春を告げる風
翔は必死にホームへベースカバーに入ったが、サードランナーの生還を許してしまった。これで2対1で相手に勝ち越された。裏の攻撃で点を返さなければ負けが決まってしまう。
「だから言ったのに」
椿が不満そうな顔をしている。
前園がまあまあとなだめながら、向かい側のグラウンドに戻るように促す。
椿を連れて戻ろうとする前園はこちらを向くと「ノボさんも来るかい?」と言った。
「いや、弟を待つから……」
「いってきなよ」
口を開いたのは姉だった。
「翔は私が待つから。野球続けられるかもしれないって言ってたとこ、ここでしょ?」
この言葉を聞いた前園の顔がぱあっと明るくなった。
「そうなのかい!? やっぱり入ってくれる!?」
姉はフフッと笑ったあとに「ほら、行ってきなよ」と顎をしゃくった。
俺はもうムキになって反論することはやめた。
いま俺の人生の風向きは確実に変わってきている。
そのことはもう十分自覚している。
この風に身を委ねてもいいのかもしれない。
「うん。そうするわ」
この言葉を聞くと、椿は俺の袖を掴み歩き出した。彼女の表情が心なしか笑みをたたえているように見えた。
吉川は姉にぺこりと一礼すると、俺たち三人を先導するように一番前を歩き始めた。。
むこうの女子野球部員たちは俺がいるのを知っていてか、ベンチの前にワラワラと出てくると、こちらを見つめて待ち構えている。いつの間にか雨も上がっていた。
俺たちは向かいの球場につながる外野の芝を無言で歩いていたから、到着までとても長い時間を要した気がするが、彼女らはじっと待ち続けていた。
内野の黒土を踏みベンチの前まで来ると、あつらえたように雲が流れ日が差してきた。
「ようこそ!」
吉川がくるりと振り返ると、晴れやかな顔でそう声を掛けてくる。
セリフはまるで初対面のように芝居じみているのに、むしろ慣れ親しんだところに帰ってきたという感じさえして、俺は思わず「ただいま」と言った。
「どういう風の吹き回しなんだよ」
俺は思わず笑った。
「キャッチボールでもしましょう」
「グラブ持ってないぞ」
「部のミットでも使えばいいのではないかしら」
そう言うと吉川は俺にキャッチャーミットを差し出した。
「あ、一応それは予備だから大事に使ってね!」
トンカツは念を押すとこっちにボールを投げて来た。
「ああ」
ボールは胸に真っすぐ来たので難なく捕れた。
「いいね。じゃあ投げてみてよ」
トンカツがミットを構える。
しばらく硬球を投げていないので、ちゃんと放れるか少し不安になった。
革の感触を確かめ、縫い目に人差し指と中指をかける。
それでも俺は左足をグッと踏み込むと躊躇なく右腕をしならせた。
鋭い――とまではいかないが、一球目にしては速めのボールがトンカツのミットを鳴らした。
「ナイスボール!」
トンカツが叫ぶ。
「でも、一球目から飛ばし過ぎだよ。肩壊すよ」
そういうと、彼女はフワリと山なりの球を返してきた。
「むこうの試合チャンスみたいだヨ」
前園が指を指す。
「弟がいるんでしょ? 今ツーアウトランナー二・三塁」
「え、何点差だ?」
「表ではワイルドピッチのあとは抑えてたから、一点差だネ。一打サヨナラのチャンス」
まじか。ピッチャーのさらに奥を見ると、右打者の見慣れた構えが目に飛び込んできた。
「かっ、翔じゃねーか!」
「えっ、弟くんかい!?」
俺は頷くと、まだ返球していないボールを握りしめたまま、グラウンドの最も遠いところからこの勝負の行方を見守ることにした。
部員たちも投げるのをやめ、試合に注目しはじめた。
相手ピッチャーはストレートで押してくる。
ファールが2球続き、翔は追い込まれた。
頼む打ってくれ。
自分のミスは自分のバットで取り返せ。
投手は振りかぶり試合を決めに行った。
――変化球だ。
外に逃げていく。翔は左足を踏み込んでなんとか食らいつくと、ボールはセカンドの頭をライナーで越えた。それとほぼ同時に快音が遅れてやってきた。
「よっしゃ!」
周りの部員たちも歓声を上げている。
センターが回り込み中継へ投げ返す直前にランナーはサードベースを蹴った。
中継に回ったファーストからホームにボールが返ってくるが、タッチをするまでもなくランナーはホームへ滑り込んだ。
「おおおおサヨナラ!」
ベンチから翔のチームメイトが出てきて大騒ぎになっているが、こちらの女子部員たちも盛り上がってどんちゃん騒ぎである。
「うわあああ」
トンカツがこっちに走ってきたのを皮切りに、みんなが俺のほうに
むこうがもみくちゃになっているのはわかるが、なんでこっちももみくちゃなんだ!
これはこれでラッキーな気がしたので、俺も負けじと誰彼構わず体当たりをした。
人の波の中、椿が俺の耳元で「さっきは試合を中止させなくてよかったわ」と言った。
姉が試合を終えたばかりの弟を連れて女子野球部の練習を見に来たが、こちらもすでにグラウンド整備をしている。
俺も当然のようにトンボを持って参加している。
二人が先生にあいさつをすると、ちょうどグラウンド整備終了と集合の号令が掛かり、みんな二人の近くにわらわらと集まってきた。
「さっきは見事なバッティングだったな」
先生が弟のサヨナラヒットに言及したので、部員たちも口々にすごいすごいと褒めちぎった。
「兄もよくやってくれているがな」
先生は突然こちらに話を振ってきた。
「どうだ。野球、やりたくなったか?」
先生の長い髪が揺れている。
前園が「どうするんだい?」と言いたげな不安そうな顔を向けてくるが、先生も吉川も、そして姉も穏やかに微笑んでいる。
そうだ。自分の腹はすでに決まっている。
「はい。一緒に野球がしたいです。あらためてよろしくお願いします」
部員たちがわあっと歓声を上げる。
「よし」
先生は自分のバッグから透明な袋にくるまれた新品の帽子を取り出した。
白地につばが青、額に湊高校の頭文字であるMの文字が入っている。千葉だけにマリーンズのMと似たデザインだ。
「ほら、もっとこっちに」
俺が先生の前まで歩を進めると先生は俺の頭に帽子を被せて頭をポンポンと叩いた。
――だいぶ陽も傾いてきた。
姉と弟は「自分で帰れるでしょー」と言い残して先に帰ってしまったが、俺は当然グラウンドに残って荷物の片づけを手伝っている。
一通り道具をまとめ終ると、部員たちとともに整列し、帽子を取ってグラウンドに向けて「ありがとうございました」とあいさつをする。
おそらく武道の影響を受けたのであろう日本特有の風習である。
俺は帽子を急いで頭の上に乗せ、一番重そうなバットケースとボールのケースを両方担ぎ上げた。カッコつけた手前口には出さないが、めっちゃ重い。
俺らは荷物を持ったまま列になって先生の車まで歩いていく。
俺がつらそうにヨタヨタと歩いていると、突然強い南風が吹いた。
あっ――。
帽子は空が背景になるまで舞い上がると、ゆっくりと落ちてきて小径の脇に咲いていたヤマブキの枝に引っかかった。
「春だね」
誰かがそう言った。
俺は帽子を拾いあげると、深くしっかりと被り直した。
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