アキの宴

第7話 限られたキラメキ

 暦の上ではもう秋だけど、まだまだ暑さが残っている。朝早く起きてキッチンに向かう日々が始まって、もう毎日が寝不足、グロッキー状態。監督のお母さんがしっかりとヒナの手元を睨んでいる。大丈夫ですよー、ハルに変なものは食べさせられないからね。

 曙川あけがわヒナ、十五才、高校一年生、いよいよ若奥様に片足突っ込みました。

 事の始まりはこの前の回転寿司だ。ヒナの家族と、ハルの家族全員揃って回転寿司に外食に出かけた。なんかヒナとハルのお付き合いのお祝いとか、とんでもない名目が付いていたけど、それはもう忘れたい。

 朝倉ハルはヒナの幼馴染。十五才、高校一年生。ヒナの彼氏、そしてヒナの恋人。ふふ、ヒナの大好きな人。

 高校に入って一ヶ月くらいして、ハルはヒナに告白してくれた。イメチェンって程でもないんだけど、中学よりは校則が緩くなったので、ヒナは縛っていた髪をほどいて昔みたいにふわふわにして、スカートをちょっと短くしてたんだよね。そしたら、ハルは女子高生のヒナにときめいてしまったわけだ。ヒナ、可愛いよって。そんなので良かったの?簡単だなぁ、とか思っちゃうけど、きっとそれはハルがヒナのことを好きだったからだよね。

 ヒナは昔からハルのことが好き。ハルはヒナのことを探して、見つけて、大切にしてくれる。ハルもヒナのことが好き。ちゃんと両想い。お互いの気持ちはもう確かめて、夏休みには沢山思い出を作っちゃった。ん?まあ、肉体関係的にはキスどまりだけどね。心は繋がってるの。二人は恋人同士なんだから。

 で、なんだっけ?ああ、そうそう、お寿司屋さん。

 シンジゲートも真っ青な情報網によって、すっかり家族公認になってしまったヒナとハルの男女交際を祝う会が、回転寿司屋で開催された。緊張とパニックでヒナはお寿司どころじゃ無かったんだけど、その横で激しいバトルが勃発していた。ハルと、ハルのお母さんだ。

 ハルのお母さんは元々はっきりと物を言う性格で、決断力と行動力の人だ。この交際記念会とか、謎のイベントをぐいぐいと実行しちゃうのも大体ハルのお母さん。そのハルのお母さんは、お酒が入ると更に凄いことになる。大虎っていうのかな。一言で言えば豪快って感じか。

 その時は、どういう流れでそうなったのかは判らないが、ハルのお弁当についての話になっていた。ハルが言うには、まあ、あまり好みではないと。男子高校生だし、いっぱい食べる時期だし、もっと量が欲しいと。それに対してハルのお母さん、てめぇ作ってやってんだからそれだけでありがたく思え、と。ファイッ。

 以前にも似たような喧嘩をしたことがあって、その時はハルの弁当箱の中に五百円玉が一枚入っていたそうな。作ってねーじゃねーかと喧嘩は更にヒートアップ。ああ、それ覚えてる覚えてる。ハルが昼休みの間中すっごい不機嫌だった。

 で、これがどうもプロレスだったみたいなんだよね。知らなかったのはヒナとハルだけ。ホントにウチの母親どもはセットアップが大好きだよ。そのうち気が付いたらヒナはハルと籍を入れられてるかもしれないね。別にいいけど、ちゃんと本人の意志確認ぐらいは取ってからにしてほしい。

 混沌とした状況にも慣れきて、ヒナがようやく最初の一貫目、美味しそうなエンガワを口に入れたところで、その言葉が飛び出した。

「じゃあ、ヒナちゃんに弁当作ってもらいな」

 マジで吐き出すかと思った。ちょ、ハルのお母様、何を言い出すんですか急に。

 意味も無くキョロキョロしちゃった。ハルの弟のカイがぽかーんと口を開けていて、ヒナの弟のシュウが好物のイクラに囲まれて放心していて、ヒナのお父さんがゲラゲラと笑っている。このA級戦犯め。ハルのお父さんはなんか、うんうん、ってうなずいていた。いや、あの、当の本人を置いて勝手に話を進めないでいただけますか。

 そしてヒナのお母さんが、バチコーンて片目をつぶってみせたので理解した。ああ、これ仕込みだ。計画通りって奴だ。早く何とかしないと。

 しかしここまで来ちゃうと、もう全てはお母さんたちのシナリオ通りだった。運命にあらがうことなど出来ない。母親同士が結託してるんだから、どんなにあがいたって無駄だ。ヒナだってやりたいでしょ?とか言われて怒りと恥ずかしさでブチ切れそうになった。ああはいはい、やりたいですよ。実は昔、こっそりと一ヶ月分の献立表作ったりしてましたよ。まさかそのことを知ってるんじゃないだろうな。

 怒涛の急展開についていけなくなって、ハルは言葉を失っていた。ハル、気を確かに。ハルのお母さんがしたり顔で語った。「まずは胃袋を掴め」へい、左様ですか。まずはも何も、もう既に恋人同士なんですがそれは。

 さて、この悪夢のような事情により、ヒナが朝早いハルと一緒に登校する際には、その日のお弁当が準備出来ていなければならない、ということになった。すなわち、ヒナには更なる早起きが必要。ぎぃやぁー。

 ハルのお弁当を作るのは、別に嫌じゃない。むしろ楽しい。ヒナは料理は得意だ。ハルの好みだって良く知ってる。その辺は幼馴染としての知識と経験をフルに使わせてもらっている。鼻歌の一つでも飛び出す勢いだ。

 ただ、朝早いのだけはね。こればっかりはどうしようもない。眠い。一度、砂糖と塩を間違えて狂気的に塩辛い肉じゃがを作り上げて、味見したお母さんが目を回していた。それ以来、お母さんに毎朝監視されるようになってしまった。そうだね、旦那様になる人を塩分過多で殺すわけにはいかないもんね。でも、それ一回だけで後はちゃんとやってるじゃん。このことは生涯に渡ってネタにされそうだよ。とほほ。

 弁当箱に詰め込んだら、携帯で写真をぱしゃり。ハルのお母さんに送信する。毎朝何を作ったのかを報告している。栄養バランスとか、分量とか、ヒナなりに考えてはいるけど、一応よそのお宅のお子さんが口にするモノですので。ハルのお母さんは毎回返事がスタンプだけなので、そのリアクションを推しはかるのが難しい。うーん、今回も大丈夫、なんだよな?

 お弁当が出来たらようやく行ってきます、だ。朝ご飯は最近は味見とつまみ食いで済ますようになってしまった。時間節約出来ていいんだけど、お行儀は良くない。あと、朝と昼で食べるものが同じっていうのは地味につまらない。お弁当作る立場としては、これは諦めるしかないか。

 中学時代に朝のランニングをしていた習慣から、ハルの朝は早い。今はそれだけが理由じゃないけどね。朝の人の少ない静かな時間帯に、ヒナと並んで二人でいられる時間を作るため。ハルと二人っきりでいられる時間って、実はあんまり無くって貴重なんだ。ヒナの甘い蜂蜜タイム。高校に入ってからずっと続けている。

 ハルとヒナの通学路が重なるコンビニの前で待ち合わせ。最初はヒナが待ち伏せするみたいにしてたんだけど、ハルにはあっさりバレていた。今では普通にお互いが来るまで待っている。二人とも、一緒にいる時間が欲しいからそうなる。えへへ。

「おはよう、ハル」

「おはよう、ヒナ」

 二学期になって気が付いた。ハル、またちょっと背が伸びた。ヒナが一五五センチで変わってないのに、ずるい。いいな、まだ伸びるんだ。ヒナももう少しだけ身長ほしいな。

 寝癖みたいな短髪は相変わらず。やや垂れ目。日焼けしにくいんだけど、今の時期は流石に少し褐色が入ってる肌。ムッキムキでは無い、とりあえずなスポーツマン。ヒナの恋人フィルタを通しているからか、ハルは今日もカッコいい。でもクラスメイトのサキも、サユリも、ハルのことをちょっといいな、とは言ってくれてる。ハルは素敵な彼氏だよ。

「はい、今日のお弁当」

「サンキュ。なんかゴメンな」

 いやいや、これはもう逃れられない運命だったんだよ。イットイズユアデステニー、マイサン。ハルのお母さんが黒マスクでそう言ってる画が浮かぶ。コー、ホー。

「結構楽しんでやってるから、気にしないで」

 ハルの世話をするのは嫌じゃないって、前に言わなかったっけ。ハルのお弁当を作ってると、なんだかハルの奥さんになったみたいで楽しい。何でも、って訳にはいかないけど、好きな人のことに関われるっていうのは、それだけで嬉しいものだよ。それがその人の生活に密着していることであれば、なおさら。ヒナはハルの奥さんになりたいからさ。

「今日は部活はあるの?」

「あー、なんかやるみたいだな」

 ハルはハンドボール部に所属している。中学まではバスケットボール部だったんだけど、色々と挫折があって高校からはやめてしまった。友達に誘われて、人数も少ないしあまり本気の活動をしていないハンドボール部に二学期から入部した。何もしてないよりはずっと良いと思うし、実際部活を始めてからハルは楽しそうだ。友達とわいわいやっている姿は、ヒナも見ていて気分が良い。

「ヒナも今日は部活か?」

「うん、まあ、ね」

 プールバッグを肩にかけ直す。ハルはまだ言いたいことがあるのかな。ヒナが勝手に決めちゃったこと、怒ってる訳じゃないんだろうけど、複雑なんだろうなぁ。ごめんね、ハル。一応、ヒナも考えた上での行動だったんだよ。

 実はハルがハンドボール部に入った後、ヒナも部活に入った。それまではハルに合わせて帰宅部だったが、ハルも部活を始めたし、ちょっと自分でも何かしてみようかな、って気になっていた。

 クラスメイトで友人のサユリが入っていることもあり、ヒナは水泳部に入部した。サユリとは夏休みの間にちょっとあって、その経過をみたいって事情もある。後は、人数が多くてあんまりガチじゃない感じでも大丈夫ってトコロと、ダイエットになるかなって、そんな程度の理由だ。

 ヒナが水泳部に入ったと知って、ハルは最初本気でショックを受けたみたいだった。いや、だって教室の床にへたり込んだんだよ?こっちがビックリだよ。ハル涙目。なんでやねん。

「水泳部って、水着だよな」

 まあ、そりゃあね。着衣泳部なんて聞いたことないや。

「ヒナ、水着になるんだよな」

 そういう言い方されるとやらしいな。部活の間は水着になるしかないでしょ。

「男も水着だよな。ヒナが、あんな水着来て、水着の男の集団の中にいるって」

 待って、待って。ハル、妄想力逞しすぎ。

 まず、あんな水着って、競泳水着のことか。あれは確かにヒナにも厳しい。っていうか、ヒナは着ないです。水泳部はガチ勢とエンジョイ勢がいて、ヒナはもちろんエンジョイ側です。なので、水着は学校指定のもの。半ズボンみたいなセパレート。夏休みに行ったプールで着てたヤツなんかよりも、遥かに色気が無い代物だから。

 あと、水着の男ね。ブーメランパンツは、確かにヒナもキッツイよ。でも女子だってそこそこの人数いるから。男女でべったりしてる訳でもないから。それくらいは認めようよ。ハルもヒナのこと信じて。ね?

