第12話 ハル遠からじ

 寒い冬の終わりに、学年末試験なんてものがあった。うん、あった。過去形。もう終わったんだから、そんなものはどうでも良い。別な意味でも終わった。いいんだ、進級出来れば。別にヒナ、勉強出来なくても困らないもん。

 曙川あけがわヒナ、十五才、高校一年生。女子高生の本分は青春であって、勉強だけじゃないと思います。

 バレンタインが終わったら、あっという間に試験期間だった。部活もお休み。余裕をもって勉強して、試験に臨みましょうってことなんだろうけど。

 ヒナは、ちょっとそれどころじゃなかった。だって、ハルがどきどきするようなことを言ってくるから。


 朝倉ハル、十五才、だった。もう十六才になるね。高校一年生。ヒナの幼馴染で、今はヒナの大切な恋人。

 中学時代のちょっとイマイチなイメージを払しょくして、ヒナは髪をほどいてやわらかい肩までのウェーブヘアにした。ぱっちりとした目元、緩やかな鼻筋のカーブ、存在感のある唇。そして短いスカート。すっかり可愛くなった幼馴染の姿に、ハルはずきゅーんとやられてしまった。

 高校に入って一ヶ月ほどしたら、ハルはヒナに告白してくれた。好きだ、付き合ってくれって。他の誰かに、ヒナを取られたくないって。嬉しかった。もちろんオッケーした。当たり前でしょう。

 ヒナはずっとハルのことが好きだった。ハルとは幼稚園の頃からお友達だった。小学校三年生の時、ヒナは雨の中自転車で家出して、転んで怪我をして動けなくなった。誰も助けに来てくれないって、一人で泣いていたヒナを見つけてくれたのは、ハルだった。

 その時から、ハルはヒナの特別。ヒナにとって、誰よりも大切な人になった。

 それは、ハルにとっても同じことだったみたい。ううん、ハルは、ヒナのことをその前から好きだった、って言ってた。ただ、ヒナのことを大切にしようって、そう考えてくれるようになったのは、やっぱりあの雨の日の時からなんだって。

 だから、お互いに好き同士だったんだよね。はっきりとは口にしていなかっただけ。それが判った時はほっとした。本当に良かったって思った。だって、ヒナはハルだけだもん。ハルに嫌われちゃったら、もう何をどうしていいのか判らなくなっちゃう。


 そんな、ヒナにとって誰よりも大切なハルが、十六才になる。

 誕生日プレゼントに何が欲しいのか、事前にハルに訊いてみた。何でもいいよ、って。えへへ、ホントに何でも。ヒナがあげられるものなら、ね。ハルはヒナのことをすごく大事にしてくれてる。もう、安心して任せられちゃう。もっとグイグイ来てくれてもいいのに。そのくせ独占欲だけは強かったりするんだから。困った彼氏様。

 ハルは中学まではバスケットボール部で、頑張ってレギュラーを目指していた。身長が伸び悩んでいたこともあって、残念ながらいい結果を残すことは出来なかった。高校に入ってからはそこまで根を詰めることはせず、ちょっとゆるい感じのハンドボール部で楽しく活動している。

 成長期だからか、気が付いたらハルはヒナよりも背が高くなっちゃってた。色白で日焼けしにくい肌。スポーツは続けているから、筋肉がついてがっしりしている。髪も短くしてさっぱり。細くてちょっと垂れてる目が可愛いのに、最近はなんだか男らしさの方がまさってきちゃってる。えーっと。

 あれ?ハル、ひょっとしてすごくカッコよくなった?ヒナのフィルターを通しているせいじゃない、よね?

 そんなハルに、欲しいって言われちゃったら、ヒナはもう、何でもあげちゃう。そのくらいのつもりで、誕生日プレゼントのリクエストをうかがってみちゃったわけなのですよ。そうしたら。


「ちょっと頼みにくいんだけど、いいかな」


 なんだか、とんでもないお願いをされてしまった。えー、それはどうなんだろう。困惑しつつも、とりあえず了承はした。しかし、これはヒナの一存では決められない。関係各所との調整が必要な内容です。

 ハル、本当にそれが良いの?

 実際何回も確認して、やっぱりどうしてもそれが良いとのこと。ハルも調整を手伝ってくれるって言うので、まぁ、それならやりますよ。それにしても、まさかそんなことを頼まれるとは。意外って言うか。

 いよいよ、なのかな。


 ハルの誕生日、丁度定期試験の最終日。条件として、ちゃんとテスト勉強をこなすこと。これをしっかりと二人でクリアして。

 放課後の夕方、ヒナは、ハルの家にやって来た。さて、じゃあはりきってハルに誕生日プレゼントを贈りましょう。



 ハルの家とは、家族ぐるみでお付き合いがある。ヒナとハルの関係についても、既に了承済みだ。交際記念のお祝いとかされちゃってるくらいだからね。うん、嫌ではない。すっごく複雑ではあるけど。今日もこんなことをハルに頼まれちゃって、どう思われてるんだろう。色々と気を遣っちゃうな。

「やー、ヒナちゃん、いらっしゃい。ごめんね、ハルが馬鹿なこと言いだして」

 ハルのお母さんが気さくに迎え入れてくれた。いえ、とんでもないです。ヒナは全然平気です。ただ、もうハルのお母さんとかにものすごく迷惑なのではないかと気が気じゃ無くて。

「気にしないで。ハルがもうすっかりヒナちゃんに胃袋掴まれちゃってる証拠なんだから」

 そう言ってばちこーんとウィンクしてくる。若いな、ハルのお母さん。こういう悪巧み系が好きなのも相変わらず。ウチのお母さんもそうなんだよな。ヒナはいつも振り回されてばっかりだ。逞しくならないと。

 居間に入ると、ハルのお父さんがソファに座って新聞を読んでいた。その横にはハルの弟のカイもいる。カイは小学六年生。ハルよりも全然しっかりしているよね。サッカーやってて、勉強も出来て、ハルよりも線が細くてすっきりとした感じで。モテる弟ってのはどうなんだろうなぁ。

「ああ、ヒナちゃんいらっしゃい。今日はよろしく頼むよ」

 ハルのお父さんは税理士をしている。とてもダンディな紳士。カイは間違いなくお父さん似。物静かで、頭の回転が速い。ハルはお母さん似。これも間違いない。ヒナはどっちも素敵だと思うよ、うん。

「何かお手伝いしましょうか?」

 カイは気が利くなぁ。でも、今日はハルの誕生日プレゼントで来たからね。全部ヒナにやらせてちょうだい。心配しないで。ヒナも結構楽しみにして来たんだから。

「あ、ヒナ」

 ひょっこりとハルが顔を出してきた。あ、じゃないでしょ。自分で呼んでおいて。感謝してくださいね。こんなハルのわがままを聞いてくれた、ヒナと、ヒナの家族と、ハルのご家族に。

「お誕生日プレゼント、早速お作りいたしますね」

 ハルがヒナに要求してきたプレゼント。それは、誕生日に晩ご飯を作って欲しいってこと。

 これじゃ通い妻だね。もう、恥ずかしいなぁ。


 夏休みの後にすったもんだがあって、二学期からずっとハルのお弁当はヒナが作っていた。ハルはヒナの作るご飯をとても気に入ってくれていて、ハルのお母さんからもお礼を言われていた。ハルのお世話をするのは、ヒナも好きでやっていることなので、ちょっと照れ臭かった。ハルの奥さんしてるみたいでとても楽しかった。

 そうしたら、まさかのこれだ。家に来てご飯を作って欲しいだなんて。ハルだけに作るわけにもいかないし、結局ハルの誕生日、ヒナは朝倉家の夕食を任される流れになってしまった。これって、考えてみるとすごい要求だよね。

 ハルのお母さんは「ラクが出来るー」なんて明るく言っている。しかし、ヒナとしては申し訳ない気持ちでいっぱいだ。息子の誕生日に、料理を作ることを拒否されるって、どうなんだ。ハルはもっと普段からお母さんに感謝しないとダメだよ。ハルだけじゃ出来ないこと、いっぱいあるんだからね。

 ヒナがキッチンに立っている間、ハルはお父さんとテレビを観ていて、カイははらはらとヒナの方を気にしていて。ハルのお母さんは、横に立ってふーんってヒナの手元を観察していた。うっわぁ、緊張します。これってやっぱ、査定だよね。査定。

 一応ハルの好みについては、昔から調べてよく知っているつもり。お弁当も、ハルが好きなおかずと栄養バランスを考えて、一ヶ月先までの献立表を準備してある。自分でも「愛が重い」とは思っている。だって、大好きなハルにいい加減なものは食べさせたくないでしょ?それに、美味しいって言ってもらえると、すごく嬉しい。ハルのこと好きなんだなぁ、って幸せになる。

 いや、今日はそれどころじゃないよね。ハルのお母さんの前で、滅多なことは出来ないわ。当たり前だけど、朝倉家のキッチンってあんまり使ったことないし。細かい調味料とか、器具とかの置き場所が判らない。流石にハルのお母さんのヘルプ無しでは厳しい。メチャメチャ緊張する。

 もー、ハル、テレビ観て笑ってないで、少しはこっちも気にしてー!



 ご飯作って、食べて、お片付けしたらもうだいぶ遅い時間だった。ハルが送ってくれるということで、二人で寒空の下に。星がぴかぴか光っている。空気は冷たくても、ハルとの間は暖かい。手袋した掌から、ハルの温もりが伝わってくる。

 とりあえず講評は上々でした。ハルのお母さんに、「ハルのことよろしくね」って耳打ちされてしまった。まあ、ヒナとしては是非よろしくしたいところなんですが。

 後はハル次第、だと思ってます。


 バレンタインで、ハルに渡したチョコレート。そこに、ヒナはメッセージカードを入れておいた。『待ってます』とだけ書いて。多分、ハルも何のことかは判ってる。今日、ヒナにこんな誕生日プレゼントの無茶ぶりをして来たのも、きっとそれ絡みだ。

 ハルは、ヒナのことを大事にしてくれてる。一度、二人きりでヒナのことを自由に出来たこともあったのに、我慢するって言って手を出さなかった。ハルの優しさとか、愛とか、ヒナはいつも感じている。とても感謝してる。

 お互いの気持ちは、もう十分過ぎるくらいわかってると思うんだよね。まあ、ヒナはハルに対して、まだ言ってない望みというか、夢みたいなものがある。いよいよそれを打ち明ける日も近付いて来ているのかなぁ。ハルはどんな顔するんだろう。呆れるかな。喜んじゃうかな。それはそれで微妙だな。やっぱ言わない方が良いかなぁ。

「ハル、お誕生日おめでとう」

「ありがとう、ヒナ」

 うん、好きだ。ヒナはハルのことが好きだ。この想いは、全く揺らぐことが無い。

 じゃあ、ハルに任せよう。ハルが覚悟を決めてくれるなら、ヒナも決心します。この想いを、ハルに打ち明けます。それで何がどうなろうと、後悔しない。正直な気持ちなんだから。


「ハル、ホワイトデーなんだけど」

 ぴくん、ってハルの身体が痙攣した。お、良い反応。ちゃんと覚えていてくれてますね。ヒナのメッセージ、読んで考えてくれてるのかな。偉い偉い。

 どうしようか、ハル。ヒナとしては、別に急かすつもりは無いんだ。今のこの関係もすごく幸せで大好き。ハルの彼女で恋人って、それだけで夢みたい。毎日ふわふわしている。

 ハルは、その先にある現実も見ているんでしょう?だから我慢なんてしてる。困ったハル。素敵なハル。

 なら、ちゃんと現実も掴み取ろう。大丈夫だよ。ヒナの返事なんて判ってるでしょ。

 無理なんてしてないよ。ヒナにも夢があるの。ヒナは、ハルのこと、多分ハルが考えているよりも、ずっとずっと。

 好きなんだよ。


「うん、なんて言うか、その、考えてる」

 嬉しいこと言ってくれるなぁ。ヒナのわがままを、こんなにちゃんと悩んでくれるなんて。いつでもいいよ。誤魔化してもいいよ。ハルの気持ち、ちゃんと知ってるから。

 まだ早い。そうかもね。いや、きっとそうなんだ。人生は長い。これから何が起こるかなんて、誰にも判らない。

 だからこそ、ハルは不安になっちゃうのかな。信じてないわけじゃなくても、気持ちが抑えられない。ただ闇雲に手を伸ばして、掴めばいいってものでもない。ハルは本当に。

 ヒナのこと、好きでいてくれてるんだね。


 後二年。

 その二年を、ハルはどうやって過ごす?

