第3話 流れ星ヨリ疾ク

 今年の桜は、例年より咲くのが遅い。入学式のシーズンにこれだけ桜の花が残っているのは珍しい。逆に、中学の卒業式はまだまだ寒さが残っていた。今日は暖かくて心地良い。

 校門を入ってすぐの広場に、大きな看板が出されている。クラス発表。まずはそこで自分のクラスを確認して、受付に進めということだ。同じ中学からは何人か来ている。知った顔がいてくれれば、とりあえず安心なのだが。

「ハル!」

 誰かに呼ばれた。この声を間違うことは無い。ヒナはもう先に来ていたみたいだ。看板の前から、人混みをかき分けながらこちらに向かってくる女子がいる。おいおい、気を付けろよ。急がなくていいから。

 目の前に、ヒナが立った。ヒナ・・・だよな。うん、ヒナだ。あれ、でも。

 桜の花びらが舞う。今年の桜は、例年よりも遅い。だから、ヒナの周りをひらひらとしている。すごく綺麗。いや、桜が。舞い散る花びらが。

 あと、ヒナが。

 高校の制服。採寸の時に女子の制服のサンプルも見た。だから、知らない訳じゃない。その前にも、街中で見たことぐらいはある。ただ、ヒナが着ている姿は、初めて見た。ちょっと大きめ、袖から指だけが見えてる感じ。スカートの丈が、中学とは違って短くなってる。膝が外に出てる。

 ふわっとした癖のある髪が風に揺れていた。そういえば、小学校まではこんな感じだった。中学では校則で縛らなきゃいけないって、確かそんなことを言っていた。懐かしくて、それでいて新鮮。言われてみればヒナだ。ハルが良く知ってるヒナは、実はこっちのヒナだった。

 ヒナが笑う。大きくてよく動く目、すっきりとした鼻筋、柔らかそうな唇。口元に眼が引き付けられる。ヒナの唇を見て、どきっとする。どうしてだろう、視線がそこに向いてしまう。

「ヒナ、おはよう」

 とりあえずそれだけは言っておく。何故か、他の言葉が出てこない。どうしてだろう。ヒナが、眩しく感じる。

「おはよう、ハル」

 声は、いつものヒナだ。つい先週、一緒に教科書販売でここを訪れた。本当にたった数日しか過ぎていない。それなのに、今目の前にいるヒナは、全然違うヒナだ。

「クラス分け見た?」

 いや、今来たばかりだ。これから見に行こうと思ったところで、ヒナに声をかけられた。

 ここからでも判るのは、クラス数が八つ以上はあるということだけ。誰か知っている人間と一緒になれればと思ったが、確率は低そうだ。まずは友達作りから、ということになるかな。

 ヒナが、にっこりと笑う。ぐいっと、身を乗り出してハルに顔を近づける。ヒナの顔がハルの視界を埋め尽くす。ヒナはとても、可愛い。うん、正直に言おう。この時のヒナは、すごく可愛かった。

「同じクラスだよ、ハル。一年間、よろしくね」

 嬉しそうなヒナの声。可愛いヒナが、ハルに笑顔を向けている。ずっと一緒にいた幼馴染。

 ハルは、ヒナのことが好きだ。それはもう認めてしまっている。誤魔化しても仕方がない。長い時間を共に過ごしてきただけではなく、ヒナとの間には、色々なことがあったと、そう思っている。

 ただ可愛いから、ただ近くにいたから、ヒナのことを好きなんじゃない。ヒナは、ハルにとっては大切な人。ハルが人生をかけて背負っていこうと決めた人。

 同じ高校を受けると判って、二人で勉強会とかして、そんなこんなで、そろって合格してはしゃいでいた。ヒナと同じ高校に行けるのは、ハルも嬉しかった。やっぱり、ヒナには傍にいてもらいたい。そうじゃないと、落ち着かない。

 目の前で、ヒナが笑っている。高校生のヒナ。どうしてだろう、たった数日なのに、中学生のヒナとは、何もかもが違って感じる。でも、間違いなくヒナだ。ハルの好きな、ヒナ。

 どきどきする。こんな時は、考えてしまったらダメだ。認めて、前に進んだ方が良い。ヒナが相手ならなおさら。ヒナはいつも、ハルのことなど考えずに何処かに行ってしまう。迷っていたら追いつけない。認めよう。追い続けよう。

 ヒナは、高校生になって、可愛くなった。綺麗になった。素敵になった。

 入学式で一目見ただけでこんな風に思うなんておかしいけど。でも、そう感じてしまったんだ。幼馴染に改めて一目惚れするなんて、実にバカバカしい。これ以上好きになってどうする。充分だ。

 ヒナ、ハルはヒナのことが好きだ。また一つ、好きになった。

 馬鹿みたいだけど、幼馴染のヒナのことを、どうしようもないくらい好きなんだ。ヒナ、これからも、ずっと傍にいてほしい。


 あー、ああああー、あああああー。

 もう全ての力が抜けた。やった。やり切った。ヒナはやり切りましたよ。リスペクト自分。

 最後の期末試験の答案が返ってきた。よりによって一番苦手な物理の答案。お前がラスボスだったとは。何書いたかも覚えてないものに点がついて返ってくるって、意味が判らない。重力定数って何?ニュートン?万有引力?略して万引?ニュートンは万引を発見しました。通報しますた。

 こんなヒナでも、ぎりぎり赤点は回避出来てた。ありがとう、サユリ。持つべきものは頭の良い友人だよ。ハルだったらこうはいかなかった。むしろ、ハルの方がどうなっちゃってるのか心配なくらい。ヒナ、英語なら得意なんだけどなぁ。アイキャンスピークイングリッシュ、プリーズギブミーエクストララージヘルピング。

 いやー、これで一学期の残りの日々は、安心して消化試合にすることが出来る。赤点とか補習とか、お母さんに何言われるか解ったものじゃない。ハルとのお付き合いにまで口出しされたらたまらないよ、ホントに。お母さん、ハルと付き合い始めたこと、一体何処から聞いたのかと思ったら、出所はハルのお母さんだし。で、ハルのお母さんはハルの友達から聞いたみたいだし。なんなの、そのよく解らない情報網。

 別に隠しているつもりは無かったけど、でも、今更そんなこと改めて言うの恥ずかしいじゃん。ヒナがハルのことを好きなのは、家族には随分前から知られてる。お母さんと、ハルのお母さんの前で盛大にやらかしたからね。ハルと一緒が良いって言って二人して部屋に閉じこもるとか、いくら小学生時代の話っていっても、思い出すだけで赤面しちゃう。

 ハルはヒナの気持ちなんて、だから昔から知っていたと思う。あれからずっと、ヒナはハルのことを好きでいる。ハルはいつもヒナのことを考えてくれる、見てくれる、探してくれる、見つけてくれる。

 そうだね、いつもヒナが勝手に何処か行っちゃうんだ。反省。ハルが探してくれるって、安心しちゃってるのかもしれない。ハルにいっぱい依存しちゃってるなぁ。この前も雨の中走ってもらっちゃった。えへへ、ゴメンね、ハル。ヒナ、すっごい嬉しかった。

 五月にハルが告白してくれた時は、本当に幸せだった。まあ、やっぱりヒナがどっか行っちゃいそうで不安になったからみたいなんだけど。ご迷惑をおかけいたします。ふふ、そうやってちゃんとヒナをつなぎ止めようとしてくれるから、ハルのこと信じられるんだよ。ハル、大好き。

 とはいえ、愛想だけはつかされないようにしないと。ヒナだってただ漫然としている訳じゃないんだよ。ハルに好かれるために、日々努力してる。今だってハルの彼女として、色々考えちゃってるんだから。

 授業終了のチャイムが鳴った。よし、今日の残りは帰りのホームルームだけ。起立礼着席。物理のすだれハゲ先生さようなら。あ、名前なんだっけ。どうでもいいか。万引だし。

 サユリの方に小さく手を振る。後でお礼言いに行くから、ちょっとだけ待ってて。ヒナには大事な用事があるの。そう、彼氏様のテスト結果確認。

「ハル」

 ひらひらと手を振りながらハルの席に行く。男子友人数名がいたけど、にっこりと笑って。

「ごめん、ちょっとハル貸して?」

 これで引っ込んでくれる。うん、すごく生活しやすくなった。

 少し前だったら、学校内でハルと話してるだけでもう大変だった。付き合ってる男女がそんなに珍しいですかね。動物園の見世物じゃないんだから。普通に学校生活とか、成績の話とかもしますよ。いつでも何処でも発情してる訳じゃないの。

 その辺りの理解が進んだというか、まあ、ハルが軽くキレてくれたおかげで、二人でいることは割と自然に受け入れられるようになった。いや、実は一回生活指導にも呼び出されたんだよ?酷くない?学校では何もしてません。っていうか、学校の外でもしてません。ううう、何もありませんよう。むしろあっても良いのに。

 幼馴染だし、ある程度仲が良いのは当然、ということで生活指導の先生には無理矢理納得してもらった。間違いが起きてからでは困る、か。間違いってなんだろうね。ハルが、ヒナに何をしたら間違いになるんだろう。ヒナはハルに何をされても、それが間違いだとは思わないな。ハルがそうしたいなら、それはハルにとって、ヒナにとって正しいことだよ。信じてる。

 ははは、とかいって、何も無いんだけどさ。プラトニック彼女だよ。笑っておくれ。

「ハル、物理のテストどうだった?」

 横で聞き耳を立ててる男子、大して色気のある話じゃないから。散れ。

 ハルはなんだか微妙な顔をした。寝癖みたいな頭が、今日は明確に寝癖だ。細い目も眠気マックスで、開いてるんだか閉じてるんだか。いつにも増して冴えない感じ。いや、いつもカッコいいですよ?彼氏様・・・って、あれ?ちょっと、もしかして赤点?補習?夏休みの予定全部まっさらか?

「いやー、ギリギリ」

 ギリギリ?

「ダメだった」

 ぎゃー。

 ちょっとハル。それどういうこと?高校一年生の夏だよ?初めての、彼氏彼女で迎える夏休みだよ?二度と帰ってこない青春の輝きだよ?

 ヒナ、ハルとのひと夏の思い出、期待しちゃってたんだよ?

「ええー、ホントに?補習なの?」

 思わず大きな声が出てしまった。う、サユリが笑いをこらえている気配がする。後で絶対なんか言われる。ハルの馬鹿。ホントに馬鹿。赤点野郎。

 ヒナ、ひょっとしてハルのお母さんとか、お父さんにまで怒られるんじゃない?ヒナとお付き合いしているせいでハルの成績がダメダメだって。そんなことないです。ハルの成績は元々ダメダメです。どっとはらい。いや、そうじゃなくて。

 はあ、予定は組み直しですね。色々楽しみにしてたんだよ?もう、言ってくれれば後一問わざと間違えて、ハルと一緒に楽しい補習ライフ・・・は、無いな。ごめん、それは忘れて。

 ヒナはサユリに勉強教えて貰えたけど、ハルにはそれほど頼れる仲間がいなかったみたい。うん、顔ぶれを見れば判るよ。ハルがインカのめざめだとして、じゃがいもとじゃがいもと、あとさといも?主にデンプン質ですね。ビタミンが圧倒的に足りてない。

 実はハルに告白されてから、まともに二人だけでいる機会って、朝の登校の時だけなんだよね。通学路が一緒になるコンビニから、学校までのちょっとした区間。朝早いから、他の生徒に邪魔されない、ヒナの蜂蜜タイム。それを抜かすと、実はデートらしいデートなんてしたことが無い。携帯ではいつもメッセージのやり取りをしてるけど、それだとハル分が不足するんですよ。わかってくださいよ。

 ああー、しかも夏休みに入るってことは、肝心の蜂蜜タイムすら無いってことじゃん。ハルの馬鹿。馬鹿馬鹿。マジで馬鹿。

 埋め合わせ、してくれるんだよね?