 教室でうなだれてるハルをなだめてたら、「あ、曙川が朝倉フッてる」とか言われるし。ふってねぇーよ。ラブラブだよ。ハルがこんなにショックを受けるとは想像もしていなかった。うーん、少し妬いてくれるだけで良かったのになぁ。

 ハルはその後、サユリの所に行って頭を下げていた。「ヒナのことをよろしく頼む」ってちょっと、何やってんの。後でサユリが爆笑していた。「いやもう、あなたたち面白過ぎ」すいませんね。

 納得出来たのかなんなのか、とりあえずハルはその後は何も言ってきていない。水泳部をやめろとも言われていない。ハルがそんなに嫌なら、ヒナとしても考えなおさないこともないんだけど。ヒナが水泳部に入るの、そんなに心配?サユリに訊いてみたら、「いい刺激になってるみたいじゃない」とのこと。刺激、ねぇ。

 水泳部に入った理由は、実はもう一つある。学校のプールは屋内にある温水プールだ。一年中使えてとても便利。格技棟の上にあって、プールサイドの大きなガラス窓から校庭が見下ろせる。ハンドボール部が活動している所も、しっかりと見える。

 黙っていようと思ってたけど、ハルにそのことを話したら少し機嫌がなおった。現金だな。こんなに好きだって言ってるのに、まだ足りないんだ。

 ヒナは、ハルのことが好き。今までも、これからも。ずっとね。


 いよいよ学校の最大のイベントが近付いて来て、みんな浮き足立っている。その後には遅めの中間試験が待っているけど、そんなことはお構い無しだ。今だけはみんな、目の前のお祭りに集中している。

 そう、学園祭だ。

 十月の頭、土日の二日間にヒナとハルの通う高校では学園祭が実施される。翌日の体育の日は片付けの予備日だ。本当は三日間かけて騒いで、火曜日を片付け日にしてくれると生徒は幸せだったんだけど、学校側は許してくれなかった。ケチ。

 各クラスおよび部活動が大いに盛り上がっている。受験する前に、ヒナは見学がてら一度訪れたことがある。なかなか賑やかだった。高校の学園祭って、なんだか活気に溢れてて、その場の空気に触れてるだけで楽しくなって来るよね。ヒナはお祭り大好き。

 クラスの出し物については夏休み前から話し合いがもたれていたのだが、これがなかなか決まってない。やる気と気合だけはある。なんというか、現実が見えてない。

 劇がやりたい、というのが第一案だった。とにかく目立ちたい、派手にやりたい。しかし、クラスで体育館のステージ権を取るのは難しい。クジ引きの結果、見事に敗退。じゃあ教室で劇、となって更に揉め始める。

 そもそも劇となると、やることがいっぱいある。脚本、衣装、大道具小道具、配役、いくらでも出てくる割に、時間だけは物凄い勢いで流れていってしまう。夏休みだって何もしていない状況だ。まあ、これは無理だろうというのが大勢の意見だった。ヒナは派手にやりたいって気持ちは解るから、もったいないとは思っている。

 最終的にはパネル展示に落ち着くんじゃないの、ってハナシになってきた。うう、それはつまらんな。休憩コーナーでいいじゃん、みたいな意見まである。楽だけどさ、面白くないよ。高校一年の学園祭だよ?ヒナ的にはもっとこう、ぐわっと盛り上がっておきたいよ。青春のパッション。

 中にはクラスどころじゃない人もいる。委員会とか、部活で学園祭に参加する人だ。

 ハルの所属するハンドボール部は不参加。安定のやる気の無さ。いや、別に文句は無いです。学園祭に参加義務は無いからね。

 ヒナの所属する水泳部が、実は大変だ。水泳部は毎年学園祭の顔、正門ゲートのデコレーションを担当している。入り口がしょぼかったら、それだけでがっかりするもんね。大役だ。それを聞いて、ヒナは正直よっしゃ、と思った。そういうのって、参加している感が大きいじゃん。

 しかし、ヒナは途中入部だったし、大部分は二年生が担当するということだった。ちぇー。水泳部は人数多いからね。もちろんお手伝いには駆り出される。人手はいくらあって困ることは無い。雑用でもわくわくする。楽しみだ。

 もう少しすれば、放課後の部活動もほとんどお休みになる。学校全体が学園祭の仕様になる。とりあえず、それまでにはクラスの出し物を決めてしまわないといけない。生徒会や実行委員に怒られている状態だ。クラスの実行委員が頭を抱えていた。みんな好き勝手言うからね。しょうがないね。

 ヒナが何とか出来ればいいけど、あいにくとそんなアテは無い。やる気はあるのにもったいないなー、って思ってる。それだけ。

 ぼんやりしていたら、午前中の授業が終わってしまった。何にも頭に入っていない。しまった、学園祭終わったらすぐに中間試験なんだよな。後でサユリにノート写させてもらおう。その前にお昼だな。

 二学期に入って、気が付いたらお昼は教室でハルと一緒に食べていた。そう言うとラブラブっぽいけど、実際はちょっと違う。総勢八名の大所帯だ。

 ヒナのいる女子グループ、ヒナ、サユリ、チサト、サキの四人。ハルのいる男子グループ、ハル、じゃがいも1号、じゃがいも2号、さといもの四人。合わせて八人で机をくっつけて、仲良くお昼ご飯だ。名前?どうでもいいよ、ハル以外の男子なんて。

 どうしてそうなったのかは良く解らない。まあ、昼休みに学食組が教室からいなくなって、弁当組が残ったらこのグループだった、って感じかな。ヒナはハルと一緒だと嬉しいなって思ってたから、まあその辺察してくれた結果でもあるんだと思う。そういえばさといもはいつも調理パンとか菓子パンだ。すまん、実は学食に行きたいのかな。

 女子のレベルが高いから、そっち狙いってのもあるかもね。眼鏡ワンレン黒髪のサユリは大人美人って感じ。知ってるぞ、男子がハイヒールが似合いそうな女子ナンバーワンって言ってたの。踏まれてみたいかね?サユリはヒナと同じ水泳部で、部活の時は破壊力抜群の競泳水着だ。高校生とは思えん。けしからん。

 ふわふわロングのチサトはお人形みたいに可愛くて、すっかりアイドル状態。でも中身は意外としっかりさん。吹奏楽部でフルートを吹いている。軽い気持ちで近付くと怪我するかもね。チサトは密かに熱いハートを持っている。まあ、普段はぽやんとしてて見た目通りの感じでしかないんだけど。

 サキは我がクラスの誇る王子様。女子ですよ?でも王子様。スッキリとしたショートに、ネコみたいな目、スラリとした長身。立ってるだけでカッコいい。それでいて結構乙女。男女両方から人気とか、劇をやるなら間違いなく主役だね。

 そしてハル、は言うまでもないか。当たり前のようにヒナの隣に座ってくれる。いらっしゃいませ、彼氏様。学校ではあんまりいちゃいちゃしないようにしているけど、これくらいは良いよね。えへへ、ハルとお昼一緒に出来るようになって嬉しい。ヒナの作ったお弁当を目の前で食べてもらえるの、とっても幸せ。

 えーっと、残りの男子はいもです。いも。でんぷん。食物繊維も入ってるよー。

 ヒナがハルのお弁当を作ってることは、目ざといサユリによってあっという間に見破られてしまっていた。ヒナとハル、おかず同じだもんね。詰め方の工夫だけでは誤魔化しきれません。ちょっと前までは弁当箱の回収で四苦八苦してたんだけど、今はもう開き直って、お昼が終わったらその場でヒナがハルの弁当箱を預かってる。いもたちが最初驚いてた。なんだよう、いいじゃんかよう。これでも学校では控えてる方なんだぞう。

「今日の愛妻弁当はいかがかね」

 サユリ、うるさい。気にはなるけど訊かないで。

「ん、うまいよ。ヒナが作るようになってから、昼飯が楽しくなった」

 お茶噴きそうになった。ちょっとハル、そう言ってもらえるのはとっても嬉しいんだけど、みんなニヤニヤしてるんですが。うう、恥ずかしい。まだ慣れない。

「母さんが作るとなー、冷凍食品が多くてなー」

「あー、それなー」

 じゃがいも1号が同意する。ああ、確かにそのコロッケとか冷凍だね。最近の冷凍食品は、それでも結構おいしいと思うけどな。お母さんも大変なんだよ。作ってくれるだけありがたいと思いな。ほら、さといもなんか焼きそばパンだぞ。

「俺はもう最初からあきらめてる。金くれって言った方が早い」

 そういうことなのかさといも。複雑な事情とか無いのかさといも。お前にはがっかりだ、さといも。

「ヒナ、冷凍食品使ってないの?」

 サキが驚いたみたいに訊いてきた。うん、まあね。だってハルが食べるものだし。ちゃんとしたものを食べさせてあげたいじゃない?細かい物は冷凍の場合もあるけど、基本は全部手作りだよ?

 場がざわついた。なんだ、なんだなんだ?

「朝倉、お前曙川のこと大事にしろよ?」

「もうちょっとゆっくり味わって食え?な?」

「なんか急にその弁当が重く見えてきた。迂闊にちょっとくれとか言えないわ」

 今時ってそんなものなのかね。スーパーの冷凍食品コーナーとか、品揃え凄いもんな。

「え?でも毎日おかず違うよね?」

 チサトまでそんなことを言ってきた。よく見てるなぁ。恥ずかしいからあんまり解説したくない。えっとね、一ヶ月分の献立を作ってあるんだよ。ハルのお弁当用に。

 昔、気の迷いで栄養バランスとハルの好みのおかずでそういうのを考えてて、それを引っ張り出してきてちょっと手直ししたものだ。当時の一種のおままごと。暗い趣味みたいだからそれについては話さない。

 でも十分だった。またざわついた。もう、ヒナが重いっていうのはわかってるよぅ。

「ヒナ、立派だね」

 サユリさん、あんまり褒められてる気がしません。やり過ぎだってのは自覚してます。ヒナはハルのことになるとちょっとムキになっちゃうから。加減無しで走るとこうなってしまうのです。

「いいなぁ。朝倉いいなぁ。俺もそのくらい愛されたいなぁ」

 うるさいなぁ。じゃがいも1号にもそのうち良い人見つかるよ。根拠無いけど。

「朝倉は人生勝ち組だよなぁ。なんか急に飯が薄味になってきた」

 それは焼きそばパン作った人に失礼だろう。さといもは自分で弁当拒絶したんだからあんまり同情出来ないぞ。

「朝倉、お前曙川離すなよ、ホント。ここまでしてくれる子なんて普通いないぞ?」

 じゃがいも2号、そういうこと言わなくて良いから。ヒナは別にハルに恩を着せたい訳じゃないんだ。

 ヒナは、ハルのことが好きだから、ついついここまでやっちゃったってだけで、ええっと、ええっと。

「わかってるよ。ヒナには感謝してる。大事にもしてるつもりだ。ありがとう、ヒナ」

 ハルがヒナの頭に、ぽんっと掌を乗せた。

 ぼしゅっ。

 不意打ちしないでって言ってるのに。ハルのばか。完全にオーバーヒートしちゃった。ちっちゃく返事する。う、うん、どういたしまして。

 続けて、六人分のため息。

「なぁーんか飯食う前にもたれてきた」

「やべぇ、リア充マジやべぇ」

「あー、うめぇー、焼きそばパンうっめぇー!」

「なんだろう、カルメ焼きにシロップかけてかじったみたいだ」

「ふ、ふわぁ、ふわぁ」

「ははは、これって何かに軍事転用出来そうだね」

 もー、そっちが訊いてきたんでしょー!

 お昼ご飯は本当に賑やかだ。まあ、ヒナもいもたちは嫌いじゃないよ。ハルの友達だし。顔は覚えた。名前はまだ。それでも大きな進歩だ。

 食べ終わってからも、大体昼休みが終わるまでこのメンバーでおしゃべりしている。ハルとのことはちょくちょく冷やかされるけど、そのくらいならもう恥ずかしいだけで気にはならない。いもたちは割と紳士だ。ヒナとハルのことは、なんだかんだで認めてくれている。

「学園祭、クラスの出し物どうすっかなー」

 みんなお腹いっぱいになった後で、さといもがぼやいた。そうだね、ヒナも気になってるよ。いもたちもやる気だけはある。休憩コーナーはないわー、と三人口を揃えて言っていた。

「折角の高校生活だもんなぁ。何か派手なことしたいよなぁ」

 やる気だなぁ、じゃがいも1号。ハンドボール部の方は適当なのになぁ。ヒナをマネージャーにしようとしたこと、まだ覚えてるぞ。恨みは深いからな。

「今から劇は難しいよね。練習も準備も、圧倒的に時間が足りない」

 サユリが冷静に分析する。そうだよね。下手したらパネル展示のパネル製作ですら怪しい。結果として残されるのが、椅子を並べただけの休憩コーナー。ううう、それはわびし過ぎるよう。

 なんとかしたいから、ヒナも考えてみる。とは言っても、ヒナのアイデアなんてたかが知れてる。面白いことなんて何にも出てこない。

「例えば、アトラクション、とか?」

 思い付いたままに口を開いてみる。

「アトラクション?」

「うーん、よくテーマパークにあるみたいなヤツ」

 劇だと難しいから、派手なだけのアトラクションみたいなの。車がバーンと飛び出してくる、的な。ああ、教室じゃ無理だね。っていうか学校でやるのが無理だね。

「あと、なんだっけ、船のヤツ。ウォーターワールド、だっけ?」

「それはまた派手で良いけど」

 サキが笑う。あれはアトラクションかつ劇だよね。いいなぁ、ああいうのが出来れば最高。当然実現可能性なんて何も考えてない。衣装、セット、脚本、全部無理。でも、ヒナの想像する派手な劇ってそれだなぁ。

「そもそも水の上だよね、あれ」

 そうでした。船って時点でそうなるね。いやまあ、別にウォーターワールドをそのまんまやりたいんじゃないんだよ。あくまで一例として出しただけであって。あんな感じで出来ると凄いだろうなぁ、って。そりゃまあ、凄いわな。

「ん?水?」

 サユリが何か考え込んだ。ほへ?ヒナ何か言った?

