隠された過去

いつも通りのある春の終わり頃。

制服のシワを伸ばして、教室に入った。

「おはよう!」

とか言いながら入っていけたら良いのに。

中学校初日から乗り遅れた僕は、友達なんていなかった。

幼稚園から仲が良かった友人達とは、見事に中学校が分かれてしまった。

人見知りな僕は当然、友達ができることもなく、これまでの1年半を1人で過ごしていた。

根暗で自分から話しかけるなんてしない。

そんな僕のオーラに近寄り難いのか、誰も話しかけようとはしない。

まるで空気のような存在なのだ。

少しだけ寂しい。

小学生の時のように、友人達と馬鹿みたいなことをやっていた日々が懐かしい。

どうせこんな日々が続くのだろうな。

少しセンチメンタルになりながら、窓際の自分の机に向かう。

その間に違和感を感じた。

いつもはグループで集まって、うるさいくらいに駄弁ったりはしゃいだりしているクラスメイト達が今日は妙に静かだ。

何となく僕を見ている気がする。

·····自意識過剰だろうか。

いや、これは確実に見られている。

変な視線を無視しながら机の上を見ると、僕は動きを止めた。

「何これ······。」

机の上には沢山の落書き。

酷い罵倒や変な絵など。

机の中には大量のプリント。

1枚だけ抜いて見てみると、それは僕の写真だった。

「えっ?え?」

頭が追いつかなくなり、とにかく中に入っているプリントを引っこ抜く。

ボサボサで目にかかった前髪を手でそっと掻き分け、目を疑う。

「どういうこと?」

散らばったのは写真だけではない。

僕の小テスト。

僕の進路希望調査。

これは僕が入れっぱなしだったのかもしれないけど。

しかし、罵倒が書かれた紙切れは僕のものではない。

ふと顔を上げると、クラスメイト達はクスクスと僕を見て笑っていた。

ただただ笑っていた。


泣いてはいけない。


本能が警告を送る。

そう。これは当然の出来事。

僕みたいな根暗でフレンドリーじゃなくて、ひねくれ者の僕は、虐められるのが本当だったのだ。

いつこうなるのかと、ハラハラしながら今まで過ごしてきた。

何度も頭の中でシュミレーションをした。

殴られたらこうする。

嘲笑われたらこうする。

毎晩毎晩、そう考えてばかり。

「中岡君、どうしたの?」

彼らのリーダー格である人が僕に言う。

心配なんて全くしていない。

その上がった口角が、汚れた瞳が僕を苛立たせる。

ここで僕が大きな声で怒鳴って怒れば、少しは変わるかな。

殴りかかれば恐れるかな。

そんなどうしようもない思考がぐるぐると回り出す。

そう思ったのは傷付いたからではない。

確かに不快な思いはしたが、それよりもわざと人を傷付けようとしたその神経に僕は絶望していた。

僕の友達はこんなんじゃなかった。

もっと優しくて、強い人達。

だから、この学校でもそういう人は見つかるのだろうと思っていた。

でも、残念ながらそんな人は見つからず。

ここには、汚い人ばかりだった。

中学生のくせに、香水をつけて学校に来る女子達。

制服をだらしなく着る男子。

授業中に立ち上がる奴。

そんな人間ばかり。

だからだろうか。

別に傷付かないと思ったのは。

今まで関わりがあったわけではないから、僕が傷付く必要はないと思った。

最初見た時は驚いたけど。


「ははっ······どうしたの?」

今もジロジロと見られているが、正直気分が悪い。

その汚れた瞳で見ないで欲しい。

「このゴミ、さっさと片付けてくれない?」

わざとにそう言うと、クラスメイト達は真っ赤な顔をして身を見開いた。

そんな僕の発言に驚いたのか動かない。

そろそろ先生が来てしまうから、自分でゴミ箱を持ってきて紙くずをまとめて入れる。

綺麗になった机の中に教科書をしまう。

「皆、どうしたの?」

「······うざっ。」

あの女子が言った。

陰で、小声で言ったつもりらしいが、地獄耳の僕には聞こえてしまう。

そんな言葉も聞こえないフリ。

こんな人達に構うなんて馬鹿らしい。

暴力こそ奮ってこなかったから、そこら辺は出来ていると思う。

