ハルの嵐

第1話 ハルを愛する人

 五月、ゴールデンウィークが明ける頃には、もうすっかり高校生活にも慣れてきた、つもりだ。

 未だに教室移動の時にはどっちに行って良いのか判らないこともあるし、連休明けに自分の教室に無事辿り着けてほっとしたりもした。

 それでも、とりあえずここが、この学校が自分のいる場所だと認識することは出来ている。少なくとも三年間は在籍することになるのだから、ある程度の愛着くらいは持っておくべきだろう。

 同じ中学から来た友人たちとは、ある程度クラスが分かれてしまったので、最初のうちは少し寂しいと感じることもあった。ただ、肝心な相手だけは同じクラスだったし、その結果を得られたというだけで、ひとまず一年生の間は幸せのうちに過ごすことが出来そうだ。

 曙川あけがわヒナ、十五歳の高校生活は、まだ始まったばかり。

 大き目の制服、スカートだけは短めにして。肩までかかる髪は、中学の頃は校則で縛る必要があったのを、ふんわりとしたウェーブに任せてほどいて。なんだか女の子、女子高生という感じがして、それだけでヒナは心が数センチ浮かんでいる気がしていた。

 流石に一年生の分際で化粧までしてしまうと、生活指導や先輩に目を付けられそうなので手を出してはいない。まあ、そんなことをしなくても、白くて清潔感のある肌、ぱっちりとした大きな目、緩やかな鼻筋のカーブ、小さくても存在感のある唇と、女子としては十分に及第点。毎朝登校前にきちんと鏡を見て確認する。うん、可愛い。

 ヒナとしては別にモテる女の子になろう、などというつもりは毛頭なかったが、自分を綺麗に見せたい、とは常々思っていた。

 ヒナには好きな人がいる。

 その人が自分のことを好きになってくれれば、他の人は本気でどうでもいい。

 どうでもいいが、その人の横にいて恥ずかしくない女の子でありたいし。他の女の子に目移りされるとかまっぴらごめんだ。

 その人がヒナ以外の誰かを好きになるとか、考えたくないし、そんなことはあり得ない、とは思う。思うけども。

 世の中は何が起こるか判らない。

 ヒナ自身、そのことは身をもってよく知っている。だから、油断は禁物だ。気を抜かず、確実に。

 で、その肝心のヒナの好きな人は、今ヒナの前を黙々と歩いている。

 まだ入学して一ヶ月ちょっと、学校の構造はまだよく理解しきれてない。なので、ヒナは今自分が何処に向かっているのか、何処に連れていかれようとしているのか全く把握していなかった。

 放課後、「ちょっと話がある」なんて言われて、二人して教室を出て。

 昇降口で外履きに履き替えて、特殊教室棟との渡り廊下を潜って、駐輪場の脇を抜けるところまでは判ったが、後はもう何処をどう歩いたのやらだ。

 その間、お互いに全く言葉を交わしていない。

 まあでも、一緒にいるのが彼ならば、何がどうなっても別にいいか、とヒナは楽観的に構えていた。

 朝倉ハル、ヒナと同じ十五歳。健全な男子高校生。クラスメイト。ヒナとは小さい頃からの幼馴染同士。

 そして、ヒナの好きな人。

 好きな人、という言い方が、ヒナはあまり気に入っていなかった。

 「好き」という言葉はどうにも幅が広すぎる。英語だとライクでもラブでも「好き」だ。フェイバリットなんて言い方もあるが、それは「お気に入り」って感じか。でもやっぱり「好き」ってことでもある。

 ハルのことを一言で「好き」と言って片付けてしまうのが、ヒナには気に入らない。かといって、くどくどと言葉を並べたところで、どうにもすっきりするわけではない。

 一緒にいたいか、と言われれば一緒にいたい。

 独占したいか、と言われれば独占したい。

 ハルのために何でも出来るか、と言われれば割と本気で何でも出来る。

 ハルのために死ねと言われれば、勢い余って本当に死んでしまいそうで自分で怖くなる。

 なかなか理解を得られそうもないので、親しい友人相手であってもそこまでは言わないことにしている。だって色々と誤解を招きそうだし。

 前を歩くハルの背中を見る。

 ヒナと同じで、真新しくてちょっと大きめの制服。中学の時は身長が伸び悩んでいて、今もヒナと同じくらいだから、一五五センチといったところか。

 バスケットボール部に所属していたけれど、こちらも色々と伸び悩んで、結局レギュラースタメンには入れず、高校では部活は無所属という状態だ。

 それでも、地道に身体を鍛えていた結果として、細身ながらしっかりと筋肉は付いている。そういう隠れて逞しい感じとか、ヒナにとってはなかなかポイントが高い。

 中学時代、ハルと話を合わせるためだけにヒナも女子バスケ部に入ったが、結果はハルに増して散々だった。

 その記憶は今は封印しておこう。

 封印を決めたそばから、右手の指四本突き指して中間テスト前にシャーペンが握れなくなって呻いた思い出にヒナが顔をしかめたところで、ハルがようやく足を止めた。

 辿り着いた場所は、どうやら格技棟の裏手辺りか。壁の向こうは用具倉庫なので、部活中の柔道部やら剣道部の声もあまり聞こえてこない。

 反対側は学校の外。昔在日米軍の基地だったとかで放置されている広大な空き地。今は草やら木やらが伸び放題で全く手入れされておらず、ちょっとしたジャングルみたいになっている。

 恐らく、ここは学校の中で一番人気のない場所。

 おお、とヒナは目を輝かせた。

 これはアレだ。ハルがどうやってこの場所を知ったのかは知らないが、何らかの伝手でこの情報を得て、わざわざヒナを連れてきたということは。

 これは間違いなく愛の告白だろう。

 ちょっと顔でも赤らめた方でもいいだろうか、とヒナは軽くうつむいてみた。上目づかいで見る感じの角度がどんなだったか、以前鏡の前で練習した時のことを思い出す。もうちょっとこう左足を引いて、ハルに対して身体を斜めに。ええいこの辺一帯日陰なので顔が影になりすぎるじゃないか。

「ごめん、ヒナ、こんなところに連れてきて」

 ハルがヒナの方を振り返った。

 日焼けしにくいのが悩みで、ちょっと色白気味で、面長で痩せた顔。

 それがカッコいいと思っているのか何なのか、ぼさぼさで寝癖がついてるみたいな黒くて中途半端に短い髪。

 本人は鋭いって自称してたけど、細いだけで迫力のかけらもない緩やかな垂れ目。

 うん、大丈夫。カッコいいか悪いかで言えば、ちゃんとカッコいいの部類に入る。ヒナはやっぱりハルが好き。

「ううん。どうかしたの、ハル?」

 声が上ずりそうになってヒナは少し焦った。これだけ期待させといて肩透かしだったら物凄いガッカリだ。

 まあでも、そんなヘタレであったとしても、それはそれでハルらしい。そんなハルでも、ヒナはやっぱりハルが好き。だめだ、このシチュエーションはあまりに甘だるくて、思考がちっとも正常に働かない。勝手に顔がにやけそうになる。踏ん張れ、ええっと、素数とか数えろ。素数ってなんだっけ?

「その・・・」

 ハルが言い難そうにヒナから視線を外す。

 ああ、これは当選確実だ。教室で声をかけられた時から、期待していなかったとは言わない。でも心の準備は間に合っていない。心臓が激しく暴れまわるのを感じる。祭りだ。

 正直今更感のあるハナシではあったが、実際にこういう状況になるとときめくものだなぁ、とヒナは他人事みたいに考えた。いや、まだ何も言ってもらってない。これからだ。これから。

 頑張れハル。ここはハルに頑張って言ってもらいたい。ヒナ的にはそれでまたポイントアップ、キャリーオーバーの予感がする。

「ヒナは、俺のことどう思ってる?」

 そっちからかーい。

 ヒナは心の中で全力で突っ込んで、表面上はにっこりと微笑んだ。

「ハルは私のこと、どう思ってるのかな?」

 質問に質問で返すのは反則だと重々承知している。でもごめん、ここはやっぱりハルのターンであってほしい。

「俺は・・・」

 ハルは黙った。

 意地悪じゃなくて、このシチュエーションならハルの方から言ってもらわないと。

 今後のお互いの立ち位置にも影響しちゃうよ?と余計な心配までしてしまう。ヒナとしてはやっぱりハルに力強く引っ張って欲しい。女の子だし。

「ヒナ」

「はい」

 フライング気味に返事してしまって、ヒナは自分が相当動揺していることに気が付いた。

 落ち着け自分。いや無駄に落ち着いてる気もする。実は落ち着いてないのか。いや、落ち着いてハルの言葉を聞こう。

「この前、視聴覚室でビデオ見た時さ、男の先輩と一緒にいただろ」

 はい?

 思わず口からこぼれ出そうになった言葉を慌てて回収する。

 待て待て。ハルにそんな勘違いをさせる行動など取った覚えはない。取るはずがない。なんだそれ。

 記憶力にそれほど自信があるわけではないが、今は緊急事態だ。ヒナはフル回転で頭の中を引っ掻き回す。視聴覚室の授業?なんだっけ、社会のビデオかなんか観たような。連休前じゃなかったか?眠くて耐えきれなくて、ついうとうとして、てっぺんハゲのおっさん教師に怒られた嫌な記憶しか出てこない。

「授業が終わった後、なんか荷物持ってもらって、話してた」

 ああー。

 ようやくヒナの脳内検索がヒットした。もうちょっといいサーチエンジンが必要だ。

 名前すらよく覚えていないおっさん教師に居眠りを注意されて、授業の後アンケート用紙とその他諸々の荷物運びを命じられた。女の子に荷物持たせるとか何て奴だ、と居眠りに関しては全力で棚に上げて憤慨したのを覚えている。

 それはさておいて、廊下に出た後、なんだか胡散臭いと言うか、似非の臭いがぷんぷんしてきそうな男の先輩が、荷物を持ってあげようかと申し出てくれたのだ。

 確か、背が高かった、とは記憶している。顔は、まあカッコよかった?のか?正直ハル以外の男子の顔など記憶する価値が無いと思っている。目が二つあって鼻が一つあって口が一つあって、ああはいはい、って感じだ。

 ついでに言うと、ヒナに対してちょっとよこしまな欲求があることが判ってしまった。まあそんなのは別にその男子に限ったことじゃないし、ヒナにとってはかなりどうでもいいことだった。それが判るようになってしまった当初、中学の頃は凍りつくほど恐怖したけど、いい加減慣れた。慣れとは恐ろしいものだ。

「いたね、そんな人」

 結局、そんな言葉がぼろっと流出した。

 思い出せただけ褒めてほしい程度のエピソードだ。何しろヒナにとっては良い要素が一つもない、実に無価値なハナシだ。

「ヒナは、高校に入ってから、なんていうか、その、すごい可愛くなった」

 お、なんだそれ。嬉しいことを言ってくれる。

 中学の頃はそこまで可愛くは無かったのかそうかそうか、という野暮なツッコミはとりあえず保留にしておいて。

 可愛いと言われるのは気分が良い。ハルに言われるなら格別だ。いいぞ、もっとやれ。

「だから、ヒナが誰かにそういう目で見られるというか、ヒナが誰かに取られるというか、そういうの、嫌なんだよ」

 よっしゃきた。

 とりあえず心の中でガッツポーズ。

 ハルが嫉妬してくれている。その事実はたまらなく嬉しい。ありがとう、えーと顔が良かったかもしれない先輩。あなたの欲求に応えてあげることは出来ませんが、せめて脳内では好きにしてくれていいです。あ、やっぱりちょっと嫌だからやめてください。

 大丈夫だよ、ハル。そんなこと絶対無いから。ヒナはハル以外の人を好きになるとか、絶対に無い。

 そう言って抱きつきたくなるのをぐっと我慢する。いくらなんでもそれは安すぎる。もうちょっと高く売りつけたいというか。

 もう少しいい気分でいたいじゃない?

「ああ、なんかまだるっこしいな」

 ハルがそう言ってぐしゃぐしゃと自分の髪を引っ掻き回す。

 頑張って、もう少し。デキレースなんだから大丈夫でしょ。

 うーん、そんなに告白を躊躇させるほど思わせぶりな態度ばっかりしてたかなぁ。ヒナはちょっと反省した。そんなつもりは無かったんだけど、これがちゃんと出来たらもう少し素直になれるように努力してみよう。努力だけ、じゃダメか。じゃあ出来るだけ素直になる。今のハルと同じくらいには頑張る。

「ヒナ!」

 ハルが大きな声を出した。

 いくら人気が無いとはいえ、流石にそんなボリュームで喋られてしまうと誰かに気付かれてしまうかもしれない。

 でもまあ、気合が必要なんだよね。そこは理解出来る。だから。

「はい!」

 応援するみたいに、ヒナも大きめの声で返事をした。エールの交換だ。

 ハルが真っ直ぐにヒナを見つめてくる。こんな真剣なハルの顔を見るのは久しぶり、いや、初めてかもしれない。レアだな、とか考えてちゃいけない。いやでも実際スーパーレア級でしょう。

 期待して良いんだよね?知らずに目がうるんでくる。こんなにハルと見つめ合うのは、やっぱり初めてだ。どきどきする。こんなことでまだこんな風に感じられるなんて、ちょっと意外な発見だ。

 待ってたよ、ハル。ヒナはずっと待ってた。

 さあ、どうぞ。

「好きだ、俺と付き合ってくれ」

 百点だ。

 ふわっと、心の中が軽くなって、一瞬頭が空っぽになる。すごいな。自分がバラバラになって、また元に戻ったみたいな、不思議な感じ。ハルは言葉でヒナを殺して、そのまま生き返らせた。ずっと欠けていたピースが埋まって、大きな画が出来た気がする。ずっと見たかった画が描いてある。ハルの画。ハルと一緒にヒナが笑っている画。

 ありがとう、ハル。すっごく嬉しい。すっごく幸せ。本当に、今日という日をクリップしてヒナのトップページに固定しておきたいくらい嬉しい。人生の幸福イベントのうち、間違いなくトップテンにエントリーする。ありがとう。

 返事なんて決まっている。問題は、どう応えるか、だ。ヒナはそれだけを迷っていた。

 ああでも、素直になるってさっき決めたんだっけ。恥ずかしいなぁ。

「ありがとう、ハル。好きって言ってくれるの、とっても嬉しい」

 思ったままのことを口に出す。

 駆け引きとか、正直あまり好きでも得意でもない。特に相手がハルとなると、どうしても感情が出てしまう。

 だから、ヒナの気持ちなんてとっくに伝わっているものだと思っていた。

 本当に難しい。困ったものだ。

「でも、幼馴染でお手軽な女の子、とか思ってないよね?簡単にオッケーしてくれそうだー、とか」

 ごめんね、ハル。もうちょっとだけ高く売らせてね。

 ハルがヒナと釣り合うだけの気持ちを持っているのかどうか、そこだけはどうしても気になっていた。そんなことは無いと信じてはいる。けど、やっぱり確認だけはしておきたい。

 ハルはむっとした顔をした。お、いいね。

「なんだよそれ。お前俺がどういう気持ちでこんなこと言ってると思ってるんだよ」

 怒らせてしまった。

 そうだよね、怒るよね。ごめん。ただ、ヒナはハルに話していないことがある。

 ヒナの「好き」は、多分ハルが考えているよりもずっと重い。

 言葉にしたらドン引きされるか、まあ、そうでなくても変な誤解を生むには違いない。

 それならそれで構わないとも思うが、どうせならちゃんとお互いにきちんと理解しあって、好きあっていたいと願ってしまう。

 だって、折角ハルが告白してくれたんだよ?いい加減な答えなんて出したくないよ。

「ごめんごめん」

 曖昧な笑顔で誤魔化す。

 ハルはぷいっと横を向いてしまった。でも、すぐに許してくれるはず。だって好きなんでしょう?

