木曜はピアノの調べ ―inside― [現代ドラマ]
一週間のうち、彼女が自由になれるのは数時間。常に家で彼女を見張っている母親が、和服に身を固めて生け花の稽古に出かける、木曜日の午後だけだ。
「では留守中もしっかりしていてくださいね」
お決まりのセリフを残す母を見送り、彼女はアップライトのピアノの置かれた部屋へ行く。幼少期から学ばされていたピアノ。今も毎日一時間は、練習を義務づけられている。やらされているからといって、音楽嫌いにはならなかったことが、彼女には救いだった。彼女だけが家の主となる貴重な時間を、彼女は、自由にピアノを弾くことに費やす。
二重ガラスの防音窓を半開きにすると、閉ざされていた部屋が外と繋がる。
この時だけは、楽譜など置かない。Web動画で耳コピーしたジャズやブルーズ、ポップス、ともかく気に入った曲を弾く。親やピアノ講師が指定してくるエチュードなんて、くそくらえ。好きな曲を好きな様に奏でる。そのひとときを彼女は何よりも愛した。家族よりも。
高校も休学するほど病弱な彼女には、ピアノは慰めであり拠り所だった。ピアノを奏でている時だけは、自身の境遇を忘れて音と溶け合い、作曲者や、この曲に夢中になったかつての聴衆と一体になれる。他の誰とも、何も共有することのない彼女にとって、音楽だけが、どこかの誰かと繋がれる唯一の手段だったのだ。
ある木曜日は、朝から霧雨が街を煙らせていた。
先夜、両親の何気ない言葉に深く心を傷つけられた彼女は、この日は母を見送らなかった。
いつものようにピアノを弾いても、心は少しも自由になれなかった。
――好きで、休学して療養してるわけじゃないのに。あたしだって学校へ行って友達と語らいたい、遊びたい、みんなと一緒に勉強がしたい。……誰かと一緒にいたいんだ。
胸の怒りを燃やし尽くすため、彼女は、いつもは遠慮して半開きで留めている防音窓を、両手に力をこめて乱暴に開け放した。ドカンと大きな音がする。雑音。しかしそれは、決して耳に痛いだけの音ではなかった。彼女は初めて知った。感情まかせな行動の心地よさを。
「あぁーッ!」と、思い切り叫んだ。それはとても気持ちの良いことだった。
グルーブだ! 彼女は思った。心がスウィングしている。ビートが生まれてくる。それは感情だ。押し殺していた感情が大波のようにうねり、寄せては返し、また迫ってくる。それは、鍵盤を叩く彼女の指が生み出していた。和音を、不協和音を、流れるようなメロディを、クラッシュのようなハイトーン。サスティーン。ペダルを踏み折るくらいに。グリッサンド、上へ、下へ。両手が交互に、同時に。胸の内から湧き上がる音のすべてを、鍵盤にぶつけた。
やがて彼女は、空っぽになって手を止めた。
病気の胸は苦しかったが、心は清々しかった。
窓を閉めようと窓辺に寄った時、庭の向こう、坂道との段差で陰になっているところから、中学生くらいの少年が弾かれたように駆け出すのを見た。あんな風に自分も走れたらいいのに。
――走れるかどうかは、走ってみなきゃ分からないじゃないか。
絶対に両親に復学を認めさせてやる、と彼女は心に決めた。
―了―
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