暴力までしてきたら、それこそ僕は彼らを同じ人間だと思わないだろう。

軽蔑の眼差しを送る。

「······何も思わないの?」

残念ながら、彼らはとても狡い人間だ。

決して手は出さない。

精神的に追い詰めるタイプ。

僕がそれを上回ることが出来れば、もうこれは勝ち戦だ。

「何も思わないわけないじゃん。」

僕の反応に困惑している彼らに、少しだけ本音を教えよう。

「ただ、ダサいなぁ。って思っただけ。」

満面の笑みで。

プライドの高い彼らがそんなことを言われて黙っているわけがない。

案の定、真っ赤な顔で睨んでくる。

「お前、何言ってんの?」

1人の女子がツカツカと歩み寄り、机を思いっ切り叩いた。

その時に強い香水の匂いが漂い、吐き気が襲ってきた。

近寄らないで欲しい。

「人権くらいは守って欲しいよね。」

本当は「臭いから近寄らないで」とか言いたいところだけど、相手は女の子。

泣かせたら面倒くさいからなぁ。

上目遣いで、口角を上げる。

「なっ·····!」

僕を侮ってもらっては困る。

1人の僕は弱くないんだから。

「ほら、先生来るよ。」

クラスメイト達は時計を見て慌てて座りだした。

その時、僕は聞きなれない声を聞いた。

それは地獄耳の僕にしか聞こえなかった。


「助けるから······。」



それからというものの、僕は散々な日々を過ごしていた。

朝に机の中から大量のゴミを取り出して、ゴミ箱に捨てることは毎日の日課になっている気もする。

机の落書きも定期的に消している。

中にはボールペンやマジックペンなどで書かれているものもあり、消すのは大変だ。

それから、上靴も隠されるようになった。

隠す所なんてすぐに想像ついて見つけてしまうから、面白くないらしい。

それでもやめない彼らを逆に尊敬する。

その執着心は一体何なのか。

今日は隠されていないと思えば、上靴の中に画鋲が隠されていたりもする。

······昭和か。

ここまで来ると、そんな行為も可愛く思えてしまう。

それでも暴力は一切なかった。

そんなことをしたら、すぐに先生方に伝わると考えているのだろう。

なかなかに頭が良い。

パシリにされることもしばしば。

でも、苦ではなかった。

プリントを回してくれない日だってある。

その時は寝ているフリをする。

僕のテストを壁に貼られることもあるけど、基本点数は高いから気にならない。

逆に自慢出来る。

よくそんなこと出来るな、と思ってみたり。

とにかく、前まで空気のような存在だった僕がこんなに目立つとは思っていなかったから楽しかった。

それでも僕には苦手なものがある。

それはやはり、香水の匂い。

どれだけ近寄られても、その匂いに慣れることはない。

他の男子とか何も思わないのだろうか。

「あー·····またか。」

筆箱を覗くと、中には定規しか入っていなかった。これも彼らの仕業だ。

深くため息を吐いて、ポケットの中からシャープペンを取り出した。

もう大体の対策法は考えてある。

こんなことやっても無駄なのに。


この時は虐めだと思わなくなっていた。


ある日、僕の毎日を劇的に変える出来事があった。

月に1度の席替え。

学生ならではのイベント。

女子の隣にはなりたくないと思いながら、くじを引いた。

番号を見るとまた窓際の一番後ろの席。

僕の特等席だ。

授業で寝れるし、落ち着く場所だ。

それが分かって、何となく機嫌よく席を動かす人達を見る。

窓から夏の風が入り込んできて、ふわっとした空気に包まれた。

花の匂いが僕の鼻をくすぐる。

その感覚に驚いて隣を見ると、優しそうな女子が微笑んでいた。

半袖から伸びる白くて細い腕。澄んだ瞳。形の良い口。

そこら辺の女子とは何かが違った。

花の匂いが増す。

いつも嗅いでいるようなどぎつい香水の匂いなんかではなく、純粋な綺麗な香り。

このクラスにこんな女子がいたなんて初めて知った。

茶色のボブが揺れ、そこからも香りが漂う。

そんな香りに軽く酔いながら、僕は「よろしく」と呟いて外を見た。

ずっと見ているのは恥ずかしかったのだ。

