私を野球に連れてって


 放課後である。


 なぜ俺がグラウンドにいるのか、その正当性を誰か説明してほしい。

 俺はひとえに押しに弱すぎる。頼まれたら断れない超いい人。

 まあ、暇すぎて断る大義名分がないってのはデカい。


 前園が「体育のジャージでも着りゃいいよ」なんていうものだからジャージを持ってきたが、いったいどこで着替えればよいのか。


 迷っていると、キャッチャーのあいつが鼻歌で ”Take Me Out To The Ball Game” を歌いながら、一礼してグラウンドに入ってきた。

 メジャーで七回表終了時にストレッチと称して歌う、野球やってるやつなら大概知っているあの歌だ。

 練習って普通憂鬱なもんじゃないのか。えらく楽しそうなものだ。


「よう、トンカツ!」

 そう呼んでも、彼女はしばらくキョトンとした顔をしていたが、すぐに察したという表情をした。


「あ、わたしのこと? そういえば名前言ってなかったね。わたしは役所あやめ。よろしく」

「おう、よろしく。俺は妙見昇」

「あ、えっと……ノボさん!」


 本人の知らないところでどこまでも拡散していくこのあだ名よ……。


「それでな、トンカツ——」

「さっきの自己紹介意味あった!?」

 的確なツッコミかもしれんが、そんなことは知らん。ノボさんって呼ぶお前が悪い。

「まあいいや……。今日も手伝ってくれるの? ありがとうね」

「おう。それより着替えるところがなくて困ってるんだ……」

「ああ、そっか……」

 事情を察したトンカツは、割と真面目に着替える場所を考えてくれているみたいだ。

 ここの部員のなかで唯一の神対応だし、感謝しかない。ただノボさんはやめろ。


「じゃあ、ここのベンチでいいんじゃない?」

 ええっ!? そうきましたか……。


「あの……丸見えなんですが……」

「わたしが見張っててあげるから」


 なんか不安しかないし、もうなんならトイレでもいいのだが、せっかく見張ってくれるなら……。

「じゃあちょっとお願い。すぐ終わるから」


 俺はそう言うと、すぐ見えてしまいかねない簡易なベンチの奥の方に引っ込んだ。

 トンカツは一応ベンチの前に、こちらに背中を向け立っているので、多分他のメンバーが来ても止めてくれるだろう。


 グラウンドに入ってくる足音はいくつか聞こえてくるが、他の部活の人たちらしく、こちらを特に気にすることもなく通り過ぎてゆく。


 すると、トンカツが慌てた表情でベンチ横の入り口に駆け寄っていった。

 ま、まずい……。誰か来たな……。


 トンカツの声だけが聞こえてくる。


「ちょっと待って!」

「ん、なんだよ」


「あ、あ、えっと……昨日のトンカツさあ——」


 下手だ!足止めするの下手すぎる! せめて正直に言えばいいのに!


「ああん? トンカツとかしらねぇよ。そこどいて」

「ちょ、ちょ、ちょっとお!」


 トンカツのトンカツネタを振り切ったらしく、足音がこちらへ向かってくる。


 今、俺の下半身パンツ一枚だけ。


 急いでジャージを履こうとするが、よりによって裾を踏ん付けてしまう。

 ベンチの入り口の端から色の薄いショートカットがチラリと現れた。


「あ……」

「えっ……」


 落合さん……。


「うわああああぁぁぁぁぁぁ!!!! 死ねぇ! 変態!」

「ぐはぁっ!」


 見事なまでのハイキックを頭に食らった。





 頭はやめてほしい、頭は。


れん、やりすぎだよぉ……」

「ちゃんと止めないおまえもおまえだ!」


 着替え終わって頭をさする俺をよそに夫婦めおと漫才のように言い争う二人。

 よく考えたらトンカツはキャッチャー、落合はピッチャーのはずだな。大丈夫なのかこのバッテリー……。


 しばらくすると、前園も ”Take Me Out To The Ball Game” を歌いながら入ってきた。

 しかも、よく知られたコーラスの部分だけでなく、ヴァースまで英詞で完璧に歌っている。これはちょっと引くレベル。


 あれか、この部に入ると強制的に覚えさせられたりとかするのか?