「ヒナ、学園祭の間、確かプールは使われないんだ」

 ああそうなんだ。でも、それがどうかした?

「良いアイデアかもしれない。ちょっと実行委員と話してみよう」

 そう言って、サユリは持っているお茶のペットボトルをゆらゆらと揺らしてみせた。ええっとごめん、ヒナのアイデアみたいになってますけど、ヒナ本人が全く理解出来ていないのですが。


 ペットボトルボート。サユリがヒナと、クラスの学園祭実行委員ユマに説明した。ユマはそばかすにポニーテールの、まるで何処かの名作劇場みたいな感じの子。見た目通り、元気印ってイメージだけど、最近はちょっとどんよりとしている。ところで、ヒナは発案者ってことにされたんだけど、実質サユリの発案なんじゃないですかね。

 ペットボトル製のボートについては、インターネットで調べると沢山出てきた。ペットボトルを組み合わせて船を作って水に浮かべる。そこそこのサイズで人が乗れるくらいに出来るそうだ。それはなかなか面白い。

「これを、プールに浮かべてみようと思うの」

 学園祭の間、部活動は大会などの特別な場合を除いてお休みになっている。水泳部も例外ではなく、学園祭の間はプール自体が閉鎖される。学園祭でプールを使いたいなどと言う変わった団体は存在しなかったからだ。今までは。

 劇だとやっぱり準備に時間がかかる。今からでは物理的に不可能なので、これは諦めてもらうしかない。その代わり、ペットボトルボートを制作して、プールに浮かべるというのはどうだろうか。水に濡れるし、誰でも乗せるというわけにはいかないが、進水デモンストレーションくらいなら出来るかもしれない。

 ユマは良さそうだと言ってくれた。何しろ今まで全くアイデアが無くって切羽詰っていたのだ。まさしく渡りに船という感じだろう。まあ、余程突拍子もないことでもなければ受け入れてくれたんじゃないかとは思うけどね。

 担任のメガネ先生は、生徒がやりたいならいいんじゃない、とだけ言ってくれた。メガネ先生はちょっとやる気のない中年男性。物凄く大きい眼鏡をしているので、他の部分が全然印象に残らない。だって、ホントに大きいんだよ?顔の半分くらいがレンズだ。後はええっと、英語の先生、だったっけ?

 そこまではとんとん、と決まったので、後はホームルーム。みんなが劇に対して異常なこだわりを持っていたらそれでアウト。ハルといもたちが、根回しじゃないけどクラスメイトたちに話はしておいてくれたみたい。役に立つな、いも。いい加減名前を覚えてあげた方が良いか。じゃがいも1号が宮下君。じゃがいも2号が和田君。さといもが高橋君。さて、何分もつかな。

 もう準備期間が少ない、ということはみんな解ってくれている。そりゃあねぇ、もう高校生なんだから、時間の見積もりくらいは出来るでしょう。そろそろ諦めようか、というところに救世主登場な訳です。うん、そりゃ期待もされるわ。

「では発案者の曙川さん、説明をお願いします」

 ファッ?

 謀ったな、サユリ。

 くっそお、やたら発案者としてヒナの名前を出して、あちこち引っ張り回したのはそういうことか。仕方なく前に出てみんなの方を向く。サユリ、覚えてろよ。メガネがキラキラしてやがる。ハルが心配そうにヒナのことを見ている。だ、大丈夫、ヒナだってやる時はやるんだよ。

「えーっと、発案者の曙川です。もう劇は難しいと思ったので、それ以外で、その、いっぱい目立って、作る方も見てる方も楽しいって思えることがやりたいって、そう考えました」

 ほう、って声が上がった。うう、恥ずかしい。でも頑張る。ヒナは、ハルと楽しい学園祭の思い出が作りたい。高校最初の学園祭、みんなだって楽しい方が良いでしょう?

 サユリと一緒に話したことを思い出しながら、しどろもどろに説明する。ペットボトルを使うことで、材料はリサイクル品が中心になってエコロジーさをアピール出来る。準備期間が短くても、出来るところまでで船の大きさを決めてしまえば良い。普段使わないプールの使用許可さえもらえれば、場所に関しては何処とも競合しない。他の活動で時間が取られる人であっても、空きペットボトルを提供するだけでクラスに貢献出来る。

「みんなで、楽しい学園祭にしたいんです。休憩コーナーとか寂しいこと言わないで、協力してください。お願いします」

 最後にぺこん、と頭を下げた。しばらく沈黙。クラス中がしーんとしている。うう、これはどういう静けさ?おっかなくって顔があげられない。

 ちょっとずつ話し声が聞こえてくる。いいんじゃね。ペットボトル出すだけで協力出来るのは良いね。後はプールの使用許可だな。設計を考えないとな、今から調べてみよう。

 恐る恐るサユリの方を見てみると、親指を立てていた。ハルも笑顔だ。あ、あはは、やったか、やりましたか。

「ではペットボトルボートの企画を実行委員会と生徒会に提出します。プールの使用許可が降りるまでは仮決定になりますが、特に反対意見は無いということでよろしいですか?問題が無い場合は拍手でお応えください」

 ユマの問いかけに、クラス中に拍手の音が鳴り響いた。賛成多数で可決。なんだかどっと疲れた。こうやって人前で話すのって、ヒナは全然慣れてないから。もうグラグラしながら席に戻る。いや、これでヒナの役割は終わりだよね。よくやった、ヒナ。

 って、すっかり安心しきってた。

 プールの使用許可は割とあっさり降りた。事故に注意って何回も言われたけどね。まあ、高校生なのでお酒を飲む訳でもないし、きちんと節度を持って行動する限りにおいては平気でしょう。もっと色々揉めるかとも思っていたのでむしろ拍子抜けだ。澄ました顔してるサユリ辺りが、何か裏で手を回してたんじゃないの?

 プールの使用は基本的に水泳部に一任されている。なので、学校側の許可と共に水泳部にも許可を得る必要がある。こちらはある程度勝手が判っている。クラスの水泳部代表としてサユリとヒナが、水泳部の部長と話をすることになった。水泳部部長は二年生女子、メイコさん。ガッチリとした肩幅、短く切り揃えられた髪、まごうことなきガチ勢代表だ。

 メイコさんは練習には物凄く厳しい。でも、話してみると優しくて思いやりのある人だ。女子部員はみんな親しみを込めてメイコさんと呼んでいる。男子部員からも水泳部のおふくろさんとして慕われている。ヒナみたいなエンジョイ勢が適当にぷかぷかとプールに浮かんでいられるのも、メイコさんのお陰だ。きちんとした住み分け、けじめがあれば大抵のことは認めてくれる。その代わり、ルールを破るとメチャクチャ怒られる。

 ペットボトルボートの企画の話を聞くと、メイコさんは難しい顔をした。こっちは手間がかかるかな。不安そうなヒナの様子を察したのか、メイコさんは優しく微笑んでくれた。

「ああ、ごめんごめん、別に反対とかじゃないんだ。学園祭中はどうせウチもプールは使えないし、そのことについては問題無いんだけどね」

 だけど、何かがあるということか。水泳部の部長が良いと言っているのに、ダメになる要因ってなんだろう。ヒナの顔がハテナマークになる。

「ゴリラの噂、ですか?」

 サユリ、今何て言った?

 ゴリラ?なんでゴリラ?ヒナはもう頭のカタチがハテナマークになりそうだ。ナンデスカー?

「そうか、ヒナは知らないか」

 知らないよ、そんな素っ頓狂な話。

 サユリが説明してくれた。水泳部に代々伝わっている話で、一種の学校の怪談だ。学校のプールでふざけていたり、許可なく立ち入って泳いだりしていると、どこからともなくゴリラが現れて罰を与えるらしい。

 なんだろう、それ、ツッコみどころ多くないかな。とりあえずなんでゴリラなのかがさっぱり判らない。あまりにも突拍子が無さすぎて信憑性もクソも無い。ストーリー評価は1点止まり。いや、本気で信じてます?ゴリラですよ?

「まあゴリラはともかく、だね」

 ですよね。メイコさんのこと、ちょっとおちゃめ過ぎだと思っちゃいましたよ。この部活大丈夫なのかと心配になってくるところでした。そういうちょっと頭がおかしいのは、ヒナだけで十分だ。

「でも、実際に許可を得ないでプールを使った者が、良く解らない事故に遭ったことは事実らしい」

 はぁ。まあ、それだけならなんとか。しかし、無許可って時点であんまり同情出来ない話かな。ただ、そこにゴリラを盛っちゃだめだろう。なんでゴリラ。大事なことなのでもう一回。なんでゴリラ。

「今回だと無許可って訳でもないしな、ただ、初めてのケースだから何とも言えなくって」

 メイコさん、真面目に信じてるんですね。ヒナの怪訝そうな表情に、メイコさんも困ったように話してくれた。水泳部では代々、このゴリラの噂はしっかりと語り継がれているのだそうだ。プールではふざけない、無許可では使用させない。言ってることはまともだから、それはそれで良いのかもしれない。でもオチがなぁ。

「とりあえず、プールの管理は水泳部だからさ。そこの筋は通しておきたい。鍵とかの管理を任せちゃいたいんだけど」

 なんか嫌な予感がする。サユリとメイコさんの目線が、ばっちりヒナの方を向いていた。マジか。これも罠か。トラップ発動。

 結局、クラスのメンバーがプールで作業をする際、水泳部員としてヒナが責任者として事故防止と戸締りの管理を行うことになってしまった。正門ゲートの方のお手伝いは免除。ええー、ヒナ、そっちもやりたかったよ。しょぼぼん。

 にしてもゴリラ。どっから出てきたんだ。絶滅危惧種のくせに。意味がわからない。


 ゴリラはさておき、気になる話ではある。これからクラスのみんながプールサイドで作業をする訳だし、ヒナは事故防止の管理責任者だ。きっちりと役職はこなしておく必要がある。

 その日の水泳部部活中、ヒナは左掌の中にある銀の鍵に意識を集中した。さて、なんかいるんですかね。まさかゴリラですかね。

 ヒナの左掌には、銀の鍵が同化している。銀の鍵は神々の住まう夢の地球へと通じる道標で、それ自体が強力な力を持つマジックアイテムだ。人の心を読み、記憶を書き換え、単体でありとあらゆる魔術の触媒となり得る。ヒナにも良く解っていないが、とにかく物凄く強いらしい。

 本来、ヒナはこの力を放棄したつもりだった。お父さんの海外土産でもらった、ちょっと怪しい曰くつきのアクセサリ。その程度の認識でいたら、実際はガチで危険な魔術具だった。神の世界への試練へと誘う銀の鍵に憑いた神官ナシュトに対して、ヒナはあっけらかんとノーを突きつけた。いらん、帰れ。

 銀の鍵は契約の拒絶を前提にしていなかった。とんでもない欠陥品だ、仕様ミスだ。何処に文句を言えば良いのかは未だに解らない。責任の所在すら不明確とか、企業なら訴えられている。言いたいことは沢山あったが、残念ながら全ては後の祭りだ。

 結果として、ヒナの左掌には不完全な契約状態での銀の鍵が残された。オマケとして、自身も神である銀の鍵の神官ナシュトが、ヒナの存在と半同化というカタチで付いてきた。銀髪で真紅の瞳、浅黒い肌を持つエジプト神官を思わせるイケメン。でもハルじゃないので、ヒナとしてはお断り。今日びイケメンなら誰にでもちやほやされるとか思ってんジャネーゾ。

 この力のせいで、ヒナは面倒な目に沢山あってきた。今ではなるべく使わないように、と気を付けている。少し前にこの辺りを収めている土地神様とお話しをして、ヒナもようやく自分の中である程度は折り合いが付けられそうになってきた感じだ。まったく困ったもんだね。

 銀の鍵のことは誰にも話していない。話したところで信じてもらえるはずもない。万が一信じてもらえたとして、心を読めるなんておっかないだけだろう。一人で抱えるには大きすぎる秘密だったが、これも土地神様に話したらちょっぴりだけどスッキリした。神様を信じる人たちって、こんな気持ちなんだろうな。懺悔とか、正にそれだよね。

 さて、その銀の鍵を使って、プールを一通り調べてみる。五十メートルの競泳用プールだ。全部で8コース。学校のプールとしてはかなり立派だけど、プールとして見ればまあ何処にでもある感じかな。

 怪しげな何かがあるのなら、銀の鍵はその存在を見逃さない。というか、意識していなくても余計なものまで見える時すらある。あれは勘弁してほしい。そのせいで妙なことに手を出して、ハルに心配されたりする。そういえば今日はハンドボール部やってるんだっけ。ああ、こんなことさっさと終わらせたい。ハルの部活中の姿を見てうっとりしていたい。

 果たして、うっすらと何かの気配があった。良く注意していないと見逃す程度のものだ。何と言えばいいのか、残り香、だろうか。今現在はここにいないが、かつては存在していたのだろうか。

 ナシュト、これどういうこと?

