第8話 ボトルシップレーサーズ

 天井のライトが眩しい。いつもよりもずっと光が強い気がする。まるで真夏の太陽みたいに、ヒナの身体を照り付けてくる。

 暑い。ただでさえ室温の高い屋内プール全体に、熱気が充満している。興奮した生徒たちから発せられる体温が、吐息が、辺りの空気を沸騰させている。汗が噴き出して、口の中がカラカラになる。きらめく水面が愛おしい。

 これだけの生徒が、よくもまあプールサイドに終結したものだ。ジャージの学年色を示すラインを確認すると、大多数は一年生。中には二年生や三年生までまぎれている。学校単位の大騒ぎ、ということになってしまったのか。

 プールサイドを埋め尽くした観衆から、割れんばかりの歓声が上がった。どよめきでプールが波立つ。マイクアナウンス。続けて、好き勝手に騒ぐ野次馬たち。そんなノイズに負けないように、ヒナはありったけの大声で叫んだ。

「ハルー!」

 聞こえているかな。聞こえていてほしい。ヒナのいる場所から五十メートル先、スタート位置でハルは待機している。ヒナの言葉、そこまで届いているよね。しっかりしてよ、ハル。

 どうしてこんなことになっちゃったのかな。もう、訳が判らない。確かにヒナにも責任はあるかもしれないけど。でも、普通こんな騒ぎにまでなる?ホント、しっちゃかめっちゃかだ。

 優勝賞品。ヒナはこの椅子に座って、じっと成り行きを見守ることしか出来ないのかな。ううん、そんなことは無いよね。今だって、出来ることがある。

「負けたら許さないー!」

 力いっぱい、ハルを応援する。応援して、祈る。ハル、負けたら承知しないんだから。

 もしハルが負けてしまうようなことがあれば。ヒナが、ハルのためにって思っているものが、知らない誰かの手に渡ってしまう。見たことも無い誰か。ヒナの想いが汚されちゃうよ。そんなの嫌だよ。

 ハルだって嫌でしょう?ヒナだって嫌なんだよ。全部ハルのものなんだよ?

 だから、お願い。

 ハル、必ず勝って!



 校内放送は、今日と明日はDJ仕様だ。スピーカーからはポップな音楽と、楽しそうな放送委員の掛け合いが聞こえてくる。「みんな準備は良いかい?そろそろパーリィが始まるぜ」イェーイ。

 楽しく相槌を打ちたいところだけど、ヒナは今サユリにめちゃめちゃ睨まれながら絶賛作業中です。プールサイドに持ち込まれたホワイトボードに、本日のタイムスケジュールを書き込み中。ヒナの隣で、色マーカーを使って可愛いイラストを描きこんでるチサトが不思議そうに見つめてくる。ゴメン、ナンデモナイ、キニシナイデ。

 曙川あけがわヒナ、十五才。高校一年生の学園祭は波乱の幕開けです。

 学園祭では、ヒナのクラスは学校の屋内プールにペットボトルボートを浮かべることになった。全長2メートルは超える、なかなか本格的な奴だ。ヒナはメガネ星人サユリの陰謀によって企画の発案者にされてしまった。更には途中入部のぺーぺーなのに、水泳部ってだけでプールの安全管理責任者にまでされてしまった。

 こんなに頑張ってるんだから、ちょっとぐらいご褒美があっても良いよね?昨日は前夜祭と銘打たれた前日徹夜作業で、実際にはウチのクラスではほとんどやることは残っていなかった。ヒナはまあ、細かい雑用があったので、ばたばたと暗くなるまでお仕事をしていた。うん、仕事をしてたんだって、ホントに。

 学園祭のために特別営業してた学食で晩ご飯を食べて、もう他に誰もクラスメイトが残っていないことを確認して。そこでヒナは、ヒナと一緒に残ってくれていたハルと、その、ちょっと良くないことをしちゃった。

 朝倉ハル、十五才。ヒナの幼馴染で、恋人。優しくて素敵な、ヒナの大切な人。

 ハルとは小さい頃からの幼馴染で、家族ぐるみでのお付き合いがある。昔、家出して怪我をしてしまったヒナを、ハルは見つけてくれた。助けてくれた。あの日から、ハルはヒナにとってかけがえのない存在になった。大切な、大好きな人になった。同じ高校に入って、同じクラスになって、それだけでもとても幸せだったのに、ハルは、ヒナに告白してくれた。へへへ。二人は心の通じあった両想い。彼氏彼女。恋人関係。

 さて、プールの鍵はヒナが持ってるし、前夜祭参加届は出してあるから、一晩中校内にいても怒られない。準備があらかた終わった屋内プールには、ヒナとハルの二人しかいない。ヒナとハルは、えっと、両想いで恋人同士。どっちにも弟がいて、家だと何かしようにもいつもがちゃがちゃしている。学校でも、夫婦だなんだと、ことあるごとに囃し立てられる。そんな二人が、誰にも邪魔されないで夜を過ごせるってなったら、そりゃあ、ねえ。

 ヒナは、ハルならいいよって思ってた。もう完全にそのつもりだったんだけど、ハルはそこをぐっと我慢して、ヒナとお泊りするだけにしてくれた。えへへ、ヘタレとか根性無しとか言われるかもしれないけど、ヒナはハルに大切にされてるって感じて、とっても幸せだった。いつかは我慢出来なくなっちゃうんだって。ヒナ、ハルに予約されちゃったかな、どうしよう。

 ハルと手をつないで、一夜を共にした。そう言うとすごいね。特別な関係全開だね。大人の階段ツーステップで駆け上がってるね。ふわふわして来ちゃう。ハル、とっても優しかった。ヒナはあんな風に抱き締められたの、初めて。

 まあ、実際そこまでだったんですけどね。ああ、キスはしたかな。甘くて良いキスだったなぁ。

 だから、それしかしてないんですよ。ですってば。朝、ヒナが目を覚ますと、ハルはまだ眠ってた。疲れてるだろうし、起こさないようにと思ってそっとプールから出ようとしたら、開かないハズのプールの出入り口が開いちゃった。そこには鬼の形相のサユリが立っていた。ひえー。

 水泳部の部長のメイコさんが、プールのマスターキーを持ってたんだよね。メイコさんは正門ゲートのディスプレイ作業でやっぱり徹夜してて、校門のところで仮眠をとっていた。で、同じ水泳部のサユリが、クラスの方にあまり協力出来なかったからって、早朝からそのマスターキーを借りてプールまでやって来てしまったわけだ。

 いやぁ、怒られた怒られた。「やってなきゃいいってもんじゃない」は名言だったね。ごもっとも。学校にバレたら学園祭どころの騒ぎじゃない。ヒナもハルも生活指導に直行。前夜祭がそんなただれた場になってるとか判断されちゃったら、今年どころか来年から学園祭の実施自体がどうなってしまうのか見当もつかない。

 はい、軽率でした。すいません。

 とにかく証拠隠滅しよう、ってことでハルを起こしたら、寝ぼけたハルがヒナのことをぎゅうって抱き締めてきた。新婚生活みたいな、甘い目覚めを期待していたんですね、ハルさん。ごめんね、モーニングキスの代わりがモーニングビンタで。サユリ、加減無さすぎ。別にヒナは嫌じゃなかったのに。

「くそばかっぷる」

 素晴らしい称号を頂いて、ヒナとハルはそれから現在に至るまで馬車馬のように働かされております。ヒナは今、タイムテーブル書きとか、会場のデコレーション関係の仕上げ作業。ハルはプールに入って、コースロープの除去とガイドロープの設置作業。監督業はサユリに引き継がさせていただきました。はい、ヒナが監督だとハメを外し過ぎるって言われまして。プールの鍵もサユリの手に。はあ、もうやらないってば。でも、鍵の管理に関しては、正直サユリにやってもらえる方が有難い。

 本当は学食辺りで朝ご飯を食べてから、正門ゲートの様子を見に行きたかった。でも、そんなことを言いだせる空気ではなかった。自業自得です。時間が経つにつれて、クラスメイトたちもどんどん登校して来る。サユリは不機嫌にしているだけで、このことは他の人には一切話さないでおいてくれた。「いや、話してどうなるのよ、こんなこと」ソウデスネ。

 そんなこんなでずっと何かしらの作業をしているので、シャワーもロクに浴びていない。一回ざぶってプールに入っただけ。綺麗に塩素落として髪を乾かさないと、ヒナの場合ぼわぼわになっちゃうんだよ。このふわふわヘアー保つの、結構大変なんだよ?肩までの長さの、ふんわりとしたウェーブ。ハルだって、高校に入って髪をほどいたヒナに惚れ直しちゃったくらいなんだから。チャームポイントと誇っても良いくらいでしょう。

 自分で美人とか超可愛いとか言うつもりは無いけど、ヒナはハルの彼女として恥ずかしく無いくらいには可愛くしているつもり。目元もパッチリ、緩やかな鼻筋、薄紅色の唇。まあ、現在鋭意作業中ってところなので、ジャージ姿なのは勘弁して欲しい

 もうすぐ学園祭が開始される。クラスの出し物としては、最初のうちはやることがない。ペットボトルボートは、プールサイドに鎮座している。進水式は開始から一時間後だ。その後は、予約しているお客さんを順番に乗船させることになっている。まあ、それだけで結構大変なことになりそうだよ。今もタイムテーブル書いてるだけで頭痛くなってきている。みんな、好きだねぇ。

「ヒナ」

 サユリがこちらにやって来た。まだちょっと怒ってるな。全身から不機嫌オーラがじわじわと漏れ出している。プールでの作業は、みんな基本的に水着にジャージ。ワンレン黒髪眼鏡のサユリがジャージ姿だと、なんだろう、ザーマス教師って感じか。きょーいくによろしくないザマス、みたいな。いやまあ、正にそうやって怒られてるんだけどさ。

 チサトが二人の間の空気を察して不安そうな表情を浮かべた。チサトはちっちゃくて、ふんわりロングで、思わずお持ち帰りしちゃいたくなるような、ビスクドールみたいな子。ジャージでも良い、それはそれで良い。そう言えばチサトはこういう人間関係の軋轢に敏感なんだっけ?ごめん、チサト。今回はヒナが悪いんだ。その、なんというか、若気の至りって奴だ。

「少しは反省した?」

 はい、いっぱい反省しました。ハルもプールの中で頭とか色々冷やしていると思います。顔の手形、消えてると良いけど。サユリも人の彼氏に対して手加減なさすぎだよ。

「信じられない。学校で、プールで、普通おっぱじめる?」

 えーっと、おっぱじめてはいません。いやまあ、おっぱじめてもいいかなぁ、なんて考えちゃってたのは確かです。しかし、おっぱじめるって言い方、卑猥だな。サユリの口から出ると尚更。特に「おっぱ」って辺りが。

「え、ヒナちゃん何してたの?」

 うわあぁ、チサト、何でもないよ?ホントに、ナンデモナイ。キニシナイデ。

「朝早くから朝倉といちゃついてたのよ。ほんとバカップル」

 チサトが顔を赤くした。ああ、そういうことにするんですね。何も無かったと言うと逆に隠すのが厄介になりますからね。冴えてるなぁ、サユリ。ハルの方にもそういうことになってると伝えておきます。

 えーっと、ヒナたち、朝からお盛んカップル。

 ・・・うわぁ、何だろう、死にたくなってきたよ。スンマセン、ガチで反省しました。

「朝倉にはもう注意しておいたから、ヒナもお祭りだからってはしゃぎ過ぎないのよ?」

 もうハルとは口裏は合わせてあるんですね。ありがたいです。

 プールの中の方にちらっと目を向ける。ハルがこっちを見ていた。はい、ヒナも警告受けました。もし何かツッコまれたらその方向で。ハルには悪いことしちゃった。すっかり怒られ損だし、後で絶対「やっとけばよかった」って言われるな。ははは。

 ハルの姿をじっと見る。寝癖みたいにぐしゃってなった髪は、最近もう少し短めにカットした。完全にスポーツマンだね。相変わらず日焼けしにくいから、やや白さが目立つ。でもぶよぶよじゃないから、水着姿は十分素敵。むしろ陰影がはっきりしてて良いんじゃないかな。細くてちょっと垂れた目。ふふ、なんかこうやって見てると可愛いよね。

 人数が少ない遊び部活とはいえ、ハルはハンドボール部。中学では熱心にバスケットボール部で活動していた。細いようで、しっかりと筋肉質だ。男の子なんだよなぁ。昨日の夜を思い出してちょっとどきどきする。力、強かったな。胸板、厚かったな。痛いくらいしっかりと抱き締められて、ヒナ、何も抵抗出来そうに無かった。そのまま、でも良かったのに。

「オッケイそろそろ時間だ、みんな、一緒にカウントダウンよろしく」

 放送の声に熱がこもってきた。プールサイドにいるクラスメイトたちが、一斉に指を上に向ける。スリー、ツー、ワン。

「第二十四回、流星祭スタートだ!」

 わぁ、という歓声が学校のそこかしこで上がった。おおう、すごい熱気。滅茶苦茶激しいな。想像以上の盛り上がりで、ヒナはわくわくしてきた。

 サユリがじろり、と睨んでくる。あ、大丈夫ですよ。ちゃんと、節度ある行動を心掛けてます。はい。



「構わないんだな?」

「まあ、色々理由もあってね」

「これで決まりだな」



 学園祭の名前は『流星祭』なんだけど、実はヒナの高校の名前には『流』も『星』も入っていない。どういうことかと言えば、昔、学園祭の名前を決める時に、公募でこれが選ばれたということだった。そんなんで良かったんだ。適当だなぁ。

 ちなみに学内では誰も流星祭なんて言っていない。校内放送で聞こえて来た時には「なんだっけそれ?」とか思ってしまうくらい浸透していない。パンフレットやポスターにも書いてあるのに、これ何のことだろう、とか考えてしまう。ポスターを描いた美術部の生徒も、「何処のイベントかと思った」とか言っていたとの噂がある。酷いな。

 とりあえず進水式までは余裕があるはずだ。わざわざ開場と同時にプールに来るようなヒマ人はいないだろう。そう思っていたら誰かがやって来た。慌てて受付しようとしたら、なんだ、お母さんとヒナの弟のシュウだった。

 昨日学校に泊まっちゃったから、心配になって様子を見に来たんだって。はいはい、大丈夫ですよ。ヒナももう高校生なんだから。それよりその話、大きな声でしないで。ああ、サユリの眉がピクピクしてる。

 ヒナがわたわたしていることに気が付いたのか、お母さんが呆れたような顔をした。う、これはバレたな。お母さんは変なところで勘が鋭い。ことあるごとにハルのお母さんと結託して、ヒナとハルを妙な罠に引っかけようとする。まあ、くっつけようとしてくれてるのは判るんだけどさ、もうちょっと本人たちのやりたいようにもさせてほしいよ。

「結局どうだったの?」

 真顔でそんなこと訊かれても困るってば。どうもこうも無いです。お母さんはハルのこと、ヒナよりも信用してるんでしょ?そう言ったらお母さんは頭を抱えてため息をついた。なんなんだよう。

 小学二年生のシュウはペットボトルボートに興味津々だった。熱中症になるからって晴れてる日にはいつも被せられる黄色いキャップ。習慣のように持っている水色の水筒。いつものお出かけスタイルだ。シュウは目をキラキラさせてボートを見つめている。確かに、シュウからしたらこいつはすごいよな。で、その後は予想通りの展開になった。

「乗りたい!乗ってみたい!」

 あー、ごめん、シュウ。まだ進水式前だから水には浮かべられないし、予約していない人は乗せられないんだ。それにシュウは学外の人間で子供でしょ?万が一事故か何かがあると色々とマズイから。

 という理屈がシュウに通じる訳もないか。けちー、と言われてしまった。ケチで言ってるんじゃないの。大声で騒ぐもんだから、どうしたどうしたとクラスメイトたちが集まってきた。曙川の弟だってー。へー、やっぱ似てるね。可愛いじゃん。

 高校生たちに囲まれて、シュウはちょっと涙目だ。あー、みんなあんまり騒がないであげて。そこにハル登場。シュウも流石にハル相手なら平気か。すたた、と走っていってハルの後ろに隠れてしまった。

「おう、シュウか。どうした?」

 ハルがにこにこしてシュウの頭を撫でる。シュウはハルのジャージのズボンを掴んで、ヒナの方をうーって睨んできた。

「ヒナがいじわるする」

 してねーよ。あーもう、ハルからも説明してあげて。別にシュウだけに意地悪言ってるんじゃなくて、誰であってもボートには勝手に乗せられないの。

「いいじゃん、水に浮かべる前なら」

 ハル、あまーい!

 ハルはシュウをひょいっと抱っこすると、ペットボトルボートの中に入れてあげた。シュウが「おおー」と声を上げる。お前、まだウチのクラスの誰も完成状態のボートには乗船していないというのに。絶対暴れるなよ?壊すなよ?

