桶ひとつ  [架空・歴史物]

 勝敗は兵家へいかの常という。ならば勝ち続けた将がひとたび負けるとあらば、熾烈しれつなほどの大負けになるのであろうか。一月ひとつき前には天下の半分を手にしていた神崎 左近衛大将さこのえのたいしょう兼光は、さねはら大戦おおいくさにおいて、一〇万の兵がありながら六万の敵に敗れた。いや初めの矢弾が飛び交った時、既に彼の兵はその半分しかなかったのであろう。次々と味方に槍を向けた裏切者どものため、神崎方は総崩れ。三十余年かけて登った天下への坂道を、兼光は半日で転げ落ちたのである。

 月の光とて届かぬ二方峰ふたかたみねふもとの闇に、神崎兼光は身体を休めていた。馬はとうに捨てている。供回りも、ある者は落人狩りの農民の手にかかり、ある者は鎧を捨てて逃げ去った。兼光に付き従うのは、腹心中の腹心、斉藤 右近衛中将うこのえのちゅうじょう勝顕ただ一人であった。

 追っ手の目を逃れるため、火をおこして暖を取ることも出来ぬ。焼け付くような喉を冷やす水もない。川沿いは最も追っ手の目の光る場所。水を汲みに行けば死ぬのである。とはいえ神崎兼光、この 大樹たいじゅに力なく身を預け、既に死に体の様相である。

殿との」と物見から戻った勝顕が傍らにひざまずく。「東一里ほどに篝火かがりびが見えて参りました。討手うってと思われますれば、すぐにもおちくださりませ」

 兼光は少しの思案顔の後、渋面に直って、かぶりを振った。

「殿」勝顕は血相を変えた。「勝敗は時の運。ここを忍んで捲土重来を」

「事をはかるは人にり、事を成すは天に在りという。敵方の裏切りの謀事はかりごとをこそ、天は成さしめたのだ。わしでは天下人には足らぬと天は仰せなのだろう。わしではここまで……ふん、どうせならもそっと早くにそう言うてくれれば、お初と二人、隠居して気楽な余生を過ごしたものを、天も意気地いくじが悪い。はは、天め、わしと初に嫉妬したか」

しからば拙者もお供つかまつる」と勝顕が言いさしたところを、兼光は重たく「ならぬ」と告げた。

 兼光は身体を起こし、大脇差おおわきざし下緒さげおごと外すと、血の気を失った勝顕に言い放った。

「無理の神崎と言われたわしの、最後の無理難題を申しつける。勝顕よ、わしのこの身体はここで焼け、誰にも渡すな。そして首は……」ぴしゃりと自分の首を叩く。「お初に届けてやってくれい。少々、欲を張りすぎた。いつかのような夫婦二人の暮らしを、あのまま選んでおればと、悔いておらぬでもない……と謝っておった、とな」

 神崎兼光、かぞえ五十五歳。ぼろ布のようになった斉藤勝顕が、兼光が正室であった初の下へ辿り着いたのは、一年後の同日であった。初の実家、たちばな出雲守いずものかみの居城の奥座敷にて目通めどおかなった勝顕は、初に、厳に封をされた木桶を差し出した。塩の匂いのするずっしり重いそれを、初は、赤子を抱くように胸にして、微笑した。今にも壊れてしまいそうな笑みであった。唇が静かに動き、桶に向かって声もなく語りかけた。

 平伏していた勝顕は、声なき声に呼ばれたように顔を上げ、そして泣いた。この一年が刻みつけられた凶相を崩して泣いた。

 初の唇は、お帰りなさい、と告げていた。

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