 ヒナはハルにお任せするよ。だって、ヒナはもう昔からずっと、ハルのものだから。何もかもをハルに預けました。ここまでこんなに大切にしてもらって、後悔なんてするはずもありません。

 ハルの考えてることなんて判っちゃうよ。ハルも、ヒナの考えてることなんて判っちゃうでしょ?同じことだよ。


 別れ際に優しいキスをした。

 じゃあまた明日ね、一ヶ月だけお兄さんのハル。ヒナ、とっても楽しみにしてるから。




 昼休みのチャイムが鳴ると、もうお馴染みのお弁当組が集合する。十人か。多くなったものだ。

 ヒナのいる女子グループがもう六人だもんな。気が付いたらこんな状態になっていた。っていうかユマがしれっと加わってるんですが。なんだかなぁ。

「いよいよこのメンバーでお昼っていうのもあと一ヶ月切ったかもね」

 黒髪ロング眼鏡のお嬢様サユリ。我がグループのリーダーにして若年性お局様。ヒナとは同じ水泳部。競泳水着目当てに男子生徒が見学に訪れることがちらほら。ヒナなんかは学校指定の半袖セパレートで通してる。いやぁ、それでも水着姿で並んで立ちたくはないなぁー。身長もスタイルも何一つ勝ち目が無いもんなぁ。

「クラスが替わっても、みんな友達なのは一緒でしょ」

 ショートヘアに猫みたいな眼、スラリとした長身のサキ。女子にして王子様。女子高だったら大変そうだな。陸上部期待のホープだそうです。あの陸上のユニフォームって、絶対に選定の過程に何かよこしまな意思が働いてるって。それをばっちりと着こなしちゃうサキのせいで、陰で他の女子たちが羞恥のあまり涙しているに違いないよ。

「やっぱりみんなと離れちゃうのはさみしいな」

 ふわふわロングで、お人形みたいに可愛くて小さな身体のチサト。吹奏楽部の実力派フルート奏者。普段はぽんやりしているように見えて、実は強い意志の持ち主。流されそうで流されない。過去に色々あったからか、人間関係のこじれにちょっと敏感。

 ここまでがレギュラーメンバーだったんだよね。


「まー、しょうがないよ。クラス替えも大事なイベント。楽しみにしておくくらいじゃないと」

 などと強がっているさびしんぼうが、ポニーテールにそばかす顔の元気印少女ユマ。イベント大好きで、学園祭実行委員もやっていた。部活はおよめさんクラブこと家庭科部で、中身は結構乙女なんだよね。クラスが分かれたら、なんだかんだで一番ぎゃあぎゃあ言い出しそう。

「新しいクラスか。知らない人と、お友達になれたら嬉しいな」

 にこにこしているほっそりとした子が、フユ。一月にやってきた転校生。ヒナにとっては、ちょっと特別な関係の子。それについては一旦脇に置いといて。フユは手足も何もかもが細い。背中の真ん中にまで届く黒い髪と、真っ白な肌のコントラストが美しい。長いまつげの大きな垂れ目が、見る人をそれだけで癒してくれる。

 入学した時から考えてみたら、ここまで賑やかになるなんて想像もしていなかった。みんな大切なヒナの友達。きらきらしている高校生活の象徴だ。


「おーい、曙川食堂」

 うっさいな。

 男子ィも一緒にご飯食べてるんだよね。ハルのいるグループって言うか、ハルとハルのお友達。名前を覚える気もないし、ヒナはずっとじゃがいも、じゃがいも、さといもって呼んでいた。

 そうしたらもうすっかり根菜として記憶しちゃったんだよね。フユの方が先に三人の顔と名前と特徴を覚えちゃってて、ビックリしたくらいだ。いや、ハル以外の男子なんて知っておく価値ないじゃん。そう言ったら「流石に酷過ぎるよ」だって。えー、だってホントに価値ないし

 モテたい系男子、じゃがいも1号、宮下。ヒナのことをハンドボール部のマネージャーにしようとしたり、学園祭のインチキなイベントで出し抜こうとしたり、スキー教室にモテたいという理由で参加したり、ロクなイメージが無い。ヒナは真っ直ぐな人が好きだな。

 ムッツリ系男子、じゃがいも2号、和田。あんまり口数は多くないが、いざ喋り出すとミョーな知識ばっかり。フユはいつもじゃがいも2号の話を面白がって聞いている。いや、あれはムッツリなだけだよ?まあ、悪い人ではないのかな。

 不良になりきれないニヒル系男子、さといも、高橋。背が低いよね。なので、威圧感が圧倒的に足りなくて、子供が粋がっているように見えてしまうというか。ああ、チサトと最近良い仲らしいので、あんまり言い過ぎないようにしておこう。ご飯、ちゃんと食べろよ。

 これにヒナの素敵な彼氏様、ハルを加えてお弁当組男子の部、完成だ。ふむ、一年近くかけてようやくここまで覚えた。賞賛に値すると思うのに、誰も褒めてくれやしない。クラスが替わったら瞬間的に忘却だな。


 とりあえず今日の分のタッパーを取り出す。こいつらの目的はこれでしかないからね。取り皿とお箸を並べて、蓋を開ける。

「今日はガーリックバターチキン。リクエストに応えてやったんだから感謝しな」

 ウェーイ、と声をあげていもたちががっつく。タッパーの中は四人分のおかず。ヒナが朝早くに起きて作ったものだ。

 別にヒナの家は食堂でも何でもない。ハルのために頑張ってお弁当を作っていたら、恵まれない男子ィがもの欲しそうに見てくるので、哀れに思って恵んでやったのだ。それが今じゃこう。野生動物に安易にエサを与えてはいけないって、身をもって理解しましたよ。あ、フユの分もあるけど、これは特別。フユはもっとちゃんと栄養を摂らないと。

 ハルには、ヒナからお弁当を渡す。あんなカロリーのお化けに手を出しちゃいけません。ハルの栄養は、ヒナがきっちりと管理してますからね。


「なんかもうその辺の夫婦っぷりもすっかり板についてきたな」

 じゃがいも1号が余計なことを言った。ぎろり、と睨みつける。今その話はするな、やめろ。

 びくっとなってじゃがいも1号が目を逸らした。あー、ほら、ハルがちょっと悩みだしちゃったじゃん。ハル、考えながらご飯食べると、消化に良くないよ?

 サユリがにやにやしながらヒナのことを見ている。う、これはバレたな。いや、別に隠すつもりは無いよ。ただ、結果が出てからのご報告とさせてもらいたかったので。大事なところなんですよ。お願いします。

「いいよねー、ヒナと朝倉君。やっぱり結婚するんだよねー。羨ましいなぁ」

 フユが能天気な声を出した。

 ああああああ、もう!

 台無しだ。いや、フユに悪気が無いのは判ってる。怒っても仕方が無い。しかし、もうずばっと直球がすっ飛んできちゃった。ちらりとハルの様子を見る。

 箸、止まってますね。うう、せめてホワイトデーの後にしてほしかった。きっかけを作ったじゃがいも1号、もうお前一生じゃがいも。絶対に許さない。絶対にだ。

「フユも結婚に憧れたりするの?」

 横からユマが食いついてきた。まあ、ユマはおよめさんクラブだしな。いい年して将来の夢はお嫁さん、とか臆面もなく言い出しかねないクチだ。

 フユはうーん、と考え込んだ。

「そうだなぁ。ヒナを見てると、いいなぁ、羨ましいなぁ、とは思うよ?」

 フユには、色々な事情がある。このメンバーの中で、そのことを知っているのはヒナだけだ。フユが結婚とか、そういった普通のことに憧れる気持ちはよく解る。

「でも、難しいなぁ、って。何しろ一人じゃ出来ないからね」

 さみしそうなフユの笑顔を見ると、ちょっと心が痛んだ。いつか、フユの全てを受け入れてくれる人が現れるって、そう言い切ってあげられれば良いけど。

「大丈夫よ。出来る、出来るって!」

 ユマが、がたん、と椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。あー、およめさんクラブに火が点いた。

「女の子には皆、幸せになる権利があるの。大丈夫。フユもきっと幸せになれる」

「ヒナみたいに?」

「うん、ヒナみたいに・・・」

 そこまで言って、ユマはヒナの方にちらり、と視線を向けてきた。なんすか。なんか文句あるんすか。

「なれる!きっと!」

 おおー、と一同から拍手が沸き起こった。うん、なれるなら是非なっていただきたいですよ。ヒナだってみんなが幸せな方が良い。フユだけじゃなくて、ユマも、サユリも、サキも、チサトも。みんなに幸せになってほしい。


 まあ、その前に自分のことなんだよな。ハルは黙って食事を再開していた。冷やかされるのはいつものこととして。今はちょっとナーバスだよね。うーん、やっぱり良く無かったかなぁ。

「朝倉はこの前十六になったんだよね。ヒナは誕生日いつなの?」

 ぐええ、サユリ、なんで追い打ちかけて来るの?

