ナツの幻
第4話 スキのカタチ
今年の夏は暑い。毎年のようにそう言われる。当然、今回も例外無しだ。
照りつける太陽の光は、じりじりと地上にある全てのものを焦がしていく。その熱を受けたアスファルトが、ねっちょりと靴の裏に貼りついてくる。足を上げるたびに、べり、べり、って微かな音と共に抵抗を感じる。どんだけ暑いんだ。
日陰を選んで歩いているつもりでも、熱気からは逃れることは出来ない。街路樹の切れ目から太陽を見上げて、
いつもは登校時の高校生でにぎわう道路だが、今日この時は誰も歩いていない。もう夏休みだ。時間もお昼過ぎ。いつもと同じ道が、いつもと違って感じられる。誰もいない通学路って、ちょっとセンチメンタル?
ただ、気分に浸っていられるような環境ではない。暑い。陽炎に逃げ水というものを、ヒナは久しぶりに見た気がした。うわあ、すっかり忘れていたけど、こういうのってホントにあるもんなんだね。漫画的表現だとばかり思っていたよ。
夏休み第一週、ヒナの彼氏様である朝倉ハルは補習授業を受けている真っ最中だ。お陰様でヒナのハルと過ごす甘い夏休み計画は見事に出鼻を挫かれ、頓挫寸前。本当なら今日は水族館で涼しく楽しいひと時を過ごす予定だった。ハルの馬鹿。
まあハルだって好きで物理の補習なんて受けてる訳じゃない。お互い学力的にはちょっとアレな感じだ。ヒナが今回補習を受けずに済んだのは、ひとえにハルへの熱い愛のなせる業。ん?ちょっと待って?ハルには愛が足りないってか?
そ、そんなことはないよね。たまたま、たまたま。運の要素も大いにあり得る。ハルだって頑張ったんだよ、うん。悪いのはニュートンだ。重力なんてわざわざ数字にしなくったって、誰も困らない。よね?
それに、ハルの気持ちは夏休み前の日曜日にいっぱい受け取った。
えへへ。でへへ。いかん、顔がゆるんでくる。でも幸せだった記憶って、いつまでも思い出して浸れるもんだね。いやぁ、ヒナ嬉しかった。しばらくこの記憶だけでご飯何杯でもいけちゃう。
ずっと好きだった人との、初めての恋人のキス。ヒナ、ハルに全部預けちゃった。全身お任せコースで。ハルはちょっとビックリしてたみたい。だって、ヒナ嬉しかったんだもん。ハルとキスだよ?もう、どんだけ待ってたと思ってるの?
服装とか、色々と気に食わない要素はあったけど、キスだけなら満点。まだハルの唇の感触、思い出せる。ふふ、もうちょっと硬いイメージがあったけど、予想よりずっと柔らかかった。あと、力強かった。ハル、もう少し好きにしてくれても良かったのに。ヒナは、ハルのこと好きなんだから、大丈夫だよ。
ハルはヒナのこと、お姫様みたいに大事にしてくれてる。それも良く解った。昔からそうだよね。大事にされてて幸せなんだけど、時には強引に迫られてもみたい複雑な乙女心。なーんて。ハルがそんなことしないって判ってるから、こんなふうに思っちゃうんだろうな。ヒナは贅沢だな。
夏休みはハルの彼女としてちょっと頑張っちゃうつもりだったんだけど、まさかその前に一歩進んじゃうとはね。これはいざ夏休みに突入したら、ヒナ大人の階段八艘飛びで駆け上がっちゃうかもよ?今度こそ生活指導で大目玉喰らったりして。ははは、望むところだ。いざっ。
後ろからでっかいダンプカーがぶわぁー、と音を立てて走り抜けていった。巻き上がる熱風、粉塵、排気ガス。ぐえっほ、げっほ。あっちぃ、くそあっちぃ。なんだコラ、てめぇ、女子高生ナメんな。ぐえっほ。
酷い目に遭った。どうも学校の近くの空き地に何か作っているらしく、夏休み中は工事車両が良く通るらしい。学生が車道まで広がってワイワイ騒いでいる時期にまで食い込んだら、工事どころじゃ無くなるだろうからね。にしても酷い。臭い。暑い。
とりあえず、学校までもう少し。学校に着きさえすれば、この灼熱地獄とはオサラバだ。
学校では、ハルが補習授業を受けている。お昼前から、午後までみっちり。あのすだれハゲ先生の趣味なのか何なのか、かなりハードなスケジュールだ。予備校の夏期講習より厳しい。そんなに物理漬けにされてハルが理系になっちゃったらどうするんだ。ヒナ、絶対理系とか無理だから。
一応、補習という建前上、彼女であるヒナはハルの邪魔にはならないようにしているつもり。一緒に登校もしていない。補習期間中はデートとかしない。メッセージも最小限。
でもね、それだとハル分が不足しちゃうんですよ。この前夜の公園で、優しく強く抱き締めあって、お互いに好きって言って、キスなんかしちゃった仲なんですよ。今が旬じゃないですか。青春どストライクですよ。若さゆえの暴走待ったなしですよ。
・・・うん、ハルに会いたいんだ。ハルの顔が見たいんだ。それだけ。
やっぱり、折角両想いであることをちゃんと確認出来た訳だし、ヒナとしては少しでもハルと一緒の時間を増やしたい。ハルには迷惑をかけちゃうかもしれないけど、ヒナだって今まで沢山我慢してきたんだ。ハルが、ヒナの本気をちゃんと受け止めてくれるって判ったんだし、ヒナ今度こそ手加減無しで迫っちゃいたい。ふふ、こんなことを思ってるだけで、結構楽しい。
学校に着くまでに、色々と理由を考えておくつもりだったけど、なんだかどうでも良くなってきた。ハルに会いたい。それで良いじゃん。彼女が彼氏のことを恋しがって、何かいけませんかね?好きな人の近くにいたいって、悪いことですかね。
別に補習の邪魔をするつもりはないし、学校の何処かで涼んでいればいい。帰りにハルと二人で並んで歩ければ、それだけで十分。うん、想像したらとっても楽しそう。いける。白米大盛りいける。
それに夏休み中の学校って、どんななのかちょっと気にはなっている。誰もいないのか、思ったよりも賑やかなのか。人がいない教室、談話コーナー、学食、色々と興味はある。いい機会だから覗いてみたい。単なる好奇心。
毎日だと飽きそうだけど、たまにならこんな小さな冒険があっても良い。ハルを待ちながら、自分の通う学校について理解を深める。うん、素敵な理由が出来た。ヒナ冴えてる。
街路樹が途切れて、がつーんと強烈な日差しが攻撃を仕掛けてきた。一瞬くらっと来る。ああ、これが無ければ最高だったかもね。一番良いクーラー、頼む。
正門を抜けると、まず広場がある。入学式の前、クラス分けの発表があったところだ。思い出すなぁ、ハルと同じクラス、嬉しかった。まず作為性を疑っちゃったんだけど、こういうので素直に喜べなくなっちゃった自分が悲しい。ヒナは、不本意ながら神様の世界に片足を突っ込んじゃってる。
ヒナの左手には、銀の鍵とかいう不思議なアイテムが埋め込まれている。中二設定だ。もう高校生なんだから、こういうのは済ませておきたかった。まあ残っちゃってるんだから仕方が無い。ヒナの意思とは無関係。
手に入れたのは中学の時。その頃はリアル中二で言い訳出来たのにな。出所はお父さんの海外出張のお土産。なんかふっるーいアニメかなんかでありそうだよね、そういう設定。ガッカリしてくる。
銀の鍵は神様の国に通じるものらしい。鍵の守護者であるナシュトの導きによって、共に神の園カダスを目指そうぞ、っていうのが望ましい展開だったのかな。さあ、銀髪イケメンの神官ナシュト共に少女よ立て、みたいな。
まあヒナは断っちゃったんだけどね。いらねーし。
そしたら解約出来ないとか言い出してきた。携帯の二年縛りより酷い。アンケートなら何枚でも記入してあげるから、さっさと退会させてほしい。あのね、今日び神様の国なんて誰でも行きたいとか思う訳じゃないから。舐めんな。
消せないって言うから仕方なく試しに使ってみたら、銀の鍵の力の酷いことったらない。人の心を読む、操る、書き換える。人権なんて欠片も無い。しかも思春期ど真ん中の中学生の心の中なんて、カオスも良い所だ。思い出すだけで気分が悪くなる。
そもそも心の中なんて、各人の自由な世界だ。覗かれて良い思いなんてしない。操って、書き換えて、それで何をするというのか。どんな理由であれ、人の心に誰かが直接干渉するなんて、気味の良い話じゃない。
よって、この力は基本封印。ただし、銀の鍵の力はそれだけじゃなくて、意図せず見えないモノが見えたりして非常にわずらわしい。確かに便利に使わせてもらうこともあるけど、積極的にこれで何かしようという気にはなかなかなれない。ヒナから離れられなくなったナシュトには少しは同情するけれど、残念ながらこの神様は人間的なことに理解が無さすぎるので、こちらも実際に顔を合わせるとむかついてくるだけだ。
クソ暑い中そんなことばかり考えていても何の得にもならない。ヒナはさっさと昇降口の方に向かった。途中、渡り廊下が頭上を通っている。日陰だ、日陰。ひゃっほい。
渡り廊下の柱の所に、何人かの生徒が座り込んでいた。揃いのユニフォームを着ているから、体育会系の部活だろう。男子と女子で別れてグループになっている。おおう、なんだか生足がいっぱい。露出度高いな。ファンサービスか。
どうやら陸上部みたいだ。ショートカットとポニーテールの宝庫。そういうマニアがいればたまらんのではないですかね。ああ、ポーニーテールと言えば、走り高跳びの選手はやっぱりポニーテールだと不利だったりするんですかね。ヒナ、ちょっと気になる。
うわぁ、あんなショートパンツで胡坐かいて座っちゃったりするんだ。すいません、ヒナには陸上部無理そうです。ただでさえ走るの遅いのに、その格好でいろとか死にそう。いや、死ねとか言われそう。暑いのはわかるいいだけど、せめてジャージの下履こうよ。目のやり場に困る。
「やあ、ヒナ」
突然声をかけられて飛び上がるほど驚いた。そ、そんなにジロジロ見てません。はしたないとか思ってません。みなさん脚綺麗ですね、えへ、えへ。
スラリとした長身の女の子が手を振っている。女の子、だよね。細い、そしてカッコいい。陸上部の露出全開のユニフォームをいやらしくなく、スマートに着こなしている。この王子様っぷりは、他に類を見ない。
「サキ、やっほー」
クラスメイトのサキだ。そういえば陸上部だったっけ。綺麗に日焼けしてる。筋肉質だけど締まっていてしなやかな四肢が眩しい。ショートカットに猫目、いいよね、正にネコ科の肉食獣。ヒナが女の子なら放っておかないよ、ってアレ?
