第2話 弟のジジョウ
ヒナが八歳、小学三年生の時。弟のシュウが産まれた。
ヒナのお父さんは仕事が忙しくて、いつも出張で家にいない。優れたエンジニア?だかなんだか。お父さんがスゴイのは嬉しいんだけど、家にいてくれるお父さんの方が、ヒナは好きだった。
シュウが産まれたら、家の中にはお母さんと、ヒナと、シュウの三人になった。赤ちゃんのシュウに、お母さんはかかりっきり。ヒナはもう三年生だから、なんでも一人で出来るって、そう思われてたのかな。
展覧会の日、午後から強い雨が降り始めたあの日、ヒナは寂しさに耐え切れなくなって家出した。
雨の中、黄色い雨合羽と、ピンクの長靴を履いて、自転車に乗って走り出した。何処かに行ける訳じゃない。何かが出来る訳じゃない。ただ、お母さんに構ってほしかった。心配して欲しかった。探してほしかった。それだけだったんだと思う。
そして、ヒナの乗った自転車は崖から落ちて、ヒナは足に怪我をして動けなくなった。
泣いて助けを呼んだ。雨の河川敷には誰もいなかった。大きな雨音に、ヒナの声はかき消された。ヒナのことを、誰も助けてくれない、探しに来てくれない。ヒナは孤独に押しつぶされそうになった。
全てに絶望したヒナを助けてくれたのは、幼馴染のハルだった。
ハルにも、弟のカイがいる。「お兄ちゃんだから」、そう言われて、弟のために色んなことを譲ってきたハルには、ヒナの気持ちが良く解った。その日も、展覧会の時のヒナの様子を見て、ずっと心配していた。
雨の中、ハルはたった一人ヒナの所に駆け付けてくれた。ヒナが怪我をして動けないと知ると、ヒナの身体をおんぶして、そのまま崖をよじ登った。
ヒナにとって、それまでハルは仲の良い幼馴染の友人だった。
でも、ハルの背中で、ハルの身体にぎゅっとしがみ付いて、ハルの体温を感じて、じっと目を閉じている間に。
ヒナは、ハルのことが好きになった。恋をした。
あまりにその印象が強すぎて、ハルに助けられた時の、他の細かい所に関する記憶はあやふやだ。ハルは頑張ってヒナをハルの家まで運んだのだと思う。ハルのお母さんがいて、ヒナの濡れた服を着替えさせて、色んな所に電話して、ヒナはハルと一緒に車に乗せられて病院に行った。
足の怪我は、大きいだけで深くは無かった。ただの擦り傷。べろーんって皮がむけた感じ。深くは無いとは言っても、高校生になっても跡は残ってて、そこだけちょっと肌の色が違う。他には特に何の問題も無かった。ヒナは意外と頑丈だった。
大きなガーゼと包帯で、見た目だけは痛々しい。しかし実際には、痛みはほとんど感じなくなっていた。病院から出る時にはもう普通に歩けてたし、凄く痛くて立つことも出来ない、というのはどうやらヒナの思い込みだったみたい。ショックで動けなくなるとか、あるもんなんだね。
・・・そういえばこの時保険証ってどうしてたんだろう?わあ、今度ハルのお母さんに謝っておこう。
その後、ヒナはまた車に乗せられて、ヒナの家に帰った。そうそう、これだけは覚えてる。ハルの家で車に乗って、病院に行って、治療を受けて、また車に乗って、っていう一連の流れの中で。
ヒナは、ずっとハルの手を握っていた。
だって、ヒナはハルに恋してしまったから。ハルのことが大好きになってしまったから。
ハルは、ヒナの光。ヒナの希望。ヒナの唯一の居場所。
そんなヒナを見て、ハルのお母さんは笑ってた。今思うとちょっと恥ずかしい。ハルはずっとヒナと手を繋いだままでいてくれた。ハルはいつでも、ヒナに優しくしてくれる。
ヒナの家に着いて、お母さんがシュウを抱っこして玄関から飛び出してきた。泣いていた。ヒナにしがみ付いて、怒ったり、謝ったり、色々なことを言っていた。ヒナは「ごめんなさい」って言って、ハルの手をぎゅっと、強く握った。
ハルのお母さんの「じゃあ、これで」という声が聞こえて、ヒナはハッとした。これで、なんだろう。ハルの手を強く意識した。ハル、帰っちゃうの?嫌だ。嫌だよ。
「嫌だ、私、ハルと一緒がいい!」
そんなことを叫んだと思う。ハルの手を引っ張って、ヒナは家の中に飛び込んだ。ハルは、黙ってヒナについてきてくれた。本当にごめんなさい、ハル。あと、ありがとう。
階段を上って、自分の部屋に入って、ドアをバタンと閉めた。足の怪我が少し痛んだ。でも、そんなことは気にしていられなかった。部屋には鍵が付いてないので、ドアに寄りかかって座り込む。ハルの手は離していない。ハルも、ヒナの横に並んで座った。くっついているハルの身体の温かさが、とても心地よかった。
子供っぽいわがままだと、今では思う。だけど、その時ヒナはどうしてもハルと離れたくなかった。一度離れてしまったら、もう二度とハルと一緒にいられないとか、そんなことを考えていた。ふふ、そんなことないのにね。
ドアの外で、お母さんと、ハルのお母さんが話をしているのが聞こえる。どうもすみません、いいんですよ、でもご迷惑を、ヒナちゃんが落ち着くまでハルを貸しときますから。貸すってなんだ、ハルはもう、ヒナのものだ。ヒナの独占欲が強いのは昔からだ。
シュウの泣き声が聞こえた。赤ちゃんのシュウは、周りがうるさくするとすぐに泣く。ばたばたとドアの前から気配が消えた。やれやれ、おむつ替えて、おっぱいあげて、寝かしつけるまでは静かかな。
ヒナはハルの様子をそっと伺った。今更気が付いたが、ハルのことなど全然考えていなかった。勝手にハルを部屋に連れ込んで、勝手にヒナのものにするって、なんというか、とんでもないことをしたものだ。そういうのは良くない。ハルのことが好きなら、ちゃんとハルのことも考えないと。
ハルはわんぱく、というか、ちょっとやんちゃな所がある男の子。ヒナとは、幼稚園の頃から家族ぐるみで付き合いがある幼馴染だ。運動が好きなので、男子の間ではそこそこ人気者、女子からはお調子者としてあまり良く思われてない。
まあ、ハルの口がちょっと悪いのは確かだ。返事は大体「はあ?」で、普通の会話は「なんだこら」が頭について、「ざけんなよ」が後につく。そんな感じ。確かに聞いてていい気分はしないかな。その会話風景を見ただけで泣きそうになっちゃった女子もいる。
とはいえ、ハルは誰に対してもそんな態度を取るわけじゃない。年下とか、女の子相手だとむしろ優しいくらい。ヒナは昔からの友達だから良く知ってる。ヒナはハルに嫌なことをされた思い出が無い。ハルはちょっと誤解されやすいのかも。
他の女子に頼まれて、ハルと話をする際に間に立たされたこともある。みんなが何でそんなにハルのことを怖がるのか、ヒナにはよくわからない。うーん、確かにちょっと普段の印象は良くないかも?いや、男の子って大体こういうものなんじゃない?
ハルが、ヒナの視線に気が付いた。ハルは昔から日焼けしにくい体質で、肌の色が白くて手足も細い。運動はしてるから、筋肉はしっかりと付いてる。こうやって近くにいるとよく判る。がっしりしていて、男の子って感じ。あ、またドキドキしてきた。ハル、どうしよう?ヒナ、ハルのこと好きになっちゃった。
思わず目を逸らして、うつむいてしまう。ハルの顔がまともに見れない。どうしたんだろう、こんなこと初めて。手は離したくないのに、顔は見れない。意味わかんない。ハル、ヒナなんだかちょっとおかしい。自分のこと、良くわからない。
ハルの手が、ヒナの頭に触れた。雨で濡れてくしゃくしゃになった癖っ毛。いつもはもっとふわふわで可愛いのに、今はタオルで拭いただけだから、べったりと肌に貼り付いてる。でも、ハルの温かさは、ちゃんと感じられる。ハルは、ヒナのことを優しく撫でてくれてる。
「大丈夫だよ、ヒナ」
ハル。
ヒナの目から、ぽろぽろと涙が流れた。雨の河川敷で、もういっぱい泣いたのに、まだ泣くんだって思った。「うん」って頷いた。ハルの言うことなら信じる。信じられる。ハルが大丈夫って言うなら、きっと大丈夫。
今、この手を離しても、ハルは何処かに行ってしまったりしない。
ずっと繋いでいた手を離して。
ヒナは、ハルの身体にもたれかかった。ヒナを背負ってくれたハル。ハルの頭と、ヒナの頭がこつん、と触れる。ヒナは、ハルのことが好き。ハルは、ヒナの居場所。ハルはヒナを探してくれる、見つけてくれる、わかろうとしてくれる。
ヒナは、ハルに全部を預けます。
しばらくそうしていたら、ようやくヒナは落ち着いてきた。落ち着きたくなんかなかったが、物凄く恥ずかしくなってきてしまったんだから仕方が無い。あわわわわわ、何やってんだ、って感じだ。
ハルとぴったり身体がくっついたまま、ヒナはどうしていいか解らなかった。これは落ち着いたって言って良いものなのかどうか。急に離れるのも変だし、かといってずっとこのままとか耐えられないし。えー、どうしよう。顔が熱い。熱い。
「ヒナ、もう平気?」
ハルの声は冷静で、それがちょっと悔しかった。うう、ヒナはハルに恋しちゃってるのに、ハルはちっとも動揺してないのかな。ハルはヒナのこと、どういう風に思ってるの?