 楽しそうな笑顔浮かべやがってぇ。ひょっとして判って言ってやがるなぁ。

「三月の二十三日だよ」

「あれ?三月三日じゃないの?」

 ユマが首をかしげた。うん、よく言われる。

 えーっとね、それは当初の予定日だったのです。ヒナはぜーんぜんお母さんのお腹から出て来なくって、最終的に陣痛誘発剤で無理矢理生まれてきた感じだったのね。お父さんもお母さんもヒナっていう名前だけは先に決めてあって、色々と準備した後だったから、もうヒナで行こうって、そういうことらしいよ。

「いよいよ十六だよね。出来ること増えるよね」

 折角話を逸らしたのに、いちいち元に戻さないでくださいってば。これ、絶対わざとだ。くそう。

「あー、自動二輪の免許とか?」

「結婚、でしょ?」

 ぐええ。

「高校生なんて結構あっという間に終わっちゃうもんよ?」

 現役高校生がそれを言っちゃうのはどうかとも思いますが。

「その先のこと、考えてないわけじゃないんでしょ?」


「当然だ」


 しん、となった。

 ハルはその一言のみ口にすると、後は黙ってヒナの作ったお弁当を食べていた。

 顔が熱くなる。ハル、やっぱり考えてくれてるんだ。ヒナのこと、大事にしてくれてるんだもんね。

 嬉しいよ、ハル。


 サユリが、ふぅ、と息を吐いて、「二年のクラス分けって、基準があるらしいんだよね」と話題を変えてきた。

 やれやれ、どういうつもりで突っついてきたんだか。多分、いい加減にするなよ、ってけしかけてきたんだろう。大丈夫だよ。ハルはちゃんと考えてくれてるって。ヒナは、ハルのこと信じてる。

 ほっとしたところで、フユがヒナの方を見てにっこりと微笑んだ。声を出さずに、口だけが動く。

 あとでね。

 ん、判った。話の見当はついている。ちょっと面倒そうなことだよね。

 ハルはさっさと食べ終わって、ペットボトルのお茶を飲んでいた。ハル、ありがとう。ハルはいつでもヒナのことを助けてくれる。ヒナはハルのこと、大好きだよ。




「サユリはヒナのことを心配してたんだと思うよ?バレンタインからこっち、ちょっと朝倉くんの様子がおかしかったって」

 フユがにこやかにそんなことを言う。うーん、そうだとは思うけどさぁ。

「まあ、朝倉くんならヒナを傷つけるようなことはしないし、私は平気平気だと思ってるよ」

 ハルはヒナのことを、宝物みたいに大事にしてくれてるからね。ヒナに負けないくらい、ハルの愛って実は重いのかも。それで自分が潰れちゃわないか心配だな。ヒナの方からガンドコ行った方が良いのかなぁ。

「ヒナは貪欲だなぁ。素敵な彼氏ってだけじゃ満足出来ないの?」

 別にヒナは今のままで良いんだよ。ハルの方が色々言ってくるんだもん。「俺だけのヒナでいてくれー」とか。はいはいそうですよって口で言っても、なかなかねぇ。

「それはそれは、ごちそうさま」

 くすくすとフユは笑った。


 二人がいるのは、学校の図書室だ。フユが根城にしていて、最近は放課後になると必ずここにいる。蔵書数がそれほどでもないということで、利用する生徒の数もあまり多くない。司書の先生もすっかりフユと仲良しで、たまにお茶なんかまで出してくれたりする。

 お昼の時にフユが合図してきたので、授業の後の部活までの短い時間、ヒナは図書室に顔を出してみた。がらーんとした自習スペースの端っこ、日当たりの良い席で、フユと並んですっかり雑談してしまった。


「それで、フユ、話したいことがあるんじゃないの?」

 ハルのことになるとついつい長くなってしまう。そうじゃなくて、多分フユにはヒナに相談したいことがあるんだ。なんとなく見当は付いている。

 例えそうだとしても、きちんと言葉にすることは、二人の間での取り決めだ。


 ヒナの左掌には、銀の鍵が埋め込まれている。フユも同じ。二人にあるこの特別な力は、本来ならば持ち主の願いを叶えるため、神々の住まう幻夢境カダスへの導きを与えるものだった。

 ヒナとフユは、それぞれ異なる事情でカダスへのいざないを拒絶した。ヒナは、ハルへの想いは自分の力だけで手に入れると宣言し、フユは、何も無い自分の消滅を願った。叶えられない願いを受けて鍵の契約は暴走し、銀の鍵はヒナとフユの左掌と同化して残された。

 銀の鍵には、様々な力がある。人の心を覗き、操り、書き換える。目に見えないものを見て、耳に聞こえない音を聞く。フユが転校してきて出会うまでは、ヒナはこの力のことを誰にも相談出来なかった。

 一応、それまでにも近隣の土地神様なんかに話は聞いてもらっていたが、やっぱり身近で同い年の女の子の方がずっと気軽だ。フユには特殊な事情が沢山あるが、ヒナにとってはかけがえのない友達。それはフユも同じことで、ヒナとフユは大きな秘密を共有する大切な親友になっている。

 ヒナもフユも、滅多なことでは人の心は読まないようにしている。ヒナに言わせれば、銀の鍵の力は、手軽に使っているとロクなことにならない。フユの方は、人と話すという行為自体を楽しんでいるため、答えを先に知るようなことはつまらない、ということだった。


「星のお守り、なんだけど、ヒナも気付いてる?」

 予想していた通りだった。フユも気が付いているとは思っていたが、ヒナたちに直接害をなすものでは無さそうなので今まで放置していたものだ。

「知ってる。今月に入ってからなんだよね、あれが増えたの」

「そうなんだ、あれ、不思議だよね」

 フユは腕を組んで、うんうんと唸った。何か考えているのか、いないのか。放っておくとそのまま昼寝してしまいそうだ。フユの周りの空気は、いつも柔らかでゆったりとしている。


 フユが「星のお守り」と呼んでいるものは、三年生の一部で流行している星形のお守りのことだ。何処かのお店で売られているのかとも思ったが、形や色が不ぞろいで、どうも手作りであるらしい。数はそんなに多くなく、どうも三年生の一クラスという、比較的狭い範囲を中心に存在しているようだ。

 そのお守りには、どうも良く判らないまじないがかけられてる。

 ヒナとフユは銀の鍵を持っているから気付くことが出来た。どうもあの星のお守りは、持ち主から体力を微かに削り取っている。その量が本当に僅かなので、本人に自覚症状のようなものはまず無いだろう。しかし、確実に体力は奪われているし、それがその後どうなっているのかは判らない。


「ナシュトは何て言ってるの?」

「生命力を何処かに集めているんだろうって。カマンタは?」

「同じだね。じゃあ、やっぱりそういう装置なのか」

 ナシュトというのは、ヒナの銀の鍵に憑いている神官の名前だ。ヒナが銀の鍵と同化してしまった際に、一緒にくっついてきてしまった。世界に存在するありとあらゆる魔術に通じている神官にして神様。こういう時は便利に使わせてもらっている。ただ、人間のすることにはあまり興味が無いらしく、ちょっとコミュニケーションに難がある。

 フユの鍵に憑いているカマンタの方が、なんというかずっと人当たりが良くて付き合いやすい。これってトレード出来ないのかね。まあ、フユもナシュトは嫌だろうなぁ。フユはカマンタが大好きだ。カマンタは、フユがヒナに自慢出来る数少ないものの一つなのだそうだ。


「イマイチ判然としないよね。悪いモノならもう片っ端からブッ壊しちゃえば良いのに」

 それはちょっと過激じゃないかな。でも確かに、奪われた生命力が良くないことに使われているのだとしたら、黙って見過ごすのはあまり得策じゃない。巡り巡って、ヒナやハルの学校生活にまで影響を及ぼしかねない。

 範囲が狭いので、多分その気になれば出所はアッサリと割れるはずだ。次に星のお守りを持っている三年生を見かけたら、軽く記憶を覗かせてもらうだけで良い。あんまりよろしくないことかもしれないが、そこは緊急事態ってことで。

「何か大きな悪巧みの下準備かもしれないし、注意した方が良いかな」

 ヒナは以前、この学校の中で危ない呪いを受けて酷い目に遭ったことがある。あれの出所も結局判らずじまいだ。強力な魔術を使う人間が学校の中に潜んでいるのだとしたら、油断がならない。


「迂闊に手を出さないようにしましょう。まずは、誰が広めているのか、から」

 そう言って、フユと別れた。さて、じゃあ星のお守りを持っている三年生を探さなきゃなんだけど。もう今の時期だと、そもそも三年生自体が珍しいんだよなぁ。



 星のお守りを持っている人は、割とあっさり見つかった。

 ヒナは水泳部に所属している。このクソ寒い時期であっても、室内温水プールという恵まれた環境のお陰で、元気に活動が可能だ。あー、嬉しい。あー、寒い。

 三年生がいなくなって、部長の二年生メイコさんが厳しく檄を飛ばしている。競泳水着がはち切れそうな素晴らしいスタイルに、広い肩幅、すらりとした脚。理想的水泳選手だよなぁ。強い目力でがっつり睨みつけてくる。こういう時のメイコさんはホントに怖い。鬼部長です。鬼。

 そんな所に、丁度受験を終えた先輩が一人訪ねて来た。陣中見舞いというか、ちょっと様子を見に来てみました、という感じ。その鞄には、紛れもない星の守りがついていた。

 いきなり先輩の心の中を覗こうとして、ヒナは慌てて思いとどまった。いかんいかん。この力に飲まれて、当たり前のように使うようになってしまってはダメだ。直接話が出来る先輩なんだし、まずは本人からしっかりと聞きましょう。


「これ?これは、願い星って言うんだよ」

 先輩は笑顔で教えてくれた。やはり三年生の一クラスを中心に広がっているもので、他クラスでも持っている人はいる。欲しがっている人には無償で配っているとのことだった。

「願い星って言うからには、何かを願っているんですよね?」

 ヒナの質問に、先輩はうれいのある表情を浮かべた。少し話しにくそうにしてから、思い切ったように全部をヒナに語ってくれた。


 三年生の中に一人、今月になって重い病気で入院した生徒がいる。先輩と同じクラスで、明るくて、クラスの中心みたいな人だ。大学も推薦で決まっているし、後は卒業を待つだけだった。

「でもね、今月がヤマだっていうのよ」

 その人のために出来ることは無いだろうか。お見舞いもしている、千羽鶴も作った、寄せ書きも書いた。他には何か無いだろうか。みんな、その人のことを心配している。一緒に卒業したいと願っている。

 そこで出てきたのが、この願い星だった。

 一緒に卒業したい、という願い。大切に想っているという証。これを身に着けて、先輩のクラスはその人の無事な退院を願っている。


「不思議なんだけどね、願い星をみんなで着けはじめてから、病状が良くなったって言うんだ」

 噂は三年生の間に広まり、その人を知る生徒たちはみんな願い星を着けるようになった。元気になってください。また、学校に来れるようになってください。静かな祈りが、こうして広まっていた。


 そんな話があったんだ。ヒナは全く知らなかった。隣で聞いていたメイコさんも初めて知ったみたいで、驚いた様子だった。星のお守り自体は見たことがあっても、この話はそれほど広まっているわけではないらしい。

 この願い星は本物だ。作った人は、願い星を持っている人から、その病気の人の所にほんのちょっとだけ元気を分け与えるようにしている。病気がどういうものなのかは判らないが、少しでも回復の助けになるのなら、という、正に願いだ。


 力をこういう風に使う人がいる。驚きだった。人を苦しめて、痛めつけて、悲しませるだけがまじないだと思っていた。こんなに優しさに満ちたやり方があるなんて。

 願い星を作った人に、ヒナは会ってみたくなった。その人のことを知りたい。その人に会えば、また一つ、自分の力を許せるようになるかもしれない。

 先輩は快くその人のことを教えてくれた。佐原フミカ先輩。やっぱりもうあまり学校には来ていないみたい。次に登校するという日を教えてもらった。

 フユも誘ってみよう。きっと、興味を持つに違いない。世界には、光と暖かさが溢れているって、信じて疑わない子だからな。




 暦の上ではもう春とはいえ、朝はまだ寒い。吐く息も真っ白だ。ハルとの待ち合わせも、コンビニ前じゃなくて、すっかりコンビニの中になってしまっている。店員さん、ごめんなさい。

 こうしてハルと一緒に学校に通い始めて、もうすぐ一年になる。そう考えると感慨深い。人が少ないから、周りに邪魔されずに二人でゆっくりお話しが出来る、ヒナの蜂蜜タイム。ハルとの貴重な時間。

 それにしてもハル、気が付いたら、目線をあげないといけないくらい背が伸びてるし。少しの間とは言っても、ヒナより一歳年上なんだよな。ハル、いいな。


 昔から、この一つ年上の期間が羨ましくてたまらなかった。ハルばっかりズルいって思ってた。今もそうだ。一足先に十六才になっちゃって。ヒナは置いてけぼりだ。

「ヒナだって、もうすぐ誕生日じゃないか」

 そうなんだけどさ。ヒナはハルと一緒が良かった。どんな時でも、どんなことでも。二人で同じ、ってのが憧れだったの。ハルだってそう思うことあるでしょ?