サキはクラスの仲良しグループの一人。グループの、っていうかクラスの女子の王子様だ。その辺の男子なんか目じゃ無いくらいカッコよくて、スマートで、紳士で、エレガント。でも女の子としても十分可愛いとヒナは思ってる。サキ、たまにすっごい良い顔することあるんだよね。
両親が美容師で、家が美容院ってこともあって、おしゃれにも色々と詳しい。それがまた女子に人気の秘訣。ヒナやチサトはいつもサキに髪をすいてもらったり、ちょっといじってもらったりしている。これが良いアレンジなんだ。ワンポイントで可愛く見せるセンスの良さに、いつも感心させられる。サキ、自分では似合わないなんて言うけど、やっぱり可愛いよなぁ。
「ヒナ、今日はどうしたの?」
あははあ、やっぱり訊くよね。補習は回避したって、夏休み入る前に言ってあったし。ヒナ帰宅部だし、図書室で勉強するタイプでもないよね。あはは。
「えーと、ちょっと、ハルの様子をね」
サキは、ああ、と笑顔を浮かべた。ううう、彼氏の顔見に来ました、って結構恥ずいな。まさかサキとこんなところで会うとは思ってもみなかった。なんだろうこれ、変な告白よりつらい。
「ヒナは健気で可愛いな」
そういうこと言わないでー。サキに言われると、妙な感じ。王子様、お戯れを。ヒナには心に決めた人が。うわぁ、洒落にならん。王子様カッコいな。バレンタインの時にはおこぼれにあずかろう。絶対箱一杯に貰うクチだよね。
照れ隠しもあって、ちょっと失礼かもしれないけどサキのユニフォーム姿を眺めまわしてしまった。ん、こうやって見るとサキ、ちゃんと女の子だね。勝手に超スレンダーだと思い込んでたけど、全然そんなこと無かった。可愛いなぁ。実は男子にも結構モテるんじゃないの?
「なんか、陸上のユニフォームって大胆だよね」
思わず口に出る。いや、だって、さあ。サキみたいに細くてシャープな感じの子は良いよ?でもヒナみたいな、なんというか、ぽわぽわした子が着れるものじゃないよ。
サキは「そんなことないよ」って言うけど、いやいやいや、そんなことあるよ。マジで勘弁して。ヒナは超文系。確かに中学ではバスケ部に入ってたけど、あれはハルがやってたからだよ。ちょっとでも話題とか合わせたかったし、近くにいたかったからって、もうバリバリに不純な動機でしたから。後で自分が運痴だって嫌というほど思い知らされましたよ。レギュラー?ヒナ、ドリンクはスモールで満足です。
「機能性とか、通気性の問題があるからね」
まあね、汗かくだろうし、動きやすい方が良いとは思うんだよ。でも、これ絶対誰かオッサンの趣味が入ってるよね。ヒナはそう疑ってる。利権とオッサンの臭いがする。間違いない。サキみたいな子がカッコよく着こなしちゃうから、むしろ浸透してしまって問題にならないのではないか。けしからん、もっとやれ。
・・・ヒナは一体何と戦ってるんだ。
「サキはなんで陸上をやってるの?」
何となく、本当に何となく頭の中に浮かんだ質問だった。特に意味なんて無い。シンプルな疑問。ヒナは部活に打ち込むってピンと来ないので、サキがどうして頑張っているのか、良くわからなかっただけ。
でも、サキには「何となく」な質問では無かったみたい。
サキの顔が、ごくたまに見せる「良い顔」になった。ああ、こんな近く、真正面から見るのは初めてだ。サキ、そんな顔するんだね。ごめんね、サキ。そんなつもりは無かったんだ。
サキは、寂しそうに笑っていた。
触れてはいけない話題だったかな。サキは確かショートトラック、短距離走だよね。走ることって、サキにとっては何か特別な意味があることなのかもしれない。それは、ヒナが聞いてはいけなかったかな。
「えっと、ゴメン、変なこと聞いた?」
「ああ、違うんだ。今ちょっとガード下がってた。こっちこそゴメン」
サキがちょいちょい、と手招きする。少し離れた柱の影。そこには、他の陸上部員たちがいない。ちょっとロマンスの香り。王子様は大胆だなぁ。
ヒナが柱に寄りかかると、背の高いサキが隣に並んだ。壁ドンとか、してくれても良いのよ?残念ながら、王子様は今乙女の顔をしていらした。サキ、可愛い。今は、ヒナが抱き締めてあげたい感じ。
「ヒナは不思議だな」
そう前置きして、サキは静かに語り始めた。蝉の声が聞こえる、暑い暑い夏の昼下がり。
「あたし、嫌な女」
何度となく、繰り返してきた言葉。もう何年だろう。あの日から数えて、二年。まだ二年。足りないね。全然足りない。
サキの心の中は、ずっと真っ暗なまま。暗い中で、じっと座り込んで、両足を抱えている。何もしたくない、何も聞きたくない。
そんな自分を誤魔化すために、サキは走る。走っている間は、何もかも忘れていることが出来る。走り続ければ、エンドルフィンが大量に分泌される。ランナーズハイになる。気持ち良い。何も考えない。
教室で、チサトやヒナの髪をいじっていると、心が安らぐ。代償行為だって解ってる。それでも、二人を見ていると、とても可愛くて、愛おしくて、胸の奥が苦しくなる。
ヒナが、幼馴染の朝倉ハルと付き合うと聞いて、良かったと思う半面、やはりつらくなった。そうだね、そうやって結ばれるべきなんだ。だから、やっぱりサキは嫌な女なんだ。
二年前、一つ下の妹、ユキが死んだ。
交通事故だった。雨の日、見通しの悪い道路で、トラックに撥ねられた。即死だった。
可愛い妹だった。何もかもがサキと正反対。色が白くて、愛くるしくて、長い髪が自慢で、穏やかで。自分にない全てを持っていて、自分とは違って女の子らしくて。サキはユキが本当に大好きだった。
だから、彼のことも簡単に諦めることが出来ていた。
やはり一つ下の、幼馴染のコウ。コウはユキのことが好きだった。ユキもコウのことが好きだった。相思相愛だ。お似合いだ。サキは二人が一緒にいる姿を、いつも眩しく思っていた。
その日も、ユキはコウとの待ち合わせのために出かけていった。慌ただしく「行ってきます」とだけ言って、玄関から駆け出していくユキの後ろ姿。それが、サキが最後に見たユキだった。
後悔しかない。「何、今日もコウとデート?」なんて、いつもからかっていたせいで、ユキはあんなに急いで出ていったのかもしれない。もしそうなら、サキがユキを死に追いやったことになるのだろうか。サキが、ユキに嫉妬していなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
サキは、コウのことが好きだ。
あの頃も、今も。
コウはサキにとって、大切な幼馴染だ。ユキと、三人で育ってきた。コウがユキを好きになるのは解る。当たり前のことだ。女の子らしくて愛くるしいユキと、男の子みたいなサキ。コウが好きになる相手なんて、決まってる。
コウがユキと付き合うなら、それが一番いいと思っていた。身を引く、という言い方はおかしいかもしれない。でも、一番納得の出来る形だ。ああ、しょうがないな、と思える。あの二人は年も同じだし、その方がずっといい。理由なんていくらでもつけられる。
中学に入って、サキは陸上を始めた。走っている間は、嫌なことは何でも忘れられたし、考えないで良かった。ユキのことも、コウのことも、何も考えない。目の前の光景ですら、ぐっと小さくなる。狭まる。サキは前だけを見る。コースの先だけを。
ユキとコウが仲良く並ぶ姿も、笑顔で語らう姿も、何も見ないで済む。二人が何処で何をしているのか、考えないで済む。短い距離を走り抜ける間は、本当に何も考えない。真っ白な時間。それが、サキにとっての安らぎだった。
そして、ユキが死んだ。
コウは悲しんだ。いや、今でも悲しんでいる。サキの家族も悲しんでいるが、恐らくはそれと同じくらい、いや、それ以上に、コウは悲しんでいる。サキも、葬儀の場で泣き叫んだ。可愛い妹。自分の、女の子の部分の全て。自分に無い全部の女の子を持って生まれて、そして、そのまま消えてしまった半身。
二年。まだ誰の傷も癒えていない。みんな苦しんでいる。サキだって、自分の中で整理が出来ていない。
ただ、目の前には、サキ以上に苦しんでいるコウがいる。サキは、ユキの姉であり、コウの義姉になる可能性があった。コウを支えなければならない。少しでも早く、コウには立ち直ってもらいたい。いつまでも、もういない妹に縛られないで欲しい。
その想いが、サキを自己嫌悪に陥れる。コウがユキを忘れて、そしてどうするつもりなのか。サキがその代わりになろうというのではないか。妹がいるから諦めていたコウを、慰めることでサキの方に振り向かせようとしているのではないか。
苦しんでいるコウを助けたい。その思いは本物だ。同時に、サキの中にはコウが好きだという気持ちも確かにある。コウが自分に気持ちを向けてくれるなら、それは確かに嬉しい。サキは、コウのことが好きだ。
「あたし、嫌な女」
死んだ妹をダシにして、死んだ妹の男の気を引こうとしている。
真っ黒な想いが、胸の中を満たしている。コウのことなんて放っておけばいいのかもしれない。ユキのためを思うなら、サキはこのまま全部を忘れてしまう方が良いのかもしれない。
ユキの遺影を見るたびに、サキは心が苦しくなる。ねえ、ユキ、どうしたらいいと思う?このままコウのこと、好きでいても、いいのかな?諦めてしまう方がいいのかな?コウは、きっとまだユキのこと、好きなんだ。サキは、どうしたらいいと思う?
学校で、チサトの髪をすく。ユキのことを思い出す。手先はサキの方が器用だった。こうやってよくユキの髪を結ってやった。ほら、この方がコウが喜ぶ。やめてよ、お姉ちゃん、そればっかり。そうだな、何しろ、そればっかり考えていたから。
サキは、自分が女の子であることを、全部ユキに預けていた。コウに好かれる可愛い女の子。ユキがコウに可愛いと思われるなら、それはサキにとっても幸せだ。サキには、走ることしか出来ない。サキはコウのいい友達。それで良かった。
ヒナは幼馴染のハルと交際している。長い付き合いで、ヒナもハルもお互いのことをとても大切に想っている。絆は深い。それは、簡単に無くなるものじゃない。少なくとも、たとえ死をもって別たれたとしても、二年程度の年月で消え失せるようなものでは無い。サキにだって良くわかってる。
暗闇の中で、サキはじっとしている。前に進むことも、後ろに下がることも出来ない。
だから走る。忘れるために。考えないために。逃げるために。
答えなんて出したくない。見たくない。それが、たとえどんなものであったとしても。
「サキ」
ヒナは両手を広げてみせた。王子様は、お姫様だったんだね。こんなに傷付いて。ヒナ、全然気付かなかったよ。
サキがその場で膝をつく。身長差大きいなぁ。サキの頭をそっと抱き締める。サキ、可愛いよ。サキは自分で思っているよりも、ずっと女の子だ。ヒナが保証する。
幼馴染の、コウのこと、サキは本気で好きなんだと思うよ。ユキが生きていた時、サキはユキに自分の想いを任せていた。でも、本当はサキ自身がコウと一緒にいたかったんだよ。そうじゃなきゃ、何も考えないために走るなんてしない。サキはずっと目隠ししてたんだ。ユキが、サキではないことを見ないために。
サキが自分を「嫌な女」って責めるのもそう。自分の気持ちを裏切れないから、そうやって責めてしまうんだ。サキはコウのことも、ユキのことも好きで、裏切れないんだ。つらいね。
ヒナとハルのこと、見てて苦しかったかな。ゴメンね、何も知らなかった。ヒナは、ハルのことが好きで、ハルのことばっかりだったから。サキがたまに見せる表情に、もっと早く気が付いてあげるべきだった。
サキは、コウのことが好きなんだよね。サキがどう思うかは判らないけど、とりえずヒナは、サキとコウのことを応援するよ。色々と思う所はあるかもしれないけどさ、ヒナは生きている人間が一番大事だと思う。死んでしまった人間は、生きている人間を幸せにすることは出来ないんだ。
例えば、もしハルが死んでしまったとしたら、ヒナはすごく悲しい。多分、立ち直れない。もう世界なんて終わってしまえば良いと思う。そこに、ハルの代わりに、ヒナのことをすごく好きだって言ってくれる人が出てきたとしても、ヒナはその人をハル以上に好きになれる自信が無い。
でも、ハルが死んでしまったなら、ハルはもうヒナのことを幸せには出来ないんだ。ハルとの思い出に囲まれて、ヒナは泣いているだけ。例え話に真剣になるつもりはないけど、仮に、そんなヒナを幸せに出来る可能性があるとすれば、それは生きている人間にしか出来ないことなんだ。
・・・うん、簡単じゃないね。ヒナ、自分で言ってて悲しくなってきちゃった。サキは苦しんでる。答えを出したくない。だから走る。よくわかった。
この話をしている間、サキは泣かなかった。サキは強い。ただ、その強さが、時として仇となる。本当は泣いてしまった方が良かったのかもしれない。なまじ強いから、我慢出来てしまうから、つらさが増してしまう。
「ありがとう、ヒナ」
サキの頭を撫でる。サキは女の子だよ。恋する女の子だ。ヒナはサキのこと、可愛いって思うよ。
それにしても、随分な告白だったね。ビックリしちゃった。
「サユリがね、何か悩みがあるなら、ヒナに預けてみろって」
え?サユリが?
