フユの帳

第10話 コオリの魔女


 光がある。


 まずそう感じた。目を開ける。ああ、目が開いた。見える?見えている?

 黒くて、滑らかな光沢。つやつやとした輝き。なんだろう。焦点が、ゆっくりと絞られていく。

 岩肌だ。湿っているのか。その表面が光を反射しているんだ。


 きれい。


 しばらく見惚れていた。それから、音がしないことに気が付いた。音、耳から入る刺激。

 ごう、という低い響きがする。空気の反響。他には何も聞こえない。おかしい。昔はもっと色々聞こえていた気がする。


 昔?昔ってなんだろう。


 ようやく、自分が身体を横たえていることに気が付いた。身体?手と、足と、胴と。

 頭。


 感覚を探る。肩、腕、肘、掌、そして指。指先に意識を集中する。折り曲げる。

 ぴくり、と動く感じ。うん、動かせる。指がある。

 少しずつ、ほんの少しずつ身体の感触を取り戻していく。指を曲げる、掌を閉じて、開く。腕を持ち上げる。

 顔の前に、腕を持ってくる。白い掌。これが、自分の手。

 不思議だ。目の前にある、ほっそりとした、皮を剥いて湯がいた独活うどの芽のような、五本の指。これが、自分のもの。

 自分の意志で、曲げられる、動く。間違いなく、自分のもの。


 ゆっくりと身体を起こす。力を入れる。視界が持ち上がる。

 光が乱れる。光源は何処だろう。

 ごうごうという音。風があるのか。空気は何処から流れてくるのだろう。


 座り込んだ。足がある。足の上に、自分の身体がある。載っている。なんだろう。どうして、不安定に感じるのだろう。

 頭の中がはっきりとしない。どうしたんだろう。ぐらぐらする。

 首が、据わっていないのだろうか。左右に動かしてみる。暗い岩肌、出口のような大きな光、祠。


 祠?


 すぐ横に、小さな祠がしつらえてあった。木で組まれた、粗末な社。多分、自分でも入ることが出来ない、オコジョくらいしか棲家に出来なさそうな、狭くて窮屈な建物。

 脚に力を入れてみた。立てる。そのまま立ち上がる。視線が持ち上がって、高くなる。祠を見下ろすようになった。頭上の岩肌が近くなる。


 何の祠なんだろう。考えてみたが、判らなかった。そもそも、ここは何処なんだろう。出口らしき光の方を向いた。

 光。眩しい。大きな光。そうか、ここは洞穴ほらあななんだ。足元を見下ろす。黒い岩。乱雑に削り取られて、でこぼことしている。

 その上に立つ、細くて真っ白な脚。ふきのとうを思わせる、五本ずつの丸い指。

 これが、自分の脚。見たことがあるような、無いような。

 前に踏み出してみる。思ったように動いている。なら、紛れも無くこれは自分のものなのだろう。


 何故だろう、さっきから、自分の身体が良く判らない。思い通りに動かせるのに、自分のものではないみたい。仮初かりそめの作り物を、人形のように操っている感覚。


 出口。外には何があるんだろう。ここには、祠しかない。奥の方に目をやると、すぐに行き止まりになっていた。

 狭い横穴。自分は、ここで、何をしていたのだろう。


 脚を前に出す。身体を運ぶ。ちゃんと動かせている。自分のものだと感じる。

 それなのに、思うように動いていない。ぐらぐらする。操れていない。自分のものになっていない。


 光の中に顔を突っ込んだ。眩しい。真っ白な世界。色が無い。何一つ見えない。

 洞穴の外には何もないのだろうか。目が慣れてきて、それが間違いだと気が付いた。


 降り積もった雪。銀世界。どこまでも続く雪野原。目の前に広がる世界は、全て雪に覆われていた。

 空を見上げた。空も白い。薄い雲で覆われているのだろう。微かに太陽のある位置が判る。

 風が渡り、雪原の上を銀色の光が舞った。洞穴の中にも吹き込んで、粉雪がはらり、とこぼれる。これはきっと、寒いだろう。


 寒い?


 少しも寒くない。奇妙な違和感を覚えた。息を吐く。白い息が、見えない。強く吐き出してみた。

 何度も、何度も。

 苦しくなることも無い。せき込むことも無い。ただ、息を吐いているという感覚があるだけ。


 恐ろしくなって、その場に座り込んだ。地面の感触。ごつごつとした岩肌。冷たい?いや、冷たさを感じない。

 そこに床があるのは判る。だが、それだけだ。温度が無い。少なくとも、感じるはずの冷気は、何処にも無い。

 両掌を見下ろした。自分の手がそこにあるのは判る。両肩を抱いた。自分の身体がある。

 でも、温度が無い。体温が無い。ぬくもりも、冷たさも無い。


 ひぃ、と咽喉の奥から声が漏れた。なんだろう。これはなんなのだろう。

 自分は、どうしてしまったのだろう。ここにいるのに、間違いなくここにいるのに。

 ここにいる自分は、まるで自分ではない。身体が、身体ではない。自分の身体ではない。


 いや。


 そもそも、自分とは何者だ。誰だ。

 ここにいるのは、誰だ。

 頭の中がぐるぐるする。気を許せば、自分がそのまま空気の中に溶けて行ってしまいそうな、不確かな感じ。

 天を仰ぐ。自分は、自分は。


 洞穴の入り口に、小さなつららが垂れ下がっているのが見えた。氷のきらめき。

 その中に、うっすらと自分の姿が映っている気がした。


 タルヒ。


 不意に、その言葉が脳裏に浮かんだ。何を意味するのかは判らないが、心の奥底で強く響いた。


「タルヒ」


 口に出して呟いた。身体に力がみなぎる気がした。この言葉があれば、まだ自分は自分でいられる。タルヒ。唱える度に、頭の中が澄んでいく。


「私の名前は、タルヒ」


 そう言うと、すうっと落ち着きが戻ってきた。名前を得ることで、自分がしっかりと存在を得た気がした。

 タルヒ。それが自分の名前。


 タルヒはもう一度立ち上がると、洞穴の外の銀世界に目を凝らした。

 真っ白な世界は、何処までも続いていた。




 トンネルを抜けると、そこはマジで雪国だった。

 そういうのって文学的表現というか、映画やドラマの演出でしか存在しないと思っていた。でも、高速道路の長いトンネルを出ると、実際に一面の雪景色が広がっていて、思わず「わぁ」と声を出してしまった。

 それがヒナだけだったら大恥だったかもしれないけど、バスの中のみんなも一様に感嘆の声をあげていた。うん、すごいよね。後ろの席にいるハルの方に振り向いて、にっこりと笑う。ハルも微笑み返してくれる。

「雪国だな」

 そうだね。やって来たね、雪国。

 曙川あけがわヒナ、十五才。高校一年生。今日から、楽しいスキー教室です。


 学園祭で、ヒナのクラスは来場者アンケートで第一位、最優秀団体賞を獲得した。その副賞として、毎年恒例で行われているスキー教室への無料参加権を手に入れることが出来た。

 出来た、んだけど、まあちょっとケチ臭いことに人数制限があった。クラスで五名まで。まあ、仕方ないか。クラス全員が行くとなると相当な出費になっちゃうからね。

 スキー教室は人気のある行事で、自由参加形式になっている。希望者は申込日の当日、体育教官室に申込用紙を提出するのだが。

 これが先着順。早い者勝ちだということだった。

 徹夜で体育教官室の前に並ぶ者、場所取りの印として椅子を置いていく者、代理で並んで報酬を得る者。みんなどんだけスキーに行きたいんだ。学年問わずに参加出来るということもあって、毎年前日から血で血を洗うバトルが勃発しているということだった。

 まあ、熱意があるのは良いことだ。ヒナはスキーはそんなに得意でも無いし、ハルが行きたいなら、っていう程度の意欲だった。なので、申込日の朝もいつも通りに起きて、いつも通りにハルのお弁当を作って、いつも通りにハルと一緒に登校した。


 朝倉ハルは、十五才、高校一年生。ヒナの幼馴染で、両想いの恋人。同じ高校に入って、同じクラスになって、ハルから告白されて二人は彼氏彼女になった。ヒナがハルのお弁当を作ったり、二人だけで夜を過ごしたり、学園祭ではハルが彼氏宣言なんてしたり。もうすっかり通じ合った関係。ヒナは、ハルのことが好き。

 元々ハルと学校に行く時間は他の人よりもかなり早い。あまり人目に付かずに、二人で気兼ねなく並んで歩ける貴重な時間だからだ。最近は、ハルはその間ヒナの手を握るようになった。制服で手を繋いで登校って、それってどうなんだ。でもそうしたいんだって。うう、学校が見えてきたら離すんだよ?ヒナはまだそこまで吹っ切れないよ。

 ハルは中学まではバスケットボール部で、高校からはハンドボール部。本気の活動は中学までで挫折しちゃって、高校では言い方が悪いけどお遊び部活をしている。日焼けしにくいから色が白いけど、鍛えていて筋肉はしっかりしているし、最近は背も伸びて全体的にがっしりしてきた。男の人、って感じだ。

 寝癖みたいだった頭も、思い切って短くした。さっぱりしていて、今の髪型も悪くない。目が細くてちょっと垂れてる。良く見ると可愛い。ハルのことは昔から見てるから、ヒナに言わせちゃうとちょっと客観性が怪しい。ヒナはハルのことをカッコよくて素敵だと思っている。周囲の女子の評価は、悪くは無い、とのこと。ん?それって、良くも無いって言ってるよね?


 ヒナは中学までは雑に髪を縛っていたせいもあって、吊り目みたいになっちゃってて、正直可愛くなかった。あれは校則が悪い。実際高校に入って、髪をほどいて肩まで届くやわらかいウェーブにしたら、断然印象が変わった。目元だって、ひっつれてなくてぱっちりしたし。緩やかな鼻筋も、存在感のある唇も、ハルの彼女として恥ずかしくないレベルだ。

 実際、高校生のヒナにハルはときめいてしまったんだから。ヒナの真の姿を見て、ハルはお付き合いを申し込んできた。可愛いヒナを、誰かに渡したくないって。

 誰の所にもいきませんよ。ハルだけのヒナです。

 それでも不安なハルは、学園祭の時、ヒナは自分の彼女だってほぼ学年中の生徒の前で宣言した。このことは既に「水上結婚式」として学内の伝説になりつつある。うん、あまり詳細は語りたくない。思い出すと未だに赤面してしまう。

 言葉で好きって言っても、唇を重ねても、まだまだ不安になることってあるんだね。ハルがそれで安心してくれるなら、ヒナは何でもしてあげるよ。あ、でも学園祭みたいなのはもう真っ平だからね。出来ればもうちょっとソフトで、目立たないヤツが良い。


 ハルと手を繋いで学校に行くのって、やっぱり少々照れ臭い。ハルはヒナの手をぎゅって強く握ってきて、絶対に離さないつもりだし。もう、嬉しいんだけど困っちゃう。その日も仲良く学校までやって来た。校門の所で名残惜しく手を離して昇降口まで向かうと、クラスメイトのユマが待ち構えていた。あれ?ユマ?どうしたの?