 周りのみんなも笑ってたり、携帯で写真撮ってたりする。ウチの弟がごめんね。おろおろしているのはヒナだけだ。そんな姿を見て、サユリがぷっと吹き出した。

「なんかホントに親子連れみたいね」

 ついに夫婦から親子連れにランクアップか。でもシュウが子供は勘弁して欲しいな。うるさいし、ちょろちょろするし。お母さんはヒナの小さい頃にそっくりだって言うし。これは同族嫌悪なのか?

「朝倉くん、あんな顔で笑うんだね」

 チサトがそんなことを言った。ああ、ハルはシュウを相手にしてる時は、ちょっと子供っぽい笑顔になるよね。良く見てるね、チサト。確かに学校では珍しいかも。ハルのあの表情、ヒナは結構好きなんだ。

 満足したっぽいシュウを、ハルがまたよいしょって持ち上げてプールサイドに戻す。ほら、シュウちゃんとお礼言いな。「ハル兄ちゃんありがとう」よし。

 ヒナもペコペコ頭を下げる。すいません、勝手なことして。ん?こういう時真っ先に頭を下げるはずのお母さんは何処だ?

 後ろの方で携帯で写真撮ってた。うおおーい、保護者、何やってんだよ。しかもそれ、写真じゃないな?動画だな?ヒナがシュウと一緒に謝ってる動画なんて一体何に使う気だ?

 ばたばたとしていたらあっという間に進水式の時間になった。見物客がぞろぞろとやって来る。思ったよりも多いな。今度は会場整理のお仕事。はーい、プールサイド壁側によってくださーい、プールに転落しないようにお気を付けくださーい。今日はほとんどの時間で、何らかの作業をこなさないといけない。しかも真面目にやってないとサユリに怒られそうだし。

 大きなペットボトルボートの下には、丸いペットボトルを連結して長い棒状にしたものが敷かれている。なんだっけ?コロって言うんだっけ?昔の犬の名前みたいだな。

 ストッパーを外してしまえば、後はうしろからよいしょって押すだけで大きなボートはプールの中に入っていく寸法だ。押す係は何故かサイダーの瓶で叩くらしい。進水式ってそういうものなの?ヒナは良く知らない。

 よいしょおー、という掛け声とともにボートが前に押し出される。ざぶん、という大きな音。白波が上がる。ぐわんぐわん。しばらく激しく揺れていた巨体が、やがて静かにその身を横たえる。おお、これはひょっとして、うまくいった?

 わぁっ、と歓声が上がって、カメラのシャッター音が沢山鳴った。まずは第一段階完了。これで沈んじゃったら、少なくとも今日の予約分は全ておじゃんになるところだった。いやー、みんなお疲れ様。

 ハルとその友達のいもたちがプールに入る。いもはハルの友達。じゃがいも1号、じゃがいも2号、さといもだ。名前?なんだっけ?宮ナントカと、和田と、高橋っぽい何かだったかな。ハル以外の男子なんて記憶力のリソースを使う価値が無い。ハルの友達だから、かろうじてなんとか覚えている。ああ、宮ナントカだけは永世名誉じゃがいもなので、ある意味しっかりと刻まれている。良かったな、じゃがいも1号。

 ボートを手で引っ張って、プールの端っこにつける。もやい綱なんて無いけど、プールに強い波は無いからね。そんなにしっかりと固定する必要はない。コースロープの代わりにゆるく渡してあるガイドロープを、船の上にあげておく。屋内だから風も無いし、ボート自体には推進力は何もない。手っ取り早い方法として、プールの端から端に渡してあるガイドロープを手で手繰る方式を採用した。実験段階でヒナも何回かやってみた。ちょっと力とコツはいるけど、慣れてしまえば楽なものだ。アスレチックでこういうのあるよね。よくコケて池に落ちたもんだよ。

 最初の乗船は、クラスの代表になる。いきなり他クラスとか他学年の人を乗っけて、途中で分解したり沈没したりでは洒落にならない。えー、安全の確認が取れるまでしばらくお待ちください。男子三人が乗り込んで、色々と確認をする。水漏れ、破損、その他気になることは無いか。

 一通りチェックした後で、いよいよ推進係がガイドロープを握る。足に力を入れて、ぐいっと引っ張る。おお、動いた。「結構重い」三人乗ってるからね。そういうものかもね。

 でも問題は無さそうだ。みんなで作ったペットボトルボートがプールの上を静かに渡っていく。見ているだけですごく楽しい。大きな達成感がある。横にいるサユリ、チサトとハイタッチした。やったぜ。サキもいたら良かったのに。残念ながらサキは陸上部で延々と焼きそばを焼く運命にあるということ。焼きそば系女子。

 シュウが目を輝かせてボート見つめている。どうだ、すごいだろ?

「うん、すごい。すごいよ」

 シュウの楽しそうな顔を見ていると、こっちも嬉しくなってくる。ハルがプールから上がって、こっちの方にやって来た。お疲れって言ってバスタオルを渡す。最初の乗船が完了したら、ハルは一旦休憩だ。ヒナも朝ご飯まだだし、一休みしたいかな。うん、お腹が空いてきた。

 お母さんが念のためにとおにぎりを作ってきてくれたらしい。ああ、じゃあそれ食べようか。模擬店にも興味はあるけど、今は何でも良いからさっさと胃袋に詰め込みたい。朝からずっと労働して、クタクタのペコペコだ。

「サユリ、休憩入って良い?」

「まあ良いけど」

 サユリはヒナとハルを交互に見た。ええっと、ナンデショウ?

「ちゃんと帰って来てよ?」

 帰りますよ。もう。ちゃんと反省したってば。

 ほら、シュウが変な目で見てる。弟の前でおかしなこと言わないの。



「時間が必要になる。そっちはどうなんだ?」

「協力者がいる。そこは問題にならないと思う」



 ヒナたちのクラス、一年二組の教室は控室ってことになっている。ペットボトルボートの作業も展示も基本的にはプールで全部完結している。教室はクラスメンバーの荷物置き場兼休憩室扱いだ。

 そう思っていたんだけど、実際には少し違っていた。ヒナは知らなかったんだけど、クラスメイトの一部有志によって、教室の半分は展示で使われることになっていた。

 ペットボトルボートの設計図、制作風景のパネル、小さなペットボトルイカダの展示。なんかしっかりした展示コーナーが出来上がっていてビックリした。ボートに乗れない生徒や一般のお客さん向けに、こういった解説用の場所を設けたんだそうだ。みんな本当にやる気だけはあるんだな。

 写真部にパパラッチされた、ヒナとハルが並んで作業しているところの写真も飾ってあった。なんでこの写真なんだよ。「男女が仲良く制作している所をアピールしたくて」別にウチのクラスそこまで男女険悪じゃないでしょ。他にもいくらでもあっただろうに。怒りはしないけど、普通に恥ずかしいよ。

 最近は、ハルはもうこのくらいじゃ何も言わなくなった。っていうかスルーだ。開き直ったって感じかな。まあそうだよね。ハルのお弁当をヒナが作ってきてたり、気にし出したらキリがないよね。ただ、今回のお泊り事件はちょっとインパクト大きいかな。これがバレた日には大荒れしそうだ。

 朝ご飯を食べるため、ヒナとハルは教室に向かっていた。プールサイドは飲食厳禁。食べこぼしがプールに入ったりなんかしたら大変だからだ。シュウはもっとペットボトルボートを見ていたいとのことで、お母さんとプールに残った。お母さんもヒマではないだろうし、二人とも適当な時間に帰るだろう。まあ、邪魔にならない程度にゆっくりしていってくれ。

 校内はもうすっかり学園祭で浮かれた空気に包まれていた。着ぐるみが闊歩し、メイドが可愛くウインクする。男だけどね。初日の午前中から、何処もエンジン全開だ。校庭では何やらマイクで叫んでいる。なになに、クイズ大会?ちょっと面白そう。

「ヒナ、行くぞ」

 あん、待ってよハル。折角の学園祭なんだから、もっとゆっくり見てこうよ。こうやってハルと一緒に回るの、楽しみにしてたんだよ。いつもの学校が、いつもと違ってそわそわした感じ。なんだかこっちもじっとしていられないじゃん。

「すぐ戻らないと怒られるだろうが」

 ぐっ、そうなんだけどさ。うん、まあ、いいよ。昨夜のお楽しみの代償だと思えば安いもんさ。ハルと過ごした夜を、ヒナは忘れないよ。熱くて、甘くて、そして切ない夜。

「ヒナ、お前いびきかくんだな」

 ええええっ!?ホント?マジで?今初めて知った。ヒナ、いびきかくの?そうなの?ねえ、ハル?

「うそだよ」

 バカー!信じちゃったじゃないか。知らない。ハルのバカ。女の子として、ものすごくショックを受けました。酷い。

「可愛かったよ。すぐに我慢出来なくなりそうだ」

 笑いながらそういうことを言う。もう、バカ。そういえば眠っちゃったのは多分ヒナが先だったね。ヒナの寝顔見てたんだ。恥ずかしい。変なことしなかった?

「してないよ。ヒナのこと、大事だって言ってるだろ?」

 そうでしたね。サユリは真面目な根性無しって言ってたけどね。ふふ、ヒナはハルのそういうところ、好きだよ。そうじゃなきゃ、多分今こういう風にはしてない。ハルがヒナのことを大切にしてくれてるって判ってるから、こうやって何もかも預けられるんだ。ハルの言うことは信じるよ。どっちにしても、全部ハルにあげるつもりだからさ。

「えっ?いや、そうなんだ」

 ・・・う、今、もしかして口に出しちゃってた?

 ハルの顔が真っ赤だ。あわわわ、ええっと、ごめん、忘れて。いや、嘘じゃないんだけど、その、まだ忘れておいて。

「お、おう」

 失敗した。学園祭モードで浮かれちゃってるのかな。昨日の夜の余韻が抜けきっていないのかも。ハル、変に意識しちゃってるね。ヒナもハルの顔を見れなくなっちゃった。あんなにはっちゃけておいて、今更何やってんだって感じだ。

 黙り込んだまま、教室の前までやって来た。ハルが控室側の入り口を開ける。これで中に誰もいなかったりしたらどうしよう。ええっと、そこまではしなくても、今ハルにぎゅうって抱き締められたら、ヒナ、またサユリに怒られるようなことしちゃうかも。ハル、ヒナは、ハルに抱かれたい。


 うん、杞憂だった。

 いつの間に先回りしてたのか、いもたちが奥の方で楽しそうに談笑していた。いも。ハルの友達。じゃがいも1号、じゃがいも2号、さといも。いつものメンバー三人。

 おお、お疲れー。ってハイお疲れ。無意識に不機嫌な顔しちゃったよ。あれ、曙川疲れてる?うん、すっごい。

 他にも、学園祭実行委員のユマが死んだように机に突っ伏していた。おおーい、大丈夫かー?いつもは元気なポニーテールが、へにょん、としなびている。ピクリとも動かないけど、微かに呼吸はしているようだ。起きてる?寝てる?

「なんか俺ら来た時にはもうそんなんだったよ?」

 マジか、じゃがいも2号和田。なんか大変そうだったもんなぁ。いや、現在進行形で大変なんだろう。そっとしておいてあげた方が良さそうか。何しろヒナはユマにとって大変良くないことをしでかしてますからね。前夜祭の話なんてしたら、絶叫して殴りかかってくるぐらいはされるだろう。さわらぬ神になんとやら。

「二人とも今朝メシ?」

 そうだよー、サユリの逆鱗に触れちまってさ。まあヒナが悪いんだけど。あっはっは。ハルと二人で適当な椅子を持ってきて座る。教室内、展示側は綺麗なものだけど、カーテンで区切られた控室側は雑然としたものだ。誰だか知らないけど、濡れたジャージを干してるヤツがいる。これどうにかしろよ。塩素臭いよ。

 お母さんからもらったおにぎりをハルに渡す。やった、メシだ。ハルが歓声を上げた。ホントにそう言いたくなる気分。ヒナもようやく食事にありつける。

「お、また曙川の手作りか?」

 そうだよ、違う曙川だけどね。むしゃむしゃ。これはやらんぞ。超腹減ってるからな。

「プールの方、結構客来てるよな」

 うん、予約も一杯だよ。準備期間中、あまりにも乗りたいって言う人が押し寄せたので、ペットボトルボートの乗船は完全予約制になった。失敗して沈んだら全部チャラだっていうのに、みんな何を血迷ったのか物凄い人気っぷりだった。運航予定を朝イチでホワイトボードに書き出すのがヒナのお仕事だった訳ですが、もう小さい字でみっちりだったよ。何処のラッシュアワーだよ。

 あんまり酷使すると、モノがモノだけに耐久性が心配になってくる。予備としてもう一隻ぐらい準備出来ていれば良かったのかもしれないが、その場合は結局2レーンで運行する状況だったかもね。アトラクションとしての目新しさはピカイチだ。

「やっぱ乗れない人にも、もう一つ楽しんでほしいよな」

 その発想で出来たのが、この教室での展示だって聞いてるよ。これだって十分に大したものだ。ヒナがプールで右往左往している間に、よくここまでやったもんだよ。そういえば展示に関してはユマが中心だったんだっけ。お疲れ様です。なんか死んだような状態のままだから、とりあえず拝んでおこう。ありがたやー。

「まあ、まだ一日目だ。まだ明日がある」

 じゃがいも1号宮下がにやり、と笑った。ん?何その怪しげな仕草?なんか企んでるんじゃないだろうね?

 やめてよ、これ以上面倒を増やすのは。サユリに怒られて、ヒナはもう懲り懲りだよ。余計なことして、ハルとの楽しい学園祭を台無しになんかしないでよ。

「まだ、明日がある、だと?」

 ユマがのっそりと身体を起こした。うわぁ、なんか寝た子起こしちゃったよ。真っ赤に充血した目。そばかすの上にくっきりと隈が。大丈夫?ちゃんと寝てる?休んでる?

「まだ一日目の午前、まだ一日目の午前・・・」

 ユマ、しっかりして。いい感じで壊れちゃってる。学園祭実行委員って大変なんだなぁ。ぶつぶつと意味の判らない言葉をつぶやきながら、何処も見ていない眼でユマは教室を出て行った。お仕事頑張ってください。その、そんな学園祭をぶっ潰しそうなことをしでかしちゃってて、ほんとすいませんでした。

「あー、そう言えば、朝倉、今朝言ったヤツ」

 さといも高橋が、そう言ってハルの方をちらっと見た。ハルが困ったような顔をする。ん?何だ?

「後で頼むわ」

 じゃがいも1号宮下とじゃがいも2号和田も、思わせぶりにうなずいてみせた。なんか企んでんな、こいつら。男子がこうやってると、大体えっちなことだと思っちゃう。もうそういう印象しか持てない。だって男子ィだし。

「なんか、やらしい」

「やらしくないよ!」

 四人ハモった。男子必死だな、ワラ。



「一通りの手はずについては説明した通りだ」

「なるべくいつも通りに、普段通りにしていること」



 ハルと二人して大きなおにぎりを胃袋に押し込んだ。時計を見ると、まだちょっとだけ余裕がある。駆け足になっちゃうけど、出来ることなら、ハルと学園祭を見て回りたい。

 可愛い彼女のわがまま、聞いてくれる?

 やれやれ、という感じでハルは承諾してくれた。ありがとう、ハル、大好き。邪魔者がいなかったらぎゅってしてあげたのにね。ん?何言ってるの、朝、なんでハルがサユリにビンタされたのか、ヒナはちゃんと覚えてるよ。そのくらいだったら、いつでもしてあげるからね。

 いもたちに別れを告げて、ヒナとハルは教室の外に出た。おお、なんか人増えたね。ウチの制服やジャージ以外の人もいる。いよいよ外部からのお客さんも来ているってことだ。我がクラスの展示にも人がいるよ。なんだか嬉しいね。

 学校の中に制服じゃない人が沢山いるのは、見慣れない感じだ。特別な日って思える。ハルと並んでそんな中を歩いているってだけで、ヒナはわくわくしてくる。「ヒナ、あんまり一人で行くな」はぁーい。流石にここで手をつなぐわけにはいかないもんね。ハルはヒナが何処かに行っちゃいそうで、気が気じゃ無いんだろう。心配しすぎ。

 廊下の先が騒々しい。人が溜まってる。なんだろうと思って覗き込んでみると、王子様みたいな恰好をした人がけったいな動きを見せている。えーっと、あれは演劇部?でいいのか?

 よく見ると、ああ、知ってる人だ。支倉はせくら先輩じゃん。ヒナにしては良く覚えていたよ。イケメンらしいんだけど、なんかこう、何処か似非っぽい人。入学してすぐぐらいの頃に一回お話し、っていうかまあ、一方的に少々お世話になった感じ。ヒナの中ではその程度の印象だったんだけど、ちょっとゴタゴタがあって一応顔は存じている。向こうはヒナのことなんて、全くこれっぽっちも覚えていないだろうけどね。

 ってことは、タエもいるのかな。そう思って目線を巡らせてみたら、やっぱりいた。演劇部のプラカードを持っている。二人で演劇部のコマーシャルをしている感じか。髪を綺麗にまとめて、うっすらと化粧して、すっかり美人系になっちゃったね。タエともちょっとしたゴタゴタで絡んだことがあって、今ではヒナが一方的に顔を知っているだけの関係だ。とりあえずのところは、それでいい。

「さぁー、午後一時から演劇部の公演が始まります。世紀の悲劇が、今新たな喜劇となって甦る。片面サニーサイドアップ両面ターンオーバーか、オムレット、是非ご覧になって行ってください」

 うん、ごめん、わけわかんない。

 っていうか、サニーサイドアップとターンオーバーって、オムレツじゃ無くて目玉焼きじゃない?

