第9話 ハルのヒナ

 曙川あけがわヒナ、十四才、中学三年生のバレンタイン。中学生活の最後に、特別な何かをしようって、少し前までは考えてた。小学校の卒業式の日に、告白しようとしてしなかったこともあったし、こういう後悔はもうしたくないって、そういう気持ちがあった。

 でも、正直どうしようかなって、まだ悩んでる。校則でぎゅって雑に縛った髪。そのせいでこめかみの辺りが痛いほど引っ張られて、吊り目みたいになっている。鏡で見ても、なんだか可愛くない。こんな子に告白されて、ハルは喜ぶかな。こんな子が幼馴染で、ハルは嬉しいかな。

 ヒナの好きな人。朝倉ハル、十四才。ヒナの幼馴染。知り合ってからは十年くらい、それ以上か。恋をしてからは、七年、かな。長いよね。少なくとも、短いとは思わない。

 ハルはバスケ部で精力的に活動しているスポーツマン。でも身長が足りなくて、レギュラー争いでは負けてしまった。寝癖みたいなぼさぼさの髪、細くてちょっと垂れた目。日焼けしにくい白い肌。目立たないけどしっかりと筋肉のついた手足。モテるってことは無いけど、ヒナから見ればハルはとても素敵だ。カッコいい。

 ヒナは、ハルのことが好き。隠してるつもりは無い。でも、はっきりとはさせてない。ヒナとハルのことを昔から知ってる人に言わせれば、見てるだけで判るんだそうだ。そうなんだ。そんなに判るものなんだ。ヒナは、ハルの気持ちを知りたい。ううん、きっとこうだって、判ってはいるんだ。判ってはいるんだけどね。

 はっきりと言葉にしてしまうと、その時点で全部ウソでしたって、突然消えてしまいそうな気がして、怖いんだ。

 こんなに好きなハル、今だってヒナに優しくしてくれるハル。ハルが、ヒナのことを好きじゃないなんて、そんなことあり得ないって、頭では判ってるんだ。

 あの時、修学旅行の夜、ヒナはハルの心を覗いてしまった。ハルの気持ちを見てしまった。ハルの中で、宝物のように輝いていた、ヒナの笑顔。

 ヒナには力がある。人の心を盗み見る力、銀の鍵。神様の世界に通じる扉を開く、神秘の道具。ヒナはいらないって言ったのに、銀の鍵は守護者であるナシュトと共に、ヒナの中に埋め込まれてしまった。左掌を意識するだけで、他人には見えない銀色の光が溢れだす。周りの誰かの思考が、心の声が、漏れ聞こえてくる。

 他人の自分勝手な妄想ばかり見せつけられて、世界に絶望していたヒナに、ハルは眩しい理想を示してくれた。性欲と自己満足ではなく、真っ直ぐな愛情と優しさをヒナに向けてくれていた。それがハルの気持ち。ヒナに対する、愛。

 だからこんな力、いらないって言ったんだ。ハルを疑って、純粋な想いを見せつけられて、ヒナはとてもみじめだった。ハルのことを信じて好きでい続けていれば、きっとそのまま手に入ったであろう素敵な未来。ヒナは、それをズルして覗き見してしまったんだ。馬鹿なヒナ。

 修学旅行の後から、ハルはヒナに優しく接してくれるようになった。多分、ハルの前で、ヒナが壊れたように泣いてしまったからだ。夏休みまではバスケ部の活動があったので、ハルの生活はどうしてもそっちが中心になってしまっていた。中学三年生の二学期は、受験勉強真っ最中。ハルとヒナは同じ高校を受けるので、ハルは一緒に勉強会をしようって声をかけてくれた。

 ヒナは勉強が苦手だ。ハルも同じ。学校の環境も、その時はあまり良いとは言えなかった。それでも、同じ高校に行こうって、ハルは励ましてくれた。ヒナも、ハルと同じ学校に行きたいって、頑張った。二人で、一生懸命勉強した。

 ヒナは、どうしても取り戻したかったんだ。ハルと同じ学校で、ハルと過ごす時間。ハルのことをちゃんと好きになって、ハルにちゃんと好きになってもらう。もうズルなんてしない。ヒナは、自分の力で未来を、ハルの気持ちを勝ち取ってみせる。

 高校受験は無事に終了した。四月からは、ハルとヒナは同じ高校に行く。それがはっきりした時は、心の底からほっとした。そうか、やっと始められるんだなって。ここから取り戻していくんだな、って。

 勉強会は、まだ続いている。お互いの家で宿題とか、予習とかをする感じ。受験のためという名目は失っていたけど、なんとなく、なあなあでやっている。それでいい。ハルと一緒にいる時間は大切にしたい。思えばこの数年、実に中途半端で無駄な時間を過ごしてきた。主に銀の鍵。こんなものに振り回されていたのかと思うと悲しくなってくる。

 ハルはまだ、ヒナのことを大切に想っていてくれてるかな。あんなにヒナのことを好きでいてくれたハルの気持ちを知ってしまって、ヒナは逆に不安になってしまった。ハルを絶望させてしまうかもしれない。ハルの中にある愛情を失ってしまうかもしれない。

 誰にも負けないくらい好きだって言ってたのに、ハルを疑ってしまうような愚かなヒナ。なまじ心の中なんて見てしまうから、こんなことになってしまうんだ。


 中学生最後のバレンタインは、ブラウニーを焼いた。ハルはあんまり甘いのを食べないから、ややビターで。その日の勉強会の場所はヒナの家になっていたので、丁度一段落した辺りにおやつで出そうかなと。外は寒い。ハルはこたつに潜ってミカンの皮を剥いている。それ、もう五個目だよね。

「ハル、おやつ持ってきたから」

「お、おお」

 ミカンいっぱい食べちゃって、ちゃんとこっちも食べてくれるかな。ブラウニーを見て、ハルが照れたみたいに笑った。

「チョコの匂いがしてたから、こういうのかなって、思ってた」

 うん、そうだよ。毎年欠かさずあげてるし、わかってるでしょ。

「バレンタインだからね。後で包んであげるから、カイにも持っていってあげて」

 カイはハルの弟。今は小学五年生。バレンタインのチョコは、ハルにだけ渡すと色々と角が立ちそうなので、カイにも渡すようにしている。ハルの家とは家族ぐるみの付き合いだからね。将来のことを考えるなら、マメであるに越したことはない。

「気ィ使わせて悪いな」

 その代わり、義理度が増しちゃってる感じだ。ハルにだけ特別って、それはちょっとあからさま過ぎてどうなんだろうって、躊躇していた。

 今までは。

「あと、これ」

 ピンクの紙で可愛くラッピングしてある。見た目も大事な要素だ。一目で本命だって判ってもらいたい。家族付き合いの、幼馴染の義理だなんて、思ってほしくない。これはヒナの、ずっとずっと想い続けてきた気持ちなんだ。

「これは、ハルに」

 ハルの手を取って、握らせる。ヒナの弟のシュウが、おやつの匂いを嗅ぎつけてやって来るに違いない。さっさと渡して、ハルには今すぐ隠すなり食べるなりしてほしい。意地汚い弟だからな。

「気持ち、だから」

 何て言って良いか判らなかったので、それだけ言った。賄賂みたいだな、って思って自分で情けなくなった。他にどうとでも言い様はあるだろうに。ヒナ、何やってんだ。

「あ、ありがとう」

 ハルには伝わったかな。どきどきする。中身は手作り。最初はハート型にしようかとも思ったんだけど、それはあまりにもあざといので、普通に丸くした。メッセージカードも付けた。「一緒の高校、楽しみだね」って。告白まではしない。そういうのは、面と向かってしっかりと伝えるべきだ。

 今なら、言えるかな。ヒナから伝えてしまっても良いかな。今日はバレンタインだし、そういう日だ。中学生活、ハルとは微妙な距離のままで、おかしなことばっかりで、ちっとも進展しなかった。最後に一つ、良い思い出を作って終われるかな。

「ハル、あのね」

 消えてしまわないよね、ハル?ハルの気持ちは、今でもヒナの方を向いてくれているよね?

「チョコの匂いがするー!」

 どたどたという足音。おう、マイリトルブラザー。やってくれたよブラザー。

 小学校一年生のシュウはしゃべる動物だ。食べて暴れて寝る。シンプルで判りやすいけど、その分対処を誤れば始末に負えない。食べ物の匂いを嗅ぎつけてやって来てしまった以上、ここはもう匂いの元を差し出す以外に道は無いだろう。

「バレンタインでチョコケーキ焼いたから、シュウも食べな」

 残念。今日はここまでって感じだ。良い雰囲気だったんだけど、ヒナの家でロマンスなんて期待する方がおかしい。今までだってそう。シュウやらお母さんやらが常にいて、二人っきりの時間なんて作れた試しがない。ハルの家だって似たようなものだ。弟のカイがいて、ハルのお母さんがいる。ヒナの家ほどじゃないとはいえ、十分に賑やかだ。

 シュウがむしゃむしゃとブラウニーを食べ散らかす。ああ、ぼろぼろこぼして。ハルも楽しそうにしてる。まあいいか。これはこれで、良い思い出だよね。ハルと一緒に過ごすバレンタイン。四月からも同じ学校に行けるっていう、スペシャルなおまけ付き。

 さっきハルに渡したチョコは、ああ、ちゃんとしまってくれたね。シュウに見つかると面倒なことになりそうだ。色恋以前に、食わせろってうるさいんだよなぁ。一応昨日試食させといたし、そこまで騒ぐことはないと思うんだけどさ。

「あー、そういえばさ、ヒナ」

 ハルはブラウニーを食べ終えて、またミカンを剥き始めてる。良く食べるね。男の子だから?

