天使の誘惑

 疲れのせいか、さらに朝に対応できない体になった気がする。しかし、よく考えたら対応できるようになった瞬間など一秒たりともなかった。


「やあ、良い朝だね」


 どこが良い朝だというのか。


 昨日の約束、もとい砲艦ほうかん外交のごとき有無を言わさない要求は、一晩の間に風化してしまったことを期待したのだが、まったくもってそんなことはなかった。


 むしろ、厄介やっかいな二人があの後部員達に俺についてベラベラ喋りまくったらしく、揃いも揃ってすっかり俺が協力してくれるものだと思っているらしい。


余計なことを……。


「昼休みに部活の勧誘やるからね。大丈夫、大丈夫。わからないことがあったらなんでも聞いてくれていいからサ」


「そういう問題じゃないんだよ……」


 ここでも空気の流れに抗えない俺は、断固として断るでもなく、なんとなく授業を受け、なんとなく昼休みを迎えてしまった。



 授業が終わったかと思った直後にガラガラっと前のドアが開き、細い紐みたいなヘアバンドをした女の子が入ってきた。


 あのキャッチャーの……。眩しいくらいの笑顔が脳裏によぎる。


 手には食堂から持ってきたらしき定食をトレーに乗せて持っている。しかし、不運にもドアのレールに足を取られた。


 少しふらつくと同時にメインディシュのトンカツが皿の上を跳ねる。


 トンカツとの攻防およそ零コンマ五秒。


 トンカツはあまりにナチュラルに、そう、万有引力の法則に従い皿ごとゴミ箱の中に吸い込まれた。


 …………。


 …………。



 彼女はしばらくゴミ箱を見つめた後、泣きそうな顔をしながらこちらに振り向いた。


「わたしのおひる……」


「あ、あたしのあげるからサ……」


 ちょうどその時、吉川が開けっ放しの前のドアから入ってきた。


「ん? 何があったのかしら?」


「実はだね——」


 前園が調子良く話し始めた——。




 結局、俺からも彼女にはおかずを分けてあげる事となり、弁当を食い終わる頃には部員達が教室の右側を占領するという異様な雰囲気となっていた。


「だいぶ集まったわね……。まだいない人は?」


 吉川は皆に動かないでと言うと、頭数を数え始めた。


「一人だけいないわね」


 それを聞くと皆ああそうかと納得したような顔をした。


「私呼びに行ってこようか?」


 この部には珍しいセミロングの女子が、快活な声で言う。


「別に無理に呼ばなくてもいいけれど……。まあ、できたら連れてきてくれるかしら」


 なんだろう。そんなに腰の重いやつなのだろうか。


「ああ、先に行ってていいからー」


「わかったわ。私たちだけでいきましょう。時間もあまりないのだし」


 そいつが一人呼びに出て行くと、他のメンツも勧誘に向かうべくぞろぞろと出て行った。


 俺は座ったままやり過ごそうとしたが——


「ほら、ノボさんも行くヨ」


 前園に袖を引っつかまれると、引きずられるように連れて行かれた。




 どうやら片っ端から教室を訪ねて歩くつもりらしい。

 その分、手勢を二手に分け、前園は別働隊べつどうたいの方に加わったようだ。


 サードのへんてこなやつが「グワラガラー!」とか口で言いながら一年の教室のドアを開け放った。

 座っている人達が一斉にこちらを向く。


「私達女子野球部です!  興味がある人! 是非声を掛けてください! 練習は放課後グラウンドでやってるのでジャンジャン見学来てください!」


 かなり唐突で見ているだけでもおかしいが、彼女らはその後教室にいる女子一人一人に片っ端から声をかけ、執拗しつように勧誘をし始めた。これはもう訪問販売とかだったら普通に法に触れるレベル。ここまでやらんでもいいのに。


 すると再びドアが開け放たれ、長身の女子達がゾロゾロ入ってきた。

「こんにちはー! 女子バレー部でーす!」


 ふーむ、そういうことか。





 この後に吹奏楽部まで乱入して、数クラス渡る激戦を繰り広げたが、女子野球部の戦果はからっきしであった。あと、戦場になったクラスには俺が代表して謝罪をした。ほんとゴメンね。


 やはりどのクラスでも、「え、女子が野球やるの?」という怪訝けげんな、あるいは物珍しげな目をされた。別にみんな悪意があるとか、「女子が野球をやるなんてはしたない!」という大正野球娘に出てきそうな時代錯誤的観念があるわけではないだろうが、それでもかなり驚かれていることは確かだ。