「目玉焼きだよな?」

 ほら、ハルにまで突っ込まれてる。ねえ、目玉焼きだよねぇ。

「オムレツなら、かた焼きとふわとろ、みたいな?」

 ああ、多分それだ。オムレツって言ったらそれだよね。ヒナはふわとろかな。デミグラスでふわとろ。ケチャップでかた焼きっていうと、ちょっとお子様な気がする。いえ、個人の感想ですよ?

「目玉焼きは両面かな」

 なんと、ハルはターンオーバー派でしたか。これはいきなり結婚生活に危機到来の予感だ。ヒナは断然サニーサイドアップ。お湯を差してね、蓋して蒸し焼きにするんだよ。表面がちゅるんってしてるのが良い。それをお塩でいただくの。

「黄身まで固く焼いて、ソースで食うのが良くねぇ?」

 それじゃお好み焼きのトッピングだよ。目玉焼きは、あくまで目玉であるべき。それに黄身まで焼いちゃうような火力だと、もう白身がゴムみたいに固くなっちゃうじゃん。それはいただけない。白身はふんわり、黄身はとろーりで。

「いやいや、歯ごたえとメリハリのあるソース味だって。片面だとでろでろになっちゃうし」

 それはハルの食べ方の問題だよ。トーストでいただく場合、パンでこぼれた黄身を拭き取るようにして頂く。卵の風味を吸って、最後までおいしく食べられるのですよ。

「ベーコンと一緒にガッツリ行く方がうまいよ」

 アメリカンだなぁ。ハル、ベーコン食べる時にまさかソースかけるの?それはちょっと塩分が濃すぎない?体型までアメリカンになったら困るから、来週からお弁当の塩分少しカットしようか。ターンオーバーは油吸っちゃうところも問題だよね。

「ええー、いいじゃん目玉焼きくらい」

 良くない。卵料理は大事です。ヒナはサニーサイドアップしか作らないからね。ヒナの好みだけじゃなくって、ハルの健康のためです。長生きしてくれないと困るでしょ。

「・・・あのう」

 タエが恐る恐るという感じで声をかけてきた。はい、何でしょう?

 ふっと我に返って、そこで気が付いた。支倉先輩に集中していた視線が、すっかりヒナとハルの方に向いてしまっている。オムレットの王子様、楽しい夫婦漫才にすっかり食われてしまってました。

 支倉先輩がぽかーんってヒナの方を見ている。あわわわ、ご、ごめんなさい。

 失礼しました、って言って走ってその場を離れる。後ろからどっと笑い声が。うわぁ、タエごめんね、支倉先輩の見せ場奪っちゃって。少しでも演劇部の公演に人が来ることを願うよ。

「やっぱ両面焼いた方が良いって」

 ハル、その話もういいから。

 味噌汁の具の組み合わせと、カレーの辛さについてはクリアしてたんだけどな。食生活のすり合わせは難しい。



「何だかちょっと悪い気もするけど」

「いいよ。これは俺のわがままでもあるんだから。気にしないでくれ」

「うん・・・」



 妙なドタバタのせいで、無駄に時間を浪費してしまった。最小限顔を出しておかなければいけない所、ということで、水泳部の正面ゲートに向かうことにした。ああ、そういえば結局まだ完成したところを見てないや。

 正面ゲートのデコレーションは、今年は中国龍だ。ボール持ってるヤツ。デザインも某マンガに良く似ている気がする。どうあがいてもこうなっちゃうものなのかな。パクりって言われたらどうするんだろう。

 色が青ってことは青竜なんだね。南門だけど。細かいこと言い出したらキリが無いからやめておこう。ヒナのこういうムダ知識は、大体お父さん譲りなんだよな。

「おー、曙川ー、いたのかぁー」

 のそのそと水泳部の部長、メイコさんがやって来た。こちらは正真正銘の徹夜組。いつもはシャッキリと伸びてる背中が、今日に限って猫背気味。目もしぱしぱしてるし、全体的に疲れてるオーラが出てますね。

 それでもすらりとした長身、がっちりとした肩幅、それでいてしっかり出ている所は出ているスタイルと、存在感はバッチリだ。短く切り揃えられた髪はヘルメットに隠れているけど、大きくて目力の強い視線は相変わらず。眠そうなのに強そうって、メイコさんは何処までもエネルギーに満ち溢れている感じだ。

 そうか、ヒナが門から出ていないことを、メイコさんは気付いているのかもしれないのか。寝ぼけて見逃していた、ってことにしておいてほしいな。プールでお泊りなんて、水泳部部長のメイコさんに知られたらそれこそ大目玉を食らいそう。くわばらくわばら。

 しかしメイコさん、その格好はちょっと。下はジャージのズボンだけど、上がタンクトップって。普段競泳水着だからその辺の感覚がマヒしちゃうのかな。普通にここ、正門ですからね?来る人来る人みんな見てますからね?

 首からタオル下げて、ヘルメット被ってるから、パッと見は工事現場のお姉さん。ガテン系女子。でもタンクトップからその、ちらちらと見えてます。色気のあるヤツじゃなきゃ良いってもんじゃないです。寝ぼけてるからって、無防備すぎ。

 良く見ると、校門の横とかの日陰で、他の水泳部員もぐんにゃりと座り込んで寝こけている。女子の先輩もいる。わあ、ダメだって。みんなしっかりして。

「やー、なんかあった時は即対応しなきゃだからさぁ」

 なんかって、これ、なんかあるんですか。

 そう訊こうとしたところで、がおう、と龍が吠えた。丁度ゲートを潜ろうとしていた一般のお客さんが驚いて飛び退く。うわぁ、目が光ったよ。口から煙噴いたよ。なんじゃこりゃあ。

「これこれ。止まっちゃったら困るじゃん。雨降って来たら更に困るし」

 いや、これはちょっとやり過ぎなのでは?お客さん普通にびびってますよ?ほら、滅茶苦茶警戒してるし。えーっと、大丈夫ですよー、入ってきてくださーい。

 そんな状況を見て、メイコさんは実に満足げだ。まあ確かに造形も見事だし、仕掛けも面白い。どういう仕組みで動いているのかはヒナも気になる。ヒナが最初に考えていた、「アトラクション的」な何かにすごく近い気がする。

 サユリもこれ作るの手伝ったんだよね。いいなぁ、ヒナもこれ、少しは関わりたかったな。やっぱりこうやって大勢で何かを作るのって楽しい。出来たものがすごいものならば尚更だ。

「お、そういえばキミが曙川の彼氏?」

 メイコさんがハルの方を見た。ハルが緊張して気を付けする。うん、メイコさん、妙な迫力あるよね。ブラチラとか見てる場合じゃないよ、ハル。エッチ。

「一年の朝倉ハルです。その、はじめまして」

「ははは、名前は知ってる。みんな言ってるし」

 ホントに何で言いふらすんだ。ヒナは自分ではそんなに喋ってるつもりは無いし、話してくれって頼んだ覚えも無いよ。むしろ、ヒナはハルと静かに過ごしたい。楽しく学生生活を送りたい。

「曙川はなんか自覚が無いみたいだからさ、結構困ってるんじゃないの?」

 なんですか、それ?

 ハルはぽりぽりって顎を掻いていた。なんだよう、なんなんだよう。初対面のメイコさんとハルで、一体何を通じあってるんだよう。気になるじゃんかよう。

「まあ部活の方は大丈夫だよ。悪い虫がつかないように、見ておいてあげるからさ」

 悪い虫って。別にヒナはそんなモテる子じゃないですってば。水泳部ではヒナなんかよりもずっと可愛い子とか、スタイルの良い子とかがいて、毎度ヘコみまくりですよ。メイコさんだってその一人ですよ。わあ、もう、見えてる透けてる。

「ん?ああこれ、水着だって。セパレートの」

 なぁんだ、ってそれでも良くないですってば。青少年の精神衛生上、よろしくありません。暑くてもジャージの上、せめてTシャツくらい着てください。

「あ、これブラだった。忘れてた」

 あー、もー!

 あっけらかんと笑うメイコさんはホントに可愛い。困った部長さんだ。ハルはなんでホッとしてるんだ。水着じゃ無くてブラだったからか?

「そうじゃないって」

 じゃあなんだよう。

「ヒナが、みんなに良くしてもらってるみたいだからさ」

 まあね。それはそう思うよ。メイコさんも、サユリも、他の部員も、先輩たちも。ヒナにとても良くしてくれてると思う。水泳部に入った当初は、やっぱりうまくやっていけるかどうか少し不安だった。途中入部だったし。

 今こうしてヒナが楽しく話をしていられるのは、間違いなくみんなのお陰だ。みんながヒナを受け入れてくれたからだ。それはちゃんと理解している。感謝してる。

 だから、ハルも安心して。ヒナはちゃんとやってますよ。そこまで心配しなくても平気ですよ。

「よーっし、これで学園祭アンケート第一位はいただきだ」

 メイコさんが気合を入れ直している。アンケートか、そんなものもありましたね。賞品はなんでしたっけ?学食の割引券?部費の割り増し請求権?

「その両方だ!」

 なるほど、みんな真剣に頑張るわけだ。でも、ヒナのクラスが仮に一位になったとしたら、部費の割り増し請求権って何に化けるんだろう?後でユマにでも聞いてみるか。

 ん?そういえば水泳部二年生のメイコさんがこの正門ゲートを担当したんだよね。正門ゲートは毎年水泳部がやることになっている。ってことは来年って。

「来年は頼んだぞ、曙川」

 ふええ、マジですか。

 毎年、去年を超えるって言って、今年これが出来上がったってことですよね。ええー、ヒナはこれを超えなきゃいけないの?

 がおう、ってまた龍が吠えた。うっそぉーん、何も思い付かないよ。もうペットボトルじゃダメですかね。来年は正門ゲートはエコロジーってことで。うん、それが良い。そうしよう。もう決めた。

 携帯が元気に振動した。ああ、サユリからの呼び出しだ。今日の自由時間はここまで。全然堪能出来なかった気がするよ。

 明日はハルがプールに貼り付いてないといけないんだよね。ヒナもずっとプールにいようかな。



「手間かかってるからね。綺麗に落ちてくれないと困るな」

「一番口を滑らせそうな誰かさんが、ちゃんと黙っててくれれば平気さ」



 その後、午後はずっとプールでお仕事をすることになった。いや、大盛況過ぎて嬉しい悲鳴。予約していて乗船に来るお客さんだけでなくて、想像以上に見物に来る人が多かった。そんなに珍しかったですかね。

 ボートに乗船したい場合には、幾つかの条件がある。まずは、この学校の生徒であること。外部の人を乗っけて、事故なんか起きたら対応出来ないからだ。次に、乗船時に水着を着用すること。普通にしてても濡れるし、ペットボトルとバスマットなんて滑って転べと言っているようなものだ。まあここまでは大体条件を飲んでもらえる。

 最後の難関、正確な体重を申告すること。積載重量をきちんと確認しないといけないので、この項目はどうしても外せなかった。事前に水泳部のOBであるゴリラ先輩とも約束した手前、安全対策の手は抜けなかったのだ。だから、これは嫌がらせとかではないんです。女子のみなさん、ごめんなさい。

 これだけのハードルがあったが、乗船申し込みはあっという間に満員御礼となった。今はキャンセル待ちの状態。ファストパスとか売ったら儲かるんじゃないかって、男子は言ってた。儲けに走るならそうかもね。でも、これは学園祭だからさぁ。

 受付でこれらの説明をするだけであっという間に時間が過ぎていく。もう、次から次へと聞いてくる。模造紙に書いて貼り出してあるのに聞いてくる。だーかーらー、今から申し込んでもキャンセル待ちです。外部の人は乗れません。あー、もー!

 遅い昼ご飯を食べようとプールの外に出たら、学食はいつもと違うスペシャルメニュー構成で猛烈に混んでいた。ずるい、普段からそのデザートとか出してほしい。出店系の方に回ってみたら、こっちはこっちで作るのが追い付かないらしく、何処を見ても結構な待ち時間がある。プールの方も想像以上にお客さんが多いので、ヒナもゆっくりとはしていられない。

 どうしたもんかと思いながら控室を覗いてみると、焼きそばのパックでピラミッドが積み上げられていた。こ、これは。

「あー、陸上部からまとめて買っておいた」

 さといも高橋君、これはグッジョブと言って良いのかどうか。ヒナ的にはお昼ご飯にありつけて嬉しいんだけど、これを欲しがっている他のお客さんの意思はガン無視だよね。まあいいさ、ありがたく頂くよ。折り紙で作った箱が置いてあって、二百円って書いてある。良心的じゃないか。ちゃりん。

 うん、普通の焼きそばだね。ちょっと冷めてる。お祭りの縁日のヤツよりは具材が多い。二百円だとほとんど儲けが無い気がするなぁ。キャベツとお肉だけで結構するよね。

「なんかミョーに人気があったんだけど、別に普通の焼きそばだよなぁ」

 男子が首をかしげながら食べている。わかってないなキミたち。これは多分、サキが焼いてるんだよ。王子様焼きそばだ。やっぱりそのプレミアを理解していない人間が買い占めてしまうのは、良くないことだったのかもしれない。ここは責任を持って、その価値を知っているヒナが消費してしまいましょう。ちゃりん。

 焼きそば三パック食べてややもたれ気味。重いお腹をさすりながらプールに戻ってみると、また人が増えていた。午後になってまだ人が来るのか。ボートにはハルが乗っていて、ガイドロープを引っ張っている。ハル、お昼食べたっけ?肉体労働大変だなぁ。

「ヒナ姉さん」

 不意にそんな声をかけられた。学校でそう呼ばれるのは珍しい、っていうか初めてだ。なんだかくすぐったいな。ヒナのことをそう呼ぶのは一人しかいない。ハルの弟、小学六年生のカイだ。

 六年生にしては背も高いし、しっかりしている。ランドセル背負ってると正直違和感があってね。今日も私服の中学生くらいに見える。って、一緒にいる男の子は中学の制服だね。ヒナが行ってたのと同じ中学だ。

「カイ、いらっしゃい。友達と来たの?」

「サッカーチームの先輩です。来年は受験生で、ここを受験するかも、ということで見学に来ました」

 中学二年生か。今、あの中学どうなんだろうね。ヒナがいた時は酷いもんで、ってカイはハルに聞いて知っているか。とりあえず失礼の無いようにご挨拶しておこう。

「こんにちは。曙川ヒナです。カイと仲良くしてあげてね」

「は、はい。こちらこそ」

 なんだかおどおどしている。ヒナ、何かおかしかったかな?まあいいや。

「今、丁度ハルがボートに乗ってるよ」

 二人をプールに近付かせて、ハルの方を指差す。こちらに気が付いたのか、ハルも手を振ってくれた。プールに落っこちないように、ヒナが二人の肩を軽く支える。うん、なんか弟が二人出来たみたい。いや、シュウとカイで二人なんだけどさ。シュウがもうちょっと大きくなったらこんな感じかな。

 カイも来年には中学生だ。そう考えると感慨深い。ハルの後ろをちょこちょこと歩いていたのが、今ではすっかりハルよりも大人な感じ。身長もヒナと変わらない。ハルに似てるけど、もうちょっとシャープで、線が細くて、すっきりとした印象の顔立ち。サッカーやってて、勉強も出来て、普通にモテそうだよね。ハルの立場無さそう。まあ、ハルにはヒナがいてあげるから、それで勘弁してください。

 カイのお友達も、似たような感じかな。こっちは中学生だからもうちょっと年上か。サッカークラブってハナシだし、やっぱりスポーツしてるっていうのはなんとなく判る。生命力を感じるね。いいなぁ、若いって。

「すごいですね」

「結構苦労したからね」

 カイが目を輝かせている。やっぱり男の子はこういうの好きか。お友達の方も、なんだか熱い視線を向けている。うん、こうやって喜んでもらえると、頑張った甲斐があったってものだ。

「乗せてあげる訳にはいかないんだけど、教室の方に色々展示してあるから、良かったら見ていってね」

 って、言ってから気が付いた。ハルと二人で写ってる写真が展示してあるんだった。まあ、あのくらいなら別にいいか。そんなにいちゃいちゃしている訳でもないし。カイなら普通にスルーするでしょ。

「昨日も大変でしたよね。ハル兄さんも徹夜だったみたいで」

 ぐはっ。そうか、ハルも帰ってないんだった。変な汗が出てくる。まずい。余計なことを言うなよ、ヒナ。

「ははは、まあ、最後の大詰めだったからね」

 クラスメイトがいるところで、べらべらとしゃべらせる訳にはいかんな。

「じゃあ、展示の所まで案内してあげる」

 ぐいぐいと二人の背中を押してプールを後にする。サユリが睨んでるけど気にしない。ちょっと展示まで案内して来るね、と言ってさっさと逃げ出した。あっぶねー。

 教訓、隠し事ってのはバレる。どんなに気を付けていても、何処かしらから漏れる。神様、ごめんなさい。

 まあでも、とりあえずカイからクラスメイトに漏洩することだけは回避出来たみたいだ。展示を見た後、「他も見てきます」と言って二人は去って行った。ホントならずっと監視していたいところだけど、ヒナがいると逆にポロリと余計なことまで言っちゃいそうだ。カイ、ヒナは信じているよ。

 どっと疲れてプールに戻ったヒナを待っていたのは、サユリのお説教。はーい、すいませーん。代償が想像以上に大きくて困る。もう後は大人しく仕事してますよ。とほほ。

 ハルも控室で王子様焼きそばを食べて戻ってきて、ようやく一日目が終わりを迎えた。一日目、キャンセル発生せず。うわぁ、すごい盛況っぷりだね。ホントにお金取れば良かったかも。

 明日に向けて、今日の片付けと新たな準備が必要。さ、最後にもう一仕事だ。

「ヒナは今日はもう帰りな。あ、あと朝倉も」

 折角出したやる気は、サユリに出鼻を挫かれてしまった。えー、まだ頑張れるよ?

