2nd Grade

ハルは曙

第13話 ハナのカオリ

 今年は桜が咲くのが早かった。卒業式の時にはもう散りはじめちゃってたし、四月になったらほとんど花なんて残っていない。緑の葉っぱが出る前の桜の木は、赤いちょんちょんが沢山生えててなんかグロい。自分の名前だからってわけじゃないけど、ハナは、やっぱり花が咲いている桜の方が好き。

 山嵜やまさきハナ、十五歳。いよいよ高校一年生。高校生活には、実は少々期待している。その兆候はもうあったんだ。今日この日が来るのを、結構楽しみにしていた。

 明るいチョコレートブラウンのショートボブ。ふふ、これ地色なんだよ。きらきらしてて、ちょっと自慢。ヘアピンは、少し悩んでポピーにした。明るいオレンジ。うーん、判りにくいかなぁ。花言葉は「恋の予感」。ハナの大事なおまじない。

 制服、あんまり大きめだと中身がちんちくりんみたいで子供っぽいよね。スカートを巻いて短めに。ブラウスはこう、ふわっと着こなす感じで。全体的に柔らかさをアピール。やりすぎておでぶに見えないように。一年生なんだし、フレッシュというか、不慣れ感というか、イノセンスさ、を出していこうかと。

 お化粧、はしなくてもいいか。健康さを前面に出した方がウケるかな。好みを細分化できるほど、まだ相手のことを良く知らないからな。とりあえずは、入学したてで何にも染まってませんってていで。むしろこれから徐々に変わっていくコース。よし、それだ。

 鏡を覗いて、にこって笑う。大丈夫、可愛い。花が咲いたような笑顔。名前に負けてません。ヘアピンと同じ、ポピーみたいに明るくて、ぱっと周りを物理的に照らし出すぐらいの勢い。ゲームとかアニメならエフェクトが付くね。モブとの差別化はばっちりオッケー。今のハナなら、間違いなくレギュラーキャラ。小説なら一人称視点で主役コース。

 高校デビューとか、少し前までは全然興味が無かった。はいはい、みんな頑張ってねーって。ハナの場合は元々目立ちすぎるくらいで、もっと遊んでるかと思ったー、とか猛烈に失礼な評価を貰ったこともあった。むしろ逆デビューというか、高校に入ったらいっそ髪を暗い色に染めて、地味目にイメチェンしようかと真面目に悩んでいたほどだ。

 それが今、こんなんだ。ははは、変なの。自分でもおかしい。可愛く見られたいとか。

 こんな気持ちに、またなれるとは思わなかったな。

 どきどきしている。期待と不安で。妙な噂も聞いてるし、前途は多難そうなんだけど。

 負けないよ。ハナは、すごいんだから。その辺でぴーちくぱーちくしている女の子なんかとは、ひと味もふた味も違う。いざとなったらこの・・・

 おおっと、まずいまずい。こういうのはダメ。結局、良いことは何にもなかったでしょ、ハナ。

 あるがままで、受けとめましょう。大丈夫。ハナ、しっかりして。

 後は、あの人に会えますようにって。それだけがネックなんだから。ううん。

 探すよ。絶対に見付ける。ハナの高校生活はそこから始まるんだ。

 朝倉ハル先輩。待っていてくださいね。ハナは、きっと朝倉先輩と巡り会ってみせます。


 今日はオリエンテーションの日。色々説明会。体育館に集まって、生徒が中心になって学校の説明を一通り行う予定だ。

 先生から聞くだけじゃ、学校のことなんて正直半分も判らない。学校の主役は生徒だ。だって一クラス四十人、それが八クラス三学年あるんだよ?千人近い生徒がいるって、物凄い数だ。多数決なら圧倒的勝利間違いなし。

 まずは生徒会の人が、学校生活についての説明をした。眠い。配られた学校生活のシオリとかいうホチキス止めの資料の中身を、ただ延々と読み合わせているだけなんだもん。もういいよ。後で読むよ。話すならこれに書いてないことを話してよ。学食のおすすめメニューとかさ、校内で静かで二人っきりになれる穴場とかさぁ。

「あー、それから最後に一つだけ」

 生徒会会長だかなんだかの、キッツイ感じのロングヘアのお姉さんが、突然一年生全体を睨み付けた。お、なんだ。急に体育館全体に緊張が走る。ハナも眠気が吹き飛んじゃった。いよいよお役立ち情報をご提供、って空気じゃないよなこれは。

「高校生活といえば青春だが、別にそれを禁止するつもりは無い。ただし、節度を持って、何事もやり過ぎないように気を付けてくれ。以上だ」

 一年生みんな、ぽかーん。お前は何を言っているんだ?

 それ以外、周りに立っている先生方とか、生徒会のメンバーとか。あと、ぱらぱらといる上級生たちは、一斉に「ぶふぉ」って吹き出した。なるほど。

 理解できていないのは一年生だけで、上級生や、先生たちにはしっかりと意味が通じている。つまり、生徒会長の言葉は一見ワケが判らないようでいて、実際にはこの学校ではかなりメジャーな何かに基づいた、比較的重要な情報であると考えられる。しかもリアクションは「ぶふぉ」だ。

 なんかすっごい嫌な予感がしたけど、あえて無視することにした。学生の本分は勉強。それは建前で、やっぱり青春、それも恋愛がメインなのは当然。深く考えちゃダメだ。これ以上突っ込んだらドツボにはまるっていう警報が、頭の中でぐわんぐわん鳴り響いている。忘れよ、されば救われん。

 その後はお待ちかね、部活紹介だ。やった。ハナは今日、このために頑張っておめかしして来たんだ。中学から一緒のルカが、「ハナ、気合入ってるね」って評してくれたし。クラスの男子からもちょっと視線感じちゃったりして。もうね、ガチですよ。ハナ、今日は大勝負だからね。

 この学校の部活で有名なのは水泳部。屋内温水プール完備って、なかなか無い。水泳部目当てで入学してくる子もいるって話だ。壇上に水着で上がって来るのかと思ったけど、残念ながら色モノ枠では無かった。普通に制服の男女。

「大会を目指しての本気の活動以外でも、ダイエットとか、軽いエクササイズ感覚での入部も歓迎です」

 あ、思ったよりも緩くていいのね。結構な人数が舞台に上がってるし、やっぱり部員数はかなり多そう。ん、なんか端っこの女の子、二年生か。ふわっとしてて、可愛いな。なんで顔が赤いんだ?あがり症か?

「みんなで青春! しましょう!」

 部長さんと思しき、なんかガタイのいいベリーショートの女子が大声でそう締めくくると。

 水泳部員たちがどっと笑った。ん?これそういう演出じゃないな。あ、さっきの子がわたわたしている。むむむ?

 学校の目玉部活だし、なんかあるのかもね。さっきの生徒会長の話を受けてのアドリブっぽかったし。あの可愛い子が青春か。はぁ、いいなぁ。ハナも負けてられない。よし。闘志を新たに、部活紹介の続きを見て行こうじゃないか。


 で。

 その後はもう、睡魔との戦いでしかなかった。ハナはすごいよ。よく頑張った。こんなに強い睡魔を相手に、ここまで起きていられるなんて。ホント偉い。

 だってさぁ。プログラムに、部活の紹介順序が書いてないんだもん。いつ来るのか判らなかったから、次かも知れない、いや次かも知れないって。寝るわけにはいかなかったんだよ。どっかから大きな寝息が聞こえて来てて、それがまた気持ちよさそうで。あああ、もう!

 結局どうだったかって?はい、ありましたよお目当ての部活の紹介。一番最後。わお。知ってたら絶対寝てた。それまでの時間全部返してほしいくらい。予告編観終わったら本編一分で終わった、みたいな。

「次は、ハンドボール部です」

 ばこーん、って。音を立てて目を見開いたね。キタ、キタ、キタ。キターッ! 大声で叫びたかったよ。

 舞台に出てきた男子生徒に、熱いまなざしを送る。ああ、待ってました、朝倉先輩。ハナは、来ました。今から、朝倉先輩のところに参ります。

「えー、ハンドボール部っスー」

 ・・・ハァ?

 壇上にいたのは、なんかじゃがいもみたいな男子だった。

 いや、反動ってのは凄いね。ガッカリ感を越えて喪失感だ。いや、悪くない。ワルクナイヨー。あの先輩も知ってる。大丈夫、顔は覚えてる。そうかぁー、そっちかぁー。

 え?一人?他は?思わずきょろきょろしちゃった。

 ハンドボール部の紹介は、お一人様によるものでした。さよけ。左様け。もういい。じゃあ最後まで寝てて良かったんじゃん。

 多分同じクラスの男子だと思われる寝息が、「んご」って睡眠時無呼吸症の兆候を示した。くそ、そのまま窒息しちゃえ。

 あーあ、この後の部活勧誘のところにまで朝倉先輩が居なかったら、ハナの今日の努力は全部水の泡だよ。ヘアピンのポピーが泣いてるよ。恋の予感。当たって、お願い。



 長い時間パイプ椅子に座っていたから、お尻が痛い。はぁ、疲れちゃった。いっぱい気合い入れて、沢山の一年生の中からハナを見つけてもらうっていう壮大な計画はおじゃんになってしまった。自分で言うのもナンだけど、目立ってた、とは思うんだよね。この学校女子のレベル高めだけど、ハナは埋没なんてしないんだから。

 天気が良いので、説明会の後は校庭で部活勧誘合戦になる。部活に興味の無い子も、ぐるっと一周は廻って欲しいと生徒会からお願いされた。まぁ、部活も大事な学校生活の一部だよね。

 ローファーに履き替えて、どっと人でごった返した校庭へ。昇降口のところにまで勧誘の先輩が押し掛けていて、生徒会の人が滅茶苦茶怒鳴っていた。激しいな。でも、活気があるのはいいことだ。一生懸命さは感じる。ハナはこういうの、嫌いじゃない。

「ハナー、頑張ってねぇー」

 ルカはあっさりと脱落した。ハナみたいに明確な目的意識を持っていないと、この勧誘の海は渡っていけない。大切なのは、固くて強い意志。

「あ、もう決めてますんで」

 今日のハナは無敵。普段ならティッシュとかチラシとか矢鱈受け取っちゃうけど、そんな弱気な心では朝倉先輩のところには辿り着けない。決めてるんだ。売り場の一番奥にあるバーゲン品のカゴ。それと一緒。他のものなど、もう一切目に入らない。

「家庭科部でーす。焼きたてのクッキー試食やってまーす」

 目には入らないけど、嗅覚はヤバい。くそお、お昼前にそれは卑怯じゃん。すび。あ、よだれ。うああ、こんな顔で朝倉先輩に会っちゃったら、ハナ、超肉食系みたいじゃん。顔見た瞬間、いただきますとか言いそうじゃん。

 や、無いけどさ。

 それに、さっきの部活紹介ではじゃがいも顔の先輩が一人でしゃべっていた。朝倉先輩は、今日はここに来ていない可能性もある。うん、そうだよね。ちょっとテンションダウン。ヘアピンのポピーがしおれちゃいそう。すいません、もしいるのがじゃがいも先輩なら、頭にバター載せてかじっても良いですか?

 校庭の隅っこに、飾り気のない長テーブルが一つ。賑やかな喧騒からは無縁な印象。見るからに不人気。せめてサクラでも置いとけばいいのに。

 あ。

 ううん、やっぱりいらない。

 良かった。努力は無駄にならなかった。えへへ。現金かもしれないけど、これだけでポピーは明るく花開いた。予感は、ちゃんと的中だ。ありがとう、ハナのおまじない。

 退屈そうにパイプ椅子に腰かけている男子生徒。ネクタイの学年色は二年生。座ってるけど、背は高めだよね。この前は、ハナより頭一つ大きかった。短く刈り込んだ髪。ほっそりと見えて色白なんだけど、しっかりとした体格。優しそうな眼。

 朝倉ハル先輩。

 ちょっと久し振り。わ、どきどきしてる。自分でびっくり。えーっと、落ち着け。自然対数の底を数えるんだ。にいてんなないちはちにいはちいち・・・

「あの、こんにちは」

 声をかけると、ぐるり、と朝倉先輩の顔がハナの方を向いた。当たり前のことなんだけど、驚いてしまう。自分で声をかけておいて失礼千万だよね。うう、そうは言いましても。

「あれ?ああ、あの時の」

 覚えててくれた!

 ポピーの花畑、満開。うわぁ、やったぁ。第一段階クリアって感じじゃない?

「はい。新入生の山嵜ハナです」

「山嵜さんか。入学おめでとう」

 朝倉先輩は、にっこりと笑ってくれた。どどど、どうしよう。写真撮ったらまずいよね。くあぁ、こんな時ハナに直観像の能力があれば。完全永久保存版なのに。朝倉先輩の笑顔、あざっす。ゴチになります。

「ありがとうございます」

「なんかすごい状態だけど、どう?部活は決めた?」

 うーん、この状況の中でガッツリ閑古鳥鳴かせているハンドボール部の方が、ハナに言わせればすごい状態かな。ま、それならそれで良い。ハナは最初から決めてるんだから。

「はい、決めてます」

 考えてみたら。

 これからはずっと朝倉先輩と一緒なんだし。お話しする機会も、写真を撮る機会もきっといくらでもある。慌てない慌てない。今はまだ、恋の予感。ハナの青春は、ここから始まるんだ。


「ハンドボール部、マネージャー希望で参りました。よろしくお願いします、センパイ」



 ちょっと前の話。

 ハナは、同じ中学からこの高校に一緒に進学するルカと、書類提出に訪れていた。まだ春休みの真っ最中。本当なら、次に来るのは入学式の日だったんだけど。

 書類不備がどうとかこうとか。知らないよ。中学校のミスなんだし、勝手にやっといてって。ハナだけならそう言ってやったところだ。だって面倒臭いじゃん。

 ところが、ルカの方はむしろ喜んじゃった。高校、ついでだからちょっと覗いてみようよって。まぁ、入学前にほとんど人のいない学校の中を探検できるって考えは、悪くは無い。一人だと心細くても、ルカがいるなら楽しそうだし。どうせ暇なんだから良いかなって、そう思えてきた。

 四月に入っていれば、一応ハナもルカもこの高校の生徒ってことになっている。部外者じゃありません。変なところに入りさえしなければ、堂々と歩き回ってて良い。

 ってことで、ルカと一緒に、数日後には入学式を控えた、新たな母校の中を見て回ることにした。

 誰もいないかなー、って予想していたら、実際にはそんなことは全く無かった。入学式で演奏する吹奏楽部とか、新入生向けのオリエンテーションの準備とか。主に部活関係で、学校の中はとても賑やかだった。

 何だろう、先にネタバレを見てしまったような、ちょっと申し訳ない感じ。でも、その中を歩いていると、自分たちが新しく入ってきたお客さんじゃなくて、前から学校にいる仲間の一員であるみたいな気がしてきて。どきどきして、面白かった。

