意識していなかった壁

 

 体を動かしている時などは少し楽になるのだが、依然として花粉は飛びまくっていて鼻をブンブンとやっている。


 前の席にいる前園が振り返る。


「いつも鼻をかんでいるね。君は鼻のブンブン丸かい」

「なにそれ、超ファンから愛されそうなあだ名だな」

「あたしも実は鼻炎持ちなんだよ」


 前園はポケットから保湿ティッシュを出す。


 なるほど、確かに同志かもしれん。鼻炎人間にとっては保湿ティッシュの確保は生命線なのだ。


「耳鼻科行ったらいいんじゃないかい。ネブライザー効くよあれ」


 ああ、鼻から蒸気みたいなの吸入するやつか。昔はよく耳鼻科に行ったものだが、最近はめっきり行ってない。


「それにしてもおまえ平気そうだな」

「クロモグリク酸ナトリウムってのがあってだね」

「は?」

「あれだよ。鼻にシュッとやるやつ」


 どうやら鼻に突っ込んで噴射する、スプレータイプの薬のことを言っているらしい。


「アレ効くの?」

「効くんだよ、それが」


 そんなものかなーと思っていると、教室の前のドアが開き、トンカツがトレーを持って入ってきた。彼女は寄り目気味になりながら、ドアの桟に足を引っ掛けないように足元を厳重に警戒して、ソロリソロリと歩を進める。


 俺の横までやってくると、なんの躊躇ためらいもなく主のいない机にそれを置き、椅子を引いて座った。ちなみに今日はトンカツではなく生姜焼き定食である。


 絶対そっちの方がいいぞ。胃にもたれないし。


「ノボさんは今日も来てくれるの?」


 今日こそは行かないぞと決めていたが、あまりにも無邪気な笑みを投げかけてくるので少し心が揺らぐ。


「当然じゃないか!」


 答えたのは俺ではない。


「そうだろう?」

 こいつもこいつで八重歯を覗かせながら笑う。


「いつも助かるわ」

 いつの間にか後ろから吉川も登場し、そう言った。


 俺は堪らず——


「はぁー」


 深いため息をついた。





 グラウンドへは無事昨日の四人が来ているようで、とりあえず一安心である。


「お、フォーフレッシュメンは全員来ているじゃないか」


 前園がひとりごちているので、俺は怪訝な視線を送ってやった。


「ん……あれだよ、新入生が四人でフォーフレッシュメン」


「いや……それはわかんだけどさ……。なんで英語にしたし……」


「知らないのかい? アメリカのボーカルグループ——」

「知らんわ」

 面倒だったので言葉を途中で遮る。


 練習も始まるようなので、そのまま三塁ベンチ横の倉庫まで道具を出しに行く。


 一年生は青のジャージを着て、とりあえずランニングについて行っている。しかし、どうも辛そうで、椿の妹以外は肩で息をしながら歩調も合わない。まずは体力からなんとかするということにはなりそうである。



 この日の練習は通常練習にできる限り一年生も入れるというものだったが、椿妹と都以外はグラブをまだ持っていないので、守備関連の練習の際は参加できていない。


 練習後のミーティングが終わり、ベンチ前で吉川が新入生を集めて声をかける。


「みんな入部を考えるなら、道具を揃えることが必要ね。二人はグラブを持っていないようだし」


 よく見ると都のグラブもヘナヘナのシナシナで、まるで体育の野球で使うクソグラブみたいである。

「それで……このあと時間あるかしら——」







 ——モノレールに乗って千葉駅まで来た。

 お目当は駅前のスポーツショップである。


 吉川と一年生達だけで十分じゃないかと思うのだが、騒がしい輩がたくさん付いて来ている。もちろん俺も、いる必要のない人物の一人だ。前園の口車に乗せられたことは言うまでもない。