 それに、ちゃんと返事しますよ。大丈夫。

「ハルの気持ちがどの程度なのか判らなくてさ。ちょっと確認したかったんだよ」

 悪戯っぽく微笑むのを忘れない。こういうのは演出も大切だ。

 ハルがチラッとこっちを見る。よし、ばっちり見たね。結構練習したんだから、見ててくれないとホントに困るよ。

「どの程度って」

 安くなければいいんですよ。

「だって、私だけ本気だったりしたら、フェアじゃない、でしょ?」

 うん、大丈夫だ。

 ハルのことは信じられる。昔から、ずっと。

 ハルが顔を赤くする。ヒナの顔も赤い。これは意識してやっている演出ではない。ヒナもそこまで演技派ではない。

 長かったなぁ、とヒナはぼんやり考えた。一応、隠していたつもりなんて全然無くて、むしろこういうけじめというか、儀式が必要になるとも実はあまり想定していなかった。

 なあなあで、成り行きで。別にそれでも一向に構わなかった。なんだっけ、新幹線だろうが飛行機だろうが、新大阪に着けば一緒なんだっけ?どんな流れであっても、最終的にヒナの望む結末に行き着くのであれば、それはそれで満足だ。

 そうは思っても、ハルがこうして告白してくれたことは、素直に嬉しかった。こういうのって大事だよね、と真面目に思った。やっぱり、お互いの意思を、想いをちゃんと言葉にして直接伝えるのって、とても大切だ。

 何しろ、こんなに胸が弾むんだから。

「私もハルのこと好きだよ。お付き合い、よろしくお願いします」

 ホント、今更なんだけどね。

 大体もう十年以上も一緒にいるのに、お付き合いって言っても何をすればいいんだろう。

 しかもその十年のうち半分以上、ヒナはハルのことが好きだったのに。

 ずっとハルだけを見て、ハルの隣にいようとしてたのに。

 でも声に出して「好き」って言ってみたら、思いのほかその言葉はしっくりときた。

 食わず嫌いならぬ、言わず嫌いか。じゃあもうちょっと重い方も言ってみてしまおうかとも思ったが、流石にそれはやめておくことにした。

 何しろ、安くはないので。


 雨の音を聞くだけで思い出す。

 ホワイトノイズみたいなサァーっていう静かな音じゃなくて、ボツボツボツボツって感じの、ビニールの雨合羽を大きめの雨粒が叩く音。

 遠くでごぉーっていう低い音がずっとしている。カタカナじゃないな、ひらがなで「ごぉー」って感じだ。これは増水した川の流れる音。

 音の情報ばかり思い出すのは、きっと本当は聞きたかった他の音が一切聞こえなかったからだと思う。

 音以外のことでも、覚えていることは沢山ある。顔に張り付いた濡れた髪の気持ち悪さとか。べっちゃりと濡れた服の冷たさと重さとか。泥と草の混じった臭いとか。どくどくと脈打つ自分の心臓の鼓動とか。

 足の傷の痛みとか。

 ああ、夢をみてるんだな、とヒナはまるで他人事みたいに考えた。この時の出来事は本当に頻繁に夢にみる。自分でも、良く飽きないなと思うが、飽きないんだから仕方がない。それだけ強く刷り込まれている記憶だし。

 それに、それだけ大事な思い出だった。

 ヒナが八歳の時だから、小学校三年生だったか。弟のシュウが産まれた。

 弟が出来ると判った時は無邪気に喜んでいたが、実際に産まれてからは、ヒナにとってはつまらないことの連続だった。

 お父さんは元々出張ばかりで家にいない。お母さんは赤ちゃんのシュウにかかりきり。ヒナが何を言っても、何を望んでも、生返事ばかりでちっとも構ってくれない。

 シュウはくにゃくにゃしているだけで、ヒナがちょっと突っつくと泣きだして、お母さんに怒られる。可愛くないとは言わないけど、シュウばっかりお母さんを独り占めして、ずるい。ヒナだって、お父さんが居ないことが多い中、お母さんが相手になってくれないととても寂しい。

 確か小学校の展覧会だった。ヒナの絵は先生にとても褒められた。お母さんにも見てもらいたかった。ヒナ凄いね、上手だねって褒めてもらいたかった。

 でも、お母さんは展覧会には来れなかった。シュウがいたからだ。シュウが少し熱があると言って、お母さんはずっと家にいた。

 展覧会にはハルのお母さんが来てくれた。ハルと、ハルのお母さんと一緒にヒナの絵を見た。ハルのお母さんはヒナを褒めてくれた。でも、そうじゃない。ヒナが欲しかったのは、ヒナのお母さんの言葉。

 ハルのお母さんにはとても申し訳なかったが、ヒナはうつむいたまま何も言えなかった。ハルがそんなヒナのことを黙って見ていた。多分、その時にはもう、ハルは察してくれていたんじゃないかって、そう思ってしまうのは虫が良すぎるだろうか。

 家に帰ると、お母さんがシュウの横に並んで眠っていた。シュウを優しく抱いていた。外では雨が降り始めている。雨で濡れたヒナが帰ってきて、誰もいない薄暗い玄関で「ただいま」って言って歩いて、お母さんとシュウの姿を見て。

 ヒナの居場所は、ここには無いんじゃないかって、そう思ってしまった。

 何処に行こうとしていたのか、何をしようとしていたのか。何処にも行けないって、何も出来ないって、そんなことは判っていたはずだ。いくら子供でも、そのくらいの理屈は理解出来る。

 でもじっとしていられなかった。お母さんとシュウの寝顔を、ただ黙って見ていることなんて出来なかった。そんなことをしていたら、ヒナは壊れてしまいそうだったから。

 黄色い雨合羽を着て、ピンクの長靴を履いて。ヒナは薄暗い中、自転車で走り出した。雨粒がビニールを叩く音、きいきいという自転車の音。後は、自分のすすり泣く声。

 ペダルを漕ぐ足に力が入る。何も考えない、考えたくない。暖かい部屋で、お母さんとシュウが幸せそうに寝ている。嫌だ、考えない。ヒナは何処にいればいいんだろう。考えたくない。

 頭の中がぐるぐるする。涙が出てくる。声が出そうになる。寂しいよ、つらいよ、嫌だよ。いろんな感情と、言葉が爆発しそうになる。自転車のハンドルを、ぎゅっと強く握る。

 濡れたゴム長靴が、にゅる、という感触で滑るのが判って。

 ヒナは、あっ、と思ったけど。

 その時には、もうヒナの小さな身体はもんどりうって。

 自転車と一緒に、崖の下に吸い込まれていく所だった。

 ・・・やっぱり良く覚えているのは、音だ。

 身体を叩く雨の音。雨合羽が水を弾く音。遠くから聞こえる川の音。

 起き上がろうとすると、足が酷く痛んだ。太ももに、大きな擦り傷が出来ている。血と泥と雨で、ぐちゃぐちゃになった傷口が、ずきずきと疼いている。それほど血は出ていないみたい。でも、こんなに大きな怪我をしたのは初めてだ。実際、この傷痕は高校生になっても残っている。

 ヒナは大声で泣いた。お母さんを呼んだ。助けて欲しいと訴えた。

 雨の河川敷には、誰もいなかった。もちろん、ヒナのお母さんだっていない。ヒナの泣き声も、大きな雨音にかき消されてしまう。ヒナは自分の家にまで届くくらい大きな声で泣いたつもりだった。でも、実際にはすぐ近くにいてもほとんど聞き取ることが出来ない程の、小さな声にしかなっていなかった。

 お母さんの声が聴きたい。優しい言葉で、大丈夫って言ってもらいたい。泣きながらも、ヒナは耳を澄ませる。助けてくれるはずの人の声、来てくれるはずの人の声。聞こえてくるはずだ。聞こえてくるよね。お願い。

 雨脚が強くなって。足の痛みが強くなって。

 ヒナは、本当に自分のいる場所が無くなってしまったという、暗い絶望感に襲われた。

 ヒナは一人ぼっちだ。家に帰っても、お父さんは仕事でいない。お母さんはシュウばっかり。ヒナは一人で帰ってきて、一人でご飯を食べて、一人でお風呂に入って、一人で寝る。

 頑張って絵を描いても、誰も褒めてくれない。こうやって家を飛び出しても、誰も探しに来てくれない。誰も追いかけて来てくれない。

 怪我をしても、誰も助けてくれない。泣いても、誰も慰めてくれない。誰も、大丈夫だって言ってくれない。

 誰も。

 誰も。

 誰も・・・

「ヒナ!大丈夫か、ヒナ!」

 だから、この時のハルの声は、一生忘れない。

 絶対に忘れない。あの時の絶望を、孤独を、痛みを、何もかもを吹き飛ばして、ヒナを照らしてくれた光を。

 ヒナを助けてくれたハルのことを、ヒナは絶対に忘れない。

「ハル!ハル!」

 ぼろぼろになって泣きながら、ヒナはただハルの名前を呼び続けた。他の言葉なんて忘れてしまった。だって、他に何が必要なんだろう。ヒナには、ハル以外に必要なものなんて何もない。

 ハルはヒナの横にしゃがむと、ヒナの足の怪我に気が付いた。うっと、つらそうな顔をする。擦り傷だが、範囲が広い。皮が破れて、じくじくと膿が沸き出している。

「怪我してるのか?立てないのか?」

 ヒナは泣きながら、ただ何度もうなずいた。何も考えられない。ハルが喋ってる。それに応えないといけない。嬉しい。助けて欲しい。もう、何もかもが混ぜこぜだ。

「わかった、おんぶするから、負ぶされ!」

 今思い出しても、この時のハルは、とにかくカッコいい。

 ヒナは別に太っているわけではなかったけど、痩せているってこともなかった。身長も体重も、多分当時のハルとそんなに差は無かったはずだ。決して軽いとは言えない。

 ハルは、ヒナを背負って崖をよじ登った。

 正直に言うと、その辺りの当時の状況がどうであったのかは、ヒナは正確には記憶していない。

 何しろ、ハルの背中にしがみついた後は、ずっと目を閉じていた。

 ハルの身体に回した手にぎゅっと力を入れて、ぴったりとしがみつく。ハルの体温を感じる。暖かい。空っぽだった胸の奥が満たされていく。足の痛みはまだ残っているけど、ずきずきとどきどきが混ざって、奇妙なハーモニーが頭の中で響いている。

 知らない間に、涙は止まっていた。もう泣いてない。ハルの背中に顔をうずめていたら、なんだか落ち着いてしまった。ハルに抱き着いてたら泣き止むなんて、変なのって少し可笑しくなった。

 後でハルに聞いた話。

 ハルにも、四歳下の弟がいる。名前はカイ。ハルと違って秀才っぽい感じなんだけど、それはまあちょっと置いといて。

 カイが産まれて、やっぱりハルもヒナと同じに、両親にあまり構ってもらえない時期があった。両親がどちらもカイに取られてしまったみたいで、ハルも家の中に居場所が無い感じ、疎外感に苛まれた。

 だから、ヒナに弟、シュウが出来た時、ヒナの様子を見てハルはとても心配していた。ハルが感じたのと同じに、ヒナも酷く寂しい思いをしているのではないかと、とても気にかけていた。

 怪我をしているヒナを見つけた時、ハルは最初は誰か大人を呼んで来ようとしたらしい。確かに、小学生にどうにか出来る状況でもないだろう。

 一度その場を離れようとしたところで、ハルは思いとどまった。泣いているヒナを見た。ヒナをここに置いて、何処かに行ってしまっていいのだろうか。ヒナは何故こんな所に一人でいるのか、ハルはその理由をよく判っていた。ヒナを一人にしてはいけない、そばについていなければいけない。

 ハルは、自分の力でヒナを助ける手段を選んだ。

 ハルの判断は結果として正しかったと、ヒナはそう考えている。ヒナが今、自分のこと、そしてハルのことを信じられるのは、何よりもそのおかげだ。

 それに。

 ハルの背中で、ハルにしがみついて、ハルの体温を感じて。

 ヒナは、ハルのことが好きになった。恋をした。

 それまでも、ハルの家とは家族ぐるみで付き合いがあって、ハルとは仲の良い友達だった。

 曙川と朝倉で、出席番号も近い。ちょっと乱暴というか、ぶっきらぼうな所もあるけど、まあ男の子だしそれは仕方ないだろう。

 良く一緒に遊ぶ友達。友達としての、好き。

 それを一気に振り切って、全く違う「好き」になってしまった。

 ヒナは、やっぱり「好き」という言葉で全部を片付けるのは気に入らない。だって、ハルはヒナにとって、他に替えの無い、たった一つの居場所。それを一言で片付けるなんて、どうしても納得出来ない。

 ヒナを助けてくれる、ヒナを探してくれる、ヒナを見つけてくれる、ヒナをわかろうとしてくれる。

 本当に大切な、大好きなハル。

 ハルに助けられた後、色々あって、ハルと、ハルのお母さんと一緒に家に帰って。

 お母さんに泣かれて、怒られて、謝られて。

 その間、ヒナはずっとハルの手を握っていた。だってもう、離さないと決めたから。絶対に離さない。ここは、ヒナの場所。何があっても譲らない。絶対にだ。

 あまりにヒナが頑固なので、ハルが家に帰る際にちょっと困らせてしまったんだけど、それもまた良い思い出だ。

 その時から、ハルはヒナの一番。ヒナの特別。

 色々言われることもあるけど、ヒナはハルのことだけを考えて、ハルのためだけに生きてきた。胸を張って言える。ヒナは、ハルのことが好き。大事なことなので何度も言う。ヒナは、ハルのことが好き。

 だんだん夢から覚めてくるのを感じる。前半はつらくて悲しいけど、後半に救いがあっていい話だ。何回見てもいい夢だ。本当に飽きが来ない。

 そういえば、昨日ハルから告白されたんだった。好きです、付き合ってくださいって。うわぁ、それはスゴイ。

 ヒナはハルのことをずっと好きだったけど、ハルがヒナのことを好きかどうかはまた別な問題だ。ハルに好かれるために、ハルの好みの女の子になるために、ヒナだって全く何もしてこなかったわけではない。

 幼馴染という距離は本当に微妙で、放っておいてもくっつくみたいな扱いをされるのはちょっと腹立たしい。ヒナがハルの隣に居続けるために、どれだけ涙ぐましい努力をし続けて来たと思っているのか。近くにいるからこそ意識されない可能性について、もう少し理解があっても良い気がする。

 とは言っても、正直自信はあった。だって、好きでもない娘のことを雨の中探しに来てくれる?怪我しているところを背負って助けてくれる?一人にしてはいけないなんて言ってくれる?