 頭の中で問いかけてみる。ナシュトはヒナと一体化しているので、全ての情報はヒナと共有化出来ているハズ。それでも基本的には人間のすることには興味が無いらしく、こうやって呼びかけても返事をしてこないことの方が多い。神様とのコミュニケーションは難しい。

 ヒナの隣に、銀髪の長身の男が立った。豹の毛皮をまとった、浅黒い肌の半裸の男。プールに毛皮って似合わないね。色モノ度が五割増しって感じだ。ナシュトの姿はヒナ以外には見えていないので、この違和感はヒナだけのもの。大迷惑。

「常に顕在化しているわけではないのだろう。条件が揃った時のみ姿を見せる類だ」

 あ、そ。やっぱりか。その条件ってのははっきりしないけど、何かあるってことだけは確実か。

 それ、ゴリラ?

「顕現した際に、それを見た者がどのような視覚的な印象を持つのかまでは判らぬ」

 すっごい真面目に答えてくれた。ごめん、ありがとうナシュト。今日はよく働いてくれてるよ。なんかあった?

「無いことも無い」

 あれ?珍しい。ヒナに何か言いたいことでもあるの?いつもならもったいつけて託宣とかしてくるのに。ナシュトが雑談みたいな会話に乗ってくるなんて初めてじゃない?

「ヒナ、お前はあの土着神の言う通り、もう少し自分の在り様を素直に示していい」

 ふあ?

「銀の鍵は力だ。純然たる力であって、意思ではない。その向きは使う者次第。銀の鍵の真の価値はヒナ、お前が決めるものだ」

 は、ははは。

 何を言い出すのかと思ったら、そんなことか。ビックリした。ナシュト、本当にどうかしたの?熱でもあるの?ひょっとして、ヒナのこと慰めてくれてる?

「そういう訳ではない。ただ、必要ならばためらわず鍵の力を使えと、以前にも言ったはずだ」

 言ってましたね。そうね、銀の鍵も嫌われっぱなしじゃ困るもんね。うまく使うって難しくてさ。

 銀の鍵は力でしかない。それはニュートラルであって、善でも悪でもない。そりゃそうだ。使う人間に悪意があれば酷い道具になるだろうし、善意があればきっと素敵な道具になるんだろう。ヒナは自分が善意だけの人間だなんて思えない。そもそも、自分で自分のことを善意だなんて断言出来る人間なんているのかしらね。

 ああ、だから神の園への試練なのか。神様は意地悪だなぁ。こんなチートツールを渡しておいて、意思を見せてみろだなんて。こんなの欲望丸出しになるに決まってるじゃん。するとあれか、ヒナはひょっとして合格だったりするのか。はは、なんだかね。神様に用事なんて何にもないのに。ヒナが欲しいのはハルだけ。ズルしない、そのままのハルの気持ちだけ。

「お前のあり方は鍵の正当な所有者としての資質を十分に満たしている」

 本人はいらない、って言ってるのに。世の中うまくいかないものだ。どうしてもこの鍵が欲しいって人にしてみれば、それは欲にまみれてるってことで、やっぱりダメダメだよね。神様って一体何がしたいの?馬鹿なの?

 ん?ひょっとしてナシュト、ヒナのことまだ諦めて無い?

「我の存在意義は銀の鍵の所有者への試練だ。ヒナ、お前といる限り、我はお前を試練を受ける者としてみなさざるを得ない」

 マジか。融通が効かないな。長い休みだとでも思えば良いのに。ヒナといる時間なんて、神様からしてみればほんの一瞬のことでしょう?眠っててくれても構わないよ。

「我が眠れば、今のように便利に使うことがかなわなくなるぞ」

 ふふ、ホントに何かあったの?この前の土地神様とのお話に触発されちゃった?ヒナとしては、こうやってちゃんと会話が出来るのは嬉しいんだけどさ。

「変わったとすれば、それはヒナ、お前の心の持ち方だ」

 そうなのかな。まあ確かに、銀の鍵やナシュトに対して、以前ほど否定的な感情は持っていない。銀の鍵だけでなく、ナシュト自身もニュートラルだということなんだろうか。へぇ。

 じろじろとナシュトの姿を眺めまわす。まあハルじゃないけどイケメンだしな。ちゃんと言うことを聞いてくれるならそれはそれで利用価値がありそうだし。うーん、もうちょっと素直なら、邪険にはしなくなるかなぁ。ああ、でもそれにはヒナが素直にならないといけないのか。うわぁ、すっげぇシャク。

 ふむ。じゃあナシュト、これからもヒナに力を貸してください。鍵の力はなるべく使わないようにするつもりではいるし、神の園カダスなんてこれっぽっちも興味が無いけどね。

「まあいいだろう。存在が根底から否定されるよりはマシだと受け取っておこう」

 そう言い残して、ナシュトは姿を消した。なんだ、結構気にしてたんだ。言ってくれれば少しは配慮したかもしれないのに。神様ってのは難しいな。崇めてほしいってのは、基本が構ってちゃんなんだな。

 窓の方に歩いていく。外ではハンドボール部が練習している。練習っていうか、まああれは遊んでいるんだな。ハルがいる。うん、青春している感じですごくいい。こうやってハルの姿が見られれば、それだけで幸せな気分になってくる。

 ハル、ヒナは今、どうしたいのかな。

 とりあえずは学園祭だ。クラスの出し物、ペットボトルボートの企画をうまくやり遂げたい。サユリに担ぎ出された感じはするけど、ヒナが始めたことなら、最後までヒナの手で何とかしたい。それを妨げるものがあるなら、銀の鍵でも何でも便利に使って進めて行こう。まあ、悪に染まらない程度にね。何事もほどほどが一番だ。

「ヒナ、いつまで朝倉見てるんだい」

 サユリ、そういうこと言わないでよ。水泳部員がどっと笑う。サユリのせいで、ヒナのことを全然知らない先輩たちにまで二人の関係について知られている。別に隠しているつもりは無いけど、言いふらしてるつもりも無いんだから。

 とりあえず泳ごう。後はまた明日、大好きなハルと一緒に学校に来てから考えよう。


 学園祭の準備はすぐに開始された。学校中がそわそわとした空気に包まれていて、いよいよ授業なんてそっちのけだ。ヒナの周りも、もう学園祭の話題でもちきり。

 陸上部は毎年恒例の焼きそば屋台ということで、サキが鉄板の修行に入ったという。修行?なんか秘伝のソースとか、焼き加減とかあるの?サキは毎日疲れ切っていて、ほとんど何も話してくれない。「見えた、焼きそばは、ソバージュなんだ」もう何言ってるのか良く解らない。無茶しやがって。

 でもサキが焼きそば焼いてるのは良いかもしれないな。王子様焼きそば。なんかプレミアム感がありそう?今の燃え尽きた顔じゃなくって、いつもの爽やかな王子様スマイルでやってくれると、意味も無くギャラリーが集まって良く売れそうだ。サキの汗が隠し味だな。ひょっとして、陸上部はそれを解っててやろうとしてるんじゃないの?

 吹奏楽部のチサトは、それに輪をかけて忙しそうだ。体育館ステージでの演奏は選抜メンバーのみでおこなわれるという話だが、チサトは一年生ながらしっかりと選ばれている。夏休みに聞かせてもらったフルート、かなり上手だったし、ヒナとしては納得だ。

 選抜から漏れたメンバーは、演奏喫茶というそれはそれでなかなか面白そうな出し物に参加することになるのだが、一年生のチサトはそちらにも顔を出さなければならないらしい。あっちに行ったりこっちに行ったり、両方の練習をこなしたりで、チサトの小さな身体がくるくると回っている。最近は落ち着いて一緒にお弁当も食べられない。

 水泳部の正門ゲートの方も、早い段階から制作が開始されていた。何代も前から水泳部が任されていて、その上常に「前年度を超える」って息巻いているものだから、年々スケールが右肩上がりなんだそうだ。メイコさんもノリノリで「今年は来年すら超えるよ」とか恐ろしいことを言っている。サユリは一年生で雑用だからそこまでではないみたいだけど、忙しくしている先輩たちを見ていると、こっちまでじっとしていられなくなりそう。

 そんな状況なので、水泳部の部活自体は開店休業状態だ。ヒナのクラスにとってはありがたいけどね。ペットボトルボートが大きくなると、屋内プールに運び込む手段が問題になりそうだったから、もう作業自体をプールサイドでやらせてもらうことになっている。部活中にそれをやるのは流石に心苦しかったから、好きに使えるのはむしろ大助かりだ。

 ヒナは水泳部の責任者として、プールサイドでの作業監督にあたっている。プールの開錠、施錠が基本、プールサイドでの飲食禁止の徹底、プールに飛び込もうとするアホ男子ィへの注意、うへぇ、みんな真面目にやってくれよぅ。妙なことするとゴリラが出るかもしれないんだよ?そんな馬鹿馬鹿しいもの、ヒナは見たくもないよ。

 まあ、みんな作業自体は自主的にばんばん進めてくれてるんだけどね。部活が学園祭に参加しないハルとか、あとハルの友達のいもたち、えーっと、宮下君、和田君、高橋君なんかは率先してみんなを引っ張ってくれてる。みんな元々やる気自体はあったので、やることさえ決まってしまえば後は驚くほど精力的だ。

 ボートの設計は、そういうのが好きな男子が設計図を作って来てくれた。どんな種類、どんなサイズのペットボトルが何本必要かまで計算してある。すごいな。模型とかが趣味なんだって。パソコンでシミュレートして検証したとか。ほへー、それって一晩でなんとかなるようなものなの?ヒナのお父さんもそういうのやってるみたいだけど、ヒナにはこれっぽっちも理解出来そうに無い。

 考えていたよりもかなり大きなものが出来そうだっていう、そこだけがちょっと心配だった。数人が乗れるようなものを作ろうとすると、どうしてもそうなってしまうとか。いや、無理に何人も乗らなくて良いと思うんだけど。なんならイカダでも良いよ。そう言ったら男子全員からブーイングされた。ハルまで不満そうな顔してる。なんだ、男のロマンだとでも言うつもりなのか?

 ペットボトル集めの方も順調。そんなに重いものでもないし、男子でも女子でも出来る作業だ。あんまり柔らかいヤツだと強度の問題があるので、なるべくちょっと硬めのヤツ。とりあえずは何でも良いから持ってくるって感じで。使えないものや余りが出たとしても、それは後でまとめてリサイクルに出せば良い。

 集めたペットボトルは、外側のビニールを剥いで綺麗に洗う。並べておくと、キラキラ光って壮観だ。プールサイドはあっという間にペットボトルで埋め尽くされた。猫が見たら嫌がるのかな。今度トラジに聞いてみるか。

 ペットボトルの口同士をテープで留めて、棒状にする。それをまた組み合わせて、テープで留める。人が乗る部分は、その上にバスマットを貼り付ける。着々とボートのカタチが出来上がりつつある。おお、良いじゃない。仮でも形が見えてくると、みんなの気分が高揚して来る。出来そう、って気になってくる。

 ハルと二人でペットボトルを組み合わせてたら、写真部の人にパシャリ、と一枚撮られた。「二人の初めての共同作業です」うるさいな。それ、学園祭のパネル展示に出すつもり?だったらせめてジャージじゃない方が良かった。プールサイドで作業する時は、基本的にジャージ。下には水着着用だ。一応何があるか判らないからね。

 ちょっと油断すると、男子ィがプールを挟んでペットボトルでキャッチボールとか始める。「こらー、ふざけるなー」ヒナが怒る。ヒナの言うことなんかほとんど聞いてくれないけど、こういう時はハルとその友達が助けてくれる。ヒナの代わりに注意して、「大丈夫だから」って言って笑ってくれる。うわぁ、なんか青春だ。ほら男子ィ、お前らもちゃんと株上げとけよ。学園祭は確変だぞ?