 校舎の中はを一通り見て。校庭の隅っこにクラブハウスがあるのが判って。じゃあ、次はそこに行ってみようという話になった。

 校庭では、陸上部が活動していた。背の高い、すらりとしたカッコいい女子がいるのが見えて。ハナは、しばらくその姿に見惚れてしまった。高校生って、すごいなぁ。ハナも同じ高校生なんだよなぁ。ううう、謎の敗北感。

「ハナ、危ない!」

 すっかりよそ見をしていたので、ハナは自分目がけてすっ飛んできたボールに全然気付いていなかった。え?って思った時には。

「あぶねっ」

 背の高い男子生徒が、ハナのすぐ近くでボールをキャッチしていた。

 右手一本伸ばして。広げた身体が、とても大きくて。ハナを、包み込んでしまいそうで。

 ハナは、言葉を失ってしまった。え、どうしよう。ちょっと。

「宮下、バカ、ノーコン、周り見ろ!」

 ボールが来た方向に向かって、その男子生徒が乱暴に怒鳴った。すまーん、という声がして、誰かがこちらに走ってくる。ええっと、じゃがいもに目、鼻だな。あれはモブ。

 でも、こっちは。

 ハナは、改めて目の前の男子生徒の顔を見た。汗いっぱいで、ちょっと息が上がってて。背が高い。こんなに近いと、見上げてしまうくらい。わ、わわわ。

「ごめんね。新入生だよね。大丈夫だった?」

 大丈夫です。怪我とかないです。でも新入生って、なんで判るんだろうって、ああ、スカーフの学年色か。頭の中がぐるぐるして、ハナは何を考えているのか判らなくなってきた。ど、どうしよう。何を言えばいいんだ。あああそうか、お礼か。

「あ、ありがとうございました」

「いや、悪いのはこっちだから。ホントは今日は活動日でもないし」

 そう言ったところに、じゃがいもがやって来た。む、この人がハナにボール当てそうになったんだよね。なのに何でヘラッとしてるんだ?ちょっとムカチン。

「やー、ごめんごめん。溢れる力を制御できなくてさ」

 なんじゃそりゃ。

 不機嫌が顔に出てしまっていたのか、ボールを持った男子生徒がはぁ、と息を吐いた。

「ホントにごめん。こういうバカなんだ。許してやってくれ」

「バ、バカとはなんだ。朝倉、お前そういうところホントにムッツリだな。後で言いつけてやる」

 朝倉。

 朝倉先輩。

 なんだかぎゃあぎゃあとうるさい。名前が判ったので、その後の会話は全部すっぽ抜けてしまった。そうか、朝倉先輩。この高校の、先輩なんだよね。

 同じ学校で。これから一緒に、高校生活する人。こんな人もいるんだ。

 こんな、かっこよくて、素敵な人。

 うわぁ。

 うわぁ、どうしよう。

 ハナ、ひょっとして。

 ひょっとして、好きになっちゃった?

「ごめんね邪魔して。じゃあ、これで」

 朝倉先輩の言葉で、ハナはようやく我に返った。えっ?あっ、ちょっと待って。

 ハナが何か言おうとしたのを察したのか。

 宮下とかいうじゃがいもが、くるり、と振り返って恰好をつけた。

「ハンドボール部は、女子マネージャー募集中だぜ」

 はぁ?カルビーかコイケヤにでも帰れよ。

 まあ、有益な情報をくれたので感謝はしておこう。ハンドボール部。ハンドボール部の朝倉先輩。

 その後ちょっと調べて、フルネームまですぐに判明した。朝倉はる。朝倉ハル先輩。

 ハナの、これから始まる高校生活。

 なんだか、とってもどきどきして、とっても楽しそうな予感がしてきた。




 ちゃぷん、ちゃぷん。

 優しい水の音がする。ああ、これはあれだ。いつもの託宣だ。ちょっと懐かしい。フユが来た時以来だから、ええっと、三ヶ月ぶりくらい?

 ゆっくりと目を開ける。乳白色の世界。間違いない。これは、ナシュトが視せている夢。

「あ、ヒナ起きた?」

 うえっ?

 のんびりとした声が聞こえて、ヒナは一気に覚醒した。夢の中でも覚醒って言って良いのかな。いやまあ、それどころじゃない。

 慌てて横を見ると、フユがニコニコと微笑んでいた。

「や、おはよう。って言うのもなんかヘンだね」

 ひらひらと掌を振ってくる。真っ直ぐで、綺麗な長い黒髪。透き通るくらい白くて、ほっそりとした身体。まつ毛が長くて、見ているとこっちまでほやん、とした気分になってくる優しい垂れ目。

 フユはヒナの隣に、ちょこんと腰かけていた。身にまとっているのは、白い、ゆったりとした上着、なんて言ったっけ、カラシリスだ。ヒナも同じ格好をしている。はぁ。

「ごめんね、フユ。ナシュトの趣味につき合わせちゃって」

「ううん、これはこれで楽しい。面白いよ」

 フユは無邪気にそう言った。まあ、フユならそうだろうね。ヒナは、相変わらずこのノリにはついていけそうにない。

 周囲は、濃い霧に包まれている。視界二メートルって感じ。辺りに何があるのかは全く判らない。

 はっきりしているのは、ここが湖の上だということ。波の無い、穏やかな水面。ヒナとフユは、そこに浮かんだ木っ端みたいなボートに乗っている。しんと静まり返った静寂の中で、時折船が揺れて小さな水音を立てる。ちゃぷん、ちゃぷん。

 ヒナの中にいる、というか、一体化している神様、ナシュトの託宣だ。

 ナシュトはヒナに対して何か大きな運命の転機が訪れる時、託宣という形で事前に忠告を出してくれる。ただそのやり方が、演出過剰というか、気取っているというか。

 ヒナのセンスとは、いまいちマッチしないのだ。

 古代エジプトの神様だっていうから、その頃はこういうのがバカウケだったんだろうな。そう考えていると、船の舳先の上にナシュトが姿を現した。はいはい。判ってますから。

 浅黒い肌の、筋肉質の長身。豹の毛皮の腰巻一丁。そこからフライングニードロップでも落とされそうだ。ヒナには、昔お父さんにビデオで観せられたナントカマスクっていうプロレスラーにしか思えない。銀色の長髪に、真っ赤な瞳。彫りの深い、彫刻のような美形。ヒナ、ナシュトのせいでイケメンに耐性というか、不信感を抱くようになっちゃったよ。責任取ってほしい。

「ヒナ、フユ、銀の鍵を持つ者たちよ」

 そこからかよ。面倒だなぁ。そういう手続きはそろそろ省略していこう?

 ヒナとフユの左掌には、銀の鍵が埋め込まれている。ヒナはこれを中学生の時、お父さんの海外土産として受け取って、なんだか判らないうちに中途半端な契約を結んでしまった。

 神々の住まう幻夢郷カダス。願いを持つ者をそこに導く、究極の魔術具、銀の鍵。

 ヒナは、銀の鍵を使ってかなえたい願いなんて何も無かった。フユの方も、理由は違えど鍵に願うことなど何も無かった。この欠陥魔術具は、自分が否定されることに慣れていないらしい。ゆとりめ。お陰様で、ヒナもフユも鍵の力と融合し、よく判らない条件で鍵と一つに結びつけられてしまった。

 人の心を覗き見て、記憶を操作し、都合の良いように操る力。

 パッと聞けばそれはとても便利で、魅力的に思えるかもしれない。でも、実際にはこの力はただひたすらに気持ち悪いだけだし、使っても不愉快な気持ちになるだけだ。少なくとも、ヒナはそうだった。それに、ヒナには好きな人がいる。ヒナはその人、ハルの気持ちを、そんなズルで手に入れたいだなんて思わないし。そんな力を使っているだなんて、思われたくもない。

 フユの方は、またちょっと違った事情がある。ただ、基本的な考え方はヒナと一緒だ。世界を自分の都合の良いように作り替えることは、フユにはちっとも面白くない。フユはむしろ、世界の多様性とか、思い通りにならないところを楽しんでいる。そんなだから、二人は今こうやって仲良くしていられる。うん、良かった。ヒナは、フユとは友達としてやっていける自信がある。世界は平和。平和が一番。

「近々、大きな運命の転機が訪れる」

 ああ、ナシュトまだ話してたんだっけ。ごめん、完全に忘れてた。

 ナシュトはヒナの銀の鍵に憑いている、神官にして守護神だ。鍵の持ち主を正しくカダスへと導くのが使命だということだが。ヒナが願いなんか無いと言ったせいで、現在は小間使いみたいな立場に甘んじている。いや、これでもだいぶ打ち解けたんだよ?

 フユの方には、女の姿をしたカマンタっていう神様がいる。あっちは物腰柔らかで、もっと話が通じるんだよな。いいなぁ、ヒナもそっちの方が良かったな。ナシュトには悪いかもだけど、未だにそう思うよ。こればっかりは、どうしようもない。

「そもそも銀の鍵が二つ並び立つことは異常なことだ」

 らしいですね。まあ、この力を持つ人って、大体が自分の欲望に一直線な方でしょうし。それがもう一人いるとなれば、邪魔になる前に排除しようと動くのが定石かな。ヒナとフユは、そういう意味では完全にイレギュラーなのだそうだ。

「正直に言えば、我らにもこの先何が起きるのか、因果律を読むことが出来ぬのだ」

 出たよ。

 なんだ、フユの時と同じだ。結局、何が起きるのか判らないという、全くもって何の役にも立たない託宣だ。そんなことを聞かせるためにわざわざ呼び出すとか。そんなんだから神様は身勝手だって話になるんだ。

「それ、もう託宣する意味ないよね」

 口に出して、がっつりとツッコんでやる。しかし、ナシュトはしれっと涼しい顔をしていた。

「何かが起きることは確かなのだ。その気構えは必要だろう」

 くっそ、ああ言えばこう言う。あのね、銀の鍵と一体化してからこっち、何も起きない日の方が珍しいとすら思えるよ。高校に入って、ハルとお付き合いを始めて。ヒナ的にはようやく穏やかな毎日がやってきた感じだ。

 そんなところに、何が起きるか判らないって。野球かよ。ふざけんな。

「まったく、朝のテレビ占いよりも役に立たないよ」

「えー、あれも役に立たないよ?私、昨日ラッキーカラーが水色だっていうからハンカチ水色にしたのに、そのハンカチ失くしちゃったんだよ?」

 フユ、君は良い子だね。ヒナは是非フユにはそのままでいてほしいよ。

 さて、ナシュト君。

 フユの発言でいい感じに空気もグダグダになったし。これ、もうお開きにして良いかね?




 四時間目終了のチャイムが鳴った。はぁ、終わった。世界史ってどうも苦手だ。ヒナは理系か文系かって聞かれれば、間違いなく文系なんだけど、だからと言って別に文系教科が得意ってわけでもない。

 世界史は覚えることが多すぎる。面倒くさい。あと、名前にカタカナが多すぎ。逆に、日本史は漢字が難しすぎ。どうにかしてほしい。

 曙川ヒナ、十六歳。高校二年生。来年には受験生とか信じられない。

 四月になって、ヒナは普通に高校二年生になった。特段の事情も無く、高校生で留年っていうのは、少々恥ずかしいよね。それだけは何としても回避したかったので、そこはセーフ。守りたい、ヒナの進級。

 春の身体計測の結果、身長は去年から二センチの増加。ええっ、それしか増えてないの?ハルは十センチ以上伸びてたよ?うう、差が付くなぁ。ヒナはせめて百六十センチは欲しい。あと三センチ、頑張ってプリーズ。

 体重は微増。それでヘコんだけど、まあ、他のところが増えてた。ははは、体重分ってわけじゃないか。ハルは大きい方が好きかな。男の子は基本大きい方が好きって言うよね。最近は好みが細分化しているからなぁ。

 制服の着こなしも、だいぶ慣れてきた気がする。スカートは自然に短く。胸元のスカーフはほんのちょびっと緩めて、前かがみになった時にちらりと鎖骨の端っこが見えるように。ブラウスはふんわりも良いんだけど、制服ファッションはむしろ締めるところをしっかりとした方がカッコカワイクなる。

 うん、一年生の時とは違って、服に着られてる感は少なくなった。何処からどう見ても、ヒナは立派な女子高生だ。

 折角だし、髪型も変えようかと思っていたところ、それはハルに明確に反対されてしまった。今のふわっとした肩までのウェーブが、ハルは一番好きなんだって。えへへ、そう言われちゃったら、変えたくないかな。そうだね、昔、小学校まではずっとこうだったもんね。ハルにとっては、今のこの髪型がヒナっていう印象が強いんだろうな。

 朝倉ハル、十六歳。高校二年生。ヒナの幼馴染。ヒナの初恋の人で、素敵な彼氏様。

 そしてついこの間、ホワイトデーの日に。ヒナはハルにプロポーズされて。

 二人の関係は、なんと婚約者になりました。うっひゃー。

 二人は高校生だし、ハルは十六歳だから、結婚できる年齢ではない。だから、まずは約束だけ。でも嬉しい。ヒナは、ずっとハルのことが好きだったから。

 二人で同じ高校に入って、告白されて。ハルと彼氏彼女の関係になって、去年のヒナは舞い上がっていた。それが今度はプロポーズだ。ヒナの人生、幸せゲージ上昇一直線じゃないですか。やだー。

 高校に入ってすぐ、入学式でクラス発表を見て。ハルと同じクラスなのを知った時は、嬉しかったなぁ。八クラスもあるから、離れちゃうとどうしても接点が減るからね。一年間一緒にいられるって、そう考えるととても貴重なことだった。

 さて、二年生になるとクラス替えがある。二年生から三年生への進級時には、クラス替えは無い。なので、これが二人が高校にいる間、一回こっきりのクラス替えってことになる。

 仕方ないよね。クラス替えだって、大事な学校生活のイベントだ。避けて通ることはできない。

 一年生の間だけでも、クラスメイトになれたのは奇跡みたいなものだった。林間学校とか、修学旅行とか。学校の楽しい行事は、むしろ二年生からが本番だ。ハルと同じクラスになれるなら、そっちの方が幸せは大きい。

 うん、とっても幸せになれそう。

「ヒナ、昼飯にしよう」

 ヒナの席の横に、ハルが立った。

 その手には、ヒナが今朝作ったお弁当の包みがある。

「うん、お腹空いちゃった」

 えへへ。

 ハル、高校生活、あと二年。

 同じクラスだね。ヒナ、とっても嬉しい。とっても幸せ。

 ヒナは、ハルのことが大好き。




 始業式の日、最初にクラス編成の発表を見て。

 ヒナは、まずはナシュトとフユ、それからカマンタを疑った。だって、八クラスだよ?ハルと同じクラスになれる確率って、完全ランダムでも相当低いはずじゃない?こういうことを操作出る力を持っているということは、即ち疑いを持たれるということだ。確かにハルと同じクラスになれたのは嬉しいけど、ヒナはハルとの関係にズルはしたくありません。しかも、ちゃっかりフユまで同じクラスだ。これでは作為を感じるなという方が無理な注文だろう。

 フユに訊いてみたら、なんだかニヤニヤしながら「大丈夫、関係ないよ」ときたもんだ。フユは、ヒナほどには人の心を読むことに抵抗が無い。多分気になって誰かの中を覗いて、答えを知ったのだろう。ぐぬぅ、ずるっこめ。