 そして、この度ついに告白までしてもらった。オッケーしないはずが無い。だって、ハル以外の誰かなんてもう考えられない。この気持ちをずっと大切にしてきたからここまで来れたって、大声で叫びたいくらいの幸せだ。

 いよいよ彼氏彼女。ははは、なんだそれ。どうすればいいんだろう。何すればいいんだろう。何か特別な事とかしなきゃいけないのかな。

 朝一緒に登校するとか?あれ、もうしてる気がするな。実は半分待ち伏せみたいな感じなんだけど。

 携帯でお話ししたり、メッセージのやり取りしたり?うん、当たり前のようにやってるね。

 えーと、お弁当でも作ろうか?それくらいかなぁ。でも予告なしで作ってくのはマズイか。ハルのお母さんにも相談しないとだし。ハルの好きな食べ物とかはもう知ってる。でも毎日作るとなるとレパートリーも考えないと。ああすごい、新妻の悩みみたい。うひひ。

 気が付いたらすっかり目が覚めていた。もう何処からが夢で、何処からが妄想だったのかが判らない。目をつぶったまま、うへらうへらと怪しい笑みを浮かべてしまっている。

 起きないとな、でもまだ目覚まし鳴ってないしな。早起きしたとしてどうしようか。ちょっと念入りに髪とかいじってみようか。うん、そうだ。今日もハルの前で可愛くいたい。

 よし、とヒナは目を開けて、一気に上半身を起こした。

「随分楽しそうな夢をみていたようじゃないか」

 起き抜けに聞きたくない声を掛けられて、ヒナの機嫌は一気に最底辺にまで下降した。なんだこいつ、普段は呼んでも出てこないくせに、なんでこんな時だけ出てくるんだ。実に不愉快だ。

 顔を横に向けると、ベッドのすぐ脇にナシュトが立っている。すらりとした長身、浅黒い肌に、ムキムキの筋肉質。腰巻に豹の毛皮とか、エジプトの神官ってハナシだけど、ヒナに言わせればどっかの総合格闘技の選手みたいだ。

 そしてサラサラの銀髪。ルビーを思わせる赤い瞳。高い鼻、彫りが深くて、それでいてスッキリとした顔立ち。はいはい、イケメンイケメン。

 朝起きたらベッドの横に異国風イケメンが立ってましたー、きゃー。ふざけんな。ラノベか。

「何?人の寝顔見て何やってんの?それが神様のやることなの?」

 この神様には本当に困ったものだ。いくら不測の事態とはいえ、こんな神様が自分と一体化しているとか、どういう拷問なんだ。イケメンならなんでも許されると思ったら大間違いだ。

「我が何をしていようが我の勝手であろう。お前こそ自意識過剰なのではないか」

 ああむかつく。なんだこのイケメン。本気で何やってもいいと思ってるんじゃないのか。神様にでもなったつもりか。そうか神様か、こん畜生。

 しかしナシュトに何を言っても無駄だと、ヒナはとっくに諦めていた。所詮は神様、人間とは考えも価値観も異なる。ナシュトに出会ってから、色々と話をしたり、助けてもらったりもしたが、残念ながら理解しあえるとは到底思えない。

 そもそもこうやって突然半裸で女子のベッドの脇に立つことを何とも思わないような奴と、一体何を解りあえるというのか。タッグでも組めばいいのか。お断りだ。

「何か用があるから出てきたんでしょ?着替えるんだから、さっさと用を済ませて消え失せてよ」

 ナシュトが突然部屋の中に現れること自体にはようやく慣れてきたのだが、流石に着替えやお風呂、トイレなどは気になってしまう。ナシュトの姿が見えていなくても、存在が一部同化してしまっている以上気分の問題でしかないらしいが、ヒナにとってはその気分が大事、重要だ。

 いくら神様とはいえ、嫁入り前の娘のプライベートを四六時中見てて良いいわれなどあってはならない。あってたまるか。しかもこっちは晴れて彼氏持ちだ。今までだって十分汚された気がして、酷く傷付いたりしたんだ。このバカ神。

「なに、ようやくハルと男女交際を始めるということで、一言お祝いをと思ってな」

 ぐっはぁ、なんだこのキザ男。見た目だけじゃなくて中身もイケメンじゃなきゃ気が済まんのか。さぶいぼ立つわ。

「あー、それはありがとうございますー」

 とりあえず棒読みでお礼だけ言っておく。ナシュトにしてみれば、それはナシュトのためでもあることなのだから、お祝いくらいは述べておきたいのかもしれない。よろしい、その気持ちだけは受け取っておこう。ヒナは神様より寛大だ。

「こちらとしてはさっさと解放してもらいたいところなのだが・・・」

 愁いを帯びた表情も素敵です。

 が、残念でした。人間関係って言うのはそんなに単純なものではありません。

「前進したんだからいいでしょ。これもお互いのため」

 ナシュトがヒナと同化しているのは、不慮の事故というか、ヒナが頑として自分を譲らなかったことが原因だ。この神様はとんだ貧乏くじを引いた結果、こんな女の子に自身の生殺与奪の権利を委ねる結果になってしまった。ホント、世の中は何が起こるか判らない。

 その境遇を思えば、哀れと言えば哀れだ。同情くらいはしておこう。

 もっとも、だからと言って簡単に解放してやるつもりなど毛頭無いが。

 迷惑料として十分こき使ってやらないと全く持って割が合わない。乙女の私生活に密着出来ただけで普通はお釣りがくるだろう。

 ヒナは自分の左の掌を見下ろした。銀色の光が、鍵の形を浮かび上がらせている。ヒナと一体化した、銀の鍵。ナシュトの宿る、夢の地球カダスへと続く道しるべ。

 本気でいらないと嫌っていたが、使い方によっては便利かもしれないと、最近になってようやく思い直してきたところだ。

「で?言うこと言ったんならもう消えてよ。邪魔」

 噛みつくぐらいの剣幕でヒナが吠えると、ようやくナシュトは姿を消した。すっと、前触れもなく完全に視界からいなくなる。今まで自分が誰かと話をしていたのかと不安になるくらい。やれやれ、いても消えてもわずらわしい。

 最高の目覚めだったはずが、一瞬で最悪の目覚めに変わってしまった。とにかく着替えよう、朝食を摂ろう。

 折角の彼女初日を、こんなことで台無しにされてたまるもんですか。


 ヒナの家からヒナとハルが通う高校までは、歩いて二十分といったところだ。近過ぎず遠過ぎない距離が丁度良い。満員電車で通学とか、考えただけでぞっとする。よく皆そんな生活が出来るものだ。

 この学校を選んだ理由は、当然ハルが行くから、でもあるが、実際の所は学力と相談した結果でもある。ハルのために頑張って勉強した、とか、ハルに合わせてレベルを落とした、なんて話は一切ない。仕込み無しで、お互い学力的にはちょっとヤバいくらい。いやぁ、この辺は似たり寄ったりで正直助かった。

 ハルの家は学校とはちょっと違う方向にある。なので、家の前で待つとかそういうことは出来ない。やろうと思えば出来るけど、今現在そこまで踏み込んで良いものかどうかは悩みどころだ。だって、昨日お付き合いを始めたところなんですよ?幼馴染と一口に言っても、距離感は人それぞれ、漫画やアニメとは違う。お寝坊な男の子の部屋に侵入して起こしてあげるとか、すっごい楽しそうだけど現実にいたら問題ありまくりだろう。

 五分ほど歩いたところにコンビニがある。ここが、合流点。クロッシングポイント。ハルの通学路と、ヒナの通学路がここで交わって一つになる。

 二人の入学が決まった時から、ヒナは念入りに通学路を調べ上げて、このコンビニの前でハルに会えることを突き止めた。あとは時間。これも、結構な早起きをして雑誌十冊くらい立ち読みして頑張った。ハル、中学の時もそうだったんだけど、意外と朝が早い。

 世間一般ではこうした行為はストーカーに分類されるらしい。が、ヒナにとっては知ったことではない。こういうのは涙ぐましい努力というのであって、断じて変態行為などではない。いいの、ハルに迷惑はかけてないから。

 コンビニというのは非常に便利だ。ハルが通るのを見落としたりしない限りは、時間調整も効くし、トイレだって借りられる。ちょっとした忘れ物に気が付いても、ここである程度のリカバリーが可能。うん、実にコンビニエンス。

 浮かれ気味なテンションを少し落ち着けるつもりで、ヒナはいつもよりも早くコンビニまでやって来た。今日はどんな顔をしてハルに会おう。昨日はあの後、ハルとは少しだけメッセージのやり取りをした。告白についてはお互いに軽く流して、後はなんだか他愛もない内容。でもそれが楽しい。いつもと同じなのに、いつもと違って感じる。この感覚が、とても心地好い。

 駐車場に入ったところで、ヒナはコンビニの外に立っているハルの姿を見つけた。

 え?ちょっと待って。早い、早いよ。あれ?家の時計遅れてた?

「ハル、おはよう」

 少し早足になってしまった。だってこれは予想外。いつもはヒナがここでハルが通るのを見て、追いかけて「おはよう」って声をかけるのが日課なのに。ハルがヒナのことを待っているなんて、そんなのズルい。不意打ちだ。

「おう、おはよう」

 ハルが挨拶を返してきて、ふいっと目を逸らす。わあ、思いっきり意識してくれてる。いつもは「ヒナ」って呼んでくれるのに、今日は「おう、おはよう」なんだ。他にも細かいポイント一杯見つけてしまった。なんかハル冷たい、とか思う前にそう考えちゃう辺り、彼女の余裕ってヤツですかね。もう、にやけちゃうじゃん。

「今日早いね」

「ああ、まあな」

 普段はもうちょっとバカっぽいのに、今日は言葉数が少ない。これが彼氏オーラか。まあ、どっちのハルも好きかな。

 ニコニコと笑って、ハルを見つめる。ほら、彼女だよ。ハルの彼女ですよ。

 ハルは彼氏か。まあ、ハルはハルだな。彼氏オーラのせいでいつもよりもなんだろう、大人しいというか、乙女っぽい。ヒナのことを彼女として見ている結果そうなっているのだとすれば、可愛いと言えないことも無い。

 笑顔のヒナに向かって、ハルは何やら言い難そうにしながらも口を開いた。

「いつもヒナを待たせてるみたいだからさ。今日は先に来てみた」

 う、わ。

 バレてましたか。そうですよね。デスヨネー。

 ハルは照れ臭そうにしているが、ヒナの方はそれどころの騒ぎじゃない。バレてもいいかと思ってはいたが、まさかあからさまに気付かれていたとは。もう恥ずかしくてどうしたらいいものやら。

 顔が熱くなってくる。ダメだ、これコントロール出来ないヤツだ。どうしたの、ハル。急に何かに目覚めちゃった?ああそうか、彼氏になったのか。すごいな彼氏パワー。出会って一分も経たずにノックアウトされそう。

「そ、そうなんだ。ありがとう」

 素で噛んでしまった。本気で恥ずかしい。ハルもなんか顔赤らめてるし。ヤメテー。こんなんで一日ももたないから。

 とりあえず学校には行かないと。学生の本分です。高校だから義務ではなくなったけど、ヒナもハルも自分の意思で進学したんだから、そこはしっかりしておくこと。

 いつもみたいに並んで歩く。今ぐらいの時間なら、あまり同じ学校の生徒とは一緒にならない。それがあるから、ヒナも安心してハルの隣にいられる。一応そういう他人の目も気にはかけている。昔、無駄に噂されて嫌な思いをして学習した。ホントにモテないクズの僻みほど鬱陶しいものはない。

 あれ?でもハルが朝早いのって?

 いやいや、それはいくらなんでも考え過ぎ、調子良すぎだろう。幸せに侵され過ぎて脳がピンクに染まってるんじゃないですかね。ああ、でも興味はあるな。

「ハル、いつも朝早いよね」

 流れ的にこれは聞けるだろう。変化球よりも直球で。

「昔、朝走ってたからな。その習慣が抜けないんだ」

 そうでしたね。

 部活やってた当時は、早朝ジョギングしてたもんね。中学時代は、ジョギングして、そのまま登校だったもんね。部活引退して半年くらい。言われてから思い出すなんて、なんだかもう随分昔の話みたいだ。

「ヒナだって早いじゃないか」

「あはは、まあ、ね」

 曖昧に笑うしかない。ヒナの話は放っておいてほしかった。中学の時もそうなのだが、ストーカー案件スレスレだ。

 それに、知ってて聞いてるでしょ。さっき「待たせてる」って思いっきり言ってた。ああそうか、彼氏になったからその辺ずばずば切り込んでくるようになったのか。ハルめ、狡猾だな。

 負けないぞ。

「ハルと一緒に登校したいから、毎朝頑張ってる」

 散々恥ずかしい思いさせられたから、全力で切り返してやる。くらえ、彼女パワー全開。

 ハルの顔が赤くなった。「お、おう」とか小さな声で返事して、そのまま黙り込む。よし、直撃だ。

 でも両刃の剣だ。言ったヒナの方もダメージが大きい。うん、嘘じゃない。嘘じゃないんだけどさ。

 なんでこんなこと言っちゃうかな自分、これ恥ずかしすぎるよ。「毎朝頑張ってる」とか、どんだけ好き好きアピールだよ、重すぎるだろ。

 そうですよ、一緒にいる時間をちょっとでも増やしたいから、待ち伏せみたいなことしてるんですよ。頑張って早起きしているんですよ。始終べったりしてると変な噂が立ってハルに迷惑かけそうだし、しつこくて重い女だとも思われたくないからそこは我慢してるんですよ。それでもハルのことが好きなんです。そういうメンドクサイ娘なんです。

 ぐぬぬってなって、ヒナはちらりとハルの様子を伺った。ハルは何も言わないが。

 嬉しそうに笑っていた。

 もう、ホントにズルい。

 そんな顔されたら、こっちまで嬉しくなっちゃう。恋は好きになった方の負けだなんて言うけれど、全くその通りだ。ヒナに勝ち目なんかない。勝てるはずがない。

 でも、いいな、こういうの。

「なんだか照れ臭いね」

 正直な気持ちが言葉になって、笑顔と一緒にこぼれ出す。

 好きっていう気持ちが通じるのは、とても嬉しい。楽しい。

 今までだって、別に嫌な関係じゃなかった。でも、もう一歩踏み込んだ関係って感じがする。彼氏彼女、いいじゃない。

 高校生活バラ色なんじゃないかなぁ、とヒナはまた心が数センチ浮き上がってくる気がしてきた。


 教室の座席がハルと隣同士、なんて都合の良いことは流石に無い。あったら逆に怖すぎる。

 そんな事態になったら、多分ナシュトを呼び出して締め上げてるだろう。お前何か余計なことしたんじゃないだろうな、と。クラスが同じってだけで十分に作為を疑った。ハルとの関係については、余計な手出し無用と厳しく言い聞かせてある。これはお互いのための重要な盟約だ。

 最初に名前順で席が決められた時は隣同士だったけど、一週間経たずに席替えでアッサリ泣き別れ。これが現実。実に無慈悲。無慈悲なチャーハン。なんでチャーハン?