「何?」

「卒業制作って、どうした?」

 その話か。思わずため息が出る。なんだかね。こんなことで大騒ぎするなんて、みんなどうかしているよ。

「もう決めた。もう出した」

 みんな何がしたいんだかサッパリだ。卒業制作をボイコットしたり、嫌がらせみたいな作品を提出して、一体何になるんだ。ヒナは確かにこの中学は好きじゃない。ロクな学校じゃないとまで思う。でも、それとこれとは筋違いだ。

 少なくとも三年間、ヒナはこの学校にいた。なら、その証を残しておきたいじゃない。そう考えたら、やるべきことはすぐに決まった。悩むことなんて何もない。

「早いな」

「ハルは?」

「いや、決まったんだけどさ、ちょっと難しくて」

 ふーん。難しいんだ。それで判っちゃった。ごめんね、難しくて。

 とりあえず知らん顔しておく。ヒナの方もそうなんだけど、どうせ見れば判るよね。お互いにクスクスと笑う。やっぱりか。

 卒業制作に関連して、ヒナの学年は今大荒れの真っ最中だ。そこかしこで揉め事が噴出している。通称「学年ビックバン」。宇宙の始まりかぁ。卒業の目前になって創世とか、深いよね。名づけた人は、そんなことは考えてもいないと思うけど。

 そんなネガティブなビッグウェーブに乗るつもりはさらさら無いので、ヒナは完全にそれを無視していた。関わらない、というのは難しかったので、しっかりと自分で判断して、自分の意見を通すようにしていた。馬鹿馬鹿しい。今更何を言ってるんだ。

 ハルの方も同じスタンスだ。二人ともクラスは違うけど、立ち位置は一緒。我関せず、だ。自分で正しいと思うことをする。それしかない。

 何しろ名物がいじめぐらいしか無い学校だからね。卒業制作にいじめまんじゅうでも作れば良いって意見もあったくらいだ。良く売れそうだ。シュウがむしゃむしゃ食べるだろう。

 学校のせいでもあるし、生徒のせいでもある。それがお互いに責任をなすりつけあっているのが現在の状態。進路が決まった三年生はもう内申とかでヘコヘコしなくて良いからね。卒業制作が良い引き金になったんでしょう。学校側もどこまでも隠蔽体質だから、どうしても強く出てこれない。無茶苦茶だ。

「卒業式、ちゃんと出来るのかなぁ」

「そっちの方が心配だな」

 ホントだよ。みんな好き勝手に騒いでる感じ。中学生活最後のガス抜きなのかね。溜まり過ぎだ。

 あと一ヶ月半ってところか。ハルと過ごす、中学生の日々。最後の最後で、こうやって素敵な時間を手に入れることが出来た。可能なら、このまま走り切ってしまいたい。

 そして、その先にはもっと素敵な、きらきらしてる高校生活があるって信じたい。



「ヒナさん、好きです。俺と付き合ってください。お願いします」


 えーっと、ごめん、ちょと待って。状況についていけてない。

 冷静だとは思うんだ。頭は回ってる。オーケー。曙川ヒナ、十五才、高校一年生。ダイジョウブ。

 高校に入って、髪をほどいて、肩までのふんわりとしたウェーブになった。目もパッチリとしたし、スカートも短くした。拘束具が外されて、失われていた真の力を取り戻した。的な。

 幼馴染の朝倉ハルも、ヒナと同じ高校に入った。ヒナはハルに告白されて、彼氏彼女になりました。オーイエス。

 ハルは真のヒナ、シンヒナを見て危機感を抱いた。こんな可愛くて素敵な幼馴染を、他の男に取られてたまるものか。だったら俺の彼女にしてしまおう。ん?嘘は言ってないよ、誇張はあるかもだけど。

 うん、彼氏いるよな。ヒナはフリーじゃないのです。えーっと、そこからか。あれ、そこから説明が必要なのか?

 ちょっと時間を巻き戻そう。


 楽しい高校一年生の学園祭が終わりを告げた。後夜祭でハルとダンスして、打ち上げでクラスのみんなとケーキバイキングに行って。その後ちっとも楽しくない中間テストがあった。

 十月も半ばを超えて、いよいよ終わろうとしている。残暑なんて言葉も、もう聞かれなくなってきた頃だ。そうそう、ハルの弟、カイに呼び出されたんだった。

「すいません、ヒナ姉さん。折り入ってお願いがあるのですが」

 カイから電話があるということ自体が珍しいのに、こんなお願いごとをされるとか更に珍しい。いや、別にヒナ、そんなに怖くないでしょう?古い付き合いだし、お兄さんのハルとは男女交際もさせてもらってる訳だし。カイの方も気軽に電話とか、相談とかしてくれていいからね。カイも大事なヒナの弟だよ。

 で、どんな話かと思ったら、中学校まで来てほしいとのことだった。なんだろう。まあカイがおかしなことをするとか考えられないし、ヒナはほいほいと出かけていった。日曜日の午後、ハルは友人のいもたちと山登りだそうだ。まだ紅葉には少し早いけど、なかなか楽しいんじゃないですかね。ヒナはパス。足痛くなりそうだし、男子四人の集団の中に女子一人は正直キツイわ。

 中学校、夏休みにも一回校門の所までは来たなぁ。卒業したら二度と来ることは無いだろう、とか思っていたけど、そんなことは全然無かったね。懐かしの母校は、相変わらずそこにあった。中学なんてロクな思い出がない。ああでも、来年にはカイが通うことになるんだから、今はまともであってくれることを願うばかりだ。

 その辺絡みの話かなぁ、と悩んでいたけど、どうもそうではなかったみたい。校門の前には、カイともう一人男の子がいた。懐かしの制服。この中学の生徒ってことは後輩か。スポーツ少年って感じ。背丈もカイと同じくらい。ああ、なんかどっかで見たことあるぞ?何処だっけ?

副嶋そえじまタク先輩です。サッカークラブの先輩で、この前学園祭で一緒に見学させていただきました」

 そうだそうだ。カイと一緒に来てたね。その節はどうも。ペットボトルボート、すごかったでしょ?お陰様で最優秀団体賞もらったんだよ。ちょっと自慢。

「ハル兄さんに聞きました。おめでとうございます」

 ありがとう。って、そんなハナシはどうでもいいか。えーっと、ヒナにどんなご用件でしょう?なんだかそちらのタク?くんがミョーに固くなってる気がするんですが。

 カイとタクが顔を見合わせて、こくりとうなずいた。お、なんだそれ。「すいません、ちょっと外しますね」そう言ってカイはさっさと何処かに行ってしまった。え、ちょっとどういうこと?「ヒナさん」あ、はい。


「ヒナさん、好きです。俺と付き合ってください。お願いします」


 そして、この状況に至る、と。

 改めてタクをよく観察してみる。背丈はカイと変わらないから、実はハルとも大差ないんだよね。ヒナより高いってことだ。腹立たしいな、中学生。ヒナも一年前は中学生だったけどさ。

 スポーツ選手にしては髪が長い気もするかな。サッカーってこんなんですかね。でも清潔感はある。キリッとして、引きしまった顔立ち。眉毛が太くて、意思が強そうなのが特徴的か。うん、悪くは無いんじゃない?モテそうではある。まあ、だからどうしたって感じ。ヒナはイケメンには耐性があるからなぁ。

 えーっと、では、何処からどう話したもんだか。

「タクくん、でいいかな。その、私のことはカイから聞いたのかな?」

「はい。曙川ヒナさん、ですよね。学園祭の時にお会いして、その、とても素敵な方だなって、そう思いました」

 学園祭の時のヒナって、どんなんだったっけ?記憶力フルパワー。一日目、ペットボトルボートを見に来てくれて、展示コーナーまでご案内しました。二日目、お嫁さんクラブ、もとい家庭科部のユマのお手伝いで、パウンドケーキの販売をしている所で出くわしました。ああ、後者はちょっと思い出したくないな。なんかブリブリの台詞吐いてた気がする。

 以上。チーン。2件ヒットしました。

 あれ?それだけか。ほっとんどお話も何もしてないよね。

「学園祭でちょっと会っただけだよね?」

「はい。すごく綺麗で、その、可愛い人だなって」

 そう言われるのは悪くないんだけどさ。うーん。

「私のこと、そんなに知ってる訳じゃないんだ。それなら」

「いえ、これから知りたいんです!」

 タクがぐわっと気を吐いた。おおう。

「カイから聞いてはいます。カイの兄さんと付き合っているってことも、聞いています」

 あ、知ってたんだ。それなら話は早いと思うんだけど、どうなんだ。

「ヒナさんのことは、これから知って行きたいんです。俺のことも、知ってほしい。お互いのことを、もっと良く理解し合えたらなって、そう思ってるんです」

 ずずい、とタクは身を乗り出してきた。熱いな。熱意は感じるよ、うん。でもちょっと待って。待って、ってば。

「ええっと、その、私は今、付き合ってる人がいるって、知ってるんだよね?」

「わかってます」

 わかってるんかい。ホントかい。男女交際だよ?彼氏彼女だよ?

「それでも、俺はヒナさんのこと、諦められないんです」

 ええー。

 そうなんだ。ええっと、それは、ヒナのことをそんなに好きってこと?キミが?タクが?ええー?

「ヒナさんに彼氏がいるのは、なんとなくわかってました。こんな綺麗な人だし、みんな放っておかないだろうって」

 ・・・うん、なんだろう、一周回って馬鹿にされてる気もしてきた。綺麗?ヒナが?よくわかんねーな、こいつ。

「でも、ヒナさんだって、一生その人と一緒にいるとは限りませんよね?」

 ファッ!?

「だから、待ちます。今がダメでも、俺、待ちますから。よろしくお願いします」

 そこまで言うと、タクはビシッとお辞儀をして固まった。うっわー。思わず周囲を見回す。あ、カイが物陰に隠れた。ちょっと、カイ、これどうすりゃいいのよ。困ったなぁ。

「うーんと、タクくん?」

「はい!」

 タクが身を起こして目をキラキラさせてくる。期待している所大変申し訳ないんだけど、返事は決まっちゃってるんだよね。

「とりあえず、ごめんなさい。さっきも言ったけど、彼氏もいるし、お付き合いは出来ません」

「はい・・・」

 目に見えてしゅーんとする。犬系男子だなぁ。耳とか尻尾まで見えてきそう。

「綺麗とか、可愛いとか言ってもらえたのは嬉しいんだけどさ。その、タクくんにはまだこれから色んな出会いがあると思うし、もっと可愛い女の子と知り合う機会もあるよ」

「いえ!俺は、ヒナさんのことが好きなんです!」

 突然、がば、って跳ね起きた。うわぁお。急に復活するなよ。何がスイッチなのか判り難いな、この子。

「無理を言ってるってことはわかってるんです。ヒナさんを困らせているのもわかってます。でも」

 タクが真正面からヒナの目を見つめてきた。あ、これ本気だ。軽い気持ちとか、ちょっとやましい気持ちとかなら、銀の鍵なんか無くても判る。これだけ真っ直ぐなのは珍しい。

「俺は、諦めたくないんです」

 タクはしばらくヒナと見つめ合っていた。澄んだ瞳、とは思うけどね。ごめん、ヒナも意思は固いんだ。正面から受け止めて見つめ返す。押されてどうにかなるほど、ヒナは甘くは無いよ。

 ややあって、タクは突然がっくりとうなだれた。にらめっこ終了か。ヒナはほうっと息を吐いた。そのまま、タクはくるりとヒナに背を向けた。

「すいません。今日はありがとうございました。俺の気持ちを知って貰えただけでも嬉しかったです」

「え、あ、うん。ごめんね」

 どう声をかければ良いのやら。ええっと、気を落とさないでね、とか?早く諦めてね、とか?うーん。

「カイに謝っておいてください。じゃあ、今日はこれで」

 言い終わらないうちに、タクは走り出していた。足速いな、さすがサッカークラブ。あっという間に見えなくなってしまった。嵐のように告白して、嵐のように去って行く。すごいな、ストームブリンガーと呼ぼう。さらば、ストームブリンガータク。

 ぽかーんとタクを見送っているヒナの横に、カイが並んだ。ああ、やっと出て来てくれたね、カイ。ヒナはもうキャパシティオーバーだよ。

「ヒナ姉さん、その、すいませんでした」

 申し訳なさそうなカイの頭に、ぽん、と掌を乗せる。まあ、カイは悪くないよ。ちょっとビックリはさせられたけどね。



 はぁ。

 弱った。昨日あれからため息が止まらない。何かにつけて、はぁ、だ。参ったなぁ。こんなにあてられるものなんだね。

 あの後カイからいくつか話を聞いた。タクはサッカークラブの先輩で、話した通りの感じ、熱血で真っ直ぐな人なんだそうだ。高校受験を控えて、志望校を決めるために学園祭の見学とかをしていた。そういえばそんなことも言っていたような気もする。

 カイのお兄さんがいる学校ということで見学に来たところ、ヒナに出会ってしまった。ほとんど一目惚れ、ということだった。プールサイドで見た時から、タクはヒナに恋してしまったらしい。えーっと、ヒナ、その時ジャージだったよね。ジャージ女子に一目惚れってのはあるの?どうなの?