「何が?」

「ハル、私、十六才になるんだよ?」

 この前さんざん言われたでしょ?ヒナは十六才になる。そうなったら。

「結婚、出来るようになるんだよ?」


 ハル、どうして女の子だけ、十六才なんだろうね。ヒナは、ハルと一緒が良かった。

 それだったら、もう少し簡単な話になってたかもしれないね。だって、ハル、やっぱりちょっと不安なんでしょう?

「そうだな。正直に言えば、不安はあるよ」

 不安になるってことは、ヒナのこと、好きってことだよね。何処かに行ってほしくないってことだよね。嬉しいよ、ハル。ヒナは、ハルのこと大好き。

 何処にも行かないって、ハルのものだよって。どんなに口で言っても、ハルの不安は減ってくれないからさ。

 だから、「待ってます」って。ちゃんと待ってるって。ヒナは、ハルに伝えたよ。

 ハルも、ヒナに伝えてくれるんでしょ?ハルの気持ち。ハルの想い。

「そのつもりだよ」

 ふふふ、待ってます。


「そうは言ってもなぁ。ヒナは、俺が何を言っても、きっと喜んじゃうからな」

 そりゃあまあ、大好きなハルの言うことだもん。それがなんであれ、ヒナは嬉しいです。いいよ、何を言ってくれても。ハルの言葉なら、それが何であってもヒナは飲み込んでみせるよ。

 突然、ハルがヒナの手をぎゅっと強く握ってきた。ん、どうかした?

「ヒナを傷つけるようなことは言わないよ。そういうことじゃなくてさ」

 はいはい。大丈夫、ハルがそんなことしないなんて、判ってるよ。こんなに大切にしてもらって、ヒナは幸せ。ハルのこと、信じてますよ。

「そうじゃなくてさ、ヒナが、本当に喜んでくれるには、何を言えば良いのかなって、悩んでるんだ」

 本当に喜ぶ?

「そう、本当に、心から、ヒナを喜ばせてあげたい」

 ふふ、それは大変だね。

 ヒナに答えを聞いちゃうわけにもいかないのに、何を言っても喜んじゃうヒナちゃんを、心の底から喜ばせようだなんて。

 ハルはチャレンジャーだなぁ。


 うーん、でもそれって、実際にはそれほど難しいことじゃ無い気がするなぁ。ハルが、ただ素直にヒナに気持ちをぶつけてくれれば良い。今までだってそうだったし、これからもずっとそうだよ。

 五月に、ハルはヒナに告白してくれた。

 あの時、ヒナは本当に嬉しかった。幸せだった。ハルとお付き合いが出来る。彼氏彼女になれる。恋人になれる。ずっとずっと好きだったから。大好きだったから。

 今こうやって、ハルがヒナのことをこんなに大事に、真剣に考えてくれてるってだけで、ヒナは満足なんだよ。

 だから。


「ハルが望むことを、望むままに、で良いんだよ。私は、待ってるから」


 待ってるよ、ハル。




 色々と考えて、フミカ先輩とは放課後に図書室で会うことにした。水泳部の先輩が仲介して、待ち合わせについては伝えてくれることになった。さて、後は万が一に備えておかないといけない。

「んー、必要ないんじゃないかなぁ」

 フユは能天気にそんなことを言っている。司書の先生にお願いして、お茶とお茶菓子まで用意してある。まあ、確かに本当に危険な相手ならナシュトが警告を発して来るはずだもんね。ヒナはちょっと気を張り過ぎかなぁ。

 そもそもこういった修羅場はフユの方が多く潜り抜けて来ている。そのフユがこんな様子なら、きっと大丈夫なんだろう。


 時間になった。ヒナが緊張して見守る中、図書室の扉を開けて入ってきたのは、小柄で三つ編みの女子生徒だった。

 えーっと、三年生?スカーフの学年色は確かに三年生だ。しかし、言われなければ中学生って思うかもしれない。いや、可愛いですね。え?この人?

「はじめまして、曙川ヒナさん、因幡フユさん」

 ぺこん、ってその子は頭を下げた。マジか。

「佐原フミカです。お二人に会えて、とても嬉しいです」

 無邪気で、きらきらとした笑顔。フミカ先輩は、とても十八才とは思えない、ミニマムで可愛い系の女の子だった。



 この子が、あの願い星を?

 フミカ先輩は、司書室でパイプ椅子に腰かけている。足が床にぎりぎり。身長、百四十センチ台ですよね?ひょっとしてもっと小さい?ヒナの友達にも小さい子はいるけど、それよりってのは初めてだ。

 お茶菓子のクッキーをかりかりって食べてる。なんだろう、小動物みたいだ。リスとか、デグーマウスとか。ええっと、この方が三年生で、ヒナよりも二つか三つは年上で、四月からは大学生とかなんですよね?

 普段は癒す方担当のフユが、すっかり癒されている。うん、確かに見ているとほっこりするよ。それは間違いない。

 全く、世の中には判らないことが多すぎる。


「お二人のことは、以前から気になっていました」

 クッキーを五つばかり平らげたところで、フミカ先輩は語り出した。たまに視線がクッキーの方に行くので、多分まだ食べたりないんだろう。いいですよ、遠慮なさらずにどうぞ。そう言ったら、またかりかり齧り出した。これは先輩に対して言うことじゃないかもしれない。しかし、あえて言わせてもらおう。うはぁ、かわえーわー。

「私はそういう力は全然弱くて、むしろギリギリだって言われてました」

「言われてたって、誰に?」

 フユが素早く問いかけた。すっかり見惚れているのかと思っていたら、ちゃんと話は聞いていたのね。しっかりしている。

「私におまじないを教えてくれた、先生です」

 フミカ先輩は、順を追って色々と説明してくれた。


 フミカ先輩には、もともと霊感のようなものがあった。見えないものを見て、聞こえない声を聞く。ただ、それはあまりにも弱くて、意識していなければ全然気付けない程度のものだった。

 目の前に何かがいても、あれ?今何かいた?で終わり。不思議な音がしても、あれ?今何か鳴ってた?で終わり。正直あっても無くても変わらないくらいの、微弱な力。

 その力を見出したのが、フミカ先輩言うところの「先生」だった。


「先生は、自分のことを魔法使いだって言ってました」

 それはまた、凄い。自称魔法使い。そんな人がいるんだ。

 呆れるやら感心するやらしていたら、フユは意外にも真剣な顔で考え込んでいた。フユ、ひょっとして魔法使いに知り合いでもいるの?

「そう名乗る人は知ってるけどね」

 ええっ、いるんだ。まあ神様だっているくらいだもんなぁ。魔法使いがいても不思議じゃないか。今更何が出てきても驚くつもりは無い。とは言え、自称魔法使いはちょっとサムい気もするな。


 フミカ先輩は、その魔法使いにこの願い星のまじないを教わったということだった。出自は人から力を奪う良くないものだが、使い方さえ間違えなければ、きっと人を助ける力になるだろう、と。

 力が弱いフミカ先輩にはうまく扱えないものが多いが、他にも沢山のおまじないを先生は残していった。危険であっても、正しく使うことで、誰かを助けることに繋がる術式。今は使えなくても、時が経てば何かに役立てることが出来るかもしれない。

 そのおまじないの数々は、フミカ先輩がノートにきっちりと記録してあるということだった。


「先生は、じゃあ今はもう?」

「もともと一つの所に長くいることは無い、とのことでした。今どこにいるのかは、私にも判りません」

 なるほど、旅の魔法使いってわけか。

 しかしそれは何というか、諸刃の剣な気がするな。正しく使われる限りにおいては、確かにそのおまじないは、誰かの役には立つだろう。

 でも、正しく使われなければ、どうなってしまうのか。善意を持っていた人間が、いつまでもそのままだとは限らない。仮にその人が善意の人間であったとしても、その人が更に別な人におまじないを教えるとなったらどうだろう?その相手もまた善意だけの人であるなんて、保証が出来るわけじゃない。

 元々は人を傷付けるために作られた呪いだ。それが、ずっと良いことのみに使われるかなんて。そんなことは、誰にも判らない。


「その先生とやらはロマンチストだね。世界が善意で出来ているとでも思ってるんだ」

 フユがため息を吐いた。

「人間の善意を信じて、そんなことをしているんだ。それで、世の中が良くなるって」

 椅子から立ち上がると、フユはヒナに背を向けた。どうしたのかと思って振り返ると。

 フユの身体が、小刻みに震えていた。

「あの人は何にも変わってない。私を、フユを助けてくれた時から、何にも」

 すすり泣くフユの声が、司書室の中に響いていた。




 三月の陽射しが暖かい。季節は春になろうとしている。ヒナは今ぐらいの時期が一番好きだ。

 バレンタインがあって、ハルの誕生日があって、ホワイトデーがあって、ヒナの誕生日がある。イベントが目白押し。ハルの気持ちを感じられて、幸せになれる。

 今年は特にそうだ。晴れて彼氏彼女、恋人同士になって、お互いに好きって感情をさらけ出したまま、お祝い事を迎えられる。二月はヒナがハルに愛情を注ぐ月だったからね。今度はハルの番。楽しみにしている。


 土曜日、久し振りのデートだ。色々悩んだ結果、今日は花火大会の時にも来た国立公園を訪れることにした。本当はショッピングモールでお買い物、とかも良かったんだけどね。

 少し、静かな場所で心を落ち着けたいって思ったから。何しろ考えることが多すぎる。

 ハルは何処でも良いよって言ってくれた。いつもわがままばかりでごめんね。そんなヒナを許してくれるハルだから、ヒナは安心してハルのものでいられるよ。



 フミカ先輩におなじないを教えたのは、かつてフユを助けてくれた人だった。


 故郷も、家族も無い。名前さえも「寒い時期に産まれた」というだけで「フユ」と呼ばれていたフユ。フユの過去は、悲しみと痛みで満たされている。自分がそこにいる理由すら判らないまま、フユは銀の鍵を手にした。そして、苦しみからの解放、即ち自らの消滅を鍵に願った。銀の鍵は自己否定の願望を叶えることが出来ず、そのまま鍵の契約は暴走した。

 銀の鍵の力を使って、他人の心の中を覗き見て。その時、フユは初めて自身が普通ではない、哀れな存在であることを知らされた。自らの境遇を正しく理解した結果として。フユは、自らの存在そのものに対して、嫌悪感すら抱くようになってしまった。

 そんなフユには、銀の鍵の守護神であるカマンタがつき従った。カマンタはフユを生かし続けようと、献身的に尽くした。ナシュトとはえらい違いだ。だが、フユはカマンタに常々申し訳ないと思っていた。カマンタを、いつまでもフユのつまらない人生に付き合せたくはない。こんなフユと共にある理由など何処にもない。

 フユが鍵に願ったのは、自らの消滅。ならば、自分が消えてしまえば、カマンタはその責務から解放される。

 そう考えると、フユはためらうことなく橋から身を投げた。世界に未練なんて何も無かった。自分みたいなものが生きている意味なんて、何も無い。


 次にフユが気が付いた時、フユは病院のベッドの上にいた。重症のフユを救助してくれたのが、魔法使いを名乗るその人だった。

 その人はありとあらゆる伝手つてを頼り、フユが普通に生活していけるような手はずを整えてくれた。生活保護、支援団体。その人は人間の世界だけでなく、目に見えないものの世界にも精通しているようだった。フユを土地神様に紹介してくれたのも、その人だ。