 朝のホームルームの前に、ハルは男子のグループ、ヒナは女子のグループで会話に花を咲かせている。入学して一ヶ月半、そろそろ友達グループの形成も完了だ。良好な高校生活を営むためにも、ここでの失敗は避けておかなければならない。

「ねえねえ、ヒナちゃん、昨日、どうなったの?」

 早速きた。まあ、そうだよね、気になるよね。ハルが普通に教室で声かけて呼び出してくれちゃったもんね。

 さて、どうしたものか。曖昧に応えても、逆に後々面倒になることもある。人間関係は難しい。特に女子は。

 でも折角だし、今日はお姫様タイムを堪能させてもらっても良いかなぁ、なんて考えてしまう。恋バナは皆の大好物です。うまくいく話の賞味期限は短く、うまくいかない話の賞味期限は長い。じゃあ鮮度の高いうちにご提供しましょう。

 まあ、幼馴染だし、そんなに驚きのあるハナシでもないよ、って感じ。付き合い長いから、高校に入って、ちょっとお互いの関係を見直してみようかな、って流れで。よし、それだ。

 軽くどよめきが起きた。いや、そこまでの話じゃないでしょ。本気でハルのことを語り出したら、休み時間なんて軽く終わるくらい語れますよ?幼馴染がなんとなくくっつく、くらいのイメージで、こんなに食いつかれても困ってしまう。

「りょ、両想いなんだよね」

 改めて人から言われると、それすっごい恥ずかしい。まあそうです。はい。

 ふわふわのロングヘアーに大きい眼、ぬいぐるみみたいに可愛いチサトは、自分で言って顔を真っ赤にしている。この女子グループの中ではマスコット的存在だ。まあ、これ半分はキャラ作ってるよね。でも半分はガチでこんなんだから可愛い。許す。

「朝倉って、ちょっと良いよね」

 なんと。そういう評価が出てくるとは思わなかった。ハルってそこまでモテそうには見えないけど。

 ショートカットで背が高くて、猫みたいな目が印象的なサキは、女子だけどグループの王子様。男子グループのハルの方を見ている。同じスポーツマンとして何か感じるところがあるのかな。ああ、でもハルは今は隠居の身だったか。

 ハルが他人に認められるのは、結構嬉しい。そうか、ちょっと良いのか。譲る気は無いけど、もっと褒めてくれてもいいのよ?

「おめでとう、ヒナ」

 ありがとう。うん、こうやってストレートに祝福してもらえるのがやっぱり一番嬉しいかな。

 眼鏡が光る黒髪ロングのサユリは、このグループのリーダーだ。私服だと女子大生に間違われて、法事でフォーマル着たらOLに間違われる素敵っぷりは半端じゃない。ヒナも最初、教育実習生かOGかと思ったくらいだ。

 入学式の後教室に入ってすぐ、サユリを中心にこの四人はなんとなく固まった。みんな女子特有の腹の探り合いみたいな関係性が好きじゃない、という共通項があった。大人な雰囲気でズバズバ言ってくるサユリ、明け透けで裏表のないサキ、ぶりっこ同士の空気に疲れたチサト。なかなか楽しい面子だ。

 ヒナも駆け引きとか騙し合いとかは苦手だし、実際中学時代にもうお腹一杯になるまで味わう羽目にあってきた。だから、肩ひじ張らないで済むこのグループはとても有難い。それに、ヒナは何故かサユリにとても気に入られているみたいだった。

「えーと、そんなこんなで、ハルと付き合うことになったんだけど」

 ここからが本題だ。女子の人間関係というのは実に難しい。メンバーの顔色を伺うようにぐるりと目線を巡らせる。

「大丈夫だよ、ヒナ」

 サユリがニッコリと笑う。ああ、やっぱりサユリは良い人だ。よく判っていらっしゃる。

「そうそう、友達と彼氏は別モノでしょ」

 サキもそう言ってくれた。チサトもこくこくと頷いている。

 彼氏が出来たらサヨウナラ、とか。そういう酷薄な関係も女子の間では無いわけではない。えー、カレシにかまってもらえばいいじゃーん、みたいな。本当に、こういう面倒臭いの誰が考えたんだか。

 そもそもそういうのが嫌だ、というグループなので、こうなるとは予想していたのだが、やはり不安が無いわけではなかった。リーダーのサユリが最初に軽く締めてくれたので、かなりアッサリと済んだ格好だ。こういう所は女のヒナでも惚れそうになる。やっぱり実はOGなんじゃないの?

 トイレだろうが何だろうが団子になって行動するのは、ヒナには見ていて気持ちが悪い。それに比べてサユリのグループは自由度が高い。部活もバラバラだ。サユリが水泳部、サキが陸上部、チサトが吹奏楽部。帰宅部はヒナだけ。帰りに寄り道とかまず無い。プライベートは別なんで、みたいな。あ、でも今度休みの日にカラオケに行こうとは言ってる。楽しみだ。

「よかった。ありがとう、みんな」

 何はともあれ、これで禊は済んだというところか。安心してお姫様タイムに浸っていられる。さあ本日の主役。ハルの彼女様であらせられるぞ。

「幼馴染と言えばさ、サキの方はどうなの?」

 サユリがきらりと眼鏡を光らせる。何それ、聞いてないんだけど。

 ヒナの恋バナ、賞味期限みじかーい!

 まあね、うまくいっちゃった話なんてそんなもんですよね。現在進行形の方が楽しいよね。

 急に矛先が自分の方に向いて、サキはわたわたとしている。普段は王子様みたいにクールに決めてるから、そのギャップが可愛い。うん、ヒナよりもずっといじり甲斐があるよ、悔しいけど。

 こっそりと、ハルの様子を伺ってみる。男子グループの中で、何やらハルを中心に盛り上がっているみたい。たまにヒナの方にちらちらと視線が向けられる。

 ああ、あっちもそんなハナシしてるのかなぁ。気になる。ハルが何を言っているのか、言われているのか。

 無意識に自分の左手を見下ろしてしまう。この距離なら問題なく銀の鍵の力で思考が読める。心の中を読んでしまえる。

 いかんいかん。ヒナはぶんぶんと首を振った。安易にそういうことをしてはいけない。それで中学時代どれだけ酷い目にあったか。大体ハル相手にはこの力は使わないと誓ったはずだ。

 それに、男子の思考なんて読んでもロクな事にはならない。人のことを散々恋愛脳とか言ってバカにしておいて、そういう自分はどんだけピンク脳なんだっつーの。片っ端からエロ思考に占領されていて、中学時代は教室の中で戦慄の日々を送る羽目になった。

 実際には、妄想していることを本気で現実にしようと考えている人などほとんどいない。そのことに気が付くまで、ヒナは世界がどこまでも汚らしいもので満たされていると恐怖していた。が、よくよく考えてみれば、自分だってハルに対して身勝手な妄想を抱くこともある。妄想することを禁止するなんて誰にも出来ないのだし、その自由を奪う権利なんてやはり誰にも無い。

 とはいえ気持ち悪いモノは気持ち悪いので、男子の思考を読もうだなんてなかなか思うことは無い。この前の、顔もほとんど記憶にない先輩の場合は、寝ぼけて気が緩んでついうっかりやってしまっただけだ。それに、ある程度のエロ妄想ならさらっと流せるくらいにはなっている。本当に慣れとは恐ろしい。

 では女子の方がマシなのかと言われれば、こっちはもっと深刻だ。冗談にならない思考がそこかしこに蔓延している。エロ方向に固定されている分、男子の方がシンプルで理解しやすい。

 やはり中学時代に、ヒナは色々あって懲り懲りになった。そもそも人の思考など読むべきではない。便利だと思う時もあるが、常日頃から覗き見するみたいな真似はよろしくない。やるならやるで、最小限にとどめておく。

 サユリが自分のことを見ているのに気が付いて、ヒナは微笑んでみせた。このグループのみんなにも、心を読むようなことはしていない。サユリはなんだかヒナについて思う所があるみたいだけど、それも無理に知るつもりはない。

 自分がやられて嫌なことは人にはしない。シンプルで単純明快なルールだ。少なくとも、自分に敵意の無い相手に対して牙を剥くことはしない。意味の無い火の粉は振り撒かない。

 この力で得をしたことなんて、損をしたことに比べれば本当に微々たるものだ。全然割に合わない。しかもロクに話の通じない神様のおまけつきだ。

 どう足掻いたって世の中がままならないのなら、変に希望を持ってしまいそうになる雑音なんて無い方が良いに決まってる。

 そうだよね、ハル?


 水の音がする。なんだろう、ちゃぷん、ちゃぷん、っていう、優しい音。

 身体が揺れているのも感じる。ああ、これは水の上に浮いているんだな。

 そう考えたところで、ヒナはナシュトに呼び出されたのだと察した。

 目を開けて状況を確認する。辺りは乳白色の濃い霧に包まれていて、全く見通すことが出来ない。ヒナは木で出来た小さなボートに乗って、ほとんど波の無い静かな水面の上を漂っている。ゆったりとした振動がボートから伝わり、ちゃぷん、という水音がそれに続く。他に音らしい音は何もない。聞こえない。

 船尾の方に腰かけて、ヒナはふう、と息を吐いた。このシチュエーションは久しぶりだ。ナシュトがヒナを呼び出す時のイメージ、夢。霧の湖に浮かぶ木端みたいなボート。あの神様が何を考えているのか、ヒナにはさっぱり判らない。

 ナシュトがヒナに何か伝えたいことがある時、その場で話せば良いものを、何故か託宣という形式にこだわってくる。要はもったいぶってくるのだ。サッサと言えば五秒で済むことを、こうやってわざわざ特別な夢で知らせてくる。

 まあ雰囲気は嫌いじゃない。幻想的な感じはする。小さなボートに揺られながら、霧の中を進んでいくなんてなかなかロマンチックだ。だが、ヒナの好みかと言われれば、全然違う。なんというか、余りにもあからさま過ぎて逆に喜べない。ちょっと盛りすぎなんじゃないですかね。

 霧の中から、すぅっとナシュトが姿を現した。ヒナの方を向いて、舳先、ピークヘッドの上に立つ。うへぇ、それ現実にやったらボートが引っ繰り返るんじゃないの?こういう過剰演出が、ヒナには気に入らない。なんだこの神様、雰囲気たっぷりにして、人のこと口説こうってのか?こちとら彼氏持ちだぞコラ。

「ハルとの交際は順調のようで何よりだな」

 うっさい。余計なお世話だ。

 こうやってナシュトに呼び出されること自体に全く良い思い出が無い。しばらくぶりだからすっかり忘れていたが、ナシュトが持ってくる知らせは決まって悪いものばかりだった。この疫病神め。

 そもそも、銀の鍵自体が基本的にトラブルメイカーだ。良かれと思ってやったことでも、玉突き的にとんでもない方向に物事が転がり出すことになる。本来のあるべき姿から外れた方向からのアプローチは、予期せぬ結果しかもたらさない。本当にロクなことにならない。

 それを身をもって知ったからこそ、ヒナは少し前まで真剣にこの鍵を切り離して捨てる方法を模索していた。何より、ハルに気味悪がられでもしたら大変だ。自分でも気持ち悪いのに、そんなことになったらもう生きてはいけない。

 どんなものであっても、答えは自分の中にしかない。他人の中にあるものは他人の答えだ。人の心を読む上で、ヒナは最近になってようやくその考えに至った。そんな割り切りが無ければ、この銀の鍵の持つ力は毒にしかならないだろう。こんな力、あって良いことなんてほとんど無い。

「そこまでの考えがあれば、カダスへの門はすぐそこだというのに」

 またこの神様は勝手に人の心を覗き見て。これだから神様は困る。人間のことなんてお構いなしだ。

 ナシュトの目的は、銀の鍵を持つ者を神の住まう夢の地球、カダスに導くことなのだという。鍵の契約者がカダスを訪れるに足る資格を持つのかどうかを見極めるため、銀の鍵に憑き、その所有者と共に在って幾多の試練を与える。

 まあ、ヒナは思いっきりそれを断ってしまったわけなんだけど。

 間に合ってます。この言葉にはナシュトも度肝を抜かれたことだろう。どんな願い、夢をも叶えることが出来る神の園への導き。ヒナはそれを不要と切り捨てた。だって、そんなもの欲しくもなんともない。

 ヒナが欲しいのは、ハルだけ。

 それは神様だか何だかの力を使って手に入れるものではない。ハルがそのままのヒナを好きになってくれなければ何の意味もない。神様に頼んでハルに振り向いてもらう?はあ?何言ってんの?

 そんな甘っちょろい気持ちで好きなんじゃないんだよ。こっちは本気で好きなんだよ、本気で好きになってもらいたいんだよ。

 こればっかりは結果オーライではない。新幹線と飛行機ならいいが、どこでもドアは反則だろう。確かにヒナはハルのことが好きだ。ハルが居なければ生きていけない。ハルといつまでも一緒にいたい。

 でも、ハルの意思を無視するなんて絶対にダメ、絶対に嫌だ。

 ヒナはナシュトに食って掛かる勢いで熱弁をふるったが、その時既に銀の鍵は契約者の儀式を完了してしまっていた。カダスを求めない者を、銀の鍵はカダスの探究者として認めてしまった。歪な契約が結ばれ、その力は見事に暴走した。

 結果がこれだ。神様との奇妙な共生生活。銀の鍵の所有権はヒナに固定されてしまい、ナシュトはヒナと中途半端に同一化した。正確には、ナシュトがヒナに飲み込まれた、ということなのだが、ヒナにとってはそんなことはどうでもいい。お荷物が増えたという事実に変わりはない。

 恐らくだが、ヒナが自分の力で自分の願いを叶えてしまえば、この良く判らない呪縛からは解放されるという。ナシュトにとっても初めての事態なので、はっきりとは言えないらしい。神様なのに実に頼りない。こういう時に限って、なんでバシッと願いが叶えられないのか。ちっとも役に立たない。

 お父さんも海外出張のお土産でどうしてこんな胡散臭いおまじないアイテムなんか買ってきちゃうかなぁ。ああでも本物だったわけだし、胡散臭いってことは無いのか。訂正、ガチっぽいおまじないアイテムなんか買ってきて欲しくなかった。ミスカトニック?ジントニック?知らないよそんなの。

「もう懲り懲りなんだけどね」

 ヒナはまた一つ息を吐いた。ヒナの人生はそんなに暇じゃない。ハルのことで割と手一杯だ。銀の鍵に振り回される生活はもう中学校と一緒に卒業したつもり。見えないモノを見たり、人の心を読んだり、本当に良いことなんか何もない。いい加減にしてほしい。

「今は鍵に頼らない生活を送れているではないか。それならそれで良いのだろう?」

 この神様は、まるで他人事みたいにしゃあしゃあと抜かしてくれる。元を正せばナシュトが勇み足で契約を急ぐからこんなことになったんじゃない。保険の約定はよく読めって、お母さんも言ってた。あんた闇金といい勝負だよ。

「それより警告だ。ヒナ、お前とハルに何か良くない意思が介入しようとしているのを感じる」

 やっぱりか。ああー、もうなんなんだ。ヒナは頭を抱えた。

 多分二人が付き合ってるって話が学校で噂になったんだ。いいじゃないか、幼馴染カップルだよ?別にくっついて自然でしょ?何か文句あるの?あるなら真正面から言って来なさいよ。正々堂々と勝負しましょうよ。

 ナシュトが警告して来るってことは、恐らくはそういうことなんだろう。世の中他人の幸福を妬ましく思う輩が多すぎる。他人のことなんかどうでもいいでしょう?頼むから自分のことだけ見ててくれないかな。

 波風を立てず、誰にも角を立てずに生きるなんてことは出来ない。それはそう。でも、必要以上に他人にちょっかいを出すのはやめていただきたい。

「お前は好かぬかもしれんが、必要であれば躊躇わず銀の鍵を使え。お前だけではない、ハルのためでもある」

 忌々しい。

 この鍵のせいでとにかく嫌な目にあってきた。魔法少女的な何かに憧れが無かった訳ではないが、現実というのは常に非情だ。

 水は高い所から低い方へと流れる。そんな当たり前のルールを破ってまで、どんな結果を望むというか。そこから得た結果がどんな価値を持つのか。そして、ルールが破られたことによって、どんな揺り戻しがあると思っているのか。

 夢も希望も無いなぁ。ヒナはがっくりとうなだれた。


 ヒナの予想通り、学校で二人はすっかり公認カップルにされていた。

 噂の出所の目星はとっくについている。男子ィ。ホントにあいつらロクなことしない。そんなんだからモテないんだ。ばーか。

 教室や廊下で、何というか、異様に気を使われる。「あ、ごめんお邪魔だった?」「えっと、誤解させちゃうかな?」「朝倉ならあっちで見たよ?」あああもう、うるさーい!