 この総合スポーツショップは俺も幾度となく利用してきた。野球のフロアはこのビル上階にあって、階段が急なこともありなかなかキツイ。


 いろいろ見たいが、やはり始めはグラブからだろう。

「これがグローブよ。気になるのがあったら、触ってみるといいわ」


 椿妹もとい葵嬢はすぐさま外野手用のグラブをはめてみている。


「あなたは外野手志望なの?」

「はい、中学の時はライトでした」


 葵に質問をした吉川は、ちらっと長身のやや髪が茶色がかった人物を見遣り、冗談めかせた笑顔で言った。


「桜先輩……。ヤバいですね」

「やめてくれよぉ」


 苦笑いを浮かべるこの女性は、おそらくもう一人の先輩なのだろう。背の高い吉川とあまり身長も変わらない上、スタイルまで良い。


 新入生の他の三人は、様々なグラブを興味深そうに見ているが、どうも何を基準に選んだら良いかわからないようだ。


「特にポジションが決まっていないのなら、このオールラウンド用のがいいわ」


 どれどれと三人は勧められたグラブをはめてみるが、小柄なツインテールの少女は少々違和感を覚えたようだ。


「ちょっと……おおきい……」


 まあ、彼女の身長からすれば無理もない。


 前園からは君もせっかく来たんだから役に立ちなよと言われたので、てめぇが無理やり連れてきたんだろ——と言いたいのをこらえて、隣にあった小ぶりな内野手用のグラブをツインテに渡す。


「こっちの方が使いやすいんじゃないか」

「なるほど、セカンドが好みそうなポケットの浅さだね」


 本人がはめる前に、前園は隣にある同じ型のグラブをヒョイとはめて云々かんぬん喋り始める。


「わあ! 軽い!」

 ツインテールの子も、その違いにえらく感激している。


 しかし、もう一人一年生の、花の飾りがついたヘアバンドで後ろに一つに結わえた子が青ざめた顔をしている。


「あ……あの…………」


「なにかしら」


 口ごもっているので吉川が聞き返す。


「その……グローブってこのくらいするんでしょうか……」


 彼女はゆっくり指を差す。その先のラベルの価格表示には——四万四千円の文字。


 他の二人も「えっ!」と声を上げる。うん……そりゃそうなるよな……。


「硬式用だとそのくらいはするんだよ」

 吉川が答える前に葵が答える。


「そうね……もう少し安いのもあるけれど……やるならこのくらいの出費は覚悟ね」

「他の道具も揃えるとなるとかなりの額になりますね?」

「……そうね」


 当然吉川は葵の問いを否定しなかった。むしろ、否定できなかった。

 誤魔化しはきかない。


「そうですか——」


 その子はそう答えると、それ以上のことは聞かなかった。


 その後、この店ではバットやら練習用ユニフォームやスパイクなどを見て回ったのだが、何とも少し気まずさを漂わせていた。

 その後、すぐに解散となって帰ることにしたのだが、花の髪飾りの女子と吉川が残って二人で話していたのが少し気になった。







 ——翌日。


 昼休みには相変わらず女子野球部連中が二組の教室に大集合しているが、なにやら重苦しい雰囲気である。


 皆の話すところを聞くと、やはり昨日の新入生の出費の件らしい。


「前園。どういうことだ」

「なんていうのかね。要するに、カネがあんまりかかるなら入部できないってのが一人出てしまってね……」


 やはりか……。昨日の青ざめた表情をする彼女の顔が浮かぶ。


「しかしあれだろ。お下がりとかその辺で上手くやれば、そんなにかからないんじゃないか?」

「もちろんそう言ったよ。むしろ、いろいろ譲ってくれる人とか当たって、工夫して他の二人もやっと了承してくれたんだ。椿の妹以外は全くこの金額を予期していなかったみたいでね……。部費もあるし……」


 事態はかなり深刻そうである。


 すると、吉川が一年生四人をこの教室まで連れて入ってきた。

 皆の注目が集まると、吉川はおもむろに喋り出す。


「一応、先生に相談してきたわ。道具とかは出来るだけ何とかするけれど、やっぱり部費とか云々は、部活動の体裁上あまり特定の人を贔屓できないらしいの……」


 一人の子が申し訳なさそうに頭を下げる。

「本当にすみません……。実は家があまり裕福ではなくて……頑張ってもなかなかお金が出せなくて……すみません……」


「あなたが悪いんじゃないわ。全然謝る必要なんてないのよ」


 吉川の紹介によると、その子の名は桜木花。


 彼女は普通に学校に通っている。髪だって綺麗にしているし、身だしなみも他の女子とは大きく変わらない。

 それでも、きっと、あと一歩のお金が出す余裕がないのだ。一見なんの変哲もない女子ゆえに、この苦境はなかなか理解が得られないかもしれない。


「でも、先生は一つ秘策があると言ったわ」


 ——えっ!?