とりあえずゆっくりと身体を離す。ハルのぬくもりが消えて、なんだか急に寒くなった。もっとくっついていたかった、なんて考えてしまう。ハルのこと好きなんだなぁって、胸の奥が、きゅってなる。
まあ、ハルの顔を見たら、それどころじゃなくなっちゃったんだけどね。
ヒナは上目づかいに、ちらっとハルの方を見て。
本当に、心臓に矢が刺さったみたいな衝撃を受けた。
ハルは、話し方がぶっきらぼうで、すぐにふざけて笑って、いつも大声でしゃべってる。男の子だし、それが普通。ヒナはそう思ってた。
今目の前にいるハルは、そんなハルとは全然違った。ヒナが今までに見たことが無い、初めてのハルの表情。多分ハル自身も、誰も知らない。暖かくて、優しくて、ヒナのことをそっと包み込んでくれる、素敵な笑顔。
世界でたった一人、ヒナのためだけに向けられたハルのその笑顔を、ヒナは見てしまった。
理解した。ヒナは良く解った。そうだよね、何とも思ってない子のために、雨の中探してくれたり、おんぶして運んでくれたり、わがままに付き合って一緒にいてくれたりとか、しないよね。
うん、ハルのこと、信じます。ヒナは、ハルのこと、安心して好きになれます。恋に落ちます。ヒナの全部、ハルに預けるから。ヒナのこと、大切にしてね。
ハル、大好き。ヒナは、ハルのことが好き。ハルの気持ちに触れたと思ったこの時から、ヒナはハルのことをずっと好きでい続けている。
籠城から明けてみれば、お母さんとハルのお母さんは居間でお茶なんか飲んでた。ちょっとムカ。何もかも見透かされてるみたいで面白くない。ハルもすっかりウチのお母さんに信用されてるんだね。まあ、ヒナもハルのこと、とっても信頼しているよ。
玄関で靴を履いた後、ハルがヒナの方を振り返った。
「ヒナ、弟のこと、シュウのこと好きか?」
うーん、お母さんのことを独り占めされるのは正直つまんない。
でも、別に嫌いではないよ。可愛いのは確かだし。何より、ヒナの弟。家族だもん。
「シュウはまだ赤ちゃんだからさ、自分のことはまだ何も出来ないんだ。お母さんや、ヒナが助けてあげないと、普通に生きていくことも出来ない」
そうか。
シュウは一人だと、ご飯もトイレも出来ない。誰かがシュウについていてあげないと、シュウは何も出来ない。助けてって泣くことだけが、シュウに出来る唯一のことなんだ。
そう考えたら、ちょっとシュウのことが可哀想になった。守ってあげなきゃって、思えるようになった。
「シュウを助けてやれ、譲ってやれ、好きになってやれ」
この時のハルの言葉を、ヒナは良く覚えている。
お父さんの受け売りなんて言ってたけど、それをちゃんとヒナに伝えられるんだから、ハルはやっぱりカッコいい。
「ヒナは、お姉さんになるんだから」
大好きなハルにそう言われて。
ヒナは、自分がお姉さんなんだって、強く自覚した。
今日は楽しい日曜日。いい天気。良く晴れてる。太陽が眩しい。暖かい、というより暑い。
もうすぐ夏だ。夏は楽しいことがいっぱいある。早く夏にならないかな。カレンダーが六月のままなのがもどかしい。
梅雨はあんまり好きじゃない。雨が降ると外で遊べない。家の中にいても楽しいことなんてほとんどない。やっぱり外の方がいい。家の外には、面白いこと、楽しいことが沢山。晴れてるなら外に行かないと。
しばらく雨が続いていたこともあって、晴れてるというだけでシュウは心が躍った。うん、今日は良いぞ。何処に行こうか。第二公園のブランコか、かえる公園の滑り台か。小学校の校庭を見てもいいかな。あんまり大きい子がいないといいな。
シュウは小学二年生。まだ学校の中では下っ端だ。三年生や四年生には逆らえない。高学年なんて、もう大人と大して変わらない。学校では、校庭の端っこの遊具があるエリアで、一年生と一緒にちまちま遊ぶことしか出来ない。たまに気まぐれに上級生が来ると、みんなびっくりして遠ざかる。この前は四年生がずっとブランコを占領して話し込んでいた。それ、そこじゃないと出来ないことじゃないよね?どっかに行ってほしい。
シュウは家の中がつまらない。家にはお母さんとヒナがいる。お父さんはシュッチョウ中だ。いることの方が珍しい。お母さんはシュウと遊んでくれる。ただ、いつでもって訳にはいかない。日曜日は大体お昼過ぎまでは忙しいみたいで、シュウがあまりしつこく遊んでくれとせがむと怒られる。つまんないって気持ちが、さらにつまんない結果を呼ぶ。そうなるともう心底つまんない。
ヒナは高校生のお姉ちゃん。高校一年生。シュウはヒナのことを「ヒナ」って呼ぶ。お母さんがそう呼んでるから、シュウもそう呼ぶ。そうしたら、ヒナは「ヒナお姉ちゃん、でしょ」って言ってくる。いいじゃん別に。一回カイ兄ちゃんの真似して「ヒナ姉さん」って呼んでみたら、お腹抱えて笑われた。もう絶対「ヒナ」って呼ぶ。呼び続ける。
ヒナは高校生だし、女だから、シュウとはそもそも遊びの趣味が合わない。性格の不一致ってヤツだ。昔は一緒にブランコしたり、
そもそも最近は、ヒナはほとんど部屋の外に出てこない。何やってるのかは大体想像がつく。ずばり、携帯の画面を見てにやにやしている。面白い動画とかならシュウも一緒に観たかったが、そういうのじゃない。ハル兄ちゃんとメッセージのやり取りをして、ポチポチしながらにやけている。正直、気持ち悪い。
お母さんから聞いた話だと、高校に入ってからヒナはハル兄ちゃんとお付き合いを始めたらしい。ふーん、そうなんだ。じゃあ、今までは何だったんだろう。何かにつけてハル兄ちゃんのことを話したり、生鮮ストアに買い物に行った時に一緒になると並んで歩いてたり、携帯買って真っ先にアドレス登録してメッセージやり取りしたり。ホントに、今までと何が違うんだろう。
ハル兄ちゃんは、ヒナと同い年の、高校生のお兄ちゃん。高校生に知り合いがいるってだけで、シュウにとってはなんだかステイタス。でも、シュウはハル兄ちゃんのこと、ちょっと苦手。
高校生だから身体が大きいし、スポーツやってるから強そうって思う。ハル兄ちゃんが友達の男子高校生と一緒にがやがや喋りながら歩いている所を見かけて、「何言ってんだおめー、ばっかじゃねーのか、死ね」とか言ってて、うわぁってなった。普段、シュウやヒナの前ではそんな言葉遣いは絶対にしないのに。
ハル兄ちゃんはヒナやシュウにはとっても優しい。ヒナと話しているハル兄ちゃんは、全然怖くない。むしろ静かで、まるで別な人になったみたい。
ハル兄ちゃんはシュウともよく遊んでくれる。シュウと話す時、ハル兄ちゃんは必ずシュウと同じ目の高さになるように、しゃがんでくれる。ゆっくりと、シュウに判るように話してくれる。ハル兄ちゃんの目は、いつも笑ってる。
ヒナがハル兄ちゃんのことを好きなのは、良くわかってる。もうシュウのことなんかそっちのけな感じ。ハル兄ちゃんも、ヒナに対する態度が全然違うから、好きなんだろうな、ってそう思う。なんというか、すごく大切にしてるのが伝わってくる。明らかに他の人とは対応が違う。シュウに対するものとも、何かが違う。
シュウは、ハル兄ちゃんのことは嫌いではない。身体が大きいし、大人だから、少し苦手なだけ。あと。
ヒナとハル兄ちゃんが楽しそうに話している所を見ると、なんだか胸がもやもやする。
お付き合いするようになって、それもまた変わるのかな。シュウには良くわからない。シュウはもう長い間二人のことを見てきた。二人はいつも仲が良さそう。この前なんか、夜、もう真っ暗なのに雨の中ハル兄ちゃんが急に家までやって来た。ヒナが玄関から飛び出して迎えにいって、その後ハル兄ちゃんはヒナと一緒に居間でお茶を飲んで帰っていった。ヒナは凄く嬉しそうで、ハル兄ちゃんがいる間はずっとそばから離れなかった。
まあ、結婚するんでしょ。シュウはそう思っている。あれだけ仲が良いなら、結婚するってことなんだろう。少なくとも今、ヒナがハル兄ちゃん以外の相手と結婚するとか、全く想像がつかない。というか、ハル兄ちゃん以外に、ヒナに男の知り合いがいるとは思えない。ヒナがハル兄ちゃん以外の男の名前を口にするのを聞いたことが無い。
ハル兄ちゃんの方も、見ている限りでは、ヒナのことが好きなんだろう。両想いだ。ハル兄ちゃんも、ヒナと結婚したいとか、そんなことを考えたりするのかな。シュウにはまだ、女の子を好きなったりとか、恋とかはわからない。
シュウにも可愛いな、って思う女の子ぐらいはいる。ただ、ヒナとハル兄ちゃんを見ていると、可愛いって思うことと、好きって感情は同じでは無いような気がする。ヒナは、可愛いく無いってことは無いかな。まあ、特別可愛いってことも無い。シュウはヒナより可愛い女の子を、テレビで一杯見たことがある。それに、ハル兄ちゃんは、可愛いからヒナのことが好きって訳でも無さそうだ。
そういうことを考えていると、シュウは段々もやもやとしてくる。ヒナが、「シュウ」ってニッコリ笑って頭を撫でてくれたことを思い出す。なんだこれ。なんでそんなこと思い出すんだ?
家の中にいるとやっぱりつまらない。こんなことばっかり考えちゃって、ちっとも面白くない。
とりあえず外に行こう。シュウは決心した。まずは帽子。日射病だなんだって、お母さんがいつもうるさい。黄色いキャップをかぶる。色が破滅的にカッコ悪いのに、目立つからこれにしろって言われる。なんでもいいじゃん、もう。
それから水筒に水を入れる。水分補給は大事だ。出かけるときはいつも水筒を下げていくように、とこれは幼稚園で教わった。シュウの通っていた幼稚園は、なんというかサバイバルでワイルドな感じだった。そのままボーイスカウトに行った友達も何人かいる。熱中症は怖いってシュウはずっと言われてきた。習慣になってしまったから、もう水筒無しでのお出かけは考えられない。
お母さんは二階で洗濯物を干している。声をかけてから出かけないと、後で滅茶苦茶怒られる。昔ヒナが家出して、外で怪我して大騒ぎになったんだって。出来の悪い姉のせいで弟が迷惑する。今じゃ部屋でふひふひ言ってるだけなのに。
「遊びに行ってくる!」
お母さんに向かって元気に宣言して、返事を聞かずに階段を駆け下りる。「シュウうるさいー」ヒナの声がした。ヒナの方こそうるさい。黙ってポチポチしてろ。
さて、外に出たのは良いとして、まずは何処に行こうか。第二公園かな。カズアキとかいるかな。
ああ、カズアキは塾なんだっけ。急にテンションが下がってくる。シュウの友達は、最近みんな塾とか習い事とかを始めだした。将来のため、って話。シュウにはそれもよくわからない。ヒップホップを習っているヨウタとかは楽しそう。でも、学習塾とかは本当にわからない。何それ、何か意味あるの?
決められた時間の中で何かをするというのが、シュウにはそもそも苦手だ。学校の授業だって窮屈なのに、わざわざ時間を決めて塾とか考えただけで気が遠くなる。いや、考えるまでも無くダメだ。耐えられるはずがない。
お母さんはシュウに何か習い事をさせたいらしい。姉のヒナが何もせず、家でまったりごろごろしているのを見て、シュウにはこうなって欲しくないと。いや、それならまずヒナをなんとかしてくれ。毎日毎日寝っころがって携帯いじってるとか、そのうち絶対太るぞ。言ったら物凄く怒られそうだから、絶対口にはしないけど。
公園に行っても友達がいないとなると、面白さも半減だ。参った、どうしようかな。外で遊びたいという欲求はまだマックス状態を保っている。じっとしてたら死んじゃいそう。いつだったか、カイ兄ちゃんが「マグロみたいだな」って言ってた。マグロは泳ぐのをやめると死んじゃうらしい。よく疲れないな。止まって死ぬか、疲れて死ぬかのどっちかなんじゃないの?
カイ兄ちゃんはハル兄ちゃんの弟。六年生でシュウより四つ年上。シュウはカイ兄ちゃんが大好きだ。
カイ兄ちゃんはハル兄ちゃんと同じくらい背が高いし、サッカーをやってる。結構上手い。ハル兄ちゃんと違って、とっても静かで、何よりも頭が良い。シュウが知らないことをたくさん知っていて、色んなことを教えてくれる。知的な大人って感じで、お兄さんなのにちっとも怖くない。学校で会っても、ニコニコしながら声をかけてくれる。自慢のお兄ちゃん。
小学校が一緒ということもあって、シュウにはカイ兄ちゃんの方がずっと身近な存在だった。ハル兄ちゃんも嫌いじゃない。でもカイ兄ちゃんは大好き。断然カイ兄ちゃんの方が良い。カッコいい。
カイ兄ちゃんが本当のお兄ちゃんなら良いのに。シュウは常々そう考えていた。サッカーも教えてくれる、勉強も見てくれる、カードだって、ゲームだって相手してくれる。凄い、カイ兄ちゃんが本当のお兄ちゃんなら、毎日が楽しくて仕方がない。
シュウは一度、カイ兄ちゃんに訴えたことがある。シュウの本当のお兄ちゃんになってくれない?結構真剣なお願いだった。
カイ兄ちゃんは笑って答えた。
「そうだな、ヒナ姉さんとハル兄さんが結婚したら、シュウとは兄弟になるね」
そうなのか。カイ兄ちゃんは色んなことを知っているな、とシュウは感心した。
じゃあさっさと結婚してくれればいいのに。ヒナとハル兄ちゃんが結婚すれば、カイ兄ちゃんはシュウの本当のお兄ちゃんだ。やった。二人が結婚するのはもう当たり前みたいなものだし、みんな幸せ、ハッピーって感じじゃない?