 これらを一つ一つ笑顔でいなしていくのも大変な作業だ。キレたら負け。新しい変な噂を生み出すだけになってしまう。片っ端からニコニコと「ありがとう、大丈夫だよ」って返事していく。もうボイスレコーダに録っておいて代用したいくらい。うぜぇ。中学生とメンタル的に大差が無いのかお前ら。

 そんな中、サユリとかグループのメンバーだけはお察ししてくれる。

「ヒナも大変だな」

 休み時間、サユリは苦笑いしながらそう言ってくれた。まあ、これも一種の有名税ですかね。どうせみんなすぐに飽きると思うんだけど。

「ああ、そうだ」

 チサトの髪を優しくブラッシングしていたサキが、ヒナのことを手招きした。いやぁ、もうちょっと見てたいんですけどね。なんだろう、この百合空間。あれ?サキはでも王子様だから、百合じゃないのか。なんだっけ?ベルバラ?

 サキはヒナの前髪を軽くまとめて、こめかみの辺りに綺麗なヘアピンを付けてくれた。髪に隠れていた耳が少しだけ見えるようになる。わあ。いいね、これ。

「この方が可愛いよ」

 サキ、あんた何処に行こうとしてるんだい?

 自分があまりそういうのが似合わないと、サキは良くチサトやヒナにこういうことをしてくれる。家が美容院なのは伊達じゃない。でも、サキは自分で言うほどおしゃれが似合わないとは思わない。女の子としてもとっても魅力的だ。可愛い。

 恋をすると綺麗になるって言うけど、実際の所どうなんだろう。ヒナはハルに恋をして、もう何年目だか判らないくらいだ。それでも告白されて、彼氏彼女になって、まだ綺麗になるのだろうか。

 多分、こうやっておしゃれするようになるから、綺麗になるって言うんだろうな。

 ハルの彼女になったんだし、ハルにとって恥ずかしくない、可愛い女の子でいたい。今までもそう思ってたけど、その気持ちはまた新たになった。ありがとう、サキ。あんたホンマに王子様や。

 そのままハルの様子を伺ってみる。しっかりこっちを見ていた。どう、可愛い?ヒナは自慢出来る彼女ですか?

 男子グループがちょっとざわつく。ふふん、お前らはお呼びじゃないんだよ。ヒナはハルの彼女ですから。その他諸々はせいぜい邪魔にならない程度に賑やかしていなさい。

 ちょっといい気分に浸っていたところで、ヒナの耳にその言葉が飛び込んできた。

「で、もうヤッたの?」

 むかっ。

 全く持って男子。なんなんだ男子。いい加減にしろよ男子。男子ってだけで男子。

 お前らはそれしかないのか。ヤるか、ヤられるか。うぜぇ、マジでうぜぇ。いいからお家で右手とじゃれついてやがれ。

 彼氏彼女って言ってんだろうが。お前らが言ってんのは男と女じゃなくて、オスとメスだろ。ホントにコイツ等ピンク脳だな。エロ以外に興味が無いのか、この万年発情期の動物どもが。

 大体ハルにそんな根性があるなら、高校生になってから告白してお付き合いなんてちんたらしてねーっつーんだバァーカ!

「ヒナも大変だな」

 サユリが、今度は笑いをこらえながら言った。うう、みんなにも聞こえてる。畜生、アイツらデリカシーの欠片も無い。サキも半笑いみたいな顔しているし、チサトに至っては何を想像しているのか真っ赤になってうつむいている。いやー、やめてー。

「うるせぇな、そういう風に見てんじゃねぇよ」

 え?

 今の、ハルの声?

 ちょっと待って。慌てて振り返ると、ハルが誰かの襟首を掴んでいる所だった。

「なんだよ、彼女なんだろ?気取ってんじゃねぇよ」

 いや、気取るってなんだよ。冷静に突っ込んじゃったよ。いやいや、そうじゃなくって。

 流石に喧嘩はマズイでしょう。ハルは確かに昔は喧嘩っ早かったけど、中学生になってからはだいぶ抑えるようになっていた。ハルがこんなに怒るのを見るのは本当に久しぶりだ。

 え?もしかしてヒナのこと庇ってくれてる?ちょっとどうしよう。ええっと、止めよう。まずは止めないと。

 左手。いや、それはダメだ。ここで安易に鍵の力に頼ったら、また中学時代の繰り返しだ。ハルはヒナのことを守ろうとしてくれている。なら、ヒナも自分の力でハルを守らなきゃ。

 ヒナが立ち上がろうとすると、サキがヒナの手を掴んで引き止めた。驚いてサキの顔を見ると、サキは黙って首を横に振った。

 確かに、ここでヒナが出ていっても余計に話がこじれるだけかもしれない。でもハルはヒナのために。こんなことはヒナだって望んでいない。

「大丈夫、誰が正しいのかは、みんな判ってる」

 サユリの声。うん、そうだよね。そんなの判ってるんだよ。判ってるんだけど、ヒナのためにハルが傷付くのは嫌なんだよ。ヒナを庇ってハルに何かあったら、ヒナは。ヒナは。

 ヒナは、ソイツを絶対に許さない!

「つまんねーなぁ」

 どうやら喧嘩には至らなかったらしい。緊張した空気は残っていたが、ガタガタと椅子に座る音がする。

 ヒナは知らない間に、左手をぎゅっと握っていた。呼吸が荒い。どうやら最後まで我慢出来たみたいだ。一歩間違えればまた後悔を増やしていた所だった。本当に危ない。

 感情に任せて、得体の知れない力に頼ってはいけない。力を使うなら、ハルが本当に傷付けられそうになった時だけ。クラスメイトとの喧嘩なんて些細なことだ。目に見えていることは、目に見える手段で解決するべき。

 サキが、ぽんっとヒナの肩を叩いた。

「朝倉、カッコ良かったね」

 そうでしょう?何しろヒナの自慢の彼氏ですから。

 やっと笑顔に戻れた。ありがとう、王子様。


 制服のまま、ヒナはベッドの上に倒れ込んだ。ああ、今日は疲れた。本当に疲れた。もうなんなんだ。

 あの後ハルはずっと不機嫌だった。男子はみんな妙にぴりぴりしていて、一日中今にも一戦始まりそうな感じだった。ヒナはハルと話がしたかったが、落ち着いて会話が出来そうな雰囲気でもない。サユリも「ここは男同士の方が良いだろう」と言っていたので、結局その日は何も声をかけられず、ハルが男子の友人数人と一緒に帰るのを見送った。

 まあでも、今日のハルはちょっとカッコよかった。ヒナが変な目で見られるのが我慢出来なかった、というところだろうか。えへへ、ちょっと嬉しい。いや、だいぶ嬉しい。ハル大好き。

 喧嘩とかは勘弁してほしいけど、ああやってヒナのことを大事に考えてくれているのが判ると幸せになる。ハルは昔からそう。ヒナのことを見てくれる、考えてくれる。だから好き。ヒナの一番大事。

 携帯を取り出して、メッセージを送ってみる。帰ってきた時にでも見てくれればいい。

『ハル、今日はありがとう。かっこよかったよ』

 これでよし、と。

 すぐに返信が来た。ありゃ、別に急がなくてもいいのに。

『なんかごめんな』

 ハルが謝る話でもないでしょうに。ふふ、おかしい。

 お子様で動物な男子ィが悪いのであって、ハルはちっとも謝る必要は無い。怒る時は怒るべきだ。そうやって表に出していかないと、判るものも判らなくなる。

 しばらくポチポチとメッセージのやり取りをする。本当は声が聞きたいし、顔も見たいけど、今はこれで我慢。こうやってもどかしく感じるのも、後で会った時に喜びに変わるものだ。それに、ハルが一生懸命メッセージを打ってる姿を想像するのも楽しい。

 友達とゲーセンに行ってきたらしい。いいなぁ、ヒナも一緒に行きたかった。クレーンのヤツ、ハルは結構うまいから色々取ってもらいたかった。あ、あとシール。ハルと二人で撮りたい。前撮ったのだいぶ昔なんだもん。

 ドアの外を、シュウがバタバタ走り回る音がする。なんだよもー、うるさいなぁ。お姉ちゃん今恋愛してるんだよ。子供はあっちいってなさい。

 やれやれ、とベッドから起き上がる。制服がしわになっちゃう。着替えぐらいはしておかないと。

 ブラウスのボタンに手をかけて、ふとハルのことを想う。ハルも男の子なんだよな。うん、そういう欲求が無い方がおかしい。それでもああやって怒ってくれたことはかなりポイントが高い。

 ヤッたか、ねぇ。なんだか可笑しくなる。まあ思春期男子にとっては大事なことなのかもしれない。中学の時、男子の頭の中ははっきり言ってそれしかなかった。事あるごとにエロ妄想。よく疲れないものだと感心出来る。当時はそれどころじゃなかったけどね。

 行為が問題になるんだなぁ。そこがちょっと違うのかもしれない。結果じゃなくてプロセスの方を重視している。そこが男と女の違いなのか。まあ、男の側はプロセスの段階で生物学的に完結しちゃうからなんだろう。お手軽でうらやましい。

 ハルもやっぱりそういう欲求は持ってるのだろう。いや、持ってなかったら困る。健全な男子でいてもらいたい。ヒナに対して、そういう目を向けることもあるだろう。あるよね?大丈夫だよね?

 スタイルについて、ヒナは正直そこまで自信があるわけではない。チサトとか背はちっちゃいのにふかふかだ。あれは良い。あと、サユリも流石大人に見られるだけあって出るところはバッチリ。サキはスレンダーだけど、健康的でとても清潔感がある。ああ、でもサキは王子様だからなぁ。なんか違う。

 うーん、悩殺とまではいかないけど、一応ハルには女として見てもらいたいなぁ。そうじゃないと、後々困ったことになるかもしれない。そっとおへその下に手を当てる。当分先の話だとは思うけど。

 もそもそと部屋着のスウェットに着替えて、鞄の中身を整理する。えーと、明日は一限がリーダーか。嫌だなぁ、あの先生の声、聞いてるだけで眠くなってくるんだもん。あれは催眠音波だよ。

 鞄から取り出したノートから、つるり、と何かが零れ落ちる。ん?なんだ今の。

 フローリングの床の上で、小さな白い鎌首が持ち上がった。おっと。こんなところからコンニチワしてきたか。何か嫌な感じはしてたんだよ。ナシュト、警告ありがとね。

 丁度シャーペンくらいの大きさの、ミニサイズの白蛇だ。こちらに向かってチロチロと赤い舌を見せつけている。やれやれ、蛇って辺りが執念を感じさせて怖いね。ほんと、見てるだけで不愉快。

 ヒナは素早く左手を振るった。掌で蛇を掴み上げる。目にも止まらない速さだ。鍵の力は物理的な運動能力とは関係ない。そこにいるモノを掴む自分を「視る」だけでいい。慣れてしまえば全自動。便利なことこの上ない。

 掌を広げると、そこには細長いノートの切れ端があった。はい、これでおしまい。割とあっけないというか、おまじない程度のモノならこんなものだろう。本当に煩わしい。

 こういう「見えない」攻撃に対しては躊躇なく鍵の力を使わせてもらう。この手の攻撃は陰湿と言うか、陰険だ。嫉妬とか妬み、そういった負の感情は意外と簡単に形を持った攻撃手段に変えることが出来る。やってる本人は自覚していることも、していないこともある。厄介なものだ。

 ただ、この相手は自覚している。意図して、悪意を持ってヒナに攻撃をしかけてきた。ナシュトから警告があったからには、そういうことだ。本当に、文句があるのなら直接かかってくれば良いのに。実にメンドクサイ。

 ちらり、と携帯に目をやる。ハル、大丈夫かな。今日はやっぱり色々とおかしかった。もしハルにまでこんなまじないがかけられているのだとしたら。

 ヒナは、間違いなくその相手を許さない。


 朝、ハルはコンビニの前でヒナのことを待っていた。肉まん食べてる。いいなぁ。あんまり食べ過ぎるとおデブになるからなぁ。

 パッと見た感じ、ハルは元気そう。良かった、昨日のこと引きずってたらどうやって元気付けようかって、考えてた。杞憂に終わったかな。うん、ハルが元気でいてくれるのなら、それでいい。

「おはよう、ヒナ」

 ヒナって呼んでくれた。あと、真っ直ぐにヒナのことを見てくれてる。なんかちょっと雰囲気が違う。彼氏パワーが増えてる感じ?えーっと、なんだろう、ちょっとカッコよく見える。なんで?

「おはよう、ハル」

 とりあえずは可愛い彼女で。にっこり笑って朝のあいさつ。さあ、今日も並んで学校に行きましょう。最近はこの登校時間だけが、ハルとのお楽しみタイムだ。たっぷり堪能させていただかないと。

 歩き出したら、なんだかハルは黙り込んでしまった。ん?どうしたんだろう。昨日まだ何かあったのかな。メッセージでは特に何も書いてなかったけど、実はまた変なこと言われたり、喧嘩したりとかあったのかな。ちょっと気になる。

「ヒナ、あのさ」

 あ、空気が変わった。ハルがドキドキしてる。それがヒナにも伝わってくる。告白された時に近いけど、また違うドキドキ。

 え?ひょっとして、ハル、そういう?でもさっき肉まん食べてたよね?一応朝早いけど、ここ結構人通りあるよ?色々考えて頭の中がぐるぐるしてくる。えっと、ハルがしたいことなら、ヒナは別に、嫌じゃない、よ?でも時と場所は、ね?

