繊細な筆致で語られる描写が、仄暗い世界を眼前にありありと映し出してくれるのが印象的。
テーマなどがあるのかは分かりませんが、男の容姿が変わるまでの間の心の方こそが重要な変化であるように感じる。
カメラという別の視点を得る事で自分の内面と向き合い、そしてその思いを自分の内で留めておけなくなり、外の世界へ。その時点で男はもう大切な変化を終えていて、姿の変化が無くても十分だったように思う。
しかしこの話をそれで終わらせないのが、魚影の存在。
魚影という存在の介入で、男に姿の変化というものが起こった。これは実際過剰な変化であるように思う。極端な変化はリスクを伴う。
今までの内容はこの男だけではなく。全ての人間に起こり得る事象であるのではないだろうか。
結果がどうであるのかは、各々がこの作品を読んだ後にどう感じたかという判断に任せたい。
物語全体を通して語られるのは、結局のところ、怪病を患った1人の男性が廃墟へ向かい、奇妙な体験をする話。
だがしかし、純文学のような語り口で語られる丁寧な描写は読者の心にいともたやすく写し出す。幻想さと入り混じり、独特の世界観を醸し出している。匂いに至るまで想像できる文章力と、正確な描写を描いたのち、男の目を通してみた比喩表現を重ねる手法は是非とも真似したい。
反比例するように、男性の心理描写は漠然としたものが多い。そのためか、非常に感情移入がしやすいのだ。「惹きつけられるものがあった」「うまく言い表せないが」「何かが足りない気がする」など、明確な答え、理由を提示しない書き方が読者の想像に自由を与えているのだろう。
これからこの作品を読む方は、程よく空虚に語られる主人公に自身を重ね合わせ、美しくも少し不気味な、奇妙な世界観に身を委ねてみてはいかがだろうか。
皮膚の病に苦しむ様子から始まり、カメラを与えられたのがきっかけで写真が楽しみとなっていく様子が室内から夜の屋外へと移り……一枚の絵に引き寄せられて行く経緯が、非常に堅実で丁寧な描写で描かれ、すっかり物語に乗せられてしまいました。
何故、ではなくいかようにそこに引っ張られていくのか、という点で非常に巧みな物語でした。屋敷で徐々に朝を迎える場面や、ドクダミやアトリエの匂いなどへの言及も作品に奥行きを与えているように感じます。
ラストも一般的なオチではなく、表現者の心の中に潜む『深淵』に気づきながらもひとつ高みに上ったような結末で、とても好感が持てます。自伝なのだろうか、と少し感じました。そのくらいリアリティがありました。
筆者である、藤九郎さんの意図とは違うのかもしれませんが、私に伝わってきた事をレビューとさせていただきます。
この文章たちが私の心を掴んでしまうのは、自分の奥底にある何かを呼び覚ましてしまうからなのでしょう。
誰もが持っている、認められない部分、自分の嫌いなところ、もしかしたら、心の奥底に閉じ込めてしまって、そのまま忘れた気になっている事があるかもしれません。
藤九郎さんはせっかく私が隠しているものを、わざわざもっとも見えやすい私の肌に持ってきてしまって、目をふさごうにもふさげない、触らないで置こうにも、普段は気にも止めない髪の毛さえそれを突き刺してしまうのです。
おどろおどろしい描写が、あたかも催眠導入の様に、私を心の奥底まで連れて行き、見たくないものを付きつけます。
最後まで、おどろおどろしさを残しつつも、爽やかさを感じさせてくれるのは、私の心にこのように囁かれたからでした。
「誰もが認められない自分を持っているさ、でもね、いつか何とか折り合いを付けて、そいつとも仲良く出来るのさ」
誰もが抱えている普遍的なものを、すばらしい心理の情景化にのせて私に届かせてくれた――そう感じました。勉強になります。ありがとうございました。