もうそれで良いじゃん、決まり決まり。
シュウはそう思って大はしゃぎしたんだけど。
その時のカイ兄ちゃんは、なんだか寂しそうだった。ううん、いつもみたいに優しく笑ってはいた。それなのにどうしてだろう、シュウにはカイ兄ちゃんが今にも泣きだしてしまいそうな気がした。
カイ兄ちゃんは、シュウのお兄ちゃんになりたくないのかな、って最初は思った。シュウはカイ兄ちゃんのこと大好き。本当の兄弟になりたい。カイ兄ちゃんはそうじゃないのかな。本当の兄弟にはなりたくないのかな。シュウのこと、嫌いなのかな。
そんなこと無いよ、ってカイ兄ちゃんはシュウの頭を撫でてくれた。「そうじゃなくて、俺はハル兄さんに負けたくないんだ」カイ兄ちゃんは静かな声でそう言った。
ちょっと前、ヒナと、ハル兄ちゃんと、カイ兄ちゃんと、シュウの四人で、ショッピングモールのゲームコーナーに行ったことがある。カイ兄ちゃんの家の車に乗って、みんなで買い物に来たついでだ。バスケットボールをゴールに入れるゲームを、ハル兄ちゃんとカイ兄ちゃんがやった。ハル兄ちゃんはバスケ部だったから、どんどんシュートを決めていく。ヒナが、ハル兄ちゃんを応援している。その時、シュウはカイ兄ちゃんの伏せた顔を見てしまった。
カイ兄ちゃんは、つらそうだった。苦しそうだった。悔しそうだった。シュウはそんなカイ兄ちゃんを初めて見た。カイ兄ちゃんは、ハル兄ちゃんに負けたくない。色々な意味で、色々なことで。
どうしてだか解らないが、シュウはカイ兄ちゃんのことが更に好きになった。カイ兄ちゃんを応援したい。カイ兄ちゃん、頑張れ。ハル兄ちゃんに負けるな。シュウはカイ兄ちゃんの味方だ。
汗がぽたり、と道路に落ちた。ああ、なにやってんだか。こんなところにいつまでも突っ立っていたって仕方が無い。
とりあえずどうしよう?そうだなぁ、いつもは行かない所に行ってみようか。よし、一人で身軽だからこそ、今日は探検だ。探検隊、出発!
シュウは勇ましく歩き出した。
図書館から出ると、外の空気が身体に絡みついてきた。ああ、暑いな、もう夏が来るんだ。
借りていた本は一通り返した。新しく入った本で読みたいものがあったが、残念ながら一足遅かった。予約登録だけして、お預けだ。今日はついてない。こんな日もある。仕方がない。
これからどうしようか、とカイは少し考えた。予定らしい予定はない。サッカーチームの練習が、色々な事情で潰れてしまった。何というか、降って沸いた休日になってしまった。読みたい本も入手出来なかったとなると、本当にぽっかりと一日が空いてしまった感じがする。
毎日根を詰め過ぎているのかもしれない。何かしていないと落ち着かない、というのはもう性格だと思う。ハル兄さんにも、真面目過ぎると言われる。ハル兄さんの場合は、もう少し真面目であってくれた方が良いと思う。お互い様。どうにもバランスが悪い。
たまには目的も無くゆっくりとしてみようか。それに決断が必要な辺り、無目的とも思えないが。小さく笑ってみた。うん、悪くない。
自分でも面倒な性格だと思う。いちいちきっちりしてないと気が済まない。言い逃れさせてもらえるなら、これの半分はハル兄さんのせいだ。ハル兄さんは何をするにもいい加減、適当、その場しのぎ。それで酷い目に遭ってきたから、こうして考える癖がついてしまった。
ハル兄さんは母さんに似ているのだという。確かにそっくり。顔、というよりも行動原理。考える前に動く、衝動的、野生動物みたいだ。カイは父さん似だ。父さんはいつも難しい顔をして、沈思黙考している。大事なことを、シンプルに要点だけしっかりと伝えてくる。父さんに似ていると言われるのは、カイにはとても嬉しい。カイは父さんのことを尊敬している。
カイは父さんのようになりたいと常々思っているが、その上で、ハル兄さんの行動力にはいつも驚かされる。カイが悩んで動けない時、ハル兄さんはひょいっと走っていってしまう。考える前に手が出る、足が出る。カイには出来ないことで、正直うらやましい。
あの時もそうだ。ヒナ姉さんが家出をした時。ハル兄さんは雨の中、ヒナ姉さんのことが心配だと言って家を飛び出していった。カイはまだ小さかったから、細かいことは記憶していない。ただ、ハル兄さんがヒナ姉さんを背負って帰ってきたのを見て、強い衝撃を受けたのを覚えている。
ハル兄さんは凄い。
母さんがヒナ姉さんの怪我を見て、着替えさせて、病院に連れて行こうとした。その際、ヒナ姉さんはハル兄さんの手を握って離そうとしなかった。母さんは何を思ったのか、そのままヒナ姉さんとハル兄さんの二人を車に乗せた。
「カイ、父さんとお留守番しててね」
母さんも大概に衝動的に行動するタイプだと思う。その日はたまたま父さんが家にいたが、いなかったらカイは一人で留守番させられていたかもしれない。いや、流石にそれはないか。確かその頃カイはまだ四歳だ。無茶を言うな。
その後のことは記憶が薄い。二人が返ってきたのは、カイが寝てしまった後なのかもしれない。次の日の朝には、いつものように家族みんなでご飯を食べた気がするので、多分そうだったんだろう。
カイは、ハル兄さんがヒナ姉さんを背負っている姿を、とにかく鮮明に記憶している。ハル兄さんの身体に、一生懸命にしがみついているヒナ姉さんのことを覚えている。ハル兄さんの手を必死に握り続けるヒナ姉さん。その横で真っ直ぐに母さんを見つめるハル兄さん。あの時の二人の姿が、カイの中では色褪せない。
というよりも、消えてくれない。
多分、二人の絆はその時に産まれたのだと思う。今でも二人は仲が良い。ハル兄さんの友人から漏れ聞こえた話では、いよいよ男女交際を始めたということだ。それはとても良いこと。ハル兄さんの良いところを象徴しているような、素敵な話だ。
・・・カイは、そう思おうと努力している。理屈は通っている。通っているはずなのだから、納得は出来るはず。
納得出来ないのだとすれば、それはカイの中にある問題だ。
ハル兄さんはいつも衝動的だ。あまり物事を深く考えていない。ヒナ姉さんは、そんなハル兄さんのことが好きなんだろう。深く考えてない代わりに、その分真っ直ぐで、解り易い。ハル兄さんの、ヒナ姉さんのことが好きで大切にしたいという気持ち。それを、ヒナ姉さんは真っ直ぐに受け止めている。ああ、やっぱりお似合いじゃないか。
高校生になったヒナ姉さんは、凄く綺麗になった。お世辞じゃなく、最初に見た感想は、綺麗、だった。髪をほどいただけって言ってたけど、多分何か心境の変化とかもあったのだろうと推察する。中学時代のヒナ姉さんは、なんだかちょっと思いつめていた時期があった。だからこそ、尚更だ。
二人が仲良く話をしている所を見ると、カイは胸が苦しくなる。ショッピングモールで買い物をした時、ハル兄さんはヒナ姉さんのことをとても気遣っていた。「疲れたか、ちょっと座るか?」「ああ、あそこの店見たいのか」「ほら、それ持つから」「いいよ、シュウと行ってきな」カイがどうしようかと悩んでいる間に、そんな言葉がすらすらと出てくるハル兄さんがうらやましかった。「うん、ありがとう」って応えるヒナ姉さんが眩しかった。
ヒナ姉さんは、カイにも優しくしてくれる。本当の弟のように接してくれる。「カイ、シュウと仲良くしてくれてありがとう」ヒナ姉さんにそう言われるのは嬉しい。シュウは実際可愛い弟分だし、大切なヒナ姉さんの弟だ。
いずれ、ヒナ姉さんは、義姉さんになる。多分そう。きっとそう。
シュウには、本当のお兄ちゃんになって欲しい、と言われたこともある。シュウはカイにとても懐いてくれている。そうだね、シュウ。カイもシュウと兄弟になりたい。でも、そのなり方はまだ他にもあるって、そんな可能性もあるって、信じてちゃ、いけないのかな。
風が生ぬるい。足に任せていたら、河川敷を見下ろす土手の上を歩いていた。
一級河川、とは言ってもこの辺りの川幅はあってせいぜい二十メートル程度。深さも二メートルといったところか。国が管理している広い河川敷があって、その外側を更に高い土手が囲っている。土手の上には舗装された道路があり、ジョギングやサイクリングにと愛用されている。土手自体も緑で覆われていて、見た目にも心地よい。
土手の下に広がる河川敷の芝生は、カイのいるサッカーチームの練習でも使われる。綺麗に整地されている区画には、他にも野球のグラウンドが何面もある。今日も草野球チームがいくつか試合をおこなっている。そうそう、その辺りの使用許可の調整が原因で、今日の練習は潰れてしまったのだった。
この広い河川敷は、全部が全部綺麗に整備されている訳ではない。草木が伸び放題で、うっそうと茂ったジャングルみたいな雑木林が沢山広がっている。むしろ、そういったほったらかしの部分の方が大半だ。たまに火事なんかが起きると大騒ぎになる。山火事と大差が無い。河川敷なのに水が近くに無いとか、なんだか矛盾している。
これだけの土地のメンテナンスには、それなりのコストがかかるのだろうから、ある程度放置状態なのは仕方が無い。そうは思うが、具体的な問題だって孕んでいる。地域住民として、割と困っていることは幾つかある。
まず、野生動物が棲みつくこと。一昔前なら野犬。狂犬病とかあまり洒落にならない。一時期に比べて野良犬はだいぶ減ったということだが、ペットブームのせいで捨て犬の数はまた増え始めているという。
犬だけでも結構な問題だが、最近ではもっと厄介な生き物を放つ人もいる。ペットの飼育にはもっと責任を持って欲しい。下手に環境適応されてしまうと、生態系を狂わせるだけでなく、近隣住民に深刻な被害を及ぼすことになる。カミツキガメとか、サッカーやってる所で出くわしたら大変だ。
捨てる、と言えば不法投棄も問題の一つ。大量の古タイヤや、大きな故障した家電などが山積みに捨てられている所を、カイも見たことがある。雑木林の中ならあまり目立たないし、広いから見つからないと思うのだろう。街灯の幾つかに監視カメラが設置されたと聞いた。のんびりと緑を眺めて気持ちを安らげるとか、そんな
そして最大の問題。人間そのものが棲みつく、ということ。
カイから見えている雑木林にも、ちらほらとブルーシートの一部が見え隠れしている。雨風をしのぐための急ごしらえの住居。たまに消えて、また増えて、ということを繰り返している。こればっかりは、いつまで経っても無くならない。
生きていく上で、誰もが恵まれた生活を送れる訳ではない。そんなことくらい、カイにも解っている。住む場所を失っても、今日の次には明日がやって来る。止めることは出来ないし、人生をリタイヤする勇気を持たない人もいる。いや、そう簡単にリタイヤなんてするべきじゃない。それなら、生きていくしかない。
昔、カイはハル兄さんに連れられて河川敷の雑木林を探検したことがある。連れられて、というよりは引きずられて、という方が正解か。ハル兄さんは基本的に優しくていい兄だとは思う。ただ、やることが衝動的でいい加減だ。確かに行ってみたいと言い出したのはカイだったが、まさかあんな奥まで入り込むとは全く予想していなかった。今ならオチまで全部想像出来るから、迂闊にそんなことは口に出したりはしない。
おっかなびっくりで二人は雑木林の奥にまで入り込み、薄汚れたブルーシートで覆われた住まいを目の当たりにした。人の気配は感じられない。それでも何処に何が潜んでいるか判らないので、こそこそと隠れながら進んでいく。折れた枝で垣根が作ってあったり、小さな畑があったり、人が生活している、生きているって形跡があって、カイはとてもショックだった。
そのまま雑木林を突き抜けて、二人は川辺まで出た。そこで、誰もいない河原に釣竿が立っているのを発見した。針金か何かで固定されていて、糸が川の水の中に垂れている。釣りのための仕掛けだろう。
やめておけば良いのに、ハル兄さんは釣竿に手を出した。「何か釣れてるかもしれねぇぞ」たとえ釣れていたとしても、人のものに手を出したらアウトでしょう。カイは止めようと思ったが、時すでに遅しだった。
ハル兄さんが竿に手を触れた途端、ガランガラン、というけたたましい音が鳴った。釣れた時に解るように、竿には別な糸が結んであって、空き缶の束に繋がっていた。今思えばそりゃそうだ、としか思わない。本当に、ハル兄さんはもうちょっと良く考えてから行動して欲しい。
その後はもう、一目散に逃げた。走った。後ろの方で誰かの怒鳴る声が聞こえた。怖かった。捕まったら食べられると本気で思った。実際食糧にされててもおかしくなかった。いや、流石にそんなことは無いか。酷い目にはあっただろうが。
雑木林を抜けて土手の下まで来て、ハル兄さんは楽しそうに笑った。「びっくりしたな、カイ」それどころじゃないでしょう。