 皆が食い入るように吉川を見る。


「バイトよ——」







 バイトよ——。

「——って本当に先生が言ったのか!?」

 俺が食い気味で聞く。

「いや、正確には『バイトだ!』ってドヤ顔でサムズアップしていたわ」

「そこじゃねぇよ!」


 あの先生がドヤ顔で決めポーズするのはなんとなく想像できる気がする……。

 いやそんなことよりだ。


「バイトってこの学校は禁止じゃなかったか!?」


 この学校では、まるでバイトをすることは罪悪であるかの如くのたまう教師もいるので、すっかり全面禁止なのだと思っていたが?


「基本的には……ね」


「そうだね! 確か家庭の事情によっては届け出をすれば可能だったはず——」

 前園が生徒手帳をパラパラとめくる。


「ん! やっぱりそうだ!」


 みんな「おー!」と感嘆の声を上げる。


「部活のお金に困った時はバイト! 某軽音楽アニメからの伝統だヨ!」

 一人で前園はうんうんと頷く。


「でも、本当に許可が下りるのか?」

「先生が『そこは任せろ』って言っていたわ」

「——でも、あの人俺の一件以来職員室で肩身が狭いって言ってたような……」


 そこはかとない不安を感じたが、まあ、そこまで自信があるならいいだろう……。


「それで、本人や保護者の方もアルバイトをやることに賛成してくれたわ」

「おう。それなら万事解決か」

「いや、まだ決まっていないことがあるわ」

「……」


 さっさと結論を言って欲しいのだが、さっきからのこの間の取り方はなんなのだろう。注意を引きつけるある種の才能めいたところがあるなと思いつつ、たまりかねて尋ねる。


「……なんだよ」


 ……。


「何のバイトをするかということよ」


 ……。


「——そりゃそうだな」




——皆思案顔だが、特にこれと言った妙案は出ない。


 前園が交通量調査にしようと言い出したが、どう考えても一日時間が潰れて時間が練習や試合と被る上、長期で働くことができないので、即時却下された。


「出費は野球をやる限り続くから、長期で働けて出来るだけ練習と被らない時間帯が良いわね」


「そうなると平日の練習後か」

 俺は吉川に問う。


「そうね。土日は試合が入る確率が高いわ」

「そんな都合の良いところあるかあ?」


「郵便配達なんか良いんじゃない?」

 トンカツが手を挙げた。


「強豪校とか自転車で配達して足腰鍛えるって言うじゃん? 練習後ではなくなるかもしれないけど」


「なるほど……」


 皆、納得した顔をする。トレーニングになるなら一石二鳥だ。確かに郵便配達して鍛えるって言う話は聞いたことがある。


「いや、それは無理だね」


 みんなでそれは妙案と手を叩いている中、前園がスマホ片手に、冷水をぶっかけるように口を開いた。


「彼らがやっているのは年賀葉書のアルバイトだね。普段は自転車で高校生がやるようなアルバイトは募集してないみたいなんだ」


 再びうーんと皆で唸る。幾つか他にもアイディアを出したが、どれも時間の関係で採用できなかった。


 その時、落合が突然口を開いた。


「あーあ、もう諦めた方がいいんじゃない。てか、ほんとにお金ないの? あんまそうには見えないけど」


 案の定だ。皆も薄々思っていたことかもしれない。でも、それは口に出すべき言葉ではなかった。


「っ……!」


 桜木は青ざめた表情をしたまま唇を噛んだ。

 それでも、彼女は何も言い返せない。


「ほら、そのスマホとかカバンにキーホルダーとかつけてるし、あんまビンボーに思えないんだよね」



 ——その時、吉川が一歩前に出たかと思うと、落合の胸倉を掴んだ。


「あなた、それが野球をやりたいと言ってくれている人への態度なの!?」



 思わず俺は狼狽うろたえ、一歩後退りした。これまで穏やかな吉川しか見たことがなかったが、このような形で彼女の「意外な」一面を見ることになるとは思わなかった。


 教室の雰囲気も険悪になり、女子野球部以外の人達も事態の異様さを感じたようだ。


「無知と偏見で人を踏みにじるような人間なら、この部にはいらないわ」


 吉川はそのまま手を突き放すと、落合がよろめいて後ろに下がった。


「っ……悪かったな……」


 落合はそう言い残すと教室の後ろのドアを開けて出て行ってしまった。


「っ……ちょっと!」

 トンカツが追いかけて出て行く。


「……練習はしっかりいきましょう……」


 吉川もそう言い残すと前のドアから出て行った。


 皆、口を開くこともなく、あるいは声を潜めて散っていったが、一番不憫なのはその場に取り残され不安そうな一年生の四人だった。




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