 ヒナがプールサイドで頑張っていると、いつもハルがそばにいてくれる。二人の共同作業っていうのはあながち間違いでは無いかな。ヒナが監督、ハルが助手って感じ。優秀な助手のお陰で、ヒナも何とか回ってる。「ハル、ありがとう」って言ったら、「あいつらも頑張ってるよ」だって。はいはい、いもたちもね。ありがとう。三人とも思ったよりも頼り甲斐がある。いも卒業かな。ハルのこと、これからもよろしくね。


 作業は順調だった。思ったよりもハイペースで進んでいて、予定を前倒しして完成の目途が立ってきた。みんな嬉しそうだ。ヒナも嬉しい。こうやって何かを成し遂げるのって、やっぱり良いものだ。万事がこのままであってくれれば最高だったんだけど。

 問題っていうのは、大体忘れた頃に起きるものだ。

 その日は、まだ日数的には余裕があるが、ここで一気に仕上げてしまいたいということで、深夜作業の申請を学校に提出していた。陽が落ちてもまだ何人かの男子が残って、熱心に作業をおこなっている。何か差し入れを買って来た方が良いかな、と思って、ヒナはハルと一緒に近くのコンビニまで買い出しに出かけた。

 思えばこれが失敗だった。その時残っていた男子たちは、ちょっと目を離すとすぐにふざけ始めるような、少々やんちゃな連中だ。仏心なんか出して何か買ってきてやる必要なんて無かったかな。ハルも、ヒナ一人で行かせないようにって付き添ってくれちゃったし。監視の目が無くなったことが最大のミス。はぁ。

 帰って来た時には、もう異変は起きた後だった。ペットボトルボートが破壊されている。バラバラになったペットボトルが散乱し、ボート本体も無残にひしゃげた状態でひっくり返っている。誰かが力任せに振り回したみたいだ。

「これどうしたの?」

 どういうことだろう。ただごとじゃない。慌てて残っていたはずのクラスメイトたちを探すと、プールサイドで全員がのびていた。ええ?ちょっと、本当に何があったの?

「あ、曙川」

 駆け寄って声をかけてみると、意識はある。まずは一安心。ジャージがびしょびしょ。プールに入った感じだ。ん?まさかヒナが目を離していた隙に、飛び込んだり泳いだりとかしなかっただろうね。

「どうしたの?」

「よくわからない。急に殴られたみたいで」

 殴られた?穏やかじゃないね。まだ朦朧としているのか、言うことがはっきりとしない。みんな同じ状態だね。血とかは出てないし、外傷は無い。骨が折れてる訳でも、痣がある訳でもない。これは、実際の物理的な攻撃じゃないかもしれない。

「先生を呼んでくるか?」

「ちょっと待って」

 プールの外に出て行こうとするハルを引き留めた。全員命に別状は無いみたいだし、あんまり大事になって、深夜作業が出来なくなるのも面倒だ。何より、プールの使用自体を取り消されてしまったら目も当てられない。まずは今のうちに銀の鍵で記憶を改めさせてもらおう。

 予想通り、ヒナたちが外に行った後、彼らはジャージのままプールに入って遊んでいた。馬鹿だなぁ。せめてジャージ脱ごうよ。準備運動しようよ。今さら何を言ってもどうしようもないんだけどさ。

 その後、何かが襲い掛かってきた。黒い影だ。人型。大きい。

「誰かにやられたの?」

「それが」

 男子連中が何で言い渋るのか、良く判った。彼らの認識能力をちょっと超えているというか、こんな現実があるって認めたくないのかもしれない。

 ゴリラだ。

 なんでゴリラ。っていうか、ホントにゴリラだ。なんだこれ。

 とりあえず男子たちの記憶を少し操作する。ゴリラとか訳の判らない襲撃者のせいで、色々と混乱しちゃってるからね。状況が整理しにくいかもしれないけど、まあ、プールでふざけていたことだけは認めてもらうよ。そこはゴメンなさいしてもらう。

 男子たちはなんだかよく判らない、という感じで起き上がった。判らんだろうね。ハルが手を貸して、全員プールから出ていってもらう。今日の所はお家に帰って休んでいてくださいな。

 問題はその後だ。壊されたペットボトルボート。そして。

 誰かに、何かに襲われたっていう事実。

「とりあえずあいつ等はみんな大丈夫みたいだ」

 ハルが男子たちが無事に下校するところまで確認してくれた。ありがとう、ハル。はぁ、それにしても、明日からのことを考えると憂鬱だ。

 元を正せば、ゴリラなんて半信半疑であまり重要視していなかった、ヒナのせいでもあるかな。だから、お互いに言いっこなし。責めは甘んじて受けましょう。ヒナは責任者なんだから。

 しかし、ゴリラか。本当にゴリラが出るんだね。どういうことなんだ。これはちょっと、今後のためにも確認しておいた方が良いかもしれない。

 夜のプール、眩しい灯りに照らされて、ちゃぷちゃぷと静かに波打っている。温水だし、プールサイドにいると自然と汗が噴き出してくる。水の中につい入りたくなってしまう気持ちは、解らないでもない。

「ハル、ちょっとごめんね」

 ひと声かけるだけはかけておこう。あんまり驚かせるわけにもいかない。あと、そうそう、メイコさん、ごめんなさい。ヒナ、ちょっとだけ悪いことします。

 ん?と振り向いたハルの目の前で、ヒナはジャージのままプールにざぶん。うわー、スローモーションみたいにハルの表情が変わっていくよ。面白い。ハル、すごいびっくりしてる。

「ヒナ、どうした」

「大丈夫大丈夫、ちょっと落し物」

 笑顔で手を振って応える。さ、悪い子が出たよ。ゴリラさん、いるんでしょ?

 水に身を任せて、ぷっかりと仰向けに浮かぼうとしてみた。ああ、ジャージが水を吸って結構重いな。着衣泳って想像していたよりもずっと大変だ。脱いじゃおうか。でも、それだと悪い子レベル下がっちゃう気がするな。メンドクサイ。

 銀の鍵に意識を集中する。前に感じた何かの残り香。そうだね、どんどん濃くなってきてる。近付いてくるのが判る。おいで。ヒナの前に姿を見せて。

 プールサイド、ハルの後ろに、黒い影が揺らめいた。虚像から実像へ。次第に輪郭が明確になる。ああ、やっと姿を見せてくれたね。

 うん、ゴリラだ。屈んだ状態でハルよりもはるかに大きい。普通じゃ無いことは容易に見て取れる。いや、プールにゴリラがいる時点で普通でもなんでもないか。ハルには見えてないみたいだし、明らかにそういう存在なんだろう。

 むしろ笑えるなぁ。ヒナはぼんやりとゴリラを眺めた。向こうも少し戸惑っている様子だ。ゴメンね、ヒナも普通じゃないんだよ。ゴリラに向かって意識を集中する。さて、ナシュト、こいつなんなの?

「集団投影だな。複数の無意識によって生成されている。恐れの具現化、と言ったところだ」

 なるほど。ということは、これって水泳部のみなさんが作り出してるって認識で良いのかな。ルールを破るとゴリラが罰を与える。それが形になるくらい浸透していると?

 えー、それはちょっとあり得なくない?やっぱりストーリー展開は1点だよ。そこでゴリラが出てくる必然性はゼロだよ。メイコさんだってゴリラに関しては半信半疑だったじゃない。なんでゴリラなんだよ。何回でも言うよ、なんでゴリラなんだよ。

 ゴリラがヒナの方を不思議そうに見ている。いや、キミの存在を否定しているわけじゃないんだ。そもそもキミが何でそんな姿をしているのか、ってところに疑問を呈しているのだよ。まあ、言葉なんて通じないんだろうけどさ。

 なんか愛嬌があって可愛いなぁ。これ、ホントに恐れの具現化なの?男子が襲われたってのが無ければ、ヒナにはすごくコミカルに思えるくらい。ひょっとして、ヒナに悪意が無いのが判るのかな。うん、試しちゃってごめんね。すぐに出るから。

 よいしょってプールから上がる。水を吸ったジャージが重い。うわぁ、これつらい。勢いだけでこんなことするんじゃなかった。ゴリラはちょっと目を離したらもう消えていた。なんか面白い。学校の七不思議にするとどんな感じかな。プールのゴリラ。なんだそりゃ。タイトルだけで意味不明。

「ヒナ、大丈夫か」

 ハルが心配そうにヒナの顔を覗きこんでくる。大丈夫だけど、ちょっと失礼。

 ジャージのジッパーを勢い良く降ろす。ふう、重い。上着を脱ぎ捨てると、べしゃり、って音がした。はぁー、楽になった。ハルがホッとしたような顔をしている。ふふ、心配した?

「ごめん、ビックリした?」

「した。もう、勘弁してくれ」

 えへへ。ごめんなさい。ハルがヒナの頭に掌を乗せる。くしゃくしゃって撫でる。心地良い。

 このままいちゃいちゃしたくなってくるけど、事態はまだ収まってないんだよね。ゴリラの存在は確認出来た。言うほど危ないものでもなさそうだし、こっちがルールを守っている分には問題なさそう。

 後は、壊されちゃったペットボトルボート。今日の所は破損状況の確認と、お片付けかな。

 そして、明日。

「ハル、頼まれてくれる?」

 とりあえず口裏は合わせておきたいので、ハルに方針を説明する。ハルの心だけは読まないし、書き換えないって決めてるから、言葉で話さないといけない。ハルの表情がどんどん険しくなってくる。うう、そんな顔されましても。

「ヒナ、それで良いのか、本当に?」

 しょうがないよ。ゴリラなんて誰も信じないだろうし。それに、彼らに何もかも押し付ける訳にはいかないでしょ。ハルにとっては、ヒナが一方的に責任を負っているようにしか思えないかもしれない。でも、これで良いかなって、ヒナはそう考えてる。

「責任者だからね。責任取るのもお仕事だよ」

 まだ何か言いたげなハルを、ヒナは目で制した。良いんだ、これで。

「みんなが楽しく学園祭を迎えられる。それが一番なんだ」

 やれやれ、大舞台はもう終わったと思ってたのにな。ジャージの上着をぎゅうっと絞る。おお、吸ってる吸ってる。


 翌日、朝のホームルームの前にクラス全員がプールに集まった。ヒナがお願いして集まってもらった。そしてそこで、ヒナはみんなに向かって頭を下げた。

「私が誤って壊してしまいました。ごめんなさい」

 小さなざわめき。頭を下げたまま、ヒナはじっとしている。これで良い。変な方向に転がって行くくらいなら、ヒナが全部をかぶってしまった方が話が早い。

 大体ゴリラだとかなんだとか、そんな話をどうやって信じてもらえって言うのか。元を正せばヒナがちゃんと確認していなかったこと、監視していなかったことが原因だ。そう考えれば、ヒナのせいだと言えないことも無い。

 元々ヒナには重い荷だった。ハルや、他のみんなが手伝ってくれたから出来たことだ。ここで誰かが降ろされるなら、それはヒナが適任だ。割と本気でそう思う。名前だけでも、ヒナは一応責任者な訳だし。

 ハルはなかなか納得してくれなかった。状況はよく呑み込めないけど、少なくともヒナがやったことじゃないんだろう、と。まあ直接的に手を下したのはヒナじゃない。っていうか、誰でもない。そんなんでみんなが納得出来る訳ないでしょ?具体的な犯人がいて、まるく収まってくれる方がスッキリするんだよ。

 ハルが判っててくれてるなら、ヒナはそれで良い。みんなで楽しくやろうよ。犯人捜しとかさ、そういうつまんない話はやめとこう。居もしない犯人を追いかけたって、良いことなんか何にも無い。ヒナは、そういうの良く解ってる。

「ちょっと待ってくれ」

 昨日残っていた男子の一人が前に出てきた。ありゃ、どうしたの?