「ああああ、二人とも遅いよ!」

 ユマは学園祭実行委員。ポニーテールにそばかす、名作劇場にでも出てきそうな感じの元気っ子だ。イベント好きということもあって、学園祭実行委員に立候補して大活躍していた。同時に、家庭科部、通称およめさんクラブの部員でもあったりして、中身は結構乙女だったりする。

 ユマがヒナに向かって色々とまくし立ててきたけど、何が何やらさっぱりだった。いや、ちょっと落ち着いて。ヒナとハルはそのままユマに手を引っ張られて、体育教官室まで走らされた。スキー教室?まあ、ダメならダメで別にそこまでの熱意は・・・

 結局、滑り込みでヒナとハルはスキー教室の申し込みを完了した。受付した体育の先生が笑ってた。えー、ユマ、なんでそんなに焦ってたの?

「だってみんなほとんど参加しないんだもん」

 あー、そうだね。事前に聞いてて知ってた。ヒナの友達のサユリとかサキとかチサトは、それぞれ用事があって不参加なんだ。よしよし、ヒナが一緒に行くから大丈夫だよ。楽しんでこようね。


 そんな訳で、今はスキー教室に向かう貸し切りバスの中。二学期は無事に、補習無しで定期テストをくぐり抜けた。冬休みに入ると同時に、学校に来た三台の観光バスに分乗してスキー場まで直行だ。出発の時に他の先生とか、部活で登校している生徒が手を振ってくれていた。なんかすごいね。行ってまいります。

 バスに乗り込んでからずっと、ユマはヒナの隣の席でぐったりと伸びている。ユマ、雪だよ、雪。

 後ろの席にはハルと、ハルの友達の宮下君がいる。ヒナはこいつをじゃがいも1号って呼ぶけどね。モテイベントに目が無い性格だから、このスキー教室にも当然のように参加している。困った奴だ。


「曙川さん元気ね」

 ユマ、ひょっとしてバスに弱い?ヒナもそんなに乗り物強い方じゃないけど、こういう時はむしろ動いて騒いだ方が気にならないよ。今もちょっと空元気でやっているところもある。

「いや、そうじゃないんだけど」

 ユマは昨日の夜遅くまで、今日行くスキー場やその周辺について色々と調べていたということだった。流石イベントの鬼。事前調査に手間を惜しまないな。

「ちょっと面白い話を見つけちゃってね」

 ユマが言うには、今日ヒナたちが泊まる宿には、座敷童ざしきわらしが出るらしい。

「それ、ホント?」

「正確には、宿の本館の方ね。私たちが泊まるのはスキー客用の別館だから」

 むぅ、なんだつまらない。でも、近くではあるんだよね。座敷童か。

 左掌をきゅっと握る。色々と不思議なものを見てはきたけど、座敷童は無いなぁ。厄介事じゃないなら、それはちょっと見てみたい気もする。ヒナも、そのくらいは心に余裕が出来てきた。

「ハル、座敷童だって」

 後ろの席を振り返って声をかける。ハルに話しかけたのに、にゅうって顔を出してきたのはじゃがいも1号だ。

「何、それって、女の子?」

 知らねーよ。

 どっちでもいいでしょ、可愛いければ。




 年月が流れて、タルヒは段々と事情が判って来た。


 まずは、自分のこと。

 祠の中に小さな丸い鏡があって、タルヒはそこに自分の姿を映して見ることが出来た。

 肩で切りそろえられた、禿かむろのような黒い髪。前髪も、眉の上で真っ直ぐになっている。手で触れると、さらさらと流れる。細くて、良い手触り。

 黒い大きな瞳。小さく膨らんだ鼻。薄い唇。丸みを帯びた顔の輪郭。そうか、女の子なんだ。タルヒは自分が女の子であると、その時初めて認識した。多分、十かそこらの年頃だろう。

 身体には、白い薄手の着物をまとっている。帯も白い。暑さも寒さも感じない。履物は無い。裸足でも、特に困ることは無い。やはり、冷たさを感じない。


 洞穴の中には、たまに人が訪れた。祠の周りを掃除し、何やら供物を置いて外に出ていく。タルヒがそこにいても、誰一人としてその存在に気が付くことは無かった。

 タルヒが声をかけても、何も聞こえていない。手で触れようとして、タルヒは驚いた。自分の手が、その他人の身体の中に潜り込む。ひっ、と悲鳴を上げて引っ込める。恐ろしくなって、タルヒはそれ以来他人に触れようとは思えなくなった。

 誰かに気付いてもらうことは出来なかった。人が訪れても、タルヒはぼんやりとその姿を見て、見送るようになった。


 祠の前にはお菓子が置かれることが多くて、タルヒは良くそれをつまんで食べた。別にお腹は空かなかったが、お菓子の甘さは判った。自分の中に何かが溜まる気がした。ただ、出るものは出ないようだった。


 タルヒは自分の正体について色々と思いを巡らせた。祠の横に立てられている高札に書かれた文言。訪れる人が時折口にする言葉。それらを総合すると、おのずと答えは出てきた。


 死人だ。タルヒは、ここで死んだ人間なのだ。


 古い昔、ここで大きな雪崩があった。雪崩は何もかもを飲み込んだ。集落も、畑も、そこにあった何もかもを。

 当時、この土地にはそれほど多くの住民は存在していなかった。運良く、人への被害はほとんど存在しなかった。たった一人の少女を除いては。

 雪崩によって、この洞穴の中に一人の少女が取り残された。出口を雪で封じられ、暗闇の中、少女は孤独なまま、寒さとひもじさに耐え切れずに息を引き取った。

 祠は、その少女の魂を慰めるために作られたのだという。なるほど、その少女が、タルヒなのか。

 タルヒは死んでいる。だから、生きている人間とは関わることが出来ない。

 お腹も空かない。眠くもならない。寒くも無い。暑くも無い。


 洞穴の外に、タルヒは何度か出てみた。

 雪の上に自分の足跡が残らない。不思議だった。触れようと思えば、触れることも出来る。なのに、意識しなければ、白い無垢な雪野原のまま、その上を駆け抜けることが出来る。最初はそれが可笑しくて、思いっきり走り回ったりした。

 寒さは感じない。吹き荒れる吹雪の中を、何事も無く歩くことも出来る。逆巻き、激しく舞い踊る雪を見て、タルヒはとても美しいと思った。


 洞穴からそれほど離れていないところに、大きな民家があった。宿坊のようだ。旅人達が出入りしている。楽しそうだと思って、タルヒは良く中にまで入り込んだ。

 知らない顔、知らない言葉がある。そんな中でも、タルヒの姿が見える者はいない。つまみ食いしたり、ちょっとしたいたずらをしたり。タルヒは退屈しなかった。

 大きな鏡があったので、自分の姿を映そうと試みたことがある。そこには、タルヒの姿は無かった。祠にある小さな丸い鏡だけが、タルヒの姿を見せてくれる。最初は不便だと感じたが、髪が伸びることも、衣服や身体が汚れることも無いので、次第に気にならなくなっていった。


 季節が移った時、タルヒは初めて自分の身体の異変に気が付いた。

 暖かい春の日差しが雪を溶かすようになると、タルヒは急に洞穴の外に出れなくなった。

 いや、出ようとすれば出ることは出来る。ただ、タルヒの身体は、陽の光に耐えられなかった。

 太陽の下にいると、ずるり、と親指がもげて地面に落ちる。そのままぽろぽろと全部の指が取れて、肘から先が崩れ去る。

 慌てて洞穴の中に戻ると、腕はすぐ元に戻った。痛みも、暑さも、何も感じない。ただ、身体がもたないのだ。


 冬が終わったら、次の冬まで、タルヒは洞穴から出ることが出来ない。

 ひんやりとした暗がりの中、祠に寄りかかって、タルヒは静かに目を閉じた。時間の扱い方が、少しずつ判ってきた。まどろんでいれば、あっという間に季節は巡る。冬以外の季節は、眠って過ごすようになった。

 春の暖かさも、夏の日差しも、秋の実りも、タルヒには縁の無いものだった。全てが冷たい雪に覆われた、冬。タルヒが洞穴の外に出て、世界に触れることが出来るのは、その間だけ。


 自分は氷で出来ているのだな。

 タルヒはそう考えることにした。暑さを感じるわけではないが、熱を浴びれば溶けてしまう。氷で出来た身体。自分で触れても、体温も何も感じない。本当に、作り物みたい。


 どうして自分はここにいるのだろう。そう考えたこともあったが、すぐに止めてしまった。存在に理由なんてない。人間だってそうだ。そこにいる意味を知っている人間なんて、誰もいない。

 偉そうに悟ったような答えを持ったが、これは宿坊に来ていた坊主の説教から得たものだった。冬の間、タルヒは夜になると欠かさず宿坊に通った。繁盛している様子で、いつも誰かしら客がいる。


 遠い何処かの話、知らない誰かの話。見ているだけで、聞いているだけで楽しくなる。タルヒの知らない、広い広い世界。

 洞穴から離れて、遠い何処かへ行ってみようかと思うこともあった。だが、どうしてもそれをしようという意志を持つことが出来なかった。タルヒの場所は、この洞穴だ。何故か、その想いが強かった。


 宿坊で遊ぶようになって数年が経って、誰かがタルヒの存在に気が付いたみたいだった。いつの間にか、宿の一角にタルヒの部屋が出来ていた。沢山の玩具と、お菓子と、綺麗な花が飾られていた。

 冬にだけ現れる座敷童。そんな噂が流れていた。宿坊が繁盛しているのは、タルヒのお陰でもあるようだった。

 お菓子も嬉しいけど、タルヒは旅人の話が聞きたかった。タルヒは自分のために用意された部屋にはあまり居つかなかった。

 このまま、楽しい時が過ごせればいいな。

 タルヒはそんなことを考えていた。




 宿に着いて荷物を降ろした。バスから外に出た途端、寒くて思わず身を縮ませる。うひゃあー。雪の上に足を降ろす。おお、この感触、雪だねぇ。こんなにいっぱい雪があるところに来るの、ヒナ、初めてかもしれない。

 まずは部屋に荷物を置いて、その後レンタル品のサイズ合わせということだった。朝早くに学校に集合して、到着したのは昼前だ。この後、午後はみっちりと初心者コースで鍛えられることになっている。あ、ハルは中級者コースなんだよね。一応曲がって止まることくらいは出来るとか。

 ん?ヒナはアレです、真っ直ぐ進むことだけ出来ます。自分の意思とは関係なく。


 別館の方が新しいってハナシだったけど、十分にオンボロだ。ホテルじゃないな。宿っていう表現がしっくりくる。綺麗なロビーとか、フロントとか、そういう洒落たものは存在しない。あ、でも囲炉裏と掘り炬燵があった。あれは後で堪能してみたい。

 ただし、ウチの学校の貸切って訳ではないから、他のお客さんの迷惑にはならないようにしないと。バスから降りた時点で、先生方に繰り返し注意された。なんでヒナの方ばっかり向いて言うんだ。失礼だな。


 寝泊まりする部屋も、ただの広い和室だった。ここに一年生女子二十名ほどが雑魚寝する。ぎゅうぎゅうだ。元々格安のスキー教室だけに、だいぶ切り詰めてやりくりしている。荷物を置いて確認するついでに、ヒナはナシュトに語りかけてみた。

 ナシュト?どう、座敷童っている?