 野球部にありがちな、何かの罰で校歌を歌う的なイベントがこの曲になったら、さぞかしほのぼのとするだろう。


 そのうち他のメンバーも集まり、柊木ひいらぎの神業のごときライン引きを経て練習が始まった。


 俺は三塁側の倉庫から道具をせっせと出す。


 普段なら選手がやっているが、せっかくなので仕事でもしようと吉川に申し出たら「ありがとう。それは助かるわ」と道具出しを全部頼まれてしまった。


 部員でもない人にそんなことを全面的にやらせてしまって、それはそれでいいのかとも思ったが、他人の厚意に遠慮はしないってのがこの部のいいところなのだろう。多分……。


 バットやらボールやら全部道具を揃えてベンチの前でボヘーっとしていると、グラウンドの外で遠慮がちに立っている女子達に気づいた。

 きっと見学に来た一年生だろう。


 彼女らはほっといても動き出しそうにないので、吉川に耳打ちしてグラウンドに入れる許可を取った。


「あ、君達ぃ」

「は、はい!」


 声をかけると、ビクッと大げさな反応を見せる新入生達。


「女子野球部の見学だよね」


 確認をとってからベンチに案内する。まあ座れるところがあればよかろう。

 すると、色白でボブヘアの子が尋ねてくる。おそらく昼に言っていた誰ぞの妹って子だろう。


「あの、マネージャーさん……出来たらバットを振ってみたいのですが」


 振っていいのかはともかく、俺はマネージャーではない。


 これまた、吉川に確認をとる。


「うん、いいみたいだ。よかったらみんな振ってみたら」


 三人は少し緊張した面持ちでバットを手に取った。セーラー服にバットというのも不釣り合いなようで、なぜか趣がある気がしてくる。


「うわ……重い……」


 みな恐る恐るバットを振るが、むしろバットに振り回されている有様で、不慣れなビギナー感がビシビシ伝わってくる。


「あ、重かったらこっち使いなよ。一応女子用で軽いから」


 道具を見ているうちにわかったのだが、この部にはミズノの女子硬式用バットである「セレブリティ」が置いてある。このシリーズには82㎝、810gのモデルがあり、かなり振り抜きやすいはずだ。



 当然というべきか、男子高校野球の規定の影響で、市販の硬式金属バットは900g以上がほとんどなのだ。

 男子の基準が一般化しているということなのだから、これは女子が野球をやるうえでの一つの障壁に違いない。



 しかし、皆がバットを持ち替える前に、ブンという確かな風を切る音がした。

 思わず振り返ると、あの「妹」が左打ちでしっかりと振り切ったフォロースルーを決めている。


 一瞬の静寂の中、もう一回空を切る。


 間違いない。こいつのスイングだ。


「野球経験者なのか」

「はい、中学までシニアでやっていました」


 なんということだ。野球経験者どころか硬式出身ではないか。


「はは……でもやはりこのバットは重いですね。そっちにします」


 よく見ると彼女が振っていたのは、長距離打者が振り回すタイプのバットだ。こいつは重心が比較的ヘッド寄りで、振ると重く感じる。


 それをしっかりと振り切ったというのは普通ではない。


「ああ、それで……。見学に来たのはこれだけ?」

「は、はい……。これだけ……ですね……」


 彼女は言外の意も汲み取ったのか、言葉を続ける。


「一応誘ったことは誘ったのですが、反応はあまり良くなくて……」


 無理もないことだ。それこそ無理に連れてきていてもしょうがないだろう。



 すると例によって、キャッチボールを終えようとしている部員たちが急にそわそわしだした。


 ——来なすったね。


 脱帽の号令とともに直立不動、そして頭をさげる。まさしく日本の文化そのものだ。


「お願いします!」


 ジャージ生地のパンツにVジャンを着込んだ先生は、律儀りちぎに返礼をする。ちなみに "pants" は英語圏でも、イギリスとかだと普通に下着って意味になるから注意な。


