黄水仙の咲かぬ間に  [現代ドラマ][ミステリー風]

 灰色の団地に暮らす七〇過ぎのこんな老人を、よもや女の子供が訪ねてくるとは思いもよらなかった。頬に大きな絆創膏ばんそうこうを貼ったその子供は、上下ひとつながりの白いスカートを着、鮮やかな黄色の花束を抱えていた。今時の分かりにくい名を名乗った後、お願いがあると言った。

「屋上で、花を供えさせてください」

 それで自治会役員の自分のところへ、と合点した。一月前、この棟に住んでいた中学生の女の子が、屋上から飛び降り自殺したのだ。元から悪い噂の多かった一家は、すぐに引っ越してしまった。あれ以来屋上はげんに施錠してある。この子は死んだ友達の最後の場所に供花きょうかしたいという。良い心掛けだ。事務室から鍵を取ってきてやり、女の子を引き連れて屋上へ向かう。

 春の盛りの空は深く青く、今日の強い風は雲を千々ちぢに、桜の花を高く、舞わせている。

 この風情ふぜいの美しさも知らず、死んでしまう子供がいるとは。

 女の子は鉄柵へ歩み寄っていく。後追いなどされては困るので自分も近くへ行った。

 死んだ子とは親しかったのかと尋ねてみた。意外なことに「似たもの同士なだけです」と無感情な返事を寄越した。それなのに花を捧げるとは感心だねとめたが、「死んだからです。死なない方がずっとよかった」と、これもぶっきらぼうな返事。今の子供はこんなものか。

 不意に女の子に動きがあって、思わず肩を掴んだ。恐れていたようなことではなくて、花束を鉄柵の先へ投げ落としただけだった。女の子は、とがめるような視線をこちらに向ける。バツが悪くなって手を離し、死んだ子の好きな花だったのかいた。

「もらった球根がようやく育ったので」少し間を空けて、続きがあった。「学校であの子はなじめなさそうで、家では親から殴られて。私も親に殴られる同類だから、分かるんです。好きだった黄水仙きずいせんを学校の花壇に植えて、その世話をするのがあの子の楽しみだったけど、先生が実験で花壇を使うからと場所を取り上げて。だからあの子、死んだんです。誰もあの子のこと人間だと思ってなかったから。死ぬものだなんて思ってなかったから」

 思わぬ言葉に狼狽ろうばいした。そんなことはない、人間は人間だ、誰だって違いはないと諭した。

「私たち、子供だから。まだ人間じゃないんです。子供だから逃げられない。生きていける場所を大人に取り上げられたら、後はいなくなるしかないの」

 生きていける場所――そんな大げさな。そう言おうとしたが、唇が動かない。

「ありがとうございました」と頭を軽く下げ、女の子は歩き去ってしまう。呼び止めねば。だがこの子の名前を知らない。最初に名乗られてはいた。しかし気に留めもしなかった。名前すら知らず、どうして人を尊重できよう。この子は正しい。自分自身、この子を――死んだ子さえ、一の人間と見ていなかった。死んだ子の名前を、自分は憶えていないではないか。

 白い服が灰色の階段へ消えた後、呆然と鉄柵にもたれた。子供を殺すのは、大人なのか。

 項垂うなだれて地上を見下ろせば、芝生を染める桜と、散らばった黄色い花。美しくない。せめて黄色の花は拾い集めて、あの子の最後の場所に供えてやらねば。せめて。

 だがそれですら、眼下に現れた白い頼りなげな人影が済ませてしまうのを見て、後はもう、言いしれぬ絶望感に身を焦がすのみとなった。




 ―了―

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