1-7話 夢の庭で見た少女

 くらりと眩暈めまいがした。

「あれ、私はどうしたんだ?」

 ここは随分と涼しくて心地がよい。風が薫って頬を柔らかくなでていく。おやここはどこだ? 

 

 そうだ、私は山野曹長を連れて薬草を採取しにジャングルの奥地まで来ていたはずだ。


 ペグーの捕虜収容所の裏手の密林にジョウザンアジサイのひとむらが有るのを、私はこの間の山歩きで見つけていた。

 この苦い生薬は、毒性も強いのだが、根を乾燥させて粉にすると強力な下剤薬となる。

 上手く処方すると、今収容所で猖獗しょうけつを極めているアメーバ赤痢の良い薬となるのだ。

 配備の特効薬はとうに底をついている。私がこれを持ち帰らねば、多くの将兵の命は無い。


 霧が出てきているので定かには見えないが、あたりは静かな木立に囲まれている。足元は乾いていて歩きやすい。おかしい、この植生しょくせいはジャングルではない。それに、誰もいないのか?


「おおーい!山野さーん、佐竹くーん!」

大きな声をあげて呼んでみる。ああ、こういう時は、本当に戦争が終わったのだと実感する。


 連隊長から終戦を迎えたと知らされたのは、昨年の八月十八日だ。もうすぐ一年になる。

 私が英軍に収容されているのは、モールメンの赤十字病院だ。そこからペグーやラングーンの収容所へも治療に通うよう指示を受けている。

 

 マラリア、デング熱、アメーバ赤痢など、収容所ではもう殆ど皆、何かしら病を抱えている。

 乏しい医薬品や食料、劣悪な環境に苛酷な労働と状況は非常に厳しい。

 だがせっかく生き延びたのだ。何としてでも皆を国へと帰らせねばならない。



 不思議なことが、ひとつある。

 あの泥沼のようなインパールからの撤退以来、私には妙な特技ができた。

 生薬を見ると、その薬効成分が光って見えるのだ。それは調合する際に気力を込めることによって、さらに美しい光を放ちだす。


 もちろん、光が見えるのは私だけだから、余人には何も言わぬ。しかし、不思議なことにその薬効にはあきらかな違いが生じる。

 漢方の生薬というのは、本来は対処療法ではなく穏やかな効き目を求めるものだ。

 それが、どういうことか最新の西洋医学の特効薬を遥かに上回る効き目を発揮するのだ。


「仙人の力ですよ。これは仙薬なんです」

山野曹長は、いつも真剣な顔でそう言う。


「汐見先生。前線でも、いざという時にはその力を発揮されていたでしょう。いつも側で見ていたこの私が、それを知らないとでも言われるのですか?」

 大真面目に言われ、なんと応えてよいかわからなくなる。


 ふわりと柔らかな若葉が揺れる。爽やかな風、ふりそそぐ穏やかな日差し。おかしい、これでは熱帯の密林とは思えない。ここはいったいどこだ? 皆はどこにいったんだ?

「山野さーん! おおーい! みんなー!」

 思わず声をあげた時、ふいに霧が晴れてきた。




 そこに広がっていたのは美しい森のはずれの、あたり一面に広がる柔らかな草原だった。

 遥かに遠く高い峰々が霞んで見える。


 ふと甘い香りが漂う。私が踏みつけていた足元の草はカミツレで、それが爽やかなリンゴの香りを放っていたのだ。

 見渡すと木立の下草はセージや夏白菊だ。リコリスの藪もある。白いマーシュマロウの花が揺れている。ここは薬草苑なのか? 美しい春の野がどこまでも遠く広がっている。


 草の香りに誘われるまま草原を彷徨う。

 木立の向こうには光がさざめく緑の小池が見える。五本足の古びたアーチの石橋と、向こう岸の白い東屋が池の水面に映り込んで夢のように美しい。岸辺のにれの梢がさやさやと揺れる。