 本当は学園祭の二日目には来る予定は無かった。が、タクがどうしてももう一度ヒナに会いたいということで、急きょ訪れることになった。そこで出くわしたのが、パウンドケーキを売っていたヒナだ。ああ、あれは忘れてほしい。「女子高生の手作りパウンドケーキでぇす」とか、あんな姿見て惚れますかね、常考。イッタイ女だなぁ、としか思わないんじゃないか。

 しかし、タクはその後もすっかり熱をあげてしまった。一体何がそんなにタクの琴線に触れたのか。学園祭の後も、タクはカイに根掘り葉掘りヒナのことを聞いてきた。

「あんまり色々話すのもはばかられましたし、諦めてくれた方が良いかと」

 カイはヒナに彼氏がいることを、そしてその相手がカイの兄のハルであることをはっきりと伝えた。まあ、付き合ってる相手がいると判れば、普通は引いてくれるもんだよね。しかも年上の高校生。色々とかなわないって、そう思うのが普通だろう。

 ところが、タクは引かなかった。むしろ更に燃え上がってしまったのだそうだ。なんでだよ。

「で、どうしても直接気持ちを伝えたいと言い出してしまいまして。すいませんでした」

 中学生の先輩から強く言われたら、カイも断りきれないよね。可哀想に。カイが謝るのは筋違いだ。

 住所とか電話番号とかメールアドレスとか、そういった個人情報の類をタクに教える訳にはいかない。それなら何処か近場で適当に顔を合わせて、軽くフッてもらって、そのまま別れてしまうのが良いだろう。カイはそう判断した。それが小学生の考えなのか。末恐ろしいな。

「ヒナ姉さんが副嶋そえじま先輩と付き合うとは思えませんし」

 まあね。悪い子じゃないとは思うよ。ただ、残念なことにタクはハルじゃないから。ヒナはお付き合いする最低条件が、『ハルであること』だからね。それが突破できないようじゃ無理。つうかハル以外には不可能だ。

「放っておけば冷めると思うんです。本当に、ご迷惑をおかけいたしました」

 ということで、その場はお開きとなった。タクは何処かに走って行ったまま帰ってこなかったし、もうどうしようもないわ。


 で、今日。ハルと朝から学校に向かう道すがら。ここでもため息が止まらない。ヒナはハルの彼女、恋人。ハルはこの前の学園祭で、ほぼ学年中の生徒の前で、ヒナは自分の彼女だって宣言した。ヒナは人気があるから、誰にも渡したくないんだって。

 ヒナの人気なんて、そんなのただのマニア受けだよ、としか思ってなかったんだけどな。まさか告白されるなんて。しかも年下、中学生から。ん?マニア受け、ってところはそのまんまそうなのか?はぁ。

「ヒナ、どうかしたか?元気ないみたいだけど」

「そう?別に何ともないけど」

 ため息の原因の一つは、タクのことをハルには話せないってことだ。下手に話しちゃうと、ずるずるとカイのことにまで言及する羽目になっちゃう。それはカイにあまりにも申し訳ない。今回カイにはもうたっぷりと迷惑をかけてしまっている。この上お兄さんのハルからも突き上げを喰らうだなんて、たまったものでは無いだろう。

 銀の鍵以外に、ハルに隠し事が出来るとか。なんだかショックだ。ハルには何も隠さないでおきたいのに。いつでも何でも話してしまえる関係でいたいのに。あーあ。嫌になっちゃう。

 ハルも『彼氏宣言』なんてしたばっかりだもんね。安心してヒナのことを独占出来ると思っていたら、見えない方向から刺されたって感じか。まあ、ヒナの気持ちは揺るがないから、そこは問題ないんだけどさ。

 でも、面と向かって男の子に告白されたのは、ハル以外では初めてだ。そんなことある訳ないって思ってた。学園祭の時、隠れファンなんて連中が出て来てたけど、あれはお祭り騒ぎの便乗。直接っていうのは無かったからね。そういうの関係なく、いきなり懐に飛び込んでくるって言うのは、勇気のいる行動だろう。タクは実際に、本気の目をしていた。

 って、いかんいかん。なんでそんなことを考えてるんだ。今はハルと二人で並んで歩いているのに。ずっと好きだったハルと、恋人になったハルと一緒にいるのに。雑念にとらわれてる場合じゃない。ハルとの時間を楽しまなきゃ。

「ここんとこみんな、ぼーっとしてるよなぁ」

「そう?あんまり気にしてなかった」

 うん、全然気にしてなかった。何かあったのかな?ヒナはちょっと昨日ありましてね。はは、は。こういう時は吐き出すと良いって神様に教わったよ。ちょっと後でみんなに相談してみよう。

「高橋とか、最近あんまりしゃべんないじゃん」

 高橋って誰ですか?ああ、ハルの友達か。えーっと、お昼一緒に食べてるよね。お昼ご飯は、ヒナのいる女子四人グループと、ハルのいる男子四人グループで、仲良く教室でお弁当を食べている。その男子グループの一人。ああ、さといもだ。さといも高橋。ハルの友達はいもだからね。頭にさといもって付けてくれないと、高橋って出てこないんだよ。悪い悪い。

 そんなにしゃべって無いっけ?えーっと、最近は高橋君、お弁当持ってくるようになったんだよね。ヒナが後夜祭の時、女子にダンスを断られてあまりにも哀れないもたちに、お昼に一品作って持ってきてやるって言ったんだ。そもそもハルに作ってあげてる手作り弁当がうらやましいってハナシだったからさ。ハルも少し気にしてたんだって。言ってくれればそのくらいはしてあげますよ。ハルのお友達なんだから。ヒナ、おかんみたい。

 で、その高橋君、それまでは調理パン中心の生活だった。それがお弁当持ってくるようになったのは良いんだけどさ、白米だけ詰め込んで来てんだよね。もうヒナの作ってきた一品がおかずの全て。加減ってものを知らない。お陰様で最初におかず作って持ってきた時、物凄い奪い合いになっちゃった。なんなんだ、もう。

 今じゃ毎日大皿レベルのおかずを用意してきている始末ですよ。ホントにお金取りたい。材料だってタダじゃないんだよ。お母さんにも「あんた一体何やってんの?」って言われちゃった。もうね、ヒナにもワケワカランですよ。

 その食い意地のはった高橋君が何ですって?はあ、口数が少ない。先週金曜日の肉野菜炒め、元気に一番食べていた気がしますよ。隣のじゃがいも1号宮下君と肉取り合ってました。口の中がご飯で一杯だから、話せないだけなんじゃないですかね。

 そういえば、お昼の時、ヒナの友達のチサトが、ちょっと元気が無い感じがしたかな。飯食ってる奴らは平気だよ。ご飯を食べる元気があるなら、大概のことは大丈夫。ヒナはチサトの方が心配だ。

「なんか色々あるんじゃないかな」

 色々、か。物想う秋、なんて言うもんね。ヒナもまさかこんなことで悩まされるとは思わなかった。結論は出てる訳だし、さっくりと忘れても良いんだろうけど。

 でも、あの真剣な眼差しを思い出すと、それでいいのかなって、少しだけ胸の中がもやもやするんだ。ハル、ごめんね、こんな気持ちになっちゃって。ヒナ、ハルのことが一番好きなのは、変わらないからね?



 学校の中休み。ヒナが「ちょっとトイレ行かない?」って言ったらみんなの顔が固まった。まあ、そうだよね。そういうの面倒だよね、って言ってたグループだもんね。でも、こればっかりはハルのいる所では話せないしさ。

「やー、ついに別れ話かと思っちゃったよ」

 サユリが楽しそうに酷いことを言う。ワンレン黒髪のメガネ美人。サユリはヒナと同じ水泳部に所属している。しかしあれだね、こうやって見ると女子トイレ会議が一番似合うよね。高一にしてお局様の貫録だ。

「そんなわけないでしょ。学園祭であそこまでされちゃって、別れるなんて言ったら学校にいる間中針のムシロだよ」

「そのくらいの覚悟があるってことだよ、朝倉にはさ」

 サキが言うとまた必要以上に爽やかだ。スラリとした長身に健康的なショートカット、猫みたいな目。陸上部の王子様、クラスの王子様、学年の王子様。なんだけど、女子トイレに王子さまってのも変な話だよね。いや、サキは可愛い女の子ですよ?

「まあ、気持ちは嬉しいよ。でも、あれはやり過ぎ。悪ノリし過ぎだよ」

「えっと、私はちょっと素敵かな、って思ったけど」

 チサト、それは他人事だからだよ。自分がやられたらたまったもんじゃないって。背が小さくて、ふわふわのロングヘアー、くりくりした目のチサトは可愛くてお人形みたい。吹奏楽部のフルート奏者。一年生でも選抜メンバーに入るほどの実力者だ。

 これに天然恋愛脳のヒナを加えた四人で女子グループを形成している。最近は学園祭を通じて仲良くなったユマとかもたまに混ざっていたりする。ユマはそばかすポニーテールと何処かの世界名作劇場的な記号満載な感じの子。学園祭実行委員だったんだよね。今は部活の方、およめさんクラブもとい家庭科部の方が忙しそうだ。

「それにしても、中学生ねぇ」

 とりあえずタクのことを一通りお話しした。ハルの弟が仲介に引きずり出されちゃってたので、ハルには話しづらいという所も含めて。だって、そこを話しておかないと、ヒナが迷ってるみたいじゃん。迷っては無いの。ハルと別れるつもりなんて全然これっぽっちも無いんだから。

「いいじゃん、熱血。カッコよかった?」

「んー、どうだったかな。そもそも断るつもりだったし」

 よっぽどのことが無い限り、外見って印象に残らないんだよね、悪いけど。ハルの友達も未だにいもだし。そこまでして覚えようっていう意欲が沸いてこない。モブで上等。なんか眉毛太かった。以上。

「もう断ったんでしょ?今更何を悩んでるのよ?」

「それなんだよねぇ」

 向こうがすっぱりさっぱり諦めてくれて無さそう、ってのもあるんだけど。

 何よりもヒナが気にしているのは、良く知りもしない相手のことを、本気で好きになって、告白とか出来るんだなぁ、ってところ。タクはヒナと二回しか会ったことが無い。どっちもロクに会話もしていない。それなのに、好きになって、お付き合いとか申し込んだり出来るんだね。

