2-4話 仙人の伝説
ロオウは、何度もその小瓶に結界を掛け直している自分に気がついたとき、この
仄暗い機関室からそっと抜け出して、甲板へ上がると陽の光の眩しさに目がくらむ。
リュシアンは何事も無かったような顔をしている。この子の、この肝の
船は既に王宮前の港を発って、ハトナ湾の沖合に浮かぶ小島に向かっているようだ。動力船は風を切り波を蹴って突き進んでいる。
『まるであの夢の、あの世界の戦艦のようだ』
これは夢ではない、と思う。現実にこの船は、この懐の小瓶の液体で動いている。法力油だ。それをこの目で確かめてきた。
––
この法則が崩れた。
手に入れたこの小瓶の液体は何ものなのか。
そして、これをカレルヴォの叔父上はご存じであったのだろうか。この国は、これをいつ頃から使い始めたのだろうか。
「確かめねばならぬな」
ぽつりと呟くと、はい。とリュシアンが応えてくれた。
遊覧船は沖合いの小島に近づいていく。
『ああ、この小島はあの時の……』
「ふむ、この辺りは変わらないのだな」
「お師匠様、崖の上に白い建物が見えます」
リュシアンが小島を見上げて指を指す。
それほど大きくない小島の周囲は、切り立った崖となっている。その小島の頂の岩山の麓には、古い聖堂がひとつ建っているはずだ。懐かしい。
リュシアンと二人、上甲板を歩く。
波のしぶき、風の音、飛びかう白い
「おや、こちらにおいででしたか」
小島を見上げていると声をかけられた。
海に向かって並んだ椅子に、港の貴賓室で出会った、あの老夫婦が
「おお、これはこれは。奥方殿も」
老夫婦がにこやかに微笑んで迎えてくれた。
「楽しんでおられますかな? 船は如何です?」
「快適です。船脚は速いし揺れもありませんね」
「そうそう、そうでしょう。さっきまで王宮前にいましたのに、ほらもう! 聖堂が近づいてきましたよ。全く良い船ですなあ」
「ああ、あの岩山の影に……」
遊覧船が小島の周囲を巡ると、聖堂の姿がはっきりと見えてきた。
奥方が席を立ち、リュシアンの側で指を指す。
「ほら見えまして? 聖堂が建っていますわ」
「はい。岩山の
「本当。光を浴びて白く光って、美しいわ」
老紳士も老婦人の側によって小島を見上げながら楽しげに問いかけてきた。
「お若い方々は、あの聖堂の伝説はご存じですかな?」
奥方は懐かしげに小島を見つめている。
「私たちは昔、結婚式の後、ふたりでここを訪れたことがありましたのよ。昔はこの聖堂の小島の伝説は歌劇の演目でもよくかかっていましたから、恋人達にとって憧れの土地だったのです。今の若い方はあまりご存じないのかしら?」
「ははは、そんなお前、古い話を。若い人達は伝説など気になさらないよ。私達も若い頃はそんなものだったろう?」
そして、ふたりは楽しそうにこの島にまつわる話を語ってくれた。
小島の上の聖堂は王室直轄のご禁足地で、年一度の勅使の礼拝の他は、神職以外立ち入れないのだそうだ。聖堂に詣でたい者は、船から見上げて祈りを捧げるのだという。
船は小島の周りをゆっくりと一周した後、静かに島を離れていく。
「少し風が出てきました。中でお茶でもいかがですかな」
「そうだわ! ラウンジに聖堂伝説の綺麗な絵が掛かっているのです。仙人の伝説のお話しを教えて差し上げましょう」
ね、そうしましょう? と老夫人はリュシアンの目を覗き込む。仙人の伝説なのですか? と目を丸くするリュシアンを、老夫婦は楽しそうに見つめている。
「ほうそれはありがたい。ぜひお聞かせください。リュシアン、そうさせていただこう」
「はい。どんな伝説なのでしょう。楽しみです」
船のラウンジには楽師の奏でる弦楽が静かに響いていた。
