1-2話 小さな異変

 ふむ、良い香りだ。

 ふわりと甘やかな茶の香りが漂った。


 ああ、あれは夢だったのか。

 あの大河、あの早朝の瑞々しい光がまざまざと目に浮かぶ。あそこは戦場だった。それなのにどうしてあのように美しいのだろう。

 いや、あれは夢だ。

 大丈夫。ここはいつもの、現実の私の寝室だ。



「おはようございます。ごぜんさま」

「ああリュリュ、おはよう。いい香りだね」


 今朝もリュリュがお茶を用意してくれている。

 だいぶ手際がよくなってきたな。

 温められたカップ。ポットで開く茶葉の香り。

「これはなつめ? それから龍眼りゅうがん?」

「はい、黄耆おうぎも少し入っています。少しお眠りが浅いようだからと、アレクサンテリさんが調合を教えてくださいました」


「そうか。ありがとう、よく効きそうだ」

「ごぜんさま……少しお疲れですか?」

うん? そんなに疲れているように見えるのかな?


「いや、大丈夫。疲れてはいないよ。ああ、もしかしたらここ少し、よく夢を見るので眠りが浅いのかもしれないね」



 いつも見る、不思議な国の夢。

 あそこは戦場だ。酷い傷を負った兵達が私のところへ次々と運び込まれる。


 夢の中だからか、思うように身体が動かないし、なぜか仙術の効果が薄い。それでも必死に気を練り法力を込めて治療にあたる。

 これは夢か? と思い、いやいやこれは現実だ、と夢の中で思う。


 復活の眠りから覚めて以来、度々この夢で目がさめる。私はいつも戦場の中で途惑う若い医師だ。そう、何という名で呼ばれていたか……

 ああ、どんどん夢がおぼろになってくる。何かに書きとめてでもおかないと……



「そろそろこけを入れる頃合いだ。瑞々しいものを採りに聖域の森へ行ってくるよ」

 朝食後、アレクと共にホムンクルスの産室うぶやでフラスコの中を確かめる。

 魂玉を核として、徐々に固まりつつあるな。良い胚芽が育ちそうだ。


「お戻りはいつ頃になりましょう?」

「出来るだけ早く戻るつもりだ。そうだね、明日の夕食には間に合うだろう」

「かしこまりました。それから、水にお濡れになったらどうか必ずお着替えをなさってください。まだ外は冷えますから」

 アレクは苔を入れるためのクリスタルの壺の他に、着替えの服と乾いた布も背囊につめている。

 用意のいいことだ。


 ホムンクルスの生成に使う苔は、必ず薫苔かおりごけでなくてはならない。薫苔は湿原に育つ。前回の採取の時はびしょ濡れで帰ってきたからな。今回はかなり警戒されているらしい。



 ロオウの本邸は、聖域の結界を越えた直ぐ外側の、低い丘と荒地を望む山間やまあいにあって、雪解け水を集めた静かな湖水に面してひっそりと建っている。 屋敷を囲む林の木漏れ日が美しい。

 ここは聖域の森の東端にあるので、薫苔の育つ湿原を目指すには、大森林を外縁部に沿って南下することになる。



『聖域は歩くには少々広すぎるからな。そうかと言って転移ばかりでは身体がなまりそうだ』

 それで、今回は騎馬で行くことにした。馬といってもだが。

 木馬はニワトコの木に術式を施して作る。見た目は普通の馬に限りなく似せてある。似せる必要はないのだけれど、これは私の趣味だ。

 いなないたり首や尾を振ったりもする。可愛いがるとちゃんとなつく。


 朝から早駆けして昼過ぎには南の草原が見えてきた。この草原の向こう、森から先が結界の張られている聖域だ。木馬を常歩なみあしでゆっくり進める。


「ほら結界だ。お前はここで待っていておくれ」

 木馬の鼻面を撫ぜてから術式を解除すると、木馬は元のニワトコの木に戻り、森の入り口にそっと根をおろした。



 結界を越えると空気が一変する。

 清浄な大気だ。

「確かこっちの方だ」

 小さな小川を辿って行くと水辺に沈丁花の一群ひとむらがあった。あそこだ。


「今年は雪解けが遅いのか?」

 以前見たときより湿原が小さいように思える。

 水辺の乾いたところを選んで歩く。


「おお、あった! あれだ」

 湿原の中に、見覚えのある深い緑が揺れている。薫苔だ。



 薫苔かおりごけは水に沈んだ沈香木じんこうぼくの上に育つ苔だ。

 沈香木は、水辺に育つ沈丁花の大木が嵐か何かで偶々たまたま倒れ水に沈んだとき、その濃い樹脂が水中の圧力を受け、長い年月の間に変化へんげし香木となったものだ。この沈水香じんすいこうも貴重な生薬となる。


 薫苔は、この沈香木にのみ生い育つ苔で、水に沈んだ沈香木の上に何代も堆積して育つ。その一番新しい世代が水面に顔を覗かせるのだが、その新芽のところを採取しなければならない。

 薫苔の香りは深く穏やかで、花のような甘さはないが、心を鎮める森の香りがするものだ。


 深い薫りを確かめながら、品質の良いところを選んで薫苔を丁寧に採取する。

 良い新芽は、深いところに生えているのでついつい湿原に踏み込んでしまう。もうビショビショだ。えい、どうせ着替えるのだ。構うものか。

「おお、これはなかなか、良い新芽だ」

 クリスタルの壺に薫苔を詰め丁寧に封を施す。



 ふいに、かぐわしい芳香が辺りが包む。

「おや、この香りは神木の?」

 その香りに気づいた時、辺りが一変した。突然、目の前に聳え立つ神木の姿に言葉も出ない。


 私は転移したのか?

 それとも神木に呼ばれたか?

 神木を見上げる。梢がさわさわと鳴って、花の香りが辺りに満ちてくる。


「古えの神木よ。私を呼ばれましたか?」

 堂々とした幹に身を寄せて問いかけてみる。


 ふと、ロオウの身の内が、切なさに震えた。

「……どうして?」

 はっとして樹冠を見上げるが、神木の様子はいつもと何も変わらない。午後の陽射しが樹冠の若い葉を透かして柔らかく降り注ぐばかりだ。


 もう一度、幹に頬を寄せる。

 いつもと変わらない温かい神木の幹だ。

「なにか、起きているのだろうか」


 不思議なことにいつの間にか、濡れていた服がすっかり乾いてしまっていた。

 そのことにも気づかないまま、ロオウは神木の根元でひとり、じっと考え続けていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る