「じゃあ、今度の日曜日、デートして」

 他の人に聞かれてるとか、もうそういうのどうでも良い。補填してください。今すぐ。

 ざわっ、て教室中の空気が揺れる。ううう、恥ずかしい。けど、ヒナだって頑張ったんだもん。ハルにも頑張って欲しかったの。ダメだったんなら、ちゃんとヒナにお詫びして。彼氏なんだから。

 ハルはヒナのこと好きなんでしょ?ヒナはハルのこと好きだよ。折角彼氏彼女なんだよ?ハルが告白してきたんだよ、お付き合いしてくださいって。じゃあちゃんとヒナをエスコートしてよ。ヒナの気持ち、受け止めてよ。言ったでしょ、ヒナ、本気なんだよ。

「わ、わかった。じゃあ日曜日」

 うむ。聞いたからね。絶対だからね。

 ハルの席から離れる。後ろから、馬鹿だなーお前って声が聞こえた。ホントだよ。ハルの馬鹿。超恥ずかしかった。

 で、予想通りサユリが笑いをこらえている。サキが何とも言えない苦笑いで、チサトが耳まで真っ赤。もう、全部想定の範囲内ですよ、ええ。

 いいの!ハルとデートの約束したから!


 すっかりヒナの機嫌を損ねてしまった。確かに赤点を取ったのはハルの失態だ。頑張ったつもりだったけど、努力は実らなかった。仕方が無い。

 昔から、あと一歩が届かない感じだ。勉強でも、何でも。自分では頑張ったつもりでいても、結果が伴わなければ意味がない。努力することが大事なんです、なんて言うヤツがいるけど、無駄な努力に何の意味があるのか。やってる本人が一番つらい。特に、結果を欲しがってる人間にとって、その言葉は生きてる価値が無いって宣告しているようなものだ。

 ハルは中学時代、バスケットボールをやっていた。小学校時代からやっていたスポーツだ。人よりも少しはうまいという自信はあった。部活に入って、毎日厳しい練習に臨んでいた。

 だが、身長が伸び悩んでいるということもあって、なかなか頭一つ飛び抜けることが出来なかった。小学校時代の友人たちが、ハルを追い抜いてレギュラーに、スタメンになっていく。ハルは最後まで取り残され、結局、引退までレギュラーの座を得ることは出来なかった。

 努力しても、得ることの出来ないことはある。頑張っても結果が伴わないことはある。

 身長は一五五センチ程度で止まっている。バスケを続ける意思は無くなってしまった。高校に入って、中学時代の部活履歴から勧誘を受けたりしたが、断ってしまった。限界を感じるのはまだ早いかもしれないが、もう、心が折れてしまった。やるならちゃんと極めたい。それが出来ないなら、やる意味を感じない。

 と、言い逃れを並べてみたけれど、それでヒナの機嫌が治るとは思えない。はいはい、悪かったよ。もっと真面目に勉強していれば赤点補習は回避出来ました。ごめんな。

 ヒナの気持ちも解る。付き合ってほしいと言い出したのはハルなのに、彼氏らしいことを何もしてやれてない。デートぐらいすれば良いと、自分でも思う。

 デート、デートね。

 どうすればいいんだ。正直解らない。いや、ヒナと二人で出掛ければ良いんだろ、ってことくらいは理解している。そこまでお子様のつもりはない。

 ただ、ヒナは、どういうデートを望んでいるのか。それが解らない。ハルは、ヒナと一緒にいられれば、実は何をしていても構わないと思っている。朝、二人で登校している時間。あんな感じで、結構満足してしまう。ヒナがハルの横にいて、笑って、楽しそうにしている。うん、それでいいじゃないか。何が足りないんだ?

 恋人みたいなこと、と言われても困ってしまう。何しろヒナだ。今までずっと一緒だった。隣にいた。今更ハルはヒナに何をすれば良いんだろう。

 一応、ハルも健全な男子だ。女の子のヒナに対して、そういう欲求が無い訳じゃない。しかし、ヒナに対しては、どうしてもヒナがどう受け止めるのかを考えてしまう。ヒナはどう思うんだろう。ハルがすることに、ヒナはどう感じるんだろう。そればかりが頭に浮かんでしまう。ハルは、ヒナのことを疵付けたくない。大切にしたい。

 はあ、それじゃダメだ。考えてから行動するんじゃ間に合わない。まずは動かないと。

 昔からそうして来た。とにかく、そうじゃないと追いつけない。いや、そこまでしても、ヒナの背中には届かない。

 小学三年生の展覧会だったか。ヒナのお母さんが急に来れなくなった。

 ハルとハルの母さんが、ヒナと一緒にヒナの描いた絵を見た。とても上手だった。河川敷から見た夕日の絵。ハルは今でもあの絵を思い出せる。ヒナが一生懸命に描いていた。ハルは、ヒナがあんなに頑張っている姿をそれまで見たことが無かった。

 きっと、お母さんに褒められたかったんだろう。ヒナの家では弟のシュウが産まれたばかりだった。ヒナは、シュウにばかり構ってしまうお母さんを、ヒナの方に振り向かせたかった。ハルにもカイという弟がいるから解る。ヒナは、寂しがっていた。

 その話を母さんにしたら、母さんは快くヒナと一緒に展覧会を回ってくれた。でも、やっぱりヒナは浮かない顔をしていた。ハルの母さんでは、ヒナのお母さんの代わりにはならない。そんなことは解っていた。ハルに出来ることは、それしか無かった。この時も、あと一歩が届かなった。

 陽が落ちて、雨が降り始めた。酷い胸騒ぎがした。ヒナのことが心配だった。ヒナはいつもそうだ。一人で何処かに行こうとする。何かをしようとする。ふらふらと一人で行ってしまう。

 ハルは家を飛び出した。じっとしていられなかった。考えていたらダメだ。考えていたら、手遅れになる。ヒナはそうなんだ。ヒナのためを思うなら、考える前に走るんだ。

 降りしきる激しい雨の中。

 土手の下で、一人泣いているヒナの姿を見て。

 ハルは、強く後悔した。間に合わなかったと。どうしてもっと早く走り出さなかったのかと。ヒナを助けてあげられなかったのかと。

 ヒナに駆け寄り、ヒナを背負い、土手を上った。

 間に合わなかったかもしれない。助けられなかったかもしれない。

 でも、ヒナを放っておくことなんて出来なかった。ヒナをこのままになんてしておけない。ヒナはいつもそう。一人で勝手に何かを始めて、失敗して、泣いている。そんなヒナを見たくない。ヒナには、笑っていてほしい。

 小学生のハルが、どうしてそんなことを考えたのかは解らない。それでも、ハルはヒナの身体を背中に背負い、その重さを感じながら考えた。

 ヒナは、ハルが一生背負っていく、と。

 ヒナの重さを、ハルはこの先ずっと背負う覚悟をした。ヒナはきっと、この後も失敗をし続ける、一人で何処かに行こうとする。ハルは、絶対にヒナを一人にはさせない。ヒナの近くにいる。ヒナの隣にいる。ヒナが転ぶ前に、泣く前に、助けてみせる。

 この出来事の前から、ハルにとって、ヒナは可愛い女の子だった。幼馴染で、よく一緒に遊んで、懐いてきてくれる。一人でふらふらするところがあって、危なっかしくて目が離せない。

 ハルとヒナが幼稚園の時だ。お散歩の時間というものがあって、幼稚園の近くの公園に出掛ることがあった。公園には大きめの池があってコイやカメが泳いでいた。

 ヒナは、公園の池が好きだった。お散歩の時間は、いつも池を眺めていた。ハルは他の子と一緒に砂場や、ブランコと大忙しで、ヒナとはあまり接点が無かった。

 ある日のお散歩の時間、ヒナは池の傍で騒いでいた。何事かと思ったら、カメが一匹池から離れたところを歩いていた。ヒナはカメを池に戻したいらしく、頑張ってカメを追いかけていた。

「カメさーん」

 種類にもよるのかもしれないが、カメというのは意外と歩くのが早い。ウサギに比べれば遅いだろうが、遅いもの代表格にされるほどではない。少なくとも、幼稚園児のヒナよりは早かった。いや、やっぱりヒナが鈍臭かっただけか。

 何をやってるんだ、とハルはヒナを放っておいた。そのうち捕まえるか、諦めるだろうと思っていた。ふええー、という泣き声だか何だか判らない声をあげながら、ヒナは池の周りを行ったり来たりしていた。

 お散歩の時間が終わり、みんなで幼稚園に帰ろうと歩いていた。そういえばヒナはどうしただろうと、ハルはヒナを探してみた。

 ヒナがいない。

 先生が集合の確認をした時には、確かにいたはず。ならば、その後にはぐれたんだ。ハルは「先生!」と声をあげて、同時にはっとした。

 カメを追いかけているヒナの姿が脳裏に浮かぶ。きっとそうだ。カメが気になってるんだ。

 ハルは走り出した。後ろで先生が何か言っていたが、聞いていなかった。考える前に走り出していた。悪い予感がする。ヒナは、本当に鈍臭い。

 公園に着いたら、案の定だった。ヒナはいた。

 見事に池にはまって、泣いていた。

 思えば、この時も間に合っていない。池自体は深くもなんともない。幼稚園児が溺れるようなものでもない。ハルはわんわん泣いているヒナの手を掴むと。池の外に引っ張り上げた。服はびしょびしょだ。これは仕方が無い。

 持っている小さなハンカチで、ハルはとりあえずヒナの顔の周りを拭いた。弟のカイの面倒を見ているので、こういうのは慣れている。小さなハンカチは、すぐに泥と水でびしゃびしゃになった。まあ、仕方ない。後は先生が追い付いてきた時になんとかしてもらおう。

 そう思ってヒナの顔を見ると、いつの間にかヒナは泣き止んでいた。ずっと泣かれていても困るので、それは助かる。

「ハルー」

 ヒナはハルの顔をじっと見てきた。その時、ハルは初めてヒナの顔をじっくりと見た。目がくりくりしていて、髪の毛がふわふわで、なんだかとっても可愛い。さっきまで泣いていたので、目の周りが真っ赤だ。きゅって左右に広がった口元にえくぼがあって、ちょっとどきどきする。

 ヒナはまだずぶ濡れのままだったけど、ハルに向かってにっこりと微笑んだ。

「ハルすきー」

 小さな、無邪気な告白。ヒナはこの時のことを覚えていないと言うが、ハルは良く記憶している。ヒナのことを、好きになった瞬間。幼いヒナの笑顔は、ハルの大切な宝物だ。まだ恋とかはよく解らない頃だった。それでも、ヒナのことを好きかと聞かれれば、はっきりと好きだと言えた。子供だったからこそ、臆することなく、包み隠さずに言うことが出来た。ハルは、ヒナのことが好きだ。

 可愛いヒナのことを、ハルは好きになった。母親同士の仲が良いこともあって、ヒナとは一緒にいる時間が多くなった。幼馴染。仲の良い、可愛い友達。

 ヒナはすぐにふらふらと何処かに行こうとするので、ハルはいつも気が気ではなかった。こっちだよって手を引くと、あの笑顔を向けてくる。「ハルすきー」その言葉が心地良い。そういえばいつから聞かなくなったんだろう。小学校に上がったくらいか。ヒナだって女の子だ。流石にいつまでもそんなことは言ってない。

 そして数年後、雨の中で泣きじゃくるヒナをを助けて。ハルにとって、ヒナはただの幼馴染の友達ではなくなった。もうその「好き」は今までの「好き」とは違う。

 ヒナは、ハルが人生をかけて背負う、最も大切な人になった。

 ヒナを守りたい。ヒナを助けたい。

 ヒナはいつもはぐれてしまう。一人で何処かに行こうとしてしまう。ハルは、ヒナを探さないといけない。見つけないといけない。わかろうとしないといけない。

 そうだ。いつだって間に合わない。ハルがヒナの所に駆け付けた時、ヒナは泣いてる。考えている時間は無い。ヒナを泣かせたくなければ、ヒナを失いたくなければ、ハルは走り出さないといけない。

 デート、か。

 考えても仕方ない。相手はヒナだ。ハルのことなんて何でも知ってるだろうし、何処に連れて行ったとしても、きっと喜んでくれる。ハルがヒナと一緒にいられればそれで良いように、ヒナもきっとそれだけで満足してくれる。そうは思う。

 でも、高校生になって、女の子になったヒナを見ると、それだけじゃダメだな、とも思えてくる。ヒナは、ハルの彼女だ。そういう扱い方というものがあるだろう。ハルには全く想像がつかないが。

 やっぱり考えるのはやめよう。考える前に動こう。

 ヒナのことで頭がいっぱいだったが、その前に物理のテストの結果と補習のことをどう親に説明するのか、そっちの方も大問題だった。


 日曜日が来た。来てしまった。決戦は金曜日だっけ。ヒナの決戦は日曜日だ。

 待ち合わせまではまだちょっと時間がある。だから、ヒナは鏡の前で最終調整の真っ最中だ。ハルの彼女として恥ずかしくないコーディネートにしないと。ハルにも、ヒナは可愛い、って思ってもらう。頑張ってるんだよ。

 ハルからは、動きやすい格好の方が良いって言われてた。山でも登るの?って冗談で訊いたら、うーんって。ええ、ホントに登山?初デート登山?ヒナ、山ガールっぽい?