格調高い広間の中央、奥の壁に大きな絵画が掛けられているのが見える。
濃く淡く、薫り苔の深い色調を持つその絵は穏やかで美しい。
絵の中央右下寄りに、横たわる高貴な青年と、その青年の頭を労わるように膝に乗せた美しい乙女の姿が大きく描かれている。乙女はひざまづいて、画面の中央から少し左上を祈るように見上げている。
その視線の先には、ひとりの老人の姿がある。老人の長くまっすぐな白い髪と髭が銀箔で光り輝くように描かれていて、その左手には書物を持ち、その右手を軽くかざして、ふたりに仙術を施してるように見える。老人の右手からは淡い光が降り注ぐかのように金の砂子が蒔かれていて、きらきらと灯りを反射して美しい。
背景には小さな泉と白い聖堂が描かれ、そこがあの聖堂の小島であることがわかる。遠景にぼんやりと描かれているのは、ロオウの館のある岬のようだ。岬の突端には白い館の姿もうっすらと描きこまれている。
「ほう。この絵は……」
「美しいでしょう? この絵は、船が聖堂の小島から、あの岬を巡る時だけ、幕を開けて公開されるのだそうですよ」
「楽師も聖堂の仙人伝説の戯曲をやってくれているようだね」
「これは序曲ね。素敵だわ」
一等ラウンジには、貴賓室の乗客が集まってきて、遠ざかりゆく小島や美しい絵画を眺めつつ、楽師の演奏に耳を傾けている。
「この絵は、この国の建国神話にもある、聖堂の仙人伝説を描いているのですな。あの横たわる青年は初代フォルセクイル王の若き姿、ひざまずく乙女はその
「あの青年が……」
ラウンジの執事がお茶の用意をしてくれたので、老夫婦とリュシアンとともに、絵をゆったりと眺められる席につくことにした。
温かなお茶の甘い香りが漂って、老紳士の声が静かに響く。
「今からおよそ、二千年も昔の事。ここは名もなき美しい港であったそうです。ある時、ひとりの青年と美しい乙女が恋をしました。その青年は港を守る一族の跡取り。乙女は雪を戴く
「天山とは、あのセレネピオスの天山ですか?」
リュシアンが目を輝かせて尋ねる。
「まあ、良くご存じね。そうですよ、遠い国の娘だったの。それでふたりの恋は叶わないかと思われたのよ」
いつの間にか、老夫婦の周りには伝説の話を聞こうとする人びとが静かに集まって来ていた。
「その頃、この国のこの港に恐ろしい疫病が蔓延したのだそうです。港を護る一族は方々手を尽くしましたが、病の勢いは増すばかりであったとか。そしてとうとう大事な跡取りの青年まで、その疫病に倒れてしまったのです」
乗客達は皆静かにその話を聞いている。
いつの間にか
「昔のことですから、疫病が流行ると中々手がつけられなかったのでしょうな。病に罹ったものは皆、あの聖堂のある小島に棄てられたのだそうです。まだ息のあるにもかかわらず」
近くで話を聞いていた幼い子どもが母親の膝にすがりついてしまった。母親が『大丈夫ですよ』と小さな声で子どもの頭を撫でて慰めているのが見える。
「跡取りの青年も、自分の病を覚ると自ら小舟を出して沖の小島に向かったのだそうです。愛しい乙女を港に残して」
聴衆は皆、伝説の絵画を眺める。そうか。あそこで横たわっているのは、あの病に
老婦人も昔見た戯曲を思い出しているのだろうか、少し涙ぐみながら静かに語る。
「あのひざまずく乙女、あの少女は病に罹っていなかったそうなの。それでも嵐の中を小舟を操り、愛する青年の姿を求めてこの小島までやってくるのよ」
「よほど、青年と一緒にいたかったのだろうね。少女が小島に横たわる病人達をひとりひとり探して回り、やっと青年を見つけた時、青年の命の灯はもう今にも消えようとしていたそうだ」
先ほどからじっと話を聞いていた若い娘がハンカチを出して涙を拭う。哀しい調べも涙を誘うのだろう。