「まあ一目惚れっていうのはあるじゃん。こう、ずきゅーんって来るんじゃない?なったことないから判らないけど」

 ヒナも無いなぁ。昔家出してハルに助けてもらった時、ハルにおんぶしてもらって、その時はずきゅーんっていうよりは、とくんとくんって心臓の音がしてた。静かに目が覚めるような感じ。ああ、好きになってく、どうしよう、って思ってた。あれは一目惚れじゃないよね。ハルとはそれ以前から友達で、仲良しだったし。

「好きだからお付き合いするって訳じゃなくて、お互いのことを知るためにお付き合いするって流れもあるじゃない」

 ああ、そうか。そういうこともあるんだ。ヒナはてっきり、お付き合いって好きだからするものだとばかり思ってた。

「嫌いな相手とお付き合いってのはなかなか無いと思うけど。でも、相手のことをもっと理解しようと思ったら、お付き合いして、色々な面を見てみる必要があるでしょう?」

 なるほどなー。なんかやたら付き合ったり別れたりする子って、単純にコロコロ心変わりしているだけかと思ってた。ちょっといいかなと思った相手と付き合って、やっぱりフィーリング合わないなって別れるっていうやり方もあるんだね。そうかー。

「誰でもヒナみたいに長い付き合いの相手がいる訳じゃ無いからさ」

 そうなんだよね。ヒナにはハルがいるんだ。長い時間を一緒に歩いてきて、結構前から好きで。選んでもらわないと割と本気で困るような相手がいるから、そういうのって全然うとくて。ヒナとハルみたいなケースは特殊なんだね。いや、自分のことって良く判らないからさ。

 そう考えてみるとヒナには不思議だ。みんな好きな相手って、良く見つけるよね。全く知らない誰かと、たまたま出会って、好きになって、お付き合いするんだ。はぁー、それはどんな感覚なんだろう。ああそうか、タクがそうなのか。タクはヒナにたまたま出会って、好きになって。

 ヒナのことを良く知りたいから、お付き合いしたいって言ってきたのか。そういやそんなこと言ってたな。

「みんなすごいなー」

 素直にそう思う。出会って惹かれて結ばれる。簡単じゃないよな。最初の出会いからして、好きと思える相手に出会えるかどうかは運次第だ。だから、一目惚れするほどの相手との出会いは、大切にしたいと考えるのか。

「その熱血君も、ヒナとの出会いを無駄にしたくないんだろうさ」

 うぐ。そうなんですかね。そう考えるとちょっと悪いことしたかな、とか思ってしまう。タクにしてみれば運命の出会いだったのかもしれない。とはいえ、ヒナとしてはお断りするしか手段が無いのです。申し訳ない。

「お互いのことをもっと知りたいっていうことなら、あまり深く考えなくても良いかな、とは思うよ。それが嫌なら断っても別に構わないだろうし」

 そうだね。ヒナはタクのこと正直興味無いし。ヒナのことを知ってもらいたいとも思わないかな。残念でした。

「チサトも、ね」

 ん?

 サユリに言われて、チサトがうつむいた。え?何かあったの?ヒナ聞いてないんですけど?サキの顔を見ると、サキも首をかしげていた。サユリだけ何か知ってるの?

「二人には話しても良いんじゃないかな。心配かけてることもあると思う」

 確かに最近チサトは少し元気が無い気がしていた。悩みでもあるのかと気にしてたけど、やっぱり何かあったんだ。

 うん、何でも言ってみて。相談に乗るよ。ヒナも今中学生に告白されてアレだってハナシしたばっかりだし。もう何でも来いだ。

「実は」

 言い難そうにチサトが口を開いた。チサトだと、部活絡みかな。一年生で選抜とか、変に目立ったりしているからかな。そんなの気にしなくていいよ。チサトの実力は本物なんだから。

「実は、高橋君に、告白されたの」

 ・・・ふぁ?

 ふぁあーっ!?

 え、マジ?ホント?高橋って、あれか、さといもか。さといも高橋。え?告白?俺、実はさといもじゃなくて生姜なんだ。ショウガネー。いやいやいや、何かパニクって変なこと考えちゃった。ショウガネー。黙れ。

 チサトがもう見たことも無いくらい顔を赤くしている。下ネタでもここまで赤面はしなかった。すごいな、さといも高橋。やれば出来るじゃないか。何がとは言わないが。

 もう何も話せなくなってしまったチサトに代わって、サユリが説明してくれた。学園祭の後、中間テストが終わった日、部活動が再開するタイミングだった。個人練習で屋上にいるチサトの下に高橋がやって来て、交際を申し込んできたらしい。

「えーっと、好きだ、付き合ってほしい、って感じ?」

 チサトがこくりとうなずいた。うわぁ、そうなんだ。ヒナの場合、ハルから告白された時はそれで舞い上がっちゃったなぁ。ずっと憧れだったから、嬉しくて仕方が無かった。

 でも、チサトの場合はどうだったんだろう。チサトはさといも高橋のこと、そんなに好きだったっけ?

「告白されたことは、嬉しかったんだけど」

 さといも高橋は、それまでも何度か屋上で練習しているチサトを訪れることがあったらしい。なんだってぇ。ヒナが知らない所でそんな、そんな面白そうな。ごほん、なんでもありません。

 帰宅部なので、他の部活をやっている友達を待ってたり、特にやることが無い時、校内をぶらぶらしていたら、たまたま屋上への扉が開いているのを見つけたんだそうだ。ああ、それ、ヒナも夏休みにやったわ。吹奏楽部の個人練習のためだったら、鍵貸してもらえるんだよね。うらやましいよなぁ。

 で、ちょこちょこ話をするようになった。さといも高橋はそれなりに音楽に詳しいらしい。へぇー、人は見かけに。何でもないです。学園祭の時も、ヒナが知らない間に演奏喫茶とか行ってたらしい。ほほー。

「でも、今は私、部活の方に集中したいんだよね」

 ああ、そうか。チサトはフルートに情熱を注いでいる。中学時代、いい加減な気持ちで投げ出してしまったフルート。今度は絶対に諦めないって、固く心に誓っていた。

 その話は、さといも高橋にもした。さといも高橋は真剣に聞いてくれて、それなら、って言ってくれた。保留で良い。気持ちだけ知っててくれれば良いって。チサトのこと、応援してるって。

「高橋君、それからあんまり屋上に来てくれなくってね」

 気まずいんだろうなぁ。それに、お互いに変に意識しちゃうのが嫌なんだろうなぁ。まあそれはさといも高橋なりの優しさなんだと思うよ。変なこと言って、チサトの邪魔をして悪かったって、そう思ってるんだよ。

「私も、高橋君に悪かったかな、って」

 うーん、優先順位の問題かなぁ。とりあえずさといも高橋はチサトのフルートを認めてくれてるんだから、まずはそれで良いんじゃないかなぁ。良い奴じゃん、さといも。チサトはさといも高橋に、今まで通り接して欲しいなら、そう言ってみたらどうかな。気持ち自体は嬉しかったんでしょ?

 チサトがハッとしたように顔を上げた。ん?ヒナなんか変なこと言った?

「そうか、私」

 なんだろう、チサトの表情が明るくなった。柔らかくなって、笑顔みたいになる。元気出たのかな。

「流石恋愛マスターだなぁ」

 いや、いつそんな称号得たよ。初耳だよ。

「チサトは、屋上で一緒に話をする高橋が好きなんだろ。正直にそう言って、そこから始めてみればいい」

 サキがズバッと断言した。王子様決めるなぁ。カッコよすぎるだろう。

 まあでも、そういうことだ。

 告白されたこと自体は、嬉しかったんだよね。チサトは、さといも高橋の好意が嫌では無かった。ただ、お付き合いするとなると、どうしてもフルートの方を取ることになる。そうすると、今度は屋上でさといも高橋と過ごす時間を失ってしまう。それは嬉しくない。わがままな保留かもしれないけど、そこからもう少しお互いのことを理解していけるかもしれない。

「完全に今まで通りって訳にはいかないだろうけどさ」

 好意があるってことは伝えちゃったし、伝わっちゃったからね。意識するなって方が難しい。でも、嫌ではないんでしょう?好きって言ってきた相手と屋上で二人きりとか、ロマンスの香りがするよ。まあ一番じゃないけど、いつかは一番になるかもしれない。一緒にお話する時間は、それはそれで楽しかった。それなら、そうしてくれると嬉しいって、まずは伝えてみようよ。

「うん」

 チサトが元気にうなずいた。おお、良かった。後はさといも高橋次第。おまえ、ここまでさせておいて台無しにするんじゃねぇぞ。チサトの気持ち、裏切んなよ。

「他人のことなら頼りになるのにねぇ」

 うるさいなぁ。自分のことは良く判らないもんなんだよ。それに、ハル以外の誰かなんて想定外だ。ヒナはハルのことで常にいっぱいいっぱいなんだから、余計な雑音には入ってきてもらいたくない。

 思い出した。ハルもさといも高橋の様子が変だって言ってたっけ。そういうことだったのか。なんか色々と気を使ってたのかな、チサトもさといも高橋も。いいじゃない。秋は恋の季節だよ。

「みんな花盛りだねぇ」

 サユリがそんなことを言う。サユリだってモテモテじゃないの?水泳部で密かに人気なの、ヒナは知ってるよ。

「高校に入ってから三回告白されたわ。全部お断りしてるけど」

 マジっすか。

 生半可な気持ちでモテモテとか言ってすいませんでした。ガチじゃないですか。しかも全部お断り。すさまじい魔性の女っぷり。

「ヒナだって二回じゃん」

 そうだねー。一回で良かったのにね。ヒナは別にモテモテの愛されガールなんて目指してないよ。ハルの可愛い彼女でいられればそれで満足。モテ期なんていらないよ。


 その日のお昼ご飯の時、ちょっと注意してさといも高橋のことを観察してみた。がっついて食べてるのは、どうもわざとみたいだ。チサトと目を合わせないために、激しくご飯をかきこんでるんだね。消化に悪いからやめてほしいよ。

 チサトと顔を合わせて、軽く肩をすくめてみせる。さといも高橋の健康のためにも、後でひと声かけてあげてくださいな。ハルが不思議そうにヒナの方を見てきた。心配いらないと思うよ、ハル。とりあえず、さといも高橋の幸せを願ってあげておいてよ。おかんとしては、温かい目で見守っておくことにしたからさ。



 今日は水泳部はお休み。ハルはハンドボール部の活動。なんとなく放課後の時間が空いてしまった。チサトの様子も気になるけど、折角だし、いつもは行かない場所まで足を延ばしてみよう。

 ヒナの家から川沿いに歩いて、市境を越える。うん、これだけで実際にはそれなりの距離があるね。その後住宅街を抜けて、細い参道を通ると、目的地の稲荷神社が見えてきた。社務所も何もない、小さな無人の神社。ここには、この辺りを治めている土地神様がいらっしゃる。