 ヒナの横に、唐突に一人の男が現れた。背の高い筋肉質の男。銀色の長髪、浅黒い肌、半裸に豹の毛皮をまとったいでたち。燃えるような赤い瞳。この寒いのに半裸とか頭おかしいよね。っていうか、その毛皮姿、暑くても寒くても違和感あるんだけど。ヒナ以外の人たちにも是非見せてあげて、感想を伺いたいくらいだよ。


 ヒナの左手には、銀の鍵が埋め込まれている。昔、中学生の頃にお父さんがくれたものだ。お父さんは、この銀の鍵がどれだけ危ないものなのかは全然知らなかった。今でも知らない。この鍵の力を知っているのは、鍵の所有者であるヒナだけだ。

 おまじないグッズという触れこみのアクセサリだったが、銀の鍵は実際には幻夢境カダスとかいう、神様の住む世界への扉を開くものなのだそうだ。鍵の守護者であるナシュトは、鍵の契約者をカダスに導く試練を与える役割を担っている。なんだか壮大過ぎてチンプンカンプン。

 ヒナは別に神様に用は無いし、そこまでして叶えたい願いも無い。ハルと結ばれたいという夢はあったけど、それは神様にどうにかしてもらうものじゃない。いらない。だからそう言ったのに、鍵の契約は暴走してしまった。ヒナ、悪くないじゃん。

 結局、銀の鍵は中途半端にヒナの左掌に残された。ナシュトに至っては、ヒナと存在が一部同化してしまったという。嫁入り前の娘に何をするんだ。神様なら何やっても良いとか、そんな理屈は通らないだろう。


 人の心を読む銀の鍵の力は、正直扱いが難しい。これは思っているほど単純なものでは無い。色々あって、ヒナは積極的には周りの人の心を読むことはしないようにしている。まあ、たまには使うけどね。何事もほどほどにってこと。絶対に心を読まないって決めているのは、ハルだけ。ハルとの関係だけは、ヒナは自分の力で作って行く。そう決めてる。

 ヒナは、ハルのことが好きだからね。


「座敷童というものがどんなものかは判らぬが、何かがいることは確かなようだ」

 ヒナにしか聞こえない声で、ナシュトが語りかけてきた。おお、いるんだ。ぐるり、と部屋の中を見回した。押入れのふすま、擦りガラスの引き戸、なんか染みのある壁、板張りの天井。雰囲気だけはある。っていうか、やっぱりホテルとは言えないな。

 座敷童がいるって言われれば、このボロさも味だと思えるようになる。可愛い座敷童ならそれで良いが、オッサンの死霊だったりしたらかなり興ざめだ。そうではないことを願おう。


 部屋を出て、集合場所の玄関に向かった。ハルがいるので、手を振ってそちらに。横にあるじゃがいもは気にしない。じゃがいも1号は何かとこすいことを企むから、あんまり好きじゃない。ヒナは真っ直ぐな人の方が好きだな。

 レンタルスキーのお店が離れたところにあるので、そこまで歩いて行ってサイズ合わせなどをおこなうらしい。お昼ご飯はその後。結構な過密スケジュールだ。先生に続いて、生徒たちがぞろぞろと歩き出す。


 雪国はヒナには珍しい。道路の横に、ヒナの身長よりも高く雪が積んであってビックリする。足元も不安定で、気を付けていないとつるっと転びそうになる。あと、寒い。学校行事ということでみんなジャージ姿なのだが、こんなんじゃ全然防寒出来てない。

「今は曇ってるし、雪が降ってきたら死ねるな」

 体育の鼻毛先生が楽しそうにそんなことを言う。鼻毛先生はでっかい鼻の穴と、そこから飛び出た鼻毛があまりにもインパクトが強すぎて、他のあだ名が霞んでしまう中年男性だ。ヒナの中では本名ですら霞んでしまっていて、もう全く記憶に残っていない。呼び分けしないといけない状況に陥ったら、かなりのピンチかもしれない。

「さっさとウェアをレンタルしよう」

 ユマもぶるぶると震えている。上級者の人は自分のウェアやスキー板を持って来ているので、この間は宿でのんびりしている。いいな、ヒナも自分のウェアとか買おうかな。もっとも、一年のうち一回でも使えば良い方になってしまうだろうが。


 歩いていく途中で、宿の本館の前を通った。同じ宿だし、それほどの距離は無い。こっちはどれだけ立派なのだろうかと思ったが、似たような感じの古い宿だった。高級ホテルっておもむきじゃないのね。座敷童が似合うと言われれば、確かにそんなイメージか。

 ふと、誰かに見られている気がした。本館の宿の方。なんだろう、不思議な気配。濃密で、すごく存在感がある。似たような感覚を知っているような気がするんだけど。


 そこまで考えたところで、思いっきり足を滑らせた。

「うわぁ」

 情けない声をあげて引っ繰り返る。危うくお尻から地面に激突しそうになったが、ハルがギリギリで抱き留めてくれた。

「おっと、危ない」

「ハ、ハル、ありがと」

 ああびっくりした。のけぞった姿勢で、ハルのジャージの袖にしがみつく。なんかつるつる滑るから、うまく立ち上がれない。うー、ハル、ちょっと背中の方持ち上げて。

 じたばたしてたら、みんなに笑われてしまった。「ほら、いちゃついてんじゃねーぞ」鼻毛先生うるさい。好きでやってるんじゃないんですよ。セクハラです。

 よいしょって、ハルが抱き上げてくれた。あ、ありがとう。恥ずかしい。なんでこんなマンガみたいにずっこけるんだ。こういうのは本来じゃがいも1号の役目だろう。畜生、楽しそうに笑いやがって。


「ふふっ」


 小さな笑い声が聞こえた。子供の、女の子の声。

 ああ、やっぱりいるんだ。ちょっとでいいから姿を見せてくれないかな。

 そう思って辺りを見回したけど、ヒナにはその声の主を見つけることが出来なかった。




 まどろんでいたタルヒが、ふと目を覚ました。強い光が洞穴の中に射し込んで来ている。暑い。夏だろうか。

 この時期に起きるのは珍しい。何事も無ければ、タルヒの意識が戻るのは雪が降り始める頃だ。

 何かあったのだろうか、とタルヒは視線を巡らせた。


「わ」


 声がして、びっくりした。慌てて起き上がる。洞穴の奥の方に転がり込む。大して深くないし、隠れるような隙間も無い。その行為にどの程度意味があるのか判らない。

 恐る恐る振り返ってみると、祠の横に人影があった。

 小さい。大人ではない。祠よりも少し高い程度の身長。ざくざくに短く切られた髪。細い手足。真っ黒に日焼けした肌。

「お前、誰だ?」

 男の子だ。見慣れない感じ。いや、それより。


「あなた、私が判るの?」

 声を出すのもなんだか久しぶりだ。何年ぶりだろう。ちゃんと喋れているだろうか。男の子の顔をじっと見る。

 眉毛が濃くて太い。団子っ鼻。やんちゃな感じだな。野山を駆け巡っている印象。

「判る。お前、ひょっとして、座敷童か」

 そう言われると、なんだかちょっとムッとなった。確かにそうかもしれないけど、面と向かってそう言われるのは面白くない。イタズラばかりしている子供みたいだ。

「私はタルヒ」

 ぷいっと横を向く。言葉が交わせる。心の中がざわつく。不思議な感情が湧き上がってくる。

「そうか、俺はヒロト」

 ヒロト。その名前を、口に出さずに何度も繰り返す。初めてタルヒの姿を見て、タルヒに気付いてくれた。タルヒに声をかけてくれた。初めての人。

 そっとヒロトの方をうかがう。ヒロトは白い歯を見せて笑っていた。長い間忘れていた、夏の陽射しに似た笑顔だった。


 ヒロトは、夏休みの間だけ父親の実家があるこの辺りに来ているということだった。

 狭い洞穴の中、祠の後ろに並んで座った。生きている人とこうやって話すのは初めてだった。タルヒは胸が躍る気分だった。

「冬の間は座敷童がいるって聞いてたからさ」

 では、夏にはどうしているのだろうかと、ヒロトは探していたのだそうだ。

 宿の近くに洞穴があって、入り口に赤い鳥居が建てられていた。中を覗き込んでみたら、女の子が祠に寄りかかって眠っていた。

 この子が座敷童だろうと、ヒロトはすぐに確信したという。


「ヒロトは、私のことが見えるのね」

 もっと小さい頃から、ヒロトは不思議なものを見ることがあったのだという。他に人には見えない何か。だから、自分なら座敷童が見つけられると思って、宿の中や周辺を虱潰しらみつぶしにあたっていた。

「座敷童って言われても。私はそういうものじゃないよ」

 では何なのか、と訊かれても困ってしまう。タルヒ自身、自分が何者なのかは判らない。ただの死人。かつてここで死んだ女の子、というだけなのか。


「ヒロトには、私はどう見える?なんだと思う?」

 タルヒ以外にも、不思議な何かを見たことがあるというヒロトならば。タルヒのことが判るかもしれない。

 ヒロトはじっとタルヒのことを見て。

 にっ、て笑った。

「わかんねえ。女の子にしか見えない」

 女の子。ヒロトには、タルヒが普通の女の子に見えるのだろうか。

 タルヒは自分の身体を見下ろした。今日みたいな夏の日に外に出れば、どろどろに溶けてしまう自分。こんなタルヒが、普通の女の子な訳がない。

「ヒロト、私は普通じゃないんだよ」

 タルヒは自分のことを語った。恐らく、遠い昔に雪崩で死んだ人間であること。冬以外の日に外に出れば、溶けてしまうこと。宿には旅人の話を聞くために訪れていること。

 タルヒの話を、ヒロトは熱心に聞いてくれた。自分の言葉が届くのだと思うと、タルヒは饒舌じょうぜつになった。

 自分のことを知ってもらいたかった。自分が何者なのか判らない苦しみを、判って欲しかった。


 気が付くと、陽が落ち始めていた。ひぐらしの声が聞こえる。洞穴の入り口から差し込む光が、橙色に変わっていた。

「ヒロト、もう帰らないといけないんじゃない?」

 タルヒにそう言われるまで、ヒロトはその場を動こうとしなかった。かされても、なかなか立ち去る素振りを見せない。タルヒは困ってしまった。

「どうしたの?帰りたくないの?」

「タルヒは、どうするんだ?」

「私はここにいるわ。今までもそうだったし、他に行くところも無いもの」

「一人なのか?ずっと?」

 はっとして、タルヒはヒロトの顔を見た。気付いてしまった。


 タルヒは、一人ぼっちだった。

 ヒロトに指摘されるまで、そんなことは考えたことも無かった。この洞穴の中で、タルヒは独り。誰とも出会うことは無い。誰とも言葉を交わすことも無い。


 寂しい。


 感じたことの無かった気持ちが込み上げてきた。ヒロトがこのままここを去れば、タルヒはまた、一人ぼっち。祠の後ろで、そっと膝を抱いて眠りにつく。


「そうだよ、ヒロト」

 だから、どうだというのだろう。ずっとそうだった。気付いたからなんだというのだろう。

 タルヒは、そうしてきた。もう何年もの間、そんな時間を過ごしてきた。


「さようなら」

 外の光に触れないように、祠の後ろから手を振る。眩しい外の光の下で、ヒロトがこちらを振り向くのが判る。これでいい。

 楽しい時間だった。人とお喋りが出来るなんて。こんなこともあるんだ。


 でも、知らなければ良かったとも思った。むしろ知ってしまったからこそ、苦しくなる。愛しくなる。欲しくなる。

 ヒロトは普通の人間だ。タルヒと同じ時間を生きられる訳ではない。この洞穴を訪れる人間や、宿に勤める人間が年老いていく様を、タルヒは実際に見て解っている。

 どんなにヒロトが特別でも、タルヒのものには出来ないし。

 ヒロトは、タルヒよりも先に、老いて死ぬ。

 どうして一人なのだろう。タルヒは悲しくなった。せめてもう一人いてほしかった。タルヒと同じ時間を生きる仲間。タルヒと言葉を交わせる友人。タルヒに似た存在。


 陽が落ちて、洞穴の中は暗闇に包まれた。虫の声が聞こえる。タルヒは祠の横に座り込んで、自分の肩を抱いた。暖かくも冷たくも無い。陽の光で溶けてしまう、気持ち悪い身体。

