよ。


「俺にとっては、因幡は弱い女の子だ。さっきのを全部視ても、それは同じだ」


 どこかの未来でも、シュンヤはそう言ってくれていたね。やっぱり、因果が強いんだ。フユとシュンヤは、そうなるように世界が望んでいる。


「心を読むとか、化け物とか。そんなのは関係ない。俺は……俺が、因幡を守るんだ!」


 ありがとう。


 シュンヤ、カッコいいよ。フユは本気で嬉しい。だけど、残念ながらその台詞はもう少しだけお預けにさせて欲しいの。


 本来なら、シュンヤは誰か他の魔法使いに出会って、師事して、そしてフユともう一度出会う運命にあるのね。今のこれは、ちょっとフライング。ズルチートなんだ。フユはシュンヤと、正しく出会って、正しく恋に落ちて。


 そして今度こそ、正しく告白されたい。『銀の鍵』なんか使わないで、一人の、普通の女の子として。


 フユとシュンヤの絆は強いから、きっと平気。また会いましょう。それまでしばらくは、シュンヤの知らないフユでいさせてください。


 そうそう。その時が来たら思い出せるように、これだけは伝えておくね。今と……そして未来のフユの気持ち。受け取ってください。



 ――好きです。




 『銀の鍵』を使えば、どんな結末だって思い通り。それはそうなんだけどさ。フユはこんなので良かったのかな。

 ジャガイモ2号とフユは、何事もなく仲直りして図書室から出てきた。フユはいつも通りニコニコしてるし、ジャガイモ2号はこっちも相変わらず「あうあうあー」な感じだし。なんかもうちょっとさぁ、ラブがあってもばちは当たらないと思うのよね。


「今は良いの、これで」


 さいですか。ナシュトに言わせると、ジャガイモ2号とフユの間には既に切っても切れないくらいの縁が完成されているんだって。もうどう足掻あがいてもくっついちゃうくらいの。ヒナとハルは、どうなんですかね? あ、やっぱ言わないで良い。それ、聞いたらアカンやつや。ヒナは自分の力だけでハルと結ばれてみせます。フユだって、そういうことだよね?


「良いなぁ、因幡先輩にも春が来て」


 ハナ、目ん玉かっぽじって良く見てみろよ。根菜だぜ? フユにとっては中身の方が大事なんだろうけどさ、そう簡単に妥協してしまっても面白くないじゃないか。仮に外見が根菜でも良いって言うのなら、ジャガイモ1号とかはどうよ? あ、いらない。そんなこと言ってさぁ、二人そろって売れ残ったらそれこそ笑いばな……


 ぐっは、ハナさん、物理はやめよう、物理は。仮にも上級生相手ですよ。この子手が早いよね。ヒナなんか弱っちいから、そんなことされたら泣いちゃうかもしれない。ハルー、助けて―。


 ふざけているヒナとハナを尻目に、フユは黙って和田君の背中を見送っていた。フユ曰く、当分の間、和田君の心は読まないのでおくのだそうだ。それはヒナも賛成だな。

 恋に近道はない。きっとそうしていた方が、楽しい未来が待っている気がするよ。


「そういえばさ、未来の和田君は、結構カッコよかったよ?」

「マジですか。じゃあ、宮下先輩にもワンチャンありますかね?」

「いや、それはないだろう」


 梅雨が明けて、夏が来る。フユの心も、綺麗に晴れ渡っていることだろう。



 ヒナたちの青春は、いつだって澄み切った水色だ。

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