第6話 チいさいアキ
チャイムが鳴った。本当なら下校時間だ。こんな教室に押し込められているなんて真っ平ゴメンだ。さっさと出ていきたい。
今日に限って、臨時学級会とか言い出してる。なんなんだ。委員長、ちょっと議題見せて。何々、いじめ?はぁー、そうですか。どのいじめだよ。どれでも良いよ、どうせなあなあで終わるんだからさ。
あ、隣のクラス帰っちゃうじゃん。ハル、部活に行っちゃう。今日まだ一回も声かけてないのに。もう、いい加減にしてよ。ヒナの邪魔しないで欲しいよ。
中学二年生の二学期、九月の中頃だったか。
銀の鍵は本来、神の園幻夢境カダスへと通じるものなのだそうだ。その担い手は、守護神ナシュトによって試され、カダスを目指す探究者となる。だったらいいね、ってところだった。ヒナはそれを拒絶して、結果として、強制的に銀の鍵とナシュトが手元に残されることになった。いらないって言ったのに、理不尽だ。
ヒナの左掌には、銀の鍵が埋め込まれている。他人には見えないが、ヒナ自身は知覚出来る。ちょっと意識を集中させるだけで、この教室の中にいる人間の心、思考なんて簡単に読めてしまう。
ただし、幼馴染の朝倉ハルとか、家族に対してだけは怖くてこの力は使えない。そこにヒナに対する悪意なんかがあったら、耐えられなくなってしまいそうだからだ。特に、ハル。ハル相手には、絶対にこの力は使わない。心を読んだりしない。ヒナは自分の力だけでハルと好き合ってみせると決めている。心を読む、操るなんて、最大級のチートだ。絶対にダメ。
ハルはヒナの幼馴染で、初恋の人。幼稚園の頃からの友達で、小学校の時、ヒナはハルに対して恋に落ちた。家出して怪我をしたヒナを、ハルが助けてくれた。その思い出が、ヒナの中にはずっと残っている。小学校の卒業式の後、告白しちゃおうかなんて考えたこともあった。結局それは出来なかったのだけど。
ハルの気持ちは、正直良く判らない。ヒナのことを好き、なんだとは思う。でも、今はバスケ部の方が大変みたいで、そっちばっかりだ。ヒナも女子バスケ部に入ったけど、活動は完全に別々だった。銀の鍵のこともあって、最近はすっかり疎遠。頑張ってハルの姿を見かけたら挨拶するようにはしている。ただ、噂になっちゃったりして迷惑をかけたくはないから、色々と加減も必要。
なんだろう、ヒナ、中途半端だな。もっとハルの近くにいたい。せめて、同じクラスになりたかった。
しかし、どいつもこいつもホントにロクなことを考えてない。
先生の指示で、もたもたと机を並び替え始める。コの字型になんて無理にしなくても良いじゃん。裁判にでもするつもりなのかな。先生はどう思ってるの?ああ、時間が稼げてよろしいと。そうですか。なるほどね。
ヒナの隣に、男子が机をくっつける。ああ、コイツ嫌い。ニキビ大王。何かにつけて女子の身体を触ろうとするんだよね。今も机を動かす時、ヒナの腕に触れないかな、って考えてた。キモイ。触んな。がぁー、特に右手で触んな。オェ。
たっぷり時間を使って、机の並び替えが終わった。はい、準備が終わるまで、教室の時計で十分が過ぎました。避難訓練なら全員死亡コースです。先生はあと五分欲しかったみたいです。職員会議が始まると、それを口実に抜け出すみたいですね。やる気ゼロ。
「このクラスでいじめが起きているという訴えがありました。それはとても悲しいことです」
すごいな、テンプレ通りだ。そらで喋ってるだけ褒めてあげるべきだな。或いはもう暗唱出来るくらい口にしてるのか。
みんなシーンとしている。何を考えているかなんて、心を読むまでも無い。自分じゃないよな?、でしょ。このクラスの中で、明確ないじめは三件、いじめまでいかなくてもそれに近しいものは四件。全く関与していない人間の方が少ない。
だから、みんなさっさとどのいじめのことなのか、先生に明言してほしがってる。もったいぶってんじゃねぇよ。自分の話じゃ無ければ良い子ちゃん全開で攻撃するつもりだ。大した面の皮だね。
先生的には一分でも長く時間を稼ぎたいから、ぼそぼそと意味の無い口上を喋り続けてる。議論の核心部分には関わりたくないんだ。立ち去り際にさらっと話して、職員会議にドロン。後は生徒の自主性がどうたらこうたら。
この担任もホントにどうしようもない。こんなんで、自分では熱血系の頼れる教師だと思ってるらしい。いやいや、無いから。自分の何処にそんな要素があると思ってるんだよ。このやり口の時点ですでにアウトだろうが。何を考えて生きているんだ。
しかもコイツ、生徒に対してそういう目で見てくるんだよな。三十だっけ。今まで彼女とかいなくて、女性に対する免疫が無いっていうのは仕方ないとしてもさぁ、中学生の教え子に対してそれは無いだろう。妄想力が激しすぎるよ。
確か教え子と結婚した先生の話を聞いてからだよな。あのな、あれ卒業後十年以上経ってからだぞ?しかも在校時は何も無かったんだぞ?いい加減にしとけ、このエロマンガ脳。
あー、またなんか指向性の強い変な妄想が沸いている。机をコの字にしたからか。向かい合う形になった男子からだ。はいはい、スカートね。中身が気になるね。そーですね。
お気の毒ですが生パンじゃないですよ。そんなの関係ないかもしれませんが。よくもまあそんなことばっかり考えていられるよ。ああ、一番人気はミズキちゃんですか。はは、あの子今日生理だよ。羽根付きとか、そんなもん見たいかね。マニアだね。
女子の方はすっかり探り合いだ。誰だチクったのは、誰の話だ。ウチの方、後でもう一回しっかりシメておかないとな。おー怖。男子がスカートから伸びる足を見てハァハァしている間、当の本人たちはかなり物騒なことを考えてますぜ。こうなるとエロに支配されている男子の方がよっぽど可愛く思えてくる。パンツは見せないけど。
そもそも男子のいじめなんて目立つからね。やればすぐバレるようなものだ。っていうか隠す気なんかないだろ。女子に比べれば超絶シンプル。担任が考えてるみたいな熱血指導向きなのはそっちだよね。
女子が絡むと、様相は一変する。いやぁ、怖いよ。ヒナなんか可能な限りお近付きにならないように必死だもん。今こうやって余裕ぶちかましてられるのも、ある意味銀の鍵のお陰だ。ぜーったい関わり合いになんかなりたくない。
教室中のフラストレーションが高まってる。多分、これは銀の鍵なんか無くたって誰にでも判る。先生の話が無駄に長すぎるんだ。ヒナももうこんなところにいたくない。さっさと出ていきたい。部活中のハルの姿を見ていたい。
バスケ部のレギュラー争いに、ハルは今必死で喰らいついている。ヒナに出来ることなんて何も無いけど、ハルに見えるところで応援したい。ハルが頑張ってるの、ヒナは良く知ってるもん。
あー、もういいや。とりあえずオチだけ見せてよ。先生の中を覗き見る。なんだ、クラスで起きているいじめのほとんどは把握済みなんじゃないか。ふざけてるなぁ。解決する気なんか全くない。
あれ?じゃあ今日に限って何なんだ?無視出来ないってことか。はは、この怠惰の塊みたいな教師を動かしたのって、一体誰なんだろう。どれどれ、誰が出てくるかな。
職員室で相談を受けたらしい。他の先生も見ていたから、無かったことには出来ない、と。なるほど、それはご愁傷様。そういう手もあるんだな、ちょっと覚えておこう。周りを巻き込むってのは中々いい。いじめられてることを隠そうとしてこっそりと相談した暁には、このクソ担任は絶対に隠蔽しようとするだろう。それをちゃんと考えてやったんだとしたら、この訴え主は頭が良い。
さて、だれ男くん?だれ子ちゃん?
先生の記憶をちょっとごそごそすると、職員室の光景が出てきた。先生、目線が低い。夏服の胸元が気になるのは判りますけど、顔をちゃんと見てください。これ、相手にも絶対バレてるよ。しょうがないエロ教師だな。
やっと顔が見えた。はー、そうなんだ。意外、とは言わないけど、色々と思う所はある。
ヒナはぐるり、と首を巡らせた。少し離れたところに座っている女子。痩せた小さな身体を更に縮こまらせて、うつむいて黙っている。いつもはもっと気が強そうに前を向いているから、ある意味非常に判りやすい。栗色のショートカットに隠れて、表情は窺い知れない。しかし、こんなにしおらしくなるものかね。
いじめの被害者は原田チアキ。数少ないヒナの友人の一人だった。
いよいよ夏休みも終盤、というか、残り一週間を切った。高校生最初の夏休み。目を閉じれば、楽しかった数々の思い出が浮かんでくる。
「おい、ヒナ、寝るな」
いや、寝てないって。失礼だな、ハル。いくらなんでもハルの前でうたた寝なんかしませんって。すっごい眠いのは確かだけどさ。ふわぁ、うん、寝てない寝てない。
高校一年生の夏休みは、宿題祭りで幕を下ろそうとしていた。いやー、遊んだ遊んだ。遊び過ぎだって話だ。あ、一応バイトとかもしたから、遊んでばっかり、って訳ではないか。うん、なんか、頑張った。
そのツケというか、毎年恒例というか、ヒナもハルも夏休みの宿題がほぼ白紙状態だった。やー、気が合うねぇ。お互いの行動はメッセージとかでやり取りしてて完全に筒抜け状態。まあ、宿題なんてやってる気配はまるで無かったもんね。これはヤバい、という話になって、本日はヒナの家で宿題大会です。
ヒナの部屋だと絶対に遊ぶ、またはヒナが問題を起こすということで、リビングのテーブルの上に教科書やらノートやらをごちゃごちゃと広げている。問題ってなんだよ。あのね、弟のシュウもお母さんもいるのに、一体何をするっていうのよ。ヒナ、流石にそこまで恥知らずじゃないよ。っていうか、問題行動を起こすのがヒナだっていう前提で話をしていたのがムカ。普通は逆じゃね?
