1-3話 汐見伊織と仙人と

「撤退……ですか」

 信じられぬ思いで思わず聞き返してしまった。


「汐見先生、落ち着いて、よく聞いてください。我々はこれから全軍速やかに撤退をすることになります」

 私をじっと見ながら一言一言丁寧にそう告げられたのは、歩兵団長の吉崎少将だ。



 インド北東部アッサム地方は、連合国から中国への主要な補給路だ。ビルマ側のコヒマを占拠した後、重要地点インパールを制圧するのが今回のウ号作戦であると聞いていた。

 撤退はありえないとも。



「コヒマは放棄です。驚きましたか? 私もです」

 吉崎少将は、あのノモンハン事件でも活躍されたという勇将だ。だが実際に接してみると普段はとても穏やかで理知的な方だ。

 お若いころ、私の母方の祖父から漢籍の講義を受けておられたらしい。そのご縁を大事になさって、任官間もない私にも丁重に接してくださるので面映くてならない。

 俳句がご趣味で、密林の草木をちぎってきては『これは何という名かね? 漢方では使うの? 』などとよく私に尋ねてこられたものだ。


「補給がね、もう望めません」

 武器弾薬、食料、医薬品、ほぼ尽きている。


「汐見先生、私は師団長から病兵1500名の後送こうそうと、歩兵団の完全撤退を命じられました。力を貸して欲しいのです」

「えっ? 後送? 連れて行けるのですか?」


『信じられない。でも助かった』

 軍医は助けられない重症の兵を安楽死させるための毒薬を持たされている。従軍してからこれを使う時が来るのを、私はずっと恐れていたのだ。


「承知致しました。直ぐに準備にかかります」

「汐見先生、頼みます。私は遅滞戦術に入ります。出来るだけ速やかに撤退してください」



「汐見少尉! 総員準備整いました!」

「山野曹長、それではよろしく。まずはウクルルへ向かう!」

 吉崎少将を始めとする歩兵団が、遅滞戦術で英印兵の足止めをして逃げる時間を稼いでくれている。この隙に傷病兵を引率し出来るだけ早く撤退しなければならない。

 山野曹長率いる古参の衛生兵が中心となって、動けぬ者を担っていく。しかし新兵を入れても衛生兵の数は少ない。軍医は私ひとりだ。


 退却は熾烈を極めた。英印のグライダー部隊が背後から銃撃してくる合間を縫って、先ずは標高三千メートル級のアラカン山脈をくだらねばねばならない。

 密林にたどり着いた時は、もう辺りは真っ暗になっていた。あれから二日経っている。

 密林に入ったところの岩陰で休息を取らせる。ここで吉崎少将指揮の歩兵団と落ち合うことになっているのだ。


「無煙炊飯、始め!」

 煮炊きの煙で居場所が知れぬよう、飯盒を半ば地面に埋めて炊飯する。米は現地民の逃げ去った村から種籾を徴収してきたものだ。僅かだが密林の芋とともに炊き上げ、汁で薄めて皆に配る。


 山野曹長は動ける者を連れて食料調達に行ってきた。山芋、雑草、トカゲ、ヘビなど何でも取ってくる。大したものだ。

 私は一通り、重傷者の元を回りやっと岩陰げに腰を落ち着けた。



 その時だった。

「ああ、まただ。こんな時に」


 頭がクラクラする。

 まるで泥の中を歩いてるように身体が重い。

 夢の中でもがいているようだ。



「汐見少尉! どうされました? 」

「ああ、山野さん。いつもの目眩です。直ぐにおさまると思います」

「いつもの……、ですか」



 ああほら、おさまってきた。

 ここのところ、時々、自分が自分でなくなるような気がする時がある。

 でも、大丈夫。ほら、おさまってきた。



『ふむ。これはまた、大変な状況だな』

 あたりまえだ、撤退戦だ。これから先はジャングルだ。飢えと病が襲ってくるだろう。


『病? 例えば?』

 まず、マラリアだ。これは避けられまい。それから悪くすると、熱帯赤痢か……


『なるほど、マラリアとは?』

 マラリア蚊によって媒介されるマラリア原虫による症状だ。高熱、貧血、黄疸、臓器をやられて腹が膨らみ、やがて脳症を起こす場合もある。


『ふむ、あれか……ならば、あそこに良い薬が生えているぞ?』

 薬? マラリアの? こんなところに?

『ほら、あれだ。河原ヨモギ。ほらそこにも』

 目の前5メートル程先に何かが固まって生えていて、それが僅かにぼぅと青白い光を放っていた。


「光っている……」

 身をかがめてその近くに寄ると、果たしてそれはカワラヨモギ、青蒿せいこうと呼ばれる生薬だった。黄色い実が細い茎の先に沢山できている。


「すごいこんなに!」

 思わず大きな声が出た。

「汐見少尉? いったい何です?」

 山野さんが慌てて近寄り小声で尋ねてくる。

「山野さん、これ、マラリアの薬です。漢方の」


「これが? あのキニーネの原料なんですか?」

「いえ、山野さん。キニーネの原料はキナです。アジアにはありません。これは青蒿、古くから使われている生薬で、解熱剤になります」

「解熱剤……マラリアにも効くんですか?」

「高熱、おこりにも効果があるとされています。瘧はマラリアのことで…… これは祖父の薬草園でも栽培していたので間違いありません。この実と実のついている茎の部分を使います」


 それに光って見える。有益な薬草である証だ。

「えっ? 光って……見える? あれ?」

「汐見少尉、光っているんですか?」


「あ、いや……あれ、どうして……」

 確かに光って見えてはいるんだが……いったい

「汐見先生、私には光って見えたりはしませんが、私は信じます。仙人殿にはもう何度も助けられてますから」


「仙人ですよ、仙人」と山野さんは笑いながら、小刀を出してザクザクと青蒿を刈り取っていく。

「マラリアに効くんなら、これからたくさん使いますよ。キニーネは殆ど残ってませんから」


 確かにそうだ。出来るだけ多く刈り取ろう。乾燥させて、この前採取した桂皮けいひと合わせて散薬にすれば日持ちもする。



 そういえば、あの桂皮も密林の中で光っていたんだった。それで慌てて採取して……

 ……光って、そしてここに青蒿があると教えてくれたのは……そうだ、あれは、いったい……?


 暗い密林の下草の中で、思わず辺りを見渡してみたが、そこには何ものも、見えはしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る