でも、悔しいけど面白かった。楽しかった。こんなにどきどきしたことは無かった。カイもハル兄さんと一緒に笑った。ハル兄さんは、カイに出来ないことをやってくれる。やらかしてくれる。迷惑で困ってしまう。
本当に、どう足掻いても勝てそうにない。
懐かしい思い出に浸っていたところで、カイはその雑木林の入り口に、ひょこひょこと動く黄色い帽子の姿を見つけた。目立つようにと被せられてる帽子は、見事にその役目を果たしてくれている。やれやれ、何をやっているんだか。カイは土手を降りると、スパイごっこみたいな動きをしているシュウに近付いた。
「シュウ、何やってるんだ?」
黄色い帽子に水色の水筒、お出かけスタイルのシュウが、くりくりとした目をカイの方に向けてくる。この目と、柔らかい癖っ毛はヒナ姉さんそっくりだ。
「カイ兄ちゃん、カイ兄ちゃんだ!こんにちわー」
はい、こんにちわ。出会って最初に挨拶することを教えたのはヒナ姉さんだ。シュウはすぐに自分のことばっかり話し始めるから、挨拶して落ち着いてからしゃべること。いい教えだ。ハル兄さんの小さな頃に伝えてやりたい。未来のカノジョの言うことなら流石に聞いてくれるだろう。
「えっと、僕、今日は探検隊なんだ。探検しようと思ったんだけど」
ああ、シュウはそこまでハル兄さん化が進んでいるのか。それはかなり困ったものだ。カイはシュウにハル兄さんみたいになってほしくない。まあ、ここで躊躇ってくれてる分、まだ大丈夫なのかな。
河川敷の雑木林は、実は小学校で立ち入りが禁止されている。色々な危険があるから、ということだが、一番の理由はやはり不法に棲みついている人間とのトラブルを避けるためだ。よく考えてみると、そんな注意をされる原因を作ったのはハル兄さんかもしれない。釣竿に触った話は、あの後結構噂になってたし、可能性としては十分にあり得る。ハル兄さんはまったく。
シュウがへっへぇ、と笑う。カイを慕ってくれるシュウは可愛い。ヒナ姉さんの弟だから、ということを差し引いても、カイにとってシュウは大切な弟分だ。本当の弟のように思っている。うん、シュウが義弟になることには何の疑問も無い。むしろそれは、望ましいことだ。
「この辺りの雑木林は立ち入り禁止だ。学校でそう習っただろ?」
実際にトラブルが起きた、という話は聞いたことが無い。ハル兄さんの件はちょっと例外。学校としては何か問題が発生してからでは遅い、という判断なのだろう。今時子供を狙った犯罪は後を絶たない。神経質になる気持ちも解る。
「そうなんだけどさ」
シュウは好奇心の塊だ。いつもじっとしてられない。ハル兄さん化、とは言っても、カイも数年前まではそういう時期があった。色々なことに興味を持つことは大切だ。それに、シュウはお父さんがあまり家にいないという家庭の事情もある。もっと世界を広げてあげられれば、とも思う。
カイは雑木林の方をちらりと窺った。虫の声が聞こえる。他は静かなものだ。小さなけもの道が、ぽっかりと開いた暗がりへと続いている。妖精の小路の先には何があるのだろう。確かにちょっとわくわくする。ハル兄さんなら、「行こうぜ」って言ってる気がする。
「シュウ」
ハル兄さんに負けたくない。その気持ちは昔からある。どんな時でも、どんなことでも。カイはいつもハル兄さんの背中を追いかけていた。
ハル兄さんになりたい訳じゃない。だから、ハル兄さんとは違うことをしてきた。サッカーをしているのもそうだ。ハル兄さんがバスケなら、カイはサッカーをやる。違うやり方をするようにしてきた。ハル兄さんが考える前に動くなら、カイは動く前に考える。カイはハル兄さんとは違う。そして、ハル兄さんよりもずっと大人に、ずっと賢く。
ずっと、強くなりたい。
「一緒に行ってみるか、探検」
今はもう、カイはハル兄さんには負けていない。あの時のハル兄さんよりも、ずっと大人で、ずっと賢くて。ずっと強い。シュウを、弟を守ることだって出来る。
「うん!」
シュウが元気に返事をする。
言ってから責任の重大さを感じたが、自信はある。そもそもそんなに奥まで行く必要はない。シュウが満足すればそれで良い。方向感覚を見失うような動き方をしなければ、早々道に迷うこともない。広いと言ってもたかが知れている。
カイはシュウの手を握った。シュウも強く握り返してくる。さあ、行こう、探検だ。
お兄ちゃんと一緒に。
雑木林の中は薄暗い。これは、昔カイがハル兄さんに連れられて来た時と同じだ。
見上げると、生い茂った木の枝と葉が空をほとんど覆い隠している。本当にジャングルだ。家からそんなに遠くない場所に、こんな緑の回廊があるなんて、考えてみると面白い。
下草は思ったよりも綺麗に処理されていて、細いけもの道はしっかりとしている。この道を使う人間によって、丁寧に管理されている、ということだ。手放しで喜べる話じゃない。
シュウはカイの手を握っているが、ちゃんと力を入れていないと今にも走り出してしまいそうだ。運動エネルギーの塊め。ここで離すわけにはいかないぞ。
足元がしっかりしているとは言っても、周囲の見通しはとにかく悪い。トンネルの中を歩いている感覚が一番近いだろか。灌木の茂みの中にシュウが突っ込んで行ってしまったら、あっという間に見失ってしまう。自由に動けないのは可哀想だが、カイの為にも堪えてもらうしかない。
しかし、以前来た時は流石にここまででは無かった気がする。
ハル兄さんに連れられて雑木林に入ったのは、確か三年くらい前だ。三年でこんなに景色が変わるものなのか。自然の力というのは恐ろしい。
時間や距離の感覚がマヒしてきている。だいぶ歩いたな、と思って振り返ると、まだすぐそこに入り口が見えた。少し進むだけで神経を使っているのか。シュウもいるし、迂闊なことは出来ない。何かおかしなことがあったらすぐに戻れるようにしておかないと。
遠くで金属バットがボールにミートする音が聞こえた。続けて歓声。そう言えば河川敷のグラウンドでは草野球の試合をやっていた。ちゃんと人のいる世界と繋がっている感じがする。お化け屋敷に入った時、外の音楽が聞こえてほっとする感覚に似ている。いや、同じことか。探検、というより肝試しだな。
「シュウ、怖くないか?」
まあ、聞くまでもないか。
「うん、怖くない」
シュウの声は明るい。楽しんでくれているなら何よりだ。
とはいえ、やはりあまり深入りはしない方が良い。思ったよりも険しいし、外から目が届かない。進んでいくと、道が二つに分かれていた。どちらもその先は薄闇に包まれていて、似たり寄ったりな感じがする。
「左に行こう。分かれ道はずっと左。帰りはずっと右に曲がれば良い」
単純だが、迷わないだけならこの程度で良い。シュウが目をキラキラさせている。シュウもこの位のことは覚えていた方が良い。ハル兄さんみたいになりたくなければ。
真っ直ぐ進んでいるつもりだったが、道は緩やかに蛇行している。やはり、変に動き回るとすぐに迷う。道なりに歩くだけで、次の分かれ道があるようならもう戻ることにしよう。慎重であるに越したことはない。
「カイ兄ちゃん、あれ」
シュウが立ち止まってカイを引っ張った。なんだろう。道から外れた、雑木林の中を指差している。薄闇の中を、じっと目を凝らしてみた。
人型?いや、人ではないな。全く動かないし、姿勢が不自然だ。
ぼろ布と、細い枝を束にしたもの。どうやら
少し距離があるし暗いので分かり難いが、だらりと両手を前に垂らした姿勢で、顔の部分は汚れた布で覆われている。結構迫力があって怖い。シュウの様子を見ると、やはり少し怯えているみたいだ。
潮時かもしれない。そんなに色々なものを発見する必要はない。一つでも変わったものが見れたのなら、それで十分だろう。欲張って怖い目に遭ったりしたら、それこそハル兄さんの二の舞だ。
「シュウ、そろそろ戻ろうか」
反抗されるかと思ったが、意外にもシュウは素直に頷いた。あの案山子、そんなに怖かったか。臆病であることは長生きの秘訣でもある。それでいい。
二人は回れ右して引き返し始めた。静かだ。二人の足音だけがする。そう言えば虫の声がしないな。気温が低いのかもしれない。
分かれ道が見えてきた。ここを右に。
・・・いや、おかしい。カイは違和感を覚えた。道の分岐の見え方が変だ。こっちから見て綺麗なY字に見えるはずがない。
何処かで分かれ道の存在を見落としていた?いや、分岐路自体は大きいし目立つ。ここを通っておいて見てないとか、ぼんやりしているにも程がある。
ざわざわ、と木々が風に揺らめいた。その音が、背後から囃し立てる声に聞こえてくる。さあ、どうする?どっちに行く?
「カイ兄ちゃん」
シュウが、強く手を握ってくる。そうだ、今はシュウが一緒にいる。何よりも、まずはシュウを安全にここから出してやらないといけない。今、シュウはカイだけが頼りなんだ。
「大丈夫だ」
方向感覚を信じるしかない。とりあえず分かれ道は右、だ。見え方がおかしいのは、たまたまの可能性もある。角度を変えれば見えの印象が異なるなんて、よくあることだ。まずは正しいと思われる道を行く。迷うほどの距離は歩いていない。
いくら深いとはいっても、せいぜい河川敷の範囲の雑木林だ。その気になれば真っ直ぐ突っ切って行けば良い。
早足になりそうなのを抑える。シュウがいるんだ。シュウに合わせろ。シュウを不安がらせるな。考えろ。ハル兄さんじゃないんだ。力技じゃなくても、出来ることはあるはずだ。
目の前に、分かれ道が見えてきた。そんな馬鹿な。
来る時には、一度しか分かれ道を通っていない。では、今目の前にあるこれはなんなんだ。また風が吹いて、枝がざわめく。からかっているのか、挑発しているのか。悪意めいたものを感じて、カイはぞくっとした。
「カイ兄ちゃん・・・」
足を止めたカイに、シュウがしがみ付いてくる。シュウ、怖いんだね。ごめんよ、こんなことで怖がらせてしまうなんて、カイはお兄ちゃん失格だ。
でも、シュウだけは無事に帰してやらないといけない。失格かもしれないけど、カイはシュウのお兄ちゃんでありたい。今、シュウを守れるのはカイだけだ。絶対に、何とかしてみせる。
考えろ、他に何か無いのか。
空を見上げる。木々がその手で青空を覆い隠している。本当に、雑木林が意思を持って二人を閉じ込めようとしているのか。梢が風で揺れる音が、ひそひそとよからぬ相談をしているみたいに聞こえる。
音。カイはそこで気が付いた。音がしない。
雑木林を抜けたすぐ近くにあるグラウンドで、草野球の試合をしているはず。ついさっきも気持ちいい打撃音と声援が聞こえた。
それが、今は全く聞こえない。完全な無音。森が騒ぐ以外には、何も聞こえてこない。
おかしい。
カイはシュウの背中に手を回した。そうしていないと、見えない何かがシュウを攫ってしまう。そんな非現実的なことはあり得ないと思いつつも、そう考えずにはいられない。
くそ、シュウには手を出させないぞ。何が起きてるんだとしても、何があるんだとしても。シュウだけは、弟だけは。
混乱した頭で何を考えても無駄だ。とにかくまずは落ち着こう。カイは深く息を吸って、吐いた。色々と状況がおかしいのは確かだ。だが、別に歩けなくなった訳ではない。出来ることはまだいくらでもある。
「シュウ、突っ切って行こう」
道に従うのはダメだ。少し危険かもしれないが、雑木林の中を真っ直ぐ進んでみよう。シュウが歩きづらいなら、カイが背負っても良い。同い年のヒナ姉さんを背負ったハル兄さんに比べれば、全然大した話じゃない。
シュウは黙ってカイに従った。カイだけがシュウの頼りだ。その期待は裏切れない。灌木をかき分けて、直進する。ばきばきと音がして、手足に細い枝が当たる。こんなの、全然平気だ。怖くなんか、ない。
だいぶ進んだ気がしたが、雑木林の切れ目は全く見えてこない。余程方向を間違えていない限り、何処かで一度は見通しの効く場所に出るはずだ。やはりおかしい。一体、どうして。
その時、目の前にぬう、と何かが姿を現した。
「うわっ」
カイは思わず声を漏らした。シュウがカイの足に強く抱き付く。
案山子だ。さっき見た、薄汚れた布で顔を覆った案山子が、二人の前に立ちはだかっている。
動く訳ではない。人形なんだから、それは当然だ。動いているのはカイとシュウ。あれだけ歩き回って、辿り着いたのはこの怖い案山子の前。カイはゴクリ、と唾を飲み込んだ。
ガサッ、と一際激しく茂みが揺れる音がした。カイとシュウはびっくりして身を寄せ合った。風とかじゃない。明らかに、何かが動いている。案山子の後ろ、大きな灌木の向こうに、何かの気配がある。
シュウを庇うようにして抱き寄せる。こんなのはおかしい。間違ってる。理屈が通らない。
ハル兄さんなら。
いや、ハル兄さんは今はいない。今は、カイだけだ。カイがシュウを守るんだ。諦めちゃいけない。怖がっちゃいけない。カイは、シュウのお兄ちゃんだ。カイは、お兄ちゃんなんだ。カイ兄ちゃんなんだ。
人間?動物?