「壊した原因を作ったのは俺たちだ。曙川は悪くない」

 彼らの記憶は少しいじって、プールで遊んで事故を起こしたとだけ認識してもらっている。ゴリラとか、誰かに襲われたとか、そんな記憶が残っていたら厄介事が増えるだけだ。ハルに見られているということもあるし、その辺りの整合性は取っておきたかった。

 彼らがボートを壊したとか、彼らのせいで壊れたとか、そういう操作は一切していない。彼らが自分でそう考えた、ということなんだろう。それでこうやって名乗り出てきてくれるとは、完全に想定外だった。

「そうなんだろう、曙川?」

 うーん、そう訊かれても困っちゃうな。

「えーっと、そんなことは無くてですね」

 ここで彼らのせいにしてしまうことは簡単かもしれないけど、それはあんまり望ましくない。彼らは彼らなりに真面目に悩んで、名乗り出てくれたんだとは思う。どうしたもんかな。

 晒し者のようなヒナの姿を見かねたハルが何かを言いかけたところで、大きな声がプール中に響いた。

「もう、そんなことしてるヒマないでしょ!」

 みんなの視線が一斉にそちらを向く。学園祭実行委員のユマだ。腰に手を当てて、仁王立ちのスタイル。溜まっているストレスはクラス内の誰よりも高い。ぶっちぎりだ。

「さっさと後どれくらいの材料と時間が必要なのかを見積もってください!間に合うか間に合わないか、間に合わないなら何をどうやって間に合わせるのか、生徒会と本部に怒られるのは私なんですよ!ほら、早く!」

 その声に押されて、慌ててみんながわらわらと動き始めた。一人取り残された感じで、ヒナは立ち尽くしている。ユマがずかずかとヒナの目の前まで歩いてきた。ゆらゆらとポニーテールが揺れている。うん、元気印が戻ってきたって感じだね。今はちょっとコワイよ。ええっと。

「曙川さんは気負い過ぎ!みんなは曙川さんに甘え過ぎ!」

 大声でそう言って、ユマはばんっとヒナの背中を叩いた。おうふ。結構痛いよ、マジで痛いよ。

「みんなでやるんだから、失敗もみんなのせい。勝手に一人で背負わない!」

「う、うん」

 ぽかんとしてしまった。ユマはにやっと笑うと、今度はハルの方を向いた。

「旦那、ちゃんと奥さんのこと見とけ!」

 どっと笑いが起きる。ちょ、ちょっとなんてことを。ユマは軽く舌を出してさっさとヒナのそばから離れていってしまった。

 これで禊は終わりってことだろう。全部チャラ。朝のホームルームの前に、みんな一仕事片付ける感じだ。設計図を見て、壊れている個所を調べて、残っている材料を数えている。ユマががみがみと大声で指示を出している。ぼんやりとその様子を見ているヒナの隣に、ハルが来てくれた。

「ちゃんと見とけってさ」

 言われちゃったね。ご面倒をおかけいたします、旦那様。

 サユリ、サキ、チサト、いも、じゃなかった、宮下君、和田君、高橋君が、こちらを見てうなずいた。みんなの目が、大丈夫だって言っている。みんな、想いはヒナと一緒だ。ユマだってそう。今やるべきことをやる。それだけだ。

「もっとみんなを信じてみなよ」

「うん」

 そうだね。ヒナはまだかたくなだったかな。もっともっと、信じても良いのかな。

 昨日の夜残っていた男子たちが、ぞろぞろとヒナの前にやって来て並んだ。揃って気を付けして、礼。

「曙川さん、すいませんでした」

 ふふ、大丈夫。気にしないで。あ、でももう勝手にプールに入ったりしちゃダメだよ?ゴリラに襲われるから。

 全員の顔がハテナになる。水泳部に伝わる戒めの逸話だよ。ルールを破って勝手なことをすると、なんだか知らないけどゴリラに罰を受けるんだからね。言ってるヒナにも訳がわからない。でも、ホントのことなんだから仕方無いでしょ。

 その後予鈴が鳴って、みんなで慌てて教室にダッシュした。きゃあきゃあ言いながら廊下を走る。息が切れて、それでも可笑しくて笑いがこみあげてくる。

 ああそうか、一つになるって、こういうことなんだ。


 ペットボトルボートの破損自体は、大したことの無いものだった。潰れてしまったペットボトルはどうしようもないが、完全な作り直しになるパーツ自体はほとんど無かった。見た感じは結構派手に壊れているみたいだったけど、思いのほか構造がシンプルで良く出来ている。設計した男子が得意気だ。うん、これは誇って良い。

 しかし、比較的特殊な形状のボトルと、2リットル以上の大きなボトルが材料として不足していた。お昼休みにはお弁当の伴としてデッカイ烏龍茶が鎮座し、特殊な形状のボトルを探して自動販売機、コンビニ、ゴミ箱を漁る羽目になった。これもまあ、設計図に従ったせいなんだけどね。こっちはもうちょっと柔軟性のある構造にしておいてほしかったかな。

 ボートを壊した犯人探しはウヤムヤになってくれた。これはほっと一息だ。探したところで出てくることは無いし。なんてったってゴリラだ。出てきてもどうしようもない。プールを出る際、施錠の確認をしっかりすること。プールサイドではふざけないこと。クラス内では、この二点をしっかり守ろう、という話で解決した。

 ゴリラに関しては、こちらがルールに従っている分には大人しいみたいなので、とりあえずは放置。集団投影となると明確な元栓が存在しないので、完全に消し去るのが難しいということもある。水泳部のみなさんはよっぽどゴリラにトラウマをお持ちのようだ。サユリに聞いてみても良く解らないという。一年生だし、そりゃそうか。

 ゲート作りで忙しそうなメイコさんに、ちょっとだけ時間を頂いてお話を伺った。首にタオルを巻いて、ヘルメットを被って、もうすっかり工事現場の主任って感じだ。しかも似合ってるし。ガテン系女子。

「あー、ゴリラねぇ」

 ん?なんかちょっと微妙な反応ですね。前もそうだった。ゴリラのことになると、やや歯切れが悪くなる。突拍子もない話で困惑しているだけなのかと思ってた。ひょっとして、実はそれだけじゃない?

 失礼して、少し心の中を覗かせてもらった。解決しないと何かが困るとか、切羽詰っている話では全然無い。でも、どうにもはっきりしないことが多すぎて。ヒナの精神衛生の健全さを保つために、ご協力をお願いいたします。

 あ、ゴリラだ。

 メイコさんの中に、明確にゴリラのイメージがあった。うわぁ、水泳部員に代々伝染する精神的ウイルスみたいなもんか?ゴリラウイルス。笑えねー。感染すると金沢カレーとか食べるようになるのかな。

 にしても、このゴリラもちょっと漫画的というか、カリカチュアだ。何か原型があって、それがディフォルメされてゴリラになっている気がする。本物のゴリラってヒナもそんなに詳しくない。ただ、プールにいる奴も、メイコさんの中にあるイメージも、全体的になんというか、人間臭すぎる。

 参考までに二年生以上の先輩方の中をちょろっとだけ拝見した。余計な所は見てませんよ。部内の色恋沙汰とかカップリングとか、もうメチャメチャ興味あったのに、ぐっとこらえておきました。メイコさんやっぱりもてるなぁ、とか。サユリはやっぱりそういう目で見られてるんだなぁ、とか。あああ、神様ごめんなさい。一回ゆるんじゃうとダメだ。しっかり締め直しておこう。

 実にほとんどの先輩方が綾鷹、じゃなかったゴリラを心の中に飼っておいででした。うわぁ、水泳部はゴリラに浸食されております。ヒナの中にもきっとゴリラが入って来るに違いない。ゴリラパンデミック。

 なんてね。まあ、なんとなく正体の見当はついてしまった。というのも、三年生の先輩から具体的なイメージと記憶が得られたからだ。そういうことなんだ。面白いっちゃあ面白い。

 学園祭まであと数日に迫ったある日の放課後、プールでは追い込み作業が開始されていた。ボートはもうほとんど完成している。強度とか安全性とか、そういった実際に浮かべた際の問題点について最終的な確認作業がおこなわれていた。これだけ頑張って、浮かびませんでした、とか、人が乗ったら沈みました、とかだったら最悪だ。

 ボートに乗るのが誰なのか、というところでも悶着が起きていた。そこまで頑丈なものでもないので、重量制限はしっかりと守っておきたい。その上で、乗りたいという希望者はクラスの中でも後を絶たなかった。ウチのクラス以外でも、噂を聞きつけて申し込んでくる人がいる始末だ。ああ、ヒナは遠慮しておきます。乗り物そんなに得意でも無いし。男子達で勝手に争奪戦しててください。

 そんなんでわいわい大騒ぎしている所に、青い顔をしたメイコさんがやって来た。お疲れ様です。えーっと、すいませんうるさくしちゃってて。

「ああ、曙川、その、ちょっと良いかな?」

 メイコさんがいつに無く、もごもごと言い難そうにしている。なんでしょう、と返事をしたところで、プールの入り口からその人が姿を現した。

「あ、ゴリラだ」

 ヒナの言葉を聞いて、メイコさんがブッと噴き出した。失礼、つい漏れてしまいました。お互いに目を合わせて、ぷくくって声を殺して笑う。ねぇ、ゴリラだよねぇ。

 いやだって、本体というか、オリジナルが見れてちょっと感動しちゃったんだもん。ははは、ゴリラだ。なんでゴリラだって、そりゃあゴリラになるわな。

 その後ろからもぞろぞろと何人かが付いてくる。全員ゴリラだったらどうしようかと思っちゃった。プラネットオブゴリラ。絶滅危惧種に支配されるほど人類も落ちぶれてないか。

 窮屈そうにスーツを着たゴリラ、じゃなかった中年の男性が、険しい表情でヒナの前に立った。ええっと、存じ上げてはいるんですけど、はじめましてのはずなので。はじめまして、曙川ヒナです。思わずゴリラさんと言いそうになる。これ拷問だよ。笑ってはいけない学園祭二十四時だよ。

 ゴリラ先輩、東堂先輩は丁寧にあいさつしてくれた。でもヒナの中ではもうゴリラ先輩だ。いや、ごめんなさい。人を外見で判断するなとか、外見のことをあげつらうなとか、そんなことは頭では判っているんですよ。でも無理。むぅーりー。そりゃ水泳部員の頭の中がゴリラで浸食される訳だ。ぶはははは。

 メイコさんと三年生の先輩が説明してくれる。まあ、ヒナは事前にみなさんの心の中から情報を仕入れてました。改めて整理しておきましょう。

 ゴリラ先輩はこの水泳部のOBだ。今でも水泳の指導者として活躍されている。この学校の水泳部にも沢山貢献されていて、今でもこうやって様子を見に来ることがある。

 今回は学園祭でプールが水泳以外のことで使用されると聞いて、どういうことなのか確認しに来た、ということだった。はい、ご苦労様です。

 先輩方や、ゴリラ先輩の後ろにいるOBの皆さんの記憶を見れば判る。ゴリラ先輩は物凄く厳しい人だ。プールのルールとか、使い方に問題があると物凄く怒る。現役当時からあだ名が暴れゴリラ、ってうぷぷ。それ不意打ちだよ、ズルい。

 しかし、よっぽど怖かったんだね。いや、まだまだ現在進行形で怖いのか。たまに今でも学校に来て、厳しく指導することがあるらしい。それを知っている人の中には、具体的に怖いゴリラ先輩のイメージが明確に残っている。それは何世代もの部員達の中にしっかりと刻まれていて、一つの共通幻想を生み出すに至った。プールのゴリラ。ちょっとでもルールにはずれたり、不真面目なことをすれば、厳しい罰が待っている。

「プールをどのように使おうとしているのか、説明をお願い出来ますかな?」

 ゴリラ先輩の後ろで、OBたちの顔が引きつるのが判った。下手な応えをすれば全員大目玉だからだ。メイコさんも緊張した面持ちでヒナの方を見ている。わいわい騒いでいたクラスメイトたちも、一体何事かとしんと静まり返ってこちらの様子を窺っている。ハルも心配してる?これ、ヒナの回答次第では、ここまでやっておいてペットボトルボート存続の危機だったりするのかな?