 本当にここは、どこなのだろう。

 池に浮かぶ睡蓮のツヤツヤした丸い葉を眺めながら、低い橋を渡って東屋の方へとまわる。


「ああ、ニワトコがある」

 あれは母の好きな木だ。母は西洋風にエルダーと呼んで、その白い花をとても愛していた。


 初夏に咲く白い花房を一晩水に漬け込んだシロップにレモンとハチミツを混ぜて炭酸水で割った、母の特製のエルダーフラワー・コーディアルは我が家の夏に欠かせない楽しみだ。


 しなやかに風にそよぐニワトコの白い花の懐かしい香りが私を誘う。心がいでいく。

 東屋から続く白い大理石のテラスの端に、古い石造りの日時計が見える。

「あれは日時計?」


 そして、その日時計の石の台座の足元に、その銀色の髪をした少女がひとり微睡んでいた。



 聖堂のフレスコ画の天使のようだと思った。

白く長い衣をゆったりとまとった姿は神々しくさえあり、見てはいけないものを見てしまったように心が跳ねる。


 白いエルダーの花房の下。柔らかな銀色の長い巻き毛が輝いてとけて、少女の頬を縁取る。

 触れてはいけない彫像のような、その少女の淡い桃色のくちびるがふっと微笑んだとき私はなぜか、ああ彼女を私は知っているとそう思った。



「ローデヴェイクのお兄様……」

 花がほころぶように微笑んでその少女、私のヒルダが幼い声でささやいたとき、私は自分がローデヴェイクであることを、思い出した。




「木馬が上手く作れないの」

 先ほどから彼女はニワトコの若木を手に取り、一生懸命に木馬の術式を施している。

 そうだ……ここはセレネピオスの学院領、私の館の薬草苑だ。


 眉を寄せて真剣にニワトコを見つめているヒルダを見遣る。横顔が少し大人びて来たか?

 ヒルダ・ラ・セシリアは私の許嫁だ。彼女は十二年程前に生まれたばかりのまだ幼い仙人で、私達が夫婦となるにはあと数百年の時はかかりそうだといわれている。


「ヒルダ、とても上手に造れているよ。丈夫で、ニワトコの香りも失っていない。上出来だよ」

 ヒルダの施した木馬の術式を丁寧に確かめて言う。問題なくできている。

 

「ちがうの、これじゃなくて、もっと温かくて柔らかくて、ちゃんといななくのがいいの」

「ヒルダは、生きてるような木馬がいいの?」

「そうよ! たてがみがふさふさしてるのがいい」


「ううん、そうだねヒルダ。術式にきちんと馬の姿を織り込まねば、生きているようには見えないのだよ。ヒルダは馬を触ったことあるの?」

「遠くで見たきりなの。お兄様作って見せて!」


 馬か、私の知っている良い馬というと……

 そうだ、中野の練兵場の馬場で可愛がっていたあの軍馬のウラノス号がいい。

 健康で美しく、何より性格が良い名馬だ……


 私は、ニワトコの幹を優しく労わりながら木馬の術式を施す。そのときにウラノス号の全てを写しとれるように丁寧に編みこむ。


 木馬は『ひひん』と嘶いて、ツヤツヤした美しいたてがみとふさふさした尻尾をふっている。栗毛と素直な愛らしい瞳がウラノス号に生き写しだ。

 ヒルダが目を丸くして木馬を撫で回している。かわいいなあ。


「ヒルダ、この子はウラノス号。馬術大会の花形で歴戦の勇士だよ」

 ヒルダは意味がよくわからない様子で、不思議そうに首をかしげている。



 そうだな……おや、ウラノス号とはなんだったか。あれ? 馬術大会? 私は、夢でも見ていたのか?

 そういえば、いま私は、何をしていたのだったか……



 ああ、もう、目覚めてしまうな。

 ああそうか、夢をみていたのか。私は……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る