この場合はどちらの方がマシなのだろう。カイはシュウを自分の後ろに隠した。シュウ、何かあったら、お前だけでも逃げるんだ。カイは覚悟を決めた。シュウのためなら、囮にでも何にでもなる。
さあ、こい!
「・・・ああ、良かった。二人とも一緒だったんだ」
カイの身体中から、文字通り力が抜け落ちた。
なんだろう、あんなに張っていた緊張の糸が、何もかもぷっつりと切れてしまった。
地獄に仏。いや、女神だ。比喩表現じゃなくて、真剣にそう思った。ハル兄さんも大概だ。でも、コッチはもっと大概というか、意外性がありすぎてもう全く思考がまとまらない。
オレンジと黒のパーカーにジャージ姿のヒナ姉さんが、笑顔でひらひらと手を振っていた。
お昼を過ぎてもシュウが帰ってこない。お母さんがヒナに訴えてきた。はぁ、何やってんのよシュウ。
何処をほっつき歩いてるんだか知らないけど、お昼に帰らないとお母さんが心配することはシュウも良く解っているはず。となると、カイ辺りと一緒にいたりするんじゃない?ハルにメッセージで聞いてみる。
残念、カイも出かけてるみたい。やっぱりお昼ごはん食べてないとか。それは心配だね。カイのことだし、そんなに心配することは無いでしょ。シュウと一緒にいてくれてればなぁ。ま、そんなに都合良くはないか。ベッドの上で仰向けになって、ふぅっと息を吐く。気合入れて探しに行かないと、かなー。
「ナシュトー、シュウ何処にいるか知らないー?」
まずはダメ元で神頼みしてみる。気紛れだから、ヒナの頼みは聞いてくれたりくれなかったり。あんまり簡単な用事で呼び出すと、長時間の説教が始まったりするので注意が必要。意外と根に持つんだよな。
ベッドの横に、豹の毛皮をまとった、浅黒い肌の筋肉質の男が何処からともなく現れた。銀色の髪、ルビーを思わせる赤い瞳。あれ、ナシュトさん今日は随分と素直ですね。
まあそれはそれとして、半裸のイケメンが女子高生のベッドの横に立つのは事案ですから。そろそろその辺意識改革をお願いします。
「ヒナ、我を呼ぶ時はもう少し敬意を持って呼べ」
ああー、はいはい。そりゃすいませんでした。
ナシュトはヒナの左手にある、銀の鍵に憑いている神様だ。色々といい加減な紆余曲折を経て、ヒナの存在に飲み込まれてしまった。自由を求めて、今日もヒナにこき使われている。可哀想可哀想。
「常に力を貸すつもりはない。そもそもお前は我の力を必要としないと言ったはずだ」
勝手に心を読むのだけは勘弁して欲しい。プライバシーもへったくれもない。
ヒナが神様の力なんていらないって言ったのは確かだ。そのせいでこんな大迷惑な状態になっている。その辺の原因については、ナシュトとヒナでイーブンだと思うことにした。だから、それを少しでも早く解消するために力を使う。ということなら別に構わなくない?
「人間とは身勝手なものだ」
良く知ってます。そして、お互い様です。自由が欲しければ、ヒナの夢を叶える手助けをしなさい。ただし、直接的な関与はせず、あくまでヒナに請われた時のみ、最小限の範囲で。おおう、すごい、ヒナは神様を使役しているみたい。
まあ、当のナシュトはヒナの言うことなんかほとんど聞いてくれないけどね。気が向いたら助けてくれる、って感じ。身勝手なのはホントにお互い様だよ。
「でも今日は出て来てくれたのね。ありがとう」
お礼ぐらいは言っておかないと、すぐにへそを曲げられる。あ、こういう考えも読まれちゃうのか。意味ないな。
「お前の弟だが、どうやら面倒に巻き込まれている。居所を教えてやろう」
何やってんのよシュウ。
ナシュトが素直だった理由はそれみたい。人間だけで解決出来る物事の場合、ナシュトはまず力を貸してくれない。その辺の線引きは割としっかりしている。その代わり、融通が利かない。基本的に言葉が足りてないので、何を考えているのか判らないこともある。神様とのコミュニケーションは疲れる。絶対理解しあえない。
シュウは河川敷の雑木林に入ったらしい。あのバカ。入っちゃダメってあれほど言われてたのに。じゃあ、とりあえず動きやすい服装の方が良いか。ジャージと、あとパーカー。はあ、この年であの雑木林に入り込むとか、何やってんだろう自分。少なくとも女子高生のすることじゃないよ。
ナシュト、解ってると思うけど着替えだから。何か言いたそうな顔のまま、ナシュトは姿を消した。いい加減デリカシーくらい学習してくれ。
ハルにもメッセージを入れておく。シュウを探しに河川敷の雑木林に行きます。あー、これ心配かけちゃう奴だ。絶対一緒に行くとか言い出される。はぁ、ナシュトが出てきたってことは明らかにソッチ系の面倒が絡んでるんだよなぁ。
文面を変える。シュウを探しに行きます。うん、これだけでいいや。ごめんね、ハル。銀の鍵絡みの厄介事は、あまりハルには関わって欲しくない。説明もしたくない。これはヒナの、ヒナだけの問題だ。
返事が来た。『俺もカイを探すついでに心当たりをあたってみる』ありがとう、ハル。大好き。ヒナの素敵な彼氏様。
靴はスニーカーで。この前買ったサンダルも可愛いんだよな。とはいえ、雑木林にサンダルは無いわ。まあ、今の格好でサンダルが更に無いか。もう、なんだか色々と腹が立ってきた。
ジョギングしてる感じで、ヒナは河川敷までやって来た。薄暗い雑木林の入り口に立つと、怪しい気配が感じられる。あれー、ここ、こんなんだったっけ?最近何かあったんじゃないかなぁ。明らかに何かがおかしい。シュウ、ここに入ったの?ええー。
左掌に意識を向ける。銀の鍵はそこにある。目には見えないが、ヒナの手とすっかり同化してそこに存在している。ナシュトに言わせれば、万能な力を持つ魔術用具ということだが、ヒナにとっては単なるお父さんから貰った海外土産だ。これならいつものチョコレートとかそっちの方が断然嬉しかった。ヒナも中学生になったし、可愛いアクセサリだと思って、なんて、お父さんも余計な気遣い無用だよ。
人がいるのが判る。一人はシュウだ。もう一人いるな。カイだと面倒が減って良い感じ。そういう偶然はあってくれるかな。どちらにしろ行ってみるしかない。
薄暗いトンネルみたいなけもの道に入った途端、つるん、と何かを通り抜ける感触がした。ああ、そうなの。携帯を取り出して画面を見る。圏外になってる。いくら河川敷が広いとはいえ、この辺でそんなことはあり得ない。確かに面倒だね。
ヒナはぐるり、と首を巡らせた。その気になればこの程度の囲みなんて、ぶち破って外に出るぐらいは簡単に出来る。銀の鍵はそんなちゃちなものじゃない。しかし、この状態を放っておいて、また変な事故とかが起きたらそっちの方が面倒だ。解決可能そうな事象なら、なんとかしておきたいか。
それはさて置いて、まずはシュウ。居場所のアタリは付いた。がさがさと茂みをかき分けながら進んでいく。葉っぱがくっつく、蜘蛛の巣がくっつく。ああもう、なんなのこれ。シュウのためじゃなきゃ、こんな所絶対に来ない。心配ばっかり掛けさせて。バカシュウ。
悪戦苦闘しながら進んでいくと、変な案山子が見えてきた。そういえば人が住んでるんだよね。外からブルーシートいっぱい見えてたし。昔ハルがイタズラしに行ってお母さんに怒られてたっけ。確かその時はカイも一緒だったんじゃなかったかな。同じことやってたら、シュウもいよいよあの二人の兄弟ってところか。嬉しいのやら悲しいのやら。
とりあえずあの案山子まで、と藪をかき分けて行くと、やれやれ、見つけましたよ我が弟。ああ、やっぱりカイもいてくれたんだね。なんか色々手間が省けていい感じだ。
兄弟だけあって、カイはハルに似ている。もうちょっと痩せてて線が細い。サッカーやってるから結構逞しいし、勉強も出来るし、いっぱい本も読んでる。ハルがカイに勝ってるところなんて、うーん、ヒナに優しいところ、くらい、かな?ああ、可愛い彼女がいるってところが独り勝ちですね。ははは。はぁ。
「・・・ああ、良かった。二人とも一緒だったんだ」
カイがその場にへなへなと座り込んだ。結構大変だったんだね、お疲れ様。その後ろで、シュウがぽかんと口を開けてヒナのことを見ている。お騒がせだな、弟よ。ヒナ姉ちゃんに感謝しな。後ついでにナシュトにもな。知らんだろうけど。
「大丈夫?」
カイの手を取って立たせてあげる。カイは六年生になった。背が高い。ヒナとあまり変わらない。ハルとも変わらないってことだよね。まだ伸びるのかなぁ。いいなぁ、ちょっとうらやましい。
カイはバツが悪そうな顔をしている。えーと、気にしないで、カイ。これはカイではどうしようもない出来事だよ。カイがシュウと一緒にいてくれて、シュウを守ろうとしてくれてただけで、ヒナは嬉しいよ。
「ありがとう、カイ。シュウの傍に付いていてくれて」
カイの頭を軽く撫でる。ちょっと背伸びしないと届かないのがややムカ。まあ、黙っておこう。
はい、問題はキミです。我が弟。
「シュウ、ダメだよここに入っちゃ。カイがいなきゃ大変なことになってたよ?」
シュウはカイのズボンにしがみ付いた。はあ、この子はもう。うーって、泣きそうな顔でヒナのことを睨んでくる。あのね、ヒナはキミのことを心配して言ってるの。カイにもいっぱい迷惑かけてるの。わかる?
