春雨じゃ、濡れて行こう


 いや、まだあいつらだって決まったわけじゃない。



 そもそも、そうだったとしたらなんだというのだ。今、俺は弟の試合を観に来ているのであって、あいつらとは一切関係ない。


 仮にあいつらが俺を関係者だと思おうが、こんなに離れていたら俺のことなんざ気付かないだろうし、近づいてきてもこんなに観客がいる中で見つかるなんてことはないはずだ。



 言い聞かせるように言葉を反芻はんすうさせればさせるほど、センターの向こうのやからはウチの女子野球部にしか見えなくなってきた。


「どしたの」


 冷や汗をダラダラと流しながらブツブツ呟いている俺を訝しんで、姉がサングラスをあげて問いかけてくる。


「いや……別に……」


 相当動揺しているように見えるのだろうか。


 俺は持ってきたペットボトルの蓋を開けて、急いで中身を飲み込んだ。


 ——試合はつつがなく進行している。


 かけるが七回――中学軟式野球では最終回――のマウンドに上がった。球数は百球を越えたはずだが、あいつはまだ投げ続けている。



 イニング始めの投球練習を眺めていると、左手に冷たいモノを感じた。


 汗か何かかと思ったが、続けて頭のてっぺんにも大粒のそれが落ちてきた。


 周囲の草葉が鳴り、地面が土煙を上げ始める。


 雨だ——。


 見上げると、この一帯だけが黒雲に覆われている。


 まだ本降りとまではいかないので、試合は中断していない。翔は先頭打者に球を放り始めた。


 地面を叩く音は少しづつ強くなり始めている。姉はやたら大ぶりな傘を開いて、椅子にそいつを据え付けた。


「昇、傘ないの?」


 ない。忘れた。


 顔でそう語ると、姉はやれやれといった顔で手招きした。


「……じゃあ、この傘半分入れば」


 その大きな傘は、半分椅子の外側にはみ出しているので、椅子をぴったりとくっつければ、俺も入れないこともない。


 このままびしょ濡れになるのも困るから、お言葉に甘えて傘に入れさせてもらうことにする。



 再び腰をかけグラウンドを見ると、翔は二人のランナーを背負っていた。そして、二球連続で明らかなボール球を投げると、バッターはバットを置き満塁となった。



 この雨の強さなら、もう中止にしても良いのではないだろうか。最終回なので、最後まで投げさせてしまいたいのかもしれない。



 ふと横目で「向こう側のグラウンド」を見ると、散らばっていた白装束たちがワラワラと三塁ベンチに向かって駆け出している。


 その間に、カウントはワンボールとなっていた。


 翔は一向にストライクが入りそうにない。


「もういいよね」


 姉が独り言のように言う。


 俺もそう思う。だが、ベンチは動く気配がない。



 その時、視界の片隅で何かが動いた。

 外野の方だ。


 すぐさまそちらに顔を向けると、雨粒を切り裂いて何かが——いや、人間が——ものすごい勢いでこちらに向かって来ていた。

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