「あんたたち、今日は家に帰れって言ってるの。馬鹿なの?」

 ひそひそと耳打ちされた。あ、はい、ソウデスネ。昨日家に帰って無くて、今日も遅くなるとか、マズイですよね。ハルと目を合わせて、へへへ、って笑ってしまう。サユリ総監督はまたご立腹だ。

 他のクラスメイトがまだバタバタしてる中帰るのはちょっと気が引けたけど、サユリは怖いし、疲れているのも確かなんだよね。お言葉に甘えて、というか監督の指示に従って、ヒナはハルと一足先に上がらせてもらうことにした。また明日ね。


 正門ゲートでは、メイコさんが何やら檄を飛ばしていた。水泳部員たちが龍のあちこちをいじっている。なんか維持のコスト高そうだなぁ。常に誰かが付いてないといけないって、かなり大変なんじゃない?

「おー、曙川、お疲れさーん」

 メイコさんが手を振ってくれる。お疲れ様です。頼むから上、着てください。そうじゃないと、もうワザとだって思うことにします。バストハラスメントです。

 この時間に下校する生徒の数は少ない。何かしらの用があって残っている人が大部分なんだろう。おお、久し振りにこの時間、ハルとゆっくり出来そうな気がする。珍しい。

 学校帰りの時間は、ハルが男子の友達と帰れるように、ヒナはちょっとだけ距離を置いていた。実際二人で下校ってシチュエーション自体があまりない。最近はハルの男友達と一緒になって帰ってたりもしてたけど、二人きりってのは無かった。放課後デートって、ちょっと憧れだ。

 ああ、でも今日は早く帰らないとな。もったいない気もするけれど、これで夜遊びなんかした日にはサユリに何を言われるかわかったもんじゃない。お母さんも流石に黙ってないだろう。ハルにも多大なるご迷惑をおかけすることになる。自重だ、自重。

「二人で帰るって、珍しいな」

 ハルがそう言ってくれた。うん、そうだよ。そうなんだよ。気付いてくれたんだ。

「ホントにね。朝は二人なのに」

「ヒナは色々と気を使い過ぎだよ」

 そんなことないよ。ヒナはハルに嫌われたくないし、ハルが楽しく学生生活出来るようにって、そう思ってるだけ。自分の中にあるハルを好きな気持ちが大き過ぎるから、むしろこれくらいで丁度良いんだ。

 だから、たまに昨日みたいに爆発しちゃうのかもね。好きって気持ちが、抑えられなくなっちゃうの。そのくらい好きなんだよ、ハル。ヒナの大切な人。

「それでもハルを困らせちゃうから。ごめんね」

 うん、ホントにゴメン。今思えばなんちゅうことをしたんだと思う。青春の暴走だ。

「いいよ。ヒナの気持ちは嬉しい」

 ハルは素敵な彼氏だなぁ。そうやって甘やかすから、ヒナは走り出しちゃうんだと思うよ?もっと束縛してくれた方が、ハルとしては安心出来るんじゃないかな。

「ハルの方こそ、無理してない?」

「まー、我慢はしてるよ。可愛い彼女に迫られちゃったりしてるし」

 むぐっ。言い返せない。ハルのバカ。超バカ。もうその話はやめようよ。

「でも」

 ハルがヒナの顔を見る。優しい笑顔。ヒナの好きな、ハル。

「ヒナの気持ちが判って、嬉しいよ。すごく、安心出来る」

 残念だな。二人きりだったら、抱き付いてキスのコースだった。ヒナがハルにアタックしてハルが安心してくれるなら、もうガンガン行っちゃう。心のブレーキ全損しちゃう。

「ハルは贅沢だなぁ。まだ安心出来ないことがあるの?」

「そりゃあ、まあ」

 好きって言って。抱き締めあって。キスして。一夜を共にして。

 まだ足りないだなんて、どれだけハルは贅沢なんだろう。ヒナはもうハルのものだよ。これ以上何が欲しいの?言ってくれれば、もうヒナはハルに何だってあげちゃうよ。さっきも聞いてたでしょ。エッチ。

「ヒナは可愛いからさ。安心なんて出来ないよ」

 何言ってるんだか。それは彼氏の贔屓目ってヤツですよ。ヒナはそこまで可愛い子じゃないです。ハルに可愛いって言ってもらえればそれで満足。ハルの自慢のヒナになれればそれで十分。余計な心配ですよ。

「もう、ハルは私がハル以外の誰かを好きになるとでも思ってるの?」

 もしそうなら失礼しちゃう。ヒナがどれだけハルのことを好きだと思ってるんだろう。ハルを好きっていう気持ちなら、ヒナは誰にも負けないよ。自信を持って断言出来る。ヒナは、ハルのことが好き。この気持ちは、誰にも負けない。

 信じて、ハル。ヒナはハル以外の誰かを好きになんかならない。誰かに取られるとか、そんなことは絶対に無い。だってもうずっと昔から、ヒナは何もかもをハルのところに預けっぱなしなんだから。今更違う誰かのところになんて行けないよ。

「そんなことは無いって、俺が言い切っちゃっていいのかな?」

 もちろん。そこは自信を持っていただいて結構ですのよ?ハルはヒナの全部なんですから。

「どうですかね」

 ふふ、何で悩むかな。悩むことなんて無いのにな。ヒナはいつもハルに好き好きオーラ出してるのに。こんなに好きなハルを裏切るなんて、ヒナには出来ません。むしろハルの方から、しっかりと言い切ってくださいな。

 何処にも行くなって。ヒナは、ハルのものだって。その通りなんだから。

「じゃあ、頑張って素敵な彼氏でいてください。私が何処にも行かないって、ハルが自分で安心出来るように、ね」

 ハルがハルでいてくれれば、もうそれだけでヒナにとっては素敵な彼氏。だから、この条件は常に満たされてる。安心してね、ハル。まあ、ヒナの心の声は聞こえないか。ふふ。

 ふわふわした会話をして、とても満足。ハルの中で、ヒナは可愛い彼女でいられてるみたい。良かった良かった。

 明日は学園祭二日目。お祭りはまだ終わらない。今日の感じだと、明日はもっと大変なことになりそう。ゆっくり休んで鋭気を養おう。そうじゃなきゃ、さっさと帰してくれたサユリに申し訳が立たない。

「ハル、また明日」

「おう、また明日な」

 ひらひら、と手を振って、いつものコンビニ前で別れる。あ、これ楽しい。青春って感じ。ハル、たまにでいいから、こうやって二人で帰ろうよ。やっぱりヒナ、ハルと高校生活の思い出、もっといっぱい作りたい。

 ん?ハル、何処に行くんだろう?そっちは学校に戻っちゃうよ?

 忘れ物かな?まあいいか。早く帰るんだよ。明日も早いんだからね。



「これだけは確認させてくれ。結果がどうあれ」

「判ってる判ってる。心配すんなっての」

「心配もするさ。そもそも」

「はいはい、そういうのは後でやってね。今は計画通りいきましょう」



 学園祭一日目終了後、家に帰ったヒナにお母さんが放った一言は「あら、帰って来たの」だった。はい、帰って来ましたよ、今日はね。それともハルの家に嫁入りした方が良かったですか。ヒナ的には向こうさんの迷惑にならないようなら、もうそうしても全然構わないんですけどね。

 何処までバレてるのかわからないから、迂闊なことは口に出来ない。変な情報が渡ってしまったら、またロクでもないセットアップが待っているに違いない。次にお父さんが帰国した時に、婚約祝いとか言われないように気を付けよう。いや、言われても良いけど、その場合は本人たちからの報告を受けてからにしてほしい。

 ご飯食べてお風呂入って、ようやく少し落ち着いてきた。ああ、帰ってきちゃったな、って感じだ。もっとふわふわしてたかったなぁ。学園祭、学校なのに学校じゃない雰囲気。朝起きてからずっといたから、すっかりそこに住んでいる気分になっちゃってた。ハルと二人で。それも楽しいな。

 ハルは疲れているのか、メッセージの返事が微妙に遅かった。無理をさせても可愛そうだし、控えめでいこう。ベッドに横になると、昨夜のことを思い出して胸がきゅっとなった。ハルと一晩、一緒にいたんだよね。二人きりで、並んで眠った。うわぁ、それってすごいことだ。もう何をされても文句が言えない状況。文句なんて言わないけど。

 うひゃあああ、ってベッドの上でどったんばったんしてしまった。やり過ぎですか。やり過ぎですね。たまらんですか。たまらんですね。は、恥ずかしい。あと、ハル、カッコいい。素敵。

 もう奥さんで良いじゃん。嫁入りするする。ハルのお母さんなら、姑としては問題ないです。ちょっとはっちゃけすぎる時があるかな。ウチのお父さんみたいなものだと思えば何とかいけるか。ハルのお父さんはダンディで良いよね。舅さんとしては申し分ない。後はカイ。カイはもう完全にもう一人の弟だしな。ああ、いけるいける。

 都合の良い妄想してウヒウヒしてたら知らない間に眠っていた。目覚ましが鳴って起きた時、状況が理解出来ずにぼんやりしちゃったよ。ヒナも自分で気付いていないだけで、だいぶ疲れてたんだね。ぐっすりだった。

 朝の登校時、ハルとの待ち合わせ場所にしているコンビニ前に行くと、ハルも眠そうにあくびしていた。お疲れ様、ハル。

「おはよう、ハル。眠そうだね」

「おはよう、ヒナ。もう眠くて眠くて」

 ははは、よっぽど眠いんだね。ただでさえ細い目が、もう開いてるんだか閉じてるんだか判らないよ。おーい、見えてる?目、開いてる?

 朝は元気なハルがちょっと弱ってるのは面白い。そういえば昨日の朝も、寝起きはアレだったよね。朝強いとばっかり思ってたのに。ちょっと意外でした。ヒナにもまだハルについて知らないことがあるんだなぁ。

 お疲れのところ申し訳ないけど、今日もきっと忙しいですよ。気合入れていきましょう。ふわぁー。

 いつもとはまたちょっと違うふわふわした感じで学校までやって来ると、校門のところで水泳部がわいわいと作業していた。メイコさん、まさか昨日も泊まりだったんじゃ。多分そのまさかだね。汗を光らせながら、メイコさんはてきぱきと指示を出している。

「おう、お二人さん、おっはよう」

 うわぁ、こっちは正真正銘、朝から元気な人だ。大きい声が若干頭に響きます。すごいなぁ。っていうかいつ寝てるんだ。作業している水泳部員は皆ゾンビみたいな顔してますよ。水泳部オブザデッド。

「朝倉君は昨日は大丈夫だったのかね?」

 ん?ハル?どうかしたっけ?

 そういえば昨日、ヒナと別れた後学校の方に向かってたけど、本当に学校まで戻ってたのか。ハルの顔を見ると、ダメだ、聞いてるんだか聞いてないんだかって感じだ。おーい、ハル、起きてー。

 ヒナが目の前でひらひらと手を振ると、ようやくハルの意識が戻ってきた。ちょっと寝不足過ぎない?まさか寝てないとか言わないよね。もう、しっかりしてよ?

「ああ、はい。大丈夫でした。多分何とかなると思います」

 ぼそぼそとそこまで言って、それからはっとしたようにヒナの顔を見た。なんだよ。彼女の存在を忘れてたのか?失礼だな。一緒に歩いて学校まで来たでしょ?

 変な愛想笑いを浮かべて、ハルはメイコさんにぺこぺこと頭を下げた。ふむ、なんか怪しいな。昨日ヒナと別れた後、何かやらかしたんじゃないだろうね。

「ハル、昨日何かあったの?」

「いや、まあ、大したことじゃないというか」

 む、これ、絶対何か隠してるでしょ。

「そのうちわかるよ」

 なんだそりゃ。

 ハルがヒナに隠し事ですか。酷いな。ヒナはハルに隠してることなんか・・・あるけどさ。

 でも、折角ハルの奥さんになれるかも、なんて考えてた矢先だったから、ちょっとショックだ。ハルのバカ。そのうちわかるって、ホントだろうな。じゃあ信じるよ。ヒナはハルを信じます。

「ヒナ、怒ってる?」

「怒ってませーん」

 知らない。ぷーんだ。



「じゃあ、楽しいお祭りにしましょう」

「ああ、楽しみだ。ほら、もっと楽しそうな顔しろよ」

「お前だって、やりたいんだろ?」


「ヒナ、ごめん」



 二日目、ヒナは午前中はプールで受け付けのお仕事だ。予想通り昨日を上回る客の入りで、もうてんてこ舞いもいいところだった。広いプールではあるけれど、ここまで見物が多いとは想定の範囲外。えー、これ、どうなってんの?

 市内報の取材とかも来ていた。ペットボトルのリサイクル関連でどうとか。プールでそれやられると収拾がつかないので、展示の方に移動してもらった。はあ、グッタリだ。人気がありすぎるってのも考え物だね。もっと内輪で静かに、ってのもアリだと思った。退屈過ぎるくらいで実は丁度良かったのかなぁ。

 発案者ってコトで、写真まで撮られてしまった。しかもハルと写っているパネルの前で。何の罰ゲームだ。この写真が市内報に使われたりしたら、いよいよヒナとハルは市内全域にバカップルとして知られてしまうのか。ううう、それはいくらなんでも。

 プールに戻って来たらまたわーきゃーと騒々しいし。お祭りだなぁ。いや、楽しいんだけど、どちらかと言えばヒナはお祭りを楽しむ側でいたい。運営側は、なんというか、もうお腹一杯だ。

「ヒナ、お疲れ」

 台風のような午前が過ぎて、ヒナはようやく解放された。おおお、自由って素晴らしい。ハルはまだボートに乗ってロープを引っ張っている。ハル、頑張れー。余裕があるようならハルの姿が見えるプールにずっといようかとも思っていたけど、少しで良いから外の空気を吸って来たいかな。や、もう限界ですってば。

「サキのところ、様子見てきたら?」

 サユリに言われて、そういえば学園祭の間、サキの姿を全然見てないな、と思った。焼いたそばなら昨日食べたけどね。二日連続で鉄板に向かっているとなると、ヒナどころじゃなく伸びていることだろう。陣中見舞いをしておくべきか。お昼もついでに買いたいし。

 アディオスアミーゴ、ヒナはプールを後にした。はああ、塩素の匂いがしない普通の空気。スタッフじゃない、一般参加者としての身軽な学園祭。たまらん。着替えの手間を省くために、水着の上にジャージなのがイマイチだけど。学園祭実行委員のユマとかは超大変だろうな。でも確か立候補してなったんだし、好きでやってるってことか。よくわからん。

 陸上部の焼きそばは、確か校庭の方、渡り廊下の下辺りでやってるはずだ。特別な許可を得て鉄板とガス台を持ち込んでいる。こちらも水泳部の正門ゲートと同じく、毎年恒例の出し物なのだそうだ。サキは一年生ながら何かを見込まれて、メインの調理係を担当している。

 まあ、何かって、見た目なんだろうけどさ。サキは女の子だけど、王子様。クラスの王子様は学年の王子様になり、陸上部の王子様にもなっていた。もうすぐ学校の王子様にまで進化するんじゃないかな。とどまるところを知らない。

 すらりとした長身、さっぱりとしたショートヘア、猫みたいな目。そして柔らかな物腰。紳士な態度。それでいて、自宅が美容院というところから来る細やかな気配りとセンス。なんだ、完璧超人か。

 そんなサキが焼いてくれる焼きそばが売れない訳がない。王子様焼きそばは学園祭一日目の目玉商品となっていた。ウチのクラスのさといも高橋が大量買い占めとかやってたけどな。そのせいでサキが重労働を強いられてたりしないか、そこはちょっと気になる。まあ、あの焼きそばピラミッドは最終的には無事全部消費されたということだけど。

 ん、なんか今日はそんなに混んでないみたいだけど?デッカイ看板が出ている。『秘伝のソースと秘蔵の調理者』ってすごいコピーだな。やっぱりサキが前面に出されてるんだ。それで空いてるってことは、ひょっとしてサキがダウンしてるんじゃないの?