 とりあえず新入生が見学に来ていることは報告しといたほうがいいだろう。

 先生の入ってきたグラウンドの入り口まで駆けて行く。


「こんにちは」

「おう、こんにちは。いつもありがたいよ。それにしても今日はジャージか。気合い入ってるな」


 まったく気合いが入っていないどころか実は蹴りが入っているわけだが、まあそれはいい。


「ところで、先生のお耳に入れたき儀がございます」

「ふむ、申してみよ」


 若くて美人でさらに茶目っ気があるとか完璧なのか、と我ながらリスキーなフリをしておいて思った。


 しかじかを説明していると、残っていた三人が自らこちらに来た。妹氏が率先して挨拶をする。

 素晴らしいことだが、あんまり目立つとこの代のキャプテン確定しちゃうよ? いいの?


「こんにちは。私たち見学させていただいています。よろしくお願いします」

 後に他の二人もお願いしますと続く。


 「させていただく」っつーのはなんとも冗長な表現だなと思いつつ、魔が差して俺は先生の紹介を始めてしまった。


「こちらの先生が顧問の高……たか……」


「…………」


 皆、黙りこんで俺の言葉の先を待っている。


 えっと……。


「タカ……たか何先生でしたっけ?」

「覚えてなかったのか!」


 間髪入れないツッコミに新入生たちが思わずプッと笑いし出した。


「まあいい……私は高望だ。この野球部の監督、教科担当は国語だ。妙見、君も覚えておいてくれよ」


「はい……」


 すると、キャッチボールを終えた部員たちが吉川の集合の合図と共に集まってきた。


「うむ、みんな集まったな」


 先生は一同を見回すと、次のメニューについて話し始めた。


「今日はありがたいことに一年生が見学に来てくれた。せっかくだから少しボールに触ったりして体験してもらおうと思う」


 恐らくちゃんとプレーさせると、ケガした時に保険とか責任の問題になってしまうんだろうが、まあ多少はねというやつだ。


 先生は新入生に割と新しめのボールを持たせると、部員を振り分けて教えてやるように言った。


「監督、私はブルペン入っていてもよいでしょうか」


 やや強い語気で問う。落合だ。


「ふむ。これにそんな人数はいらんだろうし、かまわんよ」

「はい」


 落合はすぐさまトンカツ、もとい役所の腕をひっつかんだ。


「あやめ、行くぞ」

「えっ、でも新入生見ないの?」

「いいから行くぞ」


 トンカツはそのまま引きずられるように連れて行かれてしまった。


 こちらでは新入生のキャッチボール体験が始まる。

 やはり一名を除いては全くの素人のようで、塁間も放るのが難しそうだ。

 どうしても野球経験者には注目が集まるようで、自然と人だかりができる。すると、ツインテールで小柄な新入生が申し訳なさそうに話しかけてきた。


「全然できなくて……なんかすみません……」


「大丈夫だ。みんな初めはそんなもんだよ。実は俺もこの部活にまだ慣れていなくてな」

「え、マネージャーさん今年からなんですか!?」


 マネージャーでも部活に入ってもいないが、とりあえず「初めて感」だけ共有できればいいだろう。


「まだ顔出してから一週間も経ってない。なんつーかな、とりあえずあれだ、一緒に頑張ろう」


「は、はい!」


 大したことは言ってないはずだが、彼女は嬉しそうにまた球を投げ始めた。これである程度勧誘にも貢献できたかな。

 いや、そもそも俺は部外者だ。別に、ほぼ無理やりやらされているような活動に貢献する必要なんてないのだ。

 まったく、無駄なエネルギーを使ってしまった。


 部員も新しい風に目をキラキラさせているものだから、俺がここにいなくても指導は問題ないだろう。


 俺は誰にも気づかれないような影の薄さを発揮して、伊賀者とも甲賀者ともつかぬ動きで三塁側の鳥籠兼ブルペンに忍び寄った。


「なんだ。気が散る」


 そっと背後から眺めていたのに、すぐに気づかれた。こやつ何者。


「ああ、さっきはすまなかった」


「……」


 返事すらしない。むしろ背中で早くあっちに行けと語っているようだった。



「落合ってより山田だな」


「…………。山田久志は私の尊敬する選手だ」


 なるほどそうだろう。今日におけるアンダースローのイメージにはない、まさしく速球にこだわるサブマリン。

 普通はこれだけ球速があればアンダーになどさせないはずで、えらく珍しいパターンだ。


 ワインドアップから左足を踊るように高々と上げ、そのまま流れるように体を沈み込ませる。

 左足を着地させた後、股関節を中心にうねりあげる動きを見せる。低空でリリースされたボールはおじぎすることなく、「原点」と言うべき外角低めに構えたミットに突き刺さった。


「いい球だな」


「……」


 再び沈黙が降りる。


 あちらでは、デモンストレーションとして内野手を配してのノックが始まった。

 新入生たちは一塁側ベンチの前に立ち、興味津々といった風である。


「新入生に興味は無いのか?」


「ない」


 落合は食い気味に答える。


「即戦力は一名。あとは素人。それだけだ」


 そう言ったあと、黙々と投げ続ける。



 ノックは首尾よく進み、一年生も楽しんでいるようだった。特に二遊間の二人が華麗なグラブ捌きを見せつけているから尚更だろう。


 しかし、どうもショートを守っている内の一名の動きが悪い。下手というより、順番が来ても構えていなかったり、ベースカバーに入るのを忘れたり、明らかに集中力を欠いている。それに、順番を待っている時もそわそわと落ち着きがない。


