冬の林檎 [現代ドラマ]
色を失った空の下で、深い雪を踏みしめた。
緩くてしまりのない風が、時折、髪の毛を揺らしては去っていく。スカートの中にも、雪の気配は不作法に忍び込んでくる。私以外に
凍えきった肌に、風は痛みに似た爪痕を残し、去っていく。
あの人の林檎園は、もっと寒い地方だったろうか。
初めてあの人を見かけたのは、繁華街にほど近い大きな駅前だった。春先、花冷えの時期のことだ。終電も近い深夜、あの人は地べたに座り込み、小銭やしわくちゃの千円札が入ったギターケースを前に置き、ギターを弾いて唄っていた。二度目もそうだった。三度目も。四度目も。五度目に話しかけ、二十八歳だと聞いた。私と同い歳だった。そして六度目、彼の演奏がすべて終わるまで、ずっとしゃがんで聴いていた。なくした物に追いすがる、遠い昔の匂いがする、甘酸っぱい唄を聴いていた。
私は彼のどこに惹かれたのだろう。彼には歌があった。私には何もなかった。何があるのか分かっていなかった。だからかもしれない。
暑さに負けない熱を、私は彼から感じた。
秋が深まった頃、私は好きな林檎を買って部屋に帰ったが、彼は食べてくれなかった。実家が林檎農園だったと、彼は吐き捨てた。
しばらくたって、彼は去った。今日の凍える風のように。私は彼を見ていたつもりだったけれど、彼は私が、彼を透かして、全然違うものを見ていると言い残した。
それなら私には、やっぱり何もなかったのだ。空っぽな私の中に、あの人の夢を注いで、満たして欲しかっただけなのだ。でもきっと、私にはどこか穴が空いていて、あの人から注がれるすべてを、零してしまっていたのだろう。だって今、私の中には、なにもない。
死んだようにひっそりした、林檎の木の間を進む。足音で静寂を乱すことが、罪深いような気にすらなる。風は止み、また吹いてくる。来る途中の店で買った小さな林檎ひとつを、コートのポケットから取り出した。雪の深い所に行き、涙と一緒に埋めた。
凍れ、林檎。
そして春に生まれ変わろう。
《 了 》
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