 神様は、ヒナの持っている銀の鍵がらみの相談事に乗ってくれている。目に見えない力のことは、人間には相談しづらい。っていうか出来ない。ヒナが人の心を読めるなんて、誰も知らない。ハルだって知らない。そんなこと言われたって、みんな困っちゃうだけだろう。

 それはそれとして、今日のところはそれ以外の件で神様の意見を聞きたかった。ここの神様は、なんと女の子の姿をしている。年の頃は、ヒナと同じくらい。十五才って言ってたからドンピシャでタメだね。ああ、でもそれは見た目だけであって、実際には数百年はこの辺りを治めているんだとか。ロリババア、とか言ったら祟られそうだな。

 元々人間だったので、基本的にその頃の姿を保っているのだそうだ。しかしこの神様は今、もっと別な理由で人間の、女の子の姿に固執している。その理由とは、人間の男の子と恋に落ちたことだ。

 当時は高校生ってことだから、男の子、でいいよね。色々あって恋をして、なんとなし崩し的に結婚までしてしまったとか。はぁ、神様の世界っていうのはどうなってるんだろうね。うらやましいような、そうでもないような。ヒナも出来ることなら今すぐにでもハルと結婚したいなぁ。そうすればお互いに色々と安心出来るだろうにね。

 そんなわけで、真の恋愛マスターである神様にご意見をいただきに参ってみました。神社の境内には人影が全くない。しーんと静まり返っている。まあ、いつも通りかな。その割に綺麗に掃除されていて、ぴっかぴかなのもいつも通り。綺麗好きな人が面倒見てくれているんだなぁ、と毎回来るたびに感心させられる。

 拝殿に近付いて、きょろきょろと辺りを見回した。あれ、ひょっとして留守かな。神様の気配は濃厚なので、銀の鍵ですぐに検知することが出来る。それが見つからないってことは、少なくとも神社の境内にはいないってことになる。

「なんだ、ヒナか」

 声がした方を見ると、茶虎の大猫がのっしのっしと歩いてくるところだった。ヒナとは古い付き合いのボス猫、トラジだ。この神社で他の猫たちの取りまとめ役をしている。

「こんにちは、トラジ」

 ヒナは猫と話をすることが出来る。これも銀の鍵の力だ。猫たちは精神世界を中心に生きているので、心を覗き見る銀の鍵の存在を快く思っていない。こうしてトラジと今お話し出来ているのは、神様のとりなしによるところが大きい。ヒナが人間以外の世界に足を踏み入れていくことには、神様はあまり良い顔をしなかったけどね。

「神様って今日は留守なの?」

「おまえ、知らんのか」

 トラジが呆れた、という声を出した。何を?

「今月は神無月だろうが」

 うん、知らない。十月の別名なのは知ってるけど、それで神様がいない理由が判らない。あー、でも字を見るとそういう気がしてくるね。なんでいないの?

 トラジが教えてくれた。十月には地方の神様は中央まで出向いて各地で起きた出来事についての報告をおこなうのだそうだ。つまり、今月いっぱいはここの神様も中央、出雲まで出張している。へー、お仕事か。大変なんだね。

「向こうで旦那と落ち合うとか言って、うきうきしながら出掛けていったけどな」

 ああ、件の人間の旦那さんですね。ヒナ、一度も会ったことがないんだよなぁ。なんでも宮司になる勉強をするために大学に通っているとか。そんなことしなくても、奥さんの力で眷属として神様の世界に入れるっていうのに、マメな人だねぇ。

 じゃあまだしばらく神様は帰ってこないのか。それはガッカリだ。折角ここまで来たのに。

「何の要件だったんだ?急ぎか?」

「いや、全然急がないんだけどね」

 ふむ、トラジは恋バナとかどうなんだろうか。ヒナが小さい頃からこんなだし、年は取ってるよな。奥さんや恋人がいる気配は無いし、そもそもそんな相手は出来そうにない気もする。

「なんか失礼なことを考えてるだろう」

 うへ、なんで判ったんだろう。猫は猫同士でなら共有意識とかいう力で意思疎通が出来るらしいけど。ヒナは人間だよね。銀の鍵の力だって、猫の方が神経質だから、あまり派手には使わないようにしている。じゃあ普通にヒナの顔色を読んだのか。猫のくせに。

「ちょっと恋の相談をね」

「はぁ?ハルはどうしたんだよ。お前、ハル以外とつがいになる気なんかないだろ」

 つがい、ってアンタ。これだから動物は。あのね、オスメスだけじゃないんだよ。男と女なの。気持ちがあるの。ハート。

「お前の望みはどちらかといえばそっちだろうが」

 うるさいなぁ。気持ちがあったうえで結ばれるのが最高なんだよ。今は特にハルとは両想いなんだから。愛し合って、その結果としてつがいになるの。オーケー?

「それでなんで恋の相談に来るんだ?」

 あー、もう。面倒だな。ヒナはタクのことを一通りトラジに話した。ハルに話せない事情がある。タクはヒナに一目惚れしたらしいけど、その感覚がヒナには良く判らない。タクはヒナに彼氏がいても諦めないと言っている。想い自体は真剣みたいなので、無下に断り続けるのもどうなのかな、と少し悩んでいる。こんなところか。

「横恋慕か。好かれる、というのは良いことだ」

 良くないよ。断るコッチが悪者みたいに思えちゃってさ。ヒナはハルのことが好き。タクには悪いけど、タクの想いには応えてあげられそうにない。

 それに、お互いのこと、まだ全然よく判ってない。例えばお付き合いしたとして、実はあんまり合わないってなったら、どうするつもりなんだろう。ヒナにはそんなリスク取れないよ。少なくとも、ハルから離れてまでタクを取る理由なんてないよね。タクはその辺りどう考えてるんだか。そこまでして、ヒナに何を求めてるんだ。

「恋は盲目だ。細かいことなんか、どうにか出来るって考えちまう」

 細かくないよ。相手のことだよ?しっかり考えてほしいよ。今だってこんなにヒナを悩ませてさぁ。

「まあ、そう言うなら、自分のことをそいつによく理解させるんだな」

 なるほどねぇ。ヒナがハルのことを好きで、タクを選ぶ理由なんて無いって、判らせてあげればいいのね。ちょっと酷な気がしないでもないけど、そうでもしないと諦めてくれそうにないか。下手したてに出てたら付け上がられるだけだ。

「後は、そうだな、ソイツの想いが真剣だって言うのなら、お前も同じくらい真剣に取り合って、真剣に断ってやるんだな」

 真剣に、ですか。

「それが礼儀ってもんだ」

 一目惚れ。そんなものがあるのかどうか、ヒナには今一つ判らない。でも、タクがヒナを真剣に求めてくるというのであれば、ヒナはそれを真剣に断らないといけない。真っ直ぐな想い。のらりくらりとかわすよりも、正面から打ち返す。確かにその方が、ヒナらしいと言えるかな。

 タクの想いをきちんと理解して、真面目にお断りする。ヒナがハルのことを好きで、この想いを超えることはタクには出来ないと、きちんと説明する。うん、そんなところか。

「トラジ、恋愛相談とか乗れるんだね」

「お前俺をバカにしてるだろ?」

 いやー、馬鹿にはしてないけど、そういうのとは無縁だと思っていたよ。意外意外。ちょっとかっこいい。少しモフって良い?

 トラジは撫でられるのがあまり好きじゃない。手を伸ばしただけで、さっと逃げられてしまった。ケチ。感謝の気持ちなんだから、ちょっとくらい良いじゃん。

「何もかもを手元に残すことは出来ないんだ。本当に大切なものだけを手放すな」

 その言葉を残して、トラジはヒナの視界から消えていった。本当に大切なもの、ねぇ。ヒナにとって、それはハルだよ。もうはっきりしている。

 罪悪感か。今までこんなこと無かったから、初めての感情だ。ハル以外の人に好かれる。恋心を抱かれる。不思議な気持ち。

 これからもこんなことはあるのかな。大切なハルとの想いを遂げるために、ヒナは誰かの想いを切り捨てる。考えたことも無かったよ。残酷なようで、当たり前のことだ。

 気が付いたら、夕焼けで辺りが赤く染まっていた。もうそんな時間か。早く帰らないと。

 神様ならどんな答えを聞かせてくれたかな。そこは気になるから、来月になったらもう一度神社に来てみようかな。



 朝起きて、いつものようにお弁当の準備。早起きにもいい加減慣れてきた。ハルのお弁当とは別に、おかずも一品。はあ、ヒナ食堂は今日も赤字ですよ。そろそろお金取っても良いよね。給食費滞納とお残しは許しません。

 ちょっとだけ肌寒くなってきた。すっかり秋だな。早朝の空気が気持ちいい。ひやっとして、張りつめた感じ。なんかこう、やるぞっていう気になって来る。今日も楽しい一日になると良いな。

 ハルとの待ち合わせ場所のコンビニへ。ヒナとハルの通学路がそこで一緒になる。毎朝そこで会って、並んで学校まで歩いていく。早い時間だから、うるさい他人に邪魔されない、二人の蜂蜜タイム。ヒナが毎日一番楽しみにしている時間だ。

 今日はハル、先に来ているかなぁ、ってわくわくしてたら。

「あ、ヒナさん、おはようございます」

 はぁ?

 びしっと気を付けして待ち構えていたのは、タクだった。ええ?あんた、何でここにいるの?ヒナは思わずぽかん、としてしまった。

「ええっと、以前この辺りでお見かけして、通学路なのかなぁと思いまして」

 それで待ち伏せか。とほほ、がっくり。タク、それはストーカーの一歩手前だよ。相手の通学路を調べて、途中で通りかかるのを待っているなんて。しかもこんな早い時間、一体いつからここにいたんだ。

 ・・・ああ、ヒナも昔やってたわ。正にここ、このコンビニで、ハルのことを待ってた。ハルにバレてるって気が付かないまま。

 叱ってやろうと思ったけど、すぐにそのことが記憶から蘇ってきてテンションが下がってしまった。タクのこと、強く言えないよなぁ。これが因果応報って奴か。まさか自分がやって来たことと、全く同じ行為をされるとは思いもしなかった。悪いことは出来ないもんだ。

 でも、これはマズイよな。だってこの場所って、今はハルとの待ち合わせに使ってる訳だし。

「ヒナ、おはよう」

 ああああああ、もうナイスタイミングですよハルさん。いいことでもあったのか、ニコニコしながらやってくるし。全身から血の気が引いていく感じ。うわ、これ、ひょっとして修羅場ってヤツ?