ハルとはそれぞれ得意な教科を分担しようって言ってあったんだけど、得意とは、って早速二人とも頭を抱えて固まってしまった。成績的にはヒナもハルも似たり寄ったり。揃って悪い。あー、頭下げてでもサユリ辺りに来てもらおうかな。「え?二人で勉強でしょ?お邪魔じゃないの?」とか絶対言うよな。ダメだ、誰が相手でも同じ反応が返ってきそう。
地道にやるしかない。ハルの補習のせいで一週間お楽しみが削られて、宿題のせいでまた削られて、ヒナつまんなーい。もっとハルといちゃいちゃしたーい。大人の階段登りたーい。
ちら、とハルの方を見る。基礎解析の問題集を見てうんうんうなってる。ヒナ、ハルの恋人になったんだよね。ふふ、ダメだ、集中なんて出来ないや。ハルがいるって思うだけでふわふわしてくる。身体が数センチ浮いてくる。
高校に入って、ヒナはハルに告白された。付き合ってほしいって言われた。ずっと望んでいた、ハルとの交際。嬉しくて、今でも思い出すだけで胸が高鳴ってくる。ハル、ヒナはハルのことが好き。ずっと昔、ハルがヒナのことを見つけてくれたあの日から。そして、これからもずっと。
先週はハルとプールに出かけた。水着、悩みに悩んで、普通にデニムのセパレートにした。露出多めのヤツも考えたんだけどね。ハルにだけ見られるわけじゃないから。オッサンの視線を釘づけにしてもあんまり楽しくない。
その代わり、上にパーカーっぽいラッシュガードを着て、水に入る前によいしょって脱ぐ演出付き。ちょっとドキってするよね。あっそうか、水着だ、って。ハルが見惚れているのを確認して、くすって笑う。ふはは、完璧であった。
泳ぎが趣味というか、プールと言ったら泳ぐことしかないサユリと違って、ヒナたちはレジャープール。大きな浮き輪で流れるプールをぐるぐる回ったり、スライダーでカップルコースを堪能したり、波のプールでばしゃばしゃしたり。うん、超エキサティンッ。楽しかった。
二人で並んで手をつないで、波のプールでばしゃーって大波を受ける。なんだか知らないけどそれが可笑しくて、ずっと笑ってた。休憩時間になってプールサイドに上がって、誰もいない水面がキラキラしているのを見て、とてもどきどきした。一緒にいるのがハルだって思うと、もう何でも素敵に思えてくる。ヒナは、ハルのことをまだまだ好きになる。
ファーストキスは夏休み前に済ませちゃったけど、夏休みに入ってからも何度かキスをした。まだ一回一回が思い出深くて、それだけで大切な宝物に出来てしまいそうな感じ。これが当たり前になってくると、いちいちカウントなんてしていられなくなるのかな。寂しいような、嬉しいような。ハル、ヒナにもっとキスして。回数なんて忘れちゃうくらい。そうじゃないと、ヒナはキスだけで満足しちゃう。次のステップなんて想像もつかないよ。
「ああ、後でな」
ふわっ、え?ちょっと、今、声に出ちゃってた?
あわわわわってなってるヒナの方を、ハルがちらりと見た。ええー、そんなおねだりしちゃうとか、ヒナ、大胆過ぎるよね。その、キスはしてほしいけど、いっぱいとか、次のステップとか、それはその、あの。
リ、リビングでするハナシじゃないよぅ!
「基礎解析だろ?このページもう少しで終わるから」
ぼしゅっ。
またやらかした。ええ、ソウデスネ、ヒナは数学超苦手ですから。見せていただけるととても助かります。英語の和訳の方、誠心誠意進めさせていただきますー。
なんかもう頭の中がごちゃごちゃになりながら、英文とにらめっこする。ホワットアナイスカップルゼイアー。くっそ、宿題にまで馬鹿にされてる気がしてきた。感嘆文の例文作った奴出てこい。
シュウがちょこちょことリビングにやって来て、テレビのスイッチを入れた。邪魔すんなよぅ。確かにシュウの部屋にはテレビないけどさ。ワイドショーやってる。あー、あの俳優結婚するんだ。ちょ、シュウ、チャンネル替えんな。ああん、もう、集中できん!
「そういえばさあ、ヒナ、バイトどうだった?惣菜工場だっけ?」
ハル、訊きますか、それ。良く判らないバラエティ番組を、シュウがぼけぇーっと観ている。それ去年の秋ぐらいに見た記憶があるよ。ほら、上の方に再放送って書いてある。で、なんだっけ?バイトか。
「地獄の釜焚きだった」
「はあ?」
そのまんまだって。なんか、ヒナはふかひれスープのお鍋をかき混ぜる係だったんだよ。あんなもん、春雨でも全然区別つかないと思うんだよね。それを見栄だか何だか知らないけど本物のふかひれ使っててさあ。「これ、ひっくり返したら五百万だから」とか意味判らないよ。
ぐっつぐつの煮え立つふかひれスープを、日がな一日かき混ぜてるの。機械で良いじゃん。ああ、そうしたらヒナのお仕事が無くなるのか。ひっくり返したら五百万。もうその言葉だけがヒナの頭の中をリフレインしてたね。むしろこの鍋持って逃走した方が実入り良いんじゃないかって。でも、ふかひれスープの換金ルートを知らないからやらなかった。あれホントかね、実は春雨なんじゃね。
ハルが笑いをこらえている。何?ヒナは真面目なハナシをしたつもりだったんだけど。何処がツボ?ふかひれ?五百万?換金ルート?春雨?
「いや、ヒナがデッカイ鍋かき混ぜてる姿を想像したらさ」
そっちかい。色が変わってチョコクランチ付けるかい。確かに魔女の大鍋って感じではあったよ。とろみがついて、ぼっこんぼっこん泡が出てたもん。しばらく身体から中華スープの匂いが取れなかった。ヒナ、シュウにラーメン屋の臭いがするって言われてメッチャ腹立った。
我慢出来なくなってハルが吹き出した。もう、笑いごとじゃないんだよ。ふかひれスープの臭いがする彼女ってどうよ。実は春雨かもしれないんだよ。やっす。
「大変だったな」
はい、そりゃあもう。お給料も安くてね。働いてお金を稼ぐって大変なことだなぁ、って身に染みて解りましたよ。お母さんがドヤ顔してました。ちなみに、お給料は瞬間的に蒸発しちゃった。揮発性が強い。ヒナ、宵越しの金は持たない主義。ハルのためにも、頑張って倹約も覚えないと。
ハルの方もバイトは大変だったみたい。宅急便の仕分け。荷物の集配センターで、宛先に応じて荷物を振り分ける。結構な力仕事だ。朝昼夜とシフトがあって、当然夜の方がバイト代が良い。友達に紹介されて、ハルもほいほい夜のシフトに入った。
結果、翌日の日中ハルは過労で全く動くことが出来なくなってしまった。何かあったのかと思って、ヒナ心配して何度もメッセージ送っちゃった。まさか寝落ちしてただけとはね。相当お疲れだったみたい。
昼はヒナと会って、夜はバイトって考えてたみたい。普通に無理だった。いや、ヒナもそこまでハルに強要するつもりは無いです、うん。そんな状態だったので、一回ハルの家で、ハルに膝枕してお昼寝させてあげた。うひゃあ、ちょっと幸せだった。でも人の頭って重いね。すぐに足が痺れちゃったよ。あれ、練習が必要だな。
でも、ハルがヒナの太腿の上に頭を乗せて、寝息を立てて眠っているのは、なんだか新鮮だった。優しく撫でてあげると、すごく愛おしくなった。これはいい、とふやけた顔してたら、ハルの弟のカイに目撃されてしまった。うぎゃー。カイがなんだかちょっと気の毒そうな顔をしてたのは何で?ドウイウコト?
花火大会の時とか、この膝枕とか、ハルとのスキンシップが増えたのは大きな進歩だと思う。ちょっと前だったら、ハルに触れたり、触れられたりしたら、それだけでどきどきしていた。今は、むしろ落ち着く。ゆったりとした気持ちになる。もっと触れてほしいって思う。これって、次のステップなのかな。ヒナは、ハルと次の段階に進んでるのかな。
窓の外から、にゃおう、と声がした。ああ、はいはい。立ち上がってサッシの方に向かう。茶虎の猫の影が見えてる。がらがらと開けると、外の熱気が流れ込んできた。まだ夏。あっついなぁ。
「トラジ、お疲れ様」
でっぷりした茶虎の猫が、ヒナのことを見上げている。お昼の報酬をあげる約束だ。すぐ横に準備してある煮干しを一掴み落としてやる。ハルとシュウも何事かとやって来た。
「へえ、トラジ、ご飯貰いに来てるんだ」
ハルが感心したように言った。まあね。そういう約束をしたんですよ。色々あってね。
シュウがトラジの頭を撫でている。えーっとね、ご飯食べてる時はあまり撫でないであげてね。トラジの場合、それかなり嫌がるから。
「もう少し弟に良く言っておいてくれるか」
案の定、トラジが不機嫌そうに訴えてきた。はは、ごめん、小さい子のやることだからさ。
銀の鍵の力で、ヒナは猫と話が出来る。猫たちは精神世界に沢山の秘密を持っているので、心を読む力を持つ銀の鍵のことを酷く毛嫌いしている。少し前まで、ヒナは猫たちから一方的に絶縁状を叩きつけられていた。
ちょっとした縁があって、今はこうやってまた近くにいてくれるようになった。そのことがとても嬉しい。トラジがこうして来てくれるということは、ヒナにはまだ味方がいるということの証明になる。人間以外の知り合いが増えるのって、微妙に不健全な気がしないでもないけどね。
「ああ、そうだ、ハル」
思い出した。ひょっとしたらハル、知ってるかな。
「原田チアキさん、って覚えてる?中学の同級生」
ハルが首をかしげた。知らないか。ま、そうだよね。もし記憶にあるようなら、どんな印象だったのか聞いてみたかったんだ。
「二年の秋に転校しちゃった子なんだけどね。明日会う約束をしているんだ」
トラジが煮干しを平らげて、にゃおうと一声鳴いた。涼しい風が吹く。もうちょっとだけ夏かな。
まだ早朝と言える時間だけど、ハルは朝のランニングを始めている。この日課、結構長く続いているな。ハルのこういう頑張りを、ヒナはずっと見てきた。
中学に入って、バスケ部に入って、そのレベルの高さにハルは少なからずショックを受けたみたい。レギュラーの座を勝ち取るために、自主的なトレーニングをすぐに開始した。朝のランニングもその一つ。毎朝欠かさずに走ってる。平日はカバンを持って走って、そのまま登校。制服はカバンの中。だから学校ではいつもしわしわだ。
一応、ランニングの時間とかコースは調べてあって、いつでも偶然を装って声をかけることは出来た。でも、真剣なハルの顔を見たら、それはやってはいけないことだと思った。ハルの邪魔はしたくない。今、ハルは目標に向かって一生懸命なんだ。ヒナは、ハルのことを応援する。
中学も二年生、二学期ともなれば色々と勝手が判ってくる。自分のいる学校の状況。学校の中での泳ぎ方。正直に言って、この中学はハズレだ。入学した時点で諦めておくのが正解だった。
よく「荒れる」っていう言葉を使う。ヒナの中学は、荒れているんだろう。先生は明確な表現は避けたけど、じゃあ世の中の中学っていうのはどれだけいじめが蔓延しているんだってハナシだ。馬鹿馬鹿しい。言葉だけ濁したって、現実は何も変わらない。
とりあえずハルの姿だけ見たかったので、学校に行く準備を始める。髪をきつく縛る。目の横、こめかみの辺りが引っ張られて痛い。校則で髪が肩まで伸びてる子や、天然パーマの子は髪を縛っておかないといけない。大きなお世話だ。ヒナの場合癖っ毛なので、可愛く縛るのが難しい。手間もかかるし、一日もたせるのも骨だ。で、結果的にこういう大雑把な髪型になる。吊り目みたいになってて、好きじゃない。
家を出て少し歩くと、河原の土手の上の道に出る。そろそろかな、と思ったところでジャージ姿のハルが見えた。カバンを背負って、黙々と走っている。ハルは今日も頑張っている。見つからないようにそっと身を隠す。おはよう、って声をかけたいけど、今はやめておこう。ハルの努力に、水は差したくない。
数分程時間を潰してから、学校に向かって歩き始めた。学校はあんまり楽しくない。銀の鍵でクラスメイトの心の中を覗いて、うんざりとするだけだ。今日もまた、自分勝手な中学生の妄想の洪水に飲み込まれるのだろう。
