雪でも降れば  [現代ドラマ]

 空っぽのティーカップと見つめ合っていることにも飽き、わたしは立ち上がって、とうとう鳴らなかったスマートフォンと伝票を手に取った。広い店内も大きな窓もアールデコ調の内装も、ここから見える通りの風景さえ気に入っていた喫茶店だけど、来づらくなっちゃったな。

 何食わぬ顔で精算を済ませ通りに出ると、風の冷たさが頬を打ちつけた。思わずマフラーで口元まで覆うと、ウールを湿した吐息が、眼鏡までも曇らせる。

 すっかり日は暮れて、ショッピング街のネオンはまぶしいくらいになっていた。人混みに向けて歩き出しつつ、いつもより少し膨れたショルダーバッグを左肩に掛け直す。やり場のない右手はコートのポケットに。その指先が、頼りない感触の何かに触れた。さっきの喫茶店のレシートだった。無感情な「アールグレイ」と「注文時刻15:46」の文字が目に飛び込む。鼻の奥がツンとする。握り潰して、投げ捨てた。

 溜息で眼鏡が曇らないように上を見ると、あんまりにも華やかな、LEDで彩られた銀杏並木。所々に吊られた『Merry Christmas』のPOP。道行く人のざわめきは、その一つ一つが隣にいる誰かへの優しげな言葉で、街路のスピーカーは定番のクリスマスソングを奏でている。

 こんな時間に、一人で帰ることになるなんて。

 そんなこと思いも寄らなかった、と言えば嘘になる。漠然とした予感はあった。あいつと握りあった手の暖かみを、わたしはもう思い出せないのだから。

 でも、せめてもう少し、違う結末にはならなかったろうか。また鼻の奥がツンとする。

 寒くて良かった。少し鼻が赤くなっていても、寒さのせいだと言い訳できるから。――誰に?

 雪でも降ればいい、と思った。

 見上げた夜空で、重たそうな雲の塊が、明るいネオンに照らされながらゆっくり動いている。

 雪が降ればいいんだ。そうして何もかも白く塗ってしまえばいい。

 時間がたつごとに人が増える繁華街を、わたしは駅へ向かって歩いた。なるべく視線を落として、誰かの楽しそうな顔を見ないようにしながら。

 駅ビルまであと少しというところで、頬に冷たい痛みが落ちてきた。びっくりして空を見ると、小さい銀色の粒が、ほんの幾つか、舞っていた。

 辺りに起こる「あっ、雪」の声。本当に、降ってきた。

 うわぁ、と声と溜息の合いの子のような音を上げたわたしの、その口の中に。

 一粒、雪が飛び込んだ。

 あわてて口を閉じる。冷たいだけの味が喉の奥に広がって、すぐに溶けて消えていった。

 それだけで、雪は止んでしまった。周囲の不満そうな声を聞きながら、わたしはたぶんたった一人、清々した気分だった。

 駅のゴミ箱まで近寄って、バッグを膨らませていた元凶の、クリスマスカラーの小さな包みを取り出す。リボンに挟んでいたメッセージカードは念入りに破り捨て、包み自体も勢いよくぶち込んだ。勢いよすぎて巻きがほどけたマフラーも、ついでにゴミ箱へ放り込んでやった。




   ― 了 ―

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