 あんまりいっぱい汗かきそうなのは困るかなぁ。もう夏だし。日焼けも気にしないと。ハルは日焼けしにくいから、そういうの考えないのかな。日焼け止めと制汗スプレー必須。べちゃべちゃで汗臭い彼女なんて、ヒナだってノーサンキュー。

 ハルと私服で会うこと自体は別に珍しくない。ただ、デート、なんだからちょっとした特別感は出したい。いつもと同じヒナ、でも何か違う雰囲気がある。あれ、今日のヒナ可愛い気がする。みたいな。きゃー。

 って言っても、ハルが知らない服なんて持ってないよ。そりゃそうだよ。普段から結構顔合わせるからね。まあ、大体シュウだのカイだのがいるんだけどさ。そういう時は無難なファミリーお出かけスタイルにしてる。この前なんてパーカーにジャージだったわ。あれこそ山歩きスタイルだよね。実際雑木林に突っ込んだし。

 雑木林。誰もいない深い森の中とか。ハルと二人で?ふふ、それはそれで楽しそうだな。ハル、リスが見てるよ、二人のこと。なんて、あはは、ナイナイ。

 そんなに遠出でもないって言ってたし、なんだろう。お散歩かな。ハルと一緒ならきっとなんでも楽しい。そこはあんまり心配してない。ハルはちゃんとヒナをエスコートしてくれる。

 じゃー、さくっと決めちゃおう。ネイビーブルーのガウチョで。これ、この前みんなとボーリングした時に履いてたやつ。あれから一回も着てないし、歩くんならジーパンとかよりもこういう方が楽。それに、ふわっとしてて女の子っぽい。可愛い。

 後は半袖、クルーネックのカットソー。ボーダーかな。夏の普段着って感じだけど、ガウチョと合わせるとなかなかオシャレだ。ぶりっ子してない、綺麗なお姉さん系。外歩きにも対応。素晴らしい。汗対策だけが問題です。

 足元はまあ、スニーカーだろうね。ミュールやサンダルじゃあ、動きやすいとは言えない。んー、ゴムサンダルは動きやすいけど、それはデートの方向性とはちょっと違うかな。服装にも合わせて、ここはやっぱりスニーカー。ボーイッシュかつガーリィ。あんまり可愛いを前面に出し過ぎず、清潔感とさりげない女の子らしさを演出。おお、やるじゃんヒナ。

 ふふふ、ハル、可愛いヒナに驚くぞ。

 そう思って、ふと胸元に視線を落とす。し、下着どうしようか。えーと、そういうこと、無いとは言い切れないし。彼女だし、コイビト、だし?デート、なんだよね。いや、今までだって気を使ってなかった訳じゃないんだよ?ただ、今日は特別だから。うーんと、ヒナ、一体誰に言い訳してるの?

 白のシルク。よし、勝負行きます。こういうのは、見えなくても気合の問題。ヒナが持ってる中で一番高い。肌触りも最高。なんか、着けると力が湧いてくるんだよね。彼女パワー、マックス!

 ショルダーバッグは大き過ぎない、目立たないものをチョイス。中身は制汗スプレーに日焼け止め、タオルハンカチ、虫除け。ははは、ここだけ小学生男子みたい。いっそのことシュウみたいに水筒持ってみるか。小さめのマグボトルは持って行くけど。

 完成、ヒナデートバージョン外歩き仕様。見えないところまでしっかりハルの彼女。ヒナ、頑張った。

 出がけに、玄関のところでシュウがぽかん、とヒナのことを見ていた。ふふん、姉の美しい姿に目を奪われたか。「お母さん、ヒナがヘンだよ」ヘンじゃねーよ。って、どっかヘン?ちょっと、この土壇場で気になる物言い付けないでよ。

 なんか猛烈に不機嫌なまま待ち合わせ場所に向かう。シュウ、覚えてろチクショウ。あんたが将来デートする時、出掛ける寸前になって姉ちゃん意味も無く鼻で笑ってやるんだから。

 よく晴れてる。いい天気。デート日和、で良いんだよね。暑そー、汗大丈夫かなー、って感想しか出てこないんだけどさ。髪がぐしょぐしょになるのが一番困るんだよね。ヒナ、癖っ毛だから。帽子もあった方が良かったかなぁ。

 待ち合わせは、いつも学校に行く時に一緒になるコンビニ。高校生活、ハルとの時間はいつもここから始まる。今日も、ここでハルに会える。そう考えると、とってもお世話になってる。最近ペットボトルのお茶しか買ってないから、せめてあと二年ちょいもってもらうためにも、そのうち高い買い物してあげなきゃだな。

「ハル、おはよう」

 ハルは先に来てた。最近はヒナより早いんだよね。ヒナが早起きしてハルより前に来ると、次の日は必ずそれより先に来てるの。ハル、実は負けず嫌い?

「おはよう、ヒナ」

 ハルはいつも通りな感じ。カーキのカーゴパンツに、Tシャツ。デートだからってキメキメで来られても困るか。うん、ハルはそれで良いよ。ヒナはその方が落ち着く。

「今日はなんか、ちょっと違うな」

 お、良いですよ、ハル。もっと食いついてください。ヒナ、頑張ったんですよ。にっこりと笑ってみせる。ハル、大好き。

「綺麗なお姉さん、って感じだ」

 そういうイメージですからね。へへへ、ハルにそう言ってもらえると嬉しい。良かった。ハル、喜んでくれてる?シュウ、帰ったら泣かす。

「ありがとう」

 スタートダッシュはうまく行ったかな。さて、後はデートプラン次第。どうするのかな。駅?バス停?この辺りだと知り合いに出くわす確率がかなり高くて、ヒナとしてはちょっとご遠慮願いたい。何しろ、今日二人がデートするってことは、クラス中に知れ渡っちゃってるからね。はいはい、ヒナが悪いんですよ。

「ここから少し歩くよ」

 解りました、彼氏様。まずはお散歩。いつもより人目が気になるけど、ハルと二人で並んで歩くのは楽しい。こうやって一緒にいるってだけで、ヒナは幸せ。ハル、ヒナは、ハルのことが好き。

「物理の補習って、どのくらいあるの?」

「あー、一週間だって。最終日にテスト。で、その点が悪かったら追加で補習」

「えー、じゃあいつまで経っても終わらないかもしれないじゃん」

「先生だって面倒臭い、とか言ってたけど、面倒なら最初からやるなよなー」

 くっそ、すだれハゲめ。

 こうやって学校のこととか、毎日の取り留めも無いことをハルと話すのが、ヒナは大好き。ハルと同じ時間、同じ世界を生きてるって感じがする。

 ヒナは、ハルに隠してることがある。話してないことがある。ハルの知らないヒナ、ハルの知らない世界。ヒナは、そんな世界が好きじゃない。ハルと同じ場所に立って、同じものを見て、同じように感じたい。不思議なこととか、神様の力とか、全然興味が無い。必要ない。

 そういった力に助けられることは確かにある。便利に使う自分がいる。それは、自分勝手でわがままだとも思う。

 でも、ハルとこうやって話してると、ハルと一緒にいると、やっぱりこっちの方が良いって、そう考えちゃう。ヒナはハルがいればそれで十分。ヒナはただ、ハルで満たしてほしい。世界なんて、それでいい。

 ヒナの左掌には、銀の鍵が埋め込まれている。勝手に入ってきた、って方が正しい。外からは判らない。レントゲンにだって映らない。ただ、確実にそこにある。

 神様の住む世界に通じる道しるべ。銀の鍵に憑いている神官、ナシュトはそう言った。ナシュト自身も、強い力を持つ神様だ。ただ、ヒナのせいで今はヒナの中に不完全な形で取り込まれてしまっている。

 だって、ヒナにはこんな力、全然必要無い。

 人の心を覗き見る、人の心を操る。その気になれば、自在に人の記憶、思考、感情を思いのままに出来る。それに限らず、世界に存在するありとあらゆる魔術の原理となり得て、ぶっちゃけ出来ないことなんてほとんどない。

 なんだそのチートアイテム。意味判んない。

 ナシュトは本来、この銀の鍵を持ち主が、力を正しく使えるように導く指導者的な役割の神様なんだそうだ。ははあ、それはご苦労様。まあ、ほとんどの場合はダメだろうね。こんな万能アイテムもらっておいて、悪いことに使わない方がどうかしている。

 で、ヒナの場合は、どうかしているの部類だった。だっていらないし。実際気持ち悪い。使ってもロクなことにならない。

 銀の鍵もナシュトも、結局宙ぶらりんのままヒナと共にある。捨てることも出来ない。迷惑はなはだしい限り。

 このことは誰にも言えない。ハルにも言っていない。ナシュトの姿はヒナの他には誰にも見えないし、話したところで信じてもらえる自信がない。頭の可哀想なヒナちゃん、って思われるのがオチだ。

 銀の鍵の力は、ヒナにとってはタブー。出来る限り使わない。中学時代にはそのせいで酷い目に遭った。使い方によっては便利?やってみてから言ってくれ。ホントに、代わってもらえるなら是非。

 そんなもの無くったって、ほら、ヒナは今ハルと一緒に歩いて、とても幸せ。神様ってつまんなそう。好きな人のために一生懸命になることや、好きになってもらって嬉しいって思うこともなさそうだもん。ヒナはそんなのいらない。ハルのためにおめかしして、ハルとデートして、楽しいひと時を過ごす方が、断然興味がある。

 結構歩いたかな、と思ったところで、ハルがようやく足を止めた。やっぱり日差しがきつい。帽子あった方が良かったな。白いの、確か箪笥の奥にしまったはず。

 さて、ハルは今日、ヒナのためにどんなプランを用意してくれたのかな。いつもだったら、ゲーセン?カラオケ?ボーリング?二人でカラオケはまあ、出来ないことは無いけど二人で個室ってちょっとドキドキ。ファミレスでおしゃべりとかでも全然オッケー。あ、ある程度の予算までは全然いけますよ。なんかお母さんがノリノリで五千円くれたし。

 うん、これは予想していなかった。ハルと出掛ける時って、ガヤガヤしてるイメージがあったからかな。遊ぶ、って言うともっとこう、ガッツリ身体とか動かすのかと思ってた。ホント、山登りくらいの覚悟はしてたんだけどさ。

 ハルがヒナを連れてきたのは、自然公園だった。大きな緑が風に揺れて、ざざ、ざざ、って手招きしてる。車の音とか、街の喧騒がほとんど聞こえてこない。蝉の声、微かに、水の流れる音。森のざわめき。こんなところ、近所にあったんだ。

「みんな、あんまりここのこと知らないんだよな」

 ハル、ちょっと楽しそう。そうだね、人の気配自体がほとんどない。静かで、忘れ去られた自然って感じ。ヒナ、よくわからないけどすごく昔のこと、小さな子供の頃のことを思い出しそう。不思議。

 ここは、ハルの秘密の場所なんだって。ハルだって、一人で色々と考えごととかしたい時もある。そんな時、ハルはこの自然公園に来てゆっくりと一周する。心の中にあるイライラやもやもやが、それだけですっきりする。ハルにとって、この自然公園はリフレッシュの場所なんだ。