男子は本当にエロが好きだ。ことあるごとにエロ妄想を開始する。感心するレベル。最初は震え上がるほど怖かった。え、ちょっと、何考えてんのコイツ、って感じ。
物静かで、普段そういうことをおくびにも出さないような子の方が妄想は激しい。ムッツリって奴か。お目当ての子とか、自分好みの子だけでハーレム的なものを作るのが基本。そういう時、基本女子は全裸なんだよね。裸好きだな。何回かヒナの姿も見かけて、ゲッソリとなった。ない。ないない。絶対ない。
授業中にヒナの背中を見て、ブラ紐、とか想像された時はぞわっとした。握ってたシャーペンにひびが入っちゃったよ。なんなんだよ。ホントに気持ち悪い。
体育なんて最悪。見学している女子がいれば、生理か、だし。胸の揺れとか、脇から見える肌とか、まぁー、ズリネタには事欠かないね。お前ら授業に集中しろよ。
女子の方はもう少し深刻、というか痛烈だ。とにかくいかにして自分が気分よくちやほやされるか、という所に比重が置かれる。その範囲が複雑で微妙なので、これを心を読まずに察しろとか言われると相当に苦労しそう。しかし、困ったことにその「察しろ」が基本なんだよな。
女子の場合、大体いくつかのグループが形成されている。グループ内でパワーゲームが勃発すると、大きないじめが発生する。これがくだらない理由によるところが多い。グループがまとまるため、が理由だったりすると、攻撃された方は理不尽さしか感じない。下手すると理由すら存在しない。なんとなく、で攻撃される。
グループがある程度の規模になると、グループ同士では直接ぶつかり合うことはしなくなる。平たく言ってしまえば、自分より弱い相手にしか喧嘩を売らないのだ。だから、大きな集団の保護下に入ろうと、無理してへこへこする子なんかが出てくる。残念だけど、そういう子はグループ内で切り捨てられて、次のターゲットにされる可能性が大アリだ。
やり口は残酷かつ陰湿。尻尾なんか絶対に出さない。噂による包囲、孤立化、情報遮断、手下を使った物理攻勢。最後のが特にすごいよね。物を隠したり、壊したり、落書きしたりという行為は、決して自分の手ではやらないんだ。これを自分でやるのは、よっぽど追い込まれた人だけ。そこを目撃されたりしたら、一発アウト。それをゆすりのネタにされて、次のターゲット確定だ。
ヒナはこういうのは好きじゃない。グループが形成されるのは見ていたけど、なんだか歪だなって思ってた。銀の鍵で心が読めるようになって、その思いは更に強くなった。歪というか、もうぐちゃぐちゃだ。みんな自分のことしか考えていない。誰かのせいって常に他人を責めていて、心の中で酷い目に遭わせている。ゲンナリしてくる。そんなに嫌な相手と、毎日表面上は笑顔でお友達しているんだから大したものだ。
銀の鍵を手に入れて、最初にやろうと思ったのがこのいじめ対策だ。いじめなんて、見ていて気分の良いものじゃない。直接関わりに行って自分がターゲットにされるのはたまったものではないが、銀の鍵を使えば、スマートに解決出来るのではないかとヒナは考えた。うん、ヒナ、クラスの救世主になれるかもしれない。
問、AさんがBさんをCという理由でいじめています。どうすれば良いか。銀の鍵を使って回答しなさい。
アプローチの仕方は何通りかある。ヒナはまず、被害者であるBさんからCという理由を、可能な限り取り除いてみた。身体的な問題は難しいが、習慣的な話なら出来ないことは無い。いじめられる理由が無くせるなら、それが一番単純だ。
すると、今度はAさんはDという理由でBさんをいじめ始めた。理由なんてどうでも良かった。とにかくBさんをいじめたいのだ。であるならば、Aさんの中からBさんに対する興味や敵意を無くしてみるしかない。
結果、AさんはEさんをいじめ始めた。いやいや、Eさんどっから出てきたよ。とにかくAさんは誰かを攻撃しないと気が済まないのだ。これはもう、Aさんから攻撃性を抜き取るしかない。ちょっと乱暴だが、Aさんに大人しくなってもらうのが最善か。
そうすると、次はAさんがいじめられるようになった。いじめているのはBさんだ。もう訳がわからない。得体の知れない悪意が存在していて、そいつがとにかく誰かをいじめのターゲットにしないと気が済まないのだろうか。ヒナがどんなに手を尽くしても、最終的にいじめは全く無くならなかった。
みんな自分勝手なんだ。
それがヒナの結論だった。誰かが転がり落ちれば、それをあざ笑い、今度は自分が上に立とうとする。上にいる者は、上にい続けるために下の者をいたぶり続ける。そういうカタチが出来上がっている。これを治す方法なんて、ヒナには見当もつかなかった。
いじめ対策は、早々に諦めることになった。本気でやるなら、クラス全員をヒナの言いなりにして、ヒナの考える通りに動かすしかない。しかし、それではヒナがいじめで支配しているのと何の違いも無い。お手上げだった。
早い時間に教室に入る。ハルのランニングを見てからになると、どうしてもこういう時間になる。がやがやしているところだと、銀の鍵の力で頭がパンクしそうになるので、静かなのはむしろ心地よい。
「おはよう、ヒナ」
同じく早朝組のチアキが、既に席に着いていた。明るい栗色のショートカット。背が小さくて痩せてて、仔猫みたい。手を出すと間違いなく引っかかれそうだけど。ヒナより来るのが早いとか、チアキは相当早起きなんだね。
「おはよう」
また朝倉ハルのこと見てたんだ。そうだよ。なんというか、マメね。ありがと。理解出来ないわ。してもらおうとは思わないよ。
心の中で一方的に会話する。チアキは何も言わずにカバンの中身を机の中に移している。チアキにはヒナの心の声は聞こえない。こういうのももう慣れた。たまにぽろって口から出そうになることだけ気を付けてる。
チアキは中学からの知り合い。小学校は別だった。二年生になって初めて同じクラスになって、銀の鍵で心を読んだ時、ちょっとだけ他の子と違っていて興味を持った。
一応友達、ということになっている。表向きでは仲が良い。というか、チアキと話をするのって、多分ヒナぐらいしかいない。その理由も良く判ってる。チアキは、クラスのみんなのことが嫌いだった。
ちょっと違うかな。チアキは、学校のみんなのことが嫌いだった。ヒナも例外じゃない。チアキの好きな人なんて、ここには一人もいない。そのことを隠そうともしない態度が潔くて、ヒナはむしろチアキのことが好きだった。
ヒナがハルのことを好きだという話は、ヒナと同じ小学校から来た女子によってとっくに広められている。これでハルが超カッコいい男子だったりしたら、ヒナも大変な目に遭ったところだが、今の今まで何の波風も立っていない。いいじゃん、ハルかっこいいじゃん。何かダメなの?
女子のランキングでは、ハルは大体次点だった。まあ、悪くは無いよね、良くも無いけど、程度。うう、みんなハルの良さを解ってないな、と思ったけど、変なライバルが出来たり、無駄に騒がれるよりはマシだな、と良い方に考えて割り切ることにした。
チアキは、ヒナのことをどうしようもない恋愛脳だと思っている。ハルのことばっかり追いかけて、クラスの中でも浮いているちょっと変な子。うん、ほとんどその通り。その評価で問題ない。
朝早く登校する理由を、いつだったかチアキに話したことがある。別にチアキになら知られたところで、何も変わらないだろうと思ったからだ。予想通り、何も変わらなかった。呆れられただけだった。変なの、理解出来ない。それだけ。
表裏が無いからとても楽だったので、チアキとは結構色んなことを話した。ほとんどのことで、心の底から呆れられた。それを見るのが楽しかった。やー、ハルのためにバスケ部に入ったら男女別でさぁ。何それ、ちゃんと調べなかったの?バレンタインにチョコ渡そうと思ったら、ハル、風邪で寝込んでてさあ。どうせ最初から家まで持って行くつもりだったんでしょ。クラスが一緒にならないからハルとなかなかお話し出来ないんだよ。話したい時に話しかければ良いじゃない、意味判らない。
チアキの顔は、ヒナのことをバカだな、って言ってる。心の中でも、バカだなって思ってる。それが良かった。まあ、仲良かったかと問われるとちょっと微妙なんだけど、少なくとも表面的には友達だった。ヒナの方は、友達でいるつもりだった。チアキはヒナのことが、普通に嫌いだった。
学校生活をする上で、一人くらいは友達がいないと不便だ。ペアを作る機会が嫌でもやって来るからね。ヒナはいつもチアキに声をかけた。嫌そうな顔をするけど、チアキはヒナと組まざるを得ない。学校が嫌いなのにムキになって休まないものだから、ヒナもチアキもペア作りで困ることはまず無かった。チアキが学校にいた間は。
チアキがいじめにあっている。そうなんだ。ヒナは胸の奥がちくりと痛んだ。
チアキから手紙が来たのは、丁度お盆の頃。定型的な挨拶文の後、九月には遠くの街に引っ越してしまうと書かれていた。今は、電車で数駅離れたところに住んでいる。もし可能なら一度会って話が出来ないか、とメールアドレスが添えられていた。
早速メールで連絡を取り、その後メッセージの方に移行し、今日の約束を取り付けた。チアキの方からヒナに会いたいだなんて、可笑しかった。チアキはヒナのことが嫌いなはずなのだから。
チアキがこちらに来ることになり、駅の改札前で待ち合わせた。夏休みということもあって、かなり混雑していたが、ヒナはすぐにチアキを見つけることが出来た。何も変わっていない。小さくて痩せてて、血の気の多い仔猫みたいだ。髪も当時と同じショートカット。きらきらしている栗色。もっと笑ってれば可愛いのに。
「チアキ、久し振り」
ヒナが声をかけると、チアキは目を見開いて驚いた。そうか、髪をほどいたところは見慣れてなかったか。そんなに印象変わるものなのかな。ハルもこっちの方が可愛いって言ってくれたんだよね。ヒナもこっちが好き。楽だし。
「ヒナ、なんだか変わったね」
そうかな。見た目というか、髪型に関してはまあね。中身は相変わらずだと思うよ。チアキが嫌いだったヒナ、そのまんま。
とりあえずごみごみしたところにいても仕方ないので、近くのファミレスに移動することにした。歩きながらちょっとだけ世間話をする。この辺何か変わった?んー、二年くらいじゃ大して変わらないよ。デパートの所のクレープ屋さんは?あ、あそこ潰れたね。変わってるじゃん。ごめんごめん。よくオマケしてもらってた。うそ、いいな、それ。だから潰れたのかもね。
思いの外ファミレスは空いていた。いやぁ、助かる。定番のドリンクバーで居座る体勢。学生だからね。バイト代も全部溶かしちゃったし。ヒナ、ハルとのデート以外にまともな予算なんて割けないです。
「朝倉ハルとは、その後どうなの?」
コーラ噴くかと思った。いきなりそこからか。昔から単刀直入だったね、そう言えば。
「今、同じ高校に通ってる。一応、付き合ってる」
自分で言っておいて、一応ってなんだとツッコんでしまう。ちゃんと、しっかりと、付き合ってます。彼氏彼女です。両想いです。恋人同士です。キスまではしました。いや、そこまでは言わないけどね。
へぇ、とチアキは少しビックリしたようだった。なんだよ、文句あるのかよ。
「うまくいかないとでも思ってた?」
「いや、そうじゃないけどさ。大したストーカーぶりだと思って」
うぐっ。チアキには色々と話しちゃってるからな。言い逃れなんか出来ないか。ハルの気を引こうと頑張ってた訳ですが、冷静に振り返ってみればそれはストーカーぎりぎりな行為な訳で。それを聞かされ続けたチアキは、さぞかし呆れたことでしょう。っていうか呆れてたよね、実際。
「良かったじゃない。犯罪に手を染めないで済んで」
そこまで言うかね。ヒナはハルのことをちゃんと考えてるんです。ハルの迷惑になるようなことはしません。犯罪だなんてそんな・・・えーっと、どこからが犯罪ですかね。捕まらなければ犯罪じゃないよね?