 何故見ず知らずのフユのためにそこまでしてくれるのか、フユには判らなかった。フユには何も無い。生きている価値も、ここにいる意味も。それなのに、その人は持っている全てを投げ出してでも、フユに普通の人生を歩ませようとしてくれた。


 フユが自分の戸籍と、部屋と、生活を手に入れて。高校にまで行ける段取りになった時。その人はフユにお別れを告げてきた。フユのことが無ければ、もっと早くに発つつもりでいたらしい。どうしても気になって、フユは最後にその人に訊いてみた。どうしてここまでしてくれるのか。フユには何も無い。お礼も、何の見返りも提供出来ない。


「私は、世界が善意で出来ているって、あなたに見せてあげたかったの」


 そう言って笑ったその人の笑顔は、何よりも輝いていて、眩しかった。

 フユは、それを自分の大切な宝物であると語った。


 念のため、フユがフミカ先輩の記憶を確認した。間違いなく、フユを助けた魔法使いさんであるということだった。恐らく、フユがこの辺りで生活出来るようにと色々動いた後に、フミカ先輩に接触したのだろう。随分と行動的な人だ。


 フミカ先輩が魔法使いさんに出会ったのは、今から二ヶ月ほど前のことだった。街中で迷子を見つけて、一緒にお母さんを探していたら、そのまま二重遭難になってしまった。なんか普通に想像出来て可笑しい。困り果てて揃って半べそをかいていたところに、雉虎きじとらの猫が現れて、二人を導くようにして前に立って歩いた。

 猫の後をついていって二人が辿り着いた児童公園に、迷子のお母さんがいた。無事に発見出来てほっとしているフミカ先輩に、魔法使いさんが声をかけてきた、ということだった。


 魔法使いさんは、恐らく猫と会話が出来る。であれば、銀の鍵の力に近い。ひょっとするとトラジに聞いたら何か判るかもしれない。トラジは土地神様のところにいる、近隣の猫たちのボスだ。猫たちは共有意識で情報伝達しているというし、ヒナが銀の鍵を手に入れた時には、一斉に警戒して村八分にしてくれたくらいだ。間違いなく何かを知っているだろう。


 それにしても。

 人の善意を信じて、人を助けて、おまじないを授けて。

 確かに、ロマンチストなんだろう。お人よしも良い所だ。そのせいで誰かが苦しむ結果が生じないなんて、誰にも保証出来ない。


 でも。それでも。


 目の前にいる人を助けたかったんだ。誰かを助ける力を与えたかったんだ。

 世界が善意で出来ているって、信じたかったんだ。



「ヒナ、疲れてる?」

 ハルが心配そうに声をかけてきた。ああ、ごめん。ちょっと考え事してた。暖かくなってくるとぼーっとしちゃってさ。

 実際今日はとても過ごしやすくていい気候だ。デート日和。モールとか屋内よりも、こうやって太陽の光を浴びるのに最適。公園の広い芝生にも、カップルや家族連れがいっぱいだ。

 幸せな時間。光に満ちた世界。これが、その魔法使いさんが望むものなんだろうか。


 少し歩いて、小さい子供向けの遊具が置いてある場所にやって来た。わいわいと大騒ぎだ。小学二年生のヒナの弟、シュウを連れてきたら大はしゃぎしそうだな。エネルギーの塊みたいな子だし。

 空いているベンチに腰かけた。日当たりが良くて気持ちいい。春の太陽は、そのままハルに抱かれているみたいな温もりがある。繋いでいるハルの掌も、同じくらい暖かい。

「何か買ってくるよ。待ってて」

 そう言って、ハルは売店の方に歩いていった。あー、結構並んでるじゃん。そういえばもうすぐお昼だ。無理しないで自動販売機の缶コーヒーあたりでもいいのに。


 ぼんやりと空を眺めていると、小さな女の子がヒナの方に駆け寄ってきた。何だろうと思っていたら、ベンチの周りをきょろきょろと見回している。失くしものだろうか。

「どうしたの?何か失くしたの?」

「かばん、うさぎさんのかばん、見ませんでしたか?」

 女の子は今にも泣き出しそうだ。そうか、失くしちゃったか。それは困ったね。

 そっと記憶を覗き見る。本人が忘れているような些細なことであっても、銀の鍵は見逃さない。トイレの横、水飲み場で手を洗った時。ああ、そこに置いたんだ。

「向こうのトイレの横にある、水道の所は探してみた?」

 指差してあげると、女の子はちょっと頭を下げて、たたたって走って行った。きっと見つかるよ。そう願ってる。


 これも善意かな。ヒナには、あの子を助ける力があった。助けてあげたかった。

 銀の鍵の力を、人のために使う。こういう使い方もある。不思議だな。気持ち悪くて、さっさと投げ捨てたいって思っていたこともあったのに。


 今は、どうしたいんだろう。



 ごう、と風が吹いた。砂埃が舞う。春先には強い風が吹く。

 風に乗って、色々なものがやって来る。


「こんにちは。曙川ヒナさん」


 後ろから声をかけられた。なんとなくそんな気はしていた。この公園に足を向けたのも、予感がしたからだ。ナシュトは何も言わなかったけど、きっとこの出会いは予見していたんだろう。

 この人は、危険な人ではない。

 それが判っているから、わざわざ警告なんて発する必要が無い。だからといって、さぼり過ぎじゃないですかね。あーあ、ヒナもカマンタの方が良いなぁ。無愛想イケメンなんてマンガの中だけで十分だよ。


「何て呼べばいいですか?魔法使いさん、ですか?」

 振り返らずにヒナは訊いた。ちょっと困惑している気配がする。思っていたよりも普通の人みたいだ。女の人。声の感じだと、落ち着いた大人の女性。

「じゃあ、それで」

 軽い足音がして、ヒナの正面に回り込んでくる。白いロングコート。ブラウンのハーフブーツ。フェイクファーのネックウォーマー。栗色の髪が揺れる。ええっと、思っていたよりも若いというか。

 魔法使い?

 うーん、どっから見ても女子大生、だな。少し洒落っ気というか、飾り気が足りない。清純派女子大生って感じ。シャギ入ってる肩までのサラサラヘアー。ピアスは開けてない。おっとりとしているようで、気が強そうな美人。目力が強いんだな。茶色の瞳は、光の反射で金色に輝いて見える。油断していると吸い込まれてしまいそう。

「はじめまして、えーっと、魔法使いです」

 そう言って、魔法使いさんははにかんだように微笑んだ。やっぱり自分でもその呼ばれ方、恥ずかしいんですね。迂闊にも、ちょっと可愛いとか思ってしまった。


「フユのことも心配だったし、一度あなたに直接会ったみたかったの」

 ヒナの隣に座ると、魔法使いさんはヒナの顔をまじまじと見つめてきた。すごい視線だ。銀の鍵があるから更に判る。流石に心を読むまでは無いにしても、見えないものを見通す力を感じる。

「どうですか?」

「うん、安心した。思った通りの子で」

 そう言って目を細めて笑う。ちょっとほっとした。あんまりその瞳で見られていると、おかしくなってしまいそう。

「邪視を強化してるからね。ごめんね。びっくりさせちゃったね」

「邪視?」

「目線に魔力を込めるのよ。まだ勉強中だからうまく使いこなせなくて」

 ごしごしと魔法使いさんは目をこすった。そのまま、またヒナの方に視線を向ける。思わず、うっ、と身構えてしまった。恐る恐る魔法使いさんの顔を確認すると、今度は普通の茶色い瞳があるだけだった。

「一応、私も警戒してたんだよ。銀の鍵だなんておっかなくって」

 なるほど、魔法使いだ。

 警戒していたのはお互い様だ。ヒナだって魔法使いなんて正体不明でおっかない。しかも自称だし。もっとこう、黒いローブを着て、鼻がニンジンみたいに長くて、イッヒッヒって笑ってるのかと思っていた。

 これだと単なる優しいお姉さんって印象。さっきの目線が無ければ、自称魔法使いってトコロも怪しいと思えるくらい。

 すっかり毒気を抜かれてしまった。ハルの方を見ると、まだ行列に並んでいる。やれやれ、これはまた、ゆっくりとお話が出来そうだ。


「フユもフミカも、元気にしているみたいね」

 ヒナから二人の話を聞いて、魔法使いさんは安心した様子だった。直接二人に会えば良いとも思ったが、それはしたくないとのことだった。

「私自身、まだ修行中の身だから」

 魔法使い、としての修行。魔法使いさんは、生まれつき見えないものを見て、聞こえないものを聞く力を持っていた。しかし、そこまで止まりだった。ヒナにはそれでも十分だと思えるけど。魔法使いさんはより強い力を見せつけられて、本格的に自分を高める決心をした、ということだった。

「私があなたくらいの頃は、それこそ失敗ばっかりしてた」

 誰かを助ける。そのために自分の力を使おうとしても、うまくいかないことばかりだったそうだ。結局それは誰かを傷つけてしまったり、事態を余計にこじらせてしまったりにしかならなかった。

 それは、ヒナにも良く判ることだった。銀の鍵もそうだ。この力は難しい。今までだって、この力を使ったところで、ロクなことにはならなかった。いらないって、真剣に捨てようって考えていたことすらある。

「力は、結局使い方次第なのよ。刃物と一緒。人を刺すのも、果物の皮を剥くのも、同じナイフ」

 いつだったか、ナシュトも似たようなことを言っていた。銀の鍵は純然たる力。その方向はヒナが決める。ヒナが使い方を間違えなければ、正しい結果は得られるのだろうか。


「魔法使いさんは、人の善意を信じているんですか?」

 ヒナの質問に、魔法使いさんは少し驚いたようだった。フユを助けたのもそう。フミカ先輩におまじないを教えたのもそう。それは一歩間違えれば、大きな過ちを生み出したかもしれない。

 いや、今だって過ちに転じる可能性を秘めている。正しさが永久に、無条件に続くなんて、誰にも言い切ることは出来ない。

 それでも。


「信じてるよ。私は、世界は光と優しさで満たされるって、信じてる」


 魔法使いさんは断言した。強い意志。そうでなければ、こんなことは出来ないだろう。人を信じて、善意を信じて、この人は正しいと思うことをしているんだ。自分に出来ることをするために、魔法使いなんて名乗っている。

「あなたはどう?」

 ヒナは、どうだろう。そうであってほしいとは願っている。

 ハルと生きていく世界。フユが生きていく世界。そこには、嫌なことも、苦しいこともあるだろう。

 でもそんな時には、誰かの善意が、優しさの手が差し伸べられるって。

 ヒナは、そう信じてみたい。

 ちらり、とハルの方を見た。ヒナは、ハルのことが好き。ハルと幸せに生きていきたい。ヒナの願い。それを叶えるためにも、世界には、優しさで満たされていてほしい。

「信じたいです」

「じゃあ、頑張ろう。あなたには、その力があるんだから」

 魔法使いさんは笑った。暖かい笑顔。ヒナを、世界を、何もかもを信じているって表情。不思議と、裏切れない気持ちにさせられてしまう。胸の奥が熱くなる。

 これもきっと、この人の魔法なのだろう。


「時間だ。行くぞ」

 ヒナの足下から突然声がした。ビックリして見下ろすと、大きな雉虎の猫が知らない間にベンチの下に潜りこんでいた。

「うん、判ってる」

 魔法使いさんは立ち上がると、ヒナに握手を求めてきた。白くて、綺麗な手。この人には、悪意は無い。あるのは、何処までも真っ直ぐな善意。

 それは正直危なっかしいとも思う。

 でも、少なくとも、この人はヒナの敵ではない。魔法使いさんの目指している世界は、ヒナにとってすごく心地良い。

「フユとフミカに、元気でねって」

 ヒナは魔法使いさんの手を握った。柔らかくて、華奢で。素敵な人だ。

「ああ、それから、神様にもよろしくね。最近顔出せてないから、いじけてそう」

 そう言えば土地神様とも顔見知りなんだっけ。トラジよりも、そっちに聞いた方が話が早そうだ。小さく手を振って、魔法使いさんは去って行った。雉虎の猫も、知らない間にいなくなっていた。「サキチさん、待ってー」とか、ちょっと情けない感じの声が聞こえてきたような。大丈夫なんだろうか。