 外の世界。空には星が輝いている。夏の夜空は、ゆらゆらとまたたいているように見える。冬と違って、光が気持ち柔らかい。タルヒは冬が好きだ。突き刺すような鋭い光を放つ星に囲まれている方が、なんだか落ち着く。

 夏の夜は、優しすぎる。

「ヒロト」

 声に出してみた。この声も、誰にも聞こえない。届くとすれば、それはヒロトだけだ。

 タルヒはうつむいた。白くて丸い膝が二つ。この足では、光の下を歩いていけない。ヒロトのいるところにはいけない。

 ぱたぱたと、何かが膝の上に落ちた。なんだろう、この感じ。良く見ようとしても、視界が濁っている。

 暖かい。

 どうして。そんなの、感じたことが無かった。これは何だろう。顔の周りに、何かがついている。

 掌で触れて、タルヒは初めて、それが自分の涙であることを知った。

「あああああ」

 喉の奥から声が漏れた。嗚咽。意思に反して、感情に任せて、身体の奥底から湧き出してくる。

「あああああ」

 涙が止まらない。ヒロト、あなたは酷い人間だ。タルヒに、孤独を教えた。寂しさを与えた。


 悲しみを、残した。


「ヒロト」

 眠りにつこう。時間を進めよう。

 ヒロトは夢を見せてくれた。素敵な夢だった。永い眠りの中で、ひととき訪れた幸せな幻。

 手に入らないものを想って嘆くのはやめよう。

 タルヒは目を閉じた。冬の空気を、空を、白い雪を待とう。大丈夫、また、同じ時間の繰り返しだ。


「ああ、良かった、いてくれた」

 どうして。

 タルヒが目を覚ましたのは、その翌日だった。良く晴れた暑い夏の午後。ヒロトが、洞穴を訪れてきた。

「これ、供え物」

 そう言って、差し出されたのは、三角に切られた西瓜すいかだった。赤い果肉を、タルヒはまじまじと見つめた。冬ばかりを過ごすタルヒには、珍しいものだった。

「どうして?」

 言葉に出して尋ねた。ヒロトはどっかりとその場に腰を下ろすと、その場に西瓜を置いた。一つを手にとって、かぶりつく。ぐしゅ、と果汁がこぼれる。

「うん、甘いよ。タルヒはあんまり食べたことないんじゃない?」

 こくりと頷いて、タルヒは西瓜を手に取った。瑞々しくて、ずっしりと重い。そして、冷たい。よく冷えている。

 三角の先端を、そっと口に含んだ。ふわっと、甘い香りが広がる。

「おいしい」

 思わず声が漏れた。顔を上げると、ヒロトが笑ってタルヒのことを見ていた。タルヒは恥ずかしくなって横を向いた。


「どうしてまた来たのよ」

「いや、話がしたいのかな、と思ってさ」

 昨日あの後、ヒロトは宿の人にこの祠について訊いたのだそうだ。タルヒの語った通り、ここでは昔、一人の少女が雪崩に遭って命を落としたのだという。

 この洞穴で昔死んだ少女が座敷童になっているのではないか。そんな話は、既に語り継がれていた。だから、この祠も丁寧にまつられている。タルヒの姿は見えなくても、その存在は皆の心の中にいた。

「タルヒは、多分神様なんだよ」

「神様?私が?」

 それは怪しいな、とタルヒは思った。タルヒには、神様らしいことなんて何も出来ない。ここにいるだけだ。

 冬の間だけ外に彷徨い出て。宿の中をうろうろして。ちょっと悪戯する程度。

 それで神様を名乗れるなら、安いものだ。

「ここに行くって言ったら、これを持ってけって」

 地元の信心深い人は、こうやってよくお供えをしてくれる。人や動物でなければ、タルヒは触れることが出来る。お腹は空かないが、こうやって供えられた食べ物を摂ると、少し元気が湧いてくる。

 込められた想いを食べている、ということになるのだろうか。

 ならば、やはりタルヒは神様なのか。何も出来ない神様。ここにいて、一人で膝を抱えている神様。変なの。


「タルヒ」

 ヒロトが声をかけてきた。足元には西瓜の皮がいくつも散らばっている。タルヒへのお供えだったはずなのに、遠慮が無い。

「なあに、ヒロト?」

 言葉が届く。胸の中が騒がしくなる。

 こうやって話が出来る。お互いの姿を見れる。

 一人じゃ、無くなる。

「話を、しようよ」

 どう言って良いのか判らない感じで、ヒロトは照れ臭そうだった。そんなヒロトの様子が、タルヒには可笑しかった。

「うん。お話ししよう」

 また一つ、初めての感情が、タルヒの中を満たしていく。

 嬉しい。楽しい。

 そして。

 愛しい。

 タルヒは、初めての笑顔を浮かべた。


 夏休みの間、ヒロトは毎日のようにタルヒの祠を訪れてくれた。

 タルヒはヒロトと色々なことを話した。

 自分のこと、旅人から聞いたこと、この土地で昔あったこと。

 冬のこと、真っ白な雪原のこと、樹氷のこと、風に舞ってキラキラと光る粉雪のこと。

 ヒロトも、タルヒに自分のことを話してくれた。

 この土地ではない、何処か遠くの街のこと。ヒロトの通う学校のこと。ヒロトの友達のこと。

 ヒロト自身も話にしか聞いたことの無い、遠い遠い外国のこと。海のこと。

 タルヒは毎日が楽しかった。ヒロトが来るのが待ち遠しかった。眠らずに、夜の星を数えて待つことすらあった。


 ヒロトがここにいるのは、夏休みの間だけ。

「また来年も、ここに来るよ」

 ヒロトはそう約束してくれた。

 夏が終わって、秋になればタルヒはまた眠りにつく。

 冬には目覚めて、ヒロトに聞かせるために山野を巡り、旅人の話に耳を傾けようと思った。

 春が来たら、夏を夢視て眠る。ヒロトにまた会える、夏。

 胸の奥が騒がしい。嬉しい。嬉しくて、弾けてしまいそう。

 また会えると思うだけで、タルヒの心は高鳴った。一人じゃない。そう、信じることが出来た。




 あいたたた。まだ身体のあちこちが痛い。とにかく転びまくったからなぁ。お風呂で痣が出来てないか、全身くまなく確認しちゃったよ。はぁ、恥ずかしい。

 物凄い勢いで滑ってきて、派手に転んで雪を巻き上げるものだから、ついたあだ名がサイドワインダー。ミサイルかよ。誘導して当たらないだけマシだってさ。あいたたた。


 晩御飯が終わって、お風呂に入って、ヒナを待っていたのはスーパー尋問タイムだった。曙川さん、朝倉君と付き合ってるんだよね?え、あ、うん。どんな感じ?何処まで進んでるの?

 はあ、ハルが学園祭でやらかしてくれたお陰で、もうすっかり学年イチ有名なカップルだよ。一年生女子部屋の話題の中心は、すっかりヒナだ。

 お惚気のろけ話は嫌いじゃないんだけどさ、なんというか、下世話げせわ関係はちょっとね。実際のところ、ハルとはそこまで進んでいる訳じゃない。ハルは、ヒナのことをすごく大事にしてくれている。


「クリスマスはどうしてたの?」

 クリスマスはね、ホリデーシーズンだからお父さんが出張から帰って来るんだよね。だから、毎年家族で過ごすんだ。まあ今年はハルの家族も一緒だったけど、ロマンス的な何かは無かったよ。家族にまで散々冷やかされたし。

 プレゼントも、そんなに色気のあるものでもない。ヒナは手袋をあげて、ハルからはブローチを貰った。ああ、こういう装飾品を貰うのは初めてだったから、ちょっと驚いたかな。それくらい。


「二人の時とか、どうしてるの?」

 実はあんまり二人っきりってないんだよね。ヒナには小学二年生の、シュウっていう弟がいる。ハルにも小学六年生の、カイっていう弟がいる。ヒナのお母さんはパートをしているけど、フルタイムって訳じゃない。ハルの家も似たようなもの。

 そんな状態だから、家だと必ず誰かしらがいてがちゃがちゃしてる。二人で良い雰囲気、なんてなかなか出来ない。幼馴染でお互いの勝手も知ってるし、あんまりそういうドキドキってないんだよなぁ。

 まあ、本当に二人っきりになることがあったら、そのチャンスは無駄にはしたくないかな。ははは。


 こんな感じのインタビュー攻勢を受けて、ヒナはもうふらふらだ。いつまでも終わりそうに無いので、トイレに行くふりをして部屋から逃げ出してきた。みんな何を期待しているんだろうね。もっと、ラブラブでいちゃいちゃな話が聞きたいのか。

 無い訳じゃないんだけど、それを誰彼構わず話すつもりはないかな。朝の登校の話とか、ヘタに噂になっちゃうと覗かれたりしそうじゃん。そんなのはお断り。ヒナの大事な蜂蜜タイムは、誰にも邪魔させません。

 実際には、ハルとの肉体関係は抱き締めあって、キスするところまで。ヒナはハルになら全部許しちゃうけど、ハルはぐっと我慢している。その時が来るまで、だって。それはいつだろう。ヒナは、別にいつでも良い。ハルが望む時が、きっとその時だ。


 ロビー、っていうか囲炉裏のところにやって来た。部屋の近くにいると、捕まってまた質問攻めにされて面倒だ。飲み物の自動販売機もあるし、ここで一休みしていこう。

 割高な値段を見て、どれを買おうか悩んでいると、ハルもやって来た。疲れたような顔をしている。大方男子部屋も似たような状況だったのだろう。彼氏宣言とかするからだ。自業自得。

「お疲れ様、ハル」

 声をかけると、ハルは片手を上げてみせた。声も出ないくらいやられましたか。ははは。

「好きなだけ自慢してくれば良いのに」

 ハルが望んで、自分からやったことだ。ヒナは静かにお付き合い出来ていればそれで良かった。ハルはヒナを、しっかりと独占しておきたいんだってさ。

「してきたよ。それで殺されかけたから逃げてきた」

 はいはい。それは大変でしたね。慰めてあげれば良いですか?