 照れくさそうに、ハルは話してくれた。鳥の声、蝉時雨。土と緑の匂い。木陰の涼しさ。落ち葉を踏みしめる、優しい感触。

 ハル、ありがとう。

 ヒナ、すごく嬉しい。ちょっとどうしよう、っていうくらい嬉しい。

 ハルは、ヒナにその大事な場所を教えてくれた。連れてきてくれた。ヒナを、ハルの中に導いてくれた。

 ハル、大好き。ヒナは、ハルのことが好き。

 ごめんね。ヒナにはハルに言えないことがあるのに、ハルはヒナに全部見せてくれる。全部開いてくれる。ごめんね、ハル。ごめんね。

 遊歩道を歩きながら、ハルの手をそっと握る。ハルと手をつなぐの、すごく久し振り。ハルはちょっとびっくりしたみたいだけど、すぐに握り返してくれた。ハル、ヒナは幸せ。ハルにこんなに想われて、とても幸せ。

 ハルの手のぬくもり。ハルとつながっている。ヒナは、今ハルと一つになってる。ヒナの居場所。ヒナの全部。ヒナは、ハルとこうしていられて、今本当に、本当に幸せ。

 緑の中で、木漏れ日に照らされて、二人で並んで歩く。

 ハル、これからもずっと、こうやって歩いて行こう。ヒナ、今日のこのデートのこと、忘れない。大好きなハルのこと、ヒナはずっとずっと好きでいる。いつまでも、ずっと。


 木漏れ日の遊歩道を、ヒナと手をつないで歩く。照れてそっぽを向くヒナが可愛い。手を握ってきたのはヒナの方なのに。ヒナの手、柔らかくて、小さい。ハルが昔、ずっと離さないと誓った手。

 ヒナは喜んでくれたみたいだ。良かった。考えることなんて何も無かった。ハルのことをヒナに見せてあげるだけで良かったんだ。ありのままのハル。ヒナのことを、とても大切に思っているハル。

 この道をヒナと歩く日が、とうとう来たという感じだ。自然公園のことは、ヒナにも話したことは無かった。ハルの憩いの場所。がちゃがちゃして騒がしい世界から離れて、自分のことを考える時にやってくる。

 ハルは何も考えていないって、良く言われる。まあ実際、考えるのは苦手だ。考えたって仕方ないことが、世の中多すぎる。

 だからと言って、ハルがいつも何も考えていない、ということは無い。ハルだって、静かに考えたい時がある。例えば、幼馴染の彼女をデートで何処に連れて行けば良いのか、とか。

 ヒナがらみの時は、考えない方が良い。結局その通りだ。ヒナが喜んでくれているのは判る。ハルも、どきどきしている。

 今日のヒナは、会った時から少し違っていた。また違うヒナ。でも、ハルの良く知っているヒナ。どう言えばいいんだろう。ヒナは、ちょっとずつ女の子になってる。

 ハルにとってのヒナは、最初は保護対象だった気がする。なにしろ危なっかしい。今でもそうだ。多分、ヒナはハルに何か隠し事をしている。それも結構長い期間。大きな問題になってないから、まだ爆発していない感じか。

 雨の日にヒナを背負ってからは、ただの保護対象ではなくなった。ヒナは、大切な人になった。一緒に人生を歩く人になった。うまく説明するのが難しいのだが、ハルはヒナから全てを預けられた気がしていた。それは、生涯をかけて大切にしなければならない。簡単に汚したり、傷つけたりして良いものではない。

 高校の入学式で、ハルはヒナを見て胸がときめいた。その時に判った。順番が逆だったんだ。恋をして、その子のことを大切に想って、守ろうとする。そうじゃなくて、大切に想ってきたヒナに、後になって恋をした。なんだか可笑しかった。

 ヒナは、やっぱり女の子になっている。友達で幼馴染のヒナ。それが、今はハルの彼女。恋人。

 五月にヒナに告白した。お互いの気持ちなんて、言わなくても良く判ってた。とっくに知っていた。それはそうだろう。でも、改めてヒナのことを好きだと口にして、ヒナから好きだと言われて、ハルはとても嬉しかった。安心した。ちゃんとつながっている。ヒナは、ハルのところから離れていない。

 女の子のヒナは、幼馴染のヒナとは何かが違うと、ハルは不安だったのだろう。今思い返せばそれが理解出来る。当時は、ただもやもやしていて全然判らなかった。相変わらずふらふらと何処かに行ってしまいそうなヒナを、引っ張って留めておきたいと、そう考えているだけだと思っていた。

 認めよう。ハルは、ヒナに恋している。

 高校に入って、綺麗に、可愛くなったヒナに、ハルは恋をした。今までだってとても好きで、大切にしてきたヒナを、ハルは一人の女の子としても好きになった。今までは女の子じゃなかったのか、とかヒナにツッコまれそうだが、そうじゃなくて、ヒナはずっと、ハルの宝物だったんだ。

 こうして今ヒナと手をつないでいる。昔のハルなら、この手を離さないように、ヒナを何処かに行かせないように、ってそれだけを考えていた。

 今のハルは、それを思うのと同時に、すごくどきどきしている。ヒナを、女の子として、とても強く意識している。

 ヒナ、好きだよ。ハルは、ヒナのことが好きだ。

 ヒナがハルの手を握ってくれて嬉しい。ヒナの気持ちを感じる。ヒナは、ハルのことを好きなんだ。好きでいてくれているんだ。それが伝わるのが、とても心地良い。

 ざざ、ざざ、と梢が揺れる。誰もいない小道。蝉の声がやかましい。変わった声の鳥が茂みから飛び立つ。ヒナがハルの方を向く。頬が赤い。暑いだけじゃない。

 優しく微笑む。「ハルすきー」そんな言葉が頭の中をよぎる。ヒナは、あの頃から可愛いままだ。ハルの宝物。大切な、とっても大切なヒナ。

「ありがとう、ハル」

 とんでもない。お礼を言わなければいけないのは、ハルの方だ。何処かに行ってしまいそうなヒナを、勝手に引き留めていただけだったのかもしれない。ハルがただ、ヒナのことを一方的に保護しようとしていただけなのかもしれない。

 ヒナが、ハルに全てを預けたと、そう感じた時から。ハルは、それをずっと大切にしてきた。それだけだ。

 遊歩道を抜けると、湧水の池がある。夏でも水が冷たい。空気もひんやりして気持ち良い。カルガモのつがいが、のんびりと浮かんでいる。

「カモさんだ」

 ヒナが池に近付こうとする。

「落ちるなよ」

「落ちないよ」

 落ちたじゃん、ここじゃないし、随分前だけど。覚えてないって言ってるのは、頻繁に落ちてるからどの記憶なのか判らなくなってるだけじゃないのか?ヒナは鈍臭いという自覚が無さ過ぎる。

「落ちたら助けてくれるでしょ?」

 いや、その前に落ちるなよ。この年で池に落ちるとか、恥ずかしいってレベルじゃないぞ。

「ハルは心配性だなぁ」

 ヒナの場合、心配し過ぎるくらいで丁度良い。放っておくと何をしでかすか解ったものじゃない。ハルはいつでも、ヒナのことを探している。ヒナが傷つく前に、泣いてしまう前に、ヒナの所に駆け付けたい。

 実際には、あと一歩のところで間に合わない。だから、ヒナが走り始める前に、捕まえておくことが肝要だ。

 ヒナの手を、思わず強く握ってしまう。ヒナはつないだ手を見下ろして、それからハルの顔をを見た。はにかんだ笑顔。可愛いよ、ヒナ。

「もう。大丈夫だよ、何処にも行かないから」

 本当に、そうであってくれれば良いと思う。でも、ヒナはいつもハルの手からすり抜けて、一人で泣いている。ハルは、ヒナを守りたい。泣かせたくない。

 ヒナが、ハルに身体を寄せた。ヒナの匂いがする。握ったハルの手を、腕を、そっと抱き締める。柔らかい感触。ヒナの身体は、ふんわりとして、ハルの腕を包み込むみたいで。ハルは、心臓が激しく暴れ出すのを感じた。

「大丈夫、私は、ハルの所に帰るよ」

 ヒナは女の子だ。良く判った。思い知った。ハルが大切にしてきたヒナは、もうすっかり女の子。ハルの彼女で、ハルの恋人。可愛くて、綺麗で。柔らかくて、良い匂いがして。とっても、どきどきする。

 ヒナの身体を、抱き締めたいと思う。肩を抱いて、こちらに引き寄せたいと思う。大切なヒナにそんなことをしてしまっていいのか、という思いもある。でも、ハルはヒナのことがとても愛しい。ヒナを、自分の腕の中に閉じ込めてしまいたい。

「ヒナ」

 呼びかける。何も言わずにそんなことは出来ない。大切なヒナ。ちゃんとヒナの意思は確認したい。ハルは、ヒナのことを汚してしまうかもしれない。疵を付けてしまうかもしれない。ヒナ、いいのかな。ハルは、ヒナに爪痕を付けてもいいのかな。

 ヒナは、ハルのことを見ていない。

 おかしい。ハルは改めてヒナの様子を見た。ハルの腕をぎゅっと抱き締めている。胸の感触が、正直理性をマヒさせる寸前なほどに気持ち良い。でも、ヒナは明らかに違うことに注意を向けている。何かを見ている。

「ヒナ?」

 もう一度、ハルは普通の声で呼びかけた。それで気が付いたのか、ヒナははっとした表情でハルの方を向いた。

 ああ、この顔は。

「ご、ごめん、何でもない」

 腕も手も放して、ヒナはパッと後ずさった。へへへ、と笑顔を浮かべる。ちゃんと誤魔化せているつもりでいるのだろうか。

 ヒナは鈍臭い。もうちょっと自覚した方が良い。


 夕食を終えて、部屋に戻って。ハルは、ふうっと息を吐いた。携帯の画面を見る。着信は無い。

 あの後、ファミレスでお昼を食べて、穴場的なアジア雑貨の店にヒナを連れて行って、それから軽くお茶をした。ヒナは楽しそうだった。最後はヒナを家まで送って、玄関前で別れた。

 付き合ってから初めてのデートは、うまく行ったと思う。ヒナはとても可愛くて、ハルは一日どきどきさせられっぱなしだった。ヒナの手を握って、ヒナに腕を抱かれて、改めてヒナを自分の恋人として認識することが出来た。

 ヒナは楽しそうだった。ハルも楽しかった。うまくいった。

 ハルはそう思い込もうとしている。恐らく、ヒナも。

 自然公園で、ヒナは明らかに違うことを考えていた。ヒナのあの顔には覚えがある。あれは、一人で何処かに行こうとしている時の顔だ。ハルの知らない何かを見ている顔だ。

 中学の時、ハルとヒナは同じクラスになることは無かった。部活は同じバスケ部だったが、男子と女子で別れていたので、それほど接点は無い。ハルはバスケに注力していたこともあって、あまりヒナのことを意識しなくなっていた。

 そしてそれを、酷く後悔することになった。

 ヒナの様子がおかしいと気付いたのは、中学三年になってからだった。部活でもう自分には芽が無いと諦め始めた時、ふと中学に入ってからあまり意識してヒナのことを見ていないと思った。

 中学生になったのだし、もう子供ではないのだ、という思いもあった。ヒナだって、いつまでもハルに背負われている訳ではないだろう。池にはまって溺れるような年でもない。ヒナには、ヒナの世界がある。ヒナの方から来ない限り、ハルがあまりうるさく干渉するべきではない。

 ヒナは学校内でハルの姿を見かけると、必ず声をかけて挨拶してきた。部活でも、機会があればハルに話しかけてきた。クラスは違ったけど、積極的にハルとの接点を作ろうと努力しているように思えた。

 その時のヒナの顔が、酷くつらそうだったことに気が付いたのは、手遅れになった後だった。ハルは今でも後悔している。もっと早く、ヒナの異変を察してあげるべきだった。ヒナから目を放してはいけなかった。

 中学三年、一学期の最後に、修学旅行があった。定番の京都奈良。二泊三日だった。ハルもヒナも参加した。

 ヒナに元気が無いことに、ハルはようやく気が付き始めていた。小さな頃から、ヒナはハルに挨拶をする時、いつも笑顔だった。それが、いつの間にか失われていた。具体的にいつからなのかは判らない。思い出せない。ハルがヒナのことを見ていなかった間に、何かがあった。