「昨日のことなんだけど、俺」

 あわわわわ、やっぱりなの?そうなの?うん、お付き合いしてるし、彼氏だし、彼女だし、好きだし、両想いだし、付き合い自体は長いし、ヒナはハルにだったら別に何されてもだし、えーとなんだ。

 よ、よろしくお願いします!

「ヒナのこと、すごく大事に思ってるから」

 ふへっ?

「ヒナが嫌がるようなことはしない。幼馴染でお手軽とか、そんなこと考えてない。俺はヒナのこと」

 ハル、ちょっと。

「ヒナのこと、幼馴染だから、良く知ってるから、だからこそすごく大事にしたいって、そう思ってるから」

 あの、ハル、不意打ち過ぎるよ。待って。ちょっと待って。

 ズルいよ。そういうの予告してよ。これから言いますよーって。言ってくれないと、心構え出来ないじゃん。

 ほら、涙出てきちゃった。ばか。ばか。ハル大好き。ばか。

 ハルは本当にヒナのことを考えてくれてる。知ってた。知ってたけど、こうやって言葉にしてくれると本当に嬉しい。ハルがヒナのことを好きなんだって、それが判って本当に嬉しい。

 ヒナは、ハルのことが好き。ヒナのことを見てくれるハル。ヒナのことを考えてくれるハル。ハルの隣は、ヒナの場所。譲らない。絶対に誰にも渡さない。

「ハル、ありがとう」

 言葉は大事だ。本当にそう思う。心を読むなんて絶対にダメなことだ。確かに言葉だけじゃうまく伝えられないことって沢山ある。でも、つたない言葉で必死になって伝えようとするから、そこには気持ちが、想いが乗せられるんだ。

 だから、ハルの心は絶対に読まない。ハルとの関係は神様に頼ったりしない。不器用でも、カッコ悪くても、ヒナはハルと二人で歩いていきたい。成功も失敗も、ハルと一緒に、同じに感じていきたい。

 だって、ヒナは、ハルのことが好きだから。大好きだから。

 ハルはヒナの方を見てないけど、真面目な顔をしている。色々考えてくれたんだろうな。とても嬉しい。そんなに大事にされてると思うと、ちょっとくすぐったい。好きな人に好かれるって、なんだかそわそわしてくる。

 えっとね、ハル。ハルには言ってないんだけどね。ヒナは、ハルにされて嫌な事なんて何も無いんだよ?ヒナには、ヒナの叶えたい夢があるんだ。

 これ言っちゃうと、勘違いされたり、なし崩し的に間違いが起きちゃいそうだから、今はまだ言えない。でも、いつかはちゃんと言葉にするよ。ヒナの「好き」は、多分ハルの「好き」よりも、もうちょっとだけ、重い。

 うん、今日はハルの気持ちに触れることが出来て嬉しかった。ありがとう、ハル。ヒナはハルに大事に思われてて幸せです。これからもハルの彼女ですので、よろしくお願いいたします。

 このまま楽しい気分で一日が過ごせれば、それが一番だったんだけどねぇ。

 あああ、あーあ。見つけちゃったよ。やっぱりだよ。

 ハルの肩に、ちっちゃい黒い蛇。間違いないよ、色違いだよ。レアかよ。2Pカラーかよ。

 有無を言わさず左手でかっさらう。テメェ、ウチのハルに何してくれてんじゃゴルァ!

 折角の気分が台無し。もう、すっごい浸ってたのに。超楽しかったのに。なんなの?マジでなんなの?

 細長いノートの切れ端。ただし、こっちは黒く塗り潰されてる。ふうん、なんか意味ありげだね。これは有識者に聞いてみた方が良さげかな。

 ナシュト、どうせ聞いてるんでしょ。出てきなさいよ。

「お邪魔ではないのかな?」

 お前までそういうこと言うんだな。この腐れ神。

 ヒナの隣、ハルとは反対側にナシュトが姿を現した。ナシュトの姿はヒナにしか見えないし、声もヒナにしか聞こえない。当然ハルにはこんな荒唐無稽な神様のことなど話してはいない。ハルに頭のおかしい子だなんて思われたりしたら、銀の鍵ごと溶鉱炉に飛び込んで自殺してやる。アスタ・ラ・ビスタ。

 人前でナシュトと言葉を交わしても、周囲にいる人間には一切感知されないらしい。話をしている事実すら認識されないとか。詳しいことはヒナにはよく判らなかったが、銀の鍵の周辺は都合のいい話ばっかりだ。誰だこんな設定考えたヤツ。

 とは言っても、隣にハルがいるのにナシュトと会話するとか気味が悪すぎるので、この場はナシュトに勝手にヒナの心を読んでもらうことにした。普段なら絶対許さないけど、今回だけは非常事態だ。朝の蜂蜜タイムを邪魔された怒りは果てしなく大きい。

 で、この蛇のおまじない、何なの?

「身喰らう蛇のまじないだな。おまじないとかいう可愛いモノでは無い。れっきとした呪いだ」

 ガチな攻撃とみなしていいってことか。軽いちょっかい程度だと思っていたけど、本気度が高そうだ。

「黒と白の蛇が近付くと、お互いの身を喰らい、傷付け合う。蛇を付けられた者にも、同じ運命を歩ませる」

 ほほう。なるほど。

 それはあれですか、ヒナとハルにその蛇が付けられていたってことは。

 この蛇をよこした奴は、ヒナとハルを別れさせたいってことですか、ナシュトさん?

「そういうことになるな」

 ああ、そう。へぇー、そうですか。そうなんですか。なるほどなー。

 じゃあ、ソイツはヒナの敵だね。間違いない。敵。

 いいじゃない。シンプルで解り易いよ。やってやるよ。

「さっきも言ったが、これはれっきとした呪いだ。お前が真正面から叩き潰したことで、術師には相応の呪詛返しがあったと考えられる」

 知ったこっちゃないですよ。そのくらいの覚悟は持ってるでしょ。人にケンカ売っておいて。

 ホントにこういう僻みとかやっかみとか、腹立たしいったらありゃしない。こっちは自分のことで手いっぱいなんだ。見えない力で妨害して来るなんてどんだけ陰湿なんだ。文句があるなら正面から来いってんだ。

 まあ向こうも無傷では済まなかったみたいだし、これで手を引いてくれればそれで良いんだけどね。ヒナから仕掛けていくような真似はしない。こっちから手を出してエスカレートしていくと泥沼にハマる。それはもう学習済だ。

 しかし、ヒナとハルの関係をやっかむねぇ。

 ヒナはハルの横顔をちらりと見た。ヒナの彼氏。うん、カッコいいよ。でもすっごいカッコよくてモテモテかといったら、ハルには悪いけどそこまででは無い。サキはちょっと良いって言ってくれたけど、それはヒナに対するリップサービス分もあるだろう。

 どこの誰だかは知らないけれど、ヒナ相手であっても、ハル相手であっても、さっくりと諦めてくれないかなぁ。ヒナは今ようやくハルとの関係が次のステップに進んだところで、毎日がとっても楽しいんだから。

 そういう楽しい時期だからこそ、邪魔したいという嫌な人間が世の中いっぱいいるんだよなぁ。

 ハルに大事に思ってもらってるってウキウキしていたはずなのに、結局学校に着くまでそんなことばっかり考えていた。最悪だ。やり直しを要求する。


     ※     ※     ※


 痛い!

 痛い痛い痛い痛い!

 静脈が暴れている。腕の中で、血管がうねる。蠢く。なんだこれは。腕が食い破られる。何かが中にいる。

 違う。蛇だ。蛇が腕の中にいる。腕の中を這い廻る。暴れる。食い荒らす。じっとしていられない。声が漏れる。

 そうか、やられたんだ。予想していなかった。まさか、こんな形でやり返されるなんて。

 本物の呪い、という触れ込みだった。ちゃちなおまじないなんかじゃない。本物だからこそ、十分な効果がある。だからこそ飛びついた。確実であって欲しかった。

 だが、それが破られるとは。効果が本物なら、反動も本物ということか。なんてことだ。あの女、なんなんだ。

 幼馴染なんて、お手軽で気軽な相手で妥協して。私の理想なんて、想いなんて完全に無視して。

 胸が痛い。想いが届かないことが、つらい。苦しい。

 ずっと好きだった。多分、私のことなんて、顔も名前も知らないと思う。彼にとって、私はその辺にいる一人の女子でしかない。

 でも、想いを諦めることは出来ない。私は彼に幸せになって欲しい。私の願いは、ただそれだけ。

 小さなロマンス。彼の微笑み。それだけで、私は幸せになれる。

 彼のためなら、私なんてどうなっても良い。本気でそう思う。だって、私なんて彼の視界に入ってすらいない。

 幼馴染。簡単な関係。ずっと近くにいるってだけ。つまらない。面白くない。

 それだけで負けちゃうんだ。それだけで見向きもされないんだ。

 私の想いはどうなっちゃうんだろう。彼の幸せはどうなっちゃうんだろう。嫌だ。このままで終わらせたくない。消えてほしくない。なくならないでほしい。

 だって好きなんだ。幸せになって欲しいんだ。好きな人の幸せを願うことは間違ってる?ねえ、私間違ってる?

 夢なんだ。私の、夢。彼は私の夢、理想、希望。

 彼の姿を見て、彼の笑顔を見て。彼が今日も幸せでいてくれることを願う。

 私のことなんて知らない彼。でもそれでいいの。それでもいいの。彼の幸せが、私の幸せ。

 あの女、判ってくれないのね。どうしよう。彼のこと、あの女に判って欲しい。あの女はきっと、判ってない。

 つまらない関係に惑わされているだけ。幼馴染なんて、そんなものはまやかし。

 彼のために、私はあの女に判らせてあげないといけない。あなたたちは別れるべきだって。

 あなたたちは付き合ってはいけないって。そんなの間違ってるって。

 もういいでしょう?十分楽しんだでしょう?悪い話じゃないでしょう?

 それが彼のため、私のため。お願い。私、彼のためなら何でもするって、そう決めたから。

 さあ、あるべき姿になりましょう。私がちゃんと案内してあげる。導いてあげる。

 大丈夫、彼はきっと幸せにしてみせる。私に任せて。だって、私はずっと彼のことが好きだったんだから。

 彼のことはよく知ってる。判ってる。彼のこと、ずっと見てきた。ずっと想ってきた。

 だからお願い、別れて。幼馴染なんかとは。

 ああ、呪いは破られちゃったんだっけ。どうしようか。もう効かないよね、この程度の力じゃ。

 新しい呪いが必要か。教えてもらえるかな。ちょっと憂鬱。安くは無い。今度は何を要求されるんだろう。

 強い力。絶対に負けない力がいる。ここで引き下がるわけにはいかない。我が物顔であの二人が付き合っているなんて、そんなの許せない。

 命に替えてでも、私はあの女に判らせてやりたい。

 あなたたちは、間違っていると。


     ※     ※     ※


 朝からしとしとと雨が降っていた。ああ、もう梅雨の時期になるのか。雨が降ると色々面倒なんだよな。シュウが家の中で騒ぐし。でも、ハルに助けてもらった時のことを思い出すから、雨自体はそこまで嫌いじゃない。目を閉じると、今でもハルの背中を思い出す。思わず笑みがこぼれそうになる。

 そのハルは、今隣の教室で絶賛居残りテスト中だ。宿題忘れとか、よりによって一番厳しい古文の先生相手によくやらかしたものだ。流石のヒナもそこまではやってない。そこに痺れたり憧れたりは、ちょっと無い。

 誰もいない教室の中は、しんと静まりかえっていて物寂しい。さっきまでの喧騒が懐かしい。一人になると、急に広く感じられるから不思議だ。雨だから運動部の声もあまり聞こえてこないし、まるで水の底に沈んでしまったみたい。潜水艦一年二組。バラストブロー。

 今日に限って、ハルのことを待っててくれる男子の友人がいない。で、これは彼女であるヒナの出番でしょう、ということになった。確かにこんな天気の日に一人で帰るとか、つまんないよね。はいはい、居残りの愚痴も聞きますよ。ハルと一緒にいられるなら、なんだって楽しいし。

「ヒナちゃん、大丈夫?元気ない?」

 別れ際、チサトがヒナのことをじっと見てそう言ってきた。ああ、チサトは良く人を見ているな。中学の頃、人の顔色ばかり窺っていて疲れたって話だったけど、その習慣が残っているのか。ありがとう、チサト。お礼にぎゅーってしてあげる。うわあ、ふかふかだよこの子。なにこれ、超気持ちいい。

 元気が無いというか、ちょっとね。嫌な予感がしていた。こういう時の予感は、ありがたくないことに良く当たる。銀の鍵の力なのか何なのかはよく判らない。でも、胸騒ぎは確実にする。

 あの蛇を送りつけてきた相手は、多分諦めてない。

 あれから一週間は経っている。ヒナの周りは大分静かになった。まあ、幼馴染カップル如きにいつまでも騒いでいられるほど、みんなも暇ではないということだ。他人より、自分のことの方が大事。勉強に、部活に、友情に、恋に。考えることはいくらでもある。

 変な風に言われることも、割とすぐに収まってきた。ハルが強気に出てくれたことがうまく作用してくれたみたい。ハル、カッコいい。文句なしに自慢の彼氏。ヒナは嬉しい。

 教室や廊下でも普通にハルと話が出来るようになったし、なんというか、やっと普通の生活になってきた。朝の登校の時ぐらいしかハルとまともに会話出来ないのって、やっぱりちょっとつまんなかった。可能なら一日中一緒にいたいくらいなのに。ううん、それだとやっぱりちょっと重いかなぁ。

 そうやって徐々に周囲の空気が落ち着いていく中で、刺すような鋭い意思が感じ取れてきた。敵意だ。かなり強い敵意がヒナとハルに向けられている。間違いなく、あの蛇を送りつけて来たヤツだ。

 向こうもバカじゃない。下手に新しい呪いを送りつけても、またヒナに捻り潰されて呪詛返しを喰らうのがオチだと判っている。だから慎重に次の機会を伺っているのだろう。ただ、ヒナが持つ銀の鍵については知る術がない。これについて知ってくれれば、もう変なちょっかいを出そうなんて考えもしないはずだ。

 諦めてくれるのが一番楽だし、お互いのためなんだけどなぁ。ヒナにしてみれば、無駄な争いはしたくなかった。姿を見せず、直接手を下さずに傷付けあったって、それじゃ現実には何の解決にもならない。出来ることなら顔を突き合わせて、真正面から言葉をぶつけ合うべきなんだろうけど、それが出来ないからこういう事になっているわけで。

 はあ、もう本当に面倒くさい。

 ただ、今回はハルにまでその対象が広がってしまった。ヒナが嫌われたり、攻撃されたりというのなら別にどうということはない。それは今までも数えきれないほどあったことだし、降りかかる火の粉は払い落としてきた。でも、ハルに危害を加えようとしたことだけは絶対に許せない。