「ヒナが、そこにいてくれれば良い」

 ふふ。いるに決まってるでしょ。ヒナはハルのところから離れませんよ。安心してください、彼氏様。


 二人で並んで缶コーヒーを飲む。一般のお客さんもいるところだし、ここなら大騒ぎにはならないだろう。

 なんだかとっても静かだ。雪が音を吸収するから、外からの音が聞こえてこないんだって。壁にかかっている古い時計の針の音が、とても大きく聞こえる。素敵だな。二人で旅行とかだったら、最高なのにね。


「君たち、スキー旅行?」

 突然話しかけられた。一般のお客さんみたいだ。大学生?くらい?背の高い、若い男の人。ニコニコしている。

 真面目そうで、優しそうな感じ。ちょっと影がある。苦労してるなぁ、って、そんな第一印象。

「高校のスキー教室です」

 ハルが応えた。そうなんだ、いいね、とその人は人懐こい笑みを浮かべた。

「うるさくしてしまって申し訳ないです」

「いや、良いんだ。楽しそうだなぁ、と思って」

 男の人は、法事でここに来ているという。そういう用が無ければ、スキーやウィンタースポーツには良い場所だよね、と笑った。

「初めて来る土地なんだけど、何故かそんな気がしなくてね」

 複雑な事情があって、なかなかここに来ることが出来なかった、ということだった。今のシーズンだとスキー客ばっかりだと思っていたので、こんな人もいるんだなぁ、とヒナは少し不思議だった。


 少し不思議。

 うん、ちょっと不思議な感じがした。この男の人からは、微かに奇妙な気配がする。やっぱり何処かで感じたことがある。

「ごめんね、邪魔して」

 それだけ言って、その人は去っていった。その際に、ほんの少しだけ心の中を覗いて。

 またちょっと、不思議が増してしまった。どういうことなんだろう。




 ヒロトがタルヒの下を訪れるようになって、何度目かの夏が来た。

 約束通り、ヒロトは毎年夏になるとタルヒの祠にやって来た。

「タルヒ、久し振り」

 そう言って笑ってくれる。ヒロトの笑顔を見るのが、タルヒには何よりも嬉しかった。


 ヒロトのいない間にあったこと、冬の間にあったこと、話したいことはいつでも沢山あった。

 ヒロトの話も聞きたかった。タルヒの知らないこと。外の世界のこと。そして。

 ヒロト自身のこと。


 二年もすれば、タルヒは嫌でも気が付いてしまった。自分は、ヒロトのことを好いてしまっている。待ち焦がれる想いが、とても強くなってしまっている。

 言葉を交わせる相手がヒロトしかいないのだから、これは仕方の無いことかもしれない。ヒロト自身も、タルヒに会うためにここを訪れてくれている。

 欠かさずにいてくれていることが、タルヒの中に所有欲を生み出している。ヒロトに、ずっとここにいてほしい。ずっと、タルヒのそばにいてほしい。声を聞かせてほしい。タルヒの言葉を聞いてほしい。


 恐ろしいことだ。


 タルヒは自分の考えが怖かった。タルヒは死人だ。死人が生きている人間に焦がれ、その存在を独占したいだなんて。

 それは呪いだ。タルヒはヒロトに憑りついて、その命を喰らうものだ。生きている者の可能性を奪うものだ。


 夏が来ると、ヒロトは毎日のようにタルヒの所にやって来る。他の何処に行くでもない。朝から洞穴にやって来て、日が暮れるまでタルヒと話をしていることすらある。

 生きている者の目から見れば、これは魔性に魅入られているとしか言いようがない。

 ヒロトの姿を見ると、それが判っていても、タルヒは自分が抑えられなかった。たまらなく嬉しい。声を聴くだけで、言葉を交わすだけで、何もかもがどうでも良くなる。

 このままではいけない。

 タルヒの自分勝手な想いで、ヒロトの人生を壊してしまってはいけない。そもそもタルヒとヒロトでは、住んでいる世界が違う。会って話をすること自体が、本来ならばあってはならないことなのだ。



 ある年の冬の朝、タルヒは雪に覆われた山の頂から世界を眺めた。何処までも続く、白い世界。その果てには、タルヒの知らない、ヒロトのいる場所がある。

 そこは、タルヒがいて良い場所ではない。そして、それと同じように、ここはヒロトのいるべき場所ではない。

 たまたま何かの運命の悪戯で、タルヒとヒロトの世界は交わってしまった。出会って、お互いの姿を見て、声を聞いた。どうしてそんなことになってしまったのだろう。


 タルヒは、ヒロトを好いてしまった。ヒロトは、タルヒに何も無いことを知らしめてしまった。そして、タルヒに満たされることを教えてしまった。

 失くすことが怖いと、解らせてしまった。タルヒは、ヒロトがいなくなることが、たまらなく悲しい。出会ってしまったから、別れなければならないなんて。

 そんなの、勝手すぎる。そっちから訪れてきて、声をかけてきて。

 タルヒの心の中に居座って。

 でも、タルヒが望むままにしていては、いけないだなんて。


 また涙がこぼれた。嗚咽が漏れた。

 遥か遠くにいるヒロトに向かって、タルヒは叫んだ。この声は、ヒロトにしか聞こえない。届くはずはない。それでも。

「ヒロト」

 タルヒの世界の中心で、タルヒは自分の思いの丈を。

「私は、あなたにいてほしい。ずっと、ずっとそばにいてほしい」

 ただ、力いっぱい言葉にして吐き出した。



「蛍を観に行こう」


 ヒロトにそう言われて、タルヒは本当に久しぶりに、冬ではない季節に洞穴の外に出た。

 夏でも涼しい夜であれば、しばらくの間ならなんとか身体を保っていることが出来る。そのことをヒロトに話したことがあった。

 その日は朝から曇っていて、夕方に強い雨が降った。地面に残っている熱も少ない。陽が落ちると、空気がひんやりとしていた。外出の条件としては最適だった。


 懐中電灯を持ったヒロトが、洞穴まで迎えにやって来た。ヒロトと一緒に外に出る。それはとてもどきどきするのと同時に。

 タルヒをとても悲しい気落ちにさせた。

 暗闇の中、目に見えない少女を連れて歩く少年。まともではない。タルヒの存在は、やはりヒロトを良くない世界に引きずり込もうとしている。

 ヒロトはもう今年で十二才になる。最初に出会った頃よりも、背も伸びたし、少しだけ大人びてきた。タルヒを見る目に、熱が帯びていると感じられることもある。

 そろそろ潮時なのではなかろうか。

 ヒロトの気持ち、ヒロトの想いは嬉しい。しかし、それはヒロトを決して幸せになんかしない。夜道をヒロトについて歩きながら、タルヒはそんなことを考えていた。


 冷たい湧水が、小川になって流れている。タルヒは両足をその中に浸した。タルヒの身体が水の流れを遮ることは無い。温度だって感じない。これは気休め。熱がタルヒをどろどろにしてしまわないようにと、心の中で小さく祈る。

 誰もいない、夜の森の中。真っ暗で、虫の声がして、梢がざわめいて。せせらぎの規則正しい音がして。

 黄緑の小さな灯りが、ゆるり、と行き来する。

 淡いが力強い蛍の光を、タルヒはヒロトと共に眺めた。命。生きているものの光。タルヒには無い、確かな存在。

 世界に満ちているのは、生きているものだ。タルヒは、そこに紛れ込んだ異物。あってはならないあり方。タルヒだって、どうしてここでこうしているのかが判らない。

 タルヒの願いなんて、この世界の少数派の、たった一人の、小さなわがままに過ぎない。

 こんなタルヒに、ヒロトを付き合せる訳にはいかない。ヒロトは、生きているものの世界で、生きているものとだけ関わっていくべきなんだ。


「タルヒ、俺、ひょっとしたらもう、ここには来れないかもしれないんだ」


 ヒロトが何を言っているのか、タルヒには最初判らなかった。

 タルヒは今、ヒロトに別れを切り出そうとしていた。

 それなのに、ヒロトが、タルヒに別れを告げてきた。

 なんだろう。

 これは、なんだろう。

 熱ではない何かが、タルヒの身体を打ち砕いたようだった。胸のあたりを中心に、大きなひびが入った感じ。このまま、タルヒはここで崩れ落ちてしまうのかもしれない。

「ヒロト、どうしたの?」

 そう訊き返すのがやっとだった。

 ヒロトはぽつりぽつりと語り出した。


 毎年、ヒロとが夏になるとここを訪れていたのは、ヒロトの父親の実家があるからだ。夏休みの間、ヒロトは父親の実家に遊びに来ていた。

 その父親が、今度離婚することになった。ヒロトは恐らく母親の方に引き取られる。

 そうなれば、もうここを訪れることが出来なくなる、ということだった。

「俺は子供だから、自分だけで出来ないことが多すぎるんだ」

 ヒロトは悔しそうに言った。タルヒはじっとヒロトの言葉に耳を傾けていたが。

 ふっと、笑みを浮かべた。


「じゃあ、お別れだね」


 良かった。

 ヒロトに嫌われた訳では無かった。ヒロトには生きている人間としての事情があって。その事情に従って、タルヒと会うことが出来なくなる。

 それは、良いことだ。正しいことだ。


「タルヒ、そんなこと言うなよ」

 ヒロトは、タルヒのことを好きなんだね。嬉しいよ。タルヒに会いたいって、思ってくれるんだね。

 タルヒもヒロトのこと好きだよ。だからこそ、ヒロトとはお別れするべきなんだ。生きて、ヒロト。あなたの場所で。ここではない、あなたが生きて立つべき場所で。

「私は、ヒロトと一緒にいてはいけないんだよ」

「どうして?今までだって一緒だったじゃないか」

 今までが、おかしかったんだよ。タルヒのわがままだったんだよ。

 死んだ人間と、目に見えないものと、ヒロトは一緒に居ちゃいけないんだ。

 こうやって二人でいることが、ヒロトの人生をおかしくしている。狂わせている。人として、間違っている。

 タルヒのことなんて、考えちゃダメだ。ここで別れるべきだ。忘れるべきだ。

 子供の頃の、夏の日の思い出。

 ヒロト、タルヒはそれで良い。あなたに貰った大切なもの、沢山のもの。それを心に抱いて、これからもここにいる。タルヒの場所に、ずっといる。


「タルヒ、俺、必ずまたここに来る。約束する」

「そんな約束、しちゃダメだ。ヒロト、あなたはもうここに来てはいけない」

 もう会えない。もう会わない。

 嫌だ。つらい。苦しい。

 タルヒの身体が、バラバラになってしまいそう。

 熱が。タルヒの中にある熱が、タルヒ自身を溶かしてしまう。

 だから。

「ヒロト、今日でおしまい。今までありがとう。とても楽しかった」


 ここで、とばりを降ろそう。




 ハルのお弁当を作るいつもの習慣で、早朝に目を覚ましてしまった。この時期、外はまだ真っ暗だ。ガンガンに暖房をきかせているのに、ちょっと肌寒いくらい。せんべい布団のせいだろう。

