中華食堂仙福亭の剣呑なる毎日  [現代ドラマ][ユーモア]

 高校空手部新主将に選ばれたエヌ君の青春は汗で輝いていた。そんなN君がつい練習に熱が入りすぎ帰宅前に猛烈な空腹に襲われたため緊急避難きんきゅうひなんに入ったのが駅前に店を構える中華ちゅうか食堂しょくどう仙福亭せんぷくていである。塩ラーメンをいたく気に入ったN君は以後小遣こづかいが許す限り仙福亭で帰宅前のラーメンをすするようになった。すっかり常連となり看板娘が丼を届ける際に「いつもどうもありがとう」と微笑ほほえんでくれるまでなった。店に通うひそかなお目当てでもある名も知らぬ彼女をN君が心の中で青春のじらいと共にふくさんと呼ぶ(エプロンにさかさ福の字が描かれているからである)ことにならいここでも彼女を福さんと呼ぶことにする。ある日に福さんが持ってきたラーメンには味玉子あじたまごが乗っていた。N君は小遣いのとぼしさ故に塩ラーメンしか頼まぬ。N君は忙しそうな福さんにたずねるのを遠慮し素直にラーメンをたいらげ持ち前の正義感から味玉子のトッピング料五十円を上乗せした七百円をテーブルに置いて颯爽さっそうと店を出たのであった。

 二日けて再び店を訪れた彼には塩ラーメンメンマ増し味玉乗せがきょうされた。彼はまた代金をして出そうとしたがこの日は福さんに止められた。福さんが他にいる客に聞かれぬようN君をまどわすほど顔を近づけて「実は常連さんにはサービスしてるの。メンマはこの前お代を置いてってもらっちゃった分をさらにオマケよ。ふふ」とひそやかに告げた仕草はあまりに可愛くいじらしくN君にはまったき毒であったろう。真っ赤になって噴煙ふんえんを耳から鼻から吹き出しそうになったN君はしかし福さんの好意を固辞こじし「いえそういうことはいけません。食べたものの代金はお支払いいたします」と宣言した。すると常はカウンター奥の厨房ちゅうぼうで料理を丹精たんせいするのみであった小柄ながらも引き締まった体躯たいくの店主がN君の主張を聞きとがめたのである。

「おう若いの。人の好意は素直に受け取っとくもんだ。野暮やぼはよしな」

 野暮! それこそは江戸っ子を怒らせる最大最高の侮辱ぶじょくである。N君の両親は「ひ」を「し」と発音してしまうほどの江戸っ子。かえるの子は蛙なのであるからN君もまた江戸っ子であった。

「何が野暮か! 捨ておけんな亭主ていしゅ!」とN君は激昂げっこうした。「好意としてありがたく頂戴ちょうだいした上でなお正当な報酬を支払う! そのいきが分からんのか!」

いきでもってんだそれぁよ。手前てめえ手前てめえいきだなんざ野暮天やぼてんもいいところだ」

 今度は怒りで顔を真っ赤にして噴煙を吹き出しそうになったN君がカウンターをへし折る勢いで七百五十円を叩き付けた。五十円増えたのはメンマの分である。亭主はまな板にぶっしてあった中華包丁を静かに手に取り「代金はいらねぇ。帰ってくんな」と引導いんどうを渡す。

「置いておきます」とN君が金を置いて店を去る。その背中で「その金取るんじゃねえぞ」「でも父さん」「ェつけるなッつってんだ」というやり取りがむなしく響くのであった。

 そんな経緯けいいはあったがN君は変わらず仙福亭を訪れて塩ラーメンを注文し日ごとに変わるトッピングごと平らげてはきっちり計算して正規の代金をカウンターの一角に叩き付けて帰って行くという営みを一年間都合つごう百回ほど繰り返している。五百円百円五十円玉はまったく手を付けられぬままそこにあり続け福さんは今にも床までこぼれそうな硬貨の山がいくらあるのか数えておきたいと思うものの店主ににらみ付けられては手を引っ込める毎日なのであった。

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