第4話 ご神木の花の蜜

 なんということだ。

 私が眠ってからかれこれ八百年という年月が過ぎ去っていたらしい。

「正確に申し上げますと、八百二十年になりますでしょうか」

 アレクが申し訳なさそうに付け加える。


「そうか。なんというか……心配をかけたな」

「いえいえ。こうしてご帰還くださいました。それだけでもう、充分にございます」

 リュリュもしきりに頷いている。


 しかし、八百年とは。

 仙人の眠りはどんなに長くても二百年を超えることはないと伝えられている。私もこれまではおおよそ八十年、長くても百年程で目覚めていたと思う。それが八百年とは。どうしたことだろう。




「セレネピオス学院領のカレルヴォの叔父上もこの件はご存知なのだろう? ずいぶんとご心労をおかけしたのではないか?」


「叔父君様は、御前様ごぜんさまがお籠りになって、およそ二百五十年ほど経った頃、とり乱す私共に『そう心配せずとも、そのうち戻るからゆるりと待っておれ。そういう時もあるものだ』と言い置かれました。」


「なるほど、叔父上らしいな」

 皆にずいぶんと心配をかけたようだな。


「そしてそれから間もなく、叔父君様ご自身も復活の眠りの時期が来ていると仰せられまして、そのままご聖域へと向かわれたのです。ですが、実は未だ……」


「まさか叔父上も……未だご帰還なさっておられぬのか? ご無事なのか?」

 カレルヴォの叔父上は父の末弟で、私の法術の師でもある。あのセレネピオス法学院の創設者の一人ということだから、かなりの高齢には違いないが、気力法力に溢れたご壮健な方だ。万が一にもご帰還が叶わぬことなど考えられん。


「はい。叔父君様の結界に不測は出ておりません。家令のヴァルトとも連絡を取りおうてございます。ご聖域の結界は強固で揺るぎ無く張られているとのことです」

「そうか、ならば……心配はいらんだろう。ヴァルトにもよろしく伝えておいておくれ」




 あの叔父も眠りについたまま、未だ目覚めないという。五百年以上もだ。

 何かが、起きている?


 仙人の眠りが乱れることは滅多とない。

 もしそうであれば、天地の気脈が乱れているということになる。

 そんなはずはなかろう。気脈を調えると云う神木に異変はなかった。

 今朝、神木の樹冠で集めた花の蜜の芳しい香りを思い出す。神々しくも慕わしい神木の佇まい。

 何も異変はなかった。問題はなかろう。




 そうだ、ご神木。

 アレク達に良い土産を持ち帰ったのだった。

「アレク、ご神木の花の蜜を持ち帰ったよ。リュリュは初めてかな?」


「ごぜんさま、ご神木の花の蜜、ですか?」

「そうそう、すごく芳しくて甘くて美味しいよ。みんなへのお土産に今朝、集めてきたんだ」


「それはそれは、御前様ごぜんさまありがとうございます。ご神木の花の蜜とは。命の妙薬、甘露の霊薬でございますよ」

 アレクの浮き浮きした声に、リュリュも目を丸くしている。リュリュ、許してやれ、コレはアレクの唯一の弱点、泣く子も黙る大好物だからな。


「さあリュリュ、支度をしますよ。せっかくの御前様ごぜんさまのお土産ですから、新鮮なうちにいただきましょう」

「アレクサンテリさん、美味しいのですか? 甘いのは私も大好きです!」

 アレクが楽しそうに支度をしている。熱々の霊水に溶かしていただくつもりだな。さすがアレク、あれが一番美味い。


「リュリュ、甘露、甘露ですよ。甘いだけではありません。ご神木の花の蜜は、わたくし達ホムンクルスの魂玉こんぎょくの魂格を高める妙薬なのです」


「アレク、花の蜜は沢山あるからね。後で叔父上のところのヴァルトにも届けてあげよう」

 アレクが嬉しそうに微笑む。リュリュはパタパタと支度を進めている。


 リュリュの幸せそうな顔。満足げなアレクと共に神木の花の蜜をいただいた。

 本当にかぐわしい。まだ明けきらぬ森の中、清冽なご神木の花の香りに包みこまれているような、そういう気分になった。

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