 まあしかし、そういうことなら幸運だと思って甘んじていれば良いのか。教室で名前順で振られた出席番号順に座ると、ハルとは隣同士になる。曙川と朝倉だからね。並んで席に着いたら、それだけで教室内がちょっとざわついた。はいはい、色々あったもんね。不本意ながら、ヒナとハルは学校の中では恐らく断トツに有名なカップルだ。

「こうなるともう、学校公認って気すらしてくるよね」

 因幡いなばフユ。名前順でヒナの次だから、すぐ後ろの席。これ、本当に誰かが故意にやったんじゃないよな?疑心暗鬼も良いところだ。

 フユは、去年の一月に転校してきた、もう一人の銀の鍵の所有者だ。複雑な事情があって、フユには家族が誰もいない。支援団体からの様々な援助を受けて、学校の近くのマンションに一人で暮らしている。フユは銀の鍵を持つがゆえに、目に見えない世界にも通じている。そこ経由でヒナのことを知って、ヒナに会うために、わざわざこの学校にやってきたのだ。

 現在では、御覧の通り元気いっぱいだ。好奇心旺盛で、人懐っこくて、良く笑う。そんな性格なので、男女問わずに、すっかりみんなから愛されている。問題があるとすれば、体力にやや難があって、体育の授業が見学がちになるところくらいかな。

 ヒナにとっては、他人に言えない銀の鍵絡みの相談事ができる、唯一無二の親友だ。


「おーっす、二年七組の諸君、私が担任の美作みまさかカオリだ」

 元気な声で入ってきたのは、白衣を着た若い女性の教師だった。ヒナは、初めて見た気がする。二十代半ばから後半くらい?くしゃっとした癖のある長い髪。不敵というか、何か企んでいるみたいな怪しい笑顔。美人だけど、近寄りがたいオーラが全開で噴出している。そしてなにより、白衣の下のわがままボディ。ちょ、こんな先生いたんだ。

 カオリ先生は数学担当。数学で白衣はイカスだろう、と教壇の横でポーズを決めてみせた。一部の生徒が、引きつったみたいな笑い声を漏らす。後で一年の頃に教わったことのあるクラスメイトに聞いた話によると、中々インパクトのある先生であった、ということだ。うん、そうだね、インパクト。よく判るよ。

 出席を取って、その際に一言ずつ簡単な自己紹介をする。連絡事項の伝達があって、その日のホームルームはこれでおしまい、という段階になって。

「あー、朝倉ハルと曙川ヒナは、このまま数学科準備室まで来るように」

 いきなり呼び出しを受けた。カオリ先生は澄ました顔でさっさと教室から出ていってしまった。あー、やっぱタダでは済まないんだろうなぁ。そう思ってフユの方を見ると、楽しそうににこにこと笑っていた。

「大丈夫だって」

 ホントかなぁ。

 ハルと連れ立って、職員室の更に先にある数学科準備室に向かった。カオリ先生は、ヒナたちを待っているつもりなど全く無かったらしい。廊下にはもう影も形も見えない。きびきびと動いてたし、歩くの早そうだよなぁ。

「なんかすごい先生だったね」

「一年間、あの先生が担任なのか」

「多分二年間だよ。美人だったし、ハルは嬉しいんじゃないの?」

「俺、教師は男の方が良いな。偏見じゃないけど、女の先生はちょっと苦手だ」

「へぇ、知らなかった」

「小学校の時、アバちゃん先生いたじゃん。俺、あの人が苦手でさぁ」

「あー、アバちゃんは贔屓ひいきというか、お気に入りを作る人だったよねぇ」

 だらだらとそんな話をしながら、数学科準備室の前にやってきた。こんな部屋あったんだね。すぐ横の部屋には、国語科準備室って書かれた札が出されている。何をやる部屋なんだろう?ハルの顔を見ると、ハルはぶるぶると首を横に振った。

 ノックしてみると、「どうぞー」と返事があった。スライド式のドアを開けて中に入る。室内にはカオリ先生だけがいた。書類を収納するキャビネットと、ほとんど何も載っていないスチール机が四つ。他には目立ったものは何もない。狭くてホコリ臭くて、殺風景な部屋だ。その空間で、カオリ先生は椅子に座って脚を組んで、コーヒーをすすっていた。

「遅い。なんでさっさとついて来ないのよ」

 いや、割とすぐに追いかけたつもりだったんですけどね。まあ、見失っちゃったし、ゆっくりでいいかな、とは思ってました。

 とりあえず「すいません」と、二人でぺこんと頭を下げると。

 カオリ先生は愉快そうに笑い声を上げた。

「いやいや、君らとは是非一度お話ししてみたくてさ」

 楽にして、と言って、カオリ先生はキャスター付きの椅子を二つ転がしてきた。ハルと並んで座る。その様子を、カオリ先生は何処か眩しそうに眺めていた。

「気になってると思うし、今回のクラス編成について、二人には説明しておこうかなって」

 ということは、やはり意図的というか、何らかの理由はあるってことか。そりゃそうだよね。これだけ話題になって注目までされている問題児カップルを、考えも無しに同じクラスにブッ込んだりはしないよね。

 ヒナが不安そうな顔をしたのに気が付いたのか、カオリ先生はにこって微笑んでくれた。あれ?なんだか印象が違うというか。

「私はね、二人のファンなのよ」

 ゆったりと背もたれに体重を預けて。カオリ先生は、優しい声で話し始めた。

 クラス替えは、そもそも二年生以降の学習効率を考えて行われている。大雑把にいえば、生徒の学力レベルを三段階くらいに分けて、それぞれのレベル内でまとまるように配置し直すのだ。

 ああ、そういえばサユリがそんなことを言っていた気がする。出来る子と出来ない子でクラスを分けちゃうって。

 一組は特進クラス。大学進学を前提に、成績上位者中心でまとめられる。その下に少し出来る子のクラス。更にその下に普通の子のクラス。そしてその更に下に、という感じ。

 で、聞くまでも無くヒナとハルは最下位クラスです。ははは、すいませんね。

 ただのランキング表にしてそのままクラスに当てはめようとすると、男女比もそうだし、色々と問題が出てくる。なので、まずは全体を数クラス分のグループに分割し、その中から各クラスに割り当てていく作業を行う。これがクラス分けの大まかな流れだ。どっちにしても、ヒナとハルは最下位グループですが、何か?

 担任教師たちによるクラス編成会議によって、最終的なクラスのメンバーは決定される。カオリ先生も二年生のみそっ子クラスの一つを受け持つということで、その会議に参加していた。みそっ子は余計だろう。失礼しちゃう。

「最初はね、やっぱり君たち二人は別なクラスにするべきって意見が優勢だったんだ」

 幼馴染で、付き合ってて。変な噂が立って、生活指導にも呼び出されてて。学園祭ではやらかしてて。ヒナとハルは、学校の風紀を乱す、諸悪の根源みたいな言われようだった。うん、否定はしない。っていうかできない。スイマセン。

 でも、言い逃れじゃないけど、一応学校では自粛してるんですよ?完璧かどうかは置いといて、学校の中では極力いちゃいちゃしないように気を付けてはいる。手だってほとんど繋いでない。どちらかというと、周りで騒いでいる声の方が大きい感じだ。

「私には、君たちがそんなに風紀を乱しているようには見えなくてね。むしろ微笑ましいな、って」

 今時、幼馴染で恋人同士なんて。それも、べったりという感じではなく、真剣で真摯な交際をしているように見受けられる。いつ何処で何を見られていたのかは判らないが、少なくともカオリ先生には、ヒナとハルの関係は健全なものに思えたらしい。ああ良かった。学園祭前夜とか、その辺りのことは未来永劫お口にチャックしておこう。

「別なクラスなんかにしたら、逆に問題行動が増えるんじゃないかって、そう意見したのよ」

 一年生の時は「同じクラスにいる」ということで、二人は自分の中にある衝動をなんとか抑えることができていた。しかし、もしクラスが分かれてしまったとしたら。会えないという反動から、二人の感情は熱く燃え上がって、いよいよ何をしでかすか判らない。って、えー、学校の中でそんな。どーぶつじゃないんだから。あはは。

「それに、どうせ問題を起こすなら、同じクラスに入れていっぺんに監視できた方が楽でしょ?」

 その物言いにはちょっと解せないところがない訳じゃないけれど。

 そこまで言うのなら、問題発生時には担任が責任を取る、という形で。

 晴れて、ヒナとハルはカオリ先生が担当する二年七組に揃って入ることになったのだ。

「あと、因幡さんは去年度からの継続。曙川さんに、一番の友達になっていてあげてほしいの」

 ああ、その話か。

 フユが転校して来た時、ヒナは生活指導室に呼び出された。今度は何だと思っていたら、ヒナにフユの友達になって欲しいということだった。特殊な生育環境にあったフユは、スクールカウンセラーのお世話になっている。そのカウンセラーが、フユに友達になれそうな相手の名前を訊いたのだ。

 もともとフユはヒナに会うためにここにやって来たわけで、そこでヒナの名前が挙がるのは当然のことではあったのだが。フユの回答を受けて、ヒナは、学校側からフユの友達になって欲しいと依頼されていた。

「そんなこと言われなくても、フユは友達ですよ」

 ヒナの言葉を聞いて、カオリ先生は満足そうにうなずいた。

「うん、そう言ってもらえると嬉しい。曙川さんを信じて良かったと思える」

 それから、チラリ、とハルの方に目を向けた。

 ハルはずっと黙って話を聞いていた。男女間で問題となる行動を起こしてしまうのは、最終的には男の方だ。ヒナが何を言っていたとしても、ハルの方が我慢の限界に達して青春をスパークさせちゃったりしたら、そこでアウトだもんね。

 カオリ先生の視線を受けて、ハルはヒナの顔を見てきた。ヒナはにっこりと笑ってみせる。まあ、ハルはハルのしたいようにしてくれていいよ。ヒナはハルにお任せって、いつも言ってるからね。今のこういう関係だって、ハルが望むからこうしている。ヒナは、いつでもオッケーですよ?

 ハルはうつむいて、はぁー、っと長く息を吐いた。ほら、頑張って、ハル。

「先生たちは、その、風紀の乱れっていうのを心配しているんですよね?」

「そうだね。有体ありていに言っちゃえば、妊娠騒ぎだね」

 カオリ先生、ぶっちゃけるなぁ。

 でも、要はそういうことだ。学校にだって体面はある。生徒がそんなことになった、となれば大騒ぎだろう。学生を預かる学校の信用とか、学校全体の雰囲気とか。今後、嫌でも「あそこの学校は、そういうところだ」というイメージが付いて回ることになる。学校の外からもそうだし、中からも同様だ。

 一組そういう男女ができてしまったなら、二組目はより低いハードルでそれを越えてしまう。一度タガが外れてしまえば、後はなし崩し的だ。学校の風紀は大きく乱れるだろう。だから根も葉もない噂の段階で、ヒナは生活指導室に呼び出されて「注意された」という事実を作らされたのだ。うわぁ、なんだかなぁ。

「俺は」

 ハルが顔を上げた。真面目なハル。ふふ、かっこいい。ヒナの自慢の旦那様。

「俺は、ヒナのことが好きです。真剣です。だから、ヒナを悲しませたり、苦しませたりするようなことはしません」

 カオリ先生の眼が、きゅって細くなった。

「ヒナは学校が好きみたいだし、友達もいる。ヒナが学校に居られなくなるような、そんなことは絶対にしません。約束します」

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 ハルはじっとカオリ先生の目を見て。

 カオリ先生はハルを値踏みするように見つめ返して。

 ヒナは、ハルの言葉を胸の中で何度も反芻していた。

 ハルは素敵だな。いつもヒナのことを考えて、大事にしてくれる。言うだけじゃなくて、しっかりと態度と行動で示してくれる。

 だから、ヒナはハルのことを信じられる。全部預けて、大好きだよって素直に想うことができる。ハルの気持ち、ヒナはとっても嬉しい。すごく幸せ。

「やー、いいなぁ、青春。うらやましいなぁ」

 カオリ先生はそう言って、大きくのけ反った。うお、おっぱい山脈。ハルも思わず顔を赤らめてる。む、やっぱり大きい方が良いのか。そうなのか。

「もういいよ、お前ら結婚しちまえよ」

 半分は冗談だったんだとは思うけど。

「はい、卒業したら結婚します」

 ヒナとハル、二人から同時に、明るく元気に宣言されて。

 カオリ先生は、派手な音を立てて椅子から転げ落ちた。




 ホワイトデーの日、ハルがヒナにプロポーズしてくれて。

 ヒナは、当然それを受け入れた。ずっと好きだったハルから、結婚を申し込まれるなんて。もう人生勝ち組ですよ。幸せ最高潮で、その日は一日何も手につかなかった。お陰様で、周囲にはすっかりバレちゃったんだけどね。

 問題は、周囲、というよりも家族の方。ヒナのお母さんとか、ハルのお母さんは妙な情報網を持っていて、こういう話を実に耳ざとく聞きつける。そして、サプライズという名の罠を仕掛けてくる。別に嫌ではないんだけど、それがあまりにも不意打ち過ぎて。

 二人が付き合いだした時も、何処からともなく嗅ぎつけていたし。その後海外出張しているヒナのお父さんの帰国に合わせて、交際開始のお祝いなんてやってくれたし。お祭り騒ぎが好きなのは構わないけど、もうちょっと加減して欲しい。

 それはさておき、今回は結婚という、当人たちだけでは収まらない話だ。今までだって家族ぐるみの付き合いではあったけど、いよいよ本当に家族としてのつながりを持つことになる。こればっかりは、本人たちから報告をしないわけにはいかないだろう。これを外部から聞きつけたりした日には、並のドッキリでは済まされない気がする。いや、冗談にならない。

 ヒナは、その日の夜にお母さんに報告した。ハルにプロポーズされました。ヒナは、ハルと結婚するつもりですって。

 お母さんは少し驚いたみたいだった。うん、少し。まあ、付き合い長いし、ヒナもハルのことばっかり話してたし。最近はハルのお弁当とか作ってたし。驚く要素があるとすれば、まだ十六歳で高校生ってところぐらいだよね。

「そうか。ヒナ、良かったね」

 お母さんにそう言われたのは、素直に嬉しかった。「うん、とても良かった。へへ」って笑って。久しぶりにお母さんに抱き付いてしまった。ヒナ、幸せだよ。ありがとう、お母さん。知らない間に涙まで出てきた。あれ?そんなに?って。

 自分で思っている以上に、ヒナはハルに結婚を申し込まれたことが幸せで。お母さんに「良かったね」って言ってもらえたことが嬉しかったみたいで。

 気が付いたら、わんわん泣いてた。そうだね、長かったもんね。ずっとずっと好きだったもんね。お母さんが、そんな言葉を掛けながら、ヒナの背中を撫でてくれた。お母さんも、ヒナがハルのために一生懸命なのは知っていたから。ヒナの想いを、一緒になって感じてくれていたのだろう。