 まあ、そもそも日焼けした泥くさい女子ってモテなさそうなイメージあるし。


 室内スポーツの色白な女の子の方がお好きなんでしょう? 男子諸君。


 野球贔屓の俺からするといささか悔しくも虚しい脳内独り相撲をしながら、ちょっと鬱屈うっくつした気持ちでそれぞれのクラスを回っていった。



 あるクラスまで来ると、むこうも他のクラスを回り終えたらしく、前園らの別働隊と合流した。


「そちらはどうでしたか」


「まあ一人か二人ってところだねー」


 吉川が敬語を使っているあたり、この黒髪ポニーテールが数少ない三年生なのだろう。ファーストを守っていたやつだ。


 すると、廊下の向こうからセミロングが、少女の手を引いて走ってきた。


 長い亜麻色あまいろの髪。

 肌は透けるように白く、瑠璃のように奥行きがあり茶色がかった瞳。


 それはまさに「日本人離れ」した異彩さであったが、その少女はやや気だるげな目をしていた。


「ハァ……ハァ……連れてきた……」


 セミロングの髪の方は膝に手をついて大儀そうだ。


「ありがとう。残りはこのクラスだけだから、みんなで一緒にやりましょう」



 改めて全員で、まず前で演説をかまし、そのあと個別に廻るというやり方を再び繰り返した。


 まあ、遅参したやつはドア付近でボヤッと眺めているだけで、一向に参加しようとしていないのだが……。




 ——勧誘は進む。


 ただ、みんな薄々察していたのだろう。窓際の席にはあまり近づいて行こうとしない。


 そこにはなんと言ったら良いか、明らかな違和感を感じる少女がいる。



 彼女には右腕がないのだ。



 それは言葉通りだ。


 右腕の袖だけがダランと垂れており、そうであることは想像に難くない。


 誰も悪意はないのかもしれない。しかし、どう考えても野球ができるとは思えない彼女に、気まずい断りを受けるのを恐れているのだ。


 こちらを一瞥いちべつもせず頬杖ほおづえをついて窓の外を眺める彼女の表情には、どこか諦めのようなものが感じられた。


 ——その時だった。


 立ち尽くしていた亜麻色の髪の少女が、おもむろに歩き出したかと思うと、脇目も振らず窓際の彼女に駆け寄った。



 異常を感じた他のメンバーが一斉に振り向く。



 「禁忌」に触れんとしていることを感じ、部員だけでなく教室全体が張り詰めた空気になった。


 亜麻色の髪の少女は恐れも知らず、その右の袖を引っ掴んだ。


「っ……!」


 驚いた彼女に構わず口を開く。それは小さいながら確かな声だった。



「——私と野球やらない?」



 そう問いかける目はこの世の物とは思えないほど真っ直ぐで、髪は窓から入る陽に照らされ、神々こうごうしくさえあった。



 しかし、それは余りに唐突とうとつだった。

 返事は弱々しい。


「ええ……でも……」



「ちょっとお姉ちゃん!」


 突然、近くの席に座っていた薄い髪色の女子が立ち上がって叫んだ。


「え? お姉ちゃん!?」


 女子野球部一同は驚きの声を上げる。


「あ、はい……。椿つばきは私の姉です……」


 椿というのは亜麻色の髪の少女のことらしい。思えば髪の色も色白な肌なのも似ている。妹の髪がわりと短いことを除けば、かなり瓜二つかもしれない。


「そうなのか! じゃあウチに入ってくれるかい?」


「いや、まだ決めてなくて……」


 すかさず吉川が話しかけに行く。


「よかったら見学だけでも来てくれたら嬉しいわ」



 さっきの突飛な行動による妙な空気はどこかへ行ってしまった。



 それでも、袖をつかんだ手はずっとそのままだ。


「そろそろ時間ね。みんな解散しましょう」


 吉川がそう言うと、前園は隻腕せきわんの少女に歩み寄った。


「野球に興味はないかい?」


「……兄が野球をやっていて……観るのは好きです……」


「お! じゃあ野球マンガとかは?」


 サードのやつが会話に乱入する。どうやらお好みのマンガが一致したようで、少し和やかな雰囲気になった。


「なら入らないかい? 高校から始める人もいるし問題ないよ。それとも他の部活に入るとか決めている?」


「いえ……でも見ての通り……なので……」


 彼女は消え入るように言う。



「あたしは気をつかってるんじゃないんだ」



 前園の毅然きぜんとした言葉に、彼女の目がハッと見開く。



「大丈夫。野球との関わり方なんていくらでもあるんだからサ」



 どうするつもりなのか見当もつかないが、前園は出まかせに言っているのではない。それだけはわかった。


「じゃあ放課後グラウンドで待っているよ」


 前園はそう言い残して、連中と一緒に教室を出て行った。

 相変わらず強引なやつだ。


 残されて呆然ぼうぜんとしている彼女にフォローを入れる。


「いや……無理して来なくてもいいからね。あいつらなんて気にしなくていいから……」


「は、はい……」


 掛けるべき言葉はもっと違った何かだった気がする。

 少し涙目で、心ここに在らずというように虚空こくうを見つめているこの少女が少し気がかりだが、昼休みはもう終わるため、後ろ髪を引かれつつも俺はこの教室を後にした。

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