その女子はこちらこそ、と言ってから座って本を読み始めた。

透き通った声に胸が高鳴った。

その会話はきっと、僕達以外に聞かれていなかっただろう。

これが初めて僕の友達、香山 千春の存在を知った瞬間だった。



「ねえねえ、見てよ。」

千春が嬉しそうに見せてきたもの。

1輪の白い花。

「学校に何持ってきてるの。」

「大丈夫!これ造花だから。」

目を細めて花を見せびらかせてくる。

誰もいない教室。

あの席替えの日から彼女は僕と放課後に話すようになった。

接して思ったのは、意外と彼女は子供っぽいところがある。

最初は大人びているのかと思っていたけど、今のように無邪気に花を見せてきたりする。

「これスノードロップって花なんだよ。」

そして、彼女の笑顔は美しい。

汚れていない純粋な瞳で真っ直ぐ僕のことを見るのだ。

「花言葉は希望、慰めだって。私の誕生花なんだよ。」

「へぇ。造花って花言葉通用するの?」

「作りものでも花は花なんだよ!」

愛おしそうにスノードロップを見つめる彼女は何だか、本当に僕の妹と思ってしまうほどだった。

そんな透明な時間がとにかく大好きで、ずっと続けば良いと思っていた。

「ねえ、あお君は辛くないの?」

それから、彼女は僕のことを"あお君"と呼ぶ。

初めそれを言われた時は戸惑ったが、今ではそう呼ばれる度に嬉しさと、安心感と、少しの照れ臭さが心を温める。

「辛くないよ。」

彼女は前から、クラスメイト達に色々されている僕が気になっていたらしい。

僕がパシリされる度に、落書きが増える度に、悲しそうな顔をするのだ。

僕はその顔が嫌いだった。

折角素敵な笑顔を持っているのに、それを隠してしまうのはナンセンスだと思ったのだ。

「本当?」

「本当。全然辛くない。むしろ楽しい。」

怪訝そうな顔をしてこちらを見て、納得してくれたのか静かに頷いた。

「辛かったら言ってね?」

「ありがとう。でも大丈夫だし、もし辛いって言ったとしたら、千春はどうするの?」

意地悪に聞くと、千春は一瞬キョトンとしてから顎に手を添えて首を傾げた。

真剣に考えているらしい。

そこも千春の良いところだ。

暫くしてから、思いついたかのように手を叩いてキラキラした目で見てきた。

「助ける!」

「·····え?」

その1単語を見つけるために、そんなに時間をかけたのか。

てっきり、助ける方法を考えてくれているのだと思っていた。

「どんな手を使ってでも助けるよ!」

自信満々で胸を張る。

そんな様子が子供らしくて、ついつい笑ってしまった。

「そんなに頭が回るのか。」

「失礼な。私にだってそれくらいの脳はありますよーだ!」

だからこそ、僕は絶対に辛いなんて言わないでおこうと思った。

彼女は絶対に辛そうな人を放っておかない。

何としてでも人を助けるだろう。

自分の命を削ることになっても。

そんなこと、僕は絶対に許さない。

このまま、綺麗なままで清らかに末永く笑っていて欲しいのだ。

願うならば、ずっと僕の隣で。

「あっ!」

突然上げた声に驚く。

隣を見ると、千春は窓の外を指さしていた。

そちらの方を見ると、空には白い鳥。

「ただの鳥じゃん·····。」

呆れながら言うとスノードロップが揺れた。

「私、鳥になりたいの。あの青い空を泳いでみたい。」

輝く瞳でスノードロップを見つめる。

僕はまだ知らなかった。

その言葉の意味を。


いつからだろうか。

そんな楽しい日々が絶望に変わったのは。

いつものようにゴミを捨ててから椅子に座って教科書を広げていたある朝。

担任の先生が教室に入ってきた瞬間、皆はバタバタと席につき始める。

「今日は転校生を紹介する。」

先生がそういった瞬間、静かだった教室はざわざわと騒ぎ始めた。

「楽しみだね。」

千春も興味があるらしく、こっそり笑って話しかけてくる。

「そう?」

僕には興味もない話だ。

扉が開き、一人の男子が入ってきた。

金色に染まった髪。

苦手だ。

第二ボタンまで開けられている制服。

苦手だ。

でも、その顔はどこかで見たことがあった。