まあ確かに最近あんまりシュウのことを構ってあげてなかったかもしれない。それは反省。お母さんがシュウの相手をしてあげられない時は、ヒナが相手をしなきゃだよね。その辺をカイに任せちゃってたのも反省点だ。男の子同士の方が良いかなぁ、って思ってた。実際仲良いし。
そんな訳で、ヒナの方にも責任はある。頭ごなしには叱れない。
ヒナは、ぽす、っとシュウの帽子の上に手のひらを乗せた。
「カイ兄ちゃんを困らせない。いいね?」
これが一番効くでしょ。
小っちゃい声で、シュウは「ごめんなさい」って言った。まあいいよ、それで。甘いかな。でもガミガミ言ったってどうせ聞きゃしないんだから。そういうところはヒナそっくりだ。血脈を感じるよ。
はい、ここでそんな話してても仕方が無い。まだやることは残ってるんだから。ちゃっちゃと済ませちゃいましょう。
「あの、ヒナ姉さん」
カイが恐る恐るという感じで話しかけてきた。カイは頭良いもんね。何か勘付いてはいるんでしょ。
「大丈夫、色々おかしいのは解ってるから」
そう言って携帯の画面を見せる。うん、すぐに気が付いてくれるから楽だ。カイは話が早い。ハルだったらそのままゲーム始めたり、メッセージの履歴とか見だしかねない。いや、流石にそこまで失礼じゃないか。ごめん、ハル、少し言い過ぎた。
「二人とも、ちょっとだけ付き合ってくれるかな。すぐに終わらせるから」
二人を先に帰そうかとも思ったけど、手が届く範囲にいてくれた方が都合が良い。さっさと片付けて、ヒナもお昼ご飯が食べたい。シュウを連れて帰るまでお昼抜きになっている。
あーあ、あんまり面倒じゃないと良いなぁ。
ヒナはしっかりとした足取りで、シュウとカイ兄ちゃんの前を歩いている。道なんて全部判ってるって感じだ。ホントに?大丈夫なの?
シュウは手をつないでいるカイ兄ちゃんの顔を見上げた。カイ兄ちゃんの表情は暗い。悔しさと、悲しさ。カイ兄ちゃんのそんな顔を見ていると、シュウもつらくなってくる。
ごめんね、カイ兄ちゃん。シュウが探検しようなんて言ったから。ごめんね。シュウの気持ちも沈んでくる。
「ヒナ姉さん、すいませんでした」
カイ兄ちゃんが、ヒナの背中に向かって謝った。
「ん?カイが謝ることじゃないよ」
ヒナがこちらを振り返る。後ろ向きのまま歩いてる。ええ?危なくないの?全然転んだりぶつかったりする様子はない。道から外れているので、足元はデコボコだし、その辺から枝が張り出しているのに。なんで?
「俺がシュウを誘ったんです。こんなことになるなんて、考えが足りてませんでした」
カイ兄ちゃんは悪くないよ。カイ兄ちゃんは一生懸命だった。カイ兄ちゃんは、ちゃんとシュウのお兄ちゃんだった。シュウはヒナに訴えたかった。でもカイ兄ちゃんの顔を見たら言葉が出てこなかった。
「カイも男の子で、お兄ちゃんって感じだね」
ヒナは楽しそうに笑った。
「カイは考えすぎだよ。もっとカイのやりたいようにやっても良いんじゃない?シュウなんかやりたい放題だし」
なんだよ、なんか文句あるのかよ。ヒナだって好き勝手してるじゃんか。
「大丈夫だよ。何かあっても、私やハルが助けてあげるから」
カイ兄ちゃんが、一際つらそうな顔をした。
ヒナは解ってない。カイ兄ちゃんは、ハル兄ちゃんに負けたくないんだ。ハル兄ちゃんに助けられたくなんてないんだ。シュウも、カイ兄ちゃんに負けてほしくない。頑張ってほしい。シュウの、お兄ちゃんになってほしい。
「カイ兄ちゃんだって」
思わず声が出た。ヒナとカイ兄ちゃんがシュウのことを見る。次の言葉が出てこない。何を言えばいいんだろう。カイ兄ちゃんのために、言いたいことは沢山あるはずなのに、どう伝えれば良いのか解らない。これは、シュウが子供だからなの?
「カイ兄ちゃんだって、頑張ってる」
悔しい。
カイ兄ちゃんのこと、ヒナにもっと解ってほしい。それなのに、どうすればそれが伝わるのか、解らない。カイ兄ちゃんにも解ってほしい。シュウは、カイ兄ちゃんのこと大好きだ。カイ兄ちゃん、負けるな。シュウの本当のお兄ちゃんになって。
シュウは子供だ。ヒナは高校生。ハル兄ちゃんも高校生。カイ兄ちゃんも、六年生。シュウだけが子供で、みんなと違う。みんなと同じになりたい。せめて、シュウの気持ちを、みんなに解って貰えるようになりたい。シュウの思っていることを、ちゃんと言葉に出来るようになりたい。
涙が出てきた。男の子は泣かないのに。小学校に入ったら泣かないって、お母さんと約束したのに。シュウの意思に反して、涙が止まらない。シュウは悔しい。もっと、みんなにシュウのことを知って欲しい。
「シュウ」
ヒナが、いつの間にか歩みを止めていた。シュウの前に屈んで、そっとシュウの身体を抱いた。ヒナは柔らかい。暖かい。お母さんみたいな、ちょっと甘くて良い匂いがする。
「ごめんね。カイ兄ちゃんが頑張ってるのは、お姉ちゃんも解ってる」
本当に解ってる?カイ兄ちゃんのこと、本当に解ってあげてる?
ハル兄ちゃんに負けたくない。ハル兄ちゃんと比べられたくない。ヒナといる時のカイ兄ちゃんは、いつも苦しそう。ヒナが、ハル兄ちゃんのことばかり話すから、カイ兄ちゃんはいつもそこにいないハル兄ちゃんを意識している。させられてる。
ヒナ。
カイ兄ちゃんのこと、見てあげてよ。シュウのお兄ちゃんのこと、ちゃんと見てよ。
「カイ」
ヒナがカイ兄ちゃんを見上げた。
「ありがとう、シュウのために頑張ってくれて」
そうだ、カイ兄ちゃんは頑張ってる。シュウのため。ううん、それだけじゃない。
「いえ。まだうまくいかないことばかりです。すいません」
カイ兄ちゃんの返事を聞いて、ヒナはにっこりと笑った。シュウはまだ心がもやもやする。これでいいのかな。カイ兄ちゃんは我慢している。本当は、ヒナに言いたいこと、伝えたいことがあるんじゃないのかな。
シュウの視線に気が付いて、カイ兄ちゃんは小さく笑った。ぎゅっと、シュウの手を握ってくる。言わないでほしいんだ。そうだよね。口に出したら、壊れてしまいそうだもんね。
ヒナはシュウの頭を優しく撫でた。こういう時、シュウはヒナのことをちょっとだけ素敵だと思う。お母さんみたいで、でも違ってて、それでもとっても心地良い。お姉ちゃん、って感じがする。いつもこうなら良いのに。
「さ、もう少しだからね」
再び、ヒナが先頭に立って歩き始めた。シュウがカイ兄ちゃんを見上げると、カイ兄ちゃんはシュウの頭を撫でてくれた。
「ありがとう、シュウ」
シュウはカイ兄ちゃんの味方だもん。カイ兄ちゃんのこと、よく解ってる。よく知ってる。多分、カイ兄ちゃんが思っているよりも、ずっと。
黙って歩き続けた。ヒナが自信ありげに真っ直ぐ歩いているから、もう迷っているという感じはしなかった。これで実は適当に歩いてました、とか言われたら流石にショックがデカ過ぎる。
もちろん、そんなことは無かった。ヒナはちゃんと目的地に向かっていた。三人の前に、その場所が見えてきた。
今までずっと雑木林の中だったのに、ぽっかりと開けた空間が現れた。森の中に穴があるみたい。空から太陽の光が差し込んで、緑の下草と青いビニールが映えている。
誰かが作った、ブルーシートのテントだ。
昔見たサーカスのテントの小さい版って感じ。何枚かのブルーシートが組み合わされていて、針金やロープで木材の柱に縛り付けられている。木材も綺麗なものではなくて、その辺に落ちてる曲がりくねった枝や、折れた樹木を使っている。本当に、この辺りにあるものを組み合わせて作られているみたい。
シュウとカイ兄ちゃんは、そのテントを見て足を止めた。いや、だって、これは見るからに誰かが住んでいる家だ。中に住んでいるのは誰?このまま家の前まで歩いて行って平気なの?
ヒナは二人を置いてずんずん進んでいく。ちょっと待って、ヒナ。どういうことなの?
「ヒナ姉さん」
カイ兄ちゃんが声をかける。大声を出すとテントの中の誰かに気付かれそうなので、小さいけど、はっきりと聞こえるぐらいの声で。ヒナは首だけこちらに向けると。
自信ありげに頷いた。
「大丈夫。ちょっと待ってて」
何が大丈夫なの?
誰もいないの?誰もいないって判ってるの?だとしても、今誰かがやって来たらどうするの?
そのテントに何があるの?誰だか解らない人が住んでいるんだよ?ヒナに何かがあったらどうするの?
怖い人がいて、ヒナに何かするかもしれない。ヒナが怖い目に遭うかもしれない。
ヒナが、殺されてしまうかもしれない。
ヒナが、いなくなってしまうかもしれない。
ヒナが。
やだ、いやだ。
嫌だ!