サユリはクラスの仲良しグループのリーダー格な人。落ち着いた大人の美人って雰囲気で、理由は良く判らないけど、ヒナのことをとても気に入っているみたい。
しかし、何故にヒナ?
「何でだろうね。でも、ヒナに聞いてもらったら、少し楽になった気がする」
悩みは、人に打ち明けるとスッキリするって言うからね。実際、何もかも溜めこむのは良くないと思う。ヒナにも、人に言えないことがいっぱいある。銀の鍵とか、ナシュトとか、ホント、話しても信じてもらえないって辺りが更にストレス。
まあ確かに、ヒナはそういう苦しみは銀の鍵で腐るほど見てきた。大きな悩み、小さな悩み、人によって色々だけど、苦しんでいない人なんていなかった。流石にサキの悩みは超ヘビーって感じだけど、ヒナが一緒に背負ってあげることでサキが楽になるのなら、このくらいはお安いご用。
ヒナはサキの友達、サキの味方です。
あ、でもハルと別れるつもりはないからね。幼馴染だし、両想い。この前キスしてやっと恋人って感じになったんだから。楽しいことの本番はこれから。こら、「本番」ってところ、ツッコまない!もう!
サキが笑う。明るい笑顔だ。良かった。
そうだ。心なんて読まなくても、ちゃんと理解出来る。ヒナは、サキと友達になれる。
「悩んでいても始まらない。後ろ向きでも、前に進まないとね」
いつもの王子様が帰ってきた。頼もしいサキも素敵だけど、ヒナは可愛いサキも良いと思う。
練習が再開されるということで、サキは手を振って校庭の方に走って行った。サキは振り返らない。前だけを向いて走る。でも、いつかは答えを出さなければいけない日がやってくるんだろう。
それが、サキにとって幸せな答えであってくれればいいなって、ヒナはそう願うよ。
昇降口から校舎に入ると、少し空気が涼しくなる。クーラーは校内全域には設置されていないが、色々な所から漏れ出た冷気が十分に効果を発揮している。校内にいる生徒の数が少ないというのもあるのか。
とりあえず、生き返った。いきなりサキに出会って、重い話聞かされてどうなることかと思った。しかし、サキも大変だなぁ。幼馴染とどうのこうのという話は以前聞いてたけど、ここまでこじれた内容とはね。ヒナはハルと普通に恋人になれて幸せだよ。交通事故とか気を付けよう、うん。ハルにも言っておかないと。
下駄箱を抜けてすぐの空間は、広い談話コーナーだ。吹き抜けの一面がガラス張りになっていて、明るい外の陽射しが入ってきている。綺麗で良いんだけど、この時期はちょっと太陽光がきつ過ぎるかな。しかもガッツリ西向きだし。
ガラスの向こうは中庭。そういえばハルに告白された時、中庭の向こう側を通って歩いた気がする。ここから丸見えだったんだね。うん、まあ、その先で起きたことが見えてなければ良いよ。やっぱり学校の中で誰にも知られずに、っていうのは無理があるな。ヒナは嬉しかったから良いんだけどさ。
校舎の中は流石にいつもよりは静か。でも完全に無音って訳でもない。音楽や、話し声、単発的な楽器の音が何処からともなくまばらに聞こえてくる。何か部活をやってるんだろうなぁ。青春だねぇ。
とりあえずハルが補習を受けている教室の方に行こうと、ヒナは歩き始めた。
「ちょっとごめんよー」
ヒナの脇を、誰かが猛スピードで駆け抜けていった。うわぁ、なんだなんだ。思わず飛びずさる。真っ黒い塊、に見えたけど、暗幕を抱えているのか。声の感じと制服から、男子かな。あれ、ちゃんと前見えてるのかな。
後姿を見送ると、人影は廊下の突き当たりを器用に曲がって行った。いや、見えてるんなら良いんだけど、大丈夫かな。
ん?でも何処かで聞いた声じゃなかったっけ?男子ィなんてみんな同じ感じだけど、なんかちょっと記憶がくすぐられる。
別にいいか、と思ったところで、またパタパタという足音が聞こえてきた。今度はさっきほど猛烈ではない。ちょっと鈍いって言われるヒナでも接近が判るほどの、軽い感じ。。
「待ってください支倉先輩。これもです、これも」
暗幕と、何かの布きれ、ああ、衣装かな。とにかく両手に大量の布を抱えた女子生徒だった。あれ?支倉先輩?あと、この子?
眼鏡が赤フレームのお洒落な奴になってるのと、髪をほどいてロングになってるのと、後リップがグロスになってるから最初判らなかった。いや、それだけあれば結構な変化か。
隣のクラスの、生方タエだ。
タエとは、実は以前に色々とあった。あったんだけど、タエには忘れてもらっている。銀の鍵絡みの出来事は、お互い覚えていても良いことなんて何もない。なので、その際にちょっと記憶をいじらせてもらった。
どうやらタエは演劇部みたいだ。なるほどね。支倉先輩は演劇部のいい役者さんなのかも。だとすれば、タエが支倉先輩を芸能人みたいに憧れの人として捉えてしまうのも、解らなくはないかな。支倉先輩はタエのスターなんだね。
「すいません、暗幕持った人見ませんでしたか?」
タエが訊いてくる。久しぶり、タエ。なんだか元気そうで、ヒナ安心したよ。
「えーと、あっちの方に曲がって行きましたけど」
「ありがとうございます。ああ、もう!第二視聴覚室だって言ったじゃないですか、先輩!」
何やら憤慨しながらタエは走り出した。
タエ、綺麗になったね。以前は地味子の見本みたいな感じだったのに。ヒナは一瞬判らなかったよ。
タエは、支倉先輩のことが好き。中学の頃からずっと好きで、この高校まで追いかけてきた。すごい執念だと思うよ。とりあえずヒナのことは棚に上げて置いて。
その思いが強過ぎて、ちょっとこじれちゃったこともあったけど、今はちゃんと真っ直ぐに追いかけているみたいだ。あの様子だと、割とうまくいってるんじゃないのかなぁ。良かった。
知り合いに演劇部っていたかな。ちょっと興味出てきちゃった。うまくいけばいいな。だって、ずっと好きでしたっていう気持ちは、ヒナにも良く解るから。ヒナも、ハルのこと、ずっと好き。
それとも、タエとはもう直接お友達になった方が早いかな。今みたいなきっかけが、今後も無い訳じゃないよね。
タエは追いかけ続けている。タエのその想いの強さを、ヒナはよく知っている。まだまだ、これからだ。頑張れ、タエ。
補習は最上階、四階の教室で行われている。知力だけでなく体力まで試されるのか。ふう。後はなんだっけ?時の運?
いくら外よりは涼しいとはいえ、夏の学校は十分に暑い。四階まで階段を登ればもう息が上がる。ヒナは運動得意じゃないんだよ。バスケ部時代なんて、走り込みだけでダウンしてたよ。
補習をやっているフロアはしんと静まり返っている。用の無い生徒がここに立ち入ってわいわい騒いだ日には、どんなお叱りが待っていることやら。廊下にはヒナ以外には誰もいない。そりゃまあ、そうか。
そろそろと足音を忍ばせて教室の前まで行く。板書の音と、呪文のようなすだれハゲ先生の声が漏れ聞こえる。ホントにやってる。うええ、これを一週間毎日とか、ヒナだったら頭おかしくなりそう。
中を覗き込んでハルがいるかどうかを確認したかったが、それをやって見つかった場合のことを考えるとあまりにもリスクが大きい。ちゃんと来てるでしょう、ハルはそういうところは真面目だし。あと、この前お母さんに怒られたらしい。「ヒナちゃんと付き合うなら、学校の勉強ぐらいちゃんとしな」って。うへぇ、喜ぶべきか恥ずかしがるべきか。そのヒナも赤点ギリギリだったんですけどね。
こっそりと教室から離れる。ハル、頑張って。補習ちゃんと終わらせたら、ご褒美あげるから。ご褒美。ふふふ、何が良いかな。ハルが喜んでくれることなら何でも良い。夏休みだし、色々と大胆に、ね。
階段前まで戻ってくる。ここもちょっとした広場になっていて、大きなテーブルみたいなベンチのある談話コーナーだ。この学校、こういうスペース多いよね。なんか病院みたいなイメージでアレだけど。
待つにしてもどうしたものかな、と思っていたところで、ふと階段に目が行った。あれ?何か違和感。
踊り場の壁に、外の光が当たってる。ってことは、上に通じる扉があいてるってことだよね。上、つまり屋上。おお、ヒナ初めて見たかもしれない。
屋上は普段一般生徒立ち入り禁止になっている。漫画とかだとお昼休みにお弁当食べたりとか、放課後にカップルで夕日見たりとか、あとアイドル研究会が特訓してたりとかで鉄板の場所なのに。入学してすぐの頃、ヒナは何回か屋上に入れないか訪れてみたが、いつも鍵がかかっていた。
夏休みだから、何かやってるのかな。なんにしても、これに便乗しない手は無い。すいませーん、開いてたから入っちゃいましたー、でなんとか誤魔化せるだろう。いやだって、これはレアでしょう。超楽しそう。
うっきうきで階段を登る。案の定、屋上への扉は全開になっていた。青空がきらきらと輝いて見える。これが、夏への扉!とか意味の無いことを考える。なんか青春って感じしない?
蝉の声が鳴り響く屋上に、ヒナは思いっきり飛び込んだ。
「うお、あっちぃ」
第一声はそれになった。青春の欠片も無い。
なんというか、屋上は酷いところだった。コンクリートブロックに、雨の跡がシミになってところどころ斑になっている。空調の配管がぐねぐねと這いまわって、全然広くもなんともない。眺望も、ごちゃごちゃしているせいで周囲の風景ですら良く見えない程度。直射日光がガンガンに照りつけていて、上履きの底を突き抜けて足の裏がバーベキューにされる。
ヒナの持っているイメージとはちょっと違ってた。屋上って、もっと、広くて明るくて過ごしやすい場所だと思っていた。まあ、明るいは明るい。でも、これでは陽が良く当たってるというだけだ。普段人が立ち入らないという汚さが一際目立っていて、ぶっちゃけ廃墟と言われても区別がつかない。
期待外れも良いところだ。ヒナはがっくりと肩を落とした。つまん、なーい!
まあでも、校庭や校門の方はフェンス越しに見えないことは無い。陸上部が練習しているのが判る。きっとサキもいるだろう。ぐるり、とヒナは周囲を見渡した。
ヒナが入ってきた、校舎内に続く扉の脇に何かがある。丁度日陰になっている所なので、さっきは視界に入っていなかった。ひょろっとした、黒い、金属の、なんだろう、これ。
えーっと、譜面台、だっけ?