 ハルが飲み物とかホットドックとか色々と抱きかかえて戻ってきた。

「ごめん、なんかすごい混んでて」

 ううん、ありがとう、ハル。ヒナのためにこんなにしてくれて。ちゃんと感じるよ、ハルの愛。優しさ。善意。

 うさぎの顔がプリントされている鞄を抱きかかえた女の子が、ヒナの方に走り寄ってきた。ぺこん、って頭を下げて、また何処かに走って行く。良かった。見つかったんだね。

 ハル、やっぱり、世界は善意で満ちていてほしい。ヒナはそう思う。幸せだって気持ちを、みんなと分かち合いたい。ハルと一緒に、ここにいて良かったって思いたい。

 そう、そしてそれだけじゃなくて。

 ヒナは、そっと自分のお腹、おへその下辺りに触れた。ヒナの願い。夢。それが幸せなことであるって、信じたい。




 魔法使いさんに会ったと言ったら、フユとフミカ先輩が揃って「ずるい」を連呼してきた。そんなことを言われましても、向こうから訪ねて来たのであって、ヒナにはどうしようもないのです。フユもフミカ先輩も、あの人には強い思い入れがあるみたいだ。まあ、また機会はあるんじゃないかな。そんな気がするよ。

 最近、フミカ先輩は毎日のように学校に来てくれている。フユに、魔法使いさんから教わったおまじないを伝えるためだ。術自体はカマンタに聞けば判るだろうが、それをどのように応用するのかは、魔法使いさんの知恵だ。手元にあるナイフを、人を刺すこと以外に使う方法について。道具が人を生かすか殺すかは、その使い方次第。


 フユはとても興奮していた。銀の鍵の力を、誰かを助けるために使えるかもしれない。

「私は、カマンタと離れられないからね。銀の鍵の力を、なるべく良いことに使いたいんだ」

 契約が暴走した銀の鍵を手放すには、鍵が叶えられなかった願いを自分の力で達成する必要がある。フユの願いは自己の消滅。フユが生きている限り、銀の鍵とカマンタはフユの手元に残される。

「少し前なら、いつでもこの世界からいなくなってしまえば良いって、そう思ってた」

 フユは自分の胸元に掌を乗せた。そこには、大きな傷跡がある。他にも、大小無数の傷の名残が、フユの身体には刻まれている。フユという人間が、苦しみと悲しみを背負ってきた歴史。

「今は違うよ。私はここにいたい。フユとして。この傷痕も含めた全部。フユという一人の人間として、ここにいたい」

 魔法使いさんに命を助けられて、人の善意に触れて。フユは大きく変わったという。誰かのために生きる。誰かに必要とされる。学校でヒナや、他の友人たちと触れ合って、フユはそういった世界の優しさを知ることが出来た。

「私は、恩返ししたいんだ。私のことを助けてくれたみんなに、世界の優しさを伝えることで」


 そもそもフユは、からっぽな自分自身のためでは無く、誰か他の人のためになることをしたい、なんて言っている子だった。やり過ぎない程度に頑張ってくれれば良い。きっと魔法使いさんも喜ぶことだろう。

 フユとフミカ先輩は、毎日放課後の図書室で語り合っていた。ヒナは部活があるので全部に参加することは出来なかったが、必要なら後でフユに教えてもらえば良い。大きな目標が出来たからか、フユはとても楽しそうだった。


 フユは、一生銀の鍵と付き合っていくしかない。だから、最初からそういう覚悟が出来ている。

 では、ヒナはどうだろうか。ヒナの願いは、今、叶いつつある。多分あと数年もすれば自然に叶うんじゃないか、というところまで来た。嬉しいことだ。銀の鍵なんて、神様の力なんか無くたって、ヒナはちゃんとハルと愛し合える。夢を実現出来る。

 そうなれば、銀の鍵はどうなるのだろう。気になったので、ナシュトに訊いてみた。

「その瞬間から、契約が破棄可能になる。いきなり鍵が消えるわけではない」

「じゃあ、そのまま持ち続けてたら、どうなるの?」

「残り続ける。もしヒナ、お前がそれを望むなら、だ」

 なるほど、そこは都合よく出来ているんだね。捨てるも使うもヒナ次第。いつでも手放せるという安心感を得られるのは良いことだ。まずはそこからだな。

「持ち続けるつもりか?」

「さぁ?」

 そんなの、その時になってみないと判らない。ここで、「捨てる」と即答しなくなったなんて、ヒナも随分変わったものだ。苦しみしか生み出さなかった銀の鍵だけど。

 もし、ヒナが銀の鍵を手放したとして。この鍵は、今度は何処かの欲望と悪意にまみれた誰かの下に行くかもしれない。

 それならば、少なくとも今はヒナが持ち続けているべきだろう。頭のおかしい誰かさんに、こんな危険なものを譲るわけにはいかない。

 大丈夫、ヒナが間違えた時には、止めてくれる人がいっぱいいる。今は、色んな人がヒナのことを支えてくれている。そう考えることが出来るんだから、実に気楽なものだ。

 フユもいる。フミカ先輩もいる。土地神様もいる。トラジもいる。魔法使いさんもいる。この一年で、ヒナは沢山の絆を手に入れた。誰にも言えなかった悩みを、分かち合える仲間たちだ。

 ヒナには友達がいる。サユリ、サキ、チサト、ユマ。そして、大好きなハルがいる。みんなが幸せであってほしい。ハルと一緒に、光の溢れる世界で生きていきたい。

 そのために、ヒナにも、出来ることがある。ううん。

 ヒナにしか、出来ないことがあるんだ。




 卒業式が近付いて来て、学校の中は少しだけ慌ただしくなった。とは言っても、一年生にとっては一部を除いてそれほど関係は無い感じ。吹奏楽部のチサトは、演奏の練習でてんてこ舞い。ヒナなんかは、水泳部の先輩に渡すコサージュ作りのお手伝い程度。部活をしていないフユは、相変わらず図書室でフミカ先輩とおまじないの勉強をしている。

「そういえばホワイトデーって、三倍返しなんだよね?」

 お昼のお弁当の時間、フユがまた何処から仕入れてきたのか、愉快なことを言い出した。

「まあ、そういう説もあるな」

 じゃがいも1号、お前しっかりとフユからチョコを貰っておきながら、そういう言い方は無いだろう。すっとぼけやがって。そんなんだからじゃがいもなんだ。

「義理なら尚更お返ししないとね。失礼ってものでしょう」

 サユリがじろり、と男子ィを睨みつける。いいぞ、もっと言ってやれ。

「んでもさ、因幡から貰ったチョコって手作りだろ?お値段の付けようがないというか」

 お前、本気で汚いな。適当に買ったもので済ませようとしているのがバレバレだ。散々クレクレ言っておいて、いざあげてみたらこれだよ。渡し甲斐が無いというか、そりゃモテないわアンタ。

「確かに金額では表しにくいよね」

 じゃがいも2号までそんなことを口にする。もう知らん。フユ、こいつらには二度とチョコをあげるな。クラスの切れ目が縁の切れ目だ。二年生になって別クラスになったら、完全に他人のふりだ。っていうか他人だ。見知らぬ男子ィだ。

「手作りに対するお返しは、やっぱり手作りよねー」

 ユマが、にやりと笑った。あ、その顔知ってる。ハルのお母さんが良くやる奴だ。

「今日、丁度調理実習室が使えるのよ」

 いもたちの顔が、さぁっと青くなった。ほっほう。そうですよね。手作りにお値段が付けられないなら、お返しもお値段の付けられない手作りであるべきですよねぇ?

「いや、俺たちはそんな・・・」

「クッキー作るの?」

 フユが目をキラキラと輝かせて身を乗り出してきた。いいぞ、フユ。ナイス食いつき。

 確かちょっと前にヒナがフユの家に遊びに行って、一緒にクッキーを焼いたんだよね。思ったよりも簡単だって言って、大喜びで二人で食べたんだっけ。多分その時のことを思い出したんだ。

「いいなぁ。みんなで焼いたクッキーが貰えたら、とっても幸せになりそう」

 はい、いもたちグゥのも出ず。これは決定だね。今日は部活お休みして、急きょおよめさんクラブに参加してきなさい。

 そこで他人事みたいな顔しているハル。ハルも参加だからね。

「えっ?俺も?」

 当たり前でしょう?ハル、フユからチョコ貰ったじゃない。鼻の下伸ばしてデレデレしてたじゃない。貰った物にはちゃんとお返ししましょう?ヒナは、そういうところがしっかりしている彼氏が良いな。

「ヒナ、なんか怒ってない?」

 怒ってないです。フユにしっかりと、『義理チョコ』のお返しをしてくださいって言ってるんです。過不足なくね。

「ごめんね朝倉君。それでチャラってことにしておこうよ。ヒナのためにもね」

 楽しそうだな、フユ。まあ確かに、男四人がフユのためにクッキーを焼くって、それはなかなか愉快だとは思う。

 ん、じゃがいも2号、早速携帯でクッキーの作り方とか調べ始めてんのか。なんだ、結構やる気じゃないか。感心感心。他の三人も、いい加減覚悟決めな。ここにいる女子全員で試食してやるから。

「楽しみだねー」

 フユ、先に言っておくけどね。

 男子ィにまともなお菓子作りなんて、期待しちゃダメだからね。



 放課後、調理実習室には情けない顔をした男子ィ四人が整列していた。んー、なんだぁ、元気が無いなぁ。気合入れていこうじゃないか。

 クッキーの材料なんて、調理実習室には一揃えある。バターも卵も、およめさんクラブが提供してくれたよ。ココアパウダーもあるし、張り切って二色使っていただきましょう。普通に二種類?マーブル?チェック?いいよー、バッチこーい。あ、クラッシュナッツもあるね。およめさんクラブ、便利いいな。ヒナもちょっと作りたくなってきちゃった。

 なんだか知らないうちにフミカ先輩まで来ていたので、女子総勢七人の視線が注がれている。男子ィたちは、携帯の画面と家庭科の教科書を睨んだまま、石のように固まっていた。こらー、そんなことしててもクッキー生地は出来ないぞぉ。

 結局見かねて手助け有りになってしまった。まあ、作るからには食べられるものが出て来てほしいじゃん。バターとか高いんだよね。無駄にはしたくない。チョコ作る時だって楽じゃ無かったんだよ、ってところを解ってもらえれば良かったんだけど。


 えーっと、ハル、この粉はふるいにかけましたか?「え?どうせ粉だろ?」ううう、判ってはいたよ。いたつもりだったよ。でも、流石のハルもそこまで万能では無かったのかって。いいよ、家事はちゃんとヒナが担当します。お世話させてくださいね。