「ん、誰だソイツ?」

 えーっと、何て言えば良いんでしょう。ハル、ご機嫌そうなところ悪いけど、怒らないで聞いてくれるかな。

「はじめまして、カイのお兄さんの、ハルさんですね」

 タクがイキイキと喋りだした。うわぁ、お前ちょっと待て、黙ってろ。あわわってなったヒナのことなんてお構いなしに、タクはハルの真正面に立つ。すごい度胸。ホント、度胸だけは。

「俺は副嶋そえじまタクと言います。俺は、ヒナさんのことが好きなんです」


 終わった。

 がっつり空気が凍った。やばい。これどうしたらいいんだろう。

 何故かやり切った感たっぷりのタク。珍しい動物でも見ているみたいなハル。

 そして、顔全体に縦線が入って白目をむいたヒナ。

 なんだこの三すくみ。ヒナは誰に向かって何を言えば良いんだ。金魚みたいに口をパクパクさせてしまう。いや、ホントに何を言えば良いのよ。誰か教えてよ。助けてよ。

「えーっと、カイの友達で良いのか?」

「カイとはサッカークラブの先輩後輩です。俺は今、中学二年です」

「そうか、中坊か」

「中学生だからって、甘く見ないでほしいです」

 や、やめて。

 タクはそんな、ハルを挑発するみたいなこと言わないで。ハルは、その、穏便に、ね。別にヒナはタク相手にどうこうってことは無いから。タクが一方的に言ってきてるだけで、ええっと、ヒナも現状だとそこまでの迷惑をこうむってはいないから。お話で解決しましょう。うん、平和的に。イマジン。

「別に甘く見てるつもりは無いさ」

 やーめーてー。

 ハル、なんでそんなやる気なの。相手は中学生だし、ヒナ的には全く気にかけてないんですよ。落ち着いて。冷静に。

「ヒナ」

「は、はい」

 ハルがいつになく厳しい声でヒナの名前を呼んだ。うわずった返事をしてしまう。ハル、怒ってるかな。怒ってるよなぁ。

「コイツに告白されたのか?」

「うん、そう、です」

 思わず敬語。もう仕方ない。認めるしかない。はい、告白されました。付き合ってほしいって言われました。

「返事はしたのか?」

 ヒナは、ふぅ、っとため息をついた。

「お断りしました。私は、ハルとお付き合いしているし、別れるつもりも無いので」

 はっきりとお断りしたんですよ。出来ません、って。ヒナはハルの彼女。ちゃんと自覚してます。

 ハルもため息をついた。肩の力が抜けたのが判る。もう、そこは安心しててよ。大丈夫、ヒナはハルのことが好き。誰よりも、何よりも好きだよ。

「ヒナは断ったって言ってる。それでもつきまとうのは、男らしくないと思うけどな」

 中学生相手に本気ですね、ハル。甘く見るつもりは無いって、確かにそうは言ってたけどさ。

 でもタクも負けていない。ハルの視線を受け止めて、真っ直ぐに見返している。えー、なんで。その自信は一体何処から出て来てるの?

「そうかもしれません。でも、簡単には諦めたくないんです。俺は、ヒナさんのこと、真剣に好きなんです」

 どーしてー。

 タク、ヒナには全然判らない。ヒナはタクとはお付き合い出来ない。ハルのことが好きなんだよ。それなのに、そこまでしてタクがヒナのことを求める理由が、全く、これっぽっちも、一ミリも、理解出来ない。

「お二人が今付き合ってるとしても、それがずっとそのままだなんて、誰にも保証出来ないでしょう?」

 またそれかよ。そりゃあ、この世に絶対なんてものは無いかもしれないけどさ。その言い草は反則だよ。そんなこと言ったら、タクの気持ちがずっと続くかどうかだって、誰にも保証出来ないだろうに。

 絶対なんて無いよ。判ってるよ。

 だから、ヒナは一生懸命ハルに好かれようと、一緒にいようと、努力し続けているんじゃないか。バカッ!

「俺とヒナは、ずっと一緒だ」

 ハル?

「お前には判らない。俺とヒナの間には、沢山の絆がある。それは、簡単に消えてしまうようなものじゃないんだ」

 ハルの声は静かだ。優しく語りかけるような、教え諭すような言葉。

「諦めきれないなら、せいぜい諦められるようになるまで勝手に想っていればいいさ」

 そう言うと、ハルはヒナの手を握った。わ。ぐいっと引っ張られて、ハルの身体にぶつかる。強引なハル。どきっとした。

「ただし、ヒナが嫌がることはするな。こういう待ち伏せも無しだ。次にやったら、俺はヒナの恋人として、容赦しない」

 ハルが歩き出す。手をつないだまま、ヒナも歩く。ちらっと振り返ると、タクはその場に立ったままだった。コンビニ前の修羅場、終了。うわぁ、なんかすごかったんだけど。


 タクの姿が見えなくなる辺りまで、二人は無言だった。ヒナは何を言って良いのか判らないし、ハルはむすっとしている。ううう、弱ったなぁ。タクがさっさと諦めて自然消滅してくれてれば、万事解決だったのに。

 ハルと二人きりでいられるこの時間が、こんな重苦しい空気で終わっちゃうのは嫌だなぁ。下手すると今日一日こんな状態かもしれない。嫌だなぁ。ハルとは楽しい学校生活したいなぁ。もう、何でこんな目に遭うんだ。

「はあ、ホントにヒナは」

 突然ハルがヒナの方を向いて立ち止まった。ヒナの頭に掌を乗せてくる。なんですか急に。

「お前、ちゃんと断ったのか?あいつの告白とやら」

「こ、断ったよう。彼氏がいるからって言ったよう」

 っていうか、それを知ったうえで告白してきたんだからどうしようもないって。どうしろって言うんだ。ヒナははっきりと断ったんだってば。ハルとお付き合いしてます。ハルとは別れません、絶対に。

「ヒナ、お願いだ」

 え?

「俺のヒナでいてくれ。頼む」

 ハル。真剣な目で、ヒナのことを見つめてくる。困ったハルだなぁ。

「・・・彼氏宣言とかしておいて、まだそういうこと言うんだ」

 死ぬほど恥ずかしかったのに。あの後ずっと冷やかされ続けてるんだからね。生活指導呼び出しブラックリストのトップに出てるとも噂されているよ。そりゃまあ、それだけのことも前夜祭の時にやらかしてはいるけどさ。

「これ以上どうしろって言うのよ。もう十分にハルのヒナでしょ?」

「そりゃ、まあ」

 学園祭のあれ、何て言われてるか知ってる?水上結婚式だよ?まあそうだよね、あのシチュエーションなら、誰でもそう思うよね。完全に公認カップルですよ。悪くは無いけど、ちっとも良くない。絶対に別れないっていう覚悟の表れと同時に、在学中全校生徒の見世物になるっていう悲壮感溢れる覚悟も付いてきちゃったよ。

 ハルの胸元に、おでこをあてる。寄りかかる。バカ。ハルのバカ。

「何でもあげるって言ったでしょ。ほしいなら言って。我慢しないで」

 ヒナは、ハルになら何をされても良い。前夜祭の夜に、ヒナはハルと二人で学校のプールサイドでお泊りした。一晩中、誰にも邪魔されない場所で、ヒナはハルに全部あげるつもりだった。ヒナはいいよって言ったのに、ヒナのことが大事だから我慢するって断ったのは、ハルの方だ。

 ハルの心臓がどきどきしているのを感じる。こんなになっちゃうくせに。ヒナのことが欲しくてたまらないくせに。面倒なハル。ヒナと同じくらいメンドクサイ。

「自分で我慢しておいて、そういうこと言わないんだよ?」

 ハルがおろおろしてる。もう、判ってるよ。ヒナにこう言わせたいんでしょ。いいよ、言ってあげる。言ってあげるから、今日は元通り、楽しい高校生活に戻りましょう。

 ああ、恥ずかしい。

「私はハルのもの、ハルだけのものだよ」

 ハルが、きゅって優しく抱き締めてくれた。「ありがとう、ヒナ」ふぅ、手間がかかるなぁ。こんなことならさっさとものにしてくれてもいいのに。それでハルが安心してくれるなら、ヒナ的にも万々歳なんだけどな。

「良かった。ヒナに告白しておいて。ヒナが、俺の彼女になってくれていて」

 そうだね。ヒナがハルとお付き合いしていなかったら、タクに何て言えば良いのか判らなかったもんね。まあ、結果はあまり変わらなかったかな。ヒナは、ハルのことが好きだよ。ハル以外の誰かなんてありえない。ずっとずっと、ハルのこと、好きだよ。

 ハルのヒナ、か。ふふ、懐かしい。そんなに昔の話でもないのに、すっかり忘れてた。

 そういえばここ、通学路じゃん。人通りが少ない時間帯とは言っても、少ないってだけで無人じゃない。朝っぱらから高校生カップルが痴話喧嘩していちゃいちゃだ。

 ハル、こういう悪目立ちって、ヒナは良くないと思う。



 さて、本日のランチタイム。学食組がぞろぞろと教室から出ていく。お弁当組は、ヒナたちの女子グループと、ハルと根菜たちの男子グループを合わせた八名が最大派閥です。あ、今日はユマもいるのね。合計九名。ユマはお弁当の出来をヒナに見てもらいたいとか。では拝見いたしましょう。

 肉団子ですね。基本だなぁ。手作りなのに綺麗に形が揃っていて、この艶テカりは見事です。どれどれお味は。

「曙川ー、早くおかずくれよー」

 うるさい欠食児童だなぁ。いい?来週からお金取るからね。一人一食百円だよ?それでもさといも高橋は調理パン時代よりは安いでしょ?こっちは儲けなんか出ないんだからね。

 ただでさえ訳の判らないボランティアなんだから。ぶつぶつ文句を言いつつ、大き目の耐熱タッパーを取り出す。はいはい、そんなに寄り付かない。ハルは自分のがあるでしょ。栄養バランス考えてあるんだから、コッチには手を出さない。

「そうだぞー、朝倉は愛妻弁当で幸せに浸ってればいいだろー」

 じゃがいも1号宮下はそういうこと言わない。ホントにおかんになった気分だよ。タッパーの蓋を取って、取り分け用の箸と紙皿を置く。今日は回鍋肉ホイコーローね。ピーマンも食べるんだよ。

「ご飯の伴だー」

 なんだろう、大型動物の飼育員ってこんな感じなのかな。大の男三人が、タッパーに詰められた回鍋肉に群がる。ユマが呆れた表情でその光景を眺めていた。

「これ、餌付けか何か?」

 似たようなもんかな。ただ、どんなに食わせても、こいつらはコッチの言うことなんかちっとも聞いてくれそうにないけどね。

 ユマもお嫁さんクラブで料理を作った後、炊き出しとかやるんでしょ?あれも似たような感じじゃないの?恵まれない男子たちに、作った料理を振る舞う悲しいイベント。じゃがいも2号和田は「男子として最後の砦」なんて言ってたけど、今ヒナのおかずにがっついているのと大差はない気がするぞ。

「不特定多数に向けたものと同じにされたくない」

 ヒナにとっては不特定多数と変わらないよ。ハルと、ハル以外。区分がそれしかないんだから。ハルじゃなきゃ誰だって同じ。その他大勢のうちの一人だ。

 さといも高橋は、今日も黙々と食べている。意識して観察してみると、確かに口数が少ないね。あれ、でもさといも高橋って、元々そんなにお喋りなキャラだったっけ?あんまり覚えてないな。まあ、いいか。

 あれから、チサトはさといも高橋と二人で話をしたらしい。お付き合いっていうのは難しい。やはりどうしてもチサトの中ではフルートの優先順位が高い。でも、一緒に話をしてくれるのは嬉しい。そんな関係で良いのなら、そこから始めて欲しいって。

 チサトのわがままを、さといも高橋は受け入れてくれた。チサトに告白して、嫌われてしまったと思っていたらしい。色々と気まずい空気にして悪かった。一緒にいる時間を作ってくれるだけで嬉しい。そう応えてくれたそうだ。

 その話をしている時、チサトは泣いてしまった。うん、良かったね。傷付けてしまったのかと、不安だったんだよね。さといも高橋、男をあげたなぁ。

 で、当のさといも本人は、その話はチサトと二人だけの秘密だとでも思ってるんですかね。今はそれを悟られないように、照れ隠しでがっついているんだろうけど。女子相手にそれは無いわ。悪いけどほとんどのケースで筒抜けだわ。

 うまくいってるみたいで良いじゃないか。ヒナの作ったおかずを食べてる場合じゃないだろうに。男子ってのはメンドクサイなぁ。ハルの方を見る。どう?今日のお弁当美味しい?