「それにしても、困ったわね。今からだと予定日は秋ぐらい?」

 お母さんの口から飛び出したロクでもない台詞で、ヒナの涙は一瞬で引っ込んだ。

「一番目立つ時期が夏休みなのは良いけど、制服どうすればいいかな?スカートのウェスト、ゴムにできるかな?」

「な、ちょ、え、何言ってるの?」

「え、だって?」

 その時のお母さんの顔を、ヒナは一生忘れない。チクショー、感動して損した。

「責任取るって話じゃないの?」

「そうじゃないよ、バカー!」

 台無し。

 まあ、判っててワザと言ったみたいなんだけどね。それにしても最低だ。どうして毎回毎回こういうのを挟まないと気が済まないんだ。たまには普通に祝福して欲しいよ、まったく。

 その日の晩ご飯は、ちょっとだけ豪華になった。ヒナの好きなおかずが増えて、お皿の数が普段の倍。弟のシュウが「何かあったの?」って訊いてきたけど、ヒナもお母さんも笑って応えなかった。ごめんね、感じ悪い家族で。

 でも、ヒナも少し恥ずかしかったんだ。お姉ちゃん、ハルと結婚するんだよって。シュウなら喜んでくれるかな。それとも、今更かって呆れられちゃうかな。


 ヒナの家が、そんな比較的暖かくて和やかな雰囲気でホワイトデーの一日を終えていた反面。

 ハルの家の方は、そりゃあもう大変だった。らしい。

 後でハルとか、ハルの弟のカイに聞いた話なので、どの辺りまでが真実なのかは判らない。うーん、カイは話を盛るような子じゃないから、そっちが真実寄りかな。ハルはたまに変な脚色を入れるからなぁ。

 ハルのお父さんと、ハルのお母さんと、ハルの弟でその時は小学六年生のカイ。それにハルの四人で、夕食の真っ最中。ハルが急に「俺、ヒナにプロポーズしたから」と口にしたそうだ。

 後にカイ曰く。

「ハル兄さんはいつも唐突過ぎです」

 ハル曰く。

「いや、ずっとタイミング計ってて」

 重苦しいとかそういうレベルではない、もう何が何だか判らないほどのどんよりとした沈黙の後で。

「はぁ?何言ってんのアンタ?」

 ハルのお母さんが、静かにブチ切れたそうだ。

「アンタ、ヒナちゃんになんかしたの?」

「いや、してない」

「じゃあなんでそんなこと言ってんの?」

「ホ、ホワイトデーだから」

「なんでホワイトデーだとプロポーズするのよ?」

「ヒナを喜ばせたくて」

「その場の言葉だけで喜ばせてどうすんだ、このアホ!」

 会話内容は、一言一句たがえることなく再現できているわけではない。だが、カイとハル、両方から聞いた話を総合すれば、概ねこんな感じだった、ということだ。うん、ハルのお母さんは素敵だ。最初に聞いた時、ヒナは不覚にも笑ってしまった。

「俺は、ヒナを一生背負っていくって決めたんだ」

「そういうのは背負えるようになってから言えってんだ」

 カイとハルのお父さんが、あわわわ、ってなっている前で、二人の口論は更にヒートアップしていった。まあ、内容的には明らかにハルの方が不利。もうちょっと話の持っていき方を考えようよ。

「アンタ今どんだけヒナちゃんに世話してもらってると思ってんの?それでプロポーズとか馬鹿なの?ヒモにでもなるの?」

 ハルのお世話をしているのは、確かにその通り。ハルのお母さんに頼まれて、ヒナは毎日ハルのお弁当を作っている。一応、ヒナも好きでやっていることだ。

 ただ、ハルが今、ヒナのために具体的に何ができているのか。それを言われると苦しいかもしれない。いや、だってまだ高校生だし。まあ、だからこそ、プロポーズなんて軽くするなってことになるんだろうね。

「やるよ。俺はちゃんとヒナを支える。支えられるようになる」

「口だけなら何とでも言えるでしょ?」

「やる。俺は、俺にプロポーズされたことを、ヒナに後悔させない男になる」

 おー、かっこいい。でもこの台詞は、カイから聞いたんだよね。「ハル兄さん、カッコ良かったですよ」って。ハルは照れてるのか何なのか、この部分は割愛しちゃうんだもん。まあ、ヒナ本人を前には言い難いか。覚えているなら、いつかその時がきたなら話してくれるでしょう。楽しみに待っています。

 ハルには内緒なんだけど、実はその後、ハルのお母さんからヒナに電話があった。ヒナの携帯に、ハルのお母さんから着信って初めてだったから、物凄くビックリしちゃった。

「ヒナちゃん、ごめんね、ハルが変なことを言って」

「いえ、とんでもないです。私は、嬉しかったです」

 いつになくハルのお母さんの声が沈んでいて、二度目のビックリだった。普段は元気いっぱいで、落ち込むことなんて全然無さそうなのに。なんだか悪いことをしちゃったみたいだ。

「ハルのこと、これからもお願いね」

「はい。至らないこともあると思いますが、こちらこそよろしくお願いいたします」

 その時は、大喧嘩の後だなんて知らなかったから。ああ、ハルもちゃんと話してくれたんだなー、程度にしか思っていなかった。

 ハルは、いつもヒナのことを大事にしてくれる。大切に想ってくれている。

 ハルも、ハルのお母さんも。ヒナのことを真剣に考えてくれているからこそ、衝突を起こしてしまったのだ。ハルが、ヒナのことをちゃんと支えられるって。ハル自身と、ハルのお母さんがそのことを認められるようになったら。

 そうしたら、二人は胸を張って結婚の報告ができるようになる。だから、ハルの家では、まだその話はちょっとお預けかな。

「ところでさ、ヒナちゃん?」

「はい?」

 その後の会話は、輪をかけてハルには秘密だ。

「その、できちゃったから結婚、って話ではないのよね?」

 ううう、なんでみんなそういうこと言うの? ヒナもハルも、真面目にお付き合いしているんだよ?

 ハルのお母さんも、もうちょっと自分の息子のこと、信用してあげてください。ヒナにとって、ハルは自分の人生を預けられるくらい、信頼のおける人なんです。

「ええっと、そういうの、まだなので」

「そうなの?」

 ホント、何の因果でハルのお母さんにこんなこと報告しなきゃいけないんだ。とほほ。




 クラス替えを経て、二年七組になって。

 何が一番変わったかって、お昼ご飯だ。一年生の時は男女合わせて十人っていう大所帯で、教室でお弁当を食べていた。しかも、男子ィの我が儘を聞いて、ヒナはみんなで食べる分のおかずまで用意していた。なんだよ、曙川食堂って。意味が判らない。

 流石にあのメンバーが全員二年七組、っていうことはなかった。だって基本学力ベースなんでしょ? 実はみんな成績はヒナと同じくらいでしたって言われたら、ヒナの方がひっくり返っちゃうよ。どんだけおバカの集団なんだ。

 他のクラスに分かれてしまったみんなは、現在それぞれの環境で新しい人間関係を構築中だ。友達であることには変わりはないんだけど、物理的に教室間の距離があるとどうしてもね。ヒナと部活が同じサユリなんかは、そっちで顔を合わせているし、話もしている。「ヒナがいないと色々つまらない」っていうのは、どう受け取るべきなのかよく判らないお言葉だ。

 二年七組の生徒で、元一年二組のお弁当組だったのは、ヒナと、ハルと、フユ。それから。

「ヒナー、ご飯にしよー」

 ポニーテールに、そばかす顔の元気娘。およめさんクラブ、もとい家庭科部のユマだ。

「ユマ、また学園祭実行委員やるの?」

「当然。今年は委員長にも立候補しようと思ってるよ」

 ユマは去年も学園祭実行委員だった。イベント関係の運営が大好きということだ。一年の学園祭の時には色々あって、ユマとはそれ以来親しい関係になっている。しかし、まさか二年でも同じクラスになるとはね。

「いやー、ヒナとフユがいてくれて良かったよ。一人だったらどうしようかと」

 ホントにね。普段はこんなに明るくて元気な感じだけど、ユマって実は孤独とか一人ぼっちとかに弱そうだ。イベントやらお祭りが好きっていうのは、そういう寂しさの裏返しなのかもしれない。

「私もユマがいてくれて嬉しいよ。私だけだったら、ヒナが朝倉君に取られてションボリだったもん」

「フユは良い子だなぁ。あそこのリア充たちは放っておいて、二人で仲良くしよう?」

 フユが余計なことを言う。もー、別にフユのことを放っておいたりなんかしてないでしょうに。フユとユマは仲が良い。寂しがり同士、気が合うところでもあるのかな。

 ハルは男子の友達と手を振って挨拶している。部活関係とか、新しいクラスでも既に知り合いはできているみたい。お昼ご飯、もしそうしたいなら友達と食べる?、って訊いたら。「ヒナと一緒が良い」って言われてしまった。嬉しけど、あんまりべったりなのもまた生活指導に目を付けられるし。ハルの交友関係を壊さない程度にはしたいんだよね。

 四人で机をくっつけてお弁当を広げていると、廊下の方からがやがやと賑やかな声が聞こえてきた。ああ、やっぱり今日も来たのか。なんだかなぁ。

「曙川食堂は開いてますかぁ?」

「そんなものは無い」

 教室に入ってきたのは、元一年二組でハルの友達の宮下と和田だ。ヒナはじゃがいも1号、じゃがいも2号と呼称している。特にじゃがいも1号宮下、テメーはダメだ。ハルの友達だからお目こぼししているけど、人間的にチャラい。モテようとし過ぎ。それでいて気配りが足りていない。ヒナの中では永世名誉じゃがいもに決定している。お前、一生じゃがいも。

「おー、和田くーん」

 フユはじゃがいも2号とはそこそこ親しい。これが無ければ、こんな奴らとっとと追い返している。後は男女比的に、女子三人の中にハル一人はやや目立つから、あくまで見た目上のバランサーとして、こいつらはここに参加することを許されているのだ。

「高橋は?」

「アイツ付き合い悪くてさー」

 高橋、っていうかさといもは、同じくハルの友達だ。一年二組の頃はお弁当組の一人だった。

 二年生になってから、さといもは吹奏楽部に入部した。元々音楽の経験はあって、パーカッション、打楽器のパートを担当するそうだ。それ以来、さといもはお昼を吹奏楽部の友人と共に過ごしている。というのは建前。ヒナは知っているよ、さといもは今チサトと良い雰囲気なんだ。

 やっぱり元一年二組の、吹奏楽部員でフルート奏者のチサトに、さといも高橋は去年の学園祭の後に告白した。その時は、お友達から、ということで曖昧解決になっていた。そして二年生になって、クラスが分かれてしまったことをきっかけに、さといも高橋は一念発起して吹奏楽部に入ってまでチサトを追いかけていったのだ。やるなぁ、さといも。

「友達の恋路だよ? 応援してあげなよ」

 フユに言われて、じゃがいも1号はうーん、と考え込むフリをした。うん、絶対フリ。こいつ何も考えてないもん。

「俺より先に彼女ができるとか、許せないじゃん?」

「じゃあ朝倉君はどうなっちゃうのよ?」

 じゃがいも1号に目線を向けられて、ハルはあからさまに不愉快そうな表情を浮かべた。ははは、いいぞ、もっとやれ。

「朝倉はなぁ、曙川という女がいながら、めかけまで作ろうとする極悪人だからなぁ」

「宮下、お前な、いい加減にしろ」

 ハルの顔が、不愉快から不機嫌にレベルアップした。あー、その話ね。ハルはあまりしたくないみたいだけど、ヒナとしては俄然興味があるんだ。

「マネージャーのこと? 山嵜さんとかいう?」

「そう、山嵜ハナ。ハナちゃん!」

 キモイな。ハルの方を見ると、お手上げ、という素振りをしていた。じゃがいも2号はハンドボール部じゃないし、全く興味が無いという様子で、フユと昨日観たテレビの話なんかをしている。

「なんだっけ、朝倉君を訪ねてハンドボール部に来たんだっけ?」

 ユマもしっかりと食いついてきた。ごめんね、ハル。ヒナはハルの婚約者だからさ。そんなダイナマイトが転がってるなんて話、無視するわけにはいかないんだよ。


 一年生向けのオリエンテーションの日、ヒナは部活紹介の舞台で散々な目に遭った。ハルとの交際について、まさか生徒会長に釘を刺されるとは思ってもいなかった。ヒナやハルの名前は出していなかったけど、あれって明らかにそういうことだよね。それが余程面白かったのか、水泳部部長のメイコさんまで調子に乗って変なコメントをするし。もう恥ずかしくて死にそうだった。

 そんな理由もあって、ヒナは校庭での勧誘合戦には参加しなかった。これ以上見世物にはなりたくなかったのだ。そうしたら、ヒナ不在のその場所で、事件は起きてしまった。

 人数も少なくて、ほとんど真面目に活動もしていないお遊び部活のハンドボール部に、女子マネージャーが入部した。

 噂はあっという間に広まった。だって、大会参加実績も何も無い運動部に、マネージャーって。しかも可愛い女の子。それはどういうことなのかと、連日ハンドボール部の活動には見学者が押し掛けた。

 ヒナも、水泳部の活動中に屋内プールの大きなガラス窓からその有様を眺めていた。ハルを含めて、せいぜい数人の部員がシュート練習しているところに、ジャージ姿の女の子が掛け声をかけている。そして、それを取り囲む謎の人だかり。誰かスターでも来たのかと思ったよ。実際、なんだか判らずに見ていた人もいるんじゃない?

 ハンドボール部は、数日で部員が元の五倍に膨れ上がった。六人が三十人。物凄い増え方だ。試合もできなかったお遊び部活が、あっという間に部内でフルメンバーの紅白戦まで実施できる人数になった。

 部員が増えて、活気が出て。それは確かに良いことだとは思う。でもそのせいで、ハルが忙しくなっちゃったんだよね。ヒナとしては、部活帰りにハルと一緒になることが全然無くなってしまった、というのが地味に残念だ。薄暗い道を二人で歩くの、結構好きだったのにな。あーあ。

 で、そのくだんのマネージャーさん。山嵜ハナちゃんだっけ?

 この子が、どうもハルに気があるというもっぱらの噂なのだ。何しろ、ハルを訪ねてハンドボール部にやって来たというのだから驚き。一体いつの間に、何処であんな可愛い子をたらしこんだのか。ハルに言わせると、入学式前に学校に来ていた際に、たまたま話をした、って。へぇー、たまたまですか。あっそう。うんめーのめぐりあわせってやつですね、ふーん。

 とりあえず、今のところは明確に山嵜さんからハルに告白などはしていないとのこと。ただ、部活中に見ていれば判るレベルでハルのことを意識しているらしい。ああ、ヒナも見たよ、タオル持ってハルのところに駆け寄って行く姿。ガラス窓叩き割りそうになっちゃったよ、は、は、は。

 あと山嵜さん、友人関係に対しては普通にハル狙いであることを明かしているらしい。女子のそういうネットワークは早いよ。あっという間にヒナの耳にも入ったからね。「ここだけの話」とか「これ内緒なんだけど」って言われたら、脳内で「拡散希望」って変換されてるから注意が必要だ。

「ハル、私のこと話したんでしょ?」

「一応な。付き合ってる人がいるかって訊かれたから」

 一応って何だよ。最初にしっかりお断りしておこうよ。それ、大事なことよ?