「しないよそんなこと。それに、ハルの方から告白してきたんだから」
「へぇー、意外。ホントに仲良かったんだ」
くそお、言われっぱなしだ。チアキ相手は分が悪い。昔からそうだった。
「幼馴染だって言ったじゃん。中学の時は、その、噂とかにされないように、お互い気を使ってたんだよ」
中学生のメンタルなんてそんなもんでしょ。下手にハルと二人で何かしてる所を目撃されようものなら、あっという間に冷やかしの対象だ。別にヒナが何か言われるのは構わないけど、ハルに迷惑はかけたくなかった。部活で一生懸命だったし、ヒナの方は人に言えない銀の鍵の問題で手いっぱいだった。
ハルの方だって、その、ヒナが変な噂の対象にならないようにって、気を付けてくれてたんだと、思う、よ?うん、この前ずっと好きだったって言ってくれたもん。ひょっとしたらヒナがハルのことを好きなるよりも先に、ハルの方がヒナのことを好きだったかもって。すっごい昔に、ヒナ、ハルと結婚したい、とか言った記憶がちょっとだけあるから、まあ、多分だけど、その頃からハルはヒナのことを好きでいてくれてたんだよ。うん、そう。きっとそう。
チアキは澄ました顔でアイスティーを飲んでいる。くぅー、なんか腹立つ。この感覚、懐かしい。懐かしいけどムカ。
「なんか、付き合い始めてもヒナは相変わらずって感じね」
まーね。だから、中身は変わってないですよ。チアキの嫌いな、恋愛脳ヒナちゃんですよ。
「いいの。ちゃんと好き同士なんだから」
その日初めて、チアキが笑った。中学の時でも、滅多に見せなかった笑顔だ。ほら見ろ、笑うと可愛い。普段からもうちょっとにこにこしてれば良いのに。
「チアキは彼氏とか作らないの?」
「恋愛脳だな。私は無理。そもそも可愛くないし」
ぷいぷいと手を振る。笑顔も消えてしまった。えー、そんなことないよ。
「チアキは、笑うと可愛いよ」
「何言ってんのアンタ?」
サキみたいに王子様してみたつもりだったんだけど、ダメか。ちえー。チアキの笑顔もう一度見たかったな。
その後は、しばらくとりとめのない会話をした。お互いの学校のこと、友達のこと、共通の知り合いのこと。転校した後、チアキはこちらの知り合いとは誰とも連絡を取っていなかった。今ヒナから聞いている話が全部だ。本当に、あの時に全てを切り捨ててしまったんだね。ヒナは少し悲しくなった。
九月には、チアキは遠くに引っ越してしまう。また転校。今度はいじめが原因では無くて、親の都合によるものだという。そこだけはほっとした。同じことの繰り返しなんて、気持ちの良いものじゃない。それに。
あれは、普通のいじめとは違う。
頃合いかな。ヒナは椅子に座り直した。ドリンクバーで持ってきたコーラに入っていた氷は、もう全部溶けてしまっている。チアキのグラスもからっぽだ。
「ねえ、チアキ」
チアキがヒナの目を見る。刺すような視線。そうか。何も変わらないね。
チアキは、ヒナのことが嫌いだ。
「どうして、私に会おうと思ったの?」
こっちの友達というか、知り合いといえばヒナしかいない、というのはわかる。でもこっちのことなんて、別に切り捨てたままであっても、特に何の問題も無かったはずだ。それなのに、わざわざ嫌いなヒナに会ってまで、チアキには知りたいことがあった。そういうことでしょう?
目線を逸らさず、ヒナはじっとチアキと見つめ合った。チアキ、ヒナはもう銀の鍵は使わない。チアキの言葉で聞かせて。今日、チアキが何故ヒナを呼び出したのか。
ふふっ、とチアキが笑った。今日二回目。なんだろう、初めて見る表情だ。ずっと刺々しい鎧で覆われていた後ろから、チアキの本当の顔が見えた気がした。寂しくて、悲しくて。
今にも泣き出しそうな、そんな笑顔。
「ヒナは、きっと知ってたんだろうなって、思ったから」
ああ。
そのことを確認したかったのか。なるほどね。何も言わずに別れてしまったから、最後まで判らなかったもんね。
チアキ、その通りだよ。ヒナは全部知ってた。知ってる上で、黙ってた。いや、知っているからこそ、何も言えなかったんだ。学校から去ってくチアキを、見送ることしか出来なかった。
今、チアキはちゃんと笑えてる?好きな人はいる?
ヒナは、あの時どうするべきだったのか、未だに判らないよ。
チアキがいじめられている。
まあ、それは仕方が無いかな、というのが素直な感想だった。何しろ、チアキは学校の誰も彼もが嫌いて、しかもその態度を隠そうともしないのだ。全身イガイガの鎧をまとって、不機嫌を前面に押し出して生きている。学校でチアキとまともに話をするのはヒナぐらいしかいない。
今までターゲットにならなかった方がどうかしている。まあ、いじめる価値も無かったって方が正解か。普段の態度を見ていれば、生意気、ってそりゃ思うよね。強力な後ろ盾があるわけでもないし、いよいよ来るべきものが来た、としか思えない。
臨時学級会は、予想通り完全になあなあで終わった。チアキの名前は出されず、良い子ちゃん的に「そういうのは良くないと思います」で終わり。馬鹿みたい。ていうか馬鹿。時間ばっかり取って、何一つ残らない。無意味にも程がある。
机を戻して、部活に向かう前にチアキの様子を窺った。チアキは黙ってうつむいている。チアキの中では、悔しいという感情が渦巻いていた。犯人の吊し上げでもしたかったのかな。流石にこれ以上チアキの内面や記憶を覗き込むのは不憫だ。やめておこう。
情報が必要なら、ここにわらわらいる連中から好きなだけ吸い上げれば良い。どうせ犯人はこの中にいるんだ。出来ることなら、チアキの力にはなってあげたい。チアキのためというよりも、気分の問題。どうせいじめを無くすことが出来ないなら、せめて自分のすぐ近くでは起きていてほしくないって、ただそれだけ。
いじめの内容は、さっき既に先生の中を見た時に判っている。なんだかテンプレ通り。持ち物が隠される、壊される、落書きされる。ふぅん、そうなんだ。やけにストレートじゃん。もうちょっと変化球から入ってくるのが基本だと思ったんだけど。宣戦布告も無しでそういうのから始まるのって、なんだか幼稚な気すらしてくるね。
とりあえずチアキに関する感情や思考をクラスメイトから読み取る。クラス以外の人間の可能性もあるけど、手近なところから片付けて行こう。チアキの場合、誰からでも反感を買ってそうなので、対象を絞ることが出来なくて大変だ。
女子からの評価は一律、ナマイキ。まあ、そうなるわな。でもチアキを敵視するまでの子はほとんどいない。歯牙にもかけられてない感じ。いちいち構う必要なんてない、路傍の石ころと同様であると。実際小さいけどさ、ホントに石扱いですか。その内勝手に消えるだろう、っていうのが大方の評価だった。
クラスメイトの中では、ヒナと一緒にいるということで「どうでもいい度」が高くなっているようだった。ああ、あの朝倉バカ。ちょ、その言い方だとハルが馬鹿みたいじゃん。あの恋愛脳に絡まれて大変だよな。うぐぐぐ、酷い言われよう。案外あいつがいじめてんじゃねーの。いや、その理屈はおかしい。
本気でチアキに対する悪意を抱いている女子は、クラスメイトの中には意外にも一人もいなかった。真っ直ぐに「嫌い」という態度をとるチアキはやはり「潔い」とも思われていて、直接的に変なちょっかいを出そうという気をあまり起こさせないらしい。毅然とした態度っていうのは結構大事なんだね。「ナマイキ」とは思われているので、注意は必要かもしれない。
あんまり気乗りしないんだけど、男子の方も見てみなきゃいけないよね。はぁ、すっごい憂鬱。
男子からの評価は、ええっと、そうだね、ミニマム系?ちょっとヒナはその辺の知識は多くないし、詳しくなりたいとも思わないから詳細は省きたい。とりあえず、嫌われてはいないんじゃないかなぁ。
小っちゃくて、ツンデレとか萌えるよね。はあ、そうすか。デレたところなんて見たことも無いし、少なくともあんたにはデレないと思うけど。
こう、フラットな所が良いよね、俺が大きくしてあげたいというか、一晩中抱き締めていてあげたいというか。変態。っていうか変態。近付くな。
スポーツブラ系?いや、着けて無いに一票?いつ投票始まったんだよ。まあ確かにスポーツブラだったよ。あんたにそんなこと考えられてたって知ったら、本人は逆上しそうだけどな。
あの体型、実は来てない、お赤飯前、とか?誰に聞いてるんだよ、知らねーよ。いや知ってるけどさ。ちゃんと来てたよ余計なお世話だよ。
以上、もう気持ちが悪くなって吐き気がしてきた。男子ってどうしてこう女子に対して下品な考えしか持てないんだろう。結論から言えば、チアキはクラスの男子からは結構好かれてます。マニア受けって意味で。これ、本人が知ったらガチギレするんじゃないかな。間違っても口外出来ないな。
ハルもこういうこと考えたりするのかな。まあ、男の子って、もうこういうものだっていう諦めはついてきた。じゃあせめて、ヒナ以外の女の子をそう言う目では見てほしくないかな。その代わり、ヒナのことはどう見てくれても良いからさ。ううう、すっごい恥ずかしい。他の男子の妄想的なことをハルがヒナ相手に考えてるとか、もしそんなの見ちゃったらショックで立ち直れなくなりそう。ヒナはハルのこと好きだけど、ヒナのことを妄想で好き勝手してるハルなんて想像もしたくない。それもあって、ハルの心の中だけは見たくないし、見ないようにしている。
ちなみにクラスメイト男子のヒナに対する脳内印象については却下。却下。ぜーったいに却下。未来永劫封印することに決めた。特にヒナがハルのことを好きだって知ってる奴ら。好き勝手なことばっかり考えやがって。そんなことあるわけないだろ。あったら毎日こんなにもやもやしてないもん。バカー!