「あれ?ヒナちゃん?」
誰かが屋上に上がってきた。聞き覚えのある声。そうか、みんな部活で学校に来ているんだね。
「やっほー、チサト」
ゆったりふんわりとしたロングヘア。クラスメイトで友人のチサトだ。しかしあの髪、汗でべっちゃりとかしないんだね。ヒナなんか肩まで程度で物凄い手間がかかってる。チサトなんてその比じゃないだろう。すごいな。
チサトは吹奏楽部だ。ということは、屋上で練習してるってことで良いのかな。
「部活?ここで練習?」
「うん。今は個人練習。屋上は良く使わせてもらってるの」
マジか。超うらやましい。実際見てみるとあんまりぱっとしない場所とはいえ、自由に鍵を開けて入れるとなるとそれはそれで色々と利用価値がありそうだ。
だって、学校だとハルと二人っきりとか、普通に機会なくて。お昼とか、出来るなら一緒に食べたいとか思っても、やっぱりハルの友達とか、周りの視線とか気にしちゃうし。最近は普通にお話しするくらいなら冷やかされることは無くなったけど、でも二人きりでいられる時間もあってくれるといいなーって考えたりもする。が、学校でそんな、そこまでいちゃいちゃするつもりは無いよ?
吹奏楽部に入ると屋上の鍵って無条件で付いてくるのかなぁ。うわぁ、そんな不純な動機で良ければヒナ、吹奏楽部に入っちゃおうかな。楽器、えーっと、たて笛なら吹けるよ。キラキラ星吹ける。ダメか。
「ヒナちゃん、屋上に興味があったの?」
チサトがくすくす笑っている。あはい、そうでーす。扉が開いてたので、つい吸い込まれてしまいました。ヒナホイホイです。
きらり、と銀色の光が反射する。チサトの手元を見ると、ぴかぴかのフルートが握られていた。チサトはフルート担当なのか。なんというか、乙女な感じでピッタリだ。ヒナは小学校の頃、音楽の授業で合奏やった時「シンバルかタンバリンだな」って無条件で決定されたよ。サルか。
「チサト、フルートなんだね。何というか、すごい似合ってる」
心からそう思う。トランペットのような勇ましさとも、クラリネットのような穏やかさとも違う。チサトのイメージはフルートだ。優美で、迫力は足りないかもしれないけど、不思議と存在感を持ち、全体の音を支える。ヒナは音楽にそれほど詳しくは無いけれど、フルートがどんな楽器かくらいは知っている。サルじゃないもん。
チサトは少し寂しそうな顔をした。あれ?ヒナ、なんか変なこと言った?
「似合ってる、か。そうなれれば良いんだけどね」
ええっと、お似合い、ですよ?でも、チサトの表情は本気でそう思っていないと語っている。どうしてだろう。ヒナには、フルートを持つチサトの手つきはとても慣れたものに思えるのに。
「フルート、いつからやってるの?」
ヒナの質問に、チサトははっとしたように顔を上げた。そして、またあの寂しそうな笑顔を浮かべる。きっと、チサトにとってフルートは、特別な何かなんだ。
「中学から、って言いたいけど、高校からかな」
チサトがフルートに口を付ける。澄んだ音色。アメイジング・グレイス。道を踏み外した私を、神様はすくい上げてくれた。
先輩のフルートは、とても素敵だった。
中学の入学式、吹奏楽部の演奏を見て、チサトは一目でフルートに心惹かれた。曲目は「君の瞳に恋してる」。フルートソロで一人前に立った先輩は、誰よりも輝いていた。
それまで、チサトはフルートなんてぴかぴかしてるだけで、横笛と大して変わらないものだと考えていた。ふすー、っと力が抜けるような音を出して、見た目だけ派手で、合奏では目立たない、いてもいなくても変わらない。その程度のイメージだった。
先輩の演奏を聞いて、チサトの世界は広がった。なんて力強いのだろう。なんて響き渡るのだろう。フルートが支えるのではなく、フルートが全ての音を引っ張っている。
ああなりたい。素直に憧れた。自分にも、出来るだろうか。気が付いたら、吹奏楽部に入部していた。
吹奏楽部の部活は、残念ながら実のあるものではなかった。入学式の演奏を聴いただけでは判らなかったが、部活動の実体は酷いものだった。
顧問の音楽教師と別に、外部からのコーチが来ていて、この二人の対立が凄まじかった。練習に使う曲すらまともに決まらず、何も出来ない時間ばかりが積みあがる。その癖、練習は毎日のように行われた。
そんな空気なので、部員達もやる気を失い始めていた。チサトの憧れの先輩は、三年生で、もう夏には引退してしまう。先輩がいる間は、チサトは熱心にフルートを練習した。先輩も真剣にチサトに向きあい、丁寧に教えてくれた。たった数ヶ月の間だったが、チサトにとっては厳しくてもとても楽しい時間だった。
それも、結局夏が過ぎるまでのことだった。先輩が部活に来なくなり、一番まとまりのあった三年生が居なくなると、部内の空気は一変してしまった。もう誰も真面目に練習しようともしない。練習量の不足から、まともな演奏すらこなすことが出来ない。
毎日、部活だけはある。音楽室に行く、パート練習の教室に行く。そこで何をするかと言えば、ただだらだらと時間を潰すだけだ。下手に練習なんて始めれば「お前、何勝手に始めてんの?」と目を付けられる。チサトは周りの視線を気にしながら、仲間たちに合わせて何もせずに毎日を過ごした。
こんなんで出来っこないんだよ。そんな言葉が横行する。チサトもその通りだと思った。そもそも環境が悪すぎる。こんな状態で練習なんて出来るはずがない。上手くなんてなる訳がない。
気が付いたら、チサトは先輩への想いも、フルートへの情熱も失ってしまっていた。先輩が卒業して、何もない吹奏楽部で、部活の仲間とおしゃべりして、時間だけが潰れていく。それが日常になり、仕方ないと諦めていた。
三年生になり、入学式で演奏をすることになった。二年前に、先輩を見て憧れたあの舞台。ケースから出したフルートには、黒い斑点のような錆が浮いていた。ロクに手入れもしていなければそうなる。こんな楽器、演奏する気にもなれない。準備室の戸棚の奥底に放り投げて、チサトは仲間たちに誘われるまま、入学式の演奏をさぼった。
夏の引退が迫ったある日、部活内で騒動が起きた。二年生の一部が今のやり方に反発し、自分たちで演目を決めると言い出してきた。顧問やコーチとも激しくぶつかり合ったが、二年生たちは譲らなかった。ちゃんとした練習がしたい。より良い演奏がしたい。その熱意が伝わったのか、とうとう顧問とコーチが折れて、夏休みからの練習はきちんとした課題曲一本に絞られた。
置いていかれたのは、夏で引退するチサトの世代だった。
積み上げも無い、やる気も無い。残された時間も無い。三年生の夏、チサトは自分が何も得て来なかったことに気が付かされた。仲間たちの顔色を伺い、一緒になって遊び惚けて、結局何が残ったのだろう。音楽準備室の楽器棚。その奥深くに押し込めておいたフルートケースを引っ張り出す。そこには、錆の浮いたフルートがあった。
一度錆びついたフルートは、メンテナンスに相応のコストがかかる。いい加減なまま放置していたチサトの責任だ。先輩も言っていた。楽器を大事にしなさい、と。チサトは全てをないがしろにしてしまった。楽器も、先輩も。自分の中にあった、憧れも。
高校受験も終わり、ようやく落ち着いてきたと思っていた冬のある日、先輩から手紙が届いた。チサトのことを覚えていてくれたことにも驚いたが、その内容はもっと驚きだった。先輩は高校生ながら地域の吹奏楽団に参加していて、今度演奏会があるという。手紙には、チケットが同封されていた。
市民ホールで行われた演奏会は、素晴らしかった。トリステーザ。冒頭のフルートソロを、大人の中に混じった高校生の先輩が演奏する。チサトは涙を流した。眩しい。先輩のいる場所が、見えない。
かつて、その場所に行きたかった。憧れていた。先輩はチサトのためにフルートを教えてくれた。同じ場所に行けると、そう思っていた。
諦めて、投げ出して。
今、チサトは何をしているんだろう。何を得ることが出来たんだろう。
金管も、木管も、パーカスも。どんな音も、先輩のフルートを遮ることが出来ない。チサトの耳には、フルートしか聞こえてこない。力強くて、澄み切った、先輩の音。
演奏が終わった後、楽屋の近くをうろうろしていたチサトを、先輩が見つけてくれた。
「やあ、来てくれたんだね」
明るく笑う先輩の顔を、チサトはまともに見ることが出来なかった。
「先輩、私、フルート、ダメにしちゃったんです」
そのことを伝えたかった。どうしても謝りたかった。あんなにチサトのために一緒に練習してくれた先輩に、申し訳がなかった。
「うん、聞いてる。知ってる」
恥ずかしかった。悲しかった。たった数ヶ月でも、先輩はチサトのフルートの先生だった。その先生に、こうして自分の無様な姿を報告することが、耐えきれないほどに苦しかった。
「でも、チサトは今日来てくれた」
先輩に謝りたかった。先輩の姿が見たかった。
あの時と変わらずに、いや、それ以上に輝く先輩を確認したかった。
そして、こうして、許してほしかった。
「どうする?また、やってみる?」
チサトが欲しかった言葉を、先輩は与えてくれた。こんなチサトに。どうしようもないチサトに。
悔しさがこみあげてくる。何も出来なかったんじゃない、何もしなかったんだ。本当にあの場所を目指すのなら、チサトは周りのどんなものにも振り回されるべきでは無かったんだ。
諦めてしまった、投げ出してしまった。でも、いつだって取り戻すことは出来る。やり直すことは出来る。
「はい。やりたいです」
今度は諦めない。絶対に逃げ出さない。
チサトは、力強く頷いた。
屋上の日陰に、チサトと並んで腰掛ける。遠くに陽炎が見える。チサトの話を反芻する。
チサトはフルートを愛おしそうに撫でている。ええと、チサト?実はヒナ、今の話で一個だけ気になるところが。
「先輩って・・・」
「ああ、女の人だよ。ミキ先輩」
先手を打たれた。うん、あらかじめそれを言っておいてくれてたら、もうちょっと安心して話を聞けたかな。
ミキ先輩はこの高校ではなく、もっと吹奏楽部で有名な学校に入学して、音大を目指しているそうな。ははぁ、ガチ勢ですな。ヒナは良く解らないけど、そういう特技を持っているって羨ましいな、と思う。何しろそんな人に誇れるようなもの、ヒナには何も無いもん。
「私は、今更かもしれないけど、やり直したいんだ」
フルートがチサトにとってどんな意味を持つのか、良く解った。確かに特別な存在だった。チサトは中学時代に人間関係に疲れたって言ってたけど、そういうことだったのか。
お人形みたいで、ほわほわしているイメージのチサトだったけど、実は結構熱いハートの持ち主だった。ちょっと意外でヒナはびっくりした。
確かに、自分を変えたい、とは出会った当初から言っていた。それは、強い覚悟に裏打ちされた言葉だったんだ。チサトはミキ先輩のためにも、フルートを上手になりたい。ミキ先輩は聞いてる限り凄すぎる人な気もするんだけど、追いかけ続けていればいつかは届くと、ヒナも信じているよ。
「チサト、すごいなぁ」
それだけの情熱を持てるって、凄いよね。チサトの小さくて柔らかい身体に、そんなに大きくて固い意思が秘められているなんて。いや、ホント。
「そんなことないよ。ヒナちゃんだって」
ん?ヒナが何ですか?