「そしてね。これは偶然だろうか、それとも必然だったのだろうかね。その乙女は雪を戴く天山の民だったのだよ。それで聖地に祈る言葉を彼女は持っていたのだという。今はもう、失われてしまったというその祈りの言葉を、乙女が必死の思いで口にした時、たちまちにしてその奇跡が
皆の視線が絵画の仙人に集まるのがわかる。戯曲が厳かに流れる。
「その時、真白に輝く老仙人が忽然と姿を顕わされ、そして静かにふたりをご覧になった。金に輝く法力の仙術は惜しげもなく施され、瞬く間に青年の病は癒されました。青年と乙女の無償の愛を
「青年は仙人の仙術で癒されたのですか?」
リュシアンが尋ねる。
「そうですとも。そうですとも。そしてこれは本当にあった話なのですよ」
老紳士が、しっかり頷いて胸を叩く。
老婦人もリュシアンの顔を覗き込んで笑う。
「ふふふ。しかもその時、病の癒えた青年と天山の乙女は、その真白の仙人様から法力の極意を授かったそうなのよ」
「そして青年と天山の乙女はふたりで国中の病を癒して回ったのだそうだ。もったいなくも、このお二人はその後、この国の開祖、フォルセクイルの王室の初代様とおなり遊ばされたということでありました」
老夫婦の話が終わった。期せずして一同から拍手が起こる。楽師は今は、明るく穏やかな曲を演奏している。
ラウンジの執事が、老夫婦に果実酒を運んできた。良い話をしてくださったとしきりに礼を述べている様子だ。
「ほら、あの絵の背景に遠く描かれている岬があるでしょう? これが今まさに巡っているあの岬なのですよ」
老紳士が窓の外で夕陽を浴びるロオウの館の建つ岬を指し示す。
「その仙人様はしばらくの間、あの岬に留まられて、この港の行く末をお見守りくださったということです。だから今でもあの岬の突端には陸からも海からも、誰も立ち入れない場所があるということです。遠くから見ると仙人の館があるような気がするのですが、近づこうとしても森の奥にはどうしても入ることができないということですな」
ああ、それが歴史公園なんですね、と乗客一同の話が盛り上がる。それで、このフォルセクイルの王国は仙人様に護られた国といわれるのだと誰かが答えているようだ。
リュシアンが、先ほどから何やら私に尋ねたいことがありそうな顔でこちらを見ている。
そうだね……いろいろと聞きたいことがあるだろうね。
「皆様、おかげさまで良いひとときとなりました。お話しくださいましたおふた方には、厚く御礼申し上げます」執事の声に、一同からあらためて拍手が起こる。
「この地の由来は、その名にも残っておりまして、古くは
ほうほうと皆、執事の薀蓄に耳を傾ける。
「左様、左様。まことに良き話ですな。元来この国の国名からして、
乗客の中の退役軍人だろうか。恰幅の良い男が上機嫌で話を継ぐ。
ほら、そろそろ岬を巡りますよ。やがて見えてくるのは王立学舎の波止場です。我が国は建国以来、法力と仙術の研究に秀でております。この学舎を巣立った学徒からも、かのセレネピオス法学院へ進まれる方が、多く輩出されているのでございますよと、執事による案内が続いている。
『ふむ。この国は、一体どのような研究に力を入れているというのか?』
ロオウは懐の小瓶に手を当てる。
『そうかその研究が、この法力油に繋がっているのかもしれぬな』
懐の小瓶が、何故か熱を持ったように感じる。確たる結界を張っている。熱が漏れることなどない。ないのだが……
夕陽を浴びて輝く王立学舎の瓦屋根を眺めながら、ロオウはひとりじっと考え続けていた。
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