・・・でもモーションのかけ方の参考にはしておこう・・・
ごほん。
クラスメイトたちを一通りチェックし終えて、困ったことになった。犯人がいないのだ。女子からは疎まれつつも、攻撃対象にされるほどの存在でもない。男子からはむしろ妙な人気を得ている。チアキは、確かに微妙なバランスの上に立ってはいるが、実際にクラスでいじめを受けている様子は無い。
教室内にある持ち物に対する悪戯は、他のクラスの人間が実行するとなるとちょっとハードルが上がる。目撃者無しでそれをおこなったとでもいうのだろうか。クラスの人間の中で、そういった場面を目撃した人がいないかどうか、再度記憶をチェックしてみた。どうやら無さそうだ。良いゆすりネタになるし、見たならまず間違いなく覚えているだろう。間違い無いか。
そうなると、手が込んでいる割に、やっていることは正直レベルが低い。机やカバンの中身を隠すとか、壊すとか、落書きするとか。そういうのって小学生レベルだよね。結局何がしたいんだろうか。
しかしクラス外の人間の仕業となると、学級会の範疇を越えて面倒なことになりそうな予感だ。
事実、話は大きくなり始めていた。クラス内で犯人が見つからないので、学年全体で聞き取り調査が実施されることになった。チアキの訴えによって、学校側が動かざるを得なくなった形だ。実際に起きているいじめを隠蔽しつつ、チアキの名前を可能な限り出さないようにしながら、チアキのいじめだけを調査する。なかなかに難易度が高い。大人たちの茶番劇を、ヒナは冷ややかに眺めていた。こんなん無理ゲーじゃん。クリアする気ないでしょ。
ヒナの方も、調査範囲を学年全体、学校全体と広げていった。チアキのことを知らない人間が、良く知らないままに犯行に及んだという可能性まで考慮して、色々と手を尽くしてみた。しかし、それでも実行犯に辿り着くことは出来なかった。中学生のヒナでは思い付かないような何かがあるのだろうかと、ヒナは毎日頭を悩ませた。
他のクラスメイトたちも動揺していた。犯人が判らないのは不安になる。調査が長引けば、自分たちのいじめも露呈する危険性がある。さっさと解決してくれないと、落ち着いて自分のいじめが出来ない。ひっでーハナシだな。
チアキは毎日普通に登校してきた。はっきりとは言われていなかったが、今取り上げられているいじめの被害者がチアキであるということは、すぐに噂になっていた。担任の情報管理能力が低い、というか口が軽いんだな。いつもなら挑戦的に前を向いていたチアキは、学級会の日を境に黙ってうつむいてばかりになった。目に見えて元気が無い。
「おはよう、チアキ」
「おはよう」
朝の挨拶にも元気が無い。チアキをこんな風にしてしまった相手を見つけられず、ヒナは悔しかった。この手で犯人を見つけ出して、吊し上げてやりたい。力無いチアキの背中を見ていると、ヒナまで悲しい気持ちになってくる。今はそっとしておこう。こんなチアキの心の中を覗くとか、そんなことは出来なかった。
犯人は間違いなく学校の中にいるはずなのに、その尻尾が掴めない。銀の鍵の力に対して、嘘をついたり抵抗したりすることは不可能だ。ナシュトにも何度も確認を取った。それでも、チアキの持ち物を破壊するという決定的な記憶を持つ人間を、ヒナは見つけることが出来なかった。
どういうことなのだろう。ヒナはまだ未熟なのか。無力感にさいなまれながら、ヒナは前の方の席に座っているチアキを見た。こんな状況でも出席だけはするチアキは、本当に強いし、逞しいし、意地っ張りだと思う。その強さは見習いたかった。
そんなある日、もう十月に入ろうとする頃。
チアキが転校することになった。家庭の都合ということだが、誰の目にもいじめが原因であることは明らかだった。助けることが出来なかった。ヒナは絶望した。人の心を読む銀の鍵。こんな力があっても、友達の女の子一人助けることが出来ないのか。ヒナは自らの愚かさを呪った。
うつむいて黙ったまま、じっと座っているチアキ。チアキの姿は、もうこれで見納めになってしまうのか。最後に、ヒナはチアキの心の中を覗いてみた。諦めたくなかった。どうしてもヒントが欲しかった。心苦しさから、今まで見てこなかったチアキの中の記憶を読んで。
ヒナはようやく真相を知った。
ファミレスを出て、ヒナとチアキは中学校にやって来た。まだ夏休み中だし、今日は部活もやっていないみたいだ。誰もいない校庭を、強い日差しがじりじりと照りつけている。
校門の横の大きな桜の木陰に入る。昔も良くここで涼んだ。部活で学校の周りをランニングした後とか。夏場は良いんだけど、春先、桜が散った後の毛虫の大群が今でもトラウマになっている。あれ、どうにか出来ないのかね。
チアキはあれからほとんど口を開かない。ヒナもどう言葉をかけて良いのか判らない。あの時と一緒だ。チアキが学校を去った日、ヒナはチアキに何も話せなかった。
「ヒナは、知ってたんでしょう?」
沈黙を破ったのはチアキだった。誰もいない校庭を、じっと見つめている。かつて、チアキが通っていた学校。そして。
チアキが、切り捨てた学校。
「うん、知ってた」
それを知ったのは、チアキの心の中を覗いた時だ。だから、銀の鍵が無ければ、何も知らないままだったと思う。その方が良かったのかもしれない。友達がいじめを受けて、転校してしまった。その事実だけで十分だっただろう。
チアキは嫌いだった。学校も、クラスメイトも、先生も、ヒナも。みんな嫌いだった。嫌いな物に囲まれて生活することが耐えられなかった。
「私は、どうしても逃げ出したかったんだ」
チアキの顔に浮かんでいる表情は、憎悪だ。そこまでして、チアキはここから逃げ出したかった。その気持ちを知って、ヒナにはどうすることも出来なかった。
最悪の中学。いじめが横行し、そのことを黙殺する教師。大きなトラブルにならなければ、放置して通り過ぎるのを待っている。強い者に媚びへつらい、それでいて足元をすくう機会を狙う弱者の群れ。表向きだけの仲良しごっこ。
チアキは、自分がいるべき場所はここでは無い、と感じていた。こんな場所にいてはダメだ。ここは自分を腐らせる。もっと違う場所があるはずだ。自分は、ここにいてはいけないんだ。
みんなが嫌いだから転校する。この理由だけでは少し弱い感じがした。なんだか気に食わないという理由だけで転校を許してくれるほど、チアキの親も、世間も甘くは無いだろう。ならば、この腐りきった学校にふさわしい理由を与えてやればいい。そうすれば、チアキがいなくなった後、少しはマシになる可能性も出てくるというものだ。
だから、チアキはいじめを受けていることにした。狂言だった。
荒れきった学校は、チアキの嘘にまんまと騙された。誰一人疑う者はいなかった。生徒も、誰かがやったんだろうとしか思っていなかった。そもそもクラスメイトにもそんなに好かれていないチアキがいじめに遭うことは、事実としてすんなりと受け入れられてしまった。
ヒナも、チアキが誰かにいじめられていると完全に思い込んでしまっていた。チアキの心の中を覗けばすぐに判る話だったが、最初にチアキに同情してしまったことが、真実を知る妨げになってしまった。
チアキの企みは成功した。学校側は犯人探しがうまくいかず、穏便な解決策の一つとして、チアキの家族に転校を申し出てきた。それこそが、チアキの待ち望んでいたものだった。チアキは両親に、その条件を飲むことを伝えた。そこからは、話が早かった。
最初の臨時学級会でチアキの中に見えた悔しさは、話が思っていたよりも大きくならなかったことに対するものだった。問題を顕在化させ、被害者がチアキであることを広く知らしめたかったのに、それが出来なくて悔しかった。
いじめの犯人探しが行われている間、チアキがずっとうつむいていたのは、笑みを隠すためだった。計画がうまくいっている。いじめの加害者たちが、自分たちの行為に調査が及ばないかと戦々恐々としている。学校側が対応に苦慮して右往左往している。その姿が滑稽で、笑いを隠すことが出来なかった。
その事実を知って、ヒナは愕然とした。チアキがみんなのことを嫌いだ、ということは知っているつもりだった。だが、そんなことをしてまで逃げ出したいと考えているとは、予想だにしていなかった。
嫌いだ、と思いながらもヒナと話をしてくれるチアキ。学校に来ているチアキ。ヒナとペアを組んでくれるチアキ。
でも、チアキにとってのヒナは、他の嫌いな生徒と一緒。切り捨てて置いていくだけの存在だった。表面だけの友達。いや、表向きでも、そこまで親しくは無かったか。ただの知り合い。それだけ。
最後のお別れの時、ヒナはチアキに非難の目を向けた。なんで、チアキ?どうして?確かにこの学校はロクでもない場所かもしれない。でも、そこまでしなければいけなかったの?そんなにみんなのこと、ヒナのこと、嫌いなの?
チアキの心の中は、晴れやかだった。もうここには用は無い。必要なものなんて何も無い。チアキは、これから自分のいるべき場所に行くんだ。うつむいたままの顔には、しっかりと笑顔が浮かんでいる。
ただ、一度だけヒナと眼があった。強い意志を感じる。ひょっとしたらヒナには気付かれたのかもしれない。学校の中で唯一言葉を交わすクラスメイト。ヒナになら、知られてしまっていてもおかしくは無い。
チアキはそのことをずっと心残りにしていた。ヒナがチアキの自作自演を告発すれば、事態は大きく変わっていたかもしれない。だが、ヒナはそれをしなかった。知らなかったのか、或いは何か理由があったのか。それだけが、心の中で引っかかっていた。
「ヒナは、どうして黙ってたの?誰かに言おうとか、思わなかったの?」
思わない訳では無かったが、正直手遅れだった。ヒナがそのことを知ったのは、もう全てが決まってしまった後だった。
それに、たとえその事実を早い段階で知ったとして、ヒナは誰かにそのことを話しただろうか。チアキは学校の全てが嫌いだった。そのことは良く解っている。チアキがそこまでして逃げ出そうとしているのを、ヒナが止めてしまって良いのだろうか。
「チアキは私がしゃべると思った?」
チアキは首を横に振った。
「ヒナはおしゃべりだけど、そういうことは言わないよね」
人の心の中を見てしまう関係上、ヒナは知っていることを何でもしゃべる訳にはいかなかった。そもそも何が口に出された情報で、何が心を読んで得た情報なのかが判らなくなってしまっていた。なので、結果的に他人の事情については口が堅くなっている。基本的にはおしゃべり。ハルのことになると饒舌です。
チアキの顔から、ほんの少し険しさが消えた。ヒナに確認出来たからだろう。知っていて、話さなかった。そして多分、これからも話すことは無い。満足した、チアキ?
「ヒナ」
うん、なあに?ここにいるよ、チアキ。
「私のこと、卑怯だと思う?」
そんなことは無いよ。チアキはここから逃げ出したかった。そのために知恵を絞った。あの時、人の心を読む銀の鍵を持っていたヒナが最後の瞬間まで気が付けなかった。大したものだと思うよ。
ヒナが気になっているのはね、チアキがそこまでして、何を得ることが出来たのかってこと。
この学校、クラスメイト、ヒナのことを切り捨てて、チアキはちゃんと自分の居場所を得ることが出来たのかな。新しい学校、楽しかったかな。好きになれる人、出来たかな。ヒナはそれが気になってる。
さっき、ファミレスで話している時さ、気付いてたかな。
チアキ、ほとんど笑ってなかったんだよ。向こうの学校の話をしている時なんか、全然笑ってなかった。
もし転校した先の学校が本当に楽しくて、そこがチアキのいるべき場所なんだって心から思えるのなら。こうやって、ヒナに会うために戻って来たりなんかしないよね。二度と戻るもんかって。そうじゃなかったら、こんな場所があったってことさえ忘れてしまうんじゃないかな。
チアキは何も言わない。ヒナも心は読まない。だから判らないけど、でもきっと、チアキにはつらいことがあったんだね。悲しいことがあったんだね。だから、ヒナに会いに来たんでしょう?チアキの嫌いなヒナに。チアキを認めて、話してくれるヒナに。
「チアキは必死だったんだよ」
追い詰められて、肩ひじを張って、苦しかったんだと思う。ここじゃない何処かなら、きっとなんとか出来る。そう考える気持ちは、ヒナにも理解出来る。ヒナもこの中学はあまり好きじゃなかった。良い思い出なんてほとんど無い。
ハルがいなければ、ヒナも登校拒否くらいはしていたかもしれない。そういうのって、どう転ぶか判らないよね。あの歪な空気の中を、ヒナはハルと、銀の鍵があるからなんとかここまで来れた。どちらも無いチアキがどうすれば良かったのかなんて、ヒナには見当もつかない。
だから、間違ってるとか、卑怯とか、そんなことは簡単には言えない。あの時はチアキを責めてしまった。でも、今はむしろ、それだけの勇気を振り絞ったチアキを褒めてあげたい。チアキは一歩を踏み出した。その先に待っていたものが、予想とはだいぶ違ってしまっていただけなんだ。
「ヒナ」
うん、聞いてるよ、チアキ。
「ごめんね、ヒナ」
あやまらないで、チアキ。あやまってもらうようなこと、何も無い。
あの時、どうするのが正しかったのか、ヒナには今でも判らない。手遅れではあったけど、その気になればチアキの転校を止めることぐらいは出来たと思う。チアキの嘘を隠したまま転校を中止させる手立てなんて、銀の鍵を使えばいくらでもねつ造可能だ。ヒナは、チアキなんかよりもずっと卑怯な手段が使える。
でも、自分の意思で学校を去ろうとするチアキを、ヒナには止めることが出来なかった。笑顔で去っていくチアキを、どうして引き留められるだろう。チアキは広い世界へと旅立とうとしていた。豊かな沃野を夢見て。
外には楽園があるって信じていたチアキ。ねえ、楽園はあった?チアキの望む場所は、そこにあった?ヒナは、チアキを止めるべきだったのかな。一掴みの希望、オリーブの枝を握って、チアキは外の世界で何を見つけられたの?