「毎朝早く学校に来るの、大変じゃないかな、って思うし」
ちょ、ちょっと待って?ウェイト。プリーズウェイト。
確かにヒナはみんなより早く登校している。でも、その理由については実は言ってないよね。そこまで話した覚えは無い。うん。
「え?チサト、大変って?」
「あ、あのね。私、朝練でいつも早い時間から、ここでフルートの練習してるの。それで」
ちらり、とフェンスの方に視線を巡らせる。その向こうには、校門が見えている。毎朝登校時に通る場所。
あ。
あーあーあー。
そうかぁー。迂闊だった。っていうか、吹奏楽部朝早いな。確かに楽器の音とか聞こえてるもんな。そこまで意識巡らせてなかったわ。ううー、ヒナのバカ。
一学期の間、ヒナはハルと二人きりの時間が作りたくて、朝早いハルに合わせて二人で登校していた。周りからの冷やかしの視線も無い、貴重な時間。気兼ねなくハルと仲良く話が出来る、ヒナの蜂蜜タイム。
見られてたわけですね。うん、校門の辺りだし、流石に恥ずかしいことはしてないと思うよ。学校の近くではいちゃいちゃしない、って一応自戒してるし。ああー、そういえば公園デートの次の日、手をつないだっけ。校門の前で手を放して、なんか照れくさくなって、ええっと、それ以上は何もしてないよね?ね?
でもそうか、毎朝チサトに見られてたのかと思うと、これはこっ恥ずかしい。ヤメテー。今度からフルートの音色が聞こえたら警戒しよう。いや、それに限らず楽器全般アウトか。音情報大事。インプット。
「ヒナちゃんも、朝倉くんには一生懸命だなって」
うわぁ、チサトにそんなこと言われるとは思いもしなかった。なんかヘコむわ。話がエロ方向に入ると顔赤らめてるキャラだったはずなのに、こんなに逞しくなっちゃって。
「まあ、ハルは私にとってチサトのフルートみたいなもんですからね」
強がってみせる。チサトはふふって笑った。あ、なんかちょっと珍しい笑顔だ。ほんの少し、チサトの本当の表情が見えた気がする。その方がずっと可愛い。
「じゃあ負けないようにしないと」
負けませんよ。何しろ数年越しの想い。出会いからなら十年越えですからね。いよいよ相思相愛両想い、恋人関係ですから。でもまだまだ油断は出来ない。ヒナは、ハルに対して手加減するつもりは一切ないです。
諦めない。投げ出さい。どんな声にも流されない。
大切だって判ったから。失くしてはいけないって思ったから。
そうだね、チサトは、フルートに恋してるんだね。幸せになれると良いね。
屋上を後にして、ヒナは格技棟の方に向かった。いつまでもチサトの邪魔をしている訳にはいかないし。大事なフルートとの逢瀬だ。仲良くいちゃいちゃしてください。
サキとチサトに遭っちゃったし、こうなったら後はサユリだよね。コンプリートしておこう。目指すのは格技棟。その上にある屋内プールだ。ウチの学校はこの屋内プールがあるので、体育の授業には必ず水泳がある。水泳が嫌いな人にはかなり不評。ただ、余所の高校では小雨が降っても外で水泳をやらされる、なんて話を聞かされると、温水プールな分マシなのかな、とか思ったりもする。どうなんだろうね。
夏休み中、屋内プールは一般生徒でも利用出来るようになっている。お金かけずに安く涼むには便利な気もする。でも、それでわざわざ学校のプールに来るって子はいるのかね。小学校じゃないんだからさ。
水着なんて持って来てないし、とりあえず上履きと靴下を脱いでプールサイドまで出てみる。あ、足先の消毒層だけは通らないといけないのか。うひゃあ、冷たい。気持ちいいー。
塩素の匂い。水音。エコーする声。うん、プールだね。湿度が高い。こうなると水に入りたくなってくるよなぁ。
結構な数の生徒がいる。みんな一般生徒じゃないね。五十メートルプールの半分が自由遊泳ゾーンになってて、そちらには誰もいない。水色の底が波に踊ってゆらゆらしてるだけ。残り半分は、部活で使用されるエリア。
水泳部のみなさんだ。
屋内温水プールなんて設備があるのも、それなりの規模の水泳部があるから。サユリに聞いた話だと、結構な数の部員がいるらしい。大会とかで強い選手もいたり、ジム代わりに使う人もいたりと、自由な雰囲気なんだとか。ヒナもダイエット感覚で良いならちょっと参加してみたいかな。
一応、ヒナは泳げる。小学校の頃、恥ずかしながらハルに教わった。ハルは運動は得意だからね。泳ぐのも上手くって、溺れてるのか泳いでるのかはっきりしないヒナに、正しい平泳ぎを教えてくれた。お陰様で、今に至るまでまともに出来る数少ない運動の一つになっている。ありがとう、ハル。
女子の水着姿が眩しい。みんな学校指定の水着とは違って、もうちょっと際どい競泳水着だ。おおう、いいねえ。眼福眼福。男子がブーメランなのがちょっと気になる。視界に入らないでほしい。これがあるから水泳部はちょっと考えちゃうんだよ。ヒナは男子の肉体美に何かを感じたりはしない。ハルなら別腹。そうだ、今度ハルとプールに行こう。
壁に水面の照り返しが映る。ホイッスルの音に合わせて、生徒が飛び込む。弾ける水飛沫。
とりあえずプールサイドにあるベンチに腰掛けることにした。いやあ、ちょっと涼みに来るにはなかなか良いんじゃない、ここ。男子が来るには少しばかり根性というか、変な目で見られても何とも思わない図太い神経が必要になりそうだけど。
激しいバタフライも良いけど、背泳ぎがまたいいよね。女子の背泳ぎって、体のラインがそのまんま水面に出る。うーん、水の抵抗が少ない方が早かったりするのかしら。美しい流線型。なんだかオッサンみたいな目線になってきた。
「やあ、ヒナ」
ぼんやりしてたら、サユリの方からヒナを見つけてくれた。そうだそうだ、サユリの顔を見ようと思ってたんだ。水着女子の群れにすっかり心を奪われてしまっていた。
「やっほー、サユリ」
紺色の競泳水着に包まれたナイスバディがやって来る。高い身長。ストレートに長い髪は首の後ろで結い上げてある。眼鏡かけてないと少し印象変わるね。でもまあ、どこからどう見ても女子高生っぽくない。なんだろう、専門職?
くすっ、て笑う笑顔からして、十代じゃない感じ。美人っていうのは年齢不詳になるな。普通に綺麗で見惚れそうになる。これを見に来たんです。満足。
「朝倉の補習待ちか?」
はい、そうです。サキにもチサトにも言われたからね。もうビクともしないよ。
サユリはクラスでの仲良しグループのリーダー格だ。ヒナもサユリには頭が上がらないというか、一目置いている。雰囲気もあるんだけど、頭の回転が早いし、どんなことでも筋を通してくれる。考え方もしっかりしていて、一緒にいて心地よい。なんていうか、何事にも信頼が置ける感じだ。
中学の頃、ヒナは銀の鍵で他人の心を色々と覗いてきた。人には多面性がある。表裏があるっていうのは当たり前のことだ。
サユリみたいなタイプは、多分何かと雑多なことを内面に押し隠している。真面目な子ほど中に溜め込んでいるものだ。サユリはヒナに歩み寄って、色々と話したり、構ったりとしてくれる。そこにはあまり裏側の存在を感じさせない。不思議な人だ。ヒナは友達に銀の鍵の力を使わないって決めたから、サユリとは真正面から向き合うように努力している。良いリハビリになってると思うし、実際サユリは良い友人だ。
「もう、夏休みの予定狂っちゃって困ってるよ」
「ヒナも大変だな。大方サキとチサトのところにも行って来たんだろう?」
う、サユリには何でもお見通しだな。銀の鍵なんか無くても、ヒナの考えることなんてみんな解ってそう。いつも大体こうなる。サユリはヒナの二歩ぐらい先を歩いて、得意げに種明かししてくる。サユリはヒナのこと、随分とお気に入りだよね。
「ごめんごめん、ほら、そこから校庭が良く見えるんだよ」
ヒナの後ろ、大きなガラス面の後ろは校庭だ。陸上部が練習しているのが見える。サキが走っている姿も視認出来た。
「吹奏楽部も音出ししてるしさ。二人にはもう会って来てるかなって、そう思っただけだ」
図星です。クラスメイトを探して最初に訪れるには、プールは敷居が高いもんね。わざわざここまでサユリの顔を拝みに来るってことは、他の二人には邂逅済みってことになります。初歩的な問題だよ、ワトソン君。
「サユリはヒナのことなら何でもわかっちゃうね」
いやもう、割と本気でそう思ってますよ。
「朝倉ほどじゃないだろう。朝倉も、今頃早く補習を終わらせてヒナに会いたいと思っているよ」
うがー、そういうこと言わないでよ。そりゃまあ、そう思っててくれればいいけどさ。うん、思ってくれてるかな。くれてるよね?サユリ、その辺はどうなの?明智君?
サユリはにやにやしていた。くっそー。
「からかわないでよ」
「ふふ、ヒナは朝倉に対して真っ直ぐだからな。それが羨ましいんだよ」
なんですか、それは。
まあね、ヒナはハルに対しては真っ直ぐですよ。そうするって決めたから。変に脇から攻めたって良いことないもん。幼馴染っていう関係でありながら、それでいてちゃんとお互いに好きでいるって、楽じゃないんだよ。常に近くにいて、なおかつそれ以上に意識していないと。ヒナもヒナなりに考えてるんだから。
中学時代とか、少し距離を置いてる期間があって、やっぱりちょっと寂しかった。ハルは部活に入れ込んでいたし、ヒナは銀の鍵のせいでテンパってたし。それに、中学生男女であんまり仲良くし過ぎてると噂になりそうだしで、距離感すっごい大変だった。一歩間違えれば、あの辺りで二人の関係は壊れていたかもしれない。
でも、踏み込んでくれたのはハルだった。同じ高校受けるなら勉強会しようって。人目なんて気にしないで、ヒナと二人でいようって言ってくれた。ヒナも銀の鍵で色々あった時期だったから、いやあ、もうね、嬉しかったね。でへへ。あの時のハルもとっても素敵で、ヒナは絶対一緒に合格しようって頑張っちゃったもん。
ハルはいつもヒナに対して真っ直ぐでいてくれる。ヒナもハルに対して真っ直ぐだ。だから今幸せ。周りから何を言われようが気にしません。バカップル上等。いいの、ヒナは、ハルのことが好きなんだから。
なんて、デレデレした顔をサユリに見られてしまった。あー、すいません、なんでもないです。
「素敵な両想いだと思うよ」
わきゃー。
絶対呆れたでしょ。ごちそうさまって思ったでしょ。しょうがないの。今絶賛恋人祭りの真っ最中なの。
「じゃあ、休憩終わるから、これで」
颯爽と手を振ってサユリが去っていく。ううう、スポーツジム通いのOLみたいだな。くそう、サキとは違ってこっちもまたカッコいい。
折角だしサユリの泳ぎも見学させていってもらいますよ。自分ではお遊びって言ってたけど、どんなもんなんですかね。さあ、見せてもらいましょうか。
飛び込み台の上にサユリが立つ。スタイルも良いし、それだけで絵になる。はぁ。ガチでため息が出た。
短いホイッスルが鳴った。ふわっと、そして鋭角に水面に突き刺さる。流れるような動き。そのまま水の中を無音で進む。潜水が長い。ギリギリで浮上、その時にはもうクロールの形が出来ている。
華麗で、それでいて力強い8ビート。結構速い。見た目と裏腹に激しい泳ぎだ。息継ぎの度に見えるサユリの顔は、恍惚としている。普段あまり見せない表情。なんというか。
女の子の、顔。
気が付いたらもう五十メートルを泳ぎ切ろうとしている。ターンだ。身体を小さく折り曲げ、くるり、と回転させる。また無音の時間。水面に姿が見えた時には、もうクロールの体勢。全く乱れない。美しく、完成された泳ぎ。
これがエンジョイ勢とかウソでしょ。すごすぎる。危うくヒナはお気楽で水泳部に入って大恥かくところだったよ。あぶねー。
しかし、サユリは何かにつけて完璧だ。頭も良い。成績だってヒナとは比べ物にならないくらい良い。運動もばっちり。スタイルも容姿も申し分ない。何もかも持っている。
サユリに足りないものなんて、何もないんだろうな。ヒナとしてはちょっとうらやましい。うーん、何かくれるっていうなら何をもらおうか。切実に足りないのは学力かな。でもバストもうちょっとあった方がハル喜ぶかな。身長も捨て難い。いやハルより高いと困るか。なんだこの不毛な願望。
雑念に塗れてサユリを眺めていたら、それが見えた。白い泡の中から、にゅうっと伸びる黒い腕。サユリの足元に纏わりつくみたいにして掴み掛かる。
なんだ、あれ。
驚いて立ち上がった時には、もう遅かった。乱暴なホイッスルの音。水泳部員たちが飛び込んでいる。ヒナは、呆然とその場に立ち尽くした。え?嘘でしょう?