 修学旅行二日目の夜、いつもと違う環境に慣れず、ヒナのことも気になって、ハルは全然眠れなかった。もうとっくに日付が変わった時刻。少し身体を動かして眠気を誘おうと、ハルはこっそりと部屋から抜け出した。

 ホテルの廊下は、しんと静まり返っていた。見回りの先生ももうこの時間では眠ってしまっている。ロビーに自動販売機があったことを思い出して、ハルは足音を忍ばせながらそちらに向かった。

 スリッパで絨毯を踏む静かな音がする。部屋の中にはクラスメイトや先生がいて眠っているのかと思うと、なんだか不思議な感じがした。こうやってみんなで同じところに泊まるなんて、考えてみれば珍しくて貴重な体験だ。

 ヒナもいるんだよな。最近元気のないヒナ。いや、ひょっとしたらずっと元気が無かったかもしれないヒナ。それでもハルの所に来て、一生懸命声をかけてくれていたヒナ。ヒナは、ハルに助けを求めていたのかもしれない。修学旅行から帰ったら、ヒナとゆっくり話をしてみよう。中学に入ってから、ヒナと二人で話をするなんて、そういえばしたことがない。

 ロビーは電気が消えて、薄暗かった。誰もいない。幾つかのソファと、カウンター、電源の入っていない大きなテレビ。自動販売機のブーン、という音が聞こえる。何が売ってるかな、とハルが近付いたところで。

「ハル」

 後ろから声がかけられた。ヒナの声。振り向くと、やっぱりヒナだった。学校のジャージを着て、手を後ろで組んで。

 寂しそうに、笑っていた。

「ハルも眠れないの?」

 何でもないみたいに、ヒナは話しかけてきた。でも、ハルの知っているヒナとは何かが違う。ヒナはこんな顔をしない。こんな声で話さない。どうしてか、ハルは胸がざわついた。

 ヒナはハルのすぐ目の前に立った。自動販売機の光に照らされて、ヒナの顔が白い。ヒナ、どうして泣きそうなんだ。

「ねえ、ハル」

 ヒナが手を伸ばす。左手が、ハルの頬に触れる。冷たい。ヒナの手は、もっと暖かかったと記憶している。ヒナ、何があったんだ。教えてくれ、ヒナ。

「ハルは、ヒナのこと、どうしたい?」

 ヒナの声が、ハルの心をかき乱す。ひんやりとした氷みたいな言葉が、ハルの中に突き立てられる。ハルがヒナに何を望んでいるのか、ヒナは知りたい。ヒナ、可愛い幼馴染。ハルにいつも声をかけてくれる、ハルと一緒にいようとしてくれる。ハルのことを、好きでいてくれる。

 ヒナに望むことなんて、決まっている。ヒナは、ずっとハルの宝物だ。ハルはヒナから、大切な何かを預かった。ヒナの全てを背負うと決めた。ヒナを悲しませたくない。ヒナの泣くところを、見たくない。

 あの雨の日に出会ったあの場所。あの場所で、ヒナと二人で笑顔でいられれば良い。雨なんかじゃなくて、良く晴れた日に。ヒナと二人で、並んで。手をつないで。笑っていたい。ヒナに、笑っていてもらいたい。

 ハルは、ヒナのことが好きだ。ヒナはハルにとって、誰よりも大切な人だ。いつも近くにいて、それが当たり前になって、その価値を忘れてしまいそうだった。ハルは馬鹿だ。ヒナのことを、一生背負うって決めたのに。どうしてヒナのことをちゃんと見てあげなかったんだ。どうしてちゃんとヒナと向き合っていなかったんだ。

 ヒナを探さないと。ヒナを見つけないと。手遅れになる。ハルはいつも間に合わない。ヒナのために走りたい。ヒナを助けたい。ヒナを守りたい。

「ハル!」

 ハルが我に返ると、ヒナがハルに抱きついて。

 泣いていた。

「ハル、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・」

 ごめんなさいを繰り返しながら、ヒナが泣いている。壊れてしまったみたいに、涙を流し続けている。震えるヒナの背中を、ハルはそっと撫でた。

 また、ダメだった。どうしていつも間に合わないんだろう。どうしていつもあと一歩が届かないんだろう。

 ヒナから目を放してはいけないんだ。ハルは常にヒナを探して、見つけて、追いかけていないと。ヒナは一人で何処かに行こうとする。失敗して、涙を流す。そんなヒナを見たくないなら、ハルは常にヒナを捕まえていないと。

 ヒナ。何がヒナをこんなに傷付けたんだ。どうしてハルを頼ってくれないんだ。一人で行かないでくれ。ハルは、ヒナを背負うって決めた。ヒナから大切な何かを預かった。ハルにとって、ヒナは何よりも大切な人。ハルに、ヒナを守らせてほしい。

「ヒナ、ごめん。ヒナを守れなくて」

 ハルは悔しい。大切なヒナに何かがあって、こんなに苦しんで、泣いている。それを、ハルは見過ごしていた。ずっとヒナはハルに助けを求めていたはずなのに。気付くことなんてもっと早く出来たはずのに。

 何が背負うだ。何が預かっただ。何が守るだ。

 何も出来てないじゃないか。ヒナをこんなにしてしまって。ハルは馬鹿だ。一番大切な人だったんじゃないのか。ハルは、ヒナのことが。

 ヒナのことが好きなんじゃないのか。

「ハル、そんなことないよ」

 ようやく落ち着いたのか、涙でぐしゃぐしゃになったヒナが、ハルを見上げていた。ああ、ヒナ。そこには、ハルの良く知っているヒナが。ハルの大好きなヒナがいた。

「ハルは、私を守ってくれた。助けてくれた。ありがとう、ハル」

 ヒナの笑顔。ハルは、ヒナの笑顔を見るのが本当に久し振りだと、ようやく気が付いた。ずっと見ていなかった。ただそこにいることで安心していてはいけなかったんだ。ヒナのことを本当に大切に想うなら、ハルは、常に走り続けていないといけない。ヒナの背中を追いかけ続けていないといけない。

 翌朝、朝食のために生徒が揃ってぞろぞろと食堂に移動している際に、ヒナがハルの方に駆け寄ってきた。

「ハル、おはよう」

 明るい声。眩しい笑顔。ハルは、ヒナを守れたのだろうか。ヒナに笑顔は戻った。でも、ハルの中には暗い澱が残った。

 ヒナと仲良くしていることで、色々と言われることもある。中学生ともなれば、男女関係について不名誉な勘繰りをされることもある。ヒナがそれを嫌がると思って、ハルはヒナに対してそっけない態度を取ってしまっていた。

 そんなことではダメだ。それではヒナは守れない。ヒナを泣かせないなんて、出来るはずがない。ハルは、誰よりもヒナの近くにいなければならない。

 部活を引退した後、ハルとヒナは同じ高校を受験することになった。ハルは、ヒナに一緒に勉強会をしようと持ちかけた。お互い学力的にはイマイチな感じだ。二人でいるには、いい口実だった。

 ヒナから目を離さない。ヒナを一人にしない。

 高校に入ってからも、ヒナは何かを隠したままだ。気付かないとでも思っているのだろうか。ハルはもう、ヒナの小さな変化を見落とさない。お陰様で、あまりに可愛いヒナに改めて恋してしまうほどに。

 先月、補習中のハルのことを待っていたヒナが、突然先に帰ったかと思いきや、泣きながら電話をかけてきた。その時も、ハルは走った。間に合わなかった自分を責めた。

 今のハルは、ヒナの彼氏、ヒナの恋人。もっとヒナの近くにいて良い。ヒナを守れる立場にいる。そのはずだ。

 携帯で、ヒナにメッセージを送ってみた。『今何してる?』応答がない。少し待ってみたが、やはり返事は無い。既読にもならない。

 返事が出来ない理由なんていくらでもある。食事中か、風呂か。でも相手はヒナだ。こんな時どうするべきか、ハルには良く解っている。

「ハル兄さん、何処に行くの?」

「ん、ちょっと走ってくる」

 カイに手を振って、玄関から飛び出す。考えるな。走るんだ。そうじゃなきゃ、あの背中には追い付けない。ヒナの涙は、避けられない。

 星空が広がっている。良い天気だ。ヒナが何処にいるのか。何となく見当はついている。もう何年一緒にいると思ってるんだ。ヒナのことは良く知っている。場合によっては、ヒナ以上に。

 ハルは走り出した。ヒナの所に。もっと速く。もっと速く。

 もっと。


 むかつく。もうホントにむかつく。あー、腹立たしい。

 ハルとの初デート。とっても楽しかった。ハルの秘密の場所の自然公園、謎の雑貨屋さん、レトロでお洒落な喫茶店。いい意味で裏切られ続けて、ヒナもう感動しちゃった。ハル大好き。ヒナ、ハルのことどんどん好きになっちゃう。

 だからこそ、超むかつく。

 自然公園。あの場所はハルの大切な場所。今日初デートして、ヒナにとっても大切な場所になった。二人の共通の大事な場所。もう人生レベルですよ。この後、ことある毎に思い出したりするんですよ。ああ、初めての時はあの場所だったね、みたいな。それがあの自然公園とか、すごい良いじゃん。ハル、グッジョブじゃん。ヒナ、あの時マジでメロメロだったもん。

 それが何?なんなの?あー、思い出しただけでイライラする。そのせいで後の方今一つノリ切れなかったじゃん。バカー。もっと積極的にいっちゃおうか、とか思ってたのにー。

 とりあえず夕食を食べた後、パーカーとジャージに着替える。目立たない方が良いので、またあのオレンジと黒のヤツ。これ以上黒いのは持ってない。動きやすい方が良いし。

 お風呂入る前にコンビニ行ってくる、と言って家を出る。シュウが、今度は無言で見送っていた。おい、絶対今の方が姉ちゃん怪しいだろ。何故何も言わん。

 自然公園までの道のりは携帯で調べなおした。ヒナ、ちょっとだけ方向音痴。ほんのちょっと、ね。右って東だよね、って言って何度か笑われた。えーと、北を向いて右が東。常に右が東って訳じゃない。知ってる。うん、知ってるって。

 あまり目立ちたくないので、夜になってから行くことにした。いくら人気が無いとはいえ、あまり陽の高いうちにやることじゃない。それに、ハルとの思い出を汚したくない。なんなんだ、畜生。

 夜の自然公園は、巨大な怪獣がうおおーって身をよじってるみたいだった。星空をバックに大きな木が風に揺れると、こんなんなるんだね。怖い、というよりはすごい。自然保護区ということで街灯も少ない。人工の光は極力避けるらしい。ああ、携帯忘れてきちゃった。どんだけ興奮してたんだ、自分。

 まあいいや、銀の鍵使うよ。ちょっと今回はね、リミッター外していくから。ヒナ、こんなに頭に来たの久しぶり。

 ナシュトは今回手を貸してくれるつもりが無いらしい。まあそうね、放っておいてもヒナにもハルにも大して影響無いかもだもんね。でもね、ヒナの機嫌は損ねたんだよ?激おこだよ?ムカ着火ファイヤーだよ?