 むっくりと起き上がると、ヒナは寝ている子を踏んづけないようにして、そろそろと出口に向かった。あ、外に行くならウェア着ていかないとか。荷物の方に方向転換。みんな寝相悪いな。あてて、筋肉痛で歩くのもつらい。あてててて。

 ユマが何やらむにゃむにゃ言っている。起こしちゃったかな、と思ったらまたすぐに静かになった。ふう、失礼しますよ。


 宿の外に出て一息ついた。おお、吐く息が白い。ごぉーって吹いて遊ぶ。うわぁ、そんなことしてたら体温が一気に下がった気がするよ。寒い、さっむい。真っ暗だと寒さもひとしおだ。もうちょっと待ってからでも良かったかな。

 とりあえず頑張って歩き出す。耳が痛い。千切れそう。せめてイヤーマフを持って来るべきだった。失敗したな。身体の方はスキーウェアで何とか。レンタルで驚異的にダサいという点は、この際目をつぶろう。命には代えられない。


 こんな時間だから誰ともすれ違わない。街灯と信号機の光だけが辺りを照らしている。曇っているのか、空には星すら出ていない。何もかもがじっとして、息をひそめている。

 足元の、ぎゅっ、という雪の感触が心地良い。寝ている間にまた少し降ったみたいだ。本当に雪ばかり。昨日、ゲレンデの上から見た光景を思い出す。何処までも続く銀世界。白に支配された世界。

 綺麗なんだけど、やっぱり何処か物寂しい。そこにあるものを隠している気がする。本当はあるのに、隙間なく覆って、見えなくしてしまっている。忘れよう、無かったことにしよう。そんな言葉が聞こえてくる。

 多分、この土地がそう言っているんだ。


 目的地まではそんなに距離は無かったと思ってたんだけど、結構時間がかかってしまった。いや、寒いと動きが鈍るよね。普通に歩いているつもりでも、知らずに身体を縮めていて、歩幅が短くなっていた。寒い。強烈。

 宿の本館。入り口から横に抜けて、裏の方へ。街灯の明かりがあるので、真っ暗ではない。降り積もった雪が光を照り返して、輝くスポットが点々と続いている。ヒナの息遣いと足音以外に、物音は何もない。暗闇と雪が、世界の全て。


 気配が濃密になってきた。やっぱりそうか。以前感じたことのある気配ととても似ていたので、もしかしたらと思っていた。座敷童って言われると、どうしても妖怪ってイメージがある。怪しい化け物がいるって思ってしまう。

 しかし、これはもう少し純粋なものだ。ヒナは、これとよく似た気配を持つものを知っている。もの、なんて言ったらばちが当てられそうだ。まあ、そこまで心が狭くは無いかな。何しろ神様だ。

 ヒナの家の近隣の神社に住まう土地神様。元々は人間で、女の子の姿をしている。ヒナとは最近になって関わり合いを持つようになって、銀の鍵関連のことを中心にあれこれと相談させてもらっている。会話自体が困難な他の神様と比べて、とても気さくで親しみやすい。今ではすっかり仲良しだ。

 この気配は、あの神様に良く似ている。恐らくは人によってまつられ、大切にされているのだろう。

 ユマから借りた観光ガイドに、宿の本館のことが載っていた。座敷童の噂に、座敷童の部屋。そして、宿の裏にある斜面、ぽっかりと開いた洞穴に設置された、小さな祠。


 積雪の中から、小さな赤い鳥居が飛び出しているのが見えた。ここだ。間違いない。ヒナはじっと目を凝らした。

 白い影が、ゆらり、と揺れた。

 見つけた。ちょっと安心した。予想通り、怖いものではなさそうだ。多分向こうの方がこちらを警戒している。ひらひら、とヒナは手を振ってみせた。

「はじめまして。曙川ヒナと言います」

 鳥居の中から、ゆっくりと小さな人影が歩み寄ってきた。白い着物。白い帯。子供だ。そんな恰好で寒くないのかと心配になってくる。艶々とした黒い禿かむろ頭。同じく真っ黒な、大きな瞳。十才位かな。女の子だ。

「あの、あなたは私が見えるんですか?」

 おずおずと問いかけてくる。ヒナは左掌を女の子に向かって開いてみせた。

「うん。私はちょっと特別なんだ」

 銀の鍵。目に見えないものの姿と、目に見えないものの声を聞かせてくれる。これのせいで、関わらなくても良いことに何度となく巻き込まれてきた。

 まあ、今日は良いや。可愛い女の子の神様、二人目ゲットだ。ありがたいありがたい。

 それに、ちょっと気になっていることもある。


「私は、タルヒと言います」

 洞穴の中で、タルヒはヒナに自分のことを話してくれた。冬以外の日の光の下で、どろどろに溶けてしまう存在。座敷童だ、神様だ、なんて言われても、何もすることが出来ない。冬の間、旅人の話を聞くために宿の中を散歩しているだけ。

「こうして私の姿をはっきりと見て、声を聞いてくれる人は珍しいです」

 そう言って浮かべたタルヒの笑顔は、どこか寂しげだった。何かを隠して、無理をしている顔。抜けるように白い肌は、降り積もった雪そのものだ。その下にはきっと、沢山のことを隠している。


 タルヒはよく喋った。普段人と話すことが無いからなのか、身の回りで起きた様々なことをヒナに話してくれた。それはそれでとても楽しくて、興味深いものではあったのだけど。

 残念ながら、ヒナが聞きたい話はなかなか出てこなかった。意図して口にしないでいるのだろう。無理に聞き出そうとするのは、少々忍びないが。

「ねえ、タルヒ?」

 意を決して、ヒナは訊いてみた。


「今日ここに私が来たのは、ひょっとして期待外れだった?」


 その問いかけに、タルヒは押し黙った。沈黙が、肯定を意味していた。

 やっぱりか。事情があるのだろう。タルヒの様子を見ていれば判る。ヒナはちょっと考えてから。

「聞かせてくれる?タルヒの話」

 タルヒは微かにうなずいて。

 ぽつり、ぽつりと語り出した。




 ヒロトと蛍を見た、次の年の夏。

 ヒロトは、タルヒのところに来なかった。例年のように目を覚まして、タルヒは祠の横に座っていた。暑い。洞穴の外では、大きな入道雲が伸びあがっている。青い空を眺めているだけで、身体が溶けてしまいそう。

 一日中、タルヒは外を見ていた。陽が昇り、蝉が騒ぎ、雲が流れ、夕立が地面を叩き、星空が浮かぶ。星の瞬きが蛍を思い出させて、ほろり、と涙がこぼれた。


 夏は、嫌いだ。

 思い出ばかりが出来てしまった。何を見ても、何を聞いても、ヒロトのことばかりだ。夏には、他に何も無い。夏は、ヒロトの季節。

 ヒロトがいなければ、誰もタルヒの言葉を聞くものはいない。タルヒの姿を見るものはいない。いてもいなくても変わらない。何のためにここにいるのか、判らなくなる。


 満たされていたんだ。

 どろどろに溶けてしまうこの身体が、ヒロトによって満たされていた。そう思うと、つらかった。

 どうしてヒロトを拒絶してしまったのだろう。また来てほしいと、何故そう言わなかったのだろう。そばにいてほしいって、お願いすれば良かったのに。


 気持ち悪い。

 自分が。陽射しの下を歩けない自分が。生きている人間の目に映らない自分が。言葉を交わすことの出来ない自分が。たまらなく気持ち悪い。

 一度、照りつける強い太陽の光の中に、全身を晒してみた。身体中が泡立って、ふつふつととろけていくのが判る。指が落ちる。腕がもげる。足が崩れる。このまま、何もかも消えてしまえと思った。

 気が付いたら、夜半を過ぎていた。ゆっくりと身体を起こす。腕も足もある。何もかも元通り。ただ、空気が生ぬるいせいか、少しぐずぐずしている感じがする。本当に、気持ち悪い。

 すでに死んでいるタルヒには、もう死ぬことも出来ない。許されていない。タルヒは何なのだろう。どうしてここにいるのだろう。理由なんて無いのかもしれない。でも。


 もう、タルヒはここにいたくなかった。消えてしまいたかった。



 冬が来た。結局、タルヒは夏から一睡もしていなかった。

 雪が積もり始めて、タルヒは洞穴の外に出た。白い世界。タルヒの世界。夏とは違って、何もかもがじっと息をひそめる、静寂の支配する世界。


 終わった。そう思った。ヒロトのいない夏を終えて、タルヒは元の世界に、元の場所に帰ってきた。

 思い起こせば、この静かな世界で、タルヒは一人でいたのだ。そう考えれば、何も悩むことは無い。楽しい夢を視ていた。そして、夢は覚めてしまった。仕方が無い。

 雪原の上を走る。ヒロトと蛍を見た小川は、雪の下に埋もれている。この時期は、もう何もかもが白一色だ。そこに何があったかなんて関係ない。

 タルヒの心にも、きっと雪が積もる。冬になれば、ヒロトのことだって忘れていられる。全部、雪に埋もれてしまう。


 夏が来なければ良い。昔のように、冬が終わったら眠りについてしまえば、夏なんて訪れない。

 タルヒの季節は、冬だ。冬だけがあれば良い。誰もいらない。何もいらない。こうやって、白銀の中でただ一人、世界を見つめていられれば、それでいい。


 本当に、それでいい。


 とぼとぼと、タルヒは洞穴の前に戻ってきた。夜になるのを待って、宿にある自分の部屋に行ってみよう。今夜はどんなお客がいるだろう。何か面白い話は聞けるだろうか。ヒロトに話すようなことがあるかな。

 そう考えて、胸が痛くなった。もう、ヒロトは来ない。ヒロトには会えない。何度自分に言い聞かせれば判るのか。

「タルヒ」

 死んでも幻聴があるのか。どうしてもヒロトの声が聴きたいのか。いよいよタルヒはおかしくなってしまったのか。

 洞穴の中に入り、祠の前に立って。

「タルヒ、久し振り」

 そこにいるヒロトの姿を見て。

「ヒロト」


 タルヒは、泣いた。ヒロトの前で初めて、涙を流した。



 ヒロトの両親は離婚し、ヒロトは母親に引き取られた。

 母親はすぐに再婚した。その再婚相手、新しい父親と、ヒロトは馴染めないでいた。

 家も引っ越した。学校も変わった。名字も変わった。何もかもが、今までと違った。

 子供であるヒロトに、逆らうことなど出来ない。言われるがままに全てを受け入れ、新しい生活を始めた。

 だが、何もかもが違和感でしかなかった。聞きなれない名字で呼ばれる。知らないクラスメイトたちに囲まれる。父親を名乗る男が家にいる。その家ですら、見知らぬ土地の見知らぬ建物。

