第1章 交錯する二つの夢

1-1話 夢かうつつか

 ふと目が覚めた。

 ずいぶんと深く眠っていたように思う。

 先程からゆらりゆらりと心地よく揺れている。


 目の前の驚くほど近いところに木目の荒い天井が見えている。ここはどこだ?


 大気は水を含んでいるが澱んではいない。

 生き物が起きだす前の清浄さを保っている。


 私が眠っていたのは、壁の一方からもう一方へと吊り渡された布で作られた寝床のようだ。

 その寝床の大きな布が私の重みで身体をすっぽりと包み込んでいる。背中の丸みがしっくりと収まって大層具合が良い。

『まるで母狼の胎嚢で眠る袋狼の仔のようだ』

 心が安らぐのを感じる。夢かな? 良き夢だ。


 それにしてもここはどこだろう?

 やはり夢を見ているのだろうか? 私は?

 床を見る。寝床はずいぶんと高い位置に吊るされている。寝床の下には粗末な台が一つ。

 それになぜだか少し揺れている。


「床に足がつきそうにないな。仕方がない。浮揚ふようの術で降りるとす……」

 勢い良く立ち上がった私はそのまま、逆さまに、頭から落下した。





「先生! 先生!」

「大丈夫ですか! お怪我は?!」

 先ほどから誰かが耳元で叫んでいる。

 何だ?どうしたんだ?


 黒い頭髪を恐ろしく短く刈り込んだ青年が二人。一人は私の頭を水を含んだリネンで冷やそうとしている。


「おいこらっ! 頭を動かすなっ!」

 もう一人、大きな声の男が加わった。少し年かさに見える。

「少尉、汐見少尉、私がわかりますか?」

 落ち着いた声で何か言ってくる。何だって?

「あぁ、ここはどこでしょう? あなた方は?」


 彼らは驚愕した顔で互いに見合わせていたが、やがて年かさの男がゆっくりと問いかけてきた。

「あなたは吊床つりどこから落ちたのですよ。わかりますか? 痛みはありますか?」


「つりどこ? ああ、吊り下げてある寝床……」

「どこか痛みは? 自分のことがわかりますか?」


 ふむ? この男は医師か薬師かもしれんな? 私を助けようとしてくれているようだ。

「ああ、ありがとうございます。いえ特に痛みなどはありません。浮揚ふようの術をしくじるとは。ご心配をおかけしましたね」


「先生、少尉? 大丈夫ですか?私がわかりますか? ご自分のお名前は言えますか?」

「私? 私の名前? そうですね……私は、ロ翁ロオウ。これは私の夢なのでしょう?」


「夢? 呂翁ロオウ? それは唐代の仙人の名前ですよ? 夢を見ておられるんですか!?」

「山野班長! 班長まで何を言われるのですか!」

「少尉!汐見少尉!お気を確かに!」



 水を貰って頭を冷やして、彼らの話をゆっくり聞いているうちに、徐々に頭がはっきりしてきた。

 これは夢ではない。現実だ。そうだった。私は汐見しおみ 伊織いおりだ。陸軍の軍医だ。召集組の下っ端の。

『あれ? やはり夢か? 陸軍?』


「汐見少尉、いかがですか? 頭の手拭いをお取り換えいたします。痛みますか?」

先ほどから甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる青年は私の従兵で、初年の衛生兵だ。


「先生、汐見少尉、どうかしっかりなさってくださいよ。イラワジ川の船旅も本日までです。夕方にはバガンに着きますから、そこからは陸路でメィティーラ方面にむかいますよ」

「山野曹長、心配をかけた。もう大丈夫です」

 山野さんは衛生兵からの叩き上げの熟練曹長だ。下手な軍医よりはよほど頼りになる。


 今回の私達の任務は、北ビルマ会戦で負傷された坂本少将を救護収容し、バガンからメィティーラを経て陸軍病院のあるカローまで無事に送り届けることだ。

 坂本少将は現在この船の特別室で滅菌管理、厳重看護されている。


 最前線の北ビルマのミッチーナで火線救護された坂本少将は、腹腔と左大腿部に砲弾の破片を受け重傷だった。現地で止血し痛み止めのモルヒネで腹圧を下げ、後方バモーの包帯所まで搬送できたのはひとり山野曹長のお手柄である。


 私がやっとバモーで出迎えた時、既に坂本少将はかなりの重体であった。腹腔内に被弾した残留物の除去、縫合、大腿部の血管接合と、あの状況でなぜ助けられたのか、はっきり言ってわからない。無我夢中というのはああいうことだと思う。


 あの手術以来、山野曹長は私を神技だ天才だと手放しで褒める。それは買い被り過ぎだろう。

 実家うちは漢方が家業だから私も薬学の方が専門だ。特に生薬は奥深く興味が尽きない。医大を出たのも診断を合法的に行うためにはそれしかなかったからだ。臨床の経験も少ないしな……


『いや、違うだろう。……これは何だ? やはりこれは夢? 私はローデヴェイクだ、伊織ではない。しかしなんとも現実味のある荒唐無稽な夢であることよ』


 頭を冷やそう。夜明けの甲板へ出てみる。

 川船はそう大きくはないので水面が近く、川面は白い靄で覆われ河岸も定かには見えない。

 イラワジ川はビルマ有数の大河である。

 向こう岸は遥かに遠く霞み、そこに曙の光がいく層にも重なって薄紫から薄紅色まで様々な色合いに変化していく。

 ああ、山間にかすかに見えるパゴダの丸い尖塔に眩しい朝の光がさしそめてきた。

 あまりの美しさにもう動けない。


 誰もいない静かな甲板に座り込んでしまう。

 この霊気。仙人の秘伝、長静呼吸を行おう。

 静かに座して、背筋を伸ばす。臍の下と背筋、脳天が一筋に天空と連なるように真っ直ぐに整える。

 肩の力を抜き、深く呼吸する。

 天地の息吹が、腹中に届き浄化をもたらしていく。身体が温まってきた。霊気が満ちる。


 今ならしくじらぬ。呼吸を整えると身体が軽くなり、重力から解き放たれる。浮揚の術だ。

 ロオウの身体がふわりと浮いて、姿が消えた。




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