サユリは、プールの底に沈んでいた。本当に、一瞬の出来事だった。
冷房が強い。夏服だとちょっと寒いくらい。少し弱めた方が良いかな。
微かに臭う消毒液の香り。後は、サユリからほんのりと塩素の残り香。一応髪の毛は綺麗に乾かしたつもりだけど、毛先が気になるのか、サユリは指先でくるくると弄びながら見つめている。眼鏡をかけていると、ヒナにとってはようやくいつものサユリ。綺麗な長い黒髪と白いシーツとのコントラストが美しい。
カーテンに区切られたベッドの上で、サユリは上半身を起こしている。すぐ横に椅子を置いて、ヒナが腰かけている。なんだかなし崩し的に付き添いにされてしまった。まあ、暇なので全然構わないんですが。
あの後、サユリはすぐに救助された。ヒナはショックを受けたが、水泳部員の対応は淡々としていた。どうも、いつものことであるらしい。女子部員が手を貸して更衣室まで連れて行く。慌ててヒナが後を追い、着替えやら何やらを手伝って、こうして保健室でサユリの様子を見ている。流れるような出来事だった。
保健の先生は丁度不在にしていた。こういう時にいないとか非常に困る。手慣れた感じでサユリをベッドに寝かしていく水泳部員が冷静過ぎて怖い。脱臼って聞いてすっごい痛いイメージだったけど、割とアッサリ戻してしまった。なんだか、本当にいつものことなんだね。むしろゾッとするよ。
サユリの方も、申し訳ないとは思っているみたいで、それでいて何処か諦めている感じだった。流石に最後にヒナが付きそうというところまでは想定外だったのだろう、今はちょっと気まずそう。うん、ヒナもどう声をかけて良いものやら悩んでいるところだよ。何しろ、あんまり見たくないものまで見えちゃったからさ。
あれ、絶対普通じゃないよね。
「すまないな、ヒナ。こんなことに巻き込んでしまって」
ようやくサユリが口を開いた。髪の毛から手を放して、ヒナの方を真っ直ぐに見つめてくる。いつもよりもオーラが少ない。こんなに弱ったサユリを見るのは初めてかな。サユリにはもっと自信と力に満ち溢れていてほしい。ヒナも元気が無くなってくる。
サユリによると、こういう事故はしょっちゅうなんだそうだ。
「どうも私は故障しやすいみたいでな。カッコ悪いところを見られてしまった」
遠い目をしながら、サユリは自分と水泳について語り始めた。ヒナ、今日は話を聞く日だね。いいですよ。もう何でも来いだ。
サユリは幼稚園の頃から水泳をやっている。小学校、中学校と水泳教室に通い続けているので、もう十年以上か。ヒナとハルの関係くらい長いってことだと思うと、ヒナには実感しやすい。うん、確かにそりゃ長い。ヒナにハルとの思い出を語らせると、多分日が暮れるよ。あ、聞きたくない。そうですか。
他にも色々と習い事をしてきたが、唯一続いているのが水泳なのだという。複数習い事をしているって時点でヒナには異次元の話だ。ピアノに、バイオリン、バレエ、舞踊、書道、えっと、まだあるの?意味判らない。
サユリは一年を通して泳ぐのが好きなのだという。え、冬も?サユリはにっこり笑って頷いた。マジか。そりゃホンモノだね。温水なら泳いでる時はいいかもだけど、上がって外に出たら冬場とか凍え死にそうだよ。そもそも冬に泳ぐって発想自体が無い。夏にスキーしたいって話とは訳が違う。そりゃ、よっぽどだ。
夏場は一緒に行ってくれる友達も、冬になると来てくれなかったとか。ごめん、ヒナもきっとそう。サユリの情熱はすごいんだけど、付いていくにはかなり気合が要りそう。いくら友達でも、そこまではなかなか。
小学校も学年が上がってくると、今度はプールの楽しみ方自体が変わってくる。サユリは純粋に泳ぐことが好き。でも友人達はレジャープールで遊ぶという方が主流になってくる。うん、申し訳ないけど、これもヒナはそっちだな。浮き輪でぷかぷかしてたり、ウォータースライダー滑ったり。昔ハルと行ったなぁ。シュウとカイもいたけど。ビーチボールで遊んだ。また行きたいなぁ。
そうなるとサユリは一人で競技用プールに通うことが多くなる。友達とは求めるモノが異なるのだから仕方が無い。水泳教室での仲間との付き合いがメインになる。
しかし、水泳教室でもサユリほど長期で通っている子はいないという。幼稚園からずっとって確かに長い。プロの水泳選手でも目指すって言うなら話は別なんだろうけど。
「私は泳ぐこと自体が好きなんだ。ただ、どうも片想いみたいでね」
長く続けている割に、サユリのタイムはそこまでのものでは無いらしい。へぇー、ヒナが見ていた時は水泳選手みたいだったけど、あれじゃあダメなのかね。泳げるってだけでもヒナは十分だと思うし、あれだけ綺麗なフォームならそれで完璧なんじゃないのかな。この辺は求めるレベルが違い過ぎるんだろうな。
サユリ自身は、別にそこにこだわりは無い。好きで泳いでいるので、選手とかプロとかそういう目標は掲げていない。ああ、だからエンジョイ勢を自称しているんですね。限りなくガチっぽいエンジョイなんですがそれは。
ただ、本人の意思としてはそうなのだが、長く続けているということで周囲からは結果を期待されるという。うーん、それは仕方無いかな。冬でもプールに行くような子が、タイムはぱっとしません、っていうのは確かにちょっとね。本人が好きなんだから良いじゃん、って思えない人もいるだろうし。難しいな。
それに、故障だ。サユリは頻繁にフィジカルなトラブルに見舞われる。
中学校くらいからか、どんなに調整を念入りにおこなっても、筋肉がつる、脱臼する。癖になっているかもしれないということだった。こうなってしまうと、本気で全力で泳ごうとすることすら躊躇われてしまう。大会など、エントリーすること自体に尻込みしてしまう。
「ヒナがうらやましいよ。両想いで」
ははあ、そう来ますか。良いですよ、さっきサキにも、チサトにも言われましたからね。ヒナは、ハルのことが好き。ハルもヒナのことを好きでいてくれてる。お互いがお互いを求めて、お互いを必要としてくれてる関係って、とっても心地良い。
でもね、サユリ。ちょっと待って欲しいんだ。サユリが水泳に片想いしているって、そう考えちゃうのは早計なんじゃないかな。
色々と確かめたいこともあるんだけど、どうしたものかね。
「もう大丈夫だよ、ヒナ。そろそろ朝倉の補習が終わるんじゃないか?」
ああはい、その通りです。だから悩んでたんです。ふぅ、と息を吐いて立ち上がる。しゃーない。
誰もいない学食の椅子に腰かける。夏休み中は基本的に閉店なんだそうだ。学校で合宿する部活がある時だけ開けるんだって。テーブルと椅子だけは自由に使える。ヒナは自動販売機で買ったペットボトルのお茶を一口飲んだ。さ、やることやりましょ。
携帯を取り出してハルにメッセージを送る。今日は学校には来たんだけど、友達と一緒に帰ります。こんなところかな。直接ハルに会って話したかったけど、何か勘付かれても嫌だし、それにヒナの方が未練たらたらになりそう。すぐ近くにいるのに会えないってなんだか切ない。ハル、ヒナのこと許してね。
今日はそもそもハルに会いに学校に来たはずなのにね。夏休みの学校っていうのは思っていたよりもずっとドラマチックだった。いや、絶対普通じゃないって。実は今日って、何かを告白しなきゃいけない日とかだったりしない?
「構わないのか?」
突然横から声をかけられた。出たな、空気の読めない神様。
浅黒い肌、銀色の長髪。燃える瞳。顔はイケメンだよ、確かに。
でも格好が半裸ってのがなぁ。筋肉質の長身に、豹の毛皮をまとっている。それって、今の時期暑いの?涼しいの?どっち?