 諦めてくれないなら。叩き潰すしかない。

 ハルを巻き込もうとするなら、容赦するつもりは一切無い。ハルはヒナの一番大事。大切な居場所。誰にも渡さない。傷付けさせない。絶対に。

 教室の電灯が、ちかちか、と瞬いた。

 ああ、来たか。なんというか、分かり易いね。こういうのは助かる。

 でも、大体こういうパターンって、使ってる方がうまくコントロール出来てないんだよね。だって相手に気付かれちゃったら意味が無いじゃん。そっと背後から近付いて、急所に必殺の武器をブスリ。その方が断然スマートだ。ドンパチ戦争してるんじゃないんだからさ。

 ヒナは教卓に立った。じゃあ、授業を始めましょうか。教科は何が良いですかね。呪術ですかね。先生はナシュトさんです。ナシュトさんはスゴイ神様で、世の中の呪術や魔術にとっても精通していらっしゃいます。

 教室の中央から、大きな何かがせりあがってくる。机や椅子をすり抜けて、ぐぐっと持ち上がった鎌首。ああ、芸が無いな。また蛇だ。ただ、今度はビックリするくらいのジャンボサイズ。ヒナなんか一口でぺろりと食べられちゃいそう。

 向こうさんも今度は容赦なく来た感じか。命を奪うつもりと言っても過言ではない。これは、間違いなくおまじないの範疇を越えている。

「これ、一匹だよね?ハルの方は大丈夫?」

 ナシュト先生、回答よろしくお願いします。

「一匹だな。恐らく一匹だけで術師のキャパシティを越えている。制御出来ているかも怪しい」

 はい、ありがとうございました。助かりました。

「前回は紙だったが、これは本物の蛇だ。命を贄としている分強力になっている」

 なんとまあ。その域まで達してますか。可哀想な蛇さん。

 そこまでして、一体ヒナとハルの何が気に食わないのか。ヒナにはさっぱり解らない。自分の命を懸けてまで排除したいものですかね。だったらこそこそしてないで、堂々と出てきたらどうですか。そんなにハルが欲しいなら、真正面から戦いましょうよ。負けるつもりなんて全然無いけど、その方が相手としてまだ評価出来る。

 敵意、というよりはもう殺意だ。圧倒的な負の感情が乗せられて、蛇はここまで膨れ上がった。他人に対する悪意。ここまで溜めこんで、本人の精神状態がどんななのか逆に心配になってくる。

 人の心は、善だけで出来ているわけじゃない。銀の鍵を手に入れた当初、中学生のヒナは人の悪意のあまりの多さに恐怖した。むしろ、人は悪意で出来ていると、そう思えるほどだった。

 誰かの足を引っ張る、誰かを陥れる、困らせる、痛めつける、言いなりにする。酷いものになれば、犯す、殺す、拷問する。学校の中に蔓延する黒い妄想と負の感情の嵐に、ヒナは毎日教室の中で震えていた。隣に座っているクラスメイトの笑顔の裏には、いつもよこしまで、ふしだらな考えがあった。触れるどころか、声をかけられることも汚らわしい。

 男子の頭の中には精液が詰まってる。女子の仲良しは見かけだけ。先生だって、みんなのことを面倒だとしか思っていない。

 学校の外でも、状況は変わらなかった。人混みになんて絶対に入れない。隣を歩く人も、すれ違う人も、多かれ少なかれそこには悪意があり、身勝手な妄想があった。

 銀の鍵を使って、ヒナは独りでそれに立ち向かおうと考えたこともあった。世界は善意で構成されているべきだ。何もかもが汚い、醜い世界になんていたくなかった。ハルと一緒にいる世界。ヒナがハルと生きていく世界。そこには夢と希望が満ち溢れていてほしかった。

 しかし、それすらも自分のエゴ、自分勝手な妄想であると知ってから、ヒナはようやく世界をあるがままに受け入れられるようになった。人の考えは確かに醜い、汚い。そして身勝手だ。でも、それだけじゃない。人の中には、ちゃんと誰かを思いやる気持ちだって存在している。それを教えてくれたのは、ハルだ。

 一度だけ、ヒナはハルの心の中を見てしまったことがある。何もかもが信じられなくなった時に、ヒナはハルのことすらも疑った。ヒナのことを、ハルはどう思っているのか。ハルのことを慕ってくる、幼馴染の女の子。身勝手な妄想の対象としては申し分ない。もうどうなってもいい。ハルは、ヒナのことをどんな妄想で汚しているの?そんな捨て鉢な気分で、ヒナはハルの心を覗き込んだ。

 ハルの中で、ハルはヒナと手を繋いでいた。

 手を繋いで、並んで立って青空を見上げていた。あの河川敷、ヒナがハルに助けられたあの場所で。ハルはヒナの手を握って、笑っていた。ヒナも、笑っていた。二人で空を見上げて、笑っていた。それが、ハルの望むヒナ。ハルの望む優しい未来。

 ヒナは後悔した。壊れてしまったみたいに泣いた。そして、もう二度とハルの中を見ないと誓った。少しでもハルのことを疑った自分が馬鹿みたいだった。もう絶対に、銀の鍵の力をハルには使わない。神様の力なんて必要ない。ヒナは、自分の力だけで、ハルに好かれたい、ハルのことを好きでいたい。

 ハルはいつでも、ヒナのことを照らしてくれる光。

 ハルは、ヒナの居場所。ヒナは、ハルのことが好き。だから、ハルを傷付けようとする者は許せないし、誰かに譲るつもりなんて全く無い。

 こんな悪意なんかに負けない。

 そこに悪意が存在することは否定しない。でも、ヒナとハルの邪魔をするなら容赦はしない。絶対に負けない。ヒナは、ハルのことが好きなんだ。この気持ちだけは、絶対に誰にも負けてないって、そう言いきれる。

 ヒナは、ハルのことが好き。大事なことだから何度でも言う。ヒナは、ハルのことが好き。

 あなたがハルのことを欲しいって言うなら、真正面から来て言ってみなさいよ。

 相手してあげる。絶対に負けない自信もある。勝てないって思うからこういうことするんでしょ?

 ふざけんな。

「悪いけど、こういうのもう、慣れっこなんだよね」

 銀の鍵の力はチート級だ。今まで、ヒナは全部の力を出し切ったことすらない。それに、いざとなれば我が身かわいさにナシュトも動くことになる。神様に頼るのはシャクだけど、相手が反則してくるのならこっちだって反則でお相手する。

 蛇一匹の命。申し訳ないが軽いものだ。そこに乗った悪意も全て、ヒナのハルへの想いには届かない。神様なんて必要ないと言い切れるほどの想い。その心の力が、そう簡単に折れるはずがない。

 蛇は大きく口を開けて、悶絶し、二つに割れた舌先をヒナの方に向けて。

 そのまま、姿を消した。あっけないものだった。


 第二体育倉庫。こんな場所があったんだ。体育館の裏、入り口からして目立たない。今は確かバレー部が活動中のはずだけど、その物音もあまり聞こえてこない。便利だ、ちょっと覚えておこう。

 重い大きな引き戸に手をかけると、ごろごろという音がして開いた。中に人がいるんだから、鍵なんかかかってるわけがない。電灯のスイッチも入ってる。ホコリとカビの臭い。あんまり長居したい場所ではないかな。まあ、倉庫だし。

 大きな台車に、パイプ椅子がぎっしりと積まれている。なるほど、入学式の時に座った椅子はここに収納されていたんだ。でもここから体育館の中まで運ぶのは結構大変じゃないかなぁ。誰がやるんだろう。あ、在校生か。ええー、来年辺りやらされることになるのかなぁ。

 とりあえず脱線はその位にしておいて、パイプ椅子の森の中を進んでいく。この倉庫、結構広い。電灯も少ないし、薄暗くて不気味だ。用がなければこんなところ間違っても来たくはない。

 一番奥、コンクリートの床と壁が垂直に交わる場所。そこに、彼女はいた。

 リボンの色からして一年生か、ぐったりと座り込んで、力なくヒナのことを見上げている。丸い眼鏡に、お下げに結った髪。どんなブスかと思ったら、地味子だけど別に可愛くないってことは無い。事情を知らなければ、大丈夫?、なんて声をかけそうになってしまいそう。でも、残念ながらそういう状況じゃないのよね。

 彼女の右手には、しっかりと蛇の亡骸が握られている。

 ああ、間違いなくこの娘だ。無茶なことをする。喧嘩をする時は相手の力量をよく測らないとダメだ。最初に身喰らう蛇の呪いをアッサリと破られた時点で、この娘は手を引くべきだったんだ。

 まだるっこしいな。時間の無駄だ。ヒナは銀の鍵の力を使った。一年一組、生方うぶかたタエさん。初めましてだね。体育の授業は一緒になったことがあるけど、面識はほぼゼロ。喋ったことも無いかな。

 何か心の中がドロドロとしている。さっきの蛇の影響がまだ残っているのか。ああ、やっぱりヒナとハルが一緒にいるのが気に食わないんだ。それはごめんなさいね。

 あなたに何を思われようが、ヒナはハルと別れるつもりなんて全然無いから。

「ハルのこと、好きなの?」

 それでもこの子、タエがハルのことをとても好きだと言うのなら、話ぐらいは聞いてあげたい。ハルのことが大好きな人同士として、ハルの彼女として、その想いは受け止めてあげたい。負けるつもりはないけど、ハルへの想いが本物なら、それを認めてあげることはやぶさかではない。人を好きになること、それ自体は自由なことだ。

 タエはぼんやりと焦点の合わない目でヒナのことを見ていたが。

 ヒナの問いかけを聞いて、身体をひくひくと震わせ始めた。口角が上がり、目から涙がこぼれる。しゃっくりみたいな声が漏れる。なんだ?なんだこれ、ちょっと待って、なにかおかしい。

「何言ってんのアンタ?ハル?ああ、あの冴えない男子?馬鹿じゃないの?あんな不細工、なんで私が?」

 タエは笑っていた。嘲笑だ。この娘は歪んでいる。もっと奥、そこに何か潜んでいる。表面だけなぞっていたから見落としていた。こんなヤツ相手に加減なんかいらなかったんだ。

 タエはハルの事なんか、何とも思ってない。いや、そもそもハルに対して全然興味を持っていない。え?じゃあヒナ?ヒナのことが好きとか?

 いや、そうでもない。なんだこれ。じゃあただのやっかみ?そんな理由でここまで噛みついて来たの?それじゃあまるで狂犬だよ。通り魔に遭ったみたいなもの?

 違う。タエの中には誰かがいる。眩しい光がある。タエの夢、望み、理想。

 男子生徒。

 ・・・えーっと、誰これ?

 どっかで見たことあるんだよな。全然知らないわけじゃない気がする。ネクタイの色からして先輩だな。名前は、支倉はせくら?いや知らない。聞いたことがない。

 多分タエのフィルターがかかってるからだと思うんだけど、なんていうか爽やかイケメン?カッコいい?んじゃない?でもハルじゃないし。ふーん、ぐらい。

 え?こいつが何?なんなの?

「支倉先輩は、アンタの事が好きだって言ってた」

 ホワッツ?パードゥン?

 ごめん、本気で意味が判らない。何言ってんのこの子?

 ああ、話すのつらいね。ごめん、もう勝手に読ませてもらうわ。なんか口で説明してもらってもラチがあかなそう。なんていうか、歪みすぎてスパゲッティ。フォークとスプーン持ってきて。

 この支倉とかいう人は、タエの中学の先輩だった。タエは支倉先輩のことをとってもカッコいいって、ずっと好きだった。はあそうなんだ。そりゃ結構。

 支倉先輩を追いかけて、タエはこの高校にやって来た。涙ぐましい努力だと思うよ。頑張ってるね。ここまではヒナにも理解出来る。好きな人のそばにいたいと思う気持ちは、ヒナも同じ。ハルがいるからヒナはこの学校にいる。

 支倉先輩に会うために、タエはこの高校に入った。解る。支倉先輩には、新一年生の中に気になる子がいた。それはタエではない別な女の子だった。ありゃ、それは何と言うか、ご愁傷さま。

 その気になる子とは、ヒナだった。

 うっわ、マジですか。

 それは何と言うか、ごめんなさい。でも、ヒナに悪気は無い。ヒナは別に誰彼構わずモテたいなんて思ってないし、変なモーションだってかけたつもりはない。ハルが好きになってくれればそれで良い。その先輩のことは、まあ見てくれは悪く無いかもしれないけど、ヒナ的にはアウトオブ眼中だ。

 あれ?でもちょっと待って。

 ヒナはハルと付き合ってる。そのことはタエも知ってる。それで良いよね?そこでハルとの仲を邪魔するまでしなくてもいいんじゃない?支倉先輩は今フリーなんだから、ヒナの事なんて忘れちゃって、タエがアタックしちゃえばいいじゃん。何が問題なの?

「支倉先輩はね、すごく素敵なんだよ」

 強い感情が伝わってくる。タエは、支倉先輩のことをすごく好きなんだ。うん、その気持ちに偽りはないみたい。

「支倉先輩に好かれるとか、それだけで喜ぶべきなんだよ。先輩に好かれたんだったら、先輩と付き合うべきなんだよ。あんな素敵な先輩と付き合わないなんて、おかしいよ。理屈に合わないよ」

 支倉先輩は、タエにとっては眩しすぎる光、手が届かないくらい遠い人。そうなんだ。理由はわからないけど、タエには支倉先輩の隣に立つ自信がない。正面からぶつかっていく勇気が無い。違う世界に住んでる人。だから、支倉先輩が好きなった人が、先輩と親しくなって、その人と幸せになってくれればそれで良いって考えてる。

「それなのに何なのアンタ?幼馴染?お手軽な相手とくっついちゃってさ。何それ?超つまんないんだけど」

 面白くなかったんだね。タエにとって支倉先輩はとても素敵な人なのに、ヒナはその存在を意識すらしていない。それどころか、タエにとっては何の価値もない幼馴染のハルと付き合い始めちゃった。タエの素敵な先輩は、歯牙にもかけられずに負けちゃった。

「私は先輩が好きなの。先輩に幸せになって欲しいの。先輩が好きになった人、先輩にはその人と結ばれて、幸せになって欲しいんだよ」

 ・・・ねえ、タエ。

 好きな人がいて、同じ高校に入るまで追いかけて。

 幸せになって欲しいとまで言って。

 どうして、その人の隣に立つことを、早々に諦めてしまうの?