 まあ、そもそも待ち時間が長くなってしまう練習はあまり効率が良くないな。


 そいつは、後ろになびいた髪の色から椿つばきとかいうやつだとわかった。内野は本職ではないのかもしれないが、それにしても少し緊張感が無さすぎる。


 それでも、なぜか先生は一向に厳しく叱る気配を見せない。

 代わりに、同じくショートに入っていたセミロングの髪のやつが、色々と教えてやっているようだ。



「おい、気づいてるか」


 落合が突然話しかけてきた。


「え、なにを……」

「ほら、部室の横」


 目を凝らして落合の指差す方を見ると、一塁ベンチの向こう側、体育教官室と部室棟を繋ぐ渡り廊下のあたりに、人目を憚るように立つ女子生徒が見えた。


「……見学者?」


「バカ、おまえは目が悪いのか? それともカンが悪いのか?」


 まあ、実際目はあまり良くないが、思い当たる節は一つしかなかった。


「えっ、まさか……」


「ちょっと前からそこで見てる」


 彼女はこちらに来る気配は微塵もなく、微動だにしない。


「呼んだ方がいいか……」


「知らん」


 そっけない態度でまた投球を再開する。


 すると、トンカツがマスクを取ってマウンドまで駆け寄ってきた。彼女もどうやら気づいたようだ。


「ねえ、あれさ……」


 遠慮がちに小さく指をさす。


「ああ、俺らもちょうどそれについてな……」

「呼んであげた方がいいんじゃ……」

「そんなの自分の意志の問題だ」


 落合は毅然として言う。


「いいから早く戻って。私は投げたいんだ」


「なにそれ。ちょっと冷たすぎるんじゃないの?」


 トンカツは少し不機嫌な声色になったが、背を向けてマウンドから降りた。


「きっかけを作ってあげることくらい……したってバチは当たらないんじゃない」


 そう言うと、特に抵抗はせずホームベースへ戻って行った。

 投球練習が再開され、現状は変更されることなく続く。ノックもつつがなくやっている。


 ちょうどノッカーからはベンチに隠れて見えず、野手からは視界に入る位置である。

 もしかすると、ノックを受けているメンバーの中には、彼女に気づいている人もいるのかもしれない。それでもなお、誰も動こうとしない。


 恐らく、いや恐らくだが、この一見順調に事が運んでいるように見える空気の中、リスキーな選択は誰もが取りにくいのだ。


 それは周囲に対する同調であり、保身でもある。


 みんなそれぞれ、今まさにこなすべき役割があるゆえに、それが動かない理由になっている。自分のやるべきことはこっちだと、自分に言い聞かせている。


 俺が——動かないといけない気がした。


 この瞬間手持ち無沙汰なのは俺しかいない。


「やっぱ俺、行ってくるわ」

「えっ」


 落合が振り向くが、俺は構わず一塁側へと歩を進めた。



 その刹那せつな――。


 ショートの守備位置にいる三人から一人がスッと抜け出ると、後ろ髪を靡かせ、ノックの進行も目をくれず駆け出した。


「おい!? 椿!?」


 みな、守備位置から一歩も動かず唖然あぜんとしている。


 彼女は一塁線を越えると新入生を横切り、出入り口のネットをき揚げて出て行った。


 コンクリートにカチャカチャと足音が響く。