 じゃがいも1号、それ、ちゃんと量測った?「あー、大体このぐらいだろ」いやいや、計量命だからね?お菓子の場合、ちょっとした分量の間違いが致命傷になるからね?つーかバター無駄遣いすんな。殴るぞ。

 じゃがいも2号、ベーキングパウダーそんなに入れちゃダメ。入れれば膨らむってもんじゃないから。「別に平気じゃないの?」ダイレクトに味にくるんだよ。激マズになるぞ。それ人に食わせんなよ?もう本末転倒だ。

 さといも、表面に卵黄塗るんだ。「え?教科書に書いてあったから」うん、書いてあるね。なんというか、そういうのすっごい懐かしいや。悪くは無いよ。うん、良いんじゃないかな。ははは、卵もったいねぇ。


 チョコレート作りの比ではない大パニックだった。確かに普段からキッチンになんて立たないだろうし。ましてやお菓子作りなんか知識も興味も無いだろう。しかし、それにしても、だ。

「情けない子たちだなぁ」

 フミカ先輩にまでそう評されてしまった。見ているとイライラして来たので、女子は女子でそれぞれクッキーを作ることにした。おお、フミカ先輩すごい、こういうの得意なんですね。

 みんなフラストレーションが溜まっていた結果か、やたらと気合の入ったクッキーが大量に出来上がってしまった。その横に、男子ィたちの作った残骸、じゃなくて男クッキーが並ぶ。ははは、焼いた小麦粉とバターの混ぜ物。材料が超もったいない。

「なんかもう見た目からしてヤバくねぇ?」

 それを作ったのは自分たちだという自覚を持ってくれよ。食べる産業廃棄物だ。仕方無いからここにいる全員で胃袋に収めるからな。不味くても文句言うなよ。

「わー、まずーい」

 フユがすごく楽しそうだ。一つ食べてはまずい。もう一つつまんではまずい。ホントに何でも楽しいんだね。ヒナはもう、これでどれだけのバターと卵と小麦粉が犠牲になったのかって、それを考えたら目が回りそうだよ。

「生クリームとかチョコソースとか付けて、味を誤魔化した方が良いかもね」

 サキがもう全てを諦めたかのようなアイデアを口にする。うん、まあ、味はそれでも良いかな。それはそれとしてさ、あそこに塊があるでしょ?あれゲンコツ煎餅よりも硬いよ?どうしよっか?牛乳で煮てみる?オートミールみたいになりそう。

「クッキーとスコーンの中間みたいな感じだね」

 チサトの評価がある意味一番厳しい。うん、クッキーじゃないなコレは。なんかもっと禍々しい何かだ。口の中がざりざりする。

「これがお金に換算出来ない気持ちか。まあ確かにこれでお金取ったらマズイよね」

 サユリが綺麗にオチを付けてくれた。これはお金を出して、引き取ってもらわないといけないレベルだよね。ううう、こんなの食べちゃって、明日お腹痛くならないかな。フミカ先輩、胃腸に効くおまじないってあります?ハルも無理しないでよ?


 ハルの様子を窺うと、ハルは物凄く複雑な表情でヒナの顔を凝視していた。ん?どうかした?

「ヒナ、今までゴメン」

 突然ハルに頭を下げられた。ヒナだけじゃなくて、その場にいる全員がビックリだ。ハル、ホントにどうしたの?変なもの食べた?あ、食べたか。ゲーする?ゲー。

「今まで、ヒナの作ったお菓子とか、なんかひょいひょい食べてた。こんなに大変だとは知らなかった」

 あはは、なんだそういうことか。気にしないで。好きでやってることなんだから。

 ハルのためなら、お安いご用ですよ。いつも残さず食べてくれるハルに、ヒナはむしろお礼を言いたいくらいです。おいしく食べてくれるなら、それで十分なんですよ。

「朝倉君は、ヒナの愛をもっと良く知った方が良いよねー」

 もっしゃもっしゃとクッキーを口いっぱいに頬張りながら、フユがハルに何かを差し出した。ハート形の、小さなクッキー。ヒナが作った奴だ。

「この小さなハート一つにも、ヒナはちゃんと気持ちを込めてるんだよ?」

 ま、まあ確かにそうなんだけどさ。そうはっきりと目の前で言われちゃうと恥ずかしいな。

 ハルはハートのクッキーを受け取ると、まじまじと見つめた。んーと、今日はみんなとわいわいやってたし、そこまで気合入ってないんだ。最初からハルにあげるつもりなら、もうちょっと完成度あげるかな。

 でも、おいしく食べてほしいって気持ちは入ってる。それは常に入れてる。ヒナちゃん特製だからね。食べる人に喜んでほしい。それがハルなら、尚更。

「ヒナ、ありがとう」

「どういたしまして」

 大好きなハルにそう思ってもらえれば、ヒナはとても幸せですよ。


 さて、ヒナとハルのラブラブ劇はこのくらいにして。フユはちゃんと満足した?もうおいしいとかマズイとか関係ないよね。

「うん、ちゃんと気持ちは入ってたと思うよ」

 なら良かった。男子ィお疲れ。手作りには手作り。もし次に手作りチョコを貰うようなことがあれば、今度はもっとマシなお返しが出来るようになっておくんだよ。

「いや、手作りはもう懲り懲りだ」

 何言ってんの。本命の手作り貰えるように頑張れっつってんの。大事なのは気持ち。ハート。お菓子作りだけじゃなくて、何事にも気持ちを入れていきなさいってこと。

 フユが男子ィにあげた手作りチョコには、義理であっても沢山の気持ちが入ってたんだよ。その重さ、しっかり受け止めなさい。これが本命だったら更に重いんだから。それが貰えるような、受け止められるような男になるんだよ。

「うはーい」

 なんだ、気が抜けた返事だなぁ。フユはこれで良いの?

「わー、フミカ先輩のクッキー美味しい」

 聞いてないし。

 しかもフミカ先輩が作ったクッキー、ヒナも食べたいし。

 もういい、今日は解散。流れで。




 卒業式まであと一週間に迫ったある日、三年生の間に一つのニュースが流れた。入院していた生徒が無事回復し、卒業式までに退院出来る見込みだ、というものだ。

 図書室でその知らせを聞いて、フミカ先輩は涙を流して崩れ落ちた。フユがその身体を抱き締めて、しきりに「良かったね」と声をかけていた。きっと、そこには単純な善意以上の何かがあったのだろう。

 願い星は、みんなの願いを叶えてくれた。きっとフミカ先輩以外にも、喜びに打ち震えた人はいたはずだ。沢山の人に、夢と希望を与えてくれた。

 ヒナも、自分のことのように嬉しかった。ヒナたちには力がある。誰かを助けることの出来る力。誰かを幸せに出来る力。世界を、善くすることの出来る力。

 それが認められたって、そう感じられた。魔法使いさんの望む世界を、ヒナも目指してみたくなった。




 ホワイトデーの朝。良い天気だ。いつもよりも清々しい。お弁当の準備をして、カバンに詰めて、「いってきます」って言って、玄関の外に。

「おはよう、ヒナ」

「おはよう、ハル」

 すぐそこで、ハルが待っている。そういう約束だった。


 学校に行く前に少し寄り道したいから、ヒナの家の前で待ち合わせしようって。天気予報もばっちり確認済み。まあ、雨だとしても別に構わなかったかな。ハルと一緒に雨音を聞いていると、昔を思い出して今でも胸がときめく。

 ヒナを助けてくれたハル。ハルの背中の感触。心臓の音。そして、恋に落ちる音。ふふ、ヒナ、なんだか今とってもどきどきしている。

「何処に行くの?」

「そんなに遠くじゃないよ」

 ハルについて歩く。そういえば、去年告白された時もこんな感じでした。学校の裏まで歩いていって、そこで好きだって言われて。ヒナの、明るい高校生活は始まった。

 この一年で、ヒナは多分一生分の幸せを手に入れた気がするよ。ずっと欲しかった、ハルの気持ち。これが手に入ったなら、もうこれ以上の幸せなんて何も無いんだから。間違いなく、人生最大級です。

 太陽の光が暖かい。春だ。ハルの季節だ。霧が出ている。ふんわりと、世界をソフトフォーカスに沈めている。

 土手の上の道に出た。早い時間だけど、ジョギングしている人や、犬の散歩をしている人たちがちらほら。見下ろす河原の芝生が、霧の海で霞んでいる。まるで、ナシュトの見せる乳白色の湖みたい。


 ハルが何処に向かっているのかは、もうはっきりとしている。

 二人が始まった場所。ヒナがハルに恋をして。ハルがヒナを背負い続けようと決めた場所。

 昔、ヒナが小学校三年生の頃。ヒナは生まれたばかりのシュウにお母さんを取られると思って、雨の中自転車で家を飛び出した。宛てもなく走り続けるうちに、ヒナは転倒して、この土手の下に転げ落ちた。

 怪我をして動けないヒナの泣き声を聞いてくれる人は、誰もいなかった。ヒナは一人ぼっちだ。もうヒナのことなんて誰も助けてくれないんだって。そう思った時。

 ハルは、来てくれた。

 ヒナを背負ってここを登った。ハルのお母さんに病院に連れていかれる間、ずっと手を繋いでいてくれた。「大丈夫だよ」って言ってくれた。


 そして。

 中学の時、一度だけ見てしまったハルの心の中。ハルがヒナに望んでいたこと。

 二人で並んで、笑って。あの場所、河原の土手の上に立っていること。優しい願い。純粋で、素敵なハルの気持ち。


 ハルは今、願いを叶えようとしている。ずっとずっと、ハルの心の中にしまわれていた、宝物のような眩しい想い。

 うん、ヒナも、一緒にいたい。その場所で、ハルと同じように感じたい。だから。

 大丈夫だよ。待ってます。


 思っていた通りのその場所で、ハルは歩みを止めた。ヒナが横に並ぶ。ハルの顔を見て、微笑む。ハルは真剣な表情。緊張してるね。

「ハル、堅くなってる」

「そりゃあ、一世一代なんだから。それなりの覚悟を決めてるんだ」

 それはそれは。有難いことです。軽くてもなんでも良かったのに。ハルは真面目だなぁ。そういうところも大好きですよ。

「じゃあ、聞かせて。ヒナが待っているもの」

 多分、ハルは正しく応えてくれる。ヒナが欲しいものなんて、きっとハルは判りきってる。何年も一緒にいるんだもの、当たり前だよね。

 お互いの気持ちだって、本当は判ってた。ちょっと臆病になって、遠回りしちゃったこともあった。でも、そのお陰で高校生活はどきどきしっぱなしだった。

 好き、っていいな。こうやって相手の全てを受け入れて。優しくなろうって、思える。

 世界が、きらめいて見える。


「ヒナが待っているって言うよりは、俺がそうしたいってだけなんだ」

 でしょうね。ハルは独占欲が強いからなぁ。まあ、ヒナもそうしたいと思っているから、それでも良いんじゃない?

「私は、ハルがそうしてくれることを待ってるんじゃないかな?」

 今日はあんまりとぼけないでおこう。ハルがちゃんと言ってくれるように、ね。

「どうかな。どうも、俺はヒナが思うよりも、なんというか、ずっと重いことを言おうとしているのかもしれない」

 へぇ。ハル、ヒナのことそんなに好きなの?

 じゃあ、ヒナと勝負してみる?どっちの愛が重いのか。ヒナも負けない自信はあるよ?