 蝉の声がしない。代わりに、静かな虫の鳴き声がする。今年は蝉少ないのかな。去年だかは夜でもミンミンうるさくて大変だった。自然公園の中が他よりも涼しいっていうのも関係してるのかも。

 場所は判ってる。ずんずんと奥に進む。ハルと二人で歩いた遊歩道。ああ、ハル。ハルと手をつなぐなんてとっても久し振りで、ヒナそれだけでじーんとしちゃった。その後ハルの腕も抱いちゃった。だって我慢出来なくって。ヒナ、ハルのこと大好きだから。

 ハルへの想いが募るほど、イライラ度が上がってくる。ホントにね。なんだかね。

 湧水の池が見える。カルガモさんはもうお休みかな。起こさないようにしてあげたいけど、どうかな。ちょっとだけお騒がせしちゃうかもね。かもだけに。ダメか。

 ごほん。問題はその先だ。低い柵で囲まれた一角がある。小さな立て看板には、「古井戸跡。立ち入り禁止」と書かれた紙が貼り付けてある。そうね、こうなってれば人は近付かないよね。

 ヒナはひょい、と柵を乗り越えた。枯れ葉を踏みつける、がさ、という音がする。腐葉土で足元が柔らかい。これも好都合だった、ということかもしれない。

 ヒナの背後で、何かがぬぅ、と身体を持ち上げた。昼間だと出てこなかった可能性もある。やっぱり夜で正解。ヒナはつまらなそうに振り向いた。

「もうさ、ホントに何なの?」

 自然保護林の木々が不規則に立ち並んでる。その間に、真っ赤な複眼がちらちらと見え隠れしている。節くれだった長い脚が、丸くて太い胴体を中空に支えている。デカいね。ヒナ、その位細くて長い脚に憧れるわ。

 蜘蛛だ。黒くて巨大な、ヒナよりも遥かに大きな蜘蛛が、木の幹に脚を絡ませ、ゆっくりとヒナの方に向かって来ている。赤い複眼が爛々と輝く。捕食者の証である牙が、獲物を求めてがちがちと噛み鳴らされる。

 ハルとの甘いひと時の最中、ヒナはこの古井戸の近くに何かがいることに勘付いた。全くもって知りたくなんてなかった。が、気付いてしまったものは仕方が無い。そのせいですっかり水入りだ。

 それだけでも腹立たしいのに、この場所はハルのお気に入りの場所。そこにこんなモノがいるとか、考えただけでおぞましい。ここはハルの場所だ。お前なんかお呼びじゃない。

 更に言わせてもらえば、ここはもう二人の記念すべき初デートの場所でもある。もうね、アホかと。馬鹿かと。百五十円やるからどっか行けと。

 ヒナの機嫌は最高潮に悪かった。その状態でデートの後半を乗り切るのは非常につらかった。ハルにも悪いことをしたと思っている。本当に、何もかもが台無しだ。

「あんたには恨みしかないよ」

 私怨だけど、私怨で何が悪いか。放っておけばどうせ人に悪さするに決まっている。これは、そういうヤツだ。人に造られた呪い。中から悪意が溢れ返って来ている。ああ、ひょっとしたらこの前の蛇の奴と根は同じかもね。こんだけすごいのに立て続けに遭うのって、そうそうあることじゃないだろうし。

 左手をかざす。そこには銀の鍵がある。呪いは、人が作った複雑な形、模様だ。一見無意味なその模様が、人の悪意を溜め込み、目に見える形で力を吐き出す回路になる。その辺り、ナシュトから耳にタコが出来るくらい講釈された。

 銀の鍵は、その回路を錠前とみなし、鍵を外す。解く。無効にする。だから、銀の鍵を持つ者には呪いの類は一切効果を持たない。呪いとして見えてしまった時点で、意味を成さなくなる。どんな強固な呪いであっても、複雑な回路であっても意味が無い。鍵を開ける。それだけの行為で、呪いは消え失せる。

 ヒナ自身が銀の鍵の使い手として不慣れということもあって、万能というわけにはいかない。それでも、十分過ぎる程に強力だ。ヒナがダメでも、ヒナの身が危険となれば、同化しているナシュトが自己防衛のために参戦してくれる。この手の直接対決において、ヒナが負ける要素はまずない。

 解錠。そのイメージだけで、蜘蛛はあっさりと姿を消した。ふふん、何処の誰だか知らないけど、呪詛返しでもんどりうつがいいわ。人の恋路を邪魔するからよ。

 ヒナはしゃがみこむと、足元の腐葉土をかき分け始めた。多分この辺り。ああー、軍手持ってくれば良かった。なんか虫とかいるし。ちょっと、ナシュト手伝いなさいよ、もー。

 硝子の瓶が出てきた。インスタントコーヒーか何かの瓶だ。大きい口が、きっちりと蓋されている。ガラスの向こうで、もぞもぞと何かが蠢いている。お父さんなら違いの判る呪い、とか言い出しそう。

「蠱毒とか、イマドキ少女漫画でもネタにしないよね」

 瓶の中に複数の虫を閉じ込め、お互いに共食いさせる。生き残ったモノは強力な呪いの力を持つ。古い歴史を持つ呪いだ。シンプルなだけに、今でもこうやって実践する者が後を絶たない。

 ヒナは瓶の蓋を開けると、中身をその場にぶちまけた。多数の死骸に交じって、一際大きな蜘蛛が、草むらの中に逃げ込んでいく。その姿を見送って、ヒナはふぅっとため息を吐いた。

 瓶はどうしようか。持って帰るのもはばかられる。しかし、ここに捨てるというものどうか。何しろ自然保護区を銘打っている場所だ。しばらく逡巡した後、ヒナはぽいっと瓶を放った。ごめんなさい、えーと、公園を管理している人。元々捨てたのはヒナじゃない人です。怒るならそっちの方をお願いします。

 手をはたいて汚れを落とす。うん、これでスッキリだ。ハルはこの場所を安心して憩いの場に出来る。二人のデートの記憶も、綺麗な思い出にしておける。何もかも、これで良し。

「ヒナ」

 ん?

 急に声をかけられて、ヒナは最初ナシュトが話しかけてきたのかと思った。なんだよ、もう終わったよ。少しくらい手を貸してくれても良いじゃんよ。そう言おうとして。

「何やってるんだ、ヒナ」

 声の主がハルだと気付いて。

「ハル」

 ヒナは呆然とした。


 最悪だ。やらかした。ヒナの馬鹿。

 人の気配とか、普段はもっと気を付けてるのに、今回に限って迂闊だった。しかもよりによってハル。こんなところ、絶対に見られたくなかった。

 銀の鍵のことも、ナシュトのことも、ハルにだけは知られたくない。ずっと秘密にしてきた。聞かれたら話す、って言っても、聞かれようの無いことだと思ってた。

 自然公園の奥、小さな東屋で、ヒナはベンチに座ってる。ハルは、ヒナの前で背中を向けて立ってる。ハル、怒ってるかな。怒ってる、よね。ヒナはハルに言って無いことあるから。

「ハル」

 今日のデート、楽しかったんだよ、ハル。ヒナ、一生の思い出だよ。だから、その思い出を綺麗にしておきたかったんだよ。ごめんね、ハル。

「何も訊かないの、ハル?」

 話したくないよ、ハル。ヒナは銀の鍵のこと、誰にも話したくない。特にハルには、絶対に打ち明けたくない。

 だって、胸を張って、ハルには銀の鍵の力を使ったことが無いって、ハルの心を読んだことが無いって、言うことが出来ないんだもん。ヒナは昔、ハルの心を覗いた。人の善意を信じられなくて、ハルもヒナのことなんて都合のいい女の子としてしか見てないって、そう疑ってしまったから。

 すごく後悔した。ハルはヒナのこと、宝物みたいに大切に想っていてくれてた。悪意を持っていたのはヒナの方だった。ハルの想いは、曇りの無い善意だったのに。ヒナは、ハルのことを汚い人間だと思ってしまっていた。

 そして今、そのことをハルに知られたくないって、また後悔している。ハルには話したくない。話せない。

 ハルはきっとヒナを許してくれる。それがつらい。ハルはヒナのこと、とても大切にしてくれている。ヒナのことを責めたりしない。ヒナのことを信じてくれる。ヒナは、ハルを疑って、裏切ったのに。ヒナは、そんな自分が許せない。

 もう嫌だ。こんな力、銀の鍵、ナシュト。全部捨ててしまいたい。ヒナにはハルがいてくれればいい。ハル以外、何にもいらない。それなのに、余計なものばかり見えて、余計なものばかり聞こえて、振り回されて。ハルのこと傷付けて。ヒナ、自分が何やってるんだか判らない。

 人の心が読めるなんて、気持ち悪い。人の心が操れるなんて、胸糞が悪い。そんなことしても何も良いこと無い。嫌なことばっかり。ヒナはただ、ハルと一緒にいたいだけだよ。こんなのホントにいらないよ。

 ごめんね、ハル。ごめんなさい。

「ハル」

 信じて、ハル。ヒナは、ハルのことが好き。このことだけは本当。ヒナはハルに話してないこと、確かにあるけど。

 でも、ハルのことを好きだっていう気持ちだけは、嘘偽りない本当の気持ち。だから。

「いいよ、ハル。何でも訊いて。私、何でも話すから」

 だから、ヒナのこと嫌いにならないで。ヒナを置いていかないで。ヒナを捨てないで。

 ハル、お願い。

 ヒナ、ハルのこと、大好きなの。お願い。

「訊かないよ、ヒナ」


 ヒナは隠し事をしている。そんなことはもう判ってる。

 今日、ハルが間に合ったのかどうか、それは判らない。ただ、少なくともヒナは泣いていなかった。なら、それで良い。

「ヒナが話したくないなら、訊かない。話したくなった時に話してくれればいい」

 ハルは、ヒナの泣いている姿を見たくない。ここでヒナを問い詰めて泣かせてしまうなんて、それこそ本末転倒だ。ヒナが話したくないということを、どうして無理に訊くことが出来るだろう。

 誰にだって話せないことぐらいある。ハルだってそうだ。そんなことで悩んだ時は一人でここに来た。こんな時間にヒナがここにいたことは驚きだが、きっとヒナにはヒナの事情があるんだ。

 ハルに話せない事情。それがなんなのかは良く判らない。でも、ヒナの様子を見ていると、それはとても大きくて、つらいものに思える。ヒナがたった一人で何かを抱えて苦しんでいるのだとすれば、それはハルにとっても苦しい。

「ただ、一人で抱え込んで、一人で走り出すのはやめてほしいかな。ヒナが泣いてるところ、見たくないんだ」

 本当に、それだけだ。

 ヒナは、ハルにとって大切な人だから。ハルはヒナを泣かせてしまうことが何よりもつらい。いつも一人で何処かに行ってしまうヒナを、ハルは追いかける。ヒナが泣き出す前に、その身体を抱き締めたい。ヒナが傷を負う前に、ハルが身代わりになりたい。

 ハルだって男だ。女子高生になったヒナを見て、ときめいて、正直に言えば抜いたこともある。でも、その後はいつも酷く後悔した。ハルは、ヒナをどうしたいのか。安易に汚してしまって良いはずがない。ヒナは、ハルの宝物。その想いはずっと変わらない。

 ハルは、ヒナのことが好きだ。いつかは、ヒナに疵を付けることがあるかもしれない。でも、それは今じゃない。今は走る。ヒナを泣かせないために、走り続ける。

 ヒナの方を振り返る。ああ、やっぱり泣かせてしまった。ハルは馬鹿だ。泣かせたくないなんて言って、大切なヒナを自分で泣かせてしまうなんて。

「泣かないで、ヒナ。大丈夫、俺は、ヒナのこと、信じてる」

 ヒナのことは良く知っている。きっと、ヒナはハルのために苦しんでいる。見ていれば判る。ヒナはそういう子だ。昔から、ずっとそうだった。

 ヒナがここにいたのも、きっとそう。ヒナは、ハルの何かを助けてくれた。それが何かは判らないが、ハルには不思議と確信があった。ヒナ、ありがとう。

「ハル」

 大丈夫、ここにいる。

「ハル、ありがとう」

 やっと笑ってくれた。ヒナには笑顔が一番似合う。ハルは、ヒナの笑顔が大好きだ。


 ありがとう、ハル。

 ごめんね、ハルに話すことが出来なくて。ヒナは、やっぱりこの力のことは、自分で解決したい。

 一人で抱え込んでしまってるけど、ヒナ、負けたくないんだ。銀の鍵とか、神様とか、意味わかんない。そんなもの必要無いって、ヒナ自身が証明してやりたい。

 ハル、ヒナは、ハルのことが好き。これだけ判ってもらえてるなら、信じてもらえてるなら、それで良い。

 ねえ、ハル。

 ヒナは、ハルのこと、すごく好きなんだよ。

 ハルは男の子なのに、あんまりヒナに迫ってくれないから、今日も頑張ってみたんだけど、どうだったのかな。夏休み、もうちょっとアタックしてみようかな。

 ハル、ヒナは別に、ハルにされて嫌なことなんて何もないんだよ?

