1-4話 薫り苔と時代の変化
霊水に浸した
次第に何とも言えず深くて心地よい薫りが立ち上がってきた。フレッシュな薫苔ならではだな。
「乳鉢はこちらでよろしゅうございますか?」
瑪瑙の乳鉢を霊水で浄めながらアレクが尋ねてきた。
「ああ、それでいい」
瑪瑙には珍しい乳白色の乳鉢は、素材の変化がわかりやすくてとても良い。
刻んだ薫苔を乳鉢に移して、法力を込めながら静かにすりつぶしてゆく。ここで無駄に
「よき薫りだ」
自分はこういう時間がとても好きなのだなと、しみじみ思う。
こぽり、こぽりと術式を刻んだ
乳鉢の
『そうだ、
夢の中で刻んだのは、河原ヨモギと桂皮だ。熱病の薬がどうしても必要になるとわかっていたから切実だった。
「ふふっ。必死に法力をこめたけど、やっぱり夢の中だからかな、半分も効能がでなかったなぁ」
独り言を聞きつけたアレクが不思議そうにこちらを見ている。
「ああ、ごめん。何でもないよ。昨夜の夢を思い出してね……」
「ほう、夢でございますか」
「うん、そう。夢」
そうだ、夢だ。夢なのだけど。
「ねえ、アレク。アレクは夢を見る?」
「はて。夢でございますか。そうですね、見ているようにも思えますが。朝になると忘れてしまうことがほとんでございますね」
アレクは薫苔を霊水の中で丁寧に浄めながら答えてくれた。が、何やら心配そうにこちらを見ている。
「ああ、心配かけてすまぬ。たいしたことはないのだが……ここのところ毎夜、夢を見る。いつも同じような夢なのだが、少しずつ夢の中で時が過ぎてゆくのだよ。昨夜など、自分で自分に話し掛けてしまった……」
「左様でございましたか。それで、お眠りが浅くなっておられるということはありませぬか」
うっ。これは心配しているな。ううむ、眠りが浅いということはない。スッキリと目覚めている。ただ何だろう、何かが、気にかかる。
「いや、ゆっくりと休んでいるよ」
笑ってみせるが、アレクは目を細める。これは納得していないな……
「いや、あまり気にかけすぎてはいけないと思ってはいるのだ。この苔の準備が終わったら、少し気晴らしにでも出かけてみよう」
「それはようございます。リュリュもお供したいと申しておりました」
午前中いっぱいかけて全ての薫苔をペーストにした。法力の効能で淡く光って美しい。
あとは、あの大甕いっぱいの霊水に小瓶一本分の神木の花の蜜を溶かして、蜜の水溶液を作れば、ホムンクルスの素材は全て揃う。
うむ、これでいいだろう。
◇
「午後は、王都に行ってみようと思う」
昼食はリュリュが湖で釣ってきた鱒の焼物だった。皮がパリパリでハーブが効いて実に美味い。
「御前様、実はその王都、でございますが……」
「 ん? どうしたんだい? 王都がどうかした?」
「王都は、無くなりました」
グッ。芽キャベツが喉に詰まるところだった。
「王都、無くなったの?」
「はい、セルド朝はおよそ三百年程前に滅びました。その後、フォルセクイル王国が興りまして、かつての港町ハトナハルが、首都ハトナガンドとなっております」
「そうなんだ」
「はい、左様でございます」
リュリュがサンヴリアを注いでくれる。
「ありがとう」
葡萄酒にオレンジとレモンと棗、丁子と桂皮を入れたアレクのお手製だ。蜜の水溶液で割ってあるのか? 美味い。一口含んだら落ち着いた。
「ええっと、かつての、王都は、今はどうなってるの? 王都にあった屋敷は? 転移門は生きているようだけど」
「はい、王都ラクシュガンドは今は『古都ラクシュガルド』と呼ばれております」
「古都、かぁ」
「左様でございますね。観光地として人気があるようでございますよ。かつての王都のお屋敷も、そのまま周りの森も含め、変わり無く保存されてございます」
結構しっかりした結界を張っておいたからな。存在が希薄になるから近づく者も無いのだろう。
「ハトナハルの別邸の方が問題だと思われます」
「ハトナハル、あの静かな海辺の町だね」
海岸の美しい保養地で、新鮮な魚介が美味い。
「ハトナハルは、今や首都でございます」
「ああ、もしかしたら、ずいぶんと変わったのかな……」
「別邸の周りだけは開発が進まず、歴史公園となっております。幻の館として、首都ハトナガンドの七不思議のひとつとなっておりますよ」
さもありなん。あの結界だ。普通の人の子では近づくことも難しかろう。なんとか上手く辻褄を合わせる手立てを講じねば。
「そうだ、アレク! 王都にあった王立図書館はどうなった? あそこに行きたかったのだが」
「王立図書館の建物はそのまま、古都の観光地となっております。ただ、主な蔵書は首都の国立文書館に移されたはずでございます」
そうか困った。これは、対策が要る。
少なくとも、首都の文書館にくらいは自由に出入り出来る身分は必要だ。
八百年経ているのだ。人の世も移り変わった。今の世に仙人族といっても、それは通じるのであろうか……
少し、長く眠り過ぎたか。いや、この程度のほころびはなんとでも繕える。
注意深く見つめねばならぬのは、このほころびの、その源だ。見落としの無いように、丁寧に、そして目立たぬように……
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