 なんてね。ヒナはゴリラ先輩のこと、そんなに怖くないな。直接会って話をするのはこれが初めてだけど、色んな人の中のイメージを見てきた限り、ゴリラ先輩は悪い人ではない。筋さえ通せばちゃんと理解してくれるタイプの人だ。見た目はまあ、ゴリラだけどね。

 プールサイドに出たゴリラも、見境なく暴れることはしなかった。それはあのゴリラのイメージを持っている水泳部員たちの印象でもある。ゴリラ先輩は、物事の判断が出来る人なんだ。そこはちゃんと理解されてる。そういう人だって思われてるなら、やましいところが無いヒナが恐れる必要なんて、全然無い。

 ヒナはペットボトルボートの出し物について説明した。多分ゴリラ先輩が一番心配されているのは、プールの使い方、安全面についてのことだと思う。丁度今、最後の耐久性試験をしていて、重量制限を超えないよう、乗員の選抜をしている最中だと話した。必要なら水泳で使用するアームリング、腕浮き輪を救命胴衣の代わりに使用するつもりであるとも申し添えた。

 ちらり、と後ろの男子たちを振り返る。大丈夫だよな、お前ら。うんうん、とうなずいている。うむ、しっかりしておいてくれ。ゴリラはヒナがここで食い止めるからな。

「外からの来客などを乗せるつもりは無いのだな?」

「そういう要望はあるかもしれませんが、お断りしようと思っています。やはり、万が一の際には対応出来ませんし」

 何しろプールの上だ。ぼっちゃーんと転落してずぶ濡れになられても、こちらでは何も保証することは出来ない。誓約書でも書いてもらえば良いのだろうが、万一の事故というのは起きてからでは取り返しがつかない。イベントとしてはもったいない気もするけど、ここは安全側に倒しておく。

 ふむ、とゴリラ先輩は考え込んだ。ごくり、と唾を飲む音。ん?ヒナじゃないぞ。ちょっと、みんなビビり過ぎじゃないですかね。確かに見た目はゴリラだけどさ。中身までゴリラじゃないみたいだよ?

 ヘンな緊張感を伴った沈黙が少しあって。

「良いんじゃないか?楽しそうなことしてるな」

 ゴリラ先輩は、がはは、と元気な声で笑った。

 OBたちがどよめいた。いやだからさ、どんだけ恐れてるんだよ。ああそうか、プールにゴリラ出しちゃうくらいか。実際にゴリラ先輩が水泳部に来て指導をしたらどうなっちゃうんだろう。なんかちょっと怖くなって来たぞ。

 その後は、ゴリラ先輩と少し談笑した。ゴリラ先輩は水泳部のことがとても大事で、だからこそ厳しくしているという話だった。

 屋内温水プールという設備は、お金がかかっている。この充実した環境を維持し続けていくには、事故とか不正利用とか、そういうことがあってはならない。人一倍そういったことに気を付けてきた結果、暴れゴリラが誕生した訳だ。

「まあ、泳ぐだけがプールじゃない。これは面白い試みだと思う」

 ほぼ完成状態のペットボトルボートを見て、ゴリラ先輩はそう言ってくれた。良かった。OBや先輩たちが見ている前でそう言ってもらえたのなら、もうあのゴリラも出てくることは無いだろう。ああ、ジャージで飛び込んだり、プールサイドで飲食したりしたらダメだからね。最小限のルールは守ろう。

「高校時代ってのは帰ってこないんだ。今を楽しめ、ちゃんと青春しろ」

 ゴリラ先輩にも青春ってあったんですね。そんな台詞が脳裏をよぎったが、黙っておいた。ゴリラ先輩は現在一児のお父さん。奥さんは、この学校の水泳部のOBだ。多くは聞くまい。

「曙川さん、すごかったね!」

 ゴリラ先輩たちが帰った後、クラスメイトたちがみんな一斉に駆け寄って来た。ユマが興奮気味に話してくる。え?そう?ヒナすごかった?

「ヒナ、よくあの先輩と普通に話せたな」

 ハルまでそんなこと言って。人は見た目だけじゃないんだよ。ゴリラ先輩はちゃんと話せばわかってくれる人なんだから。誠心誠意心を込めてお話ししたのです。まあ、予習済みではあったかな。

 そうそう、今のを見てわかったでしょう?プールでふざけてると、ゴリラに怒られるんだからね。おー、あれがゴリラかぁ。みんなもゴリラに感染しておくように。ゴリラウイルス、拡大中。

 大したことをしたつもりは無いのに、すっかりわっしょいわっしょいされてしまった。うーん、どうなんだろうね。ヒナは、ヒナに出来ることをしたっていう、それだけだったのに。

 ただ、みんな喜んでいる。クラスが一つになってペットボトルボートを成功させようとしている。その空気は気持ち良い。ヒナもその力の一部になれているなら、何よりだ。

 ハルも楽しそう。うん、ハルが楽しいならそれが一番。「ヒナ、頑張ったな」って言ってくれた。その言葉だけで、ヒナは満足出来る。へへへ、ありがとう、ハル。

 さあ、完成まであとちょっとだ。みんな、頑張ろう。


 学園祭前日、前夜祭がやって来た。前夜祭って言うと何かカッコいい響きだけど、これって前日までに準備が終わっていない団体が、徹夜で仕上げるための口実でしかない。要は最後の追い込みだ。

 ウチのクラスはそこまでの事態におちいることは無かった。一時はどうなることかと思った。これもみんなが頑張ってくれたお陰です。安心して学園祭当日が迎えられそう。

 とは言っても、深夜作業届、そして終夜作業届は提出してある。あ、正確には前夜祭参加届だ。そういう名目にしておかないと、学校に寝泊まりとか普通はやっちゃダメだからね。手続き上の問題ってことだ。

 ゴリラ先輩に言われた手前もあるし、安全対策を色々と考慮しておきたい。あと、壊れた時のバックアッププランだ。修理用のパーツを事前にある程度用意しておくっていうのも有効。とにかく、やれることは一通り済ませておきたかった。ヒナも、やる時はやるんだよ。もう目が回りそうだけどね。

 前日ということで、普段は部活の方で忙しくしているサキやチサト、サユリも顔を出してくれた。忙しい自分の仕事から逃げ出して、休憩にやって来ただけって気もするかな。完成したボートを見て、おおー、って言ってくれた。良く出来ているよね。

 ペットボトルボートは、公園とかにあるような普通のボートに近い形状。その代わり、ちょっと横に広めになっている。イカダとボートの中間くらいなイメージかな。理論上は、普通の高校生なら四人までは乗れるということ。作りかけの時に何度か実験して、その辺りは検証済み。この本番用ボートの性能については、明日の進水式のお楽しみだ。

「なんだか感無量だね」

 サキはボートを見てため息をついた。そうだね。でも、本番はまだ明日だ。実際に浮かべて、人が乗って、初めて大成功バンザイになる。ヒナも楽しみだよ。

「ヒナのお陰だね」

 それはどうかなぁ。アイデアはそもそもサユリのものだったし、ヒナはプールの使用許可と管理をしていただけだ。学園祭実行委員のユマとか、ハルとか、ハルの友達とか、他にも設計したり、材料を集めたり、実際に組み立てたり、とにかくクラスメイトのみんなが頑張ったから、ここまで来れたんだと思う。誰か一人のお手柄ってことは無いんじゃない?

「まあ、そういうことにしておこうか」

 なんだよ、含みのある言い方だな。みんなもうヘトヘトだということで、その後すぐに帰っていった。他のクラスメイトも、特に作業が無いなら早めに上がってもらうことにした。ヒナは鍵の管理をしないといけないので最後。ハルが付き合ってくれる。ふふ、むしろ最後に二人きりになれるから幸せなんだよね。

 なんだかんだ細かい作業をしていたら、かなり遅い時間になってしまった。ハルと二人だけになってからも、色々と気になっちゃって、結局ヒナはいつまでもあちこち動き回っていた。ああ、だいぶ遅くなっちゃったね、ごめんね、ハル。

「まあ、俺は大丈夫だよ。最悪泊まりになるかもとは言ってあるし」

 ふうん、そうなんだ。

 とっぷりと日が暮れた。この時期で真っ暗ってことは、もうかなり遅い時間。晩ご飯は特別営業中の学食で済ませちゃった。学食、味は悪くないね。お値段も手頃だし、変に凝ったお弁当よりは良いかも。むむ、ちょっと対抗意識出てきちゃった。ハル、学園祭が終わったら献立表を見直してみるよ。

 一度、守衛さんが挨拶に来た。お疲れ様です。今日はみんな結構残ってるね。いよいよ明日ですからね。頑張ってね。はい、ありがとうございます。さて、これで今日の来訪者は全て終了。

 プールの窓から正門の方を見ると、まだ灯りが見える。ゲートの作業が続いているのか。水泳部は徹夜だな。サユリはもう帰ったみたいだけど、メイコさんはまだいるんだろうか。大したガッツだ。

「そろそろ帰るか?」

 ハルが訊いてくる。ああ、それなんだけどさ。

「ねえハル?」

「ん?」


「今日は、このまま泊まっちゃおうか?」


 ・・・何か返事してよ、ハル。ダメか、すっかり固まっちゃった。

 ヒナも一応、今日は泊まり作業になるかもね、とは言ってあるんだ。まあ、その可能性は低いかなって思いつつもね。万が一そう言うこともあるかもしれないって。ん?ハルと二人っきりだなんて、当然そんなことは言ってませんよ?

 いやあ、まさかコッチのもしかして、が来るとはね。ふふ、ハルと二人で夜の学校って、実はちょっとだけ期待してた。ほら、学園祭の準備では、ヒナはハルにいっぱい助けてもらったからさ。こういうご褒美もいいかな、って。

 どうするかはハル次第。何をするかもハル次第。全部ハルに任せるよ。ヒナはハルに全部預けてる。プールの鍵はヒナが持ってるからね。明日の朝までお邪魔は無しだ。プール清掃も、次回は学園祭の片付け日になっている。ああ、ゴリラが出ないように、そこだけは気を付けないとかな。

 ちゃぽん、ってプールの水が跳ねた。静かなさざなみ。プールサイドで、ヒナはハルと見つめ合う。誰もいないよ。ここには二人だけ。明日の朝までは、ね。

「ヒナは、その、それで良いのか?」

 ハルが顔を逸らした。どきどきしている。身体は離れているのに、二人ともお互いの心臓の音まで聞こえてきそう。ハルもその気になってくれてるのかな。うん、ヒナもそういうつもり。覚悟、してるよ。

「私が誘ったんだよ?ハルにお任せします」

 恥ずかしいこと言わせないでよ。ここまででもうヒナはオーバーヒート寸前なんだから。いっぱいの勇気を振り絞って、ハルにアタックしてるんだよ?大好きなハルに、全部あげるつもりなんだから。

 ハルがヒナの方に近付いてくる。わ。ハルが近い。すぐ目の前に立ってる。お互いの呼吸の音が聞こえる。星空の下でのデート、二人で観た花火、それよりももっと激しく、心臓が跳ねている。ハルの意思を感じる。うん、来る。ハルが、ヒナの身体に触れようとしているのが判る。どうぞ、ハル。ヒナは全部お任せ。心も身体も全て開いて、ハルを受け入れるよ。

 最初は恐る恐る、その後は優しく、最後には力強く。ハルはヒナの身体を正面から抱き締めた。ああ、ハル。ハルの腕の中にいる。そう思うとそれだけで、頭の中がぼうっとしてしまう。こんな風に二人っきりなんて、初めてかな。全てを許してハルに身体を預けるのって、とても心地良い。気持ち良い。好き。ハル、好き。

「ヒナ」

 ハルがヒナの名前を呼んでくれる。嬉しい。ハルがヒナのことを好きでいてくれる。ハル、ヒナはハルのこと好きだよ。ハルになら何をされても良いよ。ううん、ヒナはハルに奪われたい。何もかも、ハルのものにしてもらいたい。

 ハル、ヒナを抱く腕の力がすごく強い。興奮してるんだ。ヒナの背中に触れた掌が、所在無げに上下に動いている。ええっと、ジャージの下は水着だからね。密着してるのが判る。あの、その、ハル、男の子、だね。ヒナ、ちょっとびっくりしてる。

「ハル・・・ハルは、私と、そういうこと、したい?」

 おずおずと尋ねてみる。いくら二人だけとは言っても、ここは学校だし、プールサイドだ。なんというか、かなり特殊なシチュエーションだよね。こういう機会がなかなか手に入らないって言うのは理解出来るんだけど、その、ちょっと恥ずかしい。だって、このままだと部活の度に思い出しちゃいそうだし。

「うん、したい」

 直球ですね、ハル。訊いておいてなんだけど、うひゃあってなった。顔が熱くなる。うん、ハルにしたいって思われるのは、悪くない。むしろ嬉しい。ハル、ヒナのことちゃんとそういう風に見てくれてるんだね。ヒナはハルの奥さんになるから。頑張る。いいよ、ハル。ヒナのこと、好きにして。

「正直すごくしたい。けど」

 ハルがヒナの身体を離した。ヒナの肩を掴んで、真っ直ぐに見つめてくる。胸の奥がきゅってなる。ハルの気持ちがいっぱい流れ込んでくる。ハル、愛しいよ。ヒナ、今すっごくときめいてる。

「それは、今じゃないって思う。ヒナとは、ちゃんとそういう時が来るって、そう思ってる」

 ・・・そうなの?

