雨曝し

 かけるは一向にストライクが入りそうにない。


「もういいよね」


 姉が独り言のように言う。


 俺もそう思う。だが、ベンチは動く気配がない。



 その時、視界の片隅で何かが動いた。

 外野の方だ。


 すぐさまそちらに顔を向けると、雨粒を切り裂いて何かが—いや、人間が—ものすごい勢いでこちらに向かって来ていた。


「はぁ!?」


 思わず素っ頓狂な声が出てしまったが、周りの人間は向かってくるアレを気にも留めていないようだ。


 姉だけは俺の声に反応した。


「ん、何?」

「あっ……あれ……」


 すでにレフトの後方まで迫っている高校生くらいの女子を指差す。よく見ると、後ろからちっちゃいのがヒョコヒョコ追いかけてきている。


「んー、なんだありゃ……」


 姉はそうつぶやいて、興味深そうに首を伸ばす。



 翔の方は、とうとうスリーボールになった。



 一体、どっちを見ればよいというのか……。



 レフトのポールを回った椿は—そう、椿—はグラウンドの外周をなぞり、一直線にこちらに向かって来た。


 椿はこちらを見据える。バレずにやり過ごせると思ったのに、思いもよらない展開で見つかってしまった。


 思わず椅子から立ち上がると、頭を思いっきり傘にぶつけた。


「ちょっと何!? 俺はなんもしてねぇぞ!? おい! やめろっ!」


 しかし、彼女はスピードを落とさなかった。


 すわ、ぶつかるか!? という所まで来ると、水しぶきを巻き上げながら風の如く俺の前を過ぎ去った。


「あ、あれ……?」


 椿は観客たちの前を通り過ぎると、そのままグラウンド入り口のネットを掻き上げ三塁側ベンチに吸い込まれてしまった。


 誰もが呆然としただろう。

 あっけにとられていると、椿の後ろをついてきていたやつが、まさに俺の前を横切らんとした。


「あっ」

「あっ、ノボさんじゃないか」


 えっと……、前園だ。前園はびしょ濡れの髪でそう言った。


「それよりなんなんだ、これは」

「さあ」


 すると、さらに後ろから吉川が来てこちらを一瞥したが、急いだ様子で前園を追い抜いて行った。


 彼女も三塁側ベンチへは入って行き、椿と一緒になっておそらく監督であろう人と話をしている。


 試合はスリーボール満塁の状態で止まってしまい、翔や守備陣、バッターやアンパイアまで、怪訝な顔で三塁ベンチを覗き込んでいた。


「何やってんの」


「さあ」


 俺が何を聞いても、前園には事情が分からないらしい。


「突然飛び出したから、慌ててついてきただけだしネ……」


「なんかわからんけど、おまえも毎回大変だな……」


「まったくだヨ」


 しばらくすると、椿と吉川の二人はグラウンド内から出てきた。椿はややしょげた顔で俯いている。



 二人がこちらに歩いてくる間に、何もなかったようにプレーが再開された。



 翔は再開後第一球を投じると、ボールはミットに綺麗に吸い込まれ、主審の右手が上がった。


「お、いいじゃないか」

「どうだろね」


 ずっと黙っていた姉が口を開いた。


「おっと、はじめまして。私は姉のそらです。」


「はっ、はじめまして……。えっと……前園桃花まえぞのももかです……」


 軽妙に喋ってきた前園が少し気まずそうに答える。


「傘に入る?」


「あっ、ありがとうございます……」


 前園は遠慮もせずに姉の好意を受け入れた。



「もっともそんな時間はかからないだろうけどね」



 突如、雨音を切り裂いて、金属バット特有の甲高い打球音が聞こえた。

 振り向くとボールはバックネットに突き刺さっている。ネットは金属製ではないのか、ボールが当たった音は雨音に紛れて聞こえなかった。


 そこに、椿と吉川も目の前までやって来た。吉川は律儀に姉に挨拶する。


 試合はフルカウントとなり、やはり気になるのか、吉川と椿はグラウンドの方を振り返る。


 翔は右足をたっぷりと上げてから踏み込み、球を投じた。


 次の瞬間——ファサッ——という音がレフトまで聞こえてくるくらいの勢いで、ボールがバックネットに突き刺さった。


 キャッチャーはボールを拾いに立ち上がり、翔はホームベースへ走り出した。

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