 椿は、目を見開き立ち尽くす隻腕せきわんの少女に駆け寄ると、その左手首を掴んだ。


 目を見据え何か声をかけると、問答無用でグラウンドへ走る。


 なされるがままの彼女を土の上まで連れてきた。



「この子も新入部員よ」



 衆目の中、椿は意外なほど強い声で言い放つ。



 どう考えてもアホみたいな行動だ。褒められたものではない。


 しかし、現に誰も行動できずにいた。今も、あの時も。



 誰も答えられずにいる沈黙を打ち破ったのは先生だった。


「よし。シートノックは中止だ。ボールを用意してやれ」


 誰とも言われていないが、吉川は即座に糸のほつれていない良質なボールを用意し、隻腕の少女に渡した。


「私が受けるから投げてみるといいわ」


 吉川は一塁ベンチ前を横切ってホーム付近まで下がった。


 皆、一塁側にわらわらと集まってくる。


 後ろを見ると落合も気になるらしく、投球を止めてそれを眺めている。


「向こう行ってきたらいいじゃん」

「は!? い、いや、私は自分の練習に集中するんだ」


 落合はそう言うと、気になるから行こうよと言うトンカツを無理やり座らせ、再び投げ始めた。



 まったく……気になるなら素直に行けばいいのに……。それにしてもトンカツがかわいそうである。


 俺は関心の赴くまま、そちらに歩みを進めた。


 しかし、いきなり投げるには少しその距離は遠すぎるんじゃないかとも思う。


 隻腕の彼女はやや不安そうな顔をしていたが、左手に手にしたボールを見つめると、右足を高々と上げた。

 スカートゆえに危ない。

 そのまま左足一本でまっすぐ立つと、綺麗なヒップ・ファーストの体重移動と踏み込みからボールを投げおろした。


 皆息を飲んだ。別にパンツが見えそうだからではない。


 いや、塁間より短いくらいの距離をノーバウンドで投げた以上のことではない。球も少し山なりだ。


 それでも、「お情け」くらいに思われていた隻腕の少女が、綺麗なフォームから吉川の胸へボールを投げ込んだのだ。



「す、すごいじゃないか!」


 前園が驚きの声を上げ、それはもう嬉しそうに話しかけた。


「経験はなかったんじゃないのかい!?」


「父や兄とキャッチボールしたことある程度で……」


「十分だヨ!」



 きっとよくある野球一家なのだろう。そのわりには、この子からはいかにも「文化系」といった香りがするが。


「え……で、でも……その、キャッチボールってどうやるんだい?」


 変な気を遣った回りくどい疑問文にも、彼女は要領を得たように答えた。


「こっちで捕るんです」


 左手をパタパタ開いたり閉じたりしながら答える。



「あ、誰かグラブ貸せるかい?」


 前園が周りのメンツに聞く。しかし、誰も答えない。



「あたしも守備位置に置いてきちまって。椿、貸して上げてくれないかい?」

「ダメよ」


 即答だった。


「いやでも君が連れて——」

「ダメよ」


 大事なことなので二回言ったんですね。


「型崩れするといけないから、他人にはグラブを貸さない方が良いって言っていたのは桃花ももかだわ」

「い、今は重要だから特別に——」

「わけがわからないわ」


 筋は通っているのかもしれないが、かなり頑固な意思のようだ。