 まあそれはさておき、訊かれたんだ。それはそれは。ハル、ちょっと顔が赤いですね。若くて可愛い子にそんなこと言われちゃったら、そりゃあ期待しちゃうよねぇ。ふぅーん。

「そうだよ、朝倉には訊くのに、俺には訊いてくれないんだぜ? おかしくねぇ?」

 ううん、ちっともおかしくない。極めて正常だと思う。だって訊くまでも無いし。

 無意味な茶々は置いといて。ハルに彼女がいると知って、山嵜さんがどうしたかというと。

 別に、何にも変わらなかった。人数の増えたハンドボール部で、普通にマネージャーをやっている。この前はレモンの砂糖漬けとか差し入れてきたらしい。三十人分。そりゃすごい。うん、仕事は真面目なんだね。良い子じゃないか。

 ただ、ハルのことをあきらめてはいないみたいなんだよね。

「一年生の間で話題になってるよ。幼馴染なんかに負けない、健気なハナちゃんって」

 ユマの口調は、すっかり呆れかえっている。まあ、知らない人からすればそうなっちゃうかな。幼馴染であることは事実だし。ただ、それがお手軽な関係であるとは思ってほしくない。ヒナだって、色々あってハルとお付き合いしているんだから。

 二年生の方では、学校で最も有名なカップルであるハルとヒナを応援しよう、などという謎の声が湧き出していた。いや、好きで目立ったわけじゃないよ? 応援だって、別に要求してないからね?

 この前なんて廊下を歩いていたら知らない生徒から突然、「頑張って」とか声をかけられた。政治家じゃないんだから。これじゃ生徒会長にまた嫌味の一つでも言われそうだよ。カオリ先生も今のところは黙っているけど、このままだと絶対呼び出しがあるとヒナは踏んでいる。えー、今回、ヒナは何にも悪くないよう。

「しっかし、なんで朝倉ばっかりモテるんだ。解せぬ」

 じゃがいも1号、あんたまだいたんだ。メシ食ったらもう帰っていいよ。ユマが、ふん、と一つ鼻を鳴らした。

「あのね、あんたがそうやって色んな女の尻を追っかけまわしている間に、他の男はちゃんと一人の女に集中してるのよ」

 そう言って、ちらり、とフユの方を一瞥する。

 おお、フユ、じゃがいも2号と楽しそうだ。っていうか、じゃがいも2号和田が、あんなに表情を見せるのって珍しくない? 普段何考えているのか全く判らないくらいなのに。

 え? ひょっとして、なの?

「うう、ヒナに続いてフユまで取られちゃったら、私はどうすれば・・・」

 ユマの頭を撫でてやる。よしよし。大丈夫だよ。ユマだっておよめさんクラブなんだから、その内リア充の仲間入りできるよ。

「いや、俺はあきらめない。俺は、俺の愛は、一人の女だけでは受け止め切れないんだー」

 黙れじゃがいも。

 ハルはああなっちゃダメだよ。ヒナの愛を受け止められるのは、ハルだけなんだから。よろしくお願いしますね。




 学校の屋内プールは格技棟の上にあって、大きな窓から校庭を見下ろすことができる。水泳部の活動中に、ここからハルの姿を眺めるのがヒナの楽しみの一つだ。

 すぐ近くで、隣にいるハルの顔を見ているのも良いんだけど。でも、ヒナが近くにいると、ハルはどうしても意識してしまうみたいだから。たまには自然なハルっていうのがどんな感じなのかも知りたくなる。こうやって、自分がいない時のハルを観察するのは、なかなか興味深い体験だ。

 部活中、真剣な顔でボールを追いかけているハルはやっぱりかっこいい。中学の時、バスケットボールをやっていたのを思い出す。あの頃は背も低かったし、モテるって印象は無かったのにな。

 明るい色の髪の、ショートボブの女子がハルに声をかけている。山嵜ハナちゃん。ヒナと同じで、ハルのことが好きだとか。銀の鍵を使いそうになって、慌てて思いとどまる。ううん、良くない。こんな力に頼ろうとするのは、自分に自信が無いから。

 ヒナは、ハルの婚約者になったんだよ? もっと自信を持とう。ハルのこと、信じよう。

「何、今更恋する乙女ゴッコ?」

 水も滴るナイスバディ、サユリがヒナの横に並んだ。元一年二組で、今は二年一組の特進クラス。最近は水泳の方も故障が減って調子が良いみたいだし。文武両道、眉目秀麗と、才色兼備で欠点無しだ。

「結婚の約束までして、順風満帆って感じだったのにねぇ」

「いや、考え過ぎなんだとは思うんだよ。私もハルも、気持ちは変わってないんだから」

 二年生になってからも、ハルは今まで通り、ヒナのことを大事にしてくれている。我が儘を言えば聞いてくれるし、甘えさせてくれる。いてほしい時にはちゃんといてくれる。これだけしてもらって、勝手に言い寄ってきているだけの女の子に嫉妬するとか。ヒナは自分でも贅沢だな、とは思う。

「一回ガツンと言ってやったら? 朝倉は私のものです、とか」

「えー、それ言ったら、なんか私すごい嫌な女みたいじゃん」

 山嵜さんとは、まだ一度も直接お話ししたことは無い。顔を合わせて、何を言えば良いのか判らないからだ。

 どうも、ハルの彼女です。

 ハルのことが好きだって判ってる相手にこれって、なんか嫌味臭くないですかね? でもサユリの言うとおり、はっきりとさせておいた方が良いとは思っている。少なくとも、今はヒナがハルの彼女で、恋人で、婚約者なんだ。余計なちょっかいを出すなって、びしっと言い聞かせておくべきかもしれない。

 でもなぁ。ハンドボール部、ようやく人数もそろって、まともな部活になって。口には出さないけど、実はハル、結構嬉しそうなんだよなぁ。こうやって眺めてても判る。気合が入ってる。バスケをやっているハルを思い出すのも、ハルの姿に当時みたいな真剣さを感じるからだ。

 山嵜さんに変なことを言って、ハンドボール部のマネージャーを辞められちゃったりなんかしたら。せっかく増えた部員たちも、つられていなくなっちゃうかもしれない。そうしたら、ハルはがっかりするだろうな。ううう、そう考えると、やっぱり迂闊なことは言えないよなぁ。

「あの、曙川先輩」

 水泳部の一年生女子数名が、ヒナに声をかけてきた。一人を矢面に立てて、何人かが後ろに隠れている。ああー、またか。このパターン、今週でもう三回目くらいだよ。

「曙川先輩って、ハンドボール部の朝倉先輩と付き合ってるって、本当ですか?」

「はい、本当です」

 答えも毎回同じ。そして、その後の反応も同じだ。

 ええー、本当だって。だから言ったじゃん。でもさぁ。え、待って。ひそひそひそひそ。

 はぁ。面倒臭い。

「こら、あんたたち、先輩に向かって失礼でしょ!」

 サユリが大きな声を出すと、一年生たちはその場で気を付けして固まった。ヒナにはこの威厳が無いんだよなぁ。うらやましい。

「余計なこと考える余裕があるなら、百メートル五本、今すぐ!」

 どたばたと一年生たちが去って行く。その背中を見送って、サユリは一つ息を吐いた。

「どう転ぶか判らないけど、やっぱりはっきりさせておくべきだよ」

「うん、そうだね」

 窓の外、ハルの方に視線を向ける。ハルは丁度山嵜さんと何かを話していたが。ふっと、ヒナと目が合った。

 あ、っと思ったけど、校庭からこっちは良く見えないはずだ。そこにいなくても、ハルはヒナのことを意識してくれている。それが判ったから、十分だった。




 部活が終わって、髪を乾かすともう夕暮れ時だ。ヒナは大会とかには出ないエンジョイ勢なので、本来遅くまで残っている必要は無い。とは言っても、一年生がいる手前だらだらとはしていられないんだよね。何しろ、健気で可愛いマネージャーさんと比べられちゃうから。やれやれ。

 少し前なら真っ暗だったし、だいぶ陽が長くなった。ハルが待っててくれて、送って行くよって言ってくれたんだよな。懐かしいな。たかだか数週間前のことが、なんだか遠い昔のようだ。今となってはそんな日々が恋しいよ。ハル、今日も忙しいのかな。

 サユリとか、水泳部の仲間とわいわいしゃべりながら昇降口までやってきた。他の部活の人も沢山いる。今は何処も新入生がいて、だいぶ賑やかだ。

 ハルから何か連絡ないかなって、携帯を見たところで、周囲の空気がざわっと沸き立った。何だろうって顔を上げたら。

「おーい、ヒナ」

 ハルの声。わ、久し振りに一緒に帰れる。どうする? コンビニ寄ってく? それとも少しお散歩しちゃおうか。

 って、一瞬でいろんな思考が脳裏をよぎって。その後、一瞬で全部引っ込んだ。

 ヒナの視界には、ハルの隣にもう一つの人影があって。顔面が凍りついちゃった。ざわめきの理由も理解した。うん、多分ヒナもこういう顔してるんだろうなー、っていう渋い表情。口が「げっ」の形に開いている。それが鏡みたいに目の前に存在していた。

 ハルの隣には、噂のハンドボール部女子マネージャー、山嵜ハナちゃんがいらっしゃった。

 えーっと、どうしたら良いんだろう。この距離で、直接顔を合わせるのは初めてで。心の準備なんて何にもできていない。

 それにしても、随分至近距離で、寄り添うようにして立っているんだね。はぁ、なるほど。普段からこんな感じなら、そりゃ見てれば判るなんて言われるよ。あまりにもあからさまじゃないですか。隠す気ゼロ。っていうか、ハルももうちょっと離れなさいよ。デレデレしちゃって。ハルのバカ、エッチ、スケベ。

「山嵜、彼女が前にも言った曙川ヒナ」

 ハナちゃんを振り切って、ハルが小走りにヒナの方に近付いてきた。耳に顔を寄せて、小さく一言「悪い」って何だよ。聞き返す間もなく、くるっと向き直ると。

 ハルは、ヒナの肩をきゅって抱き寄せた。う、うわ。

「俺が付き合ってる、彼女だ」

 周りから「ひゅー」とか声が上がった。ちょ、サユリまで一緒になって。うう、ハルのバカ。学校でこういうことしないって言ったでしょ。カオリ先生から呼び出し喰らったらどうするんだよ。

 って、今はそれよりハナちゃんか。ハルは多分ハナちゃんに相当言い寄られて、困った末にヒナの姿を見つけたんだね。それでこんなことをしたんだろうけど。

 これはちょっとやり過ぎじゃない?

 ハナちゃんは、最初はぽかん、てこちらの様子を眺めていたんだけど。段々身体中から目に見えない湯気が立ち昇ってくるのが判った。うああ、怒ってる。ヒナ、悪くないよ? ハルが挑発するみたいなやり方するから。ほら、サユリがすごい喜んでる。眼鏡キラキラさせてる。他の生徒たちも、興味津々の眼差しだ。

「え、えーっと、初めまして。山嵜ハナ、さん? 曙川ヒナです」

 とりあえず穏便に。挨拶だけはしておかないと。なんとかいつも通りの声を絞り出した。しかしハルに肩を抱かれた状態で、後は一体何を言えばいいんだ。

「その、ハンドボール部でハルがお世話になってます」

 ふええ、これじゃあやっぱり嫌味だよ。それ以外はヒナのものだ、とかそんな感じしない? いや実際そうなんだけどさ。

「いえ、そんな。私はただ」

 ハナちゃんは震える声でそれだけ言うと、そのままうつむいてしまった。まずい。ハルの顔を見ると、ハルも困ったという表情。もー、後先考えて行動してよ。ヒナだってフォローしきれないよ、これ。

「私は、朝倉先輩のこと」

 拳を握りしめて。ハナちゃんは顔を上げた。強い。ヒナはどきっとした。この子は、すごく強い。

 目の前で、ハルがヒナのところに行ってしまって。二人の仲を見せつけられて。

 それでも、ハナちゃんはくじけていない。強い気持ちを、想いを持ち続けている。

 すごいな。正直、ちょっと感心した。このくらい真っ直ぐで、強い気持ちなら。ヒナも、負けないよって、正面から向き合ってあげたくなる。いいじゃん。そう来なくちゃ。

「ハルのこと、好きなの?」

 ハナちゃんの眉が、ぴくって動いた。ギャラリーが、おおって声を上げる。ハルが、何言ってんだお前って顔をする。

 ヒナはね、ハルのことが好きなの。誰より何よりも、ハルのことが好きなの。その気持ちは、誰にも負けてないって思ってる。

 ハナちゃんがどのくらいハルのことを好きなのか。聞かせてもらおうじゃない。ヒナは負けないよ。

 ヒナは、ハルのことが好き。

 その時。


 ハナちゃんの右眼が、ぎらり、と赤く輝いた。


「あ」

 何だ、今の。そう考える間もなく、ハナちゃんの目がヒナを射すくめた。これ、普通じゃない。慌てて左掌に意識を集中する。銀の鍵。どんな力だって、この鍵には逆らえないはず。

 ハナちゃんの心を覗こうとして、ヒナは初めての感覚に襲われた。ノイズ? ハナちゃんの中は、ぐちゃぐちゃだ。画も、音も、感覚も。全てが不確かで、ちゃんとした形を持っていない。これってひょっとして。

「曙川先輩、先輩は、そんな力を持っているんですね」

 ぞっとするような、冷たい声。ハナちゃんの右眼は、赤い光をたたえたままだ。他の誰にも、その光は見えていない。ヒナだけが、ハナちゃんの異常な力に気が付いている。

「山嵜さん、それ、何なの?」

「そんな力で、朝倉先輩の心を縛ってるんですね」

 ヒナの心臓が、大きく撥ねた。

「山嵜さん、待って!」

 止めようとしたが、遅かった。ハナちゃんは後ろも見ずに走り出していた。追いかけようとして。

 ヒナは、その場に座り込んでしまった。

 ハナちゃんには、見えるんだ。銀の鍵が。

 判るんだ。これが、どういうものなのか。

 この力で、ヒナがハルをいいように操っているって。

 ・・・そう、思ったんだ。

 身体が震えて。ヒナは何も考えられなくなった。遠くで、ハルの声が聞こえる。ハル、助けて、ハル。

 ヒナは、ハルのこと好きだよ。銀の鍵なんて、いらない。心なんて読みたくない。

 ハルのこと、普通に好きでいたい。好かれたい。ヒナは、自分の力だけでハルと結ばれたんだ。

 ねえ、そうだよね? ハル。

 ハル。




 部屋のベッドに寝転がって、天井を見上げる。頭の中がまだ整理できていない。考えをまとめようとしても、うまくいかなかった。もう少し時間が必要なのか。

「真実の魔眼だ」

 ナシュトはハナちゃんの右眼をそう呼んだ。

「隠された真実を見抜き、仮初かりそめの嘘を暴く。使い主の心を暗号によって秘匿する。強い力だ」

 ハナちゃんが何故その力を持っているのかは判らない。しかし、事実ヒナはハナちゃんに銀の鍵のことを知られたし、心を読もうとして失敗した。

「時間をかけて暗号を解けば心は読める。だが、あの魔眼相手はだいぶ手こずるだろう」

 念のため、フユにも電話でハナちゃんについて話をした。フユもかなり驚いた様子だった。

「真実の魔眼か。また厄介だね」

 過去に色々な修羅場をくぐってきたことのあるフユでも、初めての相手だということだ。銀の鍵を防ぐほどの力。そう簡単に手に入るものでは無いし。出くわすこともまれらしい。