「ん、うまいよ」

 そう、良かった。にっこりと笑う。そう言ってもらえれば幸せ。

「あんたたち、毎日そんななの?」

 ユマが口の中にガムシロップを大量に流し込まれたみたいな顔をしている。そうですが、何か?

「彼氏宣言とかされてさ、もう何をどう繕ったってどうしようもないじゃない」

 付き合ってますよー、彼氏彼女ですよー、お弁当作って来てますよー。

 なんか文句あるのかコノヤロー、ってなもんだ。これでも学校ではいちゃつかないようにしてるんだっての。

「あー、こっちもウマいよー」

 おおそうか、残さず食えよ、ピーマンも食えよ。幸せのおすそわけだ。そうとでも思ってなきゃやってらんない。一応手は抜いてないんだからね。やれやれ。

「すっかり曙川さんが胃袋を掴んでるわね」

「いつでもお嫁さんクラブに譲るよ。どうせおかずすり替えても判りゃしないんだから」

 一度、試しに冷凍食品を詰め込んだだけのものにしてみようかと思っている。馬鹿舌なんだから判りっこないね。濃いめの味付けでカサがあれば満足しちゃうんだから。回鍋肉良く売れてるじゃないか。ハルはダメだよ、これ塩分凄いからね。

「あ、そういえば、これ」

 チサトが大きめのタッパーを取り出した。机の上に置いて中身を見せる。リンゴだ。綺麗に切りそろえられてる。爪楊枝も可愛いな。彩り鮮やかで、ファンシーだ。

「いっぱいあるから、みんなで食べて」

 ということで、遠慮なく頂いた。甘みが強くて美味しい。いもたちも果物食べな。ビタミン取らないと。ほら、さといも高橋も。

 カリッ、シャクッ。

 うん、良い音だ。チサトがじっと見ている。ヒナと目があって、ふふって笑う。ね?言った通りでしょ?

 食べてもらうって、嬉しいんだよ。とっても幸せな気持ちになるの。



 中学校の北校舎は、普段は一切使われていない。PTAの打ち合わせとか、授業以外の目的でのみ使用される。なので、しんと静まり返っていて、人の気配が無い。

 ここに通っていた頃は、全く足を踏み入れなかった場所だ。ひょっとしたら今日初めて来たかもしれない。うすら寒くて、正直気味の良いところではないな。何でこんなところなんだろう。多分、人目に付かないからだ。

 遠くで運動部が活動している音が聞こえる。懐かしいな、バスケ部。掛け声とか、今でも覚えてる。一本カット、ワンカット。ヒナは基本がベンチ要員だったからね。声出し以外出来ること無いし。

 廊下の突き当たり。探していたそれは、非常扉の横の壁に、びっしりと貼り付けてあった。ああ、ここにあったんだ。十五センチ四方の小さな木の板。一枚の板に、一つの文字。同じもの、違うもの。上手いもの、下手なもの。千差万別な中に、ヒナは目的の一枚を見つけた。ふふ、やっぱりね。

 ざっと壁面の板の群れを見渡す。他に同じ文字は無い。たった一つ、この板にだけ刻まれている。なら間違いないだろう。実際にこの目で見るのは初めてだ。本当に恥ずかしい。

「あれ、ヒナさん?」

 廊下の向こうから、タクが顔を覗かせた。一般生徒がこの北校舎に来ることなんて、まず無い。本来「あれ?」なんて言うのはヒナの方だ。まあ、タクがそれに気付くことは無いだろう。どうしてここに自分がいるのかさえ、きっと判っていない。

 銀の鍵。左掌に意識を集中して、タクの思考を軽く誘導する。無意識のうちに、自然と足が北校舎に向かう。そして、ヒナの所にやって来る。ごめんね、タク。どうしてもここで、あなたに話しておきたいことがあったから。

「こんにちは、タク」

 にっこりと笑う。薄暗い人気ひとけのない廊下で、タクの目にヒナはどう映っているんだろう。タクは、ヒナの何にそんなに惹かれて、ヒナの何をそんなに愛してくれているんだろう。

「どうしてこんな所に?」

 ごめんね、タク。その気持ちがどんなに純粋で。どんなに強くても。

 ヒナは、タクを選べないよ。

「これを見に来たんだよ」

 壁一面を埋め尽くす、正方形の小さな板。

「これ、なんですか?」

「卒業制作。私の代で作ったんだ」

 一人に一枚、版画用の小さな板が配られた。中学時代を振り返って、そこに大きく一文字、自分を現す文字を浮き彫りにしなさい。たったそれだけのものだ。

「これが大変だったんだよね」

 未だにため息が出てくる。大した話じゃない。適当でも何でも、半日程度で終わるような簡単なものだ。それが、何処でどう履き違えたのか、「学年ビックバン」なんて揶揄される事態にまで発展してしまった。

 きっかけなんて覚えていない。素行の悪い奴が提出を拒んだんだったか、悪意の塊みたいな奴が不謹慎な文字を彫ったんだか。まあ、とにかく物凄くくだらなかった。くだらなかったけど。

 三年生は酷い混乱状態に陥った。この小さな板きれ一枚を提出することが、事なかれ主義の学校の体制に従うことを意味するんだ・・・なんて、何を考えてるんだろう。誰に吹き込まれたんだか知らないが、いい迷惑だ。

 元々、ヒナの代はいじめが酷かった。学校はそういったいじめに対して、徹底的に干渉しない姿勢を見せていた。そんなものは無い。認めない。あってはならない。何が起きても助けてくれることは無い。存在しないことになっているいじめに対して、出来ることなど何もない。学校への不信感は、かなり大きかった。

 ヒナ自身、中学は好きではなかった。いや、明確に嫌いだった。なんでこんな学校に毎日通わなければならないのか。ハルがいなければ、登校拒否くらいはしていたかもしれない。

「一応、知ってはいます。学校中ピリピリしてましたし」

 タクは今二年だっけ。そうだよね、去年の冬、すごかったでしょう?まだ余波が残ってるんじゃないかな。後輩たちにも、あまり良いものを残したとは言えないよね。

「サッカー部も割れました。一個上の先輩たちが頑張ってくれて、今はだいぶマシになってます」

 そうなんだ。ダメな卒業生のせいでご迷惑をおかけいたしております。まあ、今はそこまででもないって言うなら良かった。来年にはカイも入学するんだし、まだおかしいようなら私立入試をお勧めしなきゃいけないところだった。

「いじめって、そんなに酷かったんですか?」

「友達は一人転校しちゃった。まあ、あれは普通のいじめじゃなかったけどね」

 卒業制作を巡って、当時の三年生はとにかく荒れた。学級会などまともに機能しなかった。ほとんどの生徒は高校受験を終えていて、もうこの中学に対して憎悪以外の感情を持てないでいたのだ。その気持ちは、残念ながらヒナにも理解出来てしまう。

「とは言っても、最終的にはこうやって無理矢理カタチにしたんだ」

 ヒナもハルも、さっさと文字を彫り終えて提出した。そんな反抗に意味があるとは思えなかったからだ。一部のクラスメイトから「裏切者」とかそしられたが、一体何を裏切ったというのだろう。学校からは「模範的な生徒」と褒められた。別に、学校側の肩を持った訳でもない。

「ただ、私もハルも、ここにいたっていう証を残したかっただけなんだよ」

 酷い学校だった。そこは誤魔化しようがない。ただ、それでもヒナは三年間をここで過ごしたのだ。人生のうちの三年という歳月を、確実に。ハルと一緒に。

「これが、私の彫った文字」

 ヒナはタクに一枚の板を示した。大きく浮き彫りにされた一文字。『春』。ハルの名前。

 大きくて力強い。あの頃のヒナは、ハルのことをこんなに強く想っていたんだね。今はどうかな。負けてないかな。ハルとお付き合いして、恋人になって、少し緩んじゃってないかな。この『春』を見ていると、気持ちが新たになってくる。

 そう、ヒナは、ハルのことが好き。ずっと昔から。そして、これからもずっと。

 ヒナの中学校生活は、ハルの存在によって支えられていた。接点は決して多いとは言えなかったけど、ハルがいてくれると思えたからこそ、耐えることが出来た。

「人生の春だとなんだとか、適当な理由を付けてたけど、これは紛れも無くハルのこと」

 ヒナが、ハルのことを想って過ごした、三年間。それがこの一文字。ここには、ヒナの愛が刻まれている。

「それから、こっち」

 少し離れたところにある板を指差す。さっき見つけた一枚。他のものと比べても良く判る。こんな難しい字を選んじゃって、大変だっただろうに。

「これが、ハルの彫った文字」

 直接ハルに教えてもらった訳じゃない。でも、判ってしまうんだからしょうがない。『雛』。ヒナの名前。こんな字、他に誰も彫ってないよ。もう、恥ずかしいなぁ。

 ハルとは、中学時代にはちょっと疎遠になっていた。ハルは部活ばっかりで、ヒナは銀の鍵の力に振り回されていた。お互いのこと、ちゃんとは見ていなかったと思う。

 ヒナはそれでも、ハルのことが好きだった。ハルの近くにいたかった。空回りばっかりで、中途半端だったけど。それでもハルに好かれたいって、ハルとお話しして、ハルと一緒に歩いて、ハルと毎日を過ごしたいって、そう考えていた。

 ハルが、この『雛』の文字を彫ってくれたって聞いて、ヒナはすごく嬉しかった。本当に嬉しかった。ヒナの中学校での三年間は、無駄じゃ無かったんだって。ハルは、ヒナのことを大切に想ってくれてたんだって。

「実際にこの目で見たのは、今日が初めてなんだけどね」

 だって、恥ずかしいじゃない。好きな男の子が、自分の名前を卒業する時に残していってくれてるなんて。それをわざわざ確認に来るなんて。話に聞いただけでもお腹いっぱいだったよ。