 昔からの持ち物は、母親が全て捨ててしまった。ヒロトが、ヒロトであったものなど、もう何もない。ヒロトという自分ですら、もう何者であるのか、ヒロト自身にも判らない。


「だから、飛び出してきた。タルヒに会って、俺が、俺だって思い出したかった」

 ヒロトの話を聞いて、タルヒは嬉しかった。タルヒは、ヒロトの唯一の拠り所になっている。夏の日々を過ごしたタルヒが、ヒロトがヒロトであることの支えになっている。

 ヒロトが、タルヒを求めてくれている。タルヒを必要としてくれている。

 冬に、この季節に、ヒロトがタルヒの下を訪れてくれている。

 自分の中が、ヒロトで満たされていく。ヒロト。タルヒが、ヒロトを、あの夏の日のヒロトを思い出させるんだね。

 それなら。


「ヒロト、すぐにここから出ていきなさい」


 タルヒの声は、冷たい刃のようだった。

 一瞬何を言われたのか判らず、ヒロトは呆然とした。タルヒはそれ以上の言葉を発しなかった。黙って洞穴の出口を指し示した。


「タルヒ、どうして?」

 タルヒは応えなかった。ヒロトの方を見ようともしなかった。


 タルヒが、タルヒだけがヒロトの支えになるようなことは、あってはならない。

 タルヒは死者だ。この世のものでは無い。そんな存在が、生きている者であるヒロトの支えになど、なって良いはずがない。

 確かに今、ヒロトは苦しいかもしれない。沢山の変化の中で、押し潰されそうになっているかもしれない。

 過去の自分が全て否定されてしまう。確かにつらいだろう。でも、そこで過去に逃げたところで、何が得られるというのか。

 ヒロトは前に進まなければならない。立ち向かわなければならない。ヒロトがこれから生きていく世界がそこであるなら、ヒロトはどんなに苦しくてもその道を行かねばならない。

 タルヒは、ヒロトの過去だ。もうこの世にはいないものだ。

 ヒロトの未来を創るものでは無い。タルヒはここにいるだけだ。ヒロトに何かをしてあげられる訳ではない。ヒロトが生きていくことを、手助け出来る訳ではない。


「タルヒ」

 ヒロトはその場を動こうとしない。タルヒに、すがるような目を向けてくる。


「ヒロト、私は魔性だ。ヒロトの心を惑わせる魔性。魔女だ」

 タルヒを好きていてくれるヒロト。タルヒも、ヒロトのことが好きだよ。ヒロトに元気で生きていてほしい。


「私に惑わされるな。ヒロト、お前には生きるべき場所がある」

 ヒロトに必要とされて、タルヒは嬉しい。ここにいる意味があるって思えて、とても満たされる。暖かくなる。


「私の存在が、ヒロト、お前が今を生きる妨げになるというのなら」

 ヒロト、タルヒはヒロトの中に、思い出としていられれば、それで良かった。

 夏の日の思い出。二人で観た、蛍。二人で食べた、西瓜。二人で過ごした日々。

 忘れない。忘れてほしくない。


「お前の中から、私という存在を消そう」


 タルヒは、ヒロトの中にあるタルヒの記憶を凍らせた。夏の日の思い出を、全て。楽しかった日々。掛け替えのない、光り輝いていた毎日。

 そして意識の奥深くに、そっと沈めた。さようなら、ヒロト。思い出すことは無いかもしれないけど、タルヒはここにいるよ。ヒロトの中にも残ってる。残しておく。タルヒの未練。諦めきれない気持ち。


 少しして、何人かの人間がやって来て、倒れているヒロトを発見した。ちょっとした騒ぎになって、ヒロトは担ぎ出されていった。後には、静けさとタルヒだけが残された。

 タルヒは祠の横に座ると、無言で膝を抱いた。ヒロトが、無事に生きてくれますように。

 自分が神様なら、その願いを叶えられるようにと。

 心の中で、祈った。




 宿の大広間に集まって、わいわいと朝御飯だ。納豆、焼き鮭、味付け海苔、生卵、佃煮。白米に対して味付けの濃いおかずが多すぎる。ああ、やっぱりハルが早速おかわりしている。もう、塩分とか、炭水化物とかちゃんと考えないと。

 でもこの野沢菜は美味しいな。ポリポリ。お土産に買って行こうかな。漬け方のコツとか判るかな。ポリポリ。


 野沢菜をつまみながら、今朝方タルヒに聞いた話を反芻する。なるほど、そういうことだったのか。色々と腑には落ちた。

 さて、そうなったら後は、知ってしまった身としてどの程度のお節介を焼くべきか。困ったものだ。知らないでいればそれで済んだ話だったのに。

 今日は午前中はスキー講習の続き。午後は自由行動になっている。夕方にはバスに乗ってさようなら。強行軍だ。まとまった時間が取れるとすれば、自由行動の時なんだけど。

「午後はどうするの?やっぱり朝倉と二人?」

 ユマが寝ぼけまなこで訊いてくる。ユマ、大丈夫?ちゃんと寝た?まあ、今朝見た感じだとしっかりと睡眠は取っていたみたいだけどさ。

 そうなんだよねぇ。折角ハルと二人でお土産屋さんなり、洒落た喫茶店なりに行くチャンスでもあるんだよねぇ。おいしい焼きリンゴの店とかあるみたいだし。ユマともいい機会だから色々と見て回りたいし、ハルとも雪国デートしたいよなぁ。はぁ、時間はいくらあっても足りない。


 とはいえ、今後の寝覚めが悪くなっても困るんだよね。神様関係に恩は売っておいて損は無い。スキー旅行は毎年この宿に泊まるらしいし、なるべく高く売りつけておきましょう。

 そうと決めたら善は急げだ。今からならまだ間に合うかもしれない。出来ることは出来るうちに。

 あ、その前に野沢菜。多分この宿で漬けてるんだよね。すいませーん、これって小売してますか?




 冬が来る。目が覚める。祠の後ろで、ゆっくりと身を起こす。洞穴の外を見ると、世界は白く染められている。うん、いつも通りだ。安心する。


 ここ十年程で、この辺りはだいぶ賑やかになった。スキー場開発。山の木が沢山切られて、ゲレンデが造成された。風を切って滑るスキーヤーたちはなかなか優美だ。タルヒは良く彼らと並んで雪上を滑走した。

 人の世界の時間の流れは早い。目まぐるしく、世界のカタチそのものを作り替えていく。タルヒが永い眠りから目覚めるたびに、宿の数が増え、土産物屋が建ち、多くの人が訪れるようになった。

 タルヒの洞穴の前にある宿も、相変わらず繁盛しているようだ。タルヒの部屋もまだ用意されている。スキー客用の別館まで建てていた。別館の方はいつも若者たちで賑わっている。


 若者。スキー板やスノーボードを担いだ若い人間を見ると、タルヒは胸の奥が痛んだ。ヒロトは今どうしているだろうか。生きていれば、丁度これくらいの年の頃だろうか。

 生活には馴染めただろうか。新しい父親との関係はどうだろうか。友達は出来ただろうか。

 恋人は、出来ただろうか。

 考えても仕方無いことばかり考えてしまう。今更、何を思ったところでどうなるというのか。


 ヒロトは、もうここには帰って来ない。


 タルヒが自分でやったことだ。ヒロトはもう、タルヒのことを思い出すことは無い。

 この土地に来る理由も無い。

 もしヒロトが再びここを訪れることがあるとすれば。


 それは奇跡だ。


 団体客が来る時期なので、タルヒは宿の別館の方に顔を出してみた。大型バスから、大勢の高校生が降りてくる。毎年スキー教室でやってくる学校だ。がやがやと楽しそうにしている。ようこそ、いらっしゃいませ。

 荷物を部屋に置いて、レンタル店の方に移動する。これも例年通り。女の子が一人転びそうになる。こういうのも毎年必ず一人はいる。思わず吹き出してしまった。ごめんなさいね。


 月日は巡る。

 ヒロトがいなくても、時間は流れる。過ぎていく。

 ふと気が付けば、もうヒロトなんて死んでしまった後なんてこともあるだろう。

 それが正しい。あるべき姿。

 タルヒは、胸の中にあるヒロトの思い出だけがあれば良い。


 そう思っていたのに。


 見付けてしまった。

 別館の入り口に立つ、黒い人影。

 タルヒの心の中がざわめき立つ。

 どうして。


 奇跡なんていらない。

 タルヒはそんなことなんて望んでいない。

 忘れていたい。このまま、静かにここで過ごしたい。


 でもなんでだろう。


 とても、嬉しい。




「タルヒのこと、思い出しましたか?」

 朝のスキー講習の出発前、囲炉裏の所に顔を出したら、都合良く昨晩会った男の人がいた。ヒロトさん。かつて、タルヒが記憶を氷漬けにし、封印した、大切な人。

 昨日ヒロトさんの心の中を覗いた時、不思議な気配がした。タルヒに会って、その正体ははっきりとした。ヒロトさんの中には、タルヒによって封じられた思い出がある。タルヒと過ごした、幾つかの夏。

 ヒナはヒロトさんの中のそれを、全て元通りにした。銀の鍵で、タルヒへの想いを取り戻す。これはきっと、タルヒ自身の願いだ。そうでなければ、この想いを氷漬けのままここに残しておいたりなんてしない。


「キミは、タルヒを知ってるのか?」

 ヒロトさんはそう訊いてきた。でも、ヒナのことはこの際どうでも良い。ヒロトさんにとって大事なのは、タルヒのこと。今までずっと忘れていた、洞穴に住む寂しい女の子のこと。

 ヒロトさんはしばらく考え込んでいた。悩むことなんて何もない。今すぐタルヒの所に行けば良いのに。ヒナはそう思っていたんだけど。


「俺は、タルヒには会わないよ」


 それが、ヒロトさんの答えだった。タルヒがそこにいてくれているなら、それで良い。ヒロトさんはそう言って笑った。

 タルヒと会うことは、タルヒを悲しませることになるかもしれない。タルヒはヒロトさんと別れるために、大きな覚悟をしたはずだ。ここでヒロトさんがタルヒに会いに行ってしまえば、その意思を台無しにしてしまう。

 ヒロトさんは無事に生きている。タルヒも、ここにいる。それで良い。



 リフトの列に、ぼんやりと並ぶ。キンコーン、前の人に詰めてお並びください。ガイド音声がリピートされている。キンコーン。うるさい。


 結局時間が無くて、そのままスキー講習に来てしまった。それに、ヒロトさんを説得するというのもどうなのだろう。無理に二人を会わせてしまうのは、何かが違う気がする。

 タルヒは、きっとヒロトさんを待っている。いつかヒロトさんがタルヒのことを思い出して、会いに来てくれると、心の奥底では信じている。そうでなければ、凍らせた記憶をヒロトさんの中に残しておく理由が無い。

 ヒロトさんも、タルヒに会いたい気持ちはあるはずだ。失礼になるから、そこまで心の中は読んでいない。でも、ヒロトさんはタルヒに「会いたくない」とは一言も口にしなかった。それに、本当に会わないで良いと思っているなら、あんなに悲しそうには笑わない。