 案の定、サキは後ろの方で横になっていた。他の陸上部員が団扇で扇いでいる。うん、もはやサキが焼きそば状態だね。部員の人に話してサキのところまで通してもらった。おお、日焼けというか、鉄板焼けで真っ赤になっちゃって。撥ねたソースと油でエプロンもぐちゃぐちゃだ。無茶しやがって。

「ああ、ヒナ。ごめんね、クラスの方、ほとんど顔出せなくてさ」

 いやいやいや、この状態を見て、クラスの方にも協力しろとか、そんな無体なことは言えませんよ。サキは頑張ってる。昨日アホな買い方したさといも高橋は、後でちょっとシメとく。

 一日目はほとんど休みなく鉄板に向かっていたそうだ。焼いたそばから売れていく。「正に焼きそば」いいから大人しくしてなって。王子様が台無しだよ。疲れ切ってナチュラルハイになってるんだ。モルダー、あなた疲れてるのよ。

 今日も朝から焼きまくっていたが、熱中症で引っ繰り返りそうになったところでストップがかかったとのこと。本人はまだ焼けるとか言ってるけど、うん、見ている限り限界を超えてるよ。あと、材料も仕入れが必要なんだって。どんだけ焼いたんだ。

「でも、ヒナの分は予約入ってたからね、ちゃんと作っておいたよ」

 はぁ?予約?

 良くわからないけど、お昼時辺りにヒナが来たら渡しておいてくれって頼まれていたらしい。誰だ?サユリかな?応対したのがサキではないということで、詳細は不明。ふむ、まあいいや。お昼食いっぱぐれないで済むのはありがたい。遠慮なくいただきますよ。

 ビニール袋に入った焼きそばのパックを受け取る。「グッドラック」なんだそれ?がっくりとサキの身体から力が抜け落ちた。サキ、キミのことは忘れない。ゴッドスピード。

 まあ、お昼は手に入ったし、まずはこれをかきこんでしまおう。なんか具が多い気がする。サキスペシャルって感じか。ほくほくで教室に移動した。エネルギー回復して、ハルのいるプールに戻っちゃおうかな。

 控室に入ると、お昼時ということもあって何人かのクラスメイトがいた。でも、いもたちはいないし、当然ハルもいない。今日はユマが沈んでいることも無かった。ヒナは窓際の方の席に座ると、ビニール袋から焼きそばを取り出した。さーて、スペシャルはどんなお味かな。

 ん?パックの底に何かついてる。付箋だ。ヒナ用ってコトでマーキングしてあったのかな。何気なく剥がして、書いてある文字に目を通す。ゴミかなー、ってぼんやりしてた。


『オマエノヒミツヲシッテイル。イチジニエンソウキッサニコイ』


 え?

 え?え?

 思わず立ち上がった。がたっ、て椅子が倒れて、クラスメイトたちがヒナの方に視線を向ける。ごめん、なんでもない。慌てて椅子を戻して、再び付箋紙に書かれた文字に目を向けた。ねえ、ちょっと、これ、何?

 落ち着け。大きく息を吸って、吐く。焼きそばの匂い。お腹空いてるな。まずは食べよう。大丈夫、焼きそばを作ったのはサキだ。それに、食べ物に何か仕込むくらいの搦め手を使うなら、そもそもこんなことはしてこない。

 無言で焼きそばを食べながら、教室の時計を見る。午後一時まであとニ十分くらいか。時間的な余裕はありそうだ。しかし、問題はこのメッセージを出してきた奴が、ヒナの一体何を知っていて、何を目的にこんなメッセージを寄越したのか、ということ。

 秘密。確かにヒナには大きな秘密がある。誰にも、ハルにだって話すことが出来ない大きな秘密。左掌に埋め込まれた銀の鍵。

 お父さんが海外土産で買ってきたアクセサリ。おまじないグッズ。運が良いのか悪いのか、それは真実強力な魔術具だった。人の心を読み、操り、この世界に存在するありとあらゆる理の触媒となり得る、神々の住まう幻夢境カダスへの扉を開く究極の鍵。

 中学生の時、ヒナはこの銀の鍵の守護者である神官ナシュトから契約を持ちかけられ、即座に拒絶した。いらんがな。そしたら鍵の力が暴走した。安全設計がなっていない。キャンセル実行時の動作を確認するのは、システム設計の基本だって、ヒナのお父さんが言っていた。

 結果として、ヒナの左掌と銀の鍵は一体化し、ヒナ自身もナシュトと存在が一部同化してしまった。この気色悪い二人三脚状態は、残念ながら簡単には解消することが出来ないということだ。ホント、大迷惑。

 人の心を読む力なんて、正直使えて良いことなんてあまりない。そんなことしたって、出来るのは暗い喜びに浸ることくらいだ。特にハルとの関係は、そんなズルに頼るなんて絶対にしたくない。ヒナは自分の力でハルとお付き合いして、今や恋人関係にまで発展させることが出来たんだ。

 銀の鍵については、最近になってようやく自分の中で折り合いが付けられるようになって来たところだ。基本的には存在自体をなるべく意識しないようにしている。ヒナは普通の高校生。おかしなことには首を突っ込まない。

 目に見えない世界のことについては、ここのところは近隣の土地神様が相談に乗ってくれている。女の子の姿をした神様。非常に親しみやすくて助かるんだよね。あと超可愛い。

 土地神様にも、ヒナがそういう方針だってことはお話しておいた。優しい土地神様は「まあ好きにしてていいよ」なんて言ってくれたけど、ヒナにしてみればもう十分に持て余し気味だ。

 さて、ヒナの秘密といえばコレな訳なんだけど。一体全体この力をどうやって知って、そして知った上で何をどうしようって言うのか。焼きそばを食べ終えて、ヒナはふぅっと息を吐いた。

 ナシュト、どう思う?

 ヒナの問い掛けに反応して、机の横に一人の男が現れた。浅黒い肌、銀色の長髪、燃えるような赤い瞳。半裸に豹の毛皮とか、ファッションセンスがなぁ。今は古代エジプトじゃないんだから。そこだけ改めてくれると、一応イケメンなんだけど。

 ヒナにしか見えない、ヒナにしか声を聞くことが出来ない、銀の鍵の守護者。神官にして自らも夢の地球の神であるナシュトだ。

「さて、我にも良くわからぬ」

 はぁ?

 ナシュト、今、わからないって言った?

 これはビックリだ。ナシュトは曲がりなりにも神様で、世界中の魔術や呪術に精通している。今までヒナが危ない目に遭いそうになった時には、事前に予知して警告を投げてくれるくらいだ。

 そのナシュトが、わからない?

「恐らく魔術的、呪術的要素は絡んでいないと考えられる。警戒は必要かもしれないが、必要以上に恐れることは無い」

 へええ、なんだか余計わからなくなってきちゃったよ。

 ヒナがダメージを受けるようなことがあれば、一体化しているナシュトにもダメージが及ぶことになる。我が身可愛さから、ナシュトはヒナに危害が及ぶような事態に関しては、うるさいくらいに口を出してくる。それが、「恐れることは無い」ときたもんだ。これは逆に怖くなってくるな。

 まあナシュトがそう言うならそうなんだろう。そこを疑っても話にならない。とりあえず、警戒だけは怠らない。

 演奏喫茶ね。吹奏楽部か。チサトがいるんじゃないかな。顔を出そうかなとも思っていたから丁度良い。

 何者だか知らないけど、ヒナに喧嘩を売ろうって言うなら真正面から来いってんだ。



 演奏喫茶は第二音楽室だ。隣の第一音楽室はミニライブハウスになっていて、どんちゃんと大きな音が漏れてきている。えーっと、防音になってるはずなのにこれだけ聞こえてくるってことは、中はどれだけしっちゃかめっちゃかな騒ぎなんだか。ちょっと想像したくないかな。

 聞いた話では演奏喫茶は結構人気があるということだった。気になるなぁ。入り口を見てみると、うん、かなり並んでるね。一時に来いって書いてあったけど、その時間に入るのは無理なんじゃないかなぁ。

 そう思っていたら、中からひょっこりとチサトが顔を覗かせた。

「あ、ヒナちゃん、こっちこっち」

 さりげなくチサトはすごい。クラスの方にもマメに顔を出してるけど、吹奏楽部の演奏でも選抜メンバーに入っていたはずだし、この演奏喫茶でも働いている。あの小さな体の何処にそんな体力が秘められているんだ。

 ヒナが近付くと、チサトは大きなバインダーに挟んだ紙の束をペラペラとめくり始めた。予約台帳?うわぁ、すごいね。ウチのペットボトルボートに負けないくらいの予約数だ。ん?予約?

「はい、一時からの予約だね」

 えーっと、ヒナ、そんな予約取った覚えは無いんだよね。ってことはあの付箋紙のメッセージは、間違いとか軽い悪戯とか勘違いとかじゃなくて、確実にヒナ宛のものだった、ってコトでいいのかな。これは、困った。深刻度が増しちゃったよ。

「この予約って、誰が取ってくれたのかな?」

「うーん、私その時いなかったからちょっと判らないな。サユリとかだと思うんだけど」

 まあ、そう考えるよね。誰が予約取ったかなんて、こんな忙しい状況の中じゃすぐには判らないだろう。銀の鍵でここにいる吹奏楽部員心の中を片っ端から覗き見たところで、はっきりとしない可能性だってある。やめておこう。どうせ待ってれば向こうから何かしてくるでしょ。

 チサトに案内されて、第二音楽室、演奏喫茶の中に入った。ほほう、これはこれは。窓は全部暗幕で覆われていて、全体的に薄暗くなっている。各テーブルの上にグラスに入ったキャンドルが灯されており、淡いオレンジの光がぽつぽつと連なっている。雰囲気すごいな。幻想的だ。

 隅の方の席に案内された。白いクロス。ランタンの中で小さな炎が踊る。おおお、なんかいいね。学園祭ってことを忘れちゃいそう。メニューはコーヒーと紅茶と、ジュース。ここで飲むなら紅茶かな。外は熱気で暑いくらいだけど、あえてホットで。優雅なティータイム。

「では、楽器をご指名ください」

 なんですと?

 演奏喫茶の真髄、ここにあり。なんとメニューに書かれた楽器を選ぶと、横に来てその楽器を使って一曲演奏してくれるのだとか。わぁ、何そのセレブなもてなし。面白い。

 えーっと、クラリネット、オーボエ、ファゴット、フルート、ピッコロ、トランペット、トロンボーン、ユーフォニアム・・・いっぱいあるけど、これ、トランペットとか頼んだら音凄くない?

「一部の楽器はミュートをつけた状態での演奏とさせていただきます」

 ああ、フタね。あれ面白いよね。あんなのつけてよく息が詰まらないものだと思うよ。力いっぱい吹いたら、すっぽん、って飛び出したりしないのかね。ええっと、ごほん、それはまあいいや。

「オススメは何かある?」

「今でしたらソプラノサックスがお勧めです。今年の新人では一番の熟練者です」

 そうか、一年生が主に担当するんだったね。ソプラノサックスってあの、ぐにゃって曲がってない、真っ直ぐなサックスだよね?サックスって言うとウツボカズラみたいな印象だったから、他と違って目立っているソプラノサックスはヒナでも判る。ソプラノって言うくらいだから高い音が出るのかな。それも確かに聴きたいんだけど、今日のオーダーはもう決まってるんだよね。

「フルートでお願いします」

「かしこまいりました」

 チサトが、くすって笑う。折角来たんだから、チサトの演奏を聞かせてもらわないと。注文が来るまで、薄暗い音楽室の中をぐるりと見回した。視覚情報はちょっと怪しいので、銀の鍵も使わせてもらう。さて、誰がヒナをここに呼び出したんだ。敵意や悪意のようなものは感じ取れない。ヒナの方を窺っている気配も無い。不思議だ。驚くくらい普通。どういうことだ。

「お待たせしました」

 数分も立たずに紅茶が出てきた。あ、ちゃんとしたティーカップなんだ。受け皿まで付いてる。凝ってるなあ。まあ、中身の方は学園祭だし、ティーバッグだよね。口に含んで驚いた。いやいやいや、これひょっとして、お安くないんじゃない?少なくともヒナが普段おうちで飲んでるのとは全然違うよ?

「ちょっとだけ良い葉っぱ使ってるの」

 ちょっと、ですか。ははあ、なんかチサトも、ヒナが知らないだけで実は良いところのお嬢さんだったりするのかな。ヒナ、紅茶の銘柄なんて、ニットー、トワイニング、リプトンしか知らないよ。それは銘柄じゃないって、以前お母さんに呆れられたけど。

 チサトがフルートを構える。夏休み、屋上で聴かせてくれたのはアメイジンググレイスだったか。ふと周りを見ると、他の部員たちもチサトの方を向いている。今年の新人の中で一番の熟練者って、実はチサトなんじゃないの?

 小さな体から、信じられないほどに芯の太い音が奏でられる。第二音楽室の中が、チサトのフルートで満たされた。この曲はヒナも知っているよ。ええっと、「遠き山に日は落ちて」だっけ?そうじゃないや、「新世界より」だ。ドボルザークの第九。

 美味しい紅茶を楽しみながら、すぐ近くで自分のための生演奏を聴く。なんというエレガント。すごいな、演奏喫茶。演奏が終わって、静かな拍手が沸き起こる。ブラボー。わあ、楽しい。これ丸一日居座りたくなる。そりゃ混むわけだ。

「お粗末様でした」

「いやいや、すごかった。ここ楽しいね」

 毎年吹奏楽部でやっている定番の出し物なのだそうだ。ははあ、水泳部のゲート、陸上部の焼きそば、吹奏楽部の演奏喫茶ね。なんかその中だと吹奏楽部が一番優雅な気がするよ。毎年アンケート一位を巡って熾烈なバトルを繰り広げているとか。

「演奏喫茶は長居するお客様が多くて、なかなか票数が溜まらないんだよね」

 うん、その気持ち判るわ。ヒナももう動きたくないもん。誰かさっさと出て行って、新しいお客さんが次の演奏をオーダーしてくれないかなって、そればっかり考えちゃう。照明を落とした感じも良い。周りの席をあまり気にせず、ゆったりと音楽と紅茶を楽しめる。学園祭の中に、こんなパラダイスがあったとは。

 あ、紅茶無くなってた。残念。外の列もすごかったし、あんまり粘ってもチサトに悪いかな。それに、呼び出した奴が姿を現さないんじゃ、出向いてきた意味も無いし。結局なんだったんだ。

 焼きそばのパックの裏に貼り付けてあった付箋紙。あれって、いつ貼り付けたんだろう。パックはビニール袋に入ってた。袋に入れる前だよな。とは言え、割と誰にでも出来そうな気もするし。

 ん?パックの裏?

 恐る恐る、紅茶の受け皿の下を覗いてみる。ははは、まさかね。ライトグリーンの付箋紙が見えた。くそ、もっと早く気が付けばよかった。無駄に手が込んでいる。いつ貼り付けたのか知らないけど、もうこの近くにはいないかもね。全く、セレブリティな気分が台無しだよ。


『ヒミツヲモラサレタクナケレバ、サンカイダンワコーナーマデコイ』


 遊んでくれるじゃない。なるほど、言うことを聞かなければバラすと言ってきた。これで明確に脅迫だ。

 しかし三階談話コーナーってまた中途半端な場所だな。人目につかないかな?多分人通りがそれなりに激しいところだよね。群衆に紛れて何か仕掛けてくるつもりなのか。そういう、他人の犠牲を何とも思わないタイプだと厄介だ。こっちは学園祭を滅茶苦茶になんかされたくない。

 チサトにお礼を言って、ヒナは第二音楽室を後にした。えーっと、一時半ってところか。こんなのに振り回されて学園祭最終日が終わっちゃうとか、冗談じゃないんだけど。



 三階の談話コーナーは、階段のすぐ目の前だ。左右にそれぞれの教室に繋がる廊下が続いている。人が行き来する交差点な訳で、当たり前のように混み合っていた。

 こんなところに呼び出して、何をしようって言うのか。やっぱり面倒な相手かも知れない。本気度上げていくか。銀の鍵に意識を集中する。さあ何処からでも来い。ヒナは、手加減しないよ。

「あああ、曙川さぁーん」

 地の底から響くような、情けない震え声。

 って、何?誰?

 丁度真後ろにいて全然判らなかった。机が二つ並べられていて、そこにぐんにゃりとした女子生徒が一人。ん?ひょっとしてユマ?こんなところで何やってるの?

「助けてー、もう全然売れないのー」

 えーっと、最初から説明してくれるかな?