「お姉ちゃん!」
シュウは叫んだ。
ヒナは振り返らずに真っ直ぐ進み続けて。
テントの中に、姿を消した。
中に入って最初に思ったのが、臭いってこと。ああ、なんか色々腐ってる匂いがする。大丈夫かな、臭い移らないかな。
ブルーシートに包まれた内部は、薄暗くて青黒い色彩に沈んでいる。まるで深い海の底。
ヒナは迷わずに奥に進んだ。そういえばシュウが何か叫んでいた。なんだろう。まあ、ヒナが一人で入って行ったから、びっくりしたんだろう。カイも驚いたかな。ごめんね、ヒナ、もうお腹すいちゃって。
横を見る。青白い顔をした、髭もじゃの男が立っている。カイとシュウには見えなかっただろうが、実はずっとヒナの横を歩いていた。ぼろぼろになった服、伸び放題の髪と髭。何処も見ていない瞳。
このテントの住民。だった人、と言った方が良いか。残念ながら、彼はもうこの世の人ではない。ここではない何処かで、命を落としてしまった。
この場所に、彼は強い未練を残している。その未練が、この場所に近付いた人間を閉じ込めている。
ナシュトによると、こういった死んだ人間の強い未練は死霊と言うらしい。人には霊魂がある。魂は思考、霊は記憶。死んだ人間の記憶は、すなわち死霊。
よく地縛霊なんて聞くけれど、それは大体こういった死霊だ。未練のある場所にとどまって、助けを求め続けている。未練が強ければ強いほど、周りに影響を及ぼす。今回みたいな、困った状況を作り出す原因になる。
銀の鍵の力なら、死霊なんて簡単に消し飛ばせる。中学時代のヒナならそうしていた。死んだ人間とかどうでもいい。生きている人間の邪魔をするなって感じ。大体、死んでる人間の言うことは自分勝手なことがほとんどだ。問答無用。
最近、ヒナはようやく死霊の訴えについて寛容になってきた。生きている人間も身勝手であることに変わりは無い、という考えを持つに至ったからだ。むしろ、死んでまで生きていた頃の問題に振り回されるなんて、哀れで、可哀相にすら思えてくる。
もちろん、その内容によっては叶えることを断念せざるを得ないが、話だけは聞くようにしている。死んで忘れられないほどに、何を願ったのか。その願いを叶えることで、どんな平安を得ることが出来るのか。死霊たちに触れていると、人の心の奥深さについて考えさせられる。
「で、あなたは何を願うの?」
ヒナの問い掛けに、男は奥の一角を指差した。大きな檻。大型犬用のケージか。中で何かが動いている気配がする。動物、生き物が入っている。
ヒナは、はぁ、とため息を吐いた。この空間の臭いの源の一つは、間違いなくそこだ。どれくらいの間放置されていたのかは判らないが、物音がするということはまだ生きている。それにしても、無事でいてくれているのかどうか。エサや水を与える人もいなかっただろうし、開けた瞬間大変な目に遭うのはヒナだ。
「あれを出すの?」
思わず訊いてしまった。男の死霊は頷いた。はいはい、ですよね、デスヨネー。もう、解りましたよ。開けますよ。開ければいいんでしょ。うう、やだなぁ。
一応銀の鍵の力と、ナシュトにも聞いて危険が無いとは判っている。でもヒナだって女の子だ。怖いものは怖い。もしハルがこの場にいたら絶対に代わって貰ってる。こういうのは頼もしい彼氏様のお仕事だ。
しかし、残念なことに、ここにいるのはヒナの他にはカイとシュウの年下男子のみ。弟たちにこんな危なっかしいことはさせられない。しかも大見得を切って一人で入っておいて、今更「助けて」とかどの口が言うのか。お姉ちゃんとして、そんなカッコ悪い姿は絶対に見せられない。
はあ、ハル。ヒナは今頃になってハルと一緒にここに来なかったことを後悔しました。先立つ不幸をお許しください。
ケージの扉に手をかける。鍵は付いていない。ストッパーだけだ。かちり、という音がして簡単に外れる。ケージの中で暴れ回る音がする。今出してあげますよ。頼むから、大人しく出てきてね。
ヒナは一息に扉を開け放った。
ばばばばばばば。
すごい音がして、テントが激しく揺れ動いた。何かがテントの中で暴れている。ただ事じゃない。
「ヒナ姉さん!」
カイはシュウの手を離して飛び出した。シュウ、何かあったら逃げるんだ。そう思ったが、シュウもカイを追いかけてきた。ヒナ姉さんのことが心配なのは、シュウも一緒だ。解った、二人でヒナ姉さんを助けるんだ。
テントの前までやってくる。中の様子は暗くてよく判らない。何かが暴れ続けている。テント全体が揺れている。
これは。
「あーもう、出口はあっちだってば」
ヒナ姉さんの声がした。そして。
数羽のハトが、テントの中から飛び出した。
ばさばさと羽ばたく力強い音。ぐるぐるという鳴き声。虹色の光沢を反射する灰色の羽根。
鳩たちはテントの上を周回する。何かを探すように、待つように。
見上げているカイとシュウの頭の上をしばらく舞ってから。ハトたちは空高く飛び去った。眩しい太陽の下に。
※ ※ ※
全てを失って、何もかもを無くして。
この場所で、生きていこうと決めた。死ぬ勇気は無かった。どんな場所でも、生きていくことだけはやめたくなかった。
その気になれば、社会の中で生活することは可能だった。しかし、もうその意思がない。人と触れ合うことはしたくない。関わり合いたくない。言葉なんて、無くしてしまいたい。
朝日を浴びて目を覚まし、星を見て眠りにつく。どうしてだろう、今まで感じたことが無いくらい、生きていると思った。自分は生きている。ただ寝て起きるだけなのに、生きていると思う。
生きている以上、食べる必要がある。食べ物はいつも問題だ。木の実は常に手に入るとは限らない。草も、食べられるものとそうでないものがある。魚を獲るには道具がいる。動物は更に難しい。
動物の肉は、食べる前に血抜きがいる。店で売っている肉は、全て処理されているものだ。そんなことも知らないで、ここで一人で生きていこうとしていた。可笑しかった。生かされていた事実を改めて知った。
一番簡単な食べ物の入手方法は、ゴミを漁ることだ。結局社会から切れては生きていけない。どうしても逃げられない、生かされているという事実が、いつまでも付きまとう。
公園の水飲み場で水を飲む。これもまた、生かされているということ。泥水でも飲めばいいのに、清潔な水を求める。逃げられない。どんな時でも、いつまでも。
鳥が飛んでいるのを見た。自由なようで、よく見ていると不自由であることが判る。鳥の中にも序列がある。小さな鳥、大きな鳥。カラスはいつも我が物顔で、ずる賢い。弱くて小さい鳥は、群れて自分を大きく見せる。良く出来ている。不思議だ。
ハトがよく寝床にやってくる。おこぼれを預かりに来る。自分たちでエサを見つける気はないのか。人間に養われて、生かされて、お前はそれで良いのか。
そして、ようやく気が付いた。ああそうか、お前も、同じなんだなって。
生かされている。そうじゃない。お互いにただ生きている。あるものをあるがままに受け入れて、生きている。
誰かがこぼしたものを、そこにあるものとして受け入れて、自分のものにする。そうだ。それだけなんだ。ハトを見ていると、自分がそうやって、自分で自分を縛っていたことに気付かされた。
生かされてるなんて、おこがましい考えだ。ただ生きていくのなら、何も考える必要は無い。目の前にあるものを、生きるために使う。それだけなんだ。
ハトは宝物だった。大事な先輩だった。お前の様になりたい。お前の様に生きたい。あるがままに、自然のままに、ただ生きていたい。
ハトと一緒に暮らす。朝は空に放つ。日が落ちる前に、ハトは帰ってくる。ケージの中に入って、眠る。ハトを見ていると心が安らぐ。生きているって気がする。
何もいらない。本当に、何もいらない。
ただ、生きていたい。お前たちと一緒に。言葉も、何もないままに。
あるがままの世界で、あるがままに生きる。たったそれだけのこと。それだけのことが、こんなに難しい。こんなに楽しい。
ケージの中にいるハトを見て思う。こうやって閉じ込められて眠るハトを見て。
ああ、まだ自分は人間で。
失くしたくないものがあるから、こうして閉じ込めるのだな、と。
あるがままに生きることは難しい。本当に、難しい。
※ ※ ※
ヒナ姉さんが歩きながら携帯をかける。どうやら無事に繋がった。
「ああ、ハル?うん、シュウ見つかった。カイも一緒」
そうか、ハル兄さんもカイのことを探してくれてたのか。確かにさっきヒナ姉さんの携帯を見た時、時刻はもう昼を過ぎていた。昼食に戻らなかったから、心配をかけてしまったのだろう。
雑木林の雰囲気は、ハトが飛び去るのと同時に一変した。急に色々な音が耳に入ってきた。風の音、川の流れる音、遠くを走る車の音、野球の歓声。本当に、今まで聞こえていなかったのが不思議なくらい、辺りは雑多な音に包まれていた。
いつまでもハトの消えて行った空を見上げているカイとシュウに、ヒナ姉さんは明るく声をかけてきた。
「さ、終わったから帰りましょ」
何が終わったのか、何があったのか。訊いてみたい気もしたが、カイはそれを訊く気にはなれなかった。多分、カイでは理解出来ないことなのだと思うし。それに、ヒナ姉さんの笑顔は、質問をするなと言っていた。
ヒナ姉さんは不思議な人だ。以前にも似たようなことがあった。理屈で説明出来ないことが起きた時、ヒナ姉さんは何処からともなく現れて、何をしたのかも判らないうちに解決してしまった。カイの知らない何かを、ヒナ姉さんは知っている。
ヒナ姉さんは、とても素敵だ。
前を歩くヒナ姉さんの背中を見て、カイは改めてそう思った。ヒナ姉さんは、ハル兄さんの彼女、恋人。二人は両想いで、お似合い。そんなことは解ってる。
それを踏まえてなお、憧れずにはいられない。実際に目の前でこんなことをされて、心に響かないなんて、そんなことはあり得ない。横を歩くシュウも、ヒナ姉さんのことを眩しく見つめている。
ヒナ姉さんは、とても素敵だ。本当に、心からそう思う。
だから悔しい。ハル兄さんが、妬ましい。この気持ちは残念ながら、消せそうにない。ハル兄さんは、カイにとってはずっと目標だ。そして。
多分ずっと、追い付けることは無い。それでいい。
雑木林を抜けた。あんなに苦労したはずなのに、出る時はあっさりだった。ようやく広い空を拝むことが出来た。太陽が高い。まだ昼過ぎだ。大冒険をしてきたつもりでも、一日の半分しか過ぎてない。
シュウの頭を撫でる。シュウがカイを見上げて、にやっと笑う。探検隊、無事帰還。お疲れ様でした。トラブルには見舞われたが、二人には勝利の女神が味方してくれた。パーカーにジャージ姿の女神様。
「おーい」
土手の上から、ハル兄さんが手を振っていた。早い。ハル兄さんはフットワークが軽い。ヒナ姉さんの所にはすぐに駆けつける。これも、カイには勝てないことだ。
ハル兄さんはヒナ姉さんの傍に駆け寄った。感動の抱擁、とかはしない。雑木林に入るなら一声かけろとか、そんな話をしている。肝心の捜索対象の方は後回し。まあ、カノジョの心配が第一か。仕方が無い。
とりあえず、怒られる覚悟はしていた。シュウを危険な目に合わせてしまったことは確かだ。ヒナ姉さんは許してくれた。ハル兄さんはどうだろう。責任は認めてる。罰があるなら甘んじて受けよう。
「カイ、ずっとシュウから離れなかったか?」
ハル兄さんは、そう訊いてきた。どう応えようか。カイはシュウを見下ろした。シュウは力強く頷いた。ヒナ姉さんを見る。ヒナ姉さんも、笑顔で頷く。
囮になろうとした時、ヒナ姉さんを助けようとした時、シュウだけを逃がそうとしたことはあった。そこにはシュウを置きざりにする意思は無かったと、そう思う。カイは、小さく「はい」と返事をした。
「そうか、ならいい」
ハル兄さんの声と顔は、兄のそれだ。カイはまた一つ苦しくなる。ハル兄さんはそういう人。カイには判っていた。
「俺はそれでいいと思う。怒るのは母さんの仕事だ」
許されるのはつらい。怒られる方がまだマシだ。特にハル兄さんに許されると、それだけで負けた気になる。カイはまだ、ハル兄さんには遠く及ばない。ハル兄さんは、カイの兄さんで。カイは、弟だ。
「カイ、シュウを守ってくれてありがとう」
ヒナ姉さんの言葉も、カイの胸に突き刺さる。やめてください、ヒナ姉さん。うまく出来なかった。カイだけでは守れなかった。それなのに、そんなことを言わないでください。苦しくなる。自分の未熟さが、嫌になる。
カイとシュウを助けてくれたのはヒナ姉さんだ。カイは、どうしようもないくらい弟だ。ハル兄さんとヒナ姉さんに守られて、助けられている、弟だ。
シュウが手を握ってくる。シュウ、ありがとう。でもごめん、今はそっとしておいてほしい。カイはシュウのお兄ちゃんでありたい。だから、もっと強くならないといけない。カイは、兄になりたい。
土手の上の道を、四人でぞろぞろと歩いて帰路に着く。そう言えばここをみんなで歩くのは久しぶりだ。ハル兄さんとヒナ姉さんが並んで、楽しそうに話をしている。この二人のこんな光景も、もうずっと見てきた。いつものこと。そして、これからもこのまま。