「学校の後輩だし、喧嘩するわけにもいかないよね。対応はゆっくり考えようよ」

「でも」

「ヒナ、今は休みな。声が震えてる。落ち着いてから、ね」

 フユに言われて、ヒナはまだ自分が震えていることに気が付いた。

 恐れていたことが、現実になってしまった。銀の鍵のことを、誰かに知られて。

 ハルの気持ちを、それで手に入れたと。そう思われてしまった。

 帰り道で、ハルはずっとヒナのことを心配してくれていた。ハナちゃんと会わせてしまったこと、ハナちゃんの前でヒナの肩を抱いてしまったこと。それが原因であると考えたのだろう。ハルは何度も「ごめん」と謝ってきた。

 ハルのせいではない。突き詰めれば、全てはヒナのせいだ。銀の鍵。この気持ちの悪い力を手に入れてしまったせい。

 気にしないで、と言いながらも。ヒナは、ハルの顔を見ることができなかった。胸を張って、ハルの心を覗いたことが無いって、言い切れれば良いのに。正々堂々と、何の力にも頼らずにハルと結ばれたって断言できれば良いのに。

「考えすぎだよ。ヒナはちゃんと自分の力で朝倉君の気持ちを手に入れたんだ」

 フユはそう言って元気付けてくれた。フユも、同じ銀の鍵を持つ者だ。誰かを好きになった時、同じ悩みを持つかもしれない。誰かを操っていないと、自分に都合の良い未来を作り出していないと。自信を持って言えないかもしれない。

「ハナちゃんと、しっかりと話をしてごらんよ。彼女は真実を見れるんでしょう? なら、きっと通じるよ」

 山嵜ハナちゃん。ハナちゃんも、ハルのことが好き。彼女なりに真面目で、一生懸命に好きなんだと思う。ヒナは、ハナちゃんの気持ち、悪くないって思うんだ。

 最近のハル、カッコいいもんね。ハルに憧れてハンドボール部へ。いいなぁ。ヒナも水泳部に入るの、少し早まったかもしれない。うー、じゃがいも1号がヘンなこと言わなければ良かったんだ。

 だから、なおさら許せなかったんだと思う。ヒナが、こんな力を持っているということを。そりゃあ、疑うよね。銀の鍵を持つ者なんて、本来なら欲望の塊でしかないんだから。

 そうだね、一度ちゃんと話をしてみたいかな。ヒナのこと、ハルのこと、ハナちゃんのこと。友達になるのは難しくても、ライバルにはなれるかな。ヒナ、ここまでは無双だったからね、ははは。

 はぁ。

 フユとの通話を切ったら、すぐにハルから着信があった。おおっと、ヒナ、大人気だ。

「ん、ハル? なになに?」

 なるべく明るい声で。ハルにはいっぱい気を使わせちゃった。ごめんね。

「ヒナ、今日のことだけどさ」

 ハルは沈んだ調子。もう、元気付けるならちょっとは楽しそうにしてよ。

「やっぱり俺が悪かった。もっと早く、山嵜には説明しておくべきだった」

「そうかなぁ」

 うーん、ヒナはそうは思わないかな。

「ハナちゃんは、そのくらいじゃあきらめなかったよ。あの子は、きっと真剣にハルのことが好きなんだ」

「いや、そうなのか?」

 ふふ。

「そうだよ、きっと」

 ハル、モテるなぁ。自慢の彼氏だ。

「そうだとしても、俺には、ヒナだけだから」

 わ。わわ。

 ちょっと。

「ありがとう、ハル。大好きだよ」

「俺も、ヒナのことが好きだ。俺はヒナのことが好きだ。それだけ、ちゃんと伝えたかった」

 いつでもそう。

 ハルは、ヒナがこうしてほしいって思うことを、ちゃんと形にしてくれる。態度や、言葉に表してくれる。だから、大好き。ヒナは、ハルのことが好き。

「ハルは偉いなぁ」

「なんだよそれ。偉くなんかないよ。今日だってヒナを悲しませて」

「偉い偉い。それを自分で認められるのは、偉いよ」

 本当に、ハルは偉い。モテるのも納得。

「だから、ハナちゃんに冷たくしないであげて。お願い」

 少しだけ、沈黙があった。ハルはしばらく無言で悩んで、それから。

「わかった。ヒナがそう言うなら」

「うん、よろしくね」

 これでいい。

 ハナちゃん、ヒナは正々堂々と勝負するよ。負けるつもりなんてないし、周回でリードしている感じだけど。

 ズルは無し。ハナちゃんの想いが、ハルに届くかどうか。

 それは、ハナちゃん次第だ。




 電気を消した部屋の中。ベッドの上で、毛布の中に潜り込む。ううう、なんなんだ。今日は本当になんなんだ。

 曙川ヒナ先輩。実際に会うまでは、幼馴染なんてどうせ腐れ縁なだけでしょ、って甘く見てた。

 そしたら、あのオリエンテーションの日に見たふんわりした子だった。青春って、そういうことか。くあー、やられた。チクショウ、滅茶苦茶可愛いじゃん。

 なんかほわっとしててさ。触ったらフニってしてそうで、髪まで柔らかそうでさ。それでいておデブって感じでもないし。そりゃ朝倉先輩じゃなくても、きゅってしたくなるよ。目とかくりっとしてて、優しそうで。でも何処か強い芯がありそうで。

 うん、何か秘密めいてて。

 ・・・隠し事、してそうな。

 曙川先輩の左掌には、銀色の光が見えた。興奮してくると、ハナは魔眼を抑えきれなくなる。それで見えてしまった。曙川先輩の、秘密。強い力、銀の鍵。人の心を、読んで、操る。なんだ、それ。

 いやいや、反則でしょう。曙川先輩は色んな人に愛されてて、朝倉先輩とも付き合っていて。学校中に知られてるくらいアツアツのカップルでって。それって、全部銀の鍵を使ってそうなってるってこと?

 とんでもない話だ。嘘つき。ズルして、学校のアイドルにでもなったつもりなのか。許せない。

 なにより、朝倉先輩。朝倉先輩は、ハナが何を言っても曙川先輩の名前を出して逃げる。ハナ、一生懸命なのに。

 練習の時、いつも朝倉先輩のこと応援しているよ?

 休憩の時、一番最初に朝倉先輩にタオル持って行くよ?

 スポーツドリンクも、レモンの砂糖漬けも、みんな朝倉先輩のためだよ?

 ハナ、頑張ってる。頑張って、朝倉先輩のために色んなことをしている。

 朝倉先輩のこと、好きだもん。朝倉先輩は、優しくて、かっこよくて。部活のみんなのことを考えてくれて。宮下先輩なんてどうしようもないのに、朝倉先輩はいつだって真面目で。

 ハナのことも、ちゃんと考えてくれる。「いつもありがとう」って言ってくれるの、朝倉先輩だけだもん。

 ハナは、朝倉先輩のことが好き。幼馴染なんかに、銀の鍵でズルしている曙川ヒナなんかに、負けない。

 真実の魔眼。ハナは嘘が大嫌いなんだ。この力は、ハナに本当のことを教えてくれる。お兄ちゃんが、ハナのために見つけてくれた力。近くにいなくても、この力があれば、ハナはお兄ちゃんと一緒。負けるもんかって、思えてくる。

 多分、曙川先輩は学校中を味方に付けている。銀の鍵で、みんなの心を操っている。なんて悪いヤツだ。

 そうか、だからみんな「朝倉先輩は無理だよ」とか言ってきたんだ。銀の鍵で操られて、ハナの邪魔をしてたんだ。

 朝倉先輩も、きっと曙川先輩の力のせいで、無理矢理彼氏にさせられて。ううう、可哀相な朝倉先輩。あんな女にいいようにされているなんて。朝倉先輩みたいないい人を、よくも。

 ・・・でも曙川先輩って、普通に可愛いよな。

 いやいや、待て待て。それが罠なんだ。あんな可愛い系の女子高生のフリして、中身は狡猾な悪魔なんだ。心をもてあそぶ魔女なんだ。そうじゃなきゃ、おかしいでしょ。そうなの。そうなんだ。

 人の心を操るって、考えてみればすごい力だ。ハナには効かないみたいだけど、ヘタすれば周りがみんな敵ってことになりかねない。影響力半端ないよね。

 頼れるのは自分自身。この、真実の魔眼だけだ。お兄ちゃん、ハナはやるよ。怖くてずっと避けてきたけど、今はこの力だけが頼りだ。ハナに勇気をください。

 ハナは、学校を意のままに操る巨悪、曙川ヒナを倒します。

「ハナー、ご飯だよー」

 お母さんの声がした。緊張感の欠片も無い。

「うー、まだ後で良いー」

 もう、どうしてお母さんはいつもいつもタイミングが悪いんだ。ハナは明日から始まる大いなる戦いのために、気合を入れてる真っ最中だったのに。

「今日は生姜焼きだよー」

 生姜焼き。

 口の中によだれがたまってくる。あったかい生姜ダレに、甘い豚肉と脂。それが真っ白いご飯の上に乗っかって。

「い、今行くー」

 慌てて毛布を跳ねのけて、部屋から飛び出していく。

 チクショウ、曙川ヒナめ。

 生姜焼きには勝てなかったよ。




 休み時間のチャイムが鳴った。はぁ、授業なんて全然頭に入ってこない。普段からちんぷんかんぷんな数学が、もう完璧に意味不明。しかもこんな日に限って当てられるし。堂々と「解りません」って言ったら怒られちゃったよ。正直者は馬鹿を見るね。

 朝は、いつものようにハルと二人で登校した。去年からずっと続いている習慣で、まだみんながいない早い時間に通学路の途中のコンビニで待ち合わせる。目立たず、二人きりでいる時間を作る一工夫。ヒナとハルの、蜂蜜タイムだ。

 だったんだけどさ。

 やられたよ。一年生女子の一部が、それを嗅ぎつけたらしい。物陰からこそこそと覗き見されているのがすぐに判った。なんだろうね、あれ。明らかにバレてるのに、どういうつもりなんだか。

「困ったやつらだな」

 ハルもご機嫌斜めだった。昨日の今日だもんね。ハルは、ヒナにちょっと甘えさせてくれるつもりだったみたい。優しい彼氏だなぁ。うん、その気持ちだけで十分。ハルといちゃいちゃするのは、後のお楽しみにとっておこう。

 学校に着いてからも、なんか色々。噂っていうのはあっという間に広まるものだ。ヒナがハナちゃんと直接やり合ったって、教室でも持ちきりだった。

「やー、こうなっちゃうとどうしようもないよね」

 フユもお手上げ、という様子だった。ユマにも気の毒そうな顔されちゃったよ。まぁ、二年生はヒナとハルのことを良く知ってるからね。そこまで酷い誤解というのは無さそうかな。

 問題は一年生。ヒナがハナちゃんを泣かせたって、まあ客観的に見ればそうなのかもしれないけどさぁ。そこに尾ひれがついてどんどん酷いことになっていく。勘弁してほしい。

 ハナちゃん、人気があるんだね。一年生はみんなハナちゃんの味方だった。良い子なんだと思う。ハナちゃんのことを応援しているっていう女子が、今朝は四組やって来た。いつもなら面倒臭いし、適当に追い返しちゃうところなんだけど。

 でも、今日は違う。ヒナは、やってきた一年生全員からきちんと話を聞いて、丁寧に説明した。ヒナとハルは、幼馴染だけど、ちゃんとお互いに好き合って交際している。ハナちゃんがハルのことを好きなのは、それはハナちゃんの自由だし、ヒナはそれを邪魔したりはしない。傷付けるつもりもない。同じ人を好き同士、解り合えれば良いと思っている。

 ハナちゃんに対抗するには、これしかない。銀の鍵を使わずに、素直に胸の内を明かす。それを広めていく。ヒナはこの力を使わないって、態度で示す。ハナちゃんの真実の魔眼なら、こちらの意図を判ってくれるはずだ。

 ヒナは、ハナちゃんの敵じゃない。

「時間かかりそうだけど、しょうがないよね」

 消極的ながら、フユも賛成してくれた。うん、ヒナはできる限り喧嘩なんてしたくないんだよ。特に、この力を使ってやり合うのは、気乗りしない。しかも相手がそれなりの力を持っているとなると、加減が難しくなる。ヒナの方には、人間の都合をあまり考えてくれないダメ神様もついているからね。下手に暴走なんかされちゃったら大変だ。

 ということで、長期戦の構えでいるつもりだった。


 結果はすぐにやって来た。というより、その日の中休み。二時間目終了と同時だから、早いというかフライングだ。

 二年七組の教室に、ハナちゃんが訪ねてきた。

「あ、曙川ヒナさんはいますか?」

 がっちがちに緊張している。うん、ただでさえ二年生の教室に来るのは勇気がいるよね。その上、ハナちゃんは現在完全にアウェーの状態だ。ここに辿り着いただけでも見上げた根性だと思う。偉い。

「ヒナー、泥棒猫が来たよー」

 取り次いだクラスメイトの性格がまた悪かった。ハナちゃんは、ぴやって顔して真っ赤になった。あ、誰かと思ったらユマじゃん。ちょっと可哀想でしょ。後輩には親切に、ね。

 ハルが立ち上がったけど、ヒナはそれを手で制した。まあまあ。ハナちゃんはヒナに話があるんだから。お話しさせてよ。大丈夫だからさ。

「あ、曙川先輩」

「こんにちは、山嵜さん。昨日はごめんね」

「い、いえ。こちらこそすいませんでした」

 最初は目線を外していたハナちゃんだったが。

 キッと顔を上げると、もう右眼は真紅に輝いていた。そうか、もう始まっているんだ。判った。ヒナは、ハナちゃんに全部開くよ。ヒナの中、ハナちゃんに見せてあげる。

「ハナちゃんと色々お話したいと思ってるんだけど、どうしようか」

「わ、私も曙川先輩にお話があります。今日のお昼休み、お時間いただけますでしょうか?」

「いいよ、わかった」

 ヒナはにっこりと笑って、快く了承した。

「場所はどうしようか? 多分、お互いに聞かれたくない話があるよね?」

「ええっと、そうですね。誰も来ないトコロとかあれば良いんですけど」

 あー、そういえば心当たりがあるなぁ。第二体育倉庫。去年、ちょっとした出来事があって、そこで一悶着あったっけ。まさかこんなことで役に立つとは思わなかったよ。

「第二体育倉庫で良いかな。場所、判る?」

 ハナちゃんにそっと耳打ちすると、ハナちゃんはこっくりとうなずいた。うん、じゃあ、続きはそこで。

「あ、でも」

 席に戻ろうとしたヒナの後ろで、ハナちゃんが大きな声を出した。なんだろうと思って振り向くと。

 ハナちゃんは、悔しさと恥ずかしさで、どうにかなってしまいそうなくらい顔をゆがませて。

「ご、ご飯食べてからが良いので、昼休み始まって十五分後で良いですか?」

 そうだね、お腹すくもんね。

「うん。そうしてくれると私も助かる」

 やっぱり、悪い子じゃないんだよな。むしろとっても可愛い。解り合えさえすれば、ヒナはハナちゃんのこと、好きになれそうな気がするのにな。




 お昼休みになるのと同時に、ハナはお弁当をかき込んだ。ルカが「消化に悪いよ」って言ってきたけど、仕方が無い。十五分後には、戦いが始まるんだ。これは最後の晩餐かもしれない。「晩餐は晩御飯だよ」じゃあヒルサン?