 ふふ、でもそれはおあいこか。ヒナも、ハルの名前を残していたんだからね。他に残す言葉なんて無い。この学校でヒナが夢視ていたものなんて、他には何にも無い。

 ハルを夢視る、銀の鍵。

「タク」

 だから、ごめんね。

「私は、ハルのことが好きなの。この気持ちは、多分一生変わらない」

 絶対なんて無いかもしれない。永遠なんて幻かもしれない。

 ただ、ヒナはそれでも追いかけたいんだ。好きな人。ハルのことを。

 信じていれば、きっと届く。ここに残されているヒナのハルと。

 ハルのヒナが、それを証明してくれている。

「ヒナさん・・・」

 タクがうなだれる。ヒナの真剣、伝わってくれたかな。タクがヒナのことを真剣に好きだって言ってくれるなら。

 ヒナは、それを真剣にお断りするよ。ヒナとハルの間にある、とても深い絆と。

 ハルに対しての、重い重いヒナの愛があるからって、ね。



「あ、いた、ソエ!」

 突然そんな声がした。女の子の声。びっくりして廊下の先に視線を向けると、制服姿の女子が走ってくるところだった。

 ぱたぱたという足音。ふわっとした肩までの髪、大きく開いたブラウスの胸元、膝上の短いスカート。おおう、校則違反のオンパレードだ。その長さの髪は縛らないとだし、ブラウスのボタンは上までしっかり止めないとだし、スカートの丈は膝下十センチだ。

 不良女子だな。最近は校則緩くなったのかな。っていうか、ヒナが卒業したのは去年だし、まだ一年も経っていない。なんだこりゃ。

「あれ?曙川先輩?」

 ほへ?そう言われて、驚いて女の子の顔をまじまじと眺める。ちょっと、クミ、あんたなんて格好してるのよ。

「お久しぶりです」

 バスケ部の後輩の八幡クミは、そう言ってにこにこと微笑んだ。一コ下だから、今三年だよね。受験勉強してなきゃいけない時期じゃない。そんな恰好で何やってんだか。ヒナは心配になっちゃうよ。

 人懐っこくて、甘えん坊のクミは可愛い後輩だった。少なくともこんな感じじゃなかったのになぁ。一体何デビューなんだ。

「クミ、その、派手になったねぇ」

「ああ、これですか」

 スカートの裾をつまんで、くるっと回転。ひらって翻る。む、そんな技まで身に着けているとは。ヒナだって、ハルの前ではまだそれやったことないぞ。

「今だと、このくらい結構普通ですよ?」

 そうなの?

 いやいや、タクがすっごい渋い顔してるんだけど。それ嘘でしょ。絶対嘘でしょ。

「八幡先輩は、普通じゃないです」

 ほら、タクだってそう言ってる。っていうか二人とも知り合い?どういう関係?

「私、バスケ部の方はもうほとんど出てなくて、サッカー部のマネージャーみたいなことやってるんですよ」

 はあぁ?

 いやいや、なんだそれ。バスケ部はそのままなの?だったらバスケ部はやめて、サッカー部に入ればいいじゃん。

「んー、それだとなんだか真面目にやんないと、みたいじゃないですか。そういうつもりは無いんで」

 フリーダムだねぇ。クミ、そんなキャラだったっけ?もうちょっと大人しめの印象だったけど、実はでっかい猫かぶってた?

「やっぱり、先輩の代の影響ですかね」

 負の遺産、ですか。何があったって、学校は助けてくれたりなんかしない。学校の言うことなんて聞いていても、ロクなことにならない。大きな反動を作り出しちゃったね。

「感謝もしてるんですよ。お陰で、とても自由にさせてもらってます」

 それは良いことなのかどうか、微妙な線だとヒナは思うよ。まあ、クミがそう言うならそれで、って感じかな。

「生徒の自治が進んでいるって言う意味なら、まあ良くはなってますよ」

 タクはなんでそっぽを向いているの?あれ?ひょっとして。

「ところでクミ、タクを探してたんじゃないの?」

「そうだよ、ソエ。練習始まるよ」

 クミが遠慮なくタクの手を取って、ぐいっと引っ張る。へぇ。決まりが悪そうに、タクはヒナと目を合わせようとしない。へえぇ。これはどういうことなんでしょうねぇ。

「行きますから、離してください」

 タク、もてるんだねぇ。言われてみればまあ、カッコいい部類に入るもんねぇ。ヒナはタクのことを全然知らないからな。まあ、知りたいとも思わない。そうかそうか。へぇ。

「あの、ヒナさん」

「ん?なあに?」

 モテ男かぁ、そうかぁ。いや、別にだからどうってことは無いんだけど。でも、ふーんって感じだなぁ。

 なんか色々悩んで損したって言うか、ちょっと複雑な気分になっちゃうな。

「ハルさんと、幸せになってください」

「うん、ありがとう」

 それが判っていただけたなら、十分です。タクにはタクの幸せがありそうだし。あとはどうぞ、おかまいなく。

「それから、こんなことを言って信じてもらえるか判らないですけど」

 クミがむっとした表情を浮かべる。はぁ、タク、それ、今言わないとダメ?もうちょっと空気読んであげようよ。真っ直ぐ君はこういう時、融通が効かないなぁ。

「俺は、本気、でした」

「判った。覚えておく」

 その事実くらいは覚えておいてあげるよ。ヒナとハルの幸せの裏には、破れた恋もあるって。二人の歩んできた道は、決して二人だけのものでは無かったって。

 タクがずるずるとクミに引きずられていく。一度、クミがヒナの方を振り向いて、べぇって舌を出した。ごめんごめん、別に邪魔するつもりは無かったんだってば。今日だってお断りするために来たんだし。クミのことも応援するよ。

 それにしても。

「ねえ、ナシュト、人払いってしてたんでしょ?」

 ヒナの呼びかけに応えて、長身の男が姿を現した。浅黒い肌、銀色の髪。燃えるような赤い瞳。豹の毛皮をまとった半裸の姿。大変、校内に変質者が。事案発生。さすまた持ってこなきゃ。

 ナシュト、そろそろ服装ぐらいなんとかしようよ。どうせ他の人には見えてない、とかじゃなくて。せめてヒナのところにいる間くらいさぁ。

「普通の人間なら、この場に干渉することは出来なかったはずだ」

 あ、服装に関してはスルーっすか。

「それはクミが普通じゃないってこと?」

 超能力者?魔女っ娘?改造人間?宇宙人?妖怪変化?

 まあ確かにヒナが中学にいた頃と比べたら別人みたいだったし、何かに入れ替わられてたとしても不思議じゃないけどさ。

「因果が強いのだ。あの、タクという少年との間のつながりが」

 は。

 そうなんだ。クミのタクを想う気持ちは、神様の力を越えちゃってるんだ。あんな派手になっちゃって。ひょっとして全部タクの気を引くためなのかな。だったらすごいな。大した努力だ。

「それほど強い結界を張っていたわけではない」

 はいはい、負け惜しみは良いから。そういうことにしておきましょうよ。

 二人が幸せになってくれるなら、それが一番じゃない。ヒナも安心してハルのことを好きでいられる。タクのことを、踏み台に出来る。

 もう一度、『雛』の文字を見る。ハルはどんな気持ちでこれを彫ったんだろう。指で触れる。なぞる。ここにはきっと、ハルの想いが込められている。ヒナのこと、好き?

 ヒナは、ハルのことが好きだよ。ずっと、一生。ハルのこと、好きでい続けるよ。

 ここにある、ヒナのハルと、ハルのヒナに誓うよ。ヒナは、ハルのことが好き。



 部活に励む中学生たちの姿を尻目に校門の所までやってきた。そこには、朝倉兄弟の姿があった。はぁ、ハル、今日部活でしょ。良くヒナがここにいるって判ったね。カイまで引き連れちゃって。兄弟そろって中学に殴り込みですか。

 カイはすっかりしょげている。ごめんね、カイ。事情を説明する過程で、やっぱりどうしてもカイの名前を出さない訳にはいかなくて。変な隠し事をして話を作っちゃうと、それはそれで後で面倒なことになるからさ。

「ヒナ」

 もう、そんな心配そうな顔しないの。大丈夫だって。そんなことより。

「ハル、カイのこと、怒らないであげて」

 先輩に言われて仕方なくやったことじゃない。ハルだって怖い先輩くらいいるでしょ。それに、カイはヒナとハルの関係は絶対だって信じてくれてるから、そのくらい平気だろうって判断したんだよ。弟のことを信用してあげなさい。

「別に、怒ってないよ」

 本当かね。困ったハルだ。ヒナのことを大切に想ってくれるのは嬉しいけど、兄弟、家族のことも大切にしてあげてよ。ヒナの家族にもなるかもしれないんだよ。ふふ。ヒナはカイも、ハルのお母さんも、お父さんも、みんな大切だよ。

「ヒナ姉さん、すいませんでした」

 もう謝らなくて良いよ、カイ。前にも謝ってもらったし、どうしようもないってちゃんと判ってます。後はヒナ姉さんにお任せ。

「それで、どうなったんだ?」

 ハル必死だな。

「きちんとお断りしたから、もうおしまい、だと思うよ」

「そうか」

 判ってくれたとは思う。それに、もし次来たらこっぴどく追い返してやるつもりだ。あら、モテモテのタクさんじゃありませんこと。可愛いヒナの後輩、クミとは最近いかがお過ごし?こんな感じか。

 本気ではあったと思う。でも、タクにはちゃんとタクを幸せに出来る人がいる。ヒナはお邪魔虫だ。タクの本気は、もっと違う子に向けてあげるべきだよ。何が正しいかなんてヒナには判らないけどさ。

 ただ、少なくともヒナの気持ちは、タクに向くことは無いよ。ヒナが好きな人は、もう決まっちゃってるからね。

「ああ、そう言えば見てきたよ」

 ハルが不思議そうな顔をする。あんな所に飾ってあるなんて。卒業した後は、中学の校舎の中なんて一度も入らなかったもんね。人目に付かない所だし、知らなきゃ判らないこととはいえ。

 やっぱり恥ずかしいや。

「卒業制作。ハルのヒナ」

 一瞬何のことか判らなかったのか、ハルは首をかしげていた。その後、ううって顔をしてヒナから目線を逸らした。やめてよ。そんな反応されたら、こっちが照れ臭くなってくる。

「やっぱり難しかったんじゃない?」

「三回くらい失敗してやり直したんだよ。指も切りそうになったし」

 それは大変だ。そうか、そこまで苦労して作ったものだったんだ。それなら、また今度じっくりと見に来よう。あの頃のハルが、ヒナのことをどんなに大切に想ってくれていたのか。ちゃんと確かめよう。

 ここに来れば、それは判る。しっかりと残されている。

「ヒナは」

「私はハルの名前を彫ったよ」

 隠すことなんて無い。誤魔化す必要も無い。

 堂々と、胸を張って言える。だって今、ヒナはハルの彼女、恋人。

 もう、この気持ちを閉じ込めておく必要なんて無いんだから。

 きらきらした高校生活。やっと手に入れた、ハルとの幸せな時間。夢視てきた未来。

「カイも来年、この中学に入るんだよね」

 素敵な学校生活になるといいね。

 大切な何かを見つけられるといいね。

 ヒナは見つけたよ。


 大好きなハルの、大切な想いを。


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