ヘラヘラしながら教卓の前に立った男子生徒を見つめた。

その時、僕の頭に衝撃が走った。

そう。その人は紛れもなく僕の友人。

小さい頃からずっと一緒にいた人。


天野 公哉きみや


明るくて優しく、友達思いな人だ。

いつもノロマな僕の手を引っ張ってくれた。

最近は会ってなかったから、再会したことに感動していた。

僕のことは覚えているだろうか。

強い視線を送る。

公哉はきょろきょろと教室を見渡してから、僕と目が合った。

ドキドキしながら見つめる。

すると僕のことを覚えていたのか、こっそり手を振ってきてくれた。

それに僕も振り返す。

久しぶりに胸が高鳴る。

1年半ぶりに会えば、当然お互いに成長して変わっていた。

前までは僕の方が大きかったのに、公哉はかなり背が高くなっている。


「碧音!お前でっかくなったな!」

「公哉こそ!」

休み時間。

話しかけてくるクラスメイトを振り切って、僕の方へ駆け寄る。

大人っぽくはなっていたけど、眩しい笑顔は変わっていなかった。

「そういえば碧音、この学校だったな!」

「うん。転校生が公哉なんて驚いたよ。」

少し興奮気味で話す。

あの懐かしい感覚に陥った。

「よろしくな!」

「う、うん。」

握手をした時、また香水の匂いがした。

突然の眩暈。

そんな僕の顔を公哉は心配そうに覗きこむ。

「あ、ごめん·····。碧音、昔から香水の匂い駄目だったもんな。」

申し訳なさそうに笑った。

「ううん。大丈夫。公哉は香水なんか付けなくても良い匂いするよ?」

笑ってみせた。

今はあの優しい太陽の匂いは感じれない。

時間の流れを感じる。

「元気そうでなりよりだよ。他の人とは会ってたりするの?」

「あー······」

公哉は曖昧な反応をしてから外を見たり、教室を見渡したりした。

あまり話したくないようだったから、深くは詮索しなかった。

いつか言ってくれればそれで良いから。

ずっと2人で話していると、後ろに誰かの気配がした。

「何話してるのー?」

俺の背中からひょこっと顔を出す。

「千春······。公哉は僕の友人なんだよ。」

「ほぉ。」

驚きの声をあげる千春。

間抜けな声に僕と公哉は笑った。

笑われたことに拗ねている千春の頭を撫でると、公哉は目を丸くした。

「お前ら、そんな仲なの?」

「違うよ。僕達、仲良いんだ。なんか妹みたいだよ。」

頭を撫で続けると、千春は嬉しそうに目を細める。

······傍から見るとカップルに見えるかも。

「ふーん。面白いやつだな。えっと····千春だっけ?よろしくな。」

公哉が手を差し出すと、千春は満面な笑みで手を握り返す。

「そういえば碧音は高校決まってるの?」

「えー、決まってない。この学校の人は大体緑丘高校らしいけど。」

「へー·····同じとこ行けたら良いな。」

「そうだね。」

優しく微笑む姿を見て、やはり彼は僕の知っている公哉なのだと感じた。

「私も私も!」

「じゃあ千春が入れるような高校にしないとね。」

「何それ!」

頬を膨らませる千春を見て、僕達は顔を見合わせた後笑った。


やっぱり僕は人を間違えない。



雪が降り始めた頃。

ある異変が起きた。


「やめっ······!」

心の中で何かが崩れる音がした。

放課後。

ちょうど皆が部活を終えるくらいの時間。

忘れ物を取りに行こうと教室に戻ると、何人かが隅に集まっていた。

何を囲んでいるのか、ここからは見えないがあの声は千春のものだった。

ぐるぐると渦巻く感情。

頭にこみ上げてくる怒り。

ビチャビチャァ音がすれば、バケツがひっくり返されていた。

「君達、何やってるの?」

振り返ったのはリーダー格の人と、何人かの女子達。

ニタッと笑ってこちらに向かってくる。

手足が震えていたけど、一歩も動かずに目の前に来るまで待った。

「邪魔しないでくれる?」

最近、机の落書きも、机の中のゴミも、ほかの嫌がらせもあまりないから不思議に思ってたけど。標的を変えたのか。


いつから?


「千春·····。」

僕は彼らの横を通り