 ユマはクラスの学園祭実行委員であると同時に、部活でも参加している。そうだったんだ、ホントにご苦労様。部活は家庭科部。えっ?ユマ、お嫁さんクラブだったの?ユマは恥ずかしそうにうなずいた。

 家庭科部、通称お嫁さんクラブはウチの学校でもちょっとした名物部活だ。元々は料理部と被服部という二つの部活が、不人気のため合併して出来た部活だと聞いている。活動内容が活動内容だけに、みんな「お嫁さんクラブ」と呼んでいる。ヒナも最初入部を考えていたんだけど、あまりにもあざといのでやめておいた。それに、ハル以外の人のためにそういうことはしたくないかな。

 活動の際、料理を作った後、それを運動部に振る舞うんだよね。通称「炊き出し」。モテない男子たちが有難がって行列を作る姿は涙を誘うという。なんじゃそりゃ。ヒナも一回見たことあるんだけど、まあ、確かにアレはねー。

 以前ハルに、並んでみる?って訊いてみたら、ブンブン首を横に振っていた。じゃがいも2号和田君いわく、「男子として最後の砦」なんだとか。まあまあ、キミらの場合、そこから何かの間違いで愛が芽生えるかもしれないじゃん。使えるものは何でも使ってみなよ。ほらほら、一緒になって群がってみたまえ。

 なぁーんてこともあったし、男子生徒に超人気なのかと思っていたけど、どうも今回ばかりはそうもいかなかったみたい。

 今年は飲食店を希望するクラスや団体が多かった。メイド喫茶とかも飲食店になるのか。あんなゴツい男メイドの何が良いんだ。飲食店はクジ引きで選出されることになり、大本命の一角である家庭科部がまさかの敗退となってしまった。

 飲食店は出来ない、調理室も他の団体に取られてしまい、場所自体もこんな談話コーナーになってしまった。踏んだり蹴ったりだ。仕方なくひっそりとパウンドケーキを売っているが、これが売れない。っていうか、売っていることに気付いてさえもらえない。

 一日目で惨敗し、ほとんどの部員が戦意を喪失、もはやこれまでと諦めてしまっている。残されたユマだけで頑張っているが、今日振り向いてくれたのはヒナが初めてなのだという。それはまた、なんというか、御愁傷様。

「せめてもう少しぐらい売りたいのよ」

 うーん、気持ちは解るんだけど。

 場所はまあ、実際にはそんなに悪くない気がする。人通りはかなりあるんだし、もうちょっと目立つだけでみんな見てはくれるんじゃないかな。売り物がパウンドケーキか。地味だな。地味だよな。もうちょっと華のあるものか、せめてラッピングに凝るとかしたいけど、そんな時間もないだろうしな。

「パウンドケーキかぁ」

「地味だよね。でも、簡単で、かさがあって、日持ちしてって、色々考えてたらこうなっちゃってね」

 これならクッキーの方がマシだったかもね。とか言っちゃ駄目か。クッキーも割と手間なんだよな。あの辺りはヒナは全部ホットケーキミックスで簡単クッキーにしちゃうし。ほら、ハルはあんまりそういうの食べないから。ケーキよりジャガイモ蒸かしてバター乗っけてあげると喜ぶんだよ。こういうのもお嫁さんクラブに入らなかった理由の一つ。ヒナの場合、可愛いお菓子作りよりも、おかんのおやつ作りって方が向いてるんだ。彼氏様に合わせたらそうなっちゃうんだからしゃーない。

 おおっと、ユマの相談に思わず乗ってしまっていたけど、こっちはそれどころじゃないんだった。改めて周りの様子を見てみる。ああ、こりゃダメだ。人が多すぎて何が何だかわからない。こうなっちゃうとノイズが大きすぎて、銀の鍵もあまり意味をなさないか。そこまで考えてこの場所を指定したんじゃないだろうな。腹立つ。

「曙川さーん・・・」

 あああ、もう、ユマ、そんな情けない声出さないでよ。わかったよ。ユマにはペットボトルボートを作ってる時にすごく助けてもらったし、クラス展示の方でもすごい頑張ってくれてたから、ヒナが助けてあげるべきだよ。わかりました。

「じゃあ、ちょっと売るルートを増やそう」

「ルート?」

 このパウンドケーキ、これだけ買って食べるってちょっと無いかな、と思うんだよね。だから、チサトにお願いして演奏喫茶で出してもらうようにしようよ。あそこ、メニューにケーキとか無かったからさ。紅茶とかコーヒーとかと一緒なら合うんじゃないかな。学園祭実行委員の許可は、ああ、それはユマが自分で出来るでしょう。その辺、何とか理屈付けられるよね。

「あ、曙川さん、それ、すごく良い」

 それはどうも。後はこの場でももうちょっと売りたいよね。あんまり気乗りしないんだけど、一応最後の手段的に付加価値をつけてあげることは出来る。正に最終奥義って感じ。ヒナもこの手は今まで使ったことが無い。なにしろ、これを使って外した日には目も当てられないからだ。

 ほら、ユマもやるんだよ。恥ずかしがっちゃダメだからね。売りたいならやる。文句言わない。じゃあいくよ、せーのっ。

「女子高生の手作りケーキですよぉ!」

 うわぁ、こっぱずかしい。

 そもそも高校の学園祭なんだから、大概のモノは女子高生の手作りだっつーの。一部男子高校生の手作りもあるけどさ。んでもここは正真正銘女子高生、しかもお嫁さんクラブの手作りだ。これを付加価値に、プレミアにしなくてどうするんだ。

 その場でポスターも描いちゃう。「お嫁さんクラブJK手作りパウンドケーキ」自分で書いてて失笑が漏れたわ。はっ、いかんいかん。ここは心を鬼にして、あくまで可愛く、あざとく。

「お嫁さんクラブの、愛情たっぷり手作りパウンドケーキでーす」

 こんなん知り合いに見られたら切腹ものだ。

「あ、ヒナ姉さん」

 ふんぎゃあー!

 カイ、なんで今日も来てるの。昨日来たじゃん。あ、サッカークラブの先輩だっけ。何でその子までいるの。ちょっと、どうなってるの。

「カイ、今日も来てたんだね」

「ええ、先輩が二日目も見てみたいって言って。プールの方にも行ったんですが、こちらにいらしたんですね」

「クラスメイトのお手伝いでね。お手伝いで」

 大事なことだから二度言っておく。お手伝いだからな。お手伝い。

 うう、先輩君のヒナを見る目が、なんかちょっとアレな感じがするよ。多大なる誤解を与えてるんじゃないかと心配になるよ。カイもあんまり澄んだ目でヒナのことを見ないでおくれ。ものすごーく自分が穢れていくような気がする。

「お手伝い大変ですね」

 ハイ。

「じゃあお邪魔してもいけないんで、これで失礼します」

 ウン、ジャアネ。

 深く触れないでおいてくれたのは、カイの優しさなのだろうか。もういっそ殺してくれって感じだよ。先輩君、何度もこっち振り返ってるじゃん。あはは、あは、あは。

 まさかこれが新手の攻撃とか言わないよな。いや実際ヒナの精神はズタボロだよ。これが攻撃なら大したものだよ。

 第二音楽室までパウンドケーキを届けに行っていたユマが、帰って来たら真っ白に燃え尽きているヒナを見て不思議そうにしている。ははは、笑っておくれ、ユマ。ヒナはやられちまったよ。元からないプライドが更にズタズタだよ。

 カイは余計なことを言わない子だからきっと大丈夫だ。うん、平気平気。チクショー。

 開き直った声掛けが功を奏したのか、売り上げは上々だった。全く売れなかった昨日と比べれば天国だと、ユマもほくほくの笑顔だった。ああ、ヨカッタデスネ。その代わりヒナは大切な何かを一つ失った気がしますよ。

 一時間ほどここで売り子をしていたが、結局カイ以外に誰かがヒナに声をかけてくるということも、攻撃を仕掛けてくるということも無かった。これだけ声を出して目立つようにしてたんだ、気付いてないってことは無いだろう。まあ、目立ち過ぎてはいたかもしれないけどね。

 最終的に、パウンドケーキはほぼ完売ってところまで持って行けた。お疲れ様、とユマとハイタッチする。いやぁ、やれば出来るもんだね。多分来年辺りからどっかが真似すると思うよ。JK手作りブランド。そんなの絶対学校から怒られるだろう。

「ありがとう、曙川さん。素晴らしかった」

 いやいや、昨日死にかけた顔してたユマを見てたからね。これで悩みが解消されたなら良かったよ。演奏喫茶の方も喜んでくれてたみたいだし、ウィンウィンってヤツだ。万事解決、目出度い。

「これ、曙川さんに。今日のお礼」

 ユマがパウンドケーキを一つ手渡してくれた。ああ、そういえば現物を食べてはいなかった。お嫁さんクラブのパウンドケーキか。うん、なかなかおいしい。これを作れるようになるなら、お嫁さんクラブに入るのも悪くな・・・

 パウンドケーキを包んであったラップに、水色の付箋紙が貼り付けてあった。ちょっと待って。これいつ付いた?並んでいるパウンドケーキにこんなの無かったよな。ホントについさっき、今まさにって感じじゃないか。

 付箋を剥がす。文字が書いてある。おい、今度は何なんだよ。


『イマスグプールニコイ。テオクレニナルマエニ』


 ハル!

 ヒナは走り出した。ユマが何か言っているけど聞こえない。プールにはハルがいる。冗談じゃない。早くしないと。



 迂闊だった。良く考えてみると、ヒナをあちこちに足止めさせるような内容ばっかりだった気がする。演奏喫茶もそう、お嫁さんクラブの出店もそう。ヒナをプールに近付けさせたくなかったんだ。

 だとすると、最初から狙いはプールだった?プールにはハルやサユリがいる。クラスメイトも、お客さんだって沢山いる。なんだそれ。ふざけてんのか。ふざけてんのか。

 もし学園祭に何かあってみろ、ハルに何かあってみろ。ヒナは絶対に許さないぞ。どうなっても構わない。何を犠牲にしたって構わない。全存在を粉々にしてやる。原子のレベルまで分解して、再構成して、分解して、全身の痛覚を限界まで刺激して、正気を失ったら元に戻して、永遠にその苦しみを繰り返してやる。

 ナシュト、プールでおかしなこと起きてない?

「何も感じられない」

 あんた鈍ってんじゃないでしょうね。もう本気であの土地神様とトレード考えちゃうよ。ヒナだって残念イケメンと美少女なら、間違いなく美少女を取るよ。毎日がきゃっきゃうふふで大はしゃぎだ。

 格技棟までやってきた。プールの方が騒がしい。やっぱり何か起きてる。ナシュトこの役立たず。ダッシュで階段を駆け上がる。

「ヒナッ!」

 サユリ。プールの入り口のところにサユリがいた。え、ちょっと、何があったの?

「早くプールに!」

 上履きと靴下を脱ぎ棄てる。消毒槽とかまだるっこしい。とにかく早く中に。一体何が起きてるんだ。ハル、無事でいて。

 お願い。


「ボトルシップ、レーサーズッ!」


 ・・・はぁ?


 プールに入って最初に聞こえて来たのが、ものすごい歓声。反響して、耳がキーンってなるくらい。それからプールサイド一杯の生徒。みんな盛り上がってる。ヒナの方を見て、うおお、って両手を振り上げている。

 え?ごめん、これ何?何が起きているの?

「オッケイ、ここで本日の優勝賞品提供者、曙川ヒナ嬢が到着だぁ!」

 うおおおおっ!

 ちょ、うるさい。何なの?これ何なの?

 おろおろしているヒナの背中が、とんとんと叩かれた。振り返るとサユリだ。なんかニコニコしている。え?何?ドッキリ?モニタリング?

「ヒミツ、バラされたくないでしょ?」

 は。

 ぽかーんとしちゃった。

 ああ、そっちか。

 なんだ。もうすっかり銀の鍵がらみのハナシかと思っちゃってた。なんのことはない、それは関係無かったんだ。これ全部、サユリとか、サキとか、チサトとか、ユマの仕込みだ。

 秘密って、昨日のお泊りの話か。

 なんだよ。なんなんだよ。

 ほっとしてガックリと力が抜けた。サユリにしがみつくみたいになる。こ、腰が立たない。サユリがヒナを支えて、プールのすぐ近くの椅子に座らせてくれた。

 うん、まあいいや。サユリの仕業だってのはわかった。それはオッケイ。もうヒナ的にはしおしおだわ。

 で、これは一体全体何の騒ぎなんだ?ペットボトルボートはプールサイドに引き上げられている。プールにはコースロープが戻されてるし。あ、ハル。プールの向こう側、各コースに一人ずつ男子が入ってる。そこにハルもいる。しきりにヒナに向かってゴメンナサイのポーズ。ああああ、今朝のヤツだな。ちょっと、ハル、これどういうこと?

「曙川ヒナさん、少しは落ち着いてきたかな?」

 きーんっ。マイクで話しかけんな、うっせー。誰だ?あ、放送委員のDJじゃないか。なんでこんなところにいるんだ?

「これ、一体どういうこと?」

「サプライズイベント、ってとこかしらね」

 サユリが笑顔で説明してくれた。くっ、嬉しそうな顔して。ヒナが綺麗に落とし穴にはまってさぞ楽しいんだろうな。

 普通にペットボトルボートの乗船イベントだけをやっていると、見ているだけの人はあまり面白くない。そこで、もうちょっと派手で、見ているだけでも満足出来るイベントを追加しようと、昨日から密かに企画されていたらしい。

 名付けて、ボトルシップレーサーズ。

「各コース一人ずつ、ペットボトルのミニイカダを持って入ってもらうの」

 確かに、みんな畳半畳くらいの大きさのペットボトルイカダを持っている。予備とか余りの材料を使えば、あのくらいは簡単に作れるだろう。

「あのミニイカダと一緒に、コースに沿って移動してもらう」

 そういうレースなのね。まあ、難しいこと無しで良いんじゃないですかね。でもあのサイズのイカダに乗って移動するのってかなり難しくない?

 あ、そうか、一緒なら何でも良いのか。ビート板みたいにしてバタ足で泳いでも良いと。それならいけるか。なんかイカダの意味がどのくらいあるのか判らなくなりそうだけど。

「それだけだと面白くないから、もうちょっとゲーム的にしてあってね」

 選手は各自一本、ダンガンボトルという黒いテープを巻いたペットボトルを持っている。はぁ。それをヒナがいる側の岸にあるバケツに向かって投げ入れる。ああ、ヒナの足元にあるこれね。最初にここにダンガンボトルを入れた選手が優勝。

 投擲に自信があるなら、遠距離から一気に狙っても良い。確実性を取るなら、こっちの岸まで泳ぎ着いてから入れても良い。ただし、シュートチャンスは各自一回のみ。誰だよこれ考えた奴。テレビのバラエティ番組の観過ぎだろ。

 ん?ちょっと待って。そういえばさっき聞き捨てならないこと言ってたよね?

 優勝賞品提供者って、何だよそれ?

「曙川ヒナさんが事情を察してくれたところで、改めて優勝賞品のご紹介」

 DJがノリノリ。あ、すっごい嫌な予感。


「賞品は、曙川ヒナさんの手作り弁当一週間分だぁ!」


 ふっ、ざけんなァ!

 ヒナの叫びは大歓声にかき消された。いやいやいや、ちょっと待てコラ。何処からそんな話が出てきたんだ。意味わかんねぇぞ。

 その時、改めてプールの各コースにいる男子ィの面々を見た。あ、いも。じゃがいも1号、じゃがいも2号、さといも。お前らもか。そうか、お前ら全員グルか。そういうことか。

 二学期になってから、ヒナはサユリとサキとチサトのグループで、ハルといもたちの男子グループと一緒にお昼ご飯を食べるようになっていた。そこで、ヒナがハルに毎日お弁当を作って来ている、ということが話題になった。いもたちがしきりにそれをうらやましがっていたのだが。

「こらー、勝手に人の作ったお弁当を賞品にするなぁー」

 どっと笑いが起きた。笑いごとじゃないってば。ヒナはそんなことのためにお弁当を作ってるんじゃないよう。ハルのために丹精込めて毎朝早起きして作ってるんだよ?それをなんで一週間分もドブに捨てなきゃいけないんだよ。ドブに捨てた方がまだマシだよ。聞いてんのかこのドブ以下!

「俺だってー」

 じゃがいも1号が何か言ってる。あーん?