「まあ——自分が貸そうとせずに人にいきなり頼むのは虫が良すぎだろ」

 見かねて俺は前園に話しかける。


「そ、そうだね……。しかし、あたしもあまり型を崩したくないんだヨ……。どうするかねぇ……」

「私のを使えよ」


 背後から声がした。振り返ると落合がピッチャー用の赤いグラブを差し出している。


「いいよ私のなら……練習用だし」


 隻腕の彼女が礼を言い頭を下げて受け取ると、吉川は元いた位置まで下がった。


「いくわよ」


 吉川はボールを右耳近くに抱えると、スナップの利いた鋭い球を放った。


 低い!


 そのボールは低空を飛び、彼女の目の前で地に触れ跳ね上がった。

 いけない。これは危ない。


 隻腕の少女はバックハンドでグラブを出す。そのまま落下地点に沿わせボールをすくい上げた。



 ボールは……グラブの中に収まっている。



「ちょっ! 危ないじゃないか!」


 前園が慌てて叫ぶと、吉川は少しニヤッと笑った。


「勘弁してくれ……保険にまだ加入していないんだぞ……」


 先生が右手でこめかみを押さえつつ、また叱られる……とブツブツ言っている。


「すみません」


 吉川は先生に謝るとそのままこちらを向いて、舌をぺろっと出した。


 こいつ……。


 先生もなんとなくわかっているらしい。


「まったくしょうがないやつだ……。君、名前は?」

みやこ……すみれです」

 

 



 ——最後の集合が終わり練習終了の礼をすると、輪が次第にばらけていく。


 早速、前園が新入りたちがっついている。どうせ明日も来るように約束させているんだろう。


 俺は椿に駆け寄る。俺が動く前になぜ彼女は走り出したのか、それを知りたかった。


 おい、と声をかけると、彼女は「何か用?」とばかりに振り向いて首を傾げた。


「どうして急にあんなことをしたんだ」

「あんなこと……?」


 どうやらとぼけているのではなく、本当に何のことを聞いているのかわからないらしい。


「いや、だから突然走り出して彼女を連れてきたじゃん」



「彼女の目が『私を野球に連れてって』って言っていたの」



 表情一つ変えず、さらりと詩的なセリフを吐いてみせる。照れを一切感じさせない目に見つめられ、言葉が出てこなかった。


「それよりあなたは誰?」


 一瞬なんて失礼なと思ったが、よく考えれば一度も自己紹介をしていない。

 前園の広報にも限界はあるんだろう。

「ああ、俺は——」

 すると、なんの前触れも無く思い出したかのごとく、先生が向こうからみんなに聞こえるように俺に話を振ってきた。


「そうだ妙見。それで、私の名前は覚えたか?」


 すかさず答えてやったぜ。


「タカギ先生!」


 一瞬時が止まったかと思うと、引きつった顔の先生を除き、みんな爆笑し始めた。



「おい、妙見。本気で言っているのか……」


 先生が怖い顔でこちらを睨んでくる。


 あれ……どっか間違えてたかな……?



 椿は相変わらず表情を変えず、全く違う方を向いている。

 彼女の視線の先を見ると、都すみれが他の新入生と一緒に屈託くったく無く笑っていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る