 ハルがちゃんと言ってくれたら、ヒナも教えてあげる。

 ヒナの愛が、どれほど重いのか。


「ええっと、まずは。俺は、ヒナのことが好きだよ。ずっと好きだった。今でも好きだ。ホントに、すごく好きだ」

「ありがと。とっても嬉しい」

 好きが溢れてますね。くすぐったい。ハルに好きって言われると、心がふわふわしてくる。

「ヒナは俺に色んなことをしてくれる。何でもしてくれて、何でも許してくれて、その、つい甘えてしまう」

 ハルにされて嫌なことなんて何も無いんだよ。ハルのお世話をするのも大好き。甘えてくれても良いよ。ハルはヒナの居場所なんだから。ハルも、ヒナの所にいてほしい。ヒナを、ハルの居場所にしてください。

「ヒナは、ずっと俺の大事な人だ。大切で、その、簡単に手を出すというか、そういう気持ちになっちゃいけないというか」

 はいはい。我慢してるんですよね。別にいいのに。思うままに汚してくれても構わないのに。その辺はちゃんと理解出来てるつもりだよ。ハルも男の子なんだなって。

「無理しなくてもいいのに。それとも私、そんなに魅力ない?」

「そんなことないよ。可愛いよ。ヒナは、可愛い。綺麗で、素敵だ」

 そう言ってもらえれば満足です。ハルのために可愛くしているんだからね。ヒナは全部、ハルのものだよ。

「この前、ウチに来て晩飯作ってくれただろ」

 ハルのお誕生日だね。あれは大変だった。作るのもそうだけど、ハルもカイも、ハルのお父さんも矢鱈食べるんだもん。ハルのお母さんちょっと不機嫌になっちゃったじゃない。そっちの気遣いもしなきゃで、ヒナはいっぱいいっぱいだったよ。頼むから、普段からお母さんのこと、もうちょっと感謝してあげてね?

「あの時、凄く楽しくてさ。家族がいて、ヒナがいて、みんなで賑やかなのが、俺は好きなんだなって」

 ハルが笑った。あんまりしない笑顔だ。ハル、そんな風に笑うの、ヒナは初めて見た。ヒナが見たことの無いハル。

「ヒナ」

 ハルの右手があがる。ヒナの頬に、掌が触れる。くすぐったい。あたたかい。

 ハルの笑顔から、目が離せない。優しい。ヒナのことだけを見て。ヒナのことだけを想って。

 すごい。どきどきが止まらない。ハル、ヒナ、今すごくどきどきしてる。

 きっと今までの人生で一番、ハルのことが好きだって思ってる。ハルの笑顔が、視線が、ヒナを照らして、貫いて。

 ヒナの中にいる本当のヒナが、ハルの姿に見惚れている。うん、自分でもわけがわからない。なんだろう、この感じ。ハル、ヒナは今、ハルに全てを開いている。

「俺がそうしたいってだけのわがまま。こんなことを言って、ヒナを困らせるだけかもしれない。でも、俺からのお願いだ」

 ハル。ヒナは、待ってた。今この瞬間のためだけに、ここまで生きてきた。


「ヒナ、俺と、家族を作ってほしい」


 ぼうっとしてしまった。確実に意識が飛んだ。何にも考えがまとまらない。ええっと、ええっと。

 顔が熱い。うわ、熱い。ハルの掌。思わず両手で掴む。何やってんだ。ええっと、ええっと。

「ヒナ?」

 ご、ごめん、ハル。ちょっとだけ待って。ちょっとでいいから。ホントにちょっと。

 落ち着け心臓。もう、いいから静まって、止まらない程度に。一瞬なら止まっても良いから。ブレーキ。急制動。エマージェンシーブレーキ。

 深呼吸しようか。大きく吸って。吸って。はい、吸って。吸ってー。そのまま吸ってー。吸ってー。

 ・・・過呼吸で死ぬわ。何を混乱しているんだ。

「ええっと、やっぱり重かったかな。そういうつもりじゃ・・・」

「違うの。そうじゃないの」

 ハル、そうじゃないの。

「その、今の、プロポーズ、だよね?」

 演技でも計算でもなく、目がうるんでしまっている。うん、判ってた。こういう言葉をかけてくれるって、そう思ってた。

「まあ、そのつもりだ」

 思ってはいても、いざ現実に言われてみたら、感情が完全に大爆発してしまった。うわぁ、って。もう理性とか思考とか、何処に行ったのか判らないくらい砕け散った。星になれィ、って言われた気分。

 ハルはヒナと、家族を作りたいの?

 震える。

 手が、足が、身体が。心が。

 どうしよう。ハルはちゃんと応えてくれた。ヒナに、全部の気持ちをぶつけてくれた。

 ハルの愛を感じる。ヒナは、ハルの気持ちを手に入れた。ずっと見失っていた、大切な人の、大切な想いを。

 こんな。

 こんな素敵なものを、ハルはヒナに与えてくれた。

 嬉しい。どうしよう。涙が出てくる。身体も、意識も、何もかもが言うことを聞かない。

 しっかりしなさい、ヒナ。ハルが、全部の気持ちをヒナにぶつけてくれたんだよ?だったら、ヒナにもやることがあるでしょう?

 ヒナも、一歩前に進まないと。ハルの気持ちに、応えないと。

 止まれ、涙。止まれ、震え。止まれ、心臓。あ、心臓はダメだ。動いて動いて。

「ハル、あのね」

 心の中で約束したから、言わないとだよね。ヒナの夢。ヒナの願い。

「私、夢があるの。ハルがいないと叶えられない夢」

 ハルの手を、強く握る。そうか、ついにこれを言葉にするのか。まさかこんな日が来るなんて。それも、こんなにも早く。

 恥ずかしい。恥ずかしくて死んじゃう。

 でも、ハルだってちゃんとヒナにプロポーズしてくれたんだ。

 なら、ヒナも言うんだ。告白するんだ。

 ずっとずっと、想い続けてきた夢を。願いを。大好きなハルにぶつけるんだ。

「えっとね、色々誤解とか、変な印象とか持たれるかもしれないから、ずっと言えなかったんだけどね」

 なあなあでも良かった。なし崩しでも良かった。結果が得られるのなら、過程なんて本当にどうでも良い。

 そう考えていた時期もあった。

「ハルが、私のことをそんなに大切に想ってくれてるなら、言ってしまっても良いかなって」

 ううん、ハルがヒナのことをそこまで愛してくれているから。

 ヒナは、この願いを口にします。ハルに、ヒナのことを知ってほしいから。

 ごめんね、愛が重くて。ヒナの愛は、やっぱりハルに負けない。少なくとも、同じくらいは重い。そう思うよ。

「私ね」

 ハル、大好きだよ。


「私、ハルの子供を産みたいの」


 今度はハルが固まる番だった。完全に真っ赤。まあ、そうだよね。そうなるよね。

 ええっと、プロセスの方じゃないよ?結果の方ね。その、行為じゃなくてそのリザルトの方だからね。もう、だから言いたくなかったんだ。滅茶苦茶恥ずかしい。


 ヒナの中に、大好きなハルが入ってきて、ヒナと一つになる。それが新しい命になって産まれてくる。

 それって、もう考えただけでどきどきして、幸せな気持ちになってくる。だって、ヒナとハルが、一つになるんだよ?それが子供になって、ヒナの中で育つ、産まれてくる。大好きなハルと自分の子供。すごく素敵。

 ヒナとハルの想いを繋いで、この世界に残す。二人の絆の証。世界のきらめき。

 とっても重い、ヒナの愛。


 ずっと、それが出来たらいいなって思っていた。だって、ヒナはハルのことが大好きで。ずっとずっと、いつまでも一緒にいたくて。ハルのために、ヒナに出来ること、ヒナにしか出来ないことがないかなって思ってて。

 お嫁さん、になれれば、それが一番良いんだけどさ。それには、ハルにちゃんと選んでもらう必要があるでしょう?

 ヒナはそんな、物凄く可愛い子ってわけじゃない。どんなに頑張っても、せいぜい普通の女の子。他に沢山いる女の子の中から、ハルに選んでもらえる、奥さんにしてもらえるだなんて。そんな自信は、正直全然無かったんだ。

 だったら、せめてハルの子供だけでも残したいなって、そんな風に思ってた。ハルの赤ちゃん、ヒナも欲しいもの。ハルが望むなら、ヒナはハルの好きにしてもらって構わない。ヒナに出来ることは、そうやってハルの子供を身ごもって、産んであげることくらいかなぁって。

 そんなこと考えてたんだよ。馬鹿でしょ?馬鹿だよね。大馬鹿。

 本当に、なあなあでも、なし崩しでも良かったんだよ?ハルが思うままに汚してくれても良かったんだよ?ヒナはね、ハルの子供が産めれば、それで幸せだったの。そんな、投げやりな夢だったんだ。

 それなのに。

 ハルは、ヒナのことを好きだって言ってくれた。

 ヒナのことを大切だって言ってくれた。

 ヒナと家族を作りたいって言ってくれた。

 ヒナに、プロポーズしてくれた。

 嬉しい。

 嬉しくて死んでしまいそう。

 去年、ハルに告白された時、ヒナは一度その場で死んだよ。ばらばらになって、また生まれ変わった。そのくらいの衝撃だった。ハルに好きって言われるの、ヒナにとってはものすごいことだったんだよ。

 それが今度はプロポーズだって。もうおかしくなっちゃいそう。こんな日が来るかもって、想像していなかったわけじゃない。でも。

 現実にこの時が来たら、その衝撃は、もう何もかもを上回っていた。ヒナは今、ハルで満たされている。それ以外の何もかもが、光になって意味を成さない。世界は、光になった。ヒナとハルを包む、眩しくて優しい光に。

 ハル。ヒナは、ハルのことが好き。もう一生離さない。ずっとずっと、ヒナの傍にいてください。


「作ろう。私たちの、家族」

 ハルの胸に顔をうずめる。ハルが抱き締めてくれる。あたたかい、ヒナの居場所。ここは、もうヒナだけの場所になった。良かった。心の中が、ふわふわしてくる。

「一生、大事にしてください」

 あの時、バレンタインの日に言おうとした言葉。ハルが、ヒナに言わせようとしたお願い。

 お待たせ、ハル。引き留めちゃってゴメンね。はい、ちゃんと言いましたよ。一か月間、頑張って溜めました。

「ああ。約束する。ヒナのこと、一生大事にするよ」

 ありがとう、ハル。ヒナは待ってました。ハルのその言葉を。

 ヒナは、ハルのことが好き。誰よりも、何よりも。ハルのこと、大好き。愛してる。



 で、どうするの?まだ我慢するの?

「いや、だって高校生だし。その、何か間違いとかあったら困るだろ?」

 はあ、ハルはそういう間違いが起きかねないやり方を望むんですね。そういうこと考えるから言いたくなかったんだよ。

「ちょ、事故とかだってあり得るんだぞ?」

 はいはい。ハルは真面目なヘタレですからねー。

「ヒナとは家族を作る約束をしたんだ。俺は、それをちゃんと守りたい」

 うん、わかった。ハルの気持ちはちゃんと伝わったよ。ヒナはハルにお任せ。方針変更はいつでも受け付けるからね。

「ヒナがそう思っていてくれてるなら、それで良いんだ」

 じゃあ、子供は何人欲しい?一人じゃ寂しいよね。男の子?女の子?

「いきなりそれかよ」

 あー、ハルのエッチ。ハルこそいきなり何考えてるんだか。



 世界は光と優しさに満ちている。

 ヒナは、そう信じてる。

 これからヒナとハルが生きていく世界。そこには、夢と希望がある。

 愛がある。

 そう、信じてる。



 曙川ヒナ、十六才になりました。

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