「ううん。チアキがそうしたかったんなら、それでいいと思ってる」
嘘をついたこと、後悔しているんだね。その嘘をヒナが知っていること、気にしてたんだね。
チアキはもう苦しんだでしょ。報いなんて言葉は使いたくない。チアキが外の世界に出ていくためについた、小さな嘘。ヒナは、そんなことでチアキを否定したりしない。チアキが受けた苦しみを、悲しみを、こうやって一緒に分け合ってあげる。感じてあげる。
大丈夫、心配しないで。お人よしのヒナちゃんは、チアキのことをまだ友達だと思っているから。チアキがヒナのことをどう思ってるかなんて、全然気にしてないから。
誰もいない校庭を、チアキはじっと見つめている。来月には、また転校だ。今度は親の都合。とはいえ、また同じようなことが繰り返される。チアキはそれが不安なんだろう。
「新しい学校、楽しいと良いね」
ヒナの言葉に、チアキはうつむいた。本当にそう思うよ。嘘をついてでも自分のいるべき場所を求めたチアキ。どうか、自分で認められる場所に辿り着いてくれればと、そう願うよ。
日差しが強い。校庭のスプリンクラーが作動して、噴水のような水飛沫が上がった。乾いた地面に水分が沁み込んでいく。微かに七色の虹が浮かんで見えた。
チアキがいなくなって、中学は何が変わったか。
結論から言うと、何も変わらなかった。体育の時間、ヒナと組むペアの子が他の子になっただけだ。ヒナはもともとちょっと変な子程度の扱いで、嫌われ者とまでは思われてなかったから、そこは問題にならなかった。好きな子がはっきりしてる分、色恋沙汰の面倒事が回避出来てむしろ便利だったくらいだ。
チアキの転校は、普通に家庭の事情として扱われた。いじめなんておくびにも出さない。チアキの家はもともとアパート住まいということもあって、すぐに転校先の中学の近くに引っ越していった。学校から補助金が出たとか何とか、そんな噂がちらほらと聞かれた。そんなことよりも、ヒナにはチアキが知らない間にヒナと同じ町から姿を消していたことの方がショックだった。引っ越し先の住所は、誰も知らなかった。
いじめは無くならなかった。学校側がいじめを隠蔽する姿勢を見せてしまったため、生徒側が調子付いてしまった格好だ。チアキの訴えは、学校を変えることは出来なかった。世界を変えることは難しい。これは、ヒナには良く解っていることだった。
十月の頭にチアキが転校して、しばらくの間、ヒナはチアキのことが許せなかった。嘘をついて、みんなを疑心暗鬼にして、そのまま転校してしまうなんて、とんでもない。ヒナにも何も言わずにいなくなってしまうなんて、あんまりだ。
それでも、チアキを引き留めようとは思わなかった。チアキには理由があったのだろう。ここにいたくない理由。毎日がつらくて、苦しくて、どうしようもなかった。我慢し続けた方が偉いなんてことは無い。チアキはここを出ていく手段を一生懸命考えて、それを実行したんだ。
ヒナは、チアキが残りたいと思う理由にはなれなかった。
そう考えると、ちょっとだけ悲しかった。何もかもを切り捨てていってしまったチアキ。表裏なく、正直なチアキ。そんなチアキが、嘘をついてでも出たかった、この学校。ここは、そんなにどうしようもない場所なのだろうか。
確かにいい学校とは思えない。そこかしこでいじめが起きていて、ヒナ自身、それに関わらないようにするだけで気が気ではない。ここより悪い環境はそう無いだろう。
でも、新しい場所に着いたとして、そこは自分のいるべき場所だって、そう言えるのかな。思えるのかな。
この学校にはハルがいる。だから、ヒナはここがヒナのいるべき場所なんだって、胸を張って言うことが出来る。どんなに酷くても、救いようが無くても、ハルがいるなら、そこはヒナのいる場所なんだ。ヒナはハルの近くにいたい。今はお互いにあまり接点が無いけれど、近くにいるって思うだけで安心出来る。
恋愛脳なんて馬鹿にされる。でも、好きな人がいるって、大事なことだ。その人のために、頑張ろうって思える。少なくともヒナはそうだ。ハルのために頑張ろうって。ここで生きていこうって、そう思える。
チアキにも好きな人が出来れば良い。その人の近くにいることが、チアキにとっての一番になれば良い。そうすれば、きっと自分のいるべき場所だって見えてくる。自分の周りが好きになれる。今のヒナがそうなんだから。
夕方、女子バスケ部の練習で、体育館に移動する。途中で校庭の脇を抜けるが、そこでグラウンドを走っている男子バスケ部が見えた。バスケ部は、今日は女子が中で練習、男子が外で練習の日だ。ハルの姿もある。汗をかいて喰らいついている。ハルは、この学校のことが好きだろうか。
バスケのレギュラー争いに、結局ハルは負けてしまった。来年、三年生の夏が最後になる。頑張ってほしい。ヒナはこうやってハルが見えるところで、ハルのことを応援したい。ハルが一生懸命頑張れる学校であってほしい。
他の女子部員たちが体育館に入っていく。ヒナだけが残された。元から鈍臭いって言われてるから、あまり気にされてない。うん、大丈夫。
男子バスケ部のランニングが終わった。ちょっと遠いけど、見えるかな。ばらばらと散らばって休憩している方に向かって、ヒナは大きく手を振った。
ハル、ヒナに気付いて。
銀の鍵なんて使ってない。本当の心の声。ヒナの気持ち、届いてくれるかな。薄暗い校庭から、体育館の入り口にいるヒナのこと、ハルはわかってくれるかな。
突然、ぱっと灯りが点いた。びっくりした。センサーで暗くなってくると電灯が点くようになっていた。ヒナは真上から照らされて、スポットライトの中にいるみたいになった。うわぁ、なんじゃこりゃあ。
そのお陰なのか何なのか、ハルがこちらに気が付いた。それ以外にも、何人か。いや、これは、ちょっと目立ち過ぎだ。顔が真っ赤になる。笑い声が起きる。慌てて体育館の中に駆け込んだ。
その時ちらっと見えた。ハルが、こちらに向かって手を振ってくれていた。ヒナを見つけてくれた。嬉しくなる。身体が熱くなる。ハル、ヒナは、ハルのことが好き。
この学校は好きじゃない。なんなのあのスポット状態。あんなところに電灯があるとか、しかもあんなタイミングで点灯するとか、もう意味がわからない。
でも、ここにはハルがいる。ヒナの好きなハルが。切り捨てるなんて出来ない。どんなにつらくても、苦しくても、ハルのためなら頑張れる。戦える。
チアキ、やっぱり誰かを好きになった方が良いよ。人を好きになるって、強くなるってことだ。ヒナはそう思う。
その日、ぼんやりしていたヒナは部活中にボールをキャッチし損ねて、右手の指四本を突き指した。中間試験まであと二週間を切っている。最悪の試験の始まりだった。
いよいよお別れの時間だ。ヒナはチアキを駅まで送ることにした。チアキはもう何も言わないけど、ヒナには判ってる。大丈夫だよ。チアキにも、いるべき場所がきっと見つかる。
何かあったらいつでも連絡してくれて良い。今の時代は便利だ。メールでも、メッセージでも。なんなら電話してくれても良い。チアキからなら大歓迎だ。ヒナは、チアキのこと嫌いじゃない。
転校か。ヒナには経験無いから良くわからないな。自分のことを誰も知らない場所で、何も知らないトコロから始める。それって大変そう。チアキも苦労したんだろうな。
ヒナの場合、中学はほぼ持ち上がりだったし、高校はハルが一緒だったからな。もうそれで満足しちゃってた。やっぱりそういうのってすごく大事だよ。どんな場所でも、ハルがいればそこはヒナの場所になる。うん、恋愛脳最強。
「じゃあね、ヒナ」
改札口の前で、チアキが手を振る。ここでお別れしたら、次に会えるのはいつになるんだろう。二度と無いとは思わないけど、でも、長いお別れになりそうな予感はする。それなら、この際だからハッキリさせておこうか。
「ねえ、チアキ?」
これだけは訊いておこう。大事なことだ。
「チアキは、今でも私のこと、嫌い?」
チアキの眉がちょっとだけ上がった。別に隠す気なんか無かったでしょ。それでもヒナはチアキのことが好きだったんだよ。友達になりたかった。
「そうだね」
ふわって、チアキの表情が明るくなった。笑った。夏のひまわりのような笑顔。そうか、チアキはこんな風に笑うんだ。酷いな。その笑顔を、ちゃんと見せてほしかった。ヒナはチアキに好かれたかった。今から、チアキに好かれる人に嫉妬しちゃう。
「幼馴染が彼氏になってたりして、何でも知ってるみたいな顔して、正直妬ましくて、大っ嫌い」
良かった。ちゃんとチアキだ。思ったことをそのまま、ハッキリと口に出す。チアキの言葉を聞いて、ヒナも笑う。
「私はチアキのこと、好きだよ。そうやって、何でも正直に言ってくれるところ。すごく良いと思う」
嫌いなことを嫌いって言ってくれるチアキのこと、ヒナは大好き。別に、ヒナのことを認めてほしいなんて思わない。チアキはチアキで良い。ヒナは、そういうチアキを認めてる。
「気が合わないな」
お互い様。これで良いんだ。ヒナがチアキを追いかける。この形にしておきたかった。チアキ、頑張ってね。ヒナはいつでも、チアキの場所になってあげる。苦しいことや悲しいことがあったら、またヒナのところに来て、大っ嫌いって言ってね。
「ヒナ」
チアキがヒナの手を取った。うつむいて黙り込む。チアキ、ダメだよ。それはまだ早い。チアキは自分の場所を見つけに行くんでしょ。
いってらっしゃい。ヒナはここにいるから。いつでもチアキのこと、許してあげるから。どうせ深く考えて無いよ。馬鹿だなって、笑ってくれて良いからさ。お気軽に呼び出してちょうだい。便利に使ってちょうだい。
友達って、そういうものだよ。
「じゃあ、またね、ヒナ」
「うん、またね」
さよなら、ヒナの大事な友達。一度も振り返らずに、チアキは改札口の人混みの中に消えていった。本当に潔い。もうちょっと未練がましくしてくれても良かったのに。ヒナは寂しい。
じゃあ、この寂しさは、あそこにいる誰かさんに紛らわさせてもらおうかな。
くるっと後ろを向いて、ずんずんと大股に歩く。あ、気付いたな。逃がさないからね。旅行会社のパンフレットが並べられているマガジンラックの裏。まったく、こんなの尾行にすらなっていませんよ。
「ハル、もう、いい加減にして」
悪戯を見つかった子供みたいな顔で、ハルが申し訳なさそうに出てきた。はぁ、これじゃいつもと立場が逆だね。やれやれだ。
駅に着いた時からだね。偶然だとは思うけど、ヒナがチアキといるところを見かけて、後をつけてきたって感じかな。こんなの銀の鍵が無くたって判る。ハルは尾行初心者だ。ヒナを見習いなさい。ヒナならハルに気付かれずに・・・
