忍び寄る恐怖

 キンコンカンと昼休み開始のチャイムが鳴った。

 嘆息たんそくが漏れる。

 朝はとんでもない恥さらしだった。

 出来立てほやほやのクラスでは、くしゃみをかましても笑いさえ起きず、居たたまらない空気が流れたのは言うまでもない。


 前の席に座っていた前園がクルリとこちらを向く。

「ごはん、食うかい?」

「あ、ああ……」

「じゃあ一緒に食べよう」

 そう言うや否や、机をガガガっと引きずり、後ろ向きにして俺の机の前にピタリと付けた。

「え、俺と!?」

 彼女は気にすることなく誘ってくるが、本当に良いのだろうか。


 すでにグループ化した高度なコミュニケーション能力を持つ連中は、基本的に同性であることを基準に群れを成しているようである。

 そもそも、新しいクラスにおいていきなり男女二人で食事をするなど、明らかにこの社会の慣習に抵触する!

 朝からあれだけ悪目立ちしていることも考慮すると、いきなり村八分を食らってもおかしくはないのだ。たぶん。


「なに? 嫌なのかい?」

「いや! 滅相もござらぬ!」


 ――うーん、一緒に食べることになった。

 


 俺が周りの視線を気にしながらも、スクールバッグから弁当箱を机の上に取り出すと、前園もそれに倣って弁当を取り出す。


 が! 弁当箱! でかい!


 しかも、ごはんの詰まった箱だけではなく、おかず用の別の容器も二つ。

 ちっこい見かけによらな過ぎるが、あまりそれに言及するのも憚られる。

 

「ところで朝は何の夢を見ていたんだい?」


 またも嫌なところを突いてくるやつだ。実際よく覚えていない。適当にはぐらかそう……。


「うん……まあ、あれだ……コズミックホラー的なのを……」


「お! ラブクラフト先生か!」


「……クトゥルフわかるのかよ。さてはアニメで入った口だな……」


「いや、残念ながらティガから入った勢」


「……こやつ……てか、そんな世代じゃないだろ……」

 そもそも女の子もヒーロー物を見たりとかするのだろうか。


「しかしガチもんのクトゥルフは怖いよね……」

 前園の顔が少しこわばる。


「あれは日常にまで侵食してくる怖さだからな……」


 前園はこの手のものによく精通していると見えたので、俺はさらに深くクトゥルフの恐怖話を二つ三つ振って、恐怖を煽ってやった。



 しかしその時、俺は異変に気付いた。


 教室前のドアが何やらガタガタと音を立てている。


 黒く深い色がドアの小窓から覗く。


 あの手は何だ!


 ドアが開かれ、ゆっくりと混沌こんとんが前園の後ろからい寄る。


「いや……そんな……前園、後ろに! 後ろに!」


 前園の顔からサッと血の気が引く。


 恐る恐る振り向かんとしたその時、白い手が前園の左肩に触れた。


「ぎゃああああああああ!!!!」

「うわああああああ!?!?!?!?」


 前園が絶叫したために、手の主も慌てふためき尻餅をついた。


 ……教室が再び凍りつく。

 ……ああ……またやってしまった……。


 長い黒髪。色白の肌。きりりとした怜悧れいりな眉。部のものと思われる白地に青のバックパックを肩にかけた利発そうな彼女は、なんてことはない、昨日の吉川である。


 しかし、さすがの彼女も驚いたと見えて、目を見開いて狼狽ろうばいしている。


「……えっ!? ……どういうこと!?!?」


 前園もゼーゼーと肩で息をしている。


「なっ……なんだ…………八重か…………」

「そんなに驚かなくてもいいじゃない…………」


 落ち着きを取り戻した吉川は、スカートのすそを手で払いながら立ち上がる。


「いや……こいつが怖い話するからそれで…………」


 まあ確かに俺も悪ノリしすぎた面はあるが、そこまでビビらなくてもなぁ……。

 しかし、また悪い意味でクラス中の注目を集めたぞ……。

 間違いなく我々は「頭のおかしな奴ら」として認定されたに違いない。


「あら……あなたは……」

 吉川が俺を認識したらしい。


「えっと……なんて名前だったかしら…………」


 覚えておられない!


 それも無理もない話で、この文字通り妙な苗字みょうじである限りこのようなことはザラである。


妙見みょうけんだよ」

「下の名前がのぼるだからノボさんでいい」

 突然前園が話に割り込んで一方的な決定をおこなった。


「待て、俺はそんな呼ばれ方したことないし、ここにはじゅんさんもしんさんもいない——」

「そうね、じゃあノボさんで」


 当事者の意見などどうでもよいらしく、二人は勝手にも合意を取り付けた。


「…………まあいいよ、それで……」

 名前を覚えられないよりは幾分いくぶんかマシだ……。


 すると、吉川はおもむろにバッグから弁当箱を取り出しはじめた。


「……それで……私も一緒に食べていいかしら……」


 あなたも昼食難民だったのね…………。




 誰のと知れぬ近場の机をぐぐいと引いて、吉川も俺の左に座る。


 彼女らの話によると、一年の時はどこぞのクラスに、女子野球部のメンツで集まって食べていたらしい。

 二年に進級したことで、これまでの慣例もあえなく崩れたということなのだろう。

 ということは、今から新たな溜まり場が自然に出来上がっていくということだ。

 たむろされる教室も迷惑なこっちゃ。


「吉川はクラスどこなんだ?」

「ん? 私? 私は一組よ」


 なんということだ。かなり成績優秀ということではないか。


「……で、ノボさんは頭の方は大丈夫なのかしら……」


「それは僕の頭がクレイジー的な意味ではないんですよね……」


「今朝からの行動を見る限り、みんなそう思っていると思うよ」

「うっさい!」


 前園が真顔で人の心をえぐるようなことを言う。

 本当のことなので、さらに憤懣ふんまんかた無し。


「何があったのかしら」

「実はね——」

 あまりにも恥ずかしい話を、さも自慢話のようにしゃべる前園。

 俺は横で耳をふさいでうんうん唸るしかない。


「それは災難だったわね……」

「だろう」

 前園は誇らしそうに相槌あいづちを打つ。


「で、真面目な話、頭当たった所は大丈夫なのかい?」

「ん、あれからはなんともねえな。もしあるとすれば、本当に頭がおかしくなったことくらい……」

「ならよかったわ。今日も部活はあるはずだから、ついでに先生に報告したほうがいいんじゃないかしら」


 頭がおかしくなってよくはないですよね……という言葉を飲み込み、たいして魅力的でもない提案に対し返答する。


「……したほうがいいのかな……」

「いいわね」

 即答。


「まあ八重もそう言ってるし、一緒に行こうよ」

 やけに嬉しそうに笑いながら前園が言う。

「……おう…………」


 しかし——

 その時俺は気づいてしまった。


「あーっ!! 昼休みがあと五分しかない!!!!」


 二人とも正面の時計に振り返る!



 三秒静止。



 そして次の瞬間手元の弁当を見る!


 ごはん! いっぱい!!


 あいにく俺も話してばかりで、メシはほとんど手をつけていなかった。


 人知の及ばぬ所で這い寄ってきていたのは、混沌ではなく昼休み終了時間だったわけか…………。ぜんぜん上手くない……。


 俺は二人の長話を恨みつつ、そのあと三人でめちゃくちゃ食った。

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