 もっとヒナのこと、好きにしても良いんだよ?お姫様みたいに大切にしてくれるのも、それはそれで嬉しいんだけど。

 ヒナには、夢があるんだ。叶えたい、夢が。


 ごめんな、ヒナ。

 話したくないことを無理に訊こうとは思わない。ヒナが泣いてなければそれで良い。

 隠し事、あるって認めてるようなものだな。まあ、ヒナらしいと言えばヒナらしい。ヒナは鈍臭いって自覚を持った方が良い。

 ハルはヒナのことが好きだ。だから、ヒナのことは信じる。大切にする。

 ヒナは、本当に可愛くなった。

 今日一緒に歩いて、本当に胸が高鳴りっぱなしだった。ふとした一瞬に見せる表情、仕草、全てが眩しくて。女の子のヒナといると、自分が抑えられなくなりそうになる。

 ヒナは、女の子なんだな。

 ヒナのこと、疵付けたくないって、そう思ってる。

 思ってるんだけど、ヒナが近くにいるとそれだけで、ヒナの身体に触れたくなる。抱き締めたくなる。そのまま、奪いたくなる。

 ヒナを悲しませたくないし、苦しませたくないから、いつも我慢してる。

 ヒナ。

 いつか、こんな罪悪感なんて消えてしまうような日が、来るのかな。それは嬉しいのかな、それとも。


 星空の下を、二人で歩く。

 虫の声。ざわめく梢。微かな水音。夜の自然公園は静かなようで、実はとても賑やかだ。

 空には、木の葉の隙間から無数の星がきらめいて見える。遊歩道は、昼間に歩いた時とはまるでその表情が違う。ひんやりとして、火照った心が冷まされていく。

 つないだ手から、体温が伝わってくる。暖かい。気持ちが伝わる。大切だという想い。好きっていう感情。

 歩幅が驚くほど短い。ずっとこのまま、歩いていきたいから。この道が終わらなければ良いのに。いつまでも一緒に、こうしていられれば良いのに。

 不思議だ。長い間、本当に長い間近くにいたのに、こんなに近くに感じたことは無い。もっと身体を寄せ合ったこともあるのに、手をつないでいるだけの今の方が、ぐっと距離が近い。間違いなく、今までで一番近い。

 心が触れている。それが判る。通じ合うって、こういうことなんだ。

 心なんて読めなくていい。そんな必要なんてない。だって、ちゃんと判るから。そこにいるって、いてくれるって、しっかりと判るから。

 顔を合わせて笑う。そうだ。こうやって手をつないで、お互いに笑いたかった。ほら、とても幸せだ。こんなに素敵だって思える。愛しいって感じる。

 好きだよって、言葉にして伝える。言葉なんてなくても判るけど、言葉にすることで、絆は強くなる。硬くなる。誰にも負けなくなる。二人の想いは、絶対に負けない。

 二人が歩いてきた道は、間違ってない。ちゃんとお互いに繋がっている。一つになって、明日に続いている。そう信じられる。諦めないで歩いてきたからこそ、信じることが出来る。

 人の心、魂の座が頭の中にあるのなら。

 それが近い程、人と人との距離は、もっと短く出来るのかもしれない。

 だから、頭を近付ける。顔を寄せる。

 そっと目を閉じる。

 そして。

 二人は、初めて恋人のキスをした。


 小学校の卒業式が終わって、ヒナはハルと一緒に土手の上の道を歩いていた。

 謝恩会だなんだってわぁわぁやってたけど、ヒナはあんまり興味が無かった。どちらかというと父兄がお酒を飲んで盛り上がっている感じ。主役不在のお祭り騒ぎだ。

 そんな訳で、ハルに誘われてさっさと出てきてしまった。まあ、ハルが誘ってくれなければ、ヒナがハルを声をかけてたと思う。そのくらいつまらなかった。それに。

 ハルと二人でいられる時間が欲しかった。

 同じ公立中学に進むとはいえ、一応小学校卒業っていう節目だから。それなりに感慨はある。別に卒業式で感極まって泣いちゃったり、とかは無かったけど。

 ハルと一緒に小学校を卒業して、ハルと一緒に中学に入るってところに、ヒナは意義を感じる。ハルと同じ道を歩いている。同じ世界を生きているって感じがする。でもなんかちょっと恥ずかしいし、重いからそんなことは口にしない。

 ハルはヒナと仲良くしてくれる。ヒナのことを悪くは思ってない。と思う。ううん、多分だけど、ヒナのこと、好きだと思う。バレンタインのチョコは毎年受け取ってくれるし、ホワイトデーにお返しも欠かさずくれるし。女子だからって、ヒナのこと邪険にしないし。むしろ優しくしてくれるし。

 ヒナのことを助けてくれたあの日から、ヒナはハルのことを特別に意識している。この土手の上を歩くと、嫌でも思い出す。色々恥ずかしい。ヒナにとっては宝物みたいな素敵な思い出。

 ハルは、あの日のことどう思ってるのかな。

 ヒナは、すっごく嬉しかった。後で何度もお礼を言ったけど、ハル、あんまりはっきりとは話してくれないんだよね。しつこすぎるのも迷惑かな、って思って言い過ぎないようにはしてる。ヒナ、ハルのこと好きだから。好きになっちゃったから。

 ハルの気持ちがわかればなぁ、って思わないこともない。せめて、ヒナのこと好きなのかどうか、それだけでもはっきりすれば、ちょっとは満足出来るかなぁって。でも、そんなのきっとつまんない。ヒナは、自分の力でハルを振り向かせたい。ハルに、そのままのヒナを好きになってもらいたい。その方が、きっと幸せ。

「なんか、中学って言ってもあんまりパッとしないよな」

 ハルが言いたいことは解る。ヒナたちの小学校の六年生は、みんな同じ中学に進む。私立に進学する子や、引っ越しとかで転校する子を除けば、ほぼフルメンバーがまた顔を合わせることになる。

「南小学校の子も来るよ」

「あー、あいつらうるせぇんだよなぁ。めんどくせぇなぁ」

 他の学区と一緒になって、中学は大所帯になる。クラスの数も増えるだろうし、ハルとは同じクラスになれないかもしれない。それはちょっとヤだな。ハルと疎遠になっちゃって、ハルにヒナのこと忘れられちゃう、とかあると、ヒナはすごく悲しい。

 告白かぁ。

 ヒナがハルのことを好きってことは、女子の間ではそれなりに有名になってる。まあ、幼馴染だし、ハルとまともに話す女子ってヒナしかいないし、毎年バレンタインチョコとか渡してれば、自然と噂にはなる。ヒナ的にはバレちゃっても別にどうってことなかったし、むしろ既成事実化されて全然問題なかった。ハルが嫌じゃなければ。

 卒業式の日、好きな子に告白するかどうかがちょっと話題になった。みんな中学が同じとは言っても、大きな変わり目の行事であることに変わりはないから、これに便乗して、って感じだ。ヒナも、ハルに告白するの?っていっぱい訊かれた。

 ヒナが、ハルに好きだよって言ったら、ハルはどう思うのかな。ハルは何て言ってくれるのかな。ハルのこと、すごくすごく好きなんだけど、ハルはヒナのそんな気持ち、どのくらい解ってくれるのかな。

 二人の関係が壊れちゃうとか、あるのかな。ハルは、実はヒナのことなんて特別でも何でもなくて、仲が良い友達の一人くらいにしか思ってないとか。たまたま友達の一人が女の子だった程度とか、そんなこと、あるのかな。

 ううん、そんなことはない。ハルはヒナのこと、好きだよ。ずっと、好きでいてくれてるよ。だってヒナ、ハルのことこんなに好きだもん。ハルがいてくれないと、ヒナどうしていいか判らない。ヒナは、ハルに全部預けたまんま。ヒナの全ては、ハルのところにある。

 好きって、言ってみようか。ねえ、ハル。ヒナ、ハルのこと、好きだよ。ハルのこと、大好き。

 あのね、ヒナ、実はハルの・・・

「ヒナ」

 ハルがヒナの名前を呼んだ。びっくりして顔をあげると、ハルが笑ってた。六年生のハル。来月には、もう中学生のハル。少し大人っぽくなって、男の子って感じで、ヒナから言わせればとってもカッコいいハル。

 え?ハル、ひょっとして、ヒナに告白とかするの?ヒナのこと、好きだって言ってくれるの?もしそうなら、ヒナどうしよう。ヒナもハルのこと好き。ええっと、それで、どうなるの?どうなっちゃうの?その先のこと、何にも考えてなかった。ええ?えええ?

「中学に入ってからも、よろしくな」

 あ。

 うん、そうだね。

「うん、よろしくね、ハル」

 ヒナ、意識し過ぎてた。ハルは、これからも一緒にいてくれる。一緒にいようって、言ってくれた。そうだね。好きとか、そんなこと伝える前に、まずはそっちだよね。

 ハル、ヒナはハルのこと、好き。この気持ちは、多分ずっと変わらない。だから、ハルとのつながりを失くさないことが、今は一番大事。

 中学に入ってもハルと一緒。大好きなハルと同じ学校。まずはそれが大切なこと。

 いつかは、ヒナが、或いはハルが告白して、二人は恋人になったりするのかな。なれるのかな。ヒナはそうなりたい。ハルと手を繋いで、肩を寄せて歩きたい。ハルともっとくっついていたい。なんかエッチな感じがするから、こういうことは人には言えない。

 でも、そうしたいんだ、ハル。ヒナ、そうなりたいんだ。

 ハル。

 ヒナ、ずっとハルのことを好きでいられたら、ハルのお嫁さんに、なれるかな?


 幼稚園の卒園式。みんなで歌をうたって、写真を撮って、お世話になった先生に挨拶をして。

 ハルも、ヒナと一緒に幼稚園を卒業する。大好きだった先生にお別れして、最後に園庭で遊んだ。ヒナが砂場に大きな山を作ると息巻いていたので、ハルはそれを手伝うことになった。

 プラスチックのバケツに水を入れて運ぶ。水で固めて土台をしっかりさせる。卒園式の日にこれだ。ハルのお母さんも、ヒナのお母さんもすっかり呆れ顔をしている。でも、最後の日だから、大目に見てくれた。

 掘って、積んで、掘って、積んで。山が大きくなる。ヒナの身長と同じくらいの高さにしたかった。ヒナの喜ぶ顔が見たかった。ヒナは、笑顔が一番可愛い。「ハルすきー」って言ってもらいたい。

 ヒナがたまにずっこける。ばっしゃーん。飛び散る水、砂、泥。ハルが駆け寄って助ける。その日、ヒナは泣かなかった。どうしても山が作りたかったらしい。変なところで根性がある。

 他の子たちがわらわらと寄ってくる。大きい山を作る。皆で盛り上がって、気が付いたら十人を超えていた。好き勝手に騒ぐ子がいたり、中には壊し始める子がいたりと混沌とした状況の中、ヒナは黙々と砂を積んでいた。ヒナがそこまでして作りたいのなら、とハルも一生懸命山を作り続けた。

 幼稚園にいる間、ヒナはハルに良く懐いてきた。池に落ちたのを助けた時から、ハルはヒナのお気に入りにされたらしい。まあ、それはそれで構わなかったが、問題が一つ。ヒナは、鈍臭かった。

 転ぶ、ぶつかる、道に迷う、忘れる。正直扱いに困る感じだ。その度に、ハルはヒナを助けに行く。腹を立てることもある。ホントにもう、コイツは。泣いているヒナを助け起こすと、ヒナはあの笑顔をハルに向ける。「ハルすきー」もうこれで全部チャラだ。ヒナはずるい。可愛い。

 幼稚園でお出かけの時は、もう誰に言われるでもなくハルがヒナの手を握った。そうしていないと、結局二度手間だった。ヒナがはぐれる、ハルが探しに行く、泣いているヒナを見つける、手を引いて合流する。だったら最初から手をつないでおけと言う話だ。

 ヒナの手を引くのは、ハルの役目。ハルはそう思っていた。

 ヒナは笑顔で「ハルすきー」と言ってくれる。それを、他の誰かに言ってほしくなかった。ヒナの笑顔と、ヒナの言葉を、ハル一人のものにしておきたかった。

 だから、ちょっとしたいさかいが起きたこともあった。ヒナはハルのものだ。本当に馬鹿らしいが、そんなことで喧嘩をしたことがある。ヒナはあわあわして、鼻血を垂らしたハルにしがみついてわんわん泣いた。その時のヒナの泣き顔を見て、ハルはとても苦しかった。こんな喧嘩はもうしないとヒナに約束した。