まだカイが小さかった頃、二人に挟まれて、手をつないでこの道を歩いた。ハル兄さんとヒナ姉さんの顔を交互に見上げて、ずっとこのままでいたいと願った。今のカイは、二人と手をつなぐこともしない。ヒナ姉さんに助け起こされた時の感触を思い出す。暖かい、ヒナ姉さんの掌。久しぶりの、ヒナ姉さんのぬくもり。
ふと、ハル兄さんが足を止めて河川敷を見下ろした。ヒナ姉さんの顔を見て、にやりと笑う。
「ほら、ヒナ、崖だぞ」
崖?確かにここの土手は他と比べて少しだけ傾斜がきついが、崖というのは言い過ぎだ。芝が綺麗に生えているし、その気になれば普通に歩いて上り下り出来るだろう。
ヒナ姉さんはむっ、と頬を膨らませた。ちょっと珍しい表情で、カイはどきっとした。
「いいの、崖なの。あの時の私には、これはもう崖だったの」
そうか、ここなのか。
ハル兄さんが、自転車で転んだヒナ姉さんを助けた場所。崖なんて何処にあるんだろうと思っていたが、その謎がようやく解けた。何のことは無い、家のすぐ近くにある河川敷の土手だったんだ。
崖から転落して擦り傷だけとか、ハル兄さんが背負って登ったとか、怪しい話だとは思っていたが、種を明かしてしまえばそんな話だった。カイはぽかん、としてしまった。
まあそれでも、ヒナ姉さんを背負って自分の家まで運んだハル兄さんは大したものだ。土手とはいえ、他の場所よりも傾斜がきつい。小学三年生のハル兄さんが、どれだけの覚悟を持ってヒナ姉さんを探し、背負ったのか。カイには解らない。そして、絶対に追い付けない。あまりにも大きな、ハル兄さんの背中。
ヒナ姉さんにとって、ここは崖なんだ。ハル兄さんが助けてくれた、大切な場所。今の二人が始まった、大切な思い出。ヒナ姉さんが笑う。笑顔が眩しい。ハル兄さんのことが好きだって、その想いが通じてくる。
二人の想いに割り込むなんて、そんなことは出来ない。いや、してはいけない。カイはヒナ姉さんのことを、とても素敵だと思う。それは、ハル兄さんのことを好きなヒナ姉さんだ。ヒナ姉さんが輝いて見えるのは、ハル兄さんと一緒にいるから。ヒナ姉さんのことを探してくれる、背負ってくれるハル兄さんに、好きでいてもらえるから。
胸の奥が痛い。少しでもハル兄さんに近付きたい。ハル兄さんを追い越したい。そう思っているのに。ハル兄さんを追い抜くことは出来ない。追い抜いた先には、きっと何も無い。それがもう、判っている。そこには、ハル兄さんも、ヒナ姉さんも、いない。あるのはカイの自己満足。自分を満たすだけで、ヒナ姉さんの気持ちなんて、欠片も無い。
「ヒナ」
シュウがヒナ姉さんを呼んだ。ヒナ姉さんが振り向く。
「ヒナは、ハル兄ちゃんと結婚するの?」
ハル兄さんが驚いて絶句する。カイも思わず固まった。シュウ、すごいね。今度一緒に空気の読み方を勉強しよう。シュウにはまだ難しいかもしれないけど、今後のためにもやっておいた方が良い。
ヒナ姉さんも流石にこれにはびっくりしたみたいだった。でも、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「そうだなあ、ハル次第じゃないかなぁ」
こんなことくらいで、ヒナ姉さんは崩れない。やっぱり、ヒナ姉さんは素敵だ。
「僕、カイ兄ちゃんの本当の弟になりたい」
ああ、そういうことか。シュウはカイのことをとても慕ってくれてる。
シュウの訴えを聞いて、ヒナ姉さんとハル兄さんは顔を見合わせた。そして同時に笑う。息がぴったりだ。
馬鹿にされたみたいに感じたのか、シュウが不機嫌な顔になった。シュウ、あの二人は天然だ。残念なことに、いちいち気にしてたらこっちが持たない。
シュウの言葉は嬉しい。カイも、シュウのことを本当の弟だと思っている。それでも更に、名実共に本当の兄弟になりたいだなんて、兄貴冥利に尽きるってものだ。
「大丈夫だよ、シュウ。ハル兄さんがヒナ姉さん以外の女の人と仲良くなるなんて、あり得ないから」
割と本心だ。ハル兄さんの周辺を見る限り、ヒナ姉さん以外の女性の影なんて微塵も無いから。断言出来る。
それに、ここまでやっておいてヒナ姉さんを裏切るとか、親族として許せるものではない。そんなことをしたらハル兄さんは勘当、絶縁間違いなしだ。
「んだよ、それ」
ヒナ姉さんが爆笑している。ハル兄さんも迂闊には反論出来ないだろう。ないとは言いたくないだろうし、かといってあるとも言えまい。やれやれ、このぐらいは言わせて貰わないと。こっちだって色々と苦い思いをさせられてるんだ。
ハル兄さんは、もっとヒナ姉さんの存在に感謝するべきだ。きっかけは確かにハル兄さんがヒナ姉さんを助けたことかもしれない。でも、その後ハル兄さんのことをずっと慕い続けてくれたのは、ヒナ姉さんの方だ。二人の関係は、どちらかの一方通行では完成出来ない。お互いの想いがあってこその、今の二人なんだ。
兄さん。ヒナ姉さんを大事にしてあげてください。大切にしてあげてください。カイの分まで。お願いします。
「んー、そうかもしれないけど、ハルが私に飽きちゃった、っていうのも考えられるよね」
ヒナ姉さん、何ですかそれは。
そんなことは許さない。弟として、絶対に。
自分からヒナ姉さんを助けて、全てを背負って、勝手に飽きるとか、いい加減にも程がある。ヒナ姉さんは冗談で言っているのかもしれないが、そんなの決して許されることじゃない。それこそ家から追い出して、二度と敷居をまたげなくしてやる。
しかし、もし仮にそうなったとして、どうなるんだろう。ヒナ姉さんはきっと悲しむ。そして、ハル兄さんの弟であるカイを、ヒナ姉さんはどう思うのか。顔も見たくない?ハル兄さんの代わりにする?どちらにしてもヒナ姉さんに対して失礼で、想像すらしたくない出来事だ。
・・・嘘だ。考えたことはある。ハル兄さんがいなくなれば、と。カイだって考えなかった訳じゃない。ただし、結論はいつも同じ。ヒナ姉さんが好きなのは、どこまでもハル兄さんだ。身勝手な妄想であっても、カイはハル兄さんの存在を認めないわけにはいかない。あの雨の日に、ヒナ姉さんの全てを背負ったハル兄さんに、カイが及ぶことなんて、この先絶対に無い。
ヒナ姉さんが、カイの方を見た。そして。
ふわっと、カイの肩を抱いた。
「そしたら私、カイと結婚して、ハルに一生嫌味を言い続けてやるんだから」
ヒナ姉さんの匂いがする。甘くて、心をくすぐる匂い。顔が近い。髪の毛が触れる。胸が高鳴る。聞かれてしまう。気付かれてしまう。
やめてください、ヒナ姉さん。
胸が、苦しくなる。ヒナ姉さんを感じて、喜んでいる自分が嫌になる。こうやって触れてくれることが、嬉しい。たまらなく嬉しい。嬉しいのに。
カイの気持ちなんて、きっとヒナ姉さんには少しも届いていない。
「・・・それ、俺の意思を完全に無視してますよね」
カイは、かろうじてその言葉だけを吐き出した。
ヒナ姉さんの気持ちは、清々しいほどに真っ直ぐハル兄さんの方だけを向いている。カイのことなんて、何も。
ヒナ姉さんは、「ごめんごめん」と言ってカイから離れた。そして、ハル兄さんの傍に戻る。ハル兄さんは不機嫌そうに見えるが、別にカイのことなんて気にもしていない。見てもいない。ハル兄さんもまた、その気持ちはヒナ姉さんの方だけを向いている。カイの存在は、二人にとってはただの弟。そう、カイは、ハル兄さんとヒナ姉さんの、弟だから。
弟。カイはヒナ姉さんにとっては、弟だ。シュウがカイにとって弟であるのと同様に。カイは、ヒナ姉さんにとっては弟。どうしようもなくらい未熟な、子供。
ハル兄さんにとってもそう。弟。ヒナ姉さんにからかわれるだけの子供。嫉妬の対象にすらならない。なれない。
ハル兄さんに追い付きたい。いや、追い付けなくてもいい。
せめて、ヒナ姉さんに、一人の男として見られたい。男として扱ってもらいたい。意識してほしい。
カイがハル兄さんの弟である以上、それは叶わない願いかも知れない。いや、きっとそうだ。小さな望みだけど、それは叶えることは出来ない。叶えてはいけない。
カイは、ヒナ姉さんのことが好きだ。その想いは、ずっと封印してきた。今でも、隠し続けている。
優しくて綺麗なヒナ姉さん。ハル兄さんの隣で明るく微笑んでいる。幼いあの日、ハル兄さんの手を強く握るヒナ姉さんの姿が、カイの記憶から消えてくれない。カイは、あのヒナ姉さんをとても素敵だと思ったから。ハル兄さんを離さないという、硬い意思を感じさせるヒナ姉さんが、カイの憧れだったから。
ヒナ姉さんはカイとも遊んでくれた。カイを可愛がってくれた。自分の弟、シュウと同じように。同じ弟として、カイのことをとても大事にしてくれている。カイは、ヒナ姉さんのことが大好きだ。姉さんとしてだけでなく、一人の女性として。間違いなく、カイの初恋の相手はヒナ姉さん、ハル兄さんの恋人だ。
この想いを、表に出してしまったらどうなるだろう。ヒナ姉さんを困らせて、ハル兄さんを困らせて。
シュウはどうなる。もしヒナ姉さんと疎遠になってしまったら、カイのことをこんなに慕ってくれているシュウとの関係は。
いや、ひょっとしたら歯牙にもかけられないかもしれない。笑い飛ばされて、それで終わりにされてしまうかもしれない。何言ってるんだ、カイは。ハル兄さんならそう言う。ありがとう、カイ、ごめんね。ヒナ姉さんは困ったように微笑むだろう。
そうやって誰にも理解されないまま、カイの想いは溶けて消えてしまう。こんなに苦しいのに、まるで冗談か気の迷いみたいに、あっさりと捨てられる。カイの気持ちなんて、そこにあっても無いものと何ら変わらない。
空を見ると、ハトが飛んでいた。あの時放たれたハトだろうか。
カイの中にも、檻に閉じ込めたハトがいる。あるがままに、このハトを放ってしまえば、楽になるだろうか。
このハトは一度檻を出てしまえば、遠くの空に飛び立って、二度と戻ってくることは無い。大切に思うなら、檻の中に閉じ込めておくしかない。いや、永遠に外に出すことは出来ない。
あるがままに生きることは難しい。ヒナ姉さんの方をちらりと見る。ハル兄さんと楽しそうに話している。ヒナ姉さんの幸せはそこにある。このハトを放しても、誰も喜ばない。幸せにならない。カイ自身でさえも。
ハル兄さんとヒナ姉さんが仲良くするほど、カイは苦しくなる。ヒナ姉さんへの想いと、幸せそうなヒナ姉さんの姿が、相反した感情を掻きたてる。そして、二人の弟を演じる自分が嫌になる。良い弟であるのと同時に、一人の男として認めてほしくなる。
ヒナ姉さんは、冗談としか思ってないかもしれない。ハル兄さんの気を引くためのダシにしかならないのかもしれない。
だとしても、カイにとって、それはとても大切な、小さな望み。万に一つの可能性。希望という名の、檻の中のハト。
いつか陽の当たる世界に羽ばたけることを夢視て、そっと鍵をかけておこう。
今のカイに出来ることは、それだけ。ヒナ姉さんと、シュウと、ハル兄さんと。みんなの幸せを願って。一人、心に鍵をかける。
カイ兄ちゃんは、ヒナのことが好き。
シュウには判っていた。それを言葉にすることは出来なかった。だって、ヒナはハル兄ちゃんのことが好きで、ハル兄ちゃんと付き合ってて。
カイ兄ちゃんは、ヒナの弟だから。
カイ兄ちゃんは弟になりたくない。ハル兄ちゃんの弟であることはやめられないけど、ヒナの弟にはなりたくない。カイ兄ちゃんは、ヒナと同じ場所に立ちたい。
いつも、カイ兄ちゃんは苦しそうな顔をしている。シュウもつらくなってくる。ヒナは、カイ兄ちゃんの気持ちを知っているのか、知らないのか。いつも、カイ兄ちゃんをハル兄ちゃんの弟として扱う。それは間違ってないのかもしれない。ただ、それはカイ兄ちゃんには、とてもつらいことだ。
ハル兄ちゃんと楽しそうに話すヒナ。その後ろを、苦しそうな顔でカイ兄ちゃんが歩く。シュウはカイ兄ちゃんと手をつなぐ。
ねえ、カイ兄ちゃん。
シュウは、カイ兄ちゃんの味方だよ。シュウはカイ兄ちゃんに、本当のお兄ちゃんになってほしい。そうなってくれるのが、一番嬉しい。
ヒナはハル兄ちゃんと結婚するのかもしれない。でも、カイ兄ちゃんと結婚する可能性だって、無いわけじゃないよね。そっちのやり方でも、シュウはカイ兄ちゃんの弟になれる。それぐらい、シュウにも解ってる。
ねえ、カイ兄ちゃん。
可能性があるなら、それでいいじゃない。ひょっとしたら、もしかしたら、万が一。起きるかもしれないって、希望があるのって良いことだと思う。信じることが出来るって、素敵なことだと思う。
シュウは、子供だからよく解らない。うまく言葉に出来ない。また、胸の奥がもやもやしてる。
ねえ、カイ兄ちゃん。
シュウは、ヒナの弟をやめることだけは、出来ないんだ。
どう頑張っても、シュウはヒナの弟。ヒナは、シュウのお姉ちゃん。眩しくて、綺麗で、カッコいい、お姉ちゃん。
ねえ、カイ兄ちゃん。
可能性があるなら、信じてみようよ。シュウのハトは、絶対に外に出せないんだから。
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