 ヒナにはそれがわからない。

「支倉先輩のこと、好き?」

 ヒナは静かにそう訊いた。タエは敵意のこもった眼でヒナのことを睨み付けた。

「好きだよ。先輩のこと、私は好きなんだよ」

 そうだよね。わかるよ。タエの心がズキズキと痛むの、感じる。

「好きなんだ。好きなんだよ。先輩、好きなんです」

 タエの目から、大粒の涙が溢れ出す。うん、タエは支倉先輩のこと、とても好きなんだ。

「先輩、私、好きなんです。先輩のこと、好きなんです」

 正直になろう。タエが先輩の幸せを願う気持ちが嘘だなんて言わないけど。でも、タエだってもっと幸せになって良い。幸せになろうとして良い。タエが先輩を幸せにするって、そう考えたって良い。

 泣くほど好きなんでしょう?じゃあヒナと一緒。ヒナもハルのこと大好きなんだ。泣いちゃうくらい。

 幼馴染なのは確かなんだけど、でもお手軽とか、楽とか、そんなことは無い。ヒナだって沢山努力して、沢山苦労した。好きな人に好かれるために、いっぱい頑張った。

 タエも頑張ろう。何がタエを躊躇させているのかはわからないけど、答えはきっとあるよ。

 支倉先輩は、芸能人とかじゃない。ちゃんとタエの手が届くところにいる人だ。タエが何で自分の手を伸ばさないのか、何故こんなに歪んでしまっているのか、その理由はとにかくとして。これだけ強い想いを乗せられたんだ。タエがそのつもりなら、きっと支倉先輩の隣に立つことは出来る。ヒナはそう思う。

 だから、こんなことはもうやめよう。こうやって陰湿なことして、裏からこそこそ攻撃して、そんなことしてたら、支倉先輩に顔向け出来ないでしょう?正面から先輩の顔が見れないでしょう?

 ヒナだってそう。銀の鍵。この力でハルの心を読んで、いいように誘導して、ヒナにとって心地よい関係を作ることは簡単に出来る。でも、そんなことをしたら、ヒナは絶対にハルと顔を合わせることが出来ない。そんなズルでハルとくっついても、何にもいいことなんてない。

 タエが何故一歩を踏み出すことが出来ないのか。その原因を読むことはしない。タエの答えは、タエ自身で見つけるべきだ。そこにはひょっとしたら、ヒナには想像もつかない何かがあるのかもしれない。でも。

 こんなに好きなら、きっと届くよ。突き抜ける想いがあれば、呪いなんて、神様なんて、必要ない。

 タエの後ろに、大きな黒い影が浮かんだ。蛇の形をした影。命を犠牲にした呪いの、強い呪詛返し。

 もしタエがヒナにとってどうしようもない相手だったなら、このまま放っておくつもりだった。ヒナとハルに危害を加えて来るような相手がどうなろうが、基本的には知ったことではない。

 でも、実際に顔を突き合わせて話をしてみれば、ちゃんと理解することが出来る。ほらね、やっぱりこうやって直接やり取りする方が楽なんだって。お互いにスッキリ解決でしょう?

 蛇さんごめんね。これでおしまいだから。

 呪詛返しを銀の鍵で無効にする。その時になって、ヒナはようやく支倉先輩が誰なのかを思い出した。視聴覚教室で、ヒナの荷物を持とうかと声をかけてきた先輩だ。

 あれがあったから、ハルはヒナに告白してくれたとも言える。そう考えたらちょっとした恩人だ。似非の臭いはしたけれど、確かにカッコよかった?かな?うん。

 ありがとう、支倉先輩。

 ヒナはあなたの期待に応えることは出来ません。その代わり、あなたのことをとても好きな子がいます。どうか、振り向いてあげてください。

 お願いします。ごめんなさい。


 全ての力を使い果たしたのか、タエは気を失ってしまった。蛇の呪いは、それだけ強力だったのだろう。ただ、銀の鍵はその上を行く力を持っていた。

 タエの前でしゃがんで、ヒナはその手から蛇の亡骸を離した。これはもう必要無いでしょう。ヒナが葬っておくよ。

 さて、一件落着と言いたいトコロだけど、まだ後始末が残ってる。知りたいこともあるし。

「ナシュト、お仕事」

 ヒナの横にナシュトが姿を現した。なんだ、最近素直じゃん。いつもこのくらい言う事聞いてくれるととても助かるんだけど。

 銀の鍵でも出来ないことは無いんだけど、ナシュトの方が器用にこなせることがある。記憶の操作だ。

「この者から記憶を消せばいいのか?」

 うーん、まあそうなんだけどさ。

「その前に、知りたいことがあるのよ」

 蛇の呪い。身喰らう蛇の呪い。これらはちょっと、洒落にならない。おまじないの領域を越えている。タエが何処でこの呪いを知ったのか、出所を抑えておいた方が良いだろう。

 別に正義の味方を気取るつもりはない。ただ、手に負えなくなる前にその正体を掴んでおくことは肝要だ。ヒナやハルにとって危険な相手である可能性があるのなら、知っておいて損は無い。

 タエの記憶の中にある、この呪いに関する情報。ヒナだけだとうまく鍵の力を使いこなせないから、ナシュトに手伝ってもらって、呪いの出所を洗い出す。

 さて、一体何処のどなたが、こんな危険な呪いを女子高生に吹き込んだのやら。

「ヒナ!下がれ!」

 えっ?

 ビックリして後ろに倒れ込んだ。ナシュト?今叫んだ?

 ヒナの鼻先を、黒い指先がかすめる。今の、何?

 タエの顔から、真っ黒い右手が伸びている。何、これ?肘から先だけの、本当に真っ黒な手。ヒナの顔に掴みかかろうとしていた手は、しばらく指をもぞもぞと動かしていたが、だらり、と垂れ下がって姿を消した。もし捕まってたら、どうなってたんだろう。ヒナは久しぶりに背筋がゾッとした。

「罠だ。呪いに関する記憶を探ろうとすると発動するようだ」

 へええ。それは考えていなかった。

 ナシュト、ありがとう。まさかこんな風に助けられるなんて思いもしなかった。

 でも、罠を張っているなんて油断がならないというか。

 本当にガチな相手、ってことじゃない?

「これ、罠だけ外せないの?」

 まあ、そんなぬるい相手じゃないよね。

「その場合この人間の精神が正常であることを保証出来なくなる」

 じゃあ却下だ。困ったもんだ。神様も肝心な時には役に立たない。

「記憶を消すことは出来るんでしょう?」

「罠ごと消し去ることは出来る。そちらは問題ない」

 そういうところまで、どうせ織り込み済みなんでしょ。腹立たしい。

 なんだか掌の上で踊らされているみたいで、酷く不愉快だ。あまりに手慣れている。こういうことにこれだけ精通した相手が、ヒナとつながった場所にいる。そう考えるだけで本当に嫌な気分になる。

 ひょっとしたら、これはまずい相手なのかもしれない。悪戯に干渉して、反感を買って敵に回すべきじゃない。なるべく刺激せずに、可能な限り関わり合いにならないようにしなくては。

「じゃあ、タエから呪いと、後は私に関する記憶だけ消しておいて」

 多分、そんな程度で問題ない。

 支倉先輩は、実はあれからヒナの前には一度も姿を見せていない。ハルと付き合い始めたという噂もあって、とっくにヒナに対する興味など失ってしまったのだろう。まあ気になる子、とはいってもその程度のことだ。支倉先輩から感じたヒナに対する感情も、思春期男子の正常な性的欲求以上のものは感じなかった。だから印象に残らなかった、というのもある。

 呪いに関しては、罠のこともあるし、タエには過ぎたものだ。忘れてもらうに越したことはない。

 ヒナのことも、それに関連して忘れておいてもらう。後はタエ次第。頑張って支倉先輩の隣に立てるようになって欲しい。

 ナシュトがタエの記憶を消す。バイバイ、タエ。もしお友達になることがあったら、その時は支倉先輩のこと聞かせてね。ヒナも、ハルのこと教えてあげる。ハルがヒナにとって、ただの幼馴染じゃないって。

 ・・・ああ、しまった。

 慌てて携帯を取り出して時刻を見る。やっちゃった。あーあ。

 これからまだ色々と後始末が残ってるのに、もうこんな時間。

 ごめんね、ハル。タイムオーバーだ。


 部屋に入ってすぐ、ヒナはベッドの上に倒れ込んだ。ああ、そういえば前もこんなことあったね。最近こんなのばっかり。

 外ではまだ雨が降り続いている。もうすっかり日が落ちて真っ暗だ。雨脚が強くなって来たのか、雨粒が窓硝子を叩く音がする。

 あれから、まずはタエを保健室に運んだ。目が覚めたら体育倉庫で一人、とか怖すぎるでしょう。そのくらいのケアは必要。流石にヒナ一人で運ぶのは無理だったので、バレー部員の人にも手を貸してもらった。タエを保健の先生に預けて、ヒナはすぐに退散した。何しろ、タエとはまだ面識が無いことになっている。

 その後は学校の裏の花壇に、蛇の亡骸を埋葬した。ごめんね、あなたには何の罪もないのにね。タエに殺されて、ヒナには二度殺されて、計三回殺された。酷い仕打ちだよね。人間の身勝手さを許してください。

 さて、これだけのことをこなすには、やっぱりそれなりの時間が必要になるわけで。結局、ハルと一緒に帰るという当初の約束は果たすことが出来なかった。がっかりだ。

 ハルにはメッセージを出しておいた。『ごめん、急用が出来ちゃって一緒に帰れない』って、それだけ。ううう、ハル、ゴメン。ホントにゴメン。

 携帯を見ると、ハルから返信が来ていた。

『大丈夫。気にするな』

 短い、それだけのメッセージ。

 ハルからのメッセージを見ていたら、なんだかものすごく申し訳ない気持ちになってきた。

 ハル、ヒナはハルに言ってないこと、いっぱいある。

 銀の鍵に、ナシュト。ハルに秘密は作らない、隠し事はしないって決めてるけど、話してないことは沢山ある。聞かれたら答えるなんて勝手に思ってる。わかってる、そんなのは言い逃れだ。

 ハルのことはとても大切。ハルはヒナにとっての一番。それは本当。

 だから、こうやってハルに言えないことがあるのは、すごくつらい。苦しい。

 全部話しちゃえって思う時もある。何もかもぶちまけてしまえばスッキリするって、そう考えることもある。

 ハルならヒナの話をちゃんと聞いてくれる。信じてくれる。ヒナのことを、頑張ったなって褒めてくれる。きっとそう。

 でも、それは諦めちゃったみたいで、なんかヤなんだ。メンドクサイ娘だと思うよ?メンドクサイんだけどさ。

 ヒナはハルのために頑張るって決めたんだ。これはヒナの戦い。負けたくない。こんなわけのわからない銀の鍵や、神様なんかに負けたくない。ヒナの気持ちは、ハルを好きだっていう気持ちは、そんなものには負けないんだ。

 ハル、大好きだよ、ハル。

 ハル、声が聞きたいよ、ハル。

 ハル。

 通話アイコンに指が伸びる。

 ハル、ごめんね。

 タップする。呼び出し音がする。1コールで切るつもりだった。

「ヒナ?」

 ハル、どうしてすぐに電話に出てくれるの?

「ハル、ごめんね」

 どうしてヒナが声を聞きたい時、すぐに声を聞かせてくれるの?ヒナの名前を呼んでくれるの?

「どうしたんだ、ヒナ。何かあったのか?」

 どうしてヒナのことを心配してくれるの?

「今日、一緒に帰れなくて、ごめんね」

 ハル、一緒にいたいよ、ハル。

「ああ、大丈夫だって。そんなに気にするなよ」

 どうしてヒナのことを許してくれるの?

「ハル、ごめんね」

 言いたいこと、言わなきゃいけないことが沢山あるのに、言えなくてごめんね。

「ヒナ、何かあったのか?」

 あったよ。いっぱいあった。いっぱいあるんだよ、ハル。

「何でもない。何でもないよ」

 でも話せない。話せないんだよ、ハル。

「何でもないって、お前」

 涙が出てる。知らない間に泣いていた。ハル、ヒナ泣いてるみたい。

「ハル、この前、ヒナに告白してくれた時」

 嬉しかったよ、ハル。ヒナは本当に嬉しかった。でもね。

「お手軽な女の子と思ってる、なんて言ってごめんね」

 あれは、言っちゃいけない言葉だった。

 タエに言われて、ヒナは本当に嫌だった。だって、ヒナはハルのことをそんな風には思ってない。ハルは、かけがえのないハル。世界でたった一人のハル。ヒナの居場所。ヒナの一番。

 ハルは、ヒナからそんなこと言われてどう思っただろう。ヒナがハルからそんなこと言われたら、すごく悲しい。すごくつらい。ハルのことこんなに好きなのに、それがわかって貰えないのは、本当に苦しい。

 絶対にそんなこと言っちゃダメだった。ハルの気持ちを考えたら、そんな言葉は口にしちゃいけなかったんだ。

「ハル、ごめんね」

 ハルの声が聞こえない。

 電話は沈黙している。

「ハル?」

 やだ、ハル、返事して。

 声を聞かせて。

「ハル?」

 行かないで、ハル。消えないで、ハル。

 ヒナのそばから、いなくならないで。

「ハル?」

 ごめんなさい、ハル。ごめんなさい。

 お願い、ヒナを置いていかないで。

「ハル?」

 嫌だよ、ハル。

 寂しいよ、ハル。

「ハル?ハル?」

 ハルは沈黙したままだ。どうして、ハル?ヒナは、ハルがいてくれないと。

 ハルがいてくれないと。

 もう、どうしたらいいか、わからない。

 ハル。

 ハル。

 お願い、ヒナを捨てないで。

「ヒナ、聞こえてる?」

 ハル!

 ハルの声。

「うん、聞こえてる」

 ハルの声、聞こえてるよ。

 他の全ての声が、音が消えてしまったとしても。

 ヒナには、ハルの声だけは聞こえてる。

 あの雨の日からずっと。

 ハルの声は聞こえてる。ハルの声だけは聞こえてる。

 だって、ハルのこと、大好きだから。ヒナはハルのこと、大好きだから。

「窓、開けて」

 え?

 嘘でしょう?

 すぐに立ち上がって、窓の方に駆け出す。外は真っ暗。酷い雨。あの時と同じ、強い雨。

 力いっぱい窓を開け放つ。カーテンが暴れる。吹き込んでくる雨粒なんて気にならない。だって、そこには。

 窓の下、玄関の前。

 黄色い傘が揺れてる。携帯の画面の光が見える。小さな輝きの中に。

 ハルの顔が、見える。

「よっ」

 ハルは、ヒナを照らしてくれる光。

 そうだ、ハルはいつだって、ヒナを助けてくれる。ヒナを探してくれる。ヒナを見つけてくれる。ヒナをわかろうとしてくれる。

 雨の中、ヒナのために走ってくれる。

 ねえ、どうしてハルはそんなにカッコいいの?

 どうしてヒナが会いたい時に、ヒナに会いに来てくれるの?

 ハル。

「ハル」

 どうしてヒナのために、ここまでしてくれるの?

「ん?」

 ハル、ヒナはハルのこと大好き。

 もうどうしようもないくらい、好き。ハルがいてくれれば、もう、何もいらない。銀の鍵も、神様も、何もいらない。

「ちょっと待ってて」

 伝えなきゃ。ハルに直接。少しでも早く。

 おへその下に手を当てる。これはまだ、もうちょっと後で。だって二人は高校生だし。

 それに、今はもっと大事なことがある。

 もう少しで電話で言ってしまうところだった。やっぱりこういうことは、直接伝えないと。好きだよって。大好きだよって。

 さあ、玄関に急ごう。

 そこにはハルがいる。ヒナの大好きな、ハルが。

 ヒナは、ハルのことが好き。

 大事なことだから何度でも言う。


 ヒナは、ハルのことが好き。

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