 ヒナの方も、その後少し態度が変わった。他の子と遊ぶ時、少し躊躇して「ハルがおこるから」と言うようになった。余程ハルの喧嘩がこたえたらしい。後になってヒナに聞いてみたら、真っ赤になって「知らない、覚えてない」と怒られてしまった。

 砂山作りはかなりの時間を要した。園児たちも途中で飽きたり、時間が無くなったりで抜けていき、最後には結局ハルとヒナだけが残った。もう卒園式の片付けも終わって、そろそろ幼稚園を閉めよう、という頃になって、ようやく山は完成した。

 大きな砂山を見上げて、ヒナは満足そうだった。ハルも、なんだかやり切った気分だった。

「ハル」

 ヒナがハルの手を握った。

「ヒナ、がんばった。ヒナ、さいごまでやったよ」

 ヒナは、最後までやり遂げたかったんだ。自分の力で、諦めずに最後までやりたかった。そして、実際にやり遂げた。

 ヒナの目に涙が浮かんでいた。いつもの、失敗して泣いている涙じゃない。ヒナは、嬉しくて泣いている。ハルも嬉しかった。ヒナと一緒に、最後まで頑張った。二人で、最後までやったんだ。

 山の前で、並んでピースする。お母さんたちが写真を撮る。とても誇らしかった。ヒナが、あの笑顔をハルに向ける。「ハルすきー」ハルにとって、これ以上に嬉しいご褒美は無い。

 二人で幼稚園の外に出て、ヒナのお母さんが車を取りに行っている間、ヒナがハルに訊いてきた。

「幼稚園のつぎって、小学校?小学校のつぎは?」

「小学校のつぎは中学校だよ」

「中学校のつぎは?」

「高校だよ」

 人によっては違うという話だが、まあほとんどの場合はそれで良いはずだ。

「高校のつぎは?」

「大学かな」

 これも人によっては違うかもしれないが、一般的にはそうなる。

「大学のつぎは?」

「えーと、大学院?」

 確かその話は元々ヒナに聞いたはずだ。ヒナのお父さんは大学院を出ているとかなんとか。大学院は大学を卒業した後に入るところで、ヒナのお父さんは頭良いんだよ、とか。ヒナ自身がその話を忘れていてどうする。

 そこまでハルの答えを聞いて、ヒナはぶぅ、と不機嫌な顔をした。

「うー、つまんない」

 そう言われてもハルは困ってしまう。答えを間違えたつもりもないし、ヒナが何を望んでそんな質問をしてきたのかも判らない。これではハルがただの一方的な訊かれ損だ。

「何がつまんないんだよ」

「だってー」

 ヒナはふくれっ面でハルの顔を見つめてきた。

「それじゃあ、ヒナはいつハルとけっこんできるの?」

 ハルはどきっとした。

 ヒナが真剣な目を向けてくる。そんなことを考えていたとは、想像もしていなかった。この話も、後でヒナに聞いたら「知らない、記憶にない」と強く否定された。

 でも、ハルは良く覚えている。子供の言うことだし、深い意味なんてない。好意を持つ相手に対する、無邪気な考えだ。

 ハルは、ヒナのことが好きだ。だから、その質問にも真っ直ぐに答えた。

「いつか、おとなになったらけっこんするよ。そのときまですきだったら、かならず」

 ハルの答えに満足したのか。

 ヒナは笑った。ハルの大好きな笑顔。ハルの好きな、眩しいヒナ。そして、あの言葉。

「ハルすきー」


 車の助手席で、ハルはじっと自分の掌を見ていた。ついさっきまで、ヒナが掴んで離さなかった手。まだヒナがそこにいて、ハルの手を握っているみたいだ。

 雨の中、自転車で土手から転落したヒナを助けて、お母さんの運転する車で自宅まで送ってきた帰りだ。雨はまだ降り続いている。ワイパーが忙しく行ったり来たりを繰り返している。

 ヒナは、ハルと一緒にいたいと言っていた。ヒナの部屋に連れ込まれて、しばらく二人だけの時間を過ごした。小学三年生の、小さな想い。言われてしまえば、それだけのことかもしれない。

 でも、ヒナのあの顔は忘れられそうにない。幼稚園の時とは違う、暖かい笑顔。ヒナの部屋で、ハルはヒナから何かを受け取った気がした。ヒナは、確かにハルに何かを預けた。それが何かは解らない。とても大切で、失ってはいけないという以外には、何も。

「ハル、あんたどうすんの?ヒナちゃんのこと?」

 運転しながら、お母さんが訊いてきた。

「どうするって?」

 お母さんはハルがヒナを背負って帰って来た時、何も言わずに手を貸してくれた。ヒナの様子を調べて、着替えさせて、車で病院まで運んでくれた。お母さんは凄い。いつもハルの考えを察して、すぐに動いてくれる。ハルが何も言わなくても、どうするべきなのか常に先回りして教えてくれる。

「あんなに慕われちゃってさ。ハルはヒナちゃんをずっと背負っていくのかい?」

 ヒナのことを、背負う。

 土手の下で泣いているヒナを見て、ハルは間に合わなかったと後悔した。怪我をしたヒナを背負って、自分は一生ヒナのことを背負うと決めた。

 そうだ、覚悟なんて、もうとっくに出来ている。

「そうするつもりだよ」

 そうじゃなきゃ、こんなこと出来なかった。ヒナの重さを背中に感じて、ハルは家まで歩いた。ヒナの手を握るのは、ハルの役目。ヒナは、ハルのものだ。そんな想いが、ずっと心の中で暴れていた。

 ハルはヒナを助ける。そうすれば、ヒナはきっとまた笑ってくれる。思い出の中にある、ヒナの笑顔。懐かしい言葉。小さな約束。ハルは、ヒナのことが好きだ。

 ハルに出来る覚悟なんて、たかが知れている。子供の言うことだ。すぐに消えてしまうような、他愛もない口約束でしかないのかもしれない。

 それでも、ハルの中には、ヒナから預かった何かがある。これを失くさないためにも、ハルはヒナを守り続けたい。追いかけ続けたい。ヒナのことを、人生をかけて背負いたい。

 ヒナのことを、好きでい続けたい。

「そうか。そりゃ大変だ」

 お母さんは笑った。肯定も否定もしない。ハルが取るべき道は、ハルが決めるべきだ。そして、ハルは既に道を決めていた。口出し出来ることなんて何も無い。

「でも、それならハルの方がしっかりしないとね」

「なんでさ?」

 転んで泣くのは、いつもヒナの方だ。ヒナは鈍臭い。しかもその自覚が無い。

「ヒナちゃんは可愛いからね、ライバルが多いよ」

 言われてから気が付いた。そうか、ヒナの気持ちがあるんだ。ハルが勝手にヒナのことを守るとか、ヒナはハルのものだとか、そんなことを言っていてもダメなんだ。

 ヒナの傍にいるために、ヒナの隣にいるために、ハル自身も頑張らないといけない。ヒナに選ばれるために、認められるために。ヒナに、好きでいてもらえるために。

「まあ頑張んな」

 大切なヒナを守るために、ハルは何をすれば良いだろう。ヒナが泣いてしまう前に、どうすれば間に合うのだろう。ハルはまた、自分の掌を見た。ずっと手をつないでいられれば、それが一番確実なのに。ヒナの手を、ずっと離さないでいられれば。

 車の外は強い雨だ。雨なんて関係ない。その気になれば、ハルはヒナのところに走っていく。誰よりも速く。早く。


 ヒナを家まで送って、玄関の前で別れる。今日二回目だ。

 二回目だけど、今度はとても名残惜しかった。「また明日」数時間後には会えるのに、今の別れがつらい。ヒナの手が離れる。ヒナの笑顔。小さく口が動いている。「ハル、好きだよ」ハルも、ヒナのこと、好きだよ。

 ドアが閉まるまで見送って、それから歩き始めた。今日のことを思い返す。

 ヒナの唇は、とても柔らかかった。幼稚園の頃、何かのごっこ遊びでヒナがハルのほっぺにチュウをしたことはあった。その時も思わずのけぞるくらいビックリしたが、今回の衝撃はそれを遥かに上回る。ヒナとのキスは、それくらい気持ち良かった。

 ヒナはハルに完全に身体を任せていた。ハルにもたれ掛って、されるがままに抱き締められた。顔を近付けたら、目を閉じて受け入れてくれた。唇が触れた後も、そのままハルにずっと合わせてくれた。そのせいもあって、随分と長い間唇が触れていた。

 柔らかくて、暖かくて、しっとりとしている。ヒナは全部の力を抜いて、ハルが自由にヒナの唇を求められるようにしてくれていた。微かに湿って、軽く開いた唇は、ハルには物凄く刺激が強かった。

 放っておけばずっとそのままで、理性から何から全部吹き飛んでしまいそうだったので、ハルは慌てて顔を離した。唇が未練がましく貼りついている。意図せずに、ちゅっ、という音がする。ハルは背筋がぞくりとした。ヒナはそんなハルを見てくすりと笑うと、ハルの肩に顔を乗せてきた。

「ハル、少し背が伸びたね」

 確かに、高校に入って身長が伸び始めていた。ヒナとあまり変わらなかったのが、今では目線の高さが違ってきている。ヒナが縮んでいるということは無いだろうから、やはりそれなりに伸びたということか。

「良かった。これ以上差がついてからだったら、首が痛くなるところだった」

 まあ、確かにそうかもしれない。冷静にそう考えたところで、ハルはヒナの言葉の意味をどう解釈するべきか迷った。

「ハル」

 ヒナがハルの身体をぎゅうっと抱き締めた。暖かい。柔らかい。すごく、気持ちいい。

「素敵なファーストキス、ありがとう」

 お礼を言わなければいけないのはハルの方で。

 しかも、ちょっとご褒美のレベルが高すぎて、処理が追いつかない状態だった。

 昔から好きで、きっとお互いに好きだったという割には、ファーストキスなんて今更だったのかもしれない。ひょっとしたら、ヒナはずっとハルのことを待っていたのかもしれない。そんなことも思ったが、ハルはそれでも悪くないと思い直した。

 ヒナはハルの大切な人だ。大事に想ってきて、それが彼女になって、恋人になって。こうしてお互いに好きだって言えるようになった。それ以上に望むことなんてない。ハルは、ヒナのことが好きだ。

 今なら、胸を張って言える。ヒナは、ハルのものだ。ヒナはハルが守る。ヒナを泣かせたりなんてしない。

 ヒナはハルの素敵な恋人。ずっと好きだった。ずっと大切にしてきた。好きだって言って、付き合って、恋人になった。ハルは、ヒナのことをもう離さない。これからも、ヒナのことを好きでい続ける。ずっと。

 顔をあげると、星空が広がっていた。小さなきらめきが、こんなに眩しい。星空の下で、二人は結ばれた。この星の光を、ハルは忘れない。二人が初めてキスした日の、この空を忘れない。

 ヒナはきっと、ハルにまだ何かを隠している。ハルに黙って、何かをしようとする。転びそうになる。

 そうなった時、ハルはヒナを探さないといけない。見つけないといけない。追いかけないといけない。ヒナが泣き出す前に、ヒナのところに辿り着かないといけない。

 ならば、追いかけ続けよう。ヒナを守るのは、ハルの役目なんだから。考える前に走り出そう。そうでなければ、ヒナの背中には追い付けやしないのだから。

 知らない間に、ハルは走り始めていた。じっとなんてしていられなかった。ハルは、ヒナのことが好きだ。この気持ちを失くさないためにも、ハルは走り続けていないといけない。

 ハルに出来ることは、走ることだけだ。走って、誰よりも早くヒナを助けたい。ヒナのもとに駆け付けたい。ヒナを守るのはハルだって、ヒナに認めてもらいたい。あの笑顔。あの言葉。ずっと好きだったヒナとの、小さな約束のために。

 この星空を失くさないために。ハルは走る。

 もっと速く。早く。

 行こう、ハルの大好きなヒナの笑顔のところへ。

 たとえ星が落ちたとしても、ハルはきっと追い付いて、拾い上げてみせる。ヒナを泣かせたりなんて、絶対にしない。

 そう、誰よりも早く。何よりも速く。


 流れ星よりも、はやく。

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