「俺だって幸せが欲しいー!」

 どっ。

「ばぁーか!」

 大爆笑。ああ、もう、恥ずかしいな。ふざけんなじゃがいも1号。流石は永世名誉じゃがいもだよ。じゃがいも2号も、「男子として最後の砦」ってのは何処に行ったんだよ。

「ヒナー!」

 ハル。

 ちょっと、ヒナに言わなきゃいけないことがあるでしょ。何ヒナにナイショでこんなこと始めてんの?サユリに色々脅されたってのは判ったよ。でも、ヒナのお弁当はハルのためだけに作ってるんだよ?それを賞品として差し出すなんて、酷いよ。もう、どうして勝手にそういうことするの。

「ごめーん!」

「ハルのバカー!優勝しなかったら許さないー!」

 これで負けたりなんかしたら、ハルのお母さんに倣って一週間お弁当箱の中身は五百円玉一個だ。それでいいでしょ。フンだ。



 しかしよくもまあこんな暇なこと考えたね。ゴールのバケツの後ろに座らされて、ヒナはため息をついた。観戦のお客さんはウチのクラスだけじゃない。他クラス、他学年の先輩方までいる。どんだけ盛況なのよ。放送委員の人まで巻き込んじゃってさ。

「やー、こんなに盛り上がるとも思わなくてさ」

 サユリ、眼鏡がキラキラしているよ。よっぽど楽しいんだね。まあいいよ、ヒナも前夜祭で学園祭を台無しにしかけた負い目があるからさ。イベントには協力してあげるよ。

 でもさあ、なんで賞品がお弁当一週間分なの?

「金銭とかだと普通に学校に怒られるじゃない?だから、なるべく角が立たないものが良いかなって」

 他に何でもあるでしょ。よりによって何故ヒナのお弁当?

「宮下が、ね」

 ああ、やっぱりかあのじゃがいも。どうしてもじゃがいもであり続けたいらしいな。いつか蒸かしてバター塗りこんで、ハルに食わせてやる。そんなんだからモテないんだ。ばぁーか。

「朝倉は一応反対してたのよ?」

 そりゃまあ、そうでしょうね。可愛い彼女が自分のために作ってくれてるお弁当を差し出すなんて、いくらハルがお人よしでもそんなことはしないでしょう。ヒナのこと、大切にしてるって言ってたし。それがなんだよ。ハルのバカ。

「前夜祭のこともあるけど、友達にちょっと悪いかなって、そう思ってたりもしたんじゃない?」

 何よそれ。

 はぁ、そうならそうと言ってくれれば考えないでもないのに。ヒナにも言い難かったとか?まあ、ヒナはハルのためだけって感じだからなぁ。あー、もう!でも悪いのはじゃがいも1号。じゃがいも1号にだけは優勝してほしくない。それだけは絶対。

 五十メートル向こうで、各コーススタンバイが始まっている。ハルと、いもたちと、あと四人もいるのか、暇人。つうか普段ヒナと接点のない男子ィがこのレースに参加しているのは何なの?

「隠れファンじゃない?」

 いらないよ、そんなの。むしろ気持ち悪いって。こんな時にだけ出てきて、手作り弁当下さいって、それ好感度上がる要素無いよね?ヒナ間違ってないよね?

 ハルのために作ってある献立表が、このままじゃすっかりパァだ。もういいよ、誰だかわからん奴の弁当箱には五百円玉、ハルにはハルで作るよ。手作りにこだわるなら、白米だけ詰め込んでやる。それでも実費でお金取りたいくらいだ。

 愛情のこもってない手作りのために、みんなここまで必死になるもんなんだね。そういえばパウンドケーキも売れたなぁ。みんな手作りに何を期待しているんだ。JKプレミア、いい商売だなおい。

「さあ、いよいよレースが始まります」

 ああ、そうっすか。選手紹介とかしてたらしいけど、全然聞いてなかった。いや、興味無いし。まぁー、ハル以外は適当にやってて。そんな態度でいたら、サユリに睨まれてしまった。はいはい、盛り上げます盛り上げます。

「みんなー、頑張ってねぇー!」

 うおおおっ!はは、なんだこれ。もう、うんざりしてきた。

「ハルー、ホントに負けないでよー!」

 こっちは本気の応援。これ以上ヒナの面倒を増やさないでよ。半分はヒナのせいだけど、ハルのせいでもあるんだからね。ヒュー、とかうるさぁい。お前らみんな敵だ、チクショウ。

 よくやったとばかりにサユリが手を叩いてる。他人事だな。こっちは恥ずかしいんだよ。これだけ晒し者になって。

「まあまあ、イベントイベント」

 そう割り切ってるからここまでしてるんじゃん。そういえばカイとかもうこっちには来ないよね。お母さんとか来たら喜んで動画撮影してそうだ。おっかないなぁ。ざっと見た感じいないみたいだけど、油断がならない。

 どっかりと椅子に座ると、そろそろスタートだ。はぁ、さっさと終わらせてくれ。

 ピィーッ。

 ホイッスルなんだ。まぁ、何でもいいけどさ。各コース一斉に水飛沫を上げ始めた。基本はイカダをビート版に見立てた「けのびバタ足」。それが一番無難かな。思ったよりも水の抵抗があるのか、あまり進まない。真っ直ぐいかずにぐにゃぐにゃしてたりする。ゴールすることが目的ではないとはいえ、少しでも距離は稼ぎたいところだ。

「おおっとぉ、宮下選手早いぞぉ」

 実況が吠えた。え?なんで?

 じゃがいも1号の方を見ると、ペットボトルイカダの上に腹ばいになって、手足で水を掻いている。あれって、なんだっけ?

「これはパドリングかぁ?」

 ボディボードか。何、ひょっとしてじゃがいも1号そんなことやってんの?モテないくせに。っていうか、モテたいからそんなことまでやってんのか。

 うっわキタねぇ、アイツ自分の得意分野で勝負をしかけてきたのかい。勝てる勝負に全力で挑む。そう言うと聞こえはいいけど、実際にやられるともう卑怯さしか感じない。あ、差がついてきてる。早っ、ホントに早っ。

 もうすぐ半分、二十五メートルだ。他のコースはみんなまだ十五メートル程度。圧倒的じゃないか。うわぁー、コイツにだけは勝たせたくねぇー。

「みんな、しっかりしてー」

 思わず声をかけてしまう。だって、じゃがいも1号酷いよ。勝てるっていう自信がある上で、ヒナのお弁当を要求してきたんでしょ?嫌だよ、あんな奴にだけは勝ってほしくない。負けて吠え面かかせてあげたい。

「曙川さんから熱い声援だぁー!」

 うるせぇー。そんな実況はいらねぇー。

 むきーってなってたら、あ、誰か泳ぐの止めた。まだかなり距離があるのに、黒いテープが巻かれたダンガンボトルを構えてる。さといもじゃん。おお、さといも高橋いけ。やったれ。

「こなくそー!」

「高橋選手ダンガンボトルを投げたぁー」

 しゅるしゅるしゅる。

 べこん。

 あー、こりゃあかん。コントロール酷過ぎ。バケツとは全然違う位置のプールサイドの床に着弾。ギャラリーバカ受け。水の中からって難しいのかな。軽いからこっちの岸までは余裕で届くんだけどね。

「高橋選手シュート失敗。リタイア」

 えー、これマズくね?このままだと余裕でじゃがいも1号の勝利じゃん。そんなの嬉しくない。お客さんの方も、こんなワンサイドゲームは見ていても楽しくもなんともないよね。

 ここはやっぱり、イベントを盛り上げるためにも、ヒナの個人的事情によっても、ハルに勝ってもらうのが最善なんじゃないのかな。うん、そうだ。絶対そう。間違いない。

「ハルー、頑張れー!」

 贔屓しちゃいけない、なんてルールは聞いていない。もうヒナは全力でハル応援だ。頑張れ、ハル。じゃがいも1号なんかに負けるな。やっちゃえ。

「チキショー、俺にも幸せをくれよー!」

 じゃがいもが何かしゃべってる。知るか、地下茎め。ヒナの幸せはハルだけのものだ。お前なんかお呼びじゃないよ。とっとと失せな。

 気が付いたら、じゃがいも1号は随分近くまで寄って来ているじゃないか。ヤバイ。至近距離から確実にシュートを決める気でいやがる。そんなことさせない。よし、ここで勝負だ。

「ハル、シュートだ!」

 ヒナの声が聞こえたのか、ハルがその場で泳ぎを止めた。まだ二十五メートルはある。ハルがヒナの方を見ている。大丈夫だ、ハル。こくり、とうなずいてみせる。ヒナを信じて。ヒナはハルを信じてる。さあ、来て。

 ハルが大きく振りかぶった。

「おおっと、朝倉選手ダンガンボトルを投げるのかぁ」

 そのまま山なりに投擲する。うん、それで良い。しっかりここまで届く。

「しかしコントロールはイマイチ!」

 ふふん、ヒナはさっきちゃんとルールは説明してもらったからね。何がセーフで何がアウトかは、きちんと理解しているつもりだよ。飛んでくるダンガンボトルをしっかりと見据える。ハル、ヒナを信じてくれてありがとう。ナイスコントロール。

 ボトルは真っ直ぐヒナに向かって飛んでくる。ハルの気持ちと一緒。だから、ヒナは同じように、真っ直ぐに受け止めるだけ。

 足元のバケツをひょい、っと拾って。

 すくい上げるようにキャッチ。がっこん。がらんがらん。


 バケツをヒナが持っちゃいけないなんて、ヒナ、聞いてませーん。


「ハル、ナイッシュー!」

 ダンガンボトルの入ったバケツを高々と掲げる。ドヤァ!

「こ、これは・・・」

 実況が思わず絶句する。会場中も固まる。何よ、文句あるっての?

 じゃがいも1号が、ぽかーんとヒナの方を見て、そのまま水の中に沈んでいった。ふっ、さらばだでんぷん質。お前の敗因はただ一つ、ヒナとハルの愛の力に負けたのだ。ふははははー。

 ほら、実況、何やってんの?

「優勝は、朝倉選手だぁーっ!」

 うわぁーっ!割れんばかりの大歓声。ヒナはバケツの中からハルのダンガンボトルを取り出して、にこやかに振って見せた。ほらほら、ヒナがキャッチしましたよ。ヒナはハルとの愛を守りました。愛の勝利。

 ハルがこっちの岸まで泳いできた。まったく、大迷惑だったよ、ハル。よいしょってプールからあがるのを手伝ってあげる。それからダンガンボトルを渡す。ちゃんと受け取ってあげたんだから、言うことあるでしょ。

「ヒナ、その、ごめん」

「バカ。ハルのバカ。もうお弁当作ってあげないぞ」

「いや、それはホントに困る」

 ハルのお母さんにも怒られるもんね。そういうことをヒナに内緒で勝手に決めるからだ。いい、ハル?

「お弁当はハルのために作ってるんだよ?他の人にあげたりとかしないんだよ?わかった?」

「うん。わかった」

 ハルは怒られた犬みたいにしょげてしまった。はぁ、しょうがないなぁ、もう。

「とりあえず、勝ってくれたから許します。頑張ったね、ハル」

 ヒナを信じてボトルを投げてくれたハル。ちゃんと受け止めたでしょ。ヒナはいつだってハルのこと、正面から受け止めてる。

 正直に言うと、今のキャッチには銀の鍵の力を借りた。それは今、ヒナの力の一部だからだ。ハルとの関係を守るために、ヒナは銀の鍵をためらいなく使う。そう決めたんだ。

 いつだって全力。ハルに対してはそう。そんなヒナを信じて、ハル。

「ありがとう、ヒナ」

 うん。どういたしまして。ヒナはハルのこと好きだから、ハルのために一生懸命なのは当然なんだよ。

 それはそれとして、もう恥ずかしくてたまんないんだけど、これ、どうやって幕引きするつもりなの?なんかいっぱい写真撮られてるし、実況は盛り上がってるし、サユリはどっか行っちゃうし。

 ホント、どうにかして。



 あ、あわ、あわわわ。

 すべる、濡れたバスマットって、物凄くすべる。あと揺れる。波なんかないけど、ぐらって。重心が動いただけで、もうぐらって。立ってるとか無理だよ。あ、あわわ。

「ヒナ、大丈夫か?」

「大丈夫じゃないよ、ハル、これ、あわわっ」

 諦めてハルの身体にしがみついた。冷やかしの声が上がるけど、気にしてらんない。ひっくり返って二人してプールに転落した方がずっと間抜けだ。

 ハルが優勝して、何処かに消えたと思っていたサユリは、次の準備に取り掛かっていた。コースロープを外して、ペットボトルボートを再びプールの上に浮かべる。そして、勝者であるハルと賞品であるヒナの二人を乗せてリリース。ハルに手を引かれるままにしていたら、こんなことになってしまった。

 これ、見事なまでのピエロだよ。見世物だよ。

 クラスメイトどころかほぼ学年全員がプールサイドで二人を囲んでいる。先輩とかもいるよね。や、やり過ぎだって。もう、ハル、なんでこんなことするの。

「ヒナ」

 ハルが手を差し出した。涙目でその手を握る。ボートはプールのほぼ真ん中に、静かに浮かんでいる。ヒナはまるで生まれたての小鹿みたいに、がくがくしながらようやっと立ち上がった。ボートに乗るお客さんがみんな四つん這いだった理由は良く解りました。立ってロープを引っ張ってたハルは実はすごかったんだね。それともヒナ、鈍臭い?

「ごめん、やっぱり、これは悪ノリしてるかな」

 してるよぉ、バカァ。

「ハル、これ、どういうつもりなの?何がしたいの?」

 ハルがぼりぼりと頭を掻いた。ちゃんと説明して。事と次第によってはプールに蹴り落としてやるんだから。次の出し物は水上プロレスだ。

 突然フルートの音色がした。プールサイドのざわめきが静まって行く。チサトだ。いつの間に来ていたのか、飛び込み台の後ろに立って、力強い演奏を響かせている。この曲、なんだっけ?えーと、「愛を見つけた場所」か。

「ヒナ」

 ハルの方に向き直る。何?どうしてそんな目でヒナを見てるの?このシチュエーションって、やっぱりそれなの?

 ハルにはもう告白されたよ?ヒナはハルとお付き合いしているよ?ハルの彼女だよ?

 わざわざこんな、みんなの前で告白をやり直すとか、そんなことしないよね?

「これは俺のわがままだ」

 そうだね。ヒナはこんなことしてほしいなんて思わないもん。ハルとは静かにお付き合い出来てれば、それで良かった。これじゃすっかり有名人、学校公認カップル状態じゃないか。

「ハルはそんなに目立ちたいの?」

「それはちょっと違うな。結果的に目立っちゃうんだけどさ」

 ハルが照れくさそうに笑った。なんだよ。可愛いな。どうして今、そんな顔するんだよ。ヒナ、怒れなくなっちゃうじゃん。

「ヒナは俺の彼女なんだって、もう誰の所にもいかないって、そう宣言したかった」

 ・・・はぁ?

 ハル、まだそんなこと言ってたの?バカ。大バカ。ヒナはハルの彼女だよ。ハルの恋人だよ。ハル以外の誰の所にもいかないよ。

「ヒナは俺のことを好きでいてくれてる。それはちゃんと判ってるよ」

 じゃあ良いじゃない。ヒナのことを信用してよ。大丈夫だよ。ヒナは、ハルだけだよ。昨日だって、そう言ったよ。恥ずかしいくらい、ヒナはハルに全部預けたよ。

「ヒナがそう言ってくれててもさ、その、ヒナは、実は結構モテるんだよ。人気があるんだ」

 はへ?

 いや、知らないって、そんなの。ハルがそう思ってるだけなんじゃないの?ヒナなんて、大して可愛くないよ。他に可愛い子なんていっぱいいるじゃん。ヒナはただ、ハルに好きでいてもらえれば、それで良くて。モテるとか、そんなこと、全然、考えたことも無かった。

「今日、8コース全部埋まってただろ?」

 え、それって、やっぱり、そういうことだったの?隠れファン、なの?

 あと、いもたちか。いや、いもたちは、ハルのいい友達だよ。申し訳ないけど、ヒナにはそういう感情は無い。ごめん。

 隠れファンに至っては、名前どころか顔も良くわかんない。興味以前の問題。ほんとごめん。

「宮下とか、和田とか、高橋は、俺が負けた時のための保険だった、はずなんだけどさ」

 そう言ってちらりとプールサイドを見る。じゃがいも1号宮下君、マジへこみしているようにも見えるんですが。あわよくば、とか思ってたんじゃないの?高橋君と和田君が真面目に慰めてるよ。困ったもんだね。

「みんな、告白のチャンスがほしかったんだ。ごめんな」

 な、なんなんだ、それ。するとアレか、もしハル以外の誰かが優勝してたら、ヒナは今頃顔も名前も良く判らん男子ィと一緒に、プールの上にぷかぷか浮かべられてたって訳か。やめろ、おい、やめろ。それこそ水上格闘技興行の始まりだ。

「その辺は、まあ、みんな色々結託してたから、シナリオがあったんだけどさ」

 ハル、キミはあのお母さんの血を確実に引いているね。後、ウチのお父さんとは絶対に手を組まないこと。悪の枢軸だ。サユリとか、ヒナの周りには悪巧み大好き人間が多すぎる。

「ヒナが全部ぶっ壊して、自分で、俺を選んでくれた」

 当たり前だろ、バカー。

「滅茶苦茶だよ。先に言っといてよ。もう、すっごい不安だったよ」

 今更涙が出てきそう。勝手にヒナのお弁当を賞品にして、ハルまで一緒になってレースとか始めて。負けたらどうするんだって、ヒナ、ものすごく怖かった。真剣に考える必要なんてなかったかもしれないけど、でも、怖かったんだ。ハルが負けちゃって、ヒナのものがハル以外の人の手に渡るなんて、想像もしたくなかったんだ。

「ごめんな、ヒナ」

 ごめんで済んだら警察はいらないよ。何考えてるの?バカなの?死ぬの?