まぁー、マンガとかイラストで見ればいい感じなんだろうね。夏休みに入る前になんか男子ィがわいわい騒いでたけど、ヒナは実写化には反対派かな。いや、こういうの現実にいたらコスプレイヤーでしかないって。浮いてるって。ときめいちゃったりとか間違っても無いから。むしろ怖いわ。
「何の話?」
ナシュトには悪いけど、今ちょっと機嫌悪いんだ。そんなところに、学校で姿見せてくるとかケンカ売ってんのかコイツ。
「お前自身のことでも、ハルのことでもない。干渉しても構わないのか?」
判ってるよ。だから機嫌悪いんじゃん。
銀の鍵なんて、使ってもロクなことにならない。今まで嫌というほど学習してきた。だから、なるべくこの力は使ってない。最小限、自衛やハルのためという理由が付く場合のみだ。
今回、サユリの件は明らかにヒナにも、ハルにも関係が無い。単純に、サユリ個人の問題。それに、友人であるサユリに銀の鍵の力は使いたくない。おかしな方向にこじれる可能性があるからだ。
サユリに対しては、特にそう。サキ、チサト、サユリ。この三人は高校に入ってからの友人で、ヒナにとっては特別な存在。彼女たちとはまっとうな友人関係でありたい。お互いに変な勘繰りはしたくないし、グループのリーダー格であるサユリ相手なんて猶更。
今日は三人それぞれから、それぞれの事情について聞かされた。そのこともあって、友達として大事にしたいという想いは更に強まった。しかし、そのせいでもあるからなのか。
助けたい、なんとかしたい、という気持ちも強くなってしまった。
「友達のこと、放っておけないよ」
結局、そうなってしまう。なまじ見えてしまうからこそ、何とか出来る力を持っているからこそ、関わらざるを得ない。ある程度は諦めるしかないのか。左掌を開いて見つめる。他人には見えないが、そこには銀色の明るい光が溢れている。
銀の鍵。人の心を開くもの。神様の世界に通じる鍵。
サユリが何らかの呪いに囚われていることは明らかだ。恐らく故障が増えたと言っている中学時代からだろう。ヒナが見た黒い手は、他の人間には見えていない。サユリ自身にも、或いは。
サユリが泳ぐことを、泳ぎ続けることを快く思わない意思がある。それが、サユリが泳ぐことを妨害し、サユリから水泳を遠ざけようとしている。悲しいことだが、そういうことだ。
水泳に対するサユリの想いが本物であるなら、あの呪いは消し去るべきだ。実際にサユリは肉体にトラブルを生じている。事態は深刻といえる。
しかし、それでもヒナは躊躇していた。何が正しいのか、判らなかった。
正解なんてあるのだろうか。銀の鍵を使う時はいつも悩む。正しいと信じていることでも、それが思わぬ結果を生じることは往々にしてあり得る。今回もまた、ヒナが正しいと思うことをして、それがサユリにとって良い結果となるのだろうか。
いや、それでもやはりあの呪いは解かなければ。サユリの命に関わる問題だ。サユリが水泳をやめる前に、サユリが死んでしまっては何の意味も無い。
意を決して、ヒナは立ち上がった。ナシュトが姿を消す。自分で言っておいてなんだけど、今回は例外。友達の命を助けるためだ。お茶の残りを一気に飲み干して、ゴミ箱に投げ込む。よし、行こう。
呪いの元はもう見当がついている。なんというか、あんまり気が進まない。足が重いが、やるべきことは決まっているのだから仕方が無い。はあ、頑張ろう、ヒナ。自分を鼓舞して歩き始める。
まだそこにいてくれればいい、という思いと、もう帰っててくれればいいな、という二律背反がヒナの中で衝突していた。まあ、厄介事を先送りにしたくなければ、いてくれた方が嬉しいんだけどさ。引き戸に手をかけてガラガラと開ける。
「あれ?ヒナ、どうかした?」
残念。まだしっかりといらっしゃいました。
白いカーテンが揺れる。その陰、ベッドの上に座る女子。
サユリ、ちょっとヒナとお話ししようか。
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
お母さまの声には何の感情も乗っていない。怒るのでもなく、責めるのでもなく。ただ淡々と事実を確認している。それは判っている。判ってはいるが、その言葉はちくちくとサユリの胸に刺さってくる。
続けるつもりです。泳ぐことが出来る限りは。
水の中にいる時、サユリは全てから解放されて、自由になれる気がした。全身を覆う冷たく滑らかな感触は、優しく抱き締めてくれる逞しい両腕。気を許せばすぐにでも体の中に侵入しようとして来る、性急な唇。「だめよ」とつぶやくように息を吐くと、生きるための拒絶は泡となって水面へと消える。
そうだ、水に抱かれているのだ。水から求められるままに、飛び込んでいく。ざん、という音と白い飛沫が、サユリの身体を受け入れる。またここに来てしまった。冷たい感触が身体を撫でる。手指の隙間にまで入り込む、愛おしくもくすぐったい流れ。
最初にそう感じたのがいつなのか、良く覚えていない。身体の外が全て満たされている感覚というものに、サユリは幼い頃から魅せられた。自分が余すところなく何かの中に取り込まれることが、とても心地よかった。
しかも、動けない訳ではない。抱かれていても、四肢は好きなように動かせる。されるがままにかき分けられ、かき混ぜられる、サユリの思う通りに、サユリの身体は水の中を滅茶苦茶に出来る。
自由だった。束縛されつつも自由。それが素晴らしく楽しかった。水はサユリの恋人。受け入れ、取り込み、溺れさせようとしてくるところを、時に優しく、時に厳しくあしらって、文字通り泳いでいく。
色々な習い事をさせられた。性に合うもの、合わないもの、楽しいもの、楽しくないもの、とにかく色々なことをさせられた。試してみた。うまく出来ることも、全く出来ないこともあった。
ただ、胸を張って好きだと言えるものは、水泳以外には無かった。水に抱かれて泳ぐことは、サユリにとっては逢瀬だった。プールに行くことは、恋人との甘いひと時だった。
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
好きであることと、才能を示すことは別なことだ。下手の横好き。いや、サユリにしてみれば速く泳ぐことに興味などまるで無かった。水の中を進むことは、彼女の自由の証であり、愛の語らいだった。
時間も、お金も、サユリにとってはいくらかけても惜しみの無いものだった。ただ、それがお母さまにとってはどうか、ということだ。結果の出ない習い事に、一体どんな意味が、価値があるというのか。
お母さまは結果を求める人だ。数々の習い事の遍歴も、サユリの可能性を知るためのものだった。お母さまが興味があるのは、サユリが「うまく出来るもの」であって、「愛するもの」ではない。こんなことのためにコストをかけるサユリのことを、お母さまはどのように見ているのだろうか。
好きなんです。この一言で済ませられるなら良かっただろう。サユリの家は、残念ながらそんなに甘い家庭ではない。サユリ自身、結果を出すことにこだわりが無い訳ではない。このままではいけない。愛に溺れるだけでは、何にもならない。
いっそのこと、本当に溺れてしまおうかと考えたこともある。全部を受け入れてしまうだけだ。伸ばされてくる手を拒絶せず、身体の中に入ってくるのに任せてしまえばいい。肺の中まで満たされて、きっとサユリは水と一つになれる。水面の向こうにキラキラと光る天井の明かりを見つめながら、窒息の快楽と共に沈んでいければ。
冷たいプールの底で、水の言葉に耳を傾ける。サユリを、受け入れてくれるだろうか。押しつぶしてくれるだろうか。溶けて一つになってくれるだろうか。耳鳴りしかしない。水はきっと言葉を持っていない。
水の中で命を散らす考えは、残念ながらあまり現実味を帯びなかった。サユリには、失うものが多すぎた。生きることはあまりにも魅力的だった。どんなに好きでも、命を懸けるほどのものではないのかと、少し寂しくなった。
お母さまに反抗して、仮初の自由を得たと錯覚するためだけの行為に過ぎないのか。そう思ってなお、サユリは泳ぐことから離れられない。どうしてだろう。もう、身体が覚えてしまって、忘れられないのかもしれない。
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
はい。申し訳ありません、お母さま。
お母さまは別に怒ってはいない。多分、サユリのことが理解出来ないのだ。サユリ自身、よく判っているはず。無駄なことをしている時間など無い、と。やるべきことは他にいくらでもある。結果の出ないことに囚われていても、何も得ることは出来ない。
この気持ちをどう言葉にすれば良いのか、サユリはいつも迷う。「好きだ」それだけで良いのかもしれない。でも、その想いは何なのだろう。この想いを持って、貫いて、その先に何があるのだろう。何もない。果てしない自己満足だけしか、そこには無い。
上手くならないことをいつまでも続けていても仕方が無い。水泳教室をやめる子がそう言っていた。正しい判断だろう。自分の他の可能性を探すことは、間違いではない。下手なことを下手なまま繰り返すことに、意味なんてきっとない。
自分のことを好きになってくれない相手を、いつまでも好きでいて何になる。どんなに愛しても届かない、言葉も返らない。そんな相手に、恋焦がれてどうするというのか。悲しいだけだ。切ないだけだ。諦めることが一番だ。じゃあ、どうやって諦めればいい。どうやって忘れればいい。今でもすぐそこにいて、求めずにはいられないのに。
水の中に入る。身体が軽くなる。手足を動かすと、流れが出来る。流れに乗って、進む。身体が自在に運ばれる。その感覚が、たまらなく心地よい。サユリを包み、望む場所へと連れて行ってくれる。サユリの意思を酌んで、水は、泳ぎはサユリに自由をくれる。
水は、サユリに結果を求めない。サユリにとっては、それはあってはならないこと。大切なのは結果だ。何も得ることなく快楽に溺れるのは、堕落でしかない。サユリにとっては許されない。サユリがサユリであるために、お母さまの望むサユリ、家の求めるサユリであるために。
強くならなければならない。
「サユリさん、水泳の方はまだ続けるつもりなの?」
はい、お母さま。泳ぐことが出来る限りは。
サユリの手足が動く限りは。サユリの身体が水を求める限りは。
嫌われることは難しい。水は、水泳は、サユリのことなんて特に何とも思ってはいない。この感情は常に一方的だ。サユリの片想い。ただひたすらに、サユリが求めているだけ。
ならば、愛せなくなってしまえばどうだろうか。求めることが出来なくなればどうだろうか。手を伸ばすことすら出来なくなってしまえば、諦めざるを得なくなるのではないか。
だから、サユリは自分を呪った。自身に呪いをかけた。愛せない身体にしてください。好きであると求める自分を、戒めてください。サユリにとって、この気持ちは毒にしかならないのです。
これは、サユリの意志。サユリの望み。サユリの願い。
好きであることを止められないのなら、好きでいられなくしてください。好きでいてはいけないと、この身体に刻み込んでください。サユリは、自分が堕落していくことを、自分では止めることが出来ないから。
泳ぐ。水に抱かれる。快楽と共に、命もまた一緒に溺れる。
死んでしまうのなら、それでもいい。その時は、この愛が本物であったと、そう思える。
諦めるのなら、それでもいい。その時は、ようやく何の役にも立たないことから足を洗えたと、そう思える。
これでいいんだ。お母さま、これでいいんですよね?サユリは、お母さまのために自らの首を自らの手で締め上げます。大丈夫です。安心してください。どのような形であれ、きっと。
もう、水泳を続けることは出来ません。
サユリの後ろに、もう一人のサユリがいる。苦しそうな顔で、サユリを羽交い絞めにしている。足元をすくい、腕を引っ張り、首を絞める。間違いなく、サユリ自身を傷つけようとする、サユリ自身の意思だ。
ヒナは、なるべく友達の心の中を見ないようにしてきた。何かおかしいと思っても、そこに目を向けないようにしてきた。だから、実際にサユリのこんな姿を眼前にして、胸の奥がずきずきと痛んだ。これが、今まで気付かないふりをしてきた、ヒナの友達、サユリの本当の姿。サユリの苦しみ。
それは、持っていてはいけない苦しみだ。
自分に厳しいサユリだからこそ、こんな呪いを背負ってしまったのだろう。自分に刻み付けてしまったのだろう。役に立たないものなど必要ないと、切り捨てる覚悟を持つが故の苦しみなのだろう。
でも、それはダメだ。ヒナは、そんな痛みを背負うことは間違っていると思う。
「私は、ヒナがうらやましい」
サユリ、いいんだよ。そこまでして自分を追い込まなくても良いんだ。
「ヒナは、いつも真っ直ぐだ。朝倉のことを好きだっていって、追いかけて。とても素敵な両想いで」
サユリだって、真っ直ぐに追いかけて良いんだ。好きだって言って良いんだ。ただ好きであることは、悪いことじゃないんだ。
「私は、私は」
ヒナはサユリに向かって手を伸ばした。サユリの後ろから、もう一人のサユリが睨み付けてくる。銀の鍵で消し飛ばしてしまうことは難しくない。だが、それでは何一つとして解決出来ない。サユリは、また自分自身を呪うだけだ。
好きでいて、何が悪いんだ。ヒナは奥歯を噛みしめた。ヒナがハルを好きなことと、サユリが水泳を好きなことに、違いなんてない。ただ好きでいることを否定して、結果だけを求めるなんて、絶対に間違っている。
ヒナは打算でハルのことが好きなんじゃない。ハルを好きでいれば何かが得られるわけではない。ヒナとハルが両想いなのは、お互いを大切に思っているからだ。信じているからだ。一緒にいるって、離れないって安心出来るからだ。
サユリは、結果が出ないから泳ぐことを止めてしまおうとしている。得るものが無いから別れようとしている。いや、それじゃ別れられないって、自分では判っている。好きなんだって知っている。何で知ってるのに、自分を傷つけてまで否定するんだ。
言おうよ、好きだって。それで良いんだよ。ヒナならそうする。真っ直ぐな想いは間違いなんかじゃない。そこから何も生まれないなんて決めつけちゃいけない。ううん、たとえ何も生まれなくたって構わない。好きならそれで良いんだ。好きなんだ。
サユリ。ヒナは手を伸ばす。サユリの手が微かに上がる。後ろから、ぎり、ともう一人のサユリが腕に力を込める。サユリ、自分の力でこっちに来るんだ。ヒナは、これ以上は加勢出来ない。
死んで愛を全うして、それでどうなるの?それこそ何も生まれない。諦めて、それでどうなるの?そこには後悔しか残らない。
水を、プールを見る度に思い出すだけだ。かつて、そこには大好きだった何かがあったって。何も残せなかったから切り捨てたんだって、ずっと思い続けながら生きていくの?それでいいの?