ごほん、なんでもない。
「いや、ホントにたまたま見かけてさ。声をかけるのもどうかと思って」
ハルの言い逃れはしどろもどろだ。ふーん。まあ信じますよ。チアキはどうだったのかな。そっちの方が気になるよ。もしハルの存在を勘付かれていたら、彼氏にストーキングされてるとか本気で意味が判らない、って言われそう。いや、言うだろう、絶対。
それとも、チアキはハルの顔なんて覚えてないか。名前だけはヒナが言うから覚えてるけど、実際の面識は無いだろうし。ん?だったらハルはただのストーカーとして認識されてた可能性もある?そっちの方がマズいか。困った彼氏様だ。
「もう終わりました。ハルは何してるの?」
見た感じは一人でぶらぶら、ってトコロかな。友達と待ち合わせしてるなら、ヒナがお邪魔しちゃうのは得策じゃない。ハルの自由は尊重しますよ。まあ、回答如何によっては尾行の真髄をお見せすることになるかもしれませんがね。
「いや、何にも。今日は本当ならヒナと宿題の続きしてるはずだったからさ」
本当も何も、昨日中に宿題が終わらなかったのはハルのせいでしょ。途中でシュウと遊び始めちゃうから。ヒナだってハルの基礎解析終わるの待ってたのに、いい迷惑だよ。
今日はチアキと会う約束があるって、ヒナ言ったよね?もー、こういう時だけ彼氏面してヒナの予定を拘束しないの。ヒナはちゃんとハルの予定とか、交友関係とか、邪魔しないように気を使ってるでしょ。
まあ、どうしてもって言うならハルに合わせるよ。でも、それは時と場合によるからね。何でもかんでもじゃありません。こういうのは彼女でも、恋人でも何でもそう。親しき仲にも、です。
「じゃあハルは暇なのね」
不機嫌な声を出してみる。ハルはなんだかしゅんとしちゃった。ふう、可愛いなぁ。
「まあ、暇だよ」
オッケー。それなら良かった。
「じゃあ、パフェおごって。なんだかそういう気分だから」
中学の頃は、ハルとこうやって並んで歩けるなんて、デート出来るなんて夢みたいだと思ってた。いつかは出来るって信じてはいたけど、実際に彼氏彼女になってみると、本当に心が踊るように嬉しい。世界が、きらきらと輝いているみたい。
「パフェって」
「いいからおごるの。あっちの喫茶店の、大きいヤツ」
ハルの顔がゲーッてなる。デッカいんだよね、あれ。お値段も結構なもの。カロリーはまあ、今日のところは考えない。いいんだ、ハルとの甘いひと時には代えられない。とても大切な、大好きなハルと過ごす時間。
ハル、ヒナはハルのことが好き。とても好き。ハルがいてくれれば、もう何もいらない。
この気持ちを、この世界を守るために、ヒナは頑張ってる。もっともっと頑張れるように、ヒナにご褒美をください。ヒナのこと、大切にしてください。
ほら、恋人からのおねだりですよ。
「わかったよ。しょうがないなぁ」
へへへ、ハル大好き。
「そういえば原田チアキってさ」
ん?何か思い出した?
「小っちゃくてツンツンしてた子じゃなかったっけ?」
あー、ハルもそういう印象だったんだ。へー、なんだろう、当時の男子ィの妄想を思い出しちゃった。ハルもひょっとしてそんなこと考えたりしてたのかな。やらしい。
「そうだよ、ミニマムサイズの子ですよ。相変わらずでした」
「ふーん、そうなんだ」
むっ。ハル、ヒナ以外の女の子のこと、そういう風に考えちゃダメ。読まなくても判るよ。
「ハル、なんだかスケベだ」
「いや、ちょっと待った。そうじゃなくて」
ぶー、なんなんだよう。
「いじめで転校したって聞いてたのを思い出したからさ」
はいはい。
ハル、チアキはいじめられるようなタマじゃないよ。あの子は強い。強過ぎたんだ。いつか、あの子を受け止めてあげられるような、大きな器に出会うまでは、きっとあのまんまだろうね。
「元気そうだったよ。もう大丈夫じゃない?」
「そうか?」
「うん」
ハルの手を握る。大切なハル。そして。
「私の友達だからさ」
だから、きっと、大丈夫。
少し前。ヒナは土地神様とお話をした。ヒナが見えない力を使って悪さをしている人間に目をつけられそうになっているところを、土地神様が助けてくれたのが縁だった。
土地神様は、驚いたことに人間の、ヒナとあまり変わらない年頃の女の子の姿をしていた。女の子の神様のおかげで、ヒナは疎遠になっていたトラジ、猫たちと再び関わりを持てるようになった。そのことのお礼も兼ねて、一度ご挨拶をしたいと出向いたのだ。
小さな稲荷神社で、巫女装束の神様がヒナを迎えてくれた。ヒナが見惚れるくらい綺麗な神様は、ヒナの持ってきたお供えを見て激しく興奮した。
「うわー、やったー、これ通販してくれないんだよねー」
えーっと、神様?ヒナは硬直してしまった。あまりにも神様してなさすぎる。お供えにお勧めとトラジから紹介されていたのは、クリーム大福だ。大福の皮に、カスタードクリームがぎっしり。カロリーの塊。神様甘党なんですね。
「今ちょうどみんな出払っててね。こういうの頼める人がいなくて困ってたんだよ」
なんだか複雑な事情がありそうだった。はぁ、と間の抜けた返事をして、ヒナは一個だけご相伴にあずかった。あっっっまい。なんじゃこりゃ、クソ甘い。神様はもうホクホクの笑顔でむしゃぶりついている。神様、本当に甘党なんですね。
「で、お土産まで持ってきて、私にどんな厄介なお願い事があるのかな?」
神様は一応神様だった。ヒナのことなどまるっとお見通しのようだ。ヒナは改まって神様にお願いした。
ヒナは、銀の鍵を持っている。捨てたいと思っても捨てることが出来ない。もう身体の一部となってしまっている。鍵を手放す方法についてはナシュトから教えてもらってはいるが、これはすぐに出来ることでもないし、簡単な話でもない。嫌でもこの力とは付き合っていかなければならない。
正直に言って、銀の鍵の力を良いことに使って来たとは言えない。イタズラに人の心を覗き見てきた。中学時代のことを思えば、本当に良くないことばかりだった。そのことについては反省しているつもり。
今回神様と知り合ったきっかけは、ヒナが銀の鍵の力を使って人助けをしたことだ。正しいことに力を使ったから、神様が助けてくれたのだと、そう理解している。
「その理解で良いよ」
クリーム大福を食べつくした神様が、かしこまってそう応えた。あの甘いのを七個も一気にペロリか。流石神様だな。
ヒナは、出来ることなら銀の鍵の力自体を使いたくない。ただ、自衛のためや、目の前で起きている理不尽のためにどうしても力を使ってしまうことはある。
特に、ハル。ヒナは、自分の恋人のハルのためなら何でもする。ひょっとしたら、そこに善悪の見境なんてないかもしれない。誰かを傷つけることを厭わないかもしれない。
「だから、お願いしたいんです」
一つは、ヒナが銀の鍵の力を間違ったことに使った時には、天罰を与えてほしいというものだ。ヒナは今までの自分が正しかったなんてこれっぽっちも思っていない。間違いだらけだったと思う。そのせいで失ったものも数多くある。
正しいことをして、神様が助けてくれた。ならば、間違えた時には罰を与えて教えてほしい。ヒナは自分の判断に自信が無い。下駄を預けてしまいたい。
もう一つは、ハルと、ハルの家族、ヒナの家族についてだ。今回、ヒナのせいでハルまでが巻き込まれてしまう可能性があった。神様のおかげで事なきを得たが、今後も似たようなことは起きるだろう。十分に想像出来る。
身勝手なお願いだが、ヒナの力が原因であるのなら、その影響、報いはヒナにだけ向くようにしてもらいたい。ハルを、家族を巻き込みたくない。罰ならヒナが受けるだけで良い。
言ってみると、本当に自分勝手なお願いだとヒナは思った。だが、正直な気持ちだ。銀の鍵はなるべく使わない。使って、もし間違えていたなら罰を与えて教えてほしい。報いはヒナ一人に向くようにしてほしい。図々しいのオンパレード。
「はぁー、なるほどねぇ」
神様は腕組みして考え込んだ。こうなると神様らしさが全然感じられない。巫女装束とはいえ、友達とでも会話している気分になってくる。ホントに神様、だよね?
ヒナがそう考えたところで、神様がヒナの目を真っ直ぐに見つめてきた。見透かされたようで、どきっとする。銀の鍵を使われると、こんな感じなのかな。神様はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、今まで通りって事だ」
ヒナはぽかん、とした。
そもそも土地神である神様が、銀の鍵の存在に気が付かないハズは無かった。自分の管轄内に危険なものがあると、ヒナが力を手に入れた当初から注目はしていたらしい。
ヒナがどのように力を使っているのかも、神様はずっと見て知っていた。もしその力を悪用することがあれば、一戦交えて天罰を与える用意もしてあったということだ。だが、ヒナにはその力を悪用する様子は全く無かった。むしろ、力を使って物事を良くしようと四苦八苦している姿を、神様はしっかりと見ていた。
神様の管轄内でおかしなことがあれば、神様は猫たちと協力して事態の収拾にあたる。この前の花火大会で、ヒナは誰か悪意のある人間が仕掛けた迷子の呪いを解いた。あれは神様も気にしていたもので、ヒナが尽力してくれたことについて大きく感謝しているとのことだった。
ヒナが、自分以外の人間を巻き込まないでほしいと願ったことについては、神様の方でも考慮すると言ってくれた。無関係の人間に影響があるのは、神様も望むところではない。そこは任せてほしい、と神様は快く請け負ってくれた。
「ヒナちゃんは、なんというか、気負い過ぎだね」
肩の荷が下りた感じでほっとしているヒナに、神様は優しい声で語ってくれた。
「ヒナちゃんは人間なんだから、身勝手で良いんだ。清廉潔白である必要は無い。もっと好きにしても良いんだよ。後は神様の仕事だから、任せて頂戴」
ぽろり、とヒナの目から涙がこぼれた。ああ、神様なんだな、と思った。色々な悩みが溶けていく気がした。もう大丈夫だ。少しずつで良い、銀の鍵を忘れていこう。何かを間違えても、この神様が助けてくれる。
一人で抱えて苦しんでいたことが、嘘のようだった。もっと早くこの神様に会えていたら、と思う半面、今で良かったのかもしれないとも思った。間違えていることに気が付かなければ、正しいことだって知りようがない。間違えたからこそ、ヒナは今本当の正しさを知ることが出来たんだ。ありがとう、可愛い神様。
そういえばもう一つ話があったんだ。ヒナは気になっていたことを神様に訊いてみた。ええっと、失礼ですけど、神様って、好きな人がいたりしますか?