「ハルはまだ不安なの?ヒナが誰かのところに行くかもしれないとか、本気で考えてるの?」

 身を乗り出してハルに食って掛かる。たじろいだハルがぐらり、と揺れる。

「いや、そんなことは無いんだけど」

 うりゃ。

 どん、とハルの身体を力いっぱい押した。ハルは結構力があるからな、加減してたら逆に弾かれちゃう。うわぁ、って情けない声を出して、ハルが仰向けに体勢を崩した。そのまま、ヒナもハルの上に覆いかぶさるようにして転倒。まだまだ。そのまま一気に押し込んで、水の中まで。

 どぼん。

 あー、またジャージ水泳だよ。ゴリラ出ても知らないよ。ハルがヒナの身体を庇うようにして抱いている。意識してなのか、無意識なのか。すごいな、ハル。こんなハルを、ヒナが選ばない訳ないでしょ。

 水上に浮き上がる前に、ハルと唇を重ねる。好きだよ、ハル。みんなの前でとか、それは流石に出来ないから、これで勘弁してね。二人きりの時だったら、いつでもしてあげるから。

 そうか、そんなにライバルがいたんだね。知らなかった。それで不安になっちゃったりしたのか。ヒナが知らないライバルなんてノーカウントだよ。いてもいなくても同じ。モブ。気にしなくて良いのに。

 可愛い自慢の彼女は、可愛過ぎたのか。それは加減が難しいなぁ。なーんて、ははは、なんだそれ。ナイナイ。アバラ折れそう。ヒナ、痛い子みたいじゃん。自分で自分のこと可愛過ぎとか、馬鹿、真正馬鹿。無いわぁー。

 しかし、ハルといもたちを除いて四人もねぇ。ヒナ、今まで男子から好意を持たれてたって覚え無いんだけどなぁ。可愛い子なんて他にいくらでもいるのに。とりあえず、ヒナにときめいてしまった男子諸君には本当に申し訳ない。ヒナはもう、ハルのものなんだ。だいぶ前からそう決まっちゃってる。ごめんなさい。

 何も聞こえない水の中で、ハルと抱き締めあって、キスする。がちゃがちゃうるさいところでは、こういうことはしたくない。秘め事は、やっぱり人目に触れないようにするに限る。ハルもヒナの唇を吸ってくる。ふふ、えっち。どうぞ、ハルの彼女、恋人ですよ。息が続く限り、ヒナを求めてください。全部差し上げますから。

 ぷはっ。水面から顔を出したら、フルートの演奏が止まっていた。そりゃそうか、チサト、びっくりさせちゃったね。他のみんなもご心配をおかけいたしました。無事を知らせようと手を振ってたら、うわぁ、突然持ち上げられた。

 ハルがヒナのことを、お姫様抱っこしてた。ちょ、ちょっと、何するんだよぅ。

「水の中だと軽いからさ」

 普段は重いみたいに言うなぁ。デリカシー足りない。

 なんかいっぱい拍手された。ハルがヒナを抱っこしたまま泳ぐ。自分でいけるってば。そんなに彼氏アピールしたいの?はぁ、こういうの、今回限りにしてほしいよ。ハルとくっついてるのは嫌じゃないけど、衆目に晒されてやることじゃない。特に学校とか。普通に恥ずかしいんだってば。

 びしゃびしゃでプールサイドに上がって、サユリからタオルを受け取って。

 ハルと目があって、笑う。ついさっきまであんなにえっちだったのに、爽やかな顔してるんだから。少しは安心してくれましたか?ヒナはちゃんとハルを選びましたよ。

 ヒナは、ハルのことが好きなんだから。



 楽しかった学園祭が終わった。最後のイベントはお陰様で大盛況だったとのこと。ああ、それは良かったですね。ヒナも一杯恥をかいた甲斐があったってものですよ。いもたち、三十分ぐらい正座させましたからね。ホントに困っちゃう。

 プールは明日の学園祭片付け日に業者の清掃が入ることになっている。なので、クラスで持ち込んだものは今日中に引き上げておかないといけない。結構大変だ。ヒナとハルを乗せたペットボトルボートは、もう分解されて原形をとどめていない。あんなに大勢の前で、ヒナのことを彼女宣言とか。ハルってば思ってたよりも大胆だな。それとも、そんなにヒナのことを取られたくなかったのか。

 取られないし、離れないっての。プールに差し込む陽射しが、うっすらとオレンジ色を帯びている。水が、ペットボトルがきらきらと光る。そういえば隠れファンの男子ィたちは何処に行ったかのかな。何人かは違うクラスだって言ってた。面と向かってごめんなさいするのも追い打ちみたいで悪いし、このまま静かにフェードアウトしていくのが正しいか。顔も名前も判らないまま。

「あ、曙川さん、何やってるの」

 ユマがずんずんとこちらにやってきた。いや、何って片付けなんだけど。今日中にやっておかないと困るし。

「曙川さんは後夜祭。あ、朝倉くんも来る。早く」

 引きずられるみたいにして、ヒナとハルはプールから連れ出された。で、そのまま校庭へ直行。後夜祭って何やるの?フォークダンス?

 クイズ大会とかをやっていた特設ステージ上に、何人かの生徒が立っている。学園祭実行委員会だ。ステージの周りには人だかり。ステージを囲む生徒たちの中には、メイコさんの姿もある。ってことはあれだ、アンケートの結果発表か。ユマが興奮した面持ちでステージ上に注目している。確かにウチも客の入りは多かったもんね。ヒナも死ぬほど恥ずかしい目に遭ったし、良い結果を期待したいところですね。。

「それでは、アンケート結果を発表いたします」

 あ、そういえば部活の場合はアンケートで一位だと部費が増額されるんだよね?それってクラス参加の場合はどうなるの?ユマなら知ってるでしょ?

「冬のスキー教室の参加費が免除になるのよ」

 はぁー、スキー教室。あれって、希望者のみだっけ。タダなら、って感じかな。ハルはスキーやりたい?

「そうだなぁ。タダなら行きたいかな」

 ヒナはどちらかと言えばスケート派だなぁ。まあ、ハルが行くなら、スキー教室くらい行っても良いかな。

 ・・・とか軽く言ってるけど、アンケート一位ってのは簡単じゃないよね。正面ゲートも凝ってたし、焼きそばもバカ売れだし、演奏喫茶も素敵だった。それ全部を上回るとか、どれだけの人気が必要になることやら。ま、勝っても負けても恨みっこなしだ。

 無駄話をしてたら、いよいよアンケート一位、最優秀団体の発表だ。「来場者アンケート第一位を獲得した最優秀団体は」さて、何処になるのかな。あ、そうだ、ハル、この後どうする?みんなでお好み焼き行こうかってさっき話してたんだけど。


「一年二組、ペットボトルボート制作展示です!」


 は?

 なんか今日はこんなんばっかりだ。不意打ちの日とかあるのかな。ユマが絶叫してヒナの手を握ってぶんぶん振り回す。痛い、痛い。ガチで痛い。

 メイコさんが殺意のこもった形相でコッチを睨んでくる。うわぁ、ごめんなさい。来年はゲートの方やります。真面目にやりますから。

 壇上に引っ張られていって、ハルと一緒に賞状だの副賞だのを受け取る。学食の割引券と、スキー教室の参加費免除。おめでとう、とか言われて校長先生と握手。校長ってこんな人だったっけ。朝礼とか、全く顔も見ていませんでした。超失礼しました。白髪のダンディなおじいちゃんだった。名前、あー、忘れた。校長は校長で良いよね。

 校長先生の講評。アンケート結果も良かったし、リサイクルということで心象も良かったし、市内報の取材とかも来ていて話題性もあった。イベントとしても盛り上がっていたということで、文句無しの最優秀賞であったとのこと。前夜祭のお泊り事件とか、ついさっきまで暴走してたボトルシップレーサーズとか、その辺の話を聞いたら一発で取り下げなんじゃね?ハルと目を合わせて、あはは、って乾いた笑みを浮かべる。貰ったもん勝ちということにしておこう。

「曙川さぁん」

 ユマが泣き出してしまった。おお、よしよし。ユマ頑張ったねぇ。お嫁さんクラブの方も大変だったよね。そう考えると一番の功労者はユマかもしれないね。クラスも、部活も、委員会も、全部しっかりやり遂げたんだもの。偉いよ。

 思えば二学期になってからも、何をやるのかすら決まっていない状態だったんだよね。短期間で良くここまで出来たものだ。全部みんなのお陰。協力してやって来たからこその成果だ。楽しい学園祭。本当に良かった。

 話を聞きつけたクラスメイトたちがぱらぱらと校庭にやって来た。おーい、やったぞぉ!歓声が連鎖して遠くまで繋がって行く。片付けを済ませなきゃいけなかったし、まさかこんなことになるとは思っていなかったからね。ヒナの携帯が鳴った。ああ、サユリ。「まだ片付け終わってないんだけど!」ご、ごめん。でもそれをヒナに言われても。

 とりあえず校庭に出て来てたクラスメイトたちだけで、記念写真。真ん中はユマ。当然でしょ。一番頑張った人なんだから。ヒナだって助けてもらった。ヒナは後ろで、そっとハルと手をつないでた。思い出、たくさん作ったね。忘れないよ。ハルと過ごした、高校一年生の学園祭。

 この時の写真は学校新聞に掲載されて、後で廊下に貼り出されていた。ユマの楽しそうな笑顔がとても印象的だった。



 お好み焼きの予定は、ケーキバイキングになった。最優秀賞のお祝いというのと、担任のメガネ先生がちょっと援助してくれることになったからだ。かなりの人数が参加することになったので、お店の予約を取るのが大変だった。取れただけラッキーかな。移動開始までは、まだ結構時間がある。

 陽が落ちて暗くなった校庭では、後夜祭のフォークダンスが始まっていた。フォークダンスって、オクラホマミキサーとか、マイムマイムとか、そういうイメージだったんだけど、考えていたのとはちょっと違っていた。みんな男女のペアで、なんだかしっとりとした音楽が流れている。これ、チークダンスって言わない?

「毎年こんなもんなんだって。学園祭カップルとか、結構いるらしいよ?」

 サキが呆れたように言った。チサトもサユリもいる。みんなようやく一仕事終えて、校庭にやって来ていた。お疲れ様って缶コーヒーで乾杯して、遠巻きにダンスの輪を眺めているところだ。

「旦那さんはどうしたの?」

 ハルですか。ハルはいもたちと一緒だよ。反省会だって。良く知らないけど。

 にしても学園祭カップルねぇ。確かにいつもと違った感じがして、色んなものが輝いて見えるよね。ヒナも、前夜祭の時はどうかしちゃってるくらい興奮してた。ハルと素敵な思い出を作りたいって思っちゃった。実際出来たと思うよ。うん、これはこれでとっても素敵。文句なし。

 ヒナは、ハルを不安にさせちゃってたかなぁ。そんなことはないと思うんだけど。ちゃんとハル一筋だったよ。むしろもっと周りを見た方が良いくらいだった。原因があるとすれば、それはヒナがハルの彼女として可愛くなり過ぎてしまったから。なんて、ははは、またアバラが折れそうだ。

「ヒナは可愛いよ」

 サキに言われると、ぞくぞくしてくる。自分ではそういうのって、判らないよ。特にヒナの場合は、ハルしか見てないから。他の男子にどう見られてるのか、どう思われてるのかなんて、心の底からどうでもいい。せいぜいハルの彼女として恥ずかしくない、自慢の彼女であろうとしていた程度だ。

 恋をすると綺麗になる。ハルに恋しているヒナを好きになっても、それはむなしいだけなんじゃないかな。どんなに綺麗で可愛くても、それはその人に向けられたものじゃないんだからさ。

 なぁーんて、何言ってるんだろうね。ヒナなんか好きになっても、良いことなんか何にも無いよ。何しろハルのことばっかりなんだから。

「そのくらい愛されてみたいんだろ」

 それは難しいですよ、サユリさん。ヒナがハルのことをこんなに好きなのは、長い長い積み重ねがあってこそだ。ある日突然、誰かのことをここまで好きになるって、それは無理。あったら逆に心配になるレベルだよ。一目惚れでそこまで強烈なのって、あるのかなぁ。

 一緒にいるのが楽しくて、お世話するのが嬉しくて、なんて。一瞬の出会いだけで感じられるものなのかね。ヒナは、最初にハルに会ったのがいつだったかなんて、もう全然記憶に無い。幼稚園の時、既に一緒に遊んでた頃の記憶が一番古いかな。ハルとは友達だった。まあ、好きは好きだったんだけど、幼稚園児だし、恋愛感情ってほどではなかった。ただ漠然と、一緒にいて、安心出来る人だった。その後、色々あって恋になってしまった訳だ。ホント、長い長い話。

「朝倉くんは幸せだね」

 それはどうかな、チサト。こんなメンドクサイ娘に好かれちゃってさ。ハルにしてみれば物凄く重いんじゃない?ずっと前から好きでした、もう何年も前から、あなたのことだけが好きでした、って。一生懸命で一途ってさ、言い方を変えれば諦めの悪い粘着でしかないもの。自分でも判ってるんだよ。ヒナ、重いなぁ、って。

 ハルは本当に幸せかなぁ、って悩むこともあるんだ。ヒナなんかに掴まっちゃってさ。ハルは素敵だよ。かっこいいよ。みんなが知らないハルを、ヒナはいっぱい知ってる。そんなハルと、ヒナはちゃんとつりあえてるかなぁ。

 三人とも笑い出した。む、なんだよう。ハル、かっこいいよ?素敵だよ?

「いや、別にそこは否定しないけどさ」

 じゃあなんで笑うのさ。

「それはきっと、ヒナにしか見せない朝倉だよ。みんな知らないんだろう?」

「朝倉はヒナと他の女子相手だと、結構態度が違うからなぁ」

「朝倉くんは、ヒナちゃんと同じなんだと思うよ?自分に自信が無いから、不安になったりもするんだよ」

 そう、なのかな?

「だから自信を持ちなって。ほら、行っておいで」

 ぽん、って背中を叩かれた。何かと思ったら、ハルがこちらに向かって歩いてくるところだった。いもたちも一緒だけど。

「ハル」

 クラス中、学年中、いや先輩たちも含めた大勢の前で、ヒナのことを彼女だって宣言したハル。不安だったのかな。ヒナが、ハルのところからいなくなるかもしれない、って。

「ヒナ」

 バカだなぁ。こんなに愛が重いヒナちゃんだよ?ハルを逃がすわけないでしょ。ハルが嫌だって言っても、ヒナはハルのそばにいるよ。離さない。離せないんだもん。

「ハル、ほら、踊りに行こう」

 ハルの手を取る。ハルが、ぎゅって握り返してくれる。うん、嬉しい。笑顔になる。えへへ。ハル、大好き。そっとハルの身体に寄り添う。後夜祭、今だけは良いや。素敵な彼氏様に全てを任せよう。

「あの、良かったら一緒に踊りませんか?」

 そんな声が聞こえて、驚いて振り返った。おおう、いもたちが果敢にアタックしている。サキとチサトが顔を見合わせて、楽しそうに吹き出した。

「ゴメンね、もう予約済みなんだよ」

 サキがチサトの手を取ってエスコートする。優雅だ。そして可憐。ありゃダメだ。王子様モードに入ったサキに、その辺の八百屋で売られているような根菜が勝てるわけが無い。女子二人が颯爽と退場していく。すげぇ。なんか良く出来たお芝居みたい。

「あー、私はプールの鍵返して来ないとだから」

 あくまで事務的なサユリだった。いや、お断りするにしても、もうちょっとさあ。取りつく島も無いとはこのことか。振り返りもせずに、サユリはさっさと立ち去ってしまった。

 後に残されたのは、いも。まごうこと無き、いも。哀れだな、いも。

「ほら、元気出して」

 ヒナはちら、とハルの方を見た。そしてにっこりと笑う。しょうがないなぁ。

「週明けから、一品おかず作ってきてあげるから。仲良く食べるんだよ」

 まったく、それくらいのことで天使でも見るような目をするんじゃない。いもたちの胃袋を掴んでも、全然意味が無い気もするんだけどね。これもハルのためだ。やれやれ。

 これでいい、ハル?

「手間かけてゴメンな」

 言ってくれれば良いのに。まあ手間ではあるけどさ。ハルの面倒を見るついでだよ。大きな子供が出来たと思えば良いんだ。ふふ。食べ盛りで困っちゃいそうだな。

 ハルの手を引いて、ダンスの輪に向かう。さあ、この後しばらくは二人の時間にさせてもらおう。公認カップル様だ。ほら、ヒナを彼女だって宣言したんだから、しっかりエスコートする。自信を持って、ヒナのことを好きだって言う。

 ヒナは胸を張って言えるよ。ヒナは、ハルのことが好き。


 ヒナは、ハルのことが好き。


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