ヒナはハルのこと諦めなかった。切り捨てなかった。ずっとずっと好きでいた。だから今がある。両想いだって、自信を持って言うことが出来る。誰だってそうだよ。簡単に両想いなんて言えないよ。みんな苦しんで、悲しんで、それでも諦めなかったから、その積み重ねの上に今があるんだ。
サキも苦しんでる。今まさに苦しんでいる。忘れるか、想い続けるか、答えを出すことから逃げるために走っている。今はそれで良くても、いつかは決めなければいけない。何がサキにとっての正解なのかは、残念だけど今のヒナには判らない。ただ、ヒナはサキが諦めないことを応援するつもり。手を取って前に進もうって、追いかけ続けようって言うつもり。やらないで後悔するなんて、ヒナには考えられないから。
チサトはもう振り切った。前に進むって決めた。普段はあんなにほわほわして、はっきりしない感じなのにね。進むべき道、たどるべき道、もうチサトは全部決めている。諦めない、投げ出さない、逃げ出さない。正直すごいと思う。小さな体の中に、強い意思がある。チサトは、ヒナと同じで両想いだって断言すると思うよ。チサトの目指すところは、ヒナたちが考えるよりもずっとずっと遠くにある。でも、チサトは笑顔でフルートを吹き続けるよ。きっとね。
サユリは知らないかもしれないけど、タエって子がいるんだ。彼女も色々あってこじれていたんだけど、前に進む道を選んだみたい。届かない星じゃないって、気が付いたんだね。手を伸ばしてみようって、好きでい続けてみようって、そう信じたんだ。タエの未来は判らない。タエ自身、多分不安しか持っていない。それが判っていても、タエは一歩を踏み出したんだ。失うばかりで、何も得ることない可能性すらある未来へ、歩き出したんだ。
サユリ、結果なんて判らないよ。目に見える結果が全部じゃない。サユリが好きなことを、どうして諦めてしまうの?好きなら、胸を張って好きだって言いなよ。何も無い?何も残らない?そんなことない。
好きだって気持ちは、ちゃんと残ってるじゃないか。
ヒナは、ハルのことが好き。この気持ちだけは本物。誰にも負けない。誰にも譲らない。理由とか、そんなことどうでも良い。今、ヒナは、ハルのことが、好きなんだ。この気持ちは、絶対に何者にも否定出来ない。
サユリだって同じだ。泳ぐこと、好きなんでしょ?その気持ちが本物なら、誰にも譲っちゃ駄目だ。否定しちゃ駄目だ。理由なんて関係ない。好きなものは好きなんだ。気持ちだけは誰にも失くせないんだ。
さあ、サユリ、手を出して。その背中のモノ、振り払って。ヒナが味方してあげる。ヒナが助けてあげる。サユリの気持ちは本物なんだって、ヒナが認めてあげる。
「ヒナ、私は」
大丈夫。ヒナには判る。サユリの想いはちゃんと本物だ。純粋に好きって気持ちがある。認めてあげようよ。自分自身をさ。
下手の横好きって、なんか嫌な言葉だよね。諦めが悪いみたいでさ。別にいいじゃないね、好きでやってるんだから。大きなお世話だよ。
泳いでいるサユリを見て感じたこと、正直に言っていい?サユリはね、きっと水と、水泳と両想いだよ。そうじゃなきゃ、あんな素敵な顔はしない。多分、ヒナがハルと一緒にいる時、似たような顔してるんじゃないかな。ちょっとドキッとしちゃった。サユリも、女の子なんだなって。
お母さんのこと、とても気にしてるんだね。でも、なんとなくだけど、お母さんは判ってくれる気がする。本気でサユリの水泳を否定するつもりなら、とっくにやめさせていると思う。それに、必要ならそこでもヒナが味方してあげる。ヒナだけじゃなくて、サキも、チサトも味方になってくれる。
みんな、サユリの友達だから。
友達がやりたいこと、好きなこと、応援しない訳がないでしょ?
サユリは、ヒナがハルとお付き合いを始めた時、「おめでとう」って言ってくれた。嬉しかったよ。だから、お返しじゃないけど、ヒナもサユリのこと応援する。サユリが笑顔で、楽しくいられるように、ヒナは力を貸す。そう決めた。
さ、おいで、サユリ。もう自分を許してあげて。ヒナのこと、うらやましいんでしょ?好きなことを好きって言いたいんでしょ?
いいよ。好きって、言いなよ。
「ヒナは、本当に真っ直ぐだな」
サユリが笑った。初めて見る笑顔。屈託のない、素直で弾けるような、眩しい笑顔。今までのような、作られたものじゃない。年相応の、十代の女の子の顔。ああ、可愛いなぁ。実はサユリって、グループの中で一番の美人ってだけじゃなくて、一番可愛い女子なんじゃないの?
その背後で、もう一人のサユリが消えていく。ごめんね、あなたの在り方を否定してしまって。でも、放っておいたらサユリ自身の命が危なかった。この選択が正しかったのかどうか、今のヒナには判らない。ただ、ヒナはサユリに、友達に、笑顔で生きていてほしかったんだ。
「そうだ、私は泳ぐことが好きなんだ。諦めたくない。愛してしまっているんだ」
ヒナの手を、サユリが握る。うん、これで良かった。少なくとも、ヒナはそう思う。
好きって気持ちを裏切らない。それが、ヒナの生き方なんだから。
もう夕方って言って良い時間だけど、まだ太陽が明るく照りつけている。ああ、夏なんだね。高校一年生、青春真っ盛りの、夏。
外にいると我慢出来そうに無いから、下駄箱前の談話コーナーでベンチに腰かける。西日がきっつい。丁度柱の陰になる位置に陣取ったけど、床の照り返しだけで十分暑い。ここを設計した人、何考えてたんだろう。
ペットボトルのお茶を一口飲む。水分補給してないと、あっという間に脱水症状を起こしてしまいそう。みんな良く部活とかやるよね。ヒナは今日一日でグロッキーですよ。色々あって、もうクタクタ。考えてみたら盛り沢山の一日だった。
夏休みの学校は、大冒険だ。
色んな恋の話をこれでもかって聞かされ続けた。もうお腹いっぱいです。青春ってすごい。ヒナはハルのことで精いっぱいだけど、みんなも自分のこと頑張ってるんだね。まあ、銀の鍵を遠慮なく使っていた頃に、そういうものだってことは判っていたけどさ。
結局また使っちゃった。しかも、友達であるサユリに対して。サユリの心の錠前を、ヒナは無遠慮に解き放った。ごめんね。サユリが傷ついていく姿は見たくなかったんだ。
サユリが自分でやったことを、ヒナは台無しにしてしまったのかもしれない。選択肢に正解なんてない。何を選んでも、常に後悔が付きまとう。今回は、ヒナが望む姿をサユリに押し付けてしまっただけだ。本当に、サユリには申し訳ないと思う。
ヒナのエゴ。自己満足。何と言ってもらっても構わない。その通りだ。批判は甘んじて受ける。
こういうことをするから、人に言えなくなるんだ。自分にとって都合の良い世界を作るために、銀の鍵を使っている。他人の望みを、気に入らないと踏みにじる。無かったことにする。
だって死んじゃうかもしれないんだよ?そう思う事ですら、ヒナの勝手な価値観。判った上でなければ、銀の鍵の力は使うべきではない。他人の人生を、ヒナの好みで一方的に書き換える。そこに正しさなんて、一握りも無い。
でも。
「お待たせ、ヒナ」
ぱたぱたと足音がして、サユリと、サキと、チサトがやって来る。ううん、こっちこそごめんね、変なわがまま言っちゃって。今日はどうしても、みんなと一緒に帰りたかったから。
ヒナの友達。ヒナの大切な人たち。
ハルがいてくれれば、ヒナには何もいらない。確かにそうなんだけどさ。ハルと天秤にかければ、絶対にハルが勝つんだけどさ。
でもね、ヒナは、もう彼女達の中身に触れてしまったんだ。ヒナには責任がある。ヒナの選択が、正しかったのか、間違っていたのか、見届けないといけない。一緒に歩いて行かないといけない。その運命をもたらした者として、願いを踏みにじった者として。
「サユリ、平気?つらくない?」
「大丈夫。慣れっこだって言ったでしょ?」
そんな痛みに慣れないでよ。痛い時、苦しい時、助けてくれる誰かを見つけてよ。今はそれが水泳で良いじゃない。
「ヒナの方こそ、朝倉は良かったのかい?」
「良くない。けど、今日は良いの」
サキだってそうでしょ。良くないけど今は良い。いつかは答えを出す。そういうこともある。時間が必要なこともあるし、優先順位の問題だってある。
「チサト、ちょっと陽に焼けた?」
「うん、なんか夢中になっちゃってたみたいで」
こっちはもうアツアツだね。無理だけはしないでね。周りが見えなくなると危ないよ。屋上から見られてるのに気付かなかったりとかね。自重しよう。うん、自重。
みんな揃って、笑顔でいたい。ヒナの願い。ヒナの望み。ヒナのわがまま。ヒナの身勝手。
自分勝手じゃない人間なんていない。みんな、自分の望む世界がある。これが、ヒナの望む世界なんだ。それを叶えられる力があるというのなら、やっぱり使ってしまう。手を伸ばしてしまう。それがいけないことだって、判っていたとしても。
携帯にメッセージが飛び込んできた。ハルからだ。もう、心配性だなぁ。どうしました、ヒナの大切な彼氏様?なになに、『大丈夫?まだ学校?』って、もう、すっかり旦那様だね。素敵な束縛をありがとう。大好きだよ、ハル。
「みんな、ちょっといい?」
ぎゅっと固まって、携帯のカメラをこちらに向ける。四人分の笑顔。ピース。うん、良い写真だ。
ハルに送信する。『大丈夫!』文句無いでしょ?ヒナは泣いてないよ。大事な友達に囲まれて、今とっても楽しい。ハルと一緒にいる時とはまた違った楽しいが、ここにはある。ほら、ハルは勉強に集中集中。ちゃんと補習終わらせてくれないと、ヒナはそれこそ泣いちゃうぞ。
「ヒナのところは円満だなぁ」
サユリもそんな呆れたように言わなくても良いじゃないですか。円満ですよ、円満。好きって気持ちはね、何よりも強いの。どんな暗闇も、苦しい道のりも、好きって思えるから歩いていけるの、信じていられるの。
サユリだって判ったでしょ?ああ、記憶は消しちゃったんだっけ。でも、心に灯る小さな火は消えていないはず。
「ヒナ」
並んで歩いて帰る途中で、サユリがヒナの名前を呼んだ。眼鏡に夕日が反射して、サユリの表情は見えない。声のトーンが、なんだかいつもとちょっと違う。
「ありがとう、ヒナ」
記憶は確かに消した。
何かが残っているのだとすれば、それはサユリのすごく奥深くにある何か。
ヒナはそれを読むような野暮なことはしない。必要なら、いつか言葉になって出てくるだろう。
サユリの好きの形は、胸の中にちゃんとある。
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