In The Blues. [現代ドラマ]
肌を引き締める寒さをくぐり抜けて、アパートに帰りつく。ひょっとしたら外よりも冷たいかもしれない部屋の空気にためらいながら、急いで着替えた。後は寝るだけの時刻。午前二時。たとえ肌のためにそれがいいと分かっていても、暖房を点ける気にはなれなかった。
狭い部屋をますます狭苦しくしているドレッサーと向き合って、そこにいる未練がましい顔の女と対面し、せめてマシな顔に作り替えてやる。つまり、化粧を落とすのだ。そうしてあたしは、あたしに還る。けれどそれはほんの僅かな間だけ。化粧水やクリームを肌に塗り込めて、あたしはもう一度別のあたしになる下ごしらえを始める。一晩の怠惰をすぐに取り戻せるだけの“若さ”という力は、もうないのだ。
吐息が白くけぶる部屋で一人、肌の手入れをする滑稽さに苦笑することは、もうなくなっていた。慣れたのでも、麻痺したのでもない。あたしは、磨り減った。
三種類目の化粧水を掌に振り出しながら、ぼんやりと、今日のステージのことを思い出した。初めて呼ばれた、さほど上等ではない、客も多くない、そして客の誰も、あたしの唄など聴いてはいない店だった。彼らはあたしの唄声よりも、当然のことだが、隣に座った若い女の密やかな声を聞き取ることに夢中だった。
薄紫の暗がりに隠れ、女の肩を抱き剥き出しの太股に手を這わせる男。それを笑って受け流す若い女。見慣れた光景なのに、あたしは何故か動揺して、何年かぶりに歌い慣れたナンバーをとちった。
作業を済ませ、あたしはヘッドホンをつけてから電気を消し、ベッドに潜り込んだ。リモコンでCDをスタートさせる。ブルーズの濡れた音が、毛布より男の肌より、しっとりと、あたしを柔らかく包んでくれる。
コンポからの青く淡い光が部屋に漂っていた。青を眺め、青を聴き、あたしはまた一つ歳を取った自分のために涙を流した。
―了―
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