「ヒナ」

 声をかけられてハッとした。知らない間に、いっぱいリフトの順番を抜かされていた。横を見ると、ハルが隣に並んでいた。

「考え事?」

「うん、ごめん」

 そのまま二人で前に進んで、ペアリフトに乗った。がごん、って音がして、白銀の世界に飛び出す。冷たい風が頬に当たって痛い。空はどんよりと曇ってる。少しだけ、雪が降っている。タルヒは今頃、何をしているんだろう。


「ハル」

 ハルの腕を、ぎゅっと抱いた。ヒナには判らない。どうしたらいいんだろう。

 あの二人はあんなに会いたがっている。惹かれあっている。それなのに、お互いに会ってはいけないと考えている。

 何がいけないんだろう。タルヒの苦しみ。完全に理解出来る訳じゃないけど、推し測ることぐらいは出来る。人間と神様は違う。それは以前、土地神様からも聞いた。そこには越えられない、沢山の壁がある。


「ヒナ、悩んでる?」

 うん、ごめんね、ハル。ヒナはまた、余計なことに首を突っ込んじゃった。

 幸せになって欲しい人たちがいる。その人たちは、お互いのことをとても大切に想っている。それなのに、会ってはいけないって、そう考えているんだ。

 おかしいよね。会いたいのに、会えるのに、会ってはいけない。


 ヒナなら、どんなことをしてでもハルに会いに行くよ。だって、ハルはヒナの唯一の居場所なんだから。こうやってハルと一緒にいられるのが、一番の幸せなんだから。

 いてほしい。近くにいてほしい。


 たとえ触れられなくても、近くにはいてほしい。

 そこにいるって、確かにいるって感じたいんだ。


 ぐわん、と大きくリフトが揺れた。

 ビーっていう長いブザー音。風に煽られて、リフトがゆらゆらと振れる。誰かがリフトを降りるのに失敗したのだろう。宙吊りのまま、ハルと二人きり。山の斜面、静かな木々の合間。


「大丈夫だよ。すぐ動くから」

 うん。そうだね。

 すぐに動き出す。そう思う。


 だけど、ヒナはじっとしているのは好きじゃないんだ。




 曙川ヒナさん。不思議な人だった。タルヒの姿を見て、タルヒの声を聞くことが出来る、二人目の人。

 何でも知ってるみたいで、何でもお見通しって感じだった。タルヒなんかよりも、ずっと神様みたいだ。まあ、神様にしては、ちょっとあけすけな感じがするかな。


 期待外れ。

 確かにその通りだ。本当に申し訳ないことをしたと思う。そういう態度が表に出てしまっていたのか。人と言葉を交わすのが久し振りで、その加減が判らなかったのかもしれない。

 或いは。


 タルヒの言葉が届くのは、ヒロトだけだって思いたかったのかもしれない。


 昨日からずっと曇り空だ。ぱらぱらと雪も降っている。今日辺りはいっぱい積もるかもしれない。

 タルヒは洞穴の外に出た。雪景色。何処までも白い。タルヒの世界。

 何もない、タルヒそのものの世界。


 心がざわついている。

 理由は判っている。あるはずの無いことが起きているからだ。そんなこともあるんだ。事情を知った時は言葉を失った。

 自分でやったことなのに、それが破れてしまえば良いと願っている。起きてはいけないことを望んでいる。

 また、恐ろしいことを考えてしまっている。


 ああ、やっぱりだ。


 曙川ヒナさん、あなたは酷い人だ。

 今朝あなたにヒロトの話をした時、こうなるだろうって、理解はしていた。

 理解した上で、タルヒは話した。そう、心の底で望んでいたんだ。きっとあなたがこうしてくれるだろうって。


 あなたは、心を読むのでしたね。

 タルヒの想いなんて、きっと何もかも判っていたのですね。


 白い雪の上に、黒い染みが一つ。

 遥か奥底に封じ込めていたはずなのに、全てを突き破って顔を覗かせた。

 二度と会わないって決めたのに。二度と会えないって諦めてたのに。


「タルヒ」


 ヒロト。

 ヒロトが、タルヒの名前を呼んでいる。


 大きくなったね、ヒロト。初めて会った時は、タルヒと変わらなかったのに。

 もう大人だ。タルヒはヒロトの顔を見上げないといけない。

 嫌だなぁ。


 泣いてるの、判っちゃうじゃない。


「ただいま、タルヒ」


 ヒロトがタルヒに歩み寄ってくる。

 もう来てはいけないって言ったのに。思い出したら、ここに足を運んでしまったの?

 どうして。

 タルヒは、あなたを魅入ってしまう。愚かな氷の魔女。


「ヒロト、ダメだよ。私はあなたを惑わせるだけの、魔女なんだ」


 タルヒとヒロトは、交わってはいけないんだ。

 住むべき世界が違うんだ。

 こんな風に、想ってしまってはいけないんだ。

 二人の過ごす時間はこんなにも違う。

 ほら、ヒロトはもう大人になった。タルヒはあの時のまま。

 タルヒとヒロトは全然違う。何もかも。ありとあらゆるものが、異なっている。


「タルヒ、俺は」


 言わないで、ヒロト。

 それ以上何も言わないで。

 怖い。自分の中が熱くなっていくのが怖い。ヒロトへの想いが止まらなくなるのが怖い。

 一度、忘れようと思ったんだ。ヒロトには、ヒロトの住む世界で生きてほしかったんだ。


 タルヒのわがままなんて、聞かないでほしいんだ。


 雪が降ってくる。全てを覆い隠す雪。

 ヒロトとタルヒも、その下に埋もれさせて。世界の全てを白に染めて。


「タルヒがそこにいてくれれば、俺のことを待っていてくれれば、それでいい。そう思ってた」


 ならば、それで良かったじゃないですか。

 タルヒはここにいます。

 その想いを抱いて、そっとここから立ち去ってくれても良かった。

 これ以上、タルヒの心を惑わせないでください。

 タルヒは、ヒロトを惑わせて、ヒロトに惑わされる。愚かな魔女。


「タルヒ」


 ヒロト。


「ここで、きみに会いたかった。そばにいたいんだ、タルヒ」


 もうダメだ。

 タルヒの身体の中に熱がある。この熱が、タルヒを溶かしてしまいそう。いいよ。そのまま、溶けて消えてしまいたい。

 ああ、満たされる。

 タルヒの中が、ヒロトへの想いで。熱く、満たされていく。


 タルヒはヒロトに、生きていてほしい。

 生きて、タルヒのそばにいてほしい。


 タルヒはここにいるよ。ずっとここにいる。

 ここで、ヒロトのこと、待ってる。


 タルヒは、ヒロトにいてほしいのです。

 ヒロトが、タルヒにいてほしいと望むのと、同じように。


 おかえりなさい、ヒロト、タルヒの所に。

 おかえりなさい。


「おかえりなさい、ヒロト」




「やー、お待たせ。ごめんね」

「もう良いのか?」

 まあ、大丈夫でしょう。あの二人のお互いを想う気持ちは強いから、素直になれれば良いだけなんじゃないかな。


 午後の自由時間、ハルにお願いして一度宿まで引き返してきた。ヒロトさんはすぐに見つかった。囲炉裏の所で、ずっと考え込んでいた。やれやれ。

「タルヒが待ってます。会いたがって泣いています」

 たったこれだけ。ヒロトさんを動かすのに必要な言葉なんて、それだけで十分だ。後は二人の問題。多分うまくいくでしょう。


 それにしても、色々と偶然が重なったものだ。ヒロトさんの実父がお亡くなりになって、その法要が行われた。時同じくして、ヒナの学校のスキー教室があった。更に、ヒナとヒロトさんは同じ宿に泊まった。

 神様に言わせれば、これもえにしって奴なのかもね。タルヒはヒロトさんと再会する運命にあったんだよ。二人の出会いにはきっと意味があるんだと思う。そう信じている方が、きっと幸せだ。


 ハルは「ヒナが忘れ物をした」程度に思っているだろう。ごめんなさいね、おっちょこちょいで。

 雪がだいぶ強く降り出してきた。ああ、とりあえず何処かに入ろう。寒くて凍えちゃいそう。


 ふと、この雪を降らせているのは、タルヒなのではないかと思った。何も出来ないなんて言っていたけど、この土地一帯からはしっかりとタルヒの気配を感じる。

 タルヒと思われる女の子があの祠でまつられてから、この辺りで大きな雪崩は起きていないということだ。ユマの受け売りだけどね。きっと、タルヒはそういう神様なんだと思う。

 冬と、雪の神様。可愛くて素敵だ。


 近くのお土産屋さんの軒下に避難した。しかしすごい雪だ。視界を完全に覆い隠すほど。これは危なくて動けないな。ストーブが置いてあったので、その近くに寄らせてもらった。あったかーい。

 全てを雪に覆い隠して、タルヒは今頃何をしているんだろう。これはきっと、涙を隠しているんだろうな。或いは、身体の熱を冷ましているのか。良い方向にしか考えないよ。ヒナは、二人がうまく行くって信じてる。


「ねえ、ハル?」

 ハルはお土産のお菓子を選んでいる。「スキー場に行ってきました」系のヤツ。そういうタイプだと、安くて量がある方が良いよね。

「ハルは、もし私のことを忘れちゃったとして、それでも、私のことを見付けてくれる?」

 何言ってんだ、という顔でハルが見てきた。うん、ヒナも自分で何言ってるのかよく判らない。ちょっと訊いてみたかっただけなんだ。

 ふぅっとため息を一つ吐いて、ハルはヒナの頭の上に掌を乗せた。ハルの手、大きくなったな。ヒナの髪を触る。心地良い。優しく撫でてくれる。ハル、大好き。

「見付けるよ、必ず」

 ハルはそう断言した。ありがとう、ハル。


 小学三年生の時、ヒナは雨の中自転車で家出した。転んで、怪我をして、誰も見ていない場所で、一人で泣いていた。

 それを見付けてくれたのは、助けてくれたのは、ハルだ。あの時、ハルに背負われて、ヒナはハルに恋をした。ハルはヒナにとって、掛け替えのない人になった。

 ハルはいつでもヒナを探してくれる。見付けてくれる。ヒナの居場所になってくれる。


 そこに、いてくれる。


 外から、光が射した。

 雪が止んで、晴れ間が見えていた。眩しい太陽が、銀世界をきらきらと照らし出している。何もかもが輝いている。世界の全てが、そこにある全部が、光で出来ている。

 良かった。きっとうまく行ったんだ。

「タルヒ」

 ヒナは、思わずタルヒの名前を口にしていた。


「ん?つららがどうかしたか?」

 ハルが変なことを言った。つらら?えーっと、ヒナ、そんなこと言いましたっけ?

「いや、タルヒって、垂氷たるひだろ?つららのこと」

 おお、そんな意味だったんだ。知らなかった。ハル、物知りだね。意外。ちょっと見直した。

「親父の親戚がなんかそんな言い方してた。珍しいなって思って覚えてたんだ」

 ふうん、そうなんだ。


 タルヒ、素敵な氷の神様。また来年、ヒナはスキー教室に来るよ。タルヒに会いに来る。その時、今日あったことを聞かせてね。


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