 なんでもいいの。もっしゃもっしゃとからあげをかみ砕く。あ、今日のやつちょっと美味しい。お母さん漬けダレ替えた?

 じゃなくって。あー、もう、どうしてシリアスになりきれないかなぁ。

 理由は判ってる。曙川先輩が、想像以上に優しいからだ。銀の鍵を使って、みんなの心をいじっている大悪党のはずなのに。さっきハナと向き合った曙川先輩は、嫌味なところなんて何も無かった。ハナのこと、バカにしている様子も無かった。

 ハナ、なんだかこんがらがって来ちゃったよ。

 今日は朝から、何人かから「曙川先輩とお話ししてみなよ」って言われた。きっと曙川先輩が銀の鍵で操っているんだ。そう思って真実の魔眼を使ったけど、そんなことは全然無かった。真実の魔眼は騙せない。ハナの心も、誤魔化すことはできない。曙川先輩は、本当にその人たちと普通に話をしただけだ。朝倉先輩のことが好きで、お付き合いしてて。ハナとも、解り合いたいって。

 そう、なのかな。

 それとも、ハナにも判らない、すごくズルい手段を使っているのかな。

 判らないことを考えても仕方ない。それはこれから、直接曙川先輩に訊けば良い。真実の魔眼があれば、少なくとも曙川先輩の目論見ぐらいは知れるだろう。

 その後、ハナが無事かどうかは別問題だけどね。

 第二体育倉庫、ちょっと探しちゃったけど、場所は判った。なるほど、ここなら人目にはつかない。五分前に辿り着いて、先に中で待つ。罠とか仕掛けられていたら嫌だからね。今日は最初から、真実の魔眼全開だ。こんなことは久し振り、ううん、初めてかもしれない。

 曙川ヒナ先輩。

 あなたは、何者なんですか。その銀の鍵で、何を企んでいるんですか。

 朝倉先輩のこと、好きだって。

 ハナだって、朝倉先輩のこと、好きなんです。大好きなんです。幼馴染に比べれば、一緒にいた時間は確かに少ないかもしれない。それでも。

 ハナの気持ちだって、嘘じゃないもん。好きなのは、本当だもん。ハナは、朝倉先輩のことが好き。

 負けない。

 ハナは、負けない。

 絶対に、負けないんだ。

 どんな嘘だって見逃さない。

 どんな小さなごまかしだって見落とさない。

 ハナは、人の心を読む魔性の女、曙川先輩なんかに、負けはしないんだ。



 約一年ぶりの第二体育倉庫の中は、相変わらずホコリとカビの臭いが充満していた。大きな台車の上に、折り畳まれたパイプ椅子が大量に収納されている。入学式の時に並べられていたものだ。そういえば結局これを出すのは男子の仕事だった。だから、こんなことがなければ、もう二度とこの場所に足を踏み入れることなんて無かったんだろうな。

 暗闇の中に、真紅の輝き。ハナちゃん、やっぱり先に来ていた。警戒するよね。罠なんかないよ。ヒナは学校の中でそんな物騒なことをしようなんて思わないよ。考えすぎ。

「お待たせ、山嵜さん」

「いえ、私が勝手に早く来ただけですので」

 ハナちゃんの声は堅い。緊張している。うーん、もうちょっと砕けた感じになってほしいんだけどな。

「えーっと、あんまり固くならないで。私は、山嵜さんとお話ししたいだけだから」

 ヒナの言葉を聞いて、ハナちゃんの表情が少し崩れた。うん、嘘は言ってないもんね。じゃあ、正直ベースで始めようか。

「ハナちゃんの力、真実の魔眼でしょう? その力の前で、嘘なんて意味がないって判ってるから」

「やっぱり、判るんですね」

「うん。あんまり嬉しくないんだけどね」

 あははって笑う。ハナちゃんがまた動揺する。多分、ハナちゃんの中では、ヒナは大悪党なんだと思う。色んな人を、自分の意のままに操って、好き勝手な人生を送るズルい女。銀の鍵なんて、そう思われても仕方がない。

「曙川先輩。じゃあ、私のこと、信じさせてください」

「うん、いいよ。なんでも聞いて」

 真実の魔眼が、ヒナに向けられる。正念場だ。ヒナ、覚悟はできた?

 ハナちゃんに、何一つ包み隠すことなく、自分のことを話せる?

 しっかりね。

「じゃあ、聞かせてください。曙川先輩のこと」

 苦しいことや、悲しいこともある。

 でも。

 ハナちゃんに誤解されたままでいるのは、きっともっとつらいから。


「朝倉先輩に、その力を使ったことはありますか?」

 いきなり核心か。ヒナの胸に、氷の刃が突き刺さる。

 思い出すのも嫌だけど。でも。

「あるよ。一度だけ」

 ハナちゃんが息を飲んだ。本当のことだからね。ヒナは今、ハナちゃんに全部開いている。嘘も、ごまかしも無しだ。

「中学の時よ。その頃は、私はまだハルとお付き合いはしていなかったの」

 中学に入って。銀の鍵を手に入れて。

 ヒナは、その力に振り回されていた。

 人の心の中は、悪意ばかりで埋め尽くされていた。他人を出し抜くこと、傷つけること、汚すこと。表面上ではいい人や、親切な顔を浮かべていたとしても。その中身はどろどろで、自分に都合のいいことばかり妄想していた。

 人の心が読めるなんて、気持ち悪い。心が操れるなんて、気色が悪い。ヒナは、銀の鍵が大っ嫌いだった。大好きなハルに、そんな力があるなんて思われたくもなかった。こんな力なんかに頼らずに、どうしても、自分の力だけでハルの気持ちを手に入れたかった。それなのに。

 ヒナは、我慢できなかった。誰もがみんな、自分勝手な想いを持っている。優しい顔をして、その裏では相手のことを好き放題でぼろぼろにおとしめて喜んでいる。

 ハルは、昔からヒナのことを大切にしてくれる。中学に入って少し疎遠になってしまってはいるけれど。ハルは、ヒナを気にかけてくれている。そんなハルの、ヒナへの想いは。

 ・・・その想いは、本当はどういうものなんだろう?

 ヒナは、ハルのことが好き。

 ハルになら、何をされてもいい。ヒナは、ハルのこと、好きだもん。ハルはヒナに何を望んでいるの? どうしたい? 好きにしたい? 汚したい?

 そんな、捨て鉢な気持ちで。

「私は、一度だけ、ハルの心を覗いたことがあるわ」

 その結果は。

「朝倉先輩は、曙川先輩のことを、どう思っていたんですか?」

「聞きたい?」

 ハナちゃんはしばらく押し黙って。

 赤い光が、少しの間だけ消えて。

「ごめんなさい。聞かせてほしいです」

 もう一度、真実の魔眼が向けられた。

「わかった。いいよ」

 その結果は。

「とても、みじめだった」

 ハルの中で、ヒナは。

 笑っていた。

 幸せそうに笑って、ハルと並んで、手をつないでいた。

 ハルがヒナに望んでいたのは、そんな優しい未来だった。ただ一緒にいて、傍にいて、笑っていてほしいって。

 後悔した。悔しかった。ハルのことを信じられなかった自分が、とてつもなく愚かに感じられた。

「私の、たった一度の過ち」

 ハルには、銀の鍵の力を使ったことが無い。

 ヒナは、胸を張ってそう言うことが、できなくなってしまった。しかも、ハルの気持ちは、真っ直ぐにヒナの方を向いていたのに。こんなに大切に思っていてくれたのに。

 二人の関係を汚してしまったのは、他でもない、ヒナ自身だった。

「私はもう、ハルに銀の鍵の力は使わない。ううん、他の誰にも、できる限りこの力は使いたくないの」

 便利に使ってしまうことが、無いとは言わない。

 でも。

 ヒナに告白して、交際を始めてくれたハル。高校に入って、色々なことを話して、友達になってくれた人たち。

 そんな、ヒナにとって大切な人の中を覗こうだなんて思わないし。

 自分の意のままに操ろうだなんて、思わない。

「私はこの力、銀の鍵を、ちょっと前までは、さっさと捨てたいって思ってたんだ」

 鍵を手に入れた当初、ヒナはどうにかして、この汚い世界を変えたいと思った。銀の鍵があれば、できるんじゃないかと考えた。しかし、ヒナひとりの力、中学生ひとりの頭で思いつくことには、限界があった。

 銀の鍵の力は直接的だ。誰かの心を、その意思に反して書き換えることになる。それは結局、書き換えたヒナのエゴを押し付ける以上のことにはならなかった。ヒナが無理矢理みんなを操って作り出した世界というのは、詰まる所は、ヒナの自分勝手な妄想の体現にしかならないのだ。

 ヒナは、一度は全てをあきらめた。銀の鍵なんて、こんな気持ちの悪い力なんて。もうどうにかして捨ててしまおうと思っていた。

 だが、後にヒナはナシュトに、そして、魔法使いを名乗る世界の善意を信じる者に、こう教えられた。

 銀の鍵は純然たる力。その向きは、使う者の意思でいかようにも変えられる。

 この力は、ただ自分の我が儘を押し通すだけではない。他人を、自分ではない誰かを正しく助けるためにも使うことができる。

 今はまだ、それを学んでいる最中だ。うまく使えているとは言い難い。それでも。

「私は信じてる。銀の鍵だって、人を救う力になれるって」


 真っ赤な光が、暗闇の中に浮かんでいる。真実の魔眼に、ヒナの言葉はどう映っただろう。ヒナは、ちゃんと自分の心を開けていただろうか。

 ヒナの想いは、ハナちゃんに通じただろうか。

 また少しの沈黙の後で。

「じゃあ、今度は朝倉先輩のことを聞かせてください」

 ハナちゃんの声は、ちょっとだけ柔らかくなっていた。

 ヒナのこと、少しは信じてくれたのかな。ありがとう。

「うん、何が聞きたい?」

「朝倉先輩と、曙川先輩の出会い、ですかね?」

 うーん、それは難しい。

「えーっとね、正直に言って、ハルと初めて会った時って、覚えてないんだ」

 ヒナとハルはかなり古い幼馴染だ。幼稚園の年少組の頃から一緒にいる。最初っていつのことなのか、見当もつかないし、記憶してもいない。気が付いたらハルはいたし、ヒナと遊んだり、かばってくれたり、泣いているところに駆けつけてくれたりしていた。多分、その当時の話はヒナよりもハルの方が詳しいんじゃないかな。この前死ぬほど恥ずかしい思い出話をされて、全力で否定したばっかりだ。ヒナ、そんな昔にハルと結婚なんて言ってないよ、多分。

「じゃあ、いつから朝倉先輩のこと、好きだったんですか? それも覚えていないんですか?」

「ああ、それならはっきりしてるよ」

 忘れない。忘れるわけがない。

 ヒナとハルが小学校三年生の時。その日は学校の展覧会で、朝から雨が降っていた。

 ヒナには弟のシュウが産まれたばかりだった。お父さんは当時から海外出張で留守がちだし。お母さんはシュウの世話ばっかりで、展覧会にも来てくれなかった。甘えん坊のヒナは、自分の居場所が無くなってしまったって思って。

 自転車で独りきり、雨の中、家出した。

 誰もいない河川敷で、ヒナは急な土手から転げ落ちて。けがをして、動けなくなった。他に人気ひとけは全くなくて。ヒナは大声で泣き叫んだんだけど、大人は誰も助けに来てくれなかった。

 もう駄目だって。ヒナは、一人ぼっちなんだって思った時に。

「ハルが、助けに来てくれたんだ」

 ハルにも、弟がいる。カイって名前。弟に親が取られちゃうかもしれない気持ちっていうのを、ハルは察してくれていたみたい。雨の中、胸騒ぎがしてヒナを探しに来てくれていた。そして、実際にヒナのことを見つけて、助けてくれた。

 動けないヒナを、ハルはおんぶして運んでくれた。土手を上って、ハルの家まで運んでくれた。

 その時だよ。

 ハルの背中の暖かさと。自分の心臓の鼓動。

 それが一つになって、ヒナは、ハルに恋をした。好きになった。

 ハルになら、ヒナは何もかもを預けられるって思った。ハルは、ヒナのことを見捨てない。ヒナのことをいつだって、探してくれるし、見つけてくれる。そして、わかってくれる。

 それから、ずっと。ヒナは、ハルのことが好き。

 大事なことだから、何度でも言うよ。ヒナは、ハルのことが好き。大好きなんだ。

「ハルの方は、もうちょっと前から私のことが好きだったみたいなんだけどね」

 ヒナも、嫌いではなかった。ただ、友だちとしての好きというか。一緒にいて心地よい相手、という程度の認識だった。

「でも、お互いに強く異性として意識したのは、あの雨の日なんだ。私は確かにそうだし、ハルからもそうだって聞いてる」

 ハルのお母さんに、車に乗せられて病院に行くまでの間。ヒナは、ずっとハルの手を握っていた。ハルのことを、離したくなかった。ヒナは、ハルに全てを任せようって思っていた。

 ハルは、雨の中でヒナを見つけて、背中に負ぶった時から。一生、ヒナのことを背負っていこうと決めたらしい。ヒナを泣かせない、大事にしたいって。自分の手で、ヒナを守っていきたいって。

 二人の想いは、あの日、あの時に産まれた。

「これが、ハルとヒナだよ」

 他にも、色々あるといえば色々ある。

 でも、二人のなれ初めと言われれば、この話だ。

 ずっと好きで。好き同士で。中学の時は、お互いに変に意識して疎遠になっちゃってた時期もあったけど。

 高校に入って、女の子になったヒナを、誰かに取られたくないって気持ちから、ハルが告白して。

 初めてのキスをして。

 ハチャメチャな学園祭で学校イチ有名なカップルになって。

 バレンタインに、気持ちを確かめ合って。

 これからも、ずっと一緒にいようねって。

 結婚の約束までした。

 これが。

「私とハル。嘘偽うそいつわりのない、二人の歴史なんだ」



 ハナの力。真実の魔眼。

 この力の前では、全ての嘘は暴かれる。ハナに嘘をつくことはできない。どんな小さなごまかしも、ハナには通用しない。

 ハナは、嘘が大嫌いだ。だから、お兄ちゃんとこの力を手に入れた。もう騙されたくないって思ったから。

 そうしたら、世の中は嘘ばっかりだった。世界は嘘でできている。本当のことなんて、数えるくらいしかない。ハナは、世界に絶望した。お兄ちゃんだけが、ハナに嘘をつかない。ハナのこと、大事な妹だよって言ってくれる。