 ふふ、もう、カッコつけちゃって。いいの?我慢してない?ヒナはハルのすることなら、何も拒絶したりしないよ?

「ハル、カッコいいこと言ってる」

「う、うるさいな。いいだろ」

 ハルが照れてる。ヒナの肩を掴む手が熱い。ハルの想い、判るよ。ヒナのこと、大切なんだね。すっごく大切なんだね。嬉しい。ちょっと涙が出てきそう。

「後悔しないの?大丈夫?」

「きっと後悔する。あー、やっとけば良かったって思う。でも」

 ぽん、とハルの掌がヒナの頭の上に載せられた。くしゃくしゃ。ふふ、なぁに?それで誤魔化せるの?

「やっぱりヒナとはいい加減にしたくない。いや、今もいい加減だなんて言うつもりは無いけどさ」

 意地っ張りめ。ヒナはハルにがばって抱き付いた。ハルがうわってなる。ぎゅうって強く抱く。強く、強く。ハルの匂い。ハルのぬくもり。ヒナの大切な人。ヒナの居場所。

 ヒナの、未来の旦那様。

「じゃあ、その時が来たら、優しく奪ってね」

 ハルの手が、ヒナの背中に触れる。「わかった」小さな返事が聞こえる。約束ね、ハル。ヒナにはハルしかいないんだから。ハル以外なんて考えられない。お願いだよ?

 ハルの身体を離して。見つめ合って。

「ハル、大好き」

「俺もヒナのこと、好きだよ」

 そっと、軽いキスをした。多分これだけで生活指導に呼び出される要素としては十分だ。バレたら来年から前夜祭参加届なんて軽くぶっ飛ぶだろう。先生、ゴリラ先輩、神様、あとクラスのみんな、ごめんなさい。ヒナは悪い子です。


 船底のパーツの予備が、そのまんまベッドとして使えそうだった。大きいペットボトルをつなぎ合わせて板にして、バスマットが貼り付けてある。これをプールから離れたところに並べて敷く。ハル、寝相大丈夫だよね?寝てる間にプールに転げ落ちるとか、冗談にならないよ?

 寒くは無いので、これにバスタオルで寝床としては十分かな。しかし、いざ寝ようとしてみると赤面してしまう。これ、先にベッドを用意していたら、ハルの答えは変わってたかもね。これからここに横になるって思うと、なんだか生々しい。ハルもちょっと複雑そうな表情。

「ハル、後悔してる?」

「訊くな。もう決めたんだから」

 まあ、決心が揺らいだらいつでも言ってね。拒まないから。これはこれで素敵な思い出になりそうじゃない?ヒナ的には全然オッケーですよ?相手がハルなら、ね。

 寝心地は、まあ普通かな。床に寝るよりはマシ。バスマットとペットボトルがギシギシと音を立てる。あー、これはダメだよ、ハル。激しくしたらきっとすごいことになっちゃう。同じことを考えたのか、ハルと目があったらぷいっと横を向かれてしまった。そのまま二人して笑い出す。もう、エッチだなぁ。

 電気を消すと、非常灯と消火栓の明かりだけになった。おお、何処からがプールの水面なのかが判らなくなって、ちょっとコワイね。トイレとかに行く時は気を付けないと。窓の外を見ると、まだ明かりの点いている教室がある。お疲れ様。頑張ってね。

 校門の方にも光がある。水泳部凄いな。明日、本当なら最初は正面ゲートから入って登校してくるはずだったんだよね。早起きして見に行ってみようか。

 臨時ベッドに体を横たえる。ギシギシ。笑っちゃう。ハル、この音だけで我慢してくれる?ギシギシ。何か足りない?うーん、そっちはハルの中で勝手に補っておいて。流石に恥ずかしいや。

 ハルと二人で眠るのって初めて。こんなに近くで、こんなに無防備に身体を晒すんだね。あ、ハル、ヒナが寝ている間に我慢出来なくなったりしない?そういうのはやめてほしいな。するなら起きてる時にしてね?

「しないって」

 ははは、怒られちゃった。もう、しないで、とは言ってないのに。じゃあ、これで。

 ハルの手をそっと握る。二人で手をつないで横になってる。うわぁ、なんだろうね、この状況。ハルとこんなことが出来るなんて、考えもしなかった。どきどきする。二人で明かす、初めての夜。お泊り。聞こえてくるのは、微かな水音と、ギシギシってノイズ。ぷふふ、ダメだ、やっぱり面白過ぎる。可笑しい。

「楽しそうだな、ヒナ」

 ごめんごめん、眠れないよね。うん、楽しい。超楽しい。興奮が収まらない。夜、ハルとこうやって二人でいるって、それだけで自分が抑えられない。

 ハルは眠れそう?すぐ隣にヒナがいて、同じように横になってて。想像したら色々考えちゃったりしない?ヒナはどうかな。眠れそうかな。

 ハルに寝てるところ、寝顔なんかも見られちゃうって、やっぱり恥ずかしいな。いつもハルの前では一生懸命可愛くしているのに、そのままの素のヒナを見られちゃうんだよね。ヒナ、いびきとかかいてないよね。よだれたらしたりしないよね。ハルに嫌われないよね。

 暗闇に目が慣れてきた。ハルの方を見ると、ハルもヒナのことを見ていた。仰向けに横たわって、手をつないで、見つめ合う。このままずっとこうしていたい。うん、出来るよ。今日はもう、このままハルと共に眠りにつくことが出来る。そしてまた明日、朝起きた時からハルと一緒にいられる。そう考えると、とっても得した気分になってくる。

 ハルの手を強く握る。ハルが握り返してくれる。幸せだ。ヒナは今、人生の中で最高に幸せな瞬間を更新したと思う。ハルとこうやって並んで寝るなんて、とっても素敵なことだ。興奮して眠れそうにない。

「俺も。いや、変な意味じゃなくって」

 雰囲気ぶち壊しだなぁ。いいですよ、変な意味でも。今ならきっと何でも良い思い出に出来る。ほらほら、ラストチャンス。可愛い幼馴染が、ハルのすぐ近くで横になってますよ?

「うん、可愛い」

 ぐっ。正面から撃ち返してきたか。

「だからもう少し、大事にさせてくれ。いつかきっと、嫌でも我慢出来なくなるんだからさ」

 さらっとすごいこと言うなぁ。はぁーい。じゃあヒナももう少し頑張ろう。何をって?決まってるでしょ。言わないよ。ハルの方から言ってくれるはずだからね。

 ふっと、意識が遠のく。疲れてたのかな、興奮し過ぎたのかな、ハルがいてくれて安心しちゃったのかな。

 きっと全部だ。眠気がすごく心地良い。

 おやすみ、ハル。イタズラする時は、ちゃんと起こしてからにしてね。お願い。


 窓の外から眩しい光が射しこんでいる。プールの水面が光を反射して、キラキラときらめいている。ああ、綺麗だ。身体を起こす。ギシギシ。うん、この音どうしようもないな。

 目が覚めたのはヒナの方が先だった。残念、ハルにイタズラされて起きたかった。そんなことしないか。

 よいしょって立ち上がって伸びをした。節々が痛い。まあ、簡単ベッドだったし、しょうがないね。ふわぁ、とあくびを一つ。

 お弁当を作る習慣で、もう自然と朝早く起きてしまう。ハルはいつも何時くらいに目を覚ますんだろう。まあ、今のヒナよりは確実に遅いんだろうけど。

 ハルの寝顔を覗き込む。良く寝ている。結局ヒナにエッチなことはしなかったんだね。ハルはカッコいいなぁ。こうやってお泊りするって段階で、ヒナは覚悟してたのに。もうちょっとくらい自分に正直になってくれても良かったんだよ?こんなチャンス、もう二度と無いかもしれない。ふふ、大好きだよ、ハル。

 さて、ハルが寝ているなら丁度良い。シャワー室に行って、その後着替えとか諸々済ませちゃおう。女の子には色々と準備が必要なんです。ハル、もうちょっとだけ眠っててね。

 プールから出ようとしたところで、ばったりとサユリに出くわした。え?サユリ、鍵、持ってたっけ?ああそうか、メイコさんに借りたのか。部長のメイコさんは、マスターキーの方を管理している。そっち経由のルートがあったか。

「あれ?ヒナ、昨日はここに」

 そこまで言って、サユリの視線がヒナの後ろに向けられた。そこには、バスマットの上で眠りこけているハルの姿が。

 わ。

 わわわわ。

 うわー、っと、サユリ、ちょっと表に行こう!ダメ!ここダメ!

「ヒナ、アンタまさか」

 サユリの目が冷たい。眼鏡がギラリと光を放つ。そうじゃない、ええっと、そうじゃなくて、ええっと。

「ほら、今のうちに綺麗にしておかないと」

 うん、そうなんだけど、ええっと。いや、そうじゃなくて。あわわわ。

「大丈夫、黙っててあげるから」

 うわーん、それは有難いけど絶対何か誤解されてるよう。まあそういうことになってもいいかな、とか思ってたけどさあ。

 しどろもどろになりながら、ヒナはサユリに昨夜のことを説明した。その間、サユリはずっと、呆れ返って何の言葉も出てこない、という顔をしていた。うう、お母さんに悪さを見つかった子供みたいだ。

 ヒナが一生懸命サユリの誤解を解いているのに、ハルはずっと眠っているままだった。幸せそうですね、ハル。起きたらヒナと一緒にお説教タイムだよ。今のうちに良い夢みておいてね。

「もう、それこそ学園祭を台無しにするところだったじゃない」

「ゴメンナサイ」

「朝倉が真面目な根性無しで良かったわね」

「ソウデスネ」

 もう何回目か判らないくらいのため息を吐き出して、サユリはハルの方を見た。ハル、起きませんね。よっぽど疲れてたのかな。

「どっちにしても早く片付けましょう。見つかるとマズイことに変わりはないんだから」

 はぁーい。

 ハルの身体を揺する。ほら、ハル、起きて。もう朝だよ。学園祭だよ。ううーん、と言ってハルが身体を起こす。

「おはよう、ヒナ」

 ハルはまだちょっと寝ぼけてた。そんなに朝強い訳じゃ無かったんだね、ヒナ、初めて知ったよ。もうちょっと早くその情報欲しかったかな。

 多分、まだ二人だけだと思ったんだね。ハルはヒナのことを、ぎゅうって抱き締めてきた。あ、あわわわわ、ハルさん?

「好きだよ、ヒナ」

 はい。ヒナも好きです。ハルのこと好きです。ですが、今はマズイです。最悪です。ハルさん、起きてください、今すぐ。

「あんたたち、いい加減にしなさいよ」

 背後でサユリがブチ切れる気配がする。うひゃあー、ごめんなさーい。

 ヒナ、お祭りだからってちょっとハメ外し過ぎちゃったかな。だって、すごく楽しくて、すごく嬉しくて、色々と我慢出来なかったんだもん。

 みんなで作ったペットボトルボート。キラキラ光って、まるで宝物みたい。ヒナは、ハルと、クラスのみんなと楽しい学園祭が出来るって思ったら、自分が抑えられなくなっちゃったんだ。

 ほら、ゴリラ先輩だって言ってたしさ。


 青春のきらめきは、今だけなんだ、って。


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