顔を赤らめた神様は更に可愛かった。神様の恋バナはとっても興味深くて、面白かったけど、今のところは大切に心の中にしまっておこう。しかし、神様あれで既婚者なのか。しかも相手は未成年。神様の世界って、人間の世界の何倍も進んでるんだね。すごい。
それはさておき、ヒナは神様と話をして、ようやく全てが許された気がした。中学時代、みんなの心を無遠慮に読んでいた罪。もちろん、それが正しいだなんて思っていない。悪いことなのは確かなんだ。
大好きなハルに顔向け出来ないって気持ちは、それでも少しだけ和らいだ。誰にも話せない秘密は、神様が半分背負ってくれた。人に話すって、大事なことなんだね。ああ、神様か。神様は、人が話をしやすいようにあの姿をしているとも言っていた。素晴らしい。他の神様も見習ってほしい。特にヒナの中にいる駄目イケメン。イメージの押し付けは減点だ。
神様の言う通り、もう少し素直に生きてみよう。身勝手な自分を許してみよう。嘘も、ごまかしもあっていい。綺麗なだけの世界なんて、ありえない。
友達もいる。ヒナはちょっとかたくなだったかもしれない。サキ、チサト、サユリ。ヒナは、もっと素直にみんなと接してみようと思う。折角みんな、ヒナに色んなことを話してくれたんだから。ヒナに心の扉を開いてくれたんだから。
まあ、ハルにだけは嘘をつかないけどね。そればっかりは譲れない。神様が相手でも、ハルに関してだけは絶対にダメ。
ヒナは、ハルにだけは真っ直ぐって、そう決めてるんだから。
九月になって、高校の二学期が始まった。最後まで必死に悪あがきして、宿題はようやく終わらせることが出来た。ハル、お疲れ様。回答があってるかどうかは問題じゃない。埋まってるかどうかが問題なんだ。うむ。
朝、久し振りにハルと一緒に登校して、なんだか新鮮な気分だった。おはよう、ハル。おはよう、ヒナ。そうやって声を掛け合うだけでなんだか幸せな気分。夏休みなんて、みんな夢だったみたい。あんなに色んなことがあったのにね。
ひと夏の経験は、残念ながらキス止まり。まあいいか。高校一年生だもんね。急ぎ過ぎても良いことは無い。ゆっくり二人で登って行こう。ん?大人の階段だよ。もちろん。
ハルの朝が早いから、夏休みボケなんてする暇が無かった。仕方無いよね、二人の大事な蜂蜜タイムなんだから。誰にも邪魔されない早朝二人だけの登校。あ、でもちょっとまって。吹奏楽部の朝練があなどれないんだよ。校門が近付いて来たら警戒ね。
ハルはハンドボール部への入部届を出した。クラスメイトに誘われていた、お遊び部活。うん、良いんじゃないかな。頑張って、ハル。ハルもきっと、ヒナと一緒で気負い過ぎていたんだと思う。もっとイージーに行こう。素直に、青春を楽しもう。
部活については、ヒナにも考えてることがある。もうちょっとしてからかな。ハルの部活が軌道に乗るようだったら、ヒナも始めてみる。一歩踏み出してみる。ふふ、楽しみだ。
楽しみといえば、お盆に帰国出来なかったお父さんが、ようやく遅い夏休みを取って一時帰国することになった。何ヶ月ぶりだろう。ヒナ、お父さんの顔覚えてるかな。確か、目が二つあって鼻が一つあって口が一つあって。うん、全く覚えてない。
お父さんの方もヒナのことを忘れてそう。ヒドイ親子だね。シュウもお父さんって言われてキョトンとしてたよ。もう母子家庭だって思ってるんじゃない?まあ、お父さんが忙しく働いてくれてるお蔭で、ウチの家計はなりたっているんだろうけど。
大きなトランクを持って帰ってきたお父さんは、まあ、見ればちゃんとお父さんだって認識出来た。ヨレヨレのスーツにサンダルとか、それで空港から家まで来たのかな。無精ヒゲがじょりじょりしている。ヒナの顔を見て、「たっだいまーん」とか能天気な声で挨拶してきた。ああ、こういう人でした。ヒナは良くお父さん似だって言われる。すっごい複雑。
とりあえず、お父さんの帰国をお祝いをすることになった。一時的な帰国だけどね。お父さんの夏休みは一週間。その間、ヒナもシュウもほとんど平日で学校がある。なので、何かおいしいものをみんなで食べに行こうって話になった。お父さんのリクエストはお寿司。海外にいるとおいしいお寿司が食べたくなるんだって。
その話が何処でどうなったのか、最終的にハルの家族とも一緒に行くことになった。ヒナの家族、ヒナとシュウとお母さんとお父さんで四人。ハルの家族、ハルとカイとお母さんとお父さんで四人。合わせて八人。大所帯だ。このフルメンバーでご飯を食べに行くなんて、物凄く珍しい気がする。っていうか、今までこんなことってあったっけ?
そんな訳で、土曜日の晩御飯が外食となった。お母さんも何処と無くいそいそとしている。お父さんと一緒なのが嬉しいのかな。なんだかんだ言って夫婦なのかね。一年のうち、一緒にいられる時間が合計して一ヶ月も無いなんて、ヒナなら我慢出来そうにない。可能な限りハルにくっついて、何処までも行ってしまいそう。
お父さんの運転する車に乗るのも久し振り。いつもはハルのお母さんの車に乗せてもらうからね。今日はレンタカー。お父さんが「あれ、日本の車線どっちだっけ?」とか言い出して困った。ごめん、今からでもハルの家の車に移っていい?
どんな立派なお寿司屋さんなのかと思ったら、回転寿司だった。うん、まあこの人数だし、そんなことだろうとは思っていたよ。期待はしていない。わぁい、ヒナ、回転寿司だーい好き。お父さん、これだけ働いてて実は儲かってない?
「お父さん、お祝いって、ここで良いの?」
一応気になったので訊いてみた。日本のおいしいお寿司が食べたいって話だったわけだし、ちょっと申し訳ないかなって。
「ん?ヒナはここじゃない方が良かった?」
トボけたみたいに訊き返された。お父さんはいつもこんな感じ。だって、お父さんのお祝いなんだし、お父さんが行きたいトコロがいいでしょ?回転寿司で良かった?
「今日はヒナのお祝いだよ?」
はぁ?何それ?
「ヒナがハル君とお付き合いを始めたお祝いだよ?」
ぶはっ!
なんか色々と噴き出しそうになった。ちょ、ちょ、ちょっと待って?
何がどうしてそんな話になったのか。予約してあった大きなテーブル席に着くと、ヒナとハルは並んで座らされた。ひええ、ハルのお父さん、ご無沙汰しております。これ一体どういうことなんでしょう?ヒナ、さっき初めて聞きました。
「ヒナちゃん久し振りだね。大きくなった。すっかり女の子だね」
ハルのお父さんは税理士をしている。物静かで落ち着いた紳士って感じだ。ヒナのお父さんが個人事業主になる時にお世話になったとかで、そういった親交もある。
「ハルのこと、色々と迷惑をかけるかもしれないけど、よろしく頼むよ」
笑顔でそんなことを言われて、もう気を失いそうになった。いやあの、こちらこそご迷惑をおかけいたします。なんなの?これなんなの?ドッキリ?変な汗がドバドバ出てくる。
横にいるハルを突っついた。ちょっと、どうなってるの?ハル知ってた?
ハルはぶんぶんと首を横に振った。良く見ると、ヒナ以上に緊張している。そりゃあそうか。ハルもヒナのお父さんに会うの久し振りだもんね。それでこの集まりだ。緊張しない方がどうかしている。
これ誰の企み?一同を見渡すと、お母さんたちがにやにやしていた。そうか、あの辺か。後は多分ヒナのお父さんだな。こういう悪ふざけが大好きだ。帰って来たと思ったら早速やらかされた気分だよ。
「お父さん、ハルを困らせないで。悪ふざけし過ぎ」
「別にふざけてるつもりはないんだけどなぁ」
余計悪いわ。
「折角日本に帰ってきたんだ。最近あった一番良いことでお祝いがしたくてさ」
ああそうですか。それでダシにされたらたまったもんじゃない。思いっきり不機嫌な顔で睨み付けてやる。ふしゃー。
「ヒナは怖いな。ああ、ハル君」
「は、はい」
ハルの声が裏返っている。カイが物凄くビミョーな顔でハルを見ている。シュウは・・・あ、こら、イクラそれで何皿目だよ。完全にマイペースで黙々と好物のイクラを食べ続けてる。もう、いい加減にしなさい。
「こんなのだけど、よろしく頼むよ。大事にしてやってくれ」
こんなのってなんだー!
ハルは顔を真っ赤にして「ハイ」と返事した。これホントになんなんだよ。まるで結納か何かだ。別に良いんだけどさ、こういうのはちゃんと本人の意思をベースにして実行してほしいよ。なんでウチの家族は毎回毎回セットアップしてくるんだ。
ハルとの関係を祝ってくれるっていう、その気持ちだけは嬉しい。ちゃんと認めてもらえてるとは感じる。世の中には祝福されないカップルなんてのもいるからね。それに比べればヒナなんかは恵まれてる方だろう。
しかし、だからといってこれはやり過ぎだ。あんまり変にいじられて、嫌気がさして別れるなんてことになったらどうしてくれるんだ。ヒナは一生懸命考えて、努力して、ハルとお付き合いを始めたんだぞ。バカー。
お父さんたちはお酒を飲み始めてるし、お母さんたちはぺちゃぺちゃおしゃべりして、シュウはイクラを食べ続けてる。あれ、カイは?なんかお皿整理したり、お茶持って来たり、ゴミ片したり。ごめん、それ本来ヒナがやるべきことだよね。どうにかしてくれこのカオス空間。
「なんか、ごめんね、ハル」
ハルはすっかりガチガチだったけど、ヒナの言葉ににっこりと笑ってくれた。
「まあ、おじさんは楽しそうだし、良いんじゃないかな」
「ハル君、お義父さんだよ、お義父さん」
ちょっとお父さん黙ってて。これ以上茶化さないで。ヒナの計画を台無しにしないで。
囲い込まれてなあなあで結婚とか、まあ確かに結果は同じなんだけどさ。ヒナはようやく、ハルに告白してもらって、彼氏彼女になって、恋人になるってところまで来たんだよ?
こうなったらちゃんとプロポーズまでしてもらいたいでしょ?それまでは大人しくしてて頂戴。
もう噛み殺してやりそうな勢いでお父さんにガンを付ける。ハルのお父さんが楽しそうに声をあげて笑う。シュウがイクラをまとめて三皿ぐらい取る。カイがヒナのお母さんにお酌している。ちょっと、帰りはウチの車誰が運転するの?ああああ、もう、いい加減にして。
ブチ切れそうになったところで、ヒナの携帯が振動した。今度は何ですか。メッセージだ。差出人を見て、思わず息が漏れた。
周りから隠して、テーブルの下で開いてみる。写真が添付されている。カラオケボックスかな。楽しそうな笑顔。一人じゃない。そうか、良かった。この笑顔は本物だ。
「ん、誰だそれ?」
ハルが覗き込んで来た。ハルのエッチ、見ちゃ駄目。
もう、ハル、ホントに覚えてないんだね。この前会ったって言ったでしょ。ヒナの大事な友達。自分のいるべき場所を探して出て行った、孤独な旅人。
彼女は、どうやら自分の場所を見つけられたみたいだ。良かったね、チアキ。ヒナも、自分の事のように嬉しいよ。
窓の外には、明るい月が輝いている。秋が、すぐそこにまで来ていた。
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