 嘘にも種類がある。それくらい、ハナにも判る。優しい嘘、傷つけないための嘘。でも、それが嘘だって知れてしまうのは、ちょっと残酷。みんな、沢山の嘘に囲まれて生きている。

 だから、ハナは真実の魔眼を封印した。使わないように努力した。嘘をつくのは、仕方がないんだ。みんなそうして生きている。自分をごまかすために、小さな嘘をつき続けている。

 ハナがこの力を使うのは、ハナを騙そうとする相手に対してだけ。ズルをして、悪いことをしようとしている人。ハナは、そういう嘘が嫌い。大嫌い。

 曙川ヒナ先輩。

 人の心を読み、人の心を操る、銀の鍵を持つ人。

 その力で、ハナの好きな朝倉先輩を彼氏にして。学校の人気者になって。我が物顔で君臨しているって。

 そう思ってたのに。

「ズルいですよ、曙川先輩」

 真実の魔眼の力は絶対だ。今まで、見抜けなかった嘘なんてない。つまり。

「銀の鍵なんて、そんな強い力を持っているのに」

 ぽろぽろって、涙が出てきた。ハナは、なんで泣いているんだろう。ああ、そうか。

「いくらでも悪いことをして、ごまかすことができるのに」

 ハナは、曙川ヒナ先輩に。


「どうして、嘘をつかないんですか!」


 負けちゃったんだ。



「曙川さん、山嵜さん」

 曙川先輩の後ろ、第二体育倉庫の入り口に誰かが立った。白衣を着た、女の人。ええっと、美作先生、だったかな。続けて、何人かの生徒が顔をのぞかせた。

 ああ、ルカ。ごめん、心配かけちゃったね。大丈夫、曙川先輩は。

 いい人、だった。

 他の人は、二年生かな。手足が細くて、ぽっきり折れちゃいそうな女の子。髪、長くて綺麗だな。あれ? 左掌が、光ってる。

 ハナの方を見て、その人は優しく微笑んだ。曙川先輩に似ている。そして、多分同じ力。「大丈夫、私も味方だよ」頭の中で声が響いた。びっくりして何も考えられない。

「山嵜、大丈夫か?」

 だから、急に目の前に朝倉先輩の顔が出てきて心臓が止まるかと思った。あ、朝倉先輩、どうしてここに? って、そうか、曙川先輩がいるんですもんね。当たり前か。

 ほら、ハナより曙川先輩の方を、彼女のことを心配してあげてください。ハナに色々と聞かれて、きっと参っていると思うんです。話したくないこともあったのに。曙川先輩は、全部話してくれたんです。

 何もごまかさずに、本当のことだけを。

「歩けないか?」

 返事をしないので、朝倉先輩はハナが放心状態にあると思ったらしい。実際それに近くはあったんだけど。

 でも、いくらなんでもその後はやりすぎだ。

「山嵜、ごめんな」

 一言そう断って。

 朝倉先輩は、ひょいってハナの体を持ち上げた。う、うわ。うわわわわ。

 お姫様抱っこ。ちょ、朝倉先輩? 彼女さんの前ですよ? 今、ハナは曙川先輩と、朝倉先輩の話をしていて。

 二人が、とても素敵な関係だって。

 ハナなんか、入る隙間が無いんじゃないかって。

 そう思ったところなんですよ? それなのに。

 あばばばってなって、慌てて曙川先輩の方を見ると。

 曙川先輩は、怒るでも呆れるでもなく。

 やれやれって顔で、ハナのすぐ横に立った。

「フユの時もこんな感じだったの?」

「仕方ないだろ、歩けないみたいなんだから」

 一つ息を吐いて、曙川先輩は。

 そっと、ハナの頭を撫でた。すごく優しくて。

 すごく暖かい笑顔で。ハナは、思わず見とれてしまった。

「遠慮しないで。今は、ハルに甘えていいから」

 そうか。

 こんなことくらいで、二人の仲は壊れないんだ。

 信頼し合っているんだ。

 朝倉先輩は、曙川先輩が大丈夫だって一目で判ったんだ。次に、ハナの方がショックを受けているって判断して。保健室に運ぶために、こうやって抱き上げてくれた。

 二人とも、それが当然のことだって思っている。

 当たり前のように、ハナを助けてくれて。

 当たり前のように、解り合っているんだ。

 朝倉先輩。

 その証拠に、朝倉先輩は、曙川先輩の方を見ている。

 今、腕の中にいるのはハナなのに。朝倉先輩は、ハナの方を見ていない。ハナのことなんて、なんとも。なんにも。

 ・・・くやしい。

「朝倉先輩」

 手を伸ばして、ハナは朝倉先輩の顔に触れた。届く。ちゃんとそこにいる。先輩、ハナは、ここにいますよ。

「先輩、私、朝倉先輩のこと、好きです。好きなんです」

 言った。

 言っちゃった。

 ハナの言葉、届きましたか、先輩?

 朝倉先輩は。まずは驚いて。その次に、照れて赤くなって。

 最後に、悲しそうな顔をした。

「山嵜、ごめん。俺は、曙川の、ヒナのことが、好きなんだ」

 はい。わかっています。

 真実の魔眼に、嘘は通じません。朝倉先輩の気持ち、ちゃんとわかりました。

「知っています。でも、私、そんな朝倉先輩のことが、好きなんです」

 私の好きな朝倉先輩なら、そう応えると思っていました。大切な人を、雨の中探して歩いて。背負って、運ぶような人。

 ハナも、そうやって愛されてみたいけど。

 朝倉先輩が好きなのは、どうしようもないくらい曙川先輩。

 そして。

 そんな朝倉先輩を、ハナはやっぱりどうしようもないくらい好きなんだ。

 嘘やごまかし。

 ハナは、それが大っ嫌い。そう、たとえ、自分自身のことであっても。

 ハナは嘘をつかない。ハナは、朝倉先輩のことが好き。この気持ちは、本当のことなんだ。




 幼稚園の、年長組の時。

 ハナは、園長先生が世話をしている花壇が大好きだった。色とりどりの綺麗なお花。園長先生ともよくお話しした。お花の話をしている時の園長先生は、とても楽しそうだった。

 ある日、ハナは誰かから嘘をつかれた。相手のことなんて全然覚えていない。そんなことより、嘘の内容の方が問題だった。

 母の日の贈り物に、園長先生が花壇から一つ花を持って行って良いって。

 ハナは嬉しかった。花壇のお花はきらきらしていて、大好きだった。お母さんに、園長先生のお花をあげるって、とっても素敵なことだと思った。

 だから、一番大きくて、一番綺麗なお花を、ハナは取ったんだ。

 誰が言った嘘かなんて、覚えていなかった。

 ハナは、大好きな園長先生にいっぱい怒られた。

 ハナは、大好きなお母さんにいっぱい怒られた。

 嘘をついた誰かは、結局最後まで判らなかった。

 ハナが花壇のお花が欲しいから、嘘をついたんだろうって言われた。

 嘘つきは、ハナじゃないのに。

 ハナは、嘘なんかついてないのに。

「ハナはそんな子じゃないよ」

 お兄ちゃんだけが、ハナのことを信じてくれた。お母さんにも抗議してくれた。お兄ちゃんは、いつでもハナの味方だった。

 ハナは、嘘が大嫌いになった。

 嘘をつくような人は、信用できない。

 誰かを騙して、傷つけて。その後、知らん顔しているような奴は、許せなかった。

 お兄ちゃんが、図書館で大きなご本を借りてきた。読めない字がたくさん書いてある。その中に、嘘を見破るおまじないが書いてあった。

 真実の魔眼。ハナはお兄ちゃんと二人で、本に書いてある儀式をおこなった。手に入れるのが難しい材料がいっぱいあったけど、頑張って揃えた。

 二人の秘密基地で、ハナは儀式を完成させて。

 真実の魔眼を、手に入れた。



「ふーん、その本のタイトルって、覚えてる?」

 一通り話を聞き終えてから、因幡先輩が尋ねてきた。そう言われても、かなり昔の話だしなぁ。なんだったっけ?

「確か、ゲーティアとかなんとか」

 お兄ちゃんがそんなようなことを言っていた。その名前を聞くと、因幡先輩はばったりとテーブルの上に突っ伏した。

「マジモンじゃないですかー、やだー」

「本物の魔術書ってこと?」

 因幡先輩の様子を見て、曙川先輩が不安そうな表情を浮かべた。

「そうだねー。たまたまハナちゃんのところに行き当たったんだろうね」

 三人がいるのは、学校の図書室だ。他に生徒の姿は全然ない。この学校の図書室は蔵書数が少ないので、あまり人気にんきが無いとは聞いていたけど。これじゃあ貸切状態だ。

「でも、当時ハナちゃんのお兄さんも小学生くらいでしょう? そんな本読めるの?」

「本物っていうのはね、知識で読むものじゃないんだよ。求められたから現れて、与えていったんだ」

 因幡先輩の言うことは、ハナにはよく判った。お兄ちゃんが持ってきたあの本は、確かに何が書いてあるのかは全然理解できなかった。しかし、真実の魔眼に関するところと、その儀式の方法だけは何故か読み取ることができた。書いてある文字が、明らかに日本語では無かったというのに、だ。

 因幡先輩が言うには、ハナには魔術的素養があるらしい。その素養が魔術書を呼び寄せ、真実の魔眼を身に着けさせたのだとか。

「鶏と卵みたいなものだよ。才能が先か、能力が先か。それは大した問題じゃないんだ」

「ええー、大した問題だと思うけど。その魔術書って、今はどこにあるの?」

 真実の魔眼を手に入れた後、何度図書館を探してもその本は見つけられなかった。やはり、本の方からハナを訪ねてきたのだろう。奇妙な話だとは思うが、事実として、ハナの右目には真実の魔眼が残されている。

 曙川先輩は腕組みしてうーんと考え込んだ。

「ナシュト、その魔術書ってどうにかできないの?」

「自然の摂理のようなものだ。人の意思でどうにかできるたぐいではない」

 呼びかけに応じて、曙川先輩の横に半裸の男性が現れた。ナシュトという名前の、神様なのだそうだ。曙川先輩はこの神様との半同棲生活を強要されていて、それが銀の鍵が嫌いな理由の一つであるらしい。

 朝倉先輩という素敵な彼氏がいて、イケメンまではべらせて。一体何の文句があるんだか。贅沢極まりない。どっちかくれればいいのに。あ、ハナは朝倉先輩の方がいいなぁ。


 第二体育倉庫のすったもんだの後、ハナは保健室に運ばれて、曙川先輩は美作先生にこってりと絞られた。学校で最も有名なカップルというのも、楽ではないようだ。朝倉先輩が曙川先輩をかばおうとして、一緒になって叱られていた。ははは、似た者同士め。

 状況だけ見れば、先輩が人気ひとけのない場所に後輩を呼び出してタイマン勝負、とも受け取れる。何人かの生徒から報告を受けて、美作先生が駆け付けたということだった。その生徒というのが、ルカと、因幡先輩。実は因幡先輩は、最初から美作先生に幕引きをさせるつもりだったみたい。この先輩、見た目はほにゃほにゃとしているのに、曙川先輩なんかよりもよっぽど抜け目がなくて油断がならない。

 色々と誤解は解けて、ハナは曙川先輩と和解した。曙川先輩がどういう人かは、よく判ったつもりだ。この人は真面目で、真っ直ぐ。嘘をついたり、ズルしたりとかとは無縁な人。その気になれば、朝倉先輩なんて簡単に骨抜きにできるだろうにね。

 ハンドボール部のマネージャーは続けることにした。当たり前でしょう。ハナはいい加減なのは嫌いだ。入部のきっかけは確かに朝倉先輩だけど、入るからにはそれなりの覚悟はしてきている。曙川先輩も余計な心配というものだ。大体そんなことしたら、朝倉先輩に迷惑をかけるでしょうが。ハナだってそのくらいは考えてます。

 ただし、朝倉先輩へのアタックも続けます。告白しちゃったし、ハナの気持ちは解ってもらえてるんだから。ハナは自分にも嘘はつかない。朝倉先輩のこと、好きなのはどうしようもないでしょ。曙川先輩には、しっかりとライバル宣言しておいた。

 曙川先輩は、複雑そうな顔でハナのことを認めてくれた。

「ハルも、まだ高校生だからね。色々恋愛とか、そういうことをする自由もあっていいと思うんだ」

 そんなことを言って強がってはいたけど、真実の魔眼はごまかせない。やっぱり不安はあるみたいだった。

 ま、ハナもズルをするつもりは無い。騙し討ちは無しです。ちゃんと朝倉先輩に好きって言ってもらうまで、一線は越えませんよ。ふふふ、それも曙川先輩に聞いて判っちゃったもんね。婚約者とかびっくりさせておいて、なぁーんだ、キス止まりなんじゃん。イマドキそんなの、大したことナイナイ。ハナにもワンチャンありそうな感じ?

 とは言ってもね。勝ち目なんて万に一つもあるのかないのか。ハナは、曙川先輩のことが好きな朝倉先輩も好きなんだよな。あの二人を見ていると、うらやましいって思うのと同時に、幸せになってほしいとも思ってしまう。困ったもんだ。


 そして、この図書室での集まり。因幡先輩は、ハナの真実の魔眼に興味があるということだった。

「ハナちゃんはちょっと力が強すぎるからさ、近くにいさせてもらいたいんだよね」

 強い力は、何かと誤解を招くことになる。今回のハナと、曙川先輩のように。そうならないためにも、なるべく近くにいて、お互いのことを理解しておきたい。

 というのは建前で、要は監視したいってことだよね。

「良いですよ。私も曙川先輩が朝倉先輩にズルしないか、見張ってたいですし」

 相互に監視。そういうことだ。誰かが間違えたなら、他の誰かが指摘してやればいい。ハナたちの力は、一歩間違えれば不特定多数の他人を不幸にしてしまう可能性がある。

 大丈夫、解るよ。ハナ自身、この真実の魔眼で嫌な思いをしたこと、無いわけじゃないから。

 曙川先輩や、因幡先輩みたいな人の存在は、実は結構頼りになったりするのかも。ふふ、良かった。高校生活、楽しいことがありそう。

「よし、じゃあハナちゃんも我々の仲間ということで」

 因幡先輩が嬉しそうに宣言して。

 曙川先輩がため息をついた。

「仲間って、これ、何の集まりなんです?」

 ハナの質問に、因幡先輩は悪戯っぽく、にやり、と笑ってみせた。


「大いなる世界の善意の会。略して『おせっかい』だよ」


 それはそれは。ハナも、とんだおせっかいを焼かれたものだ。

 おせっかいのついでに、先輩方。

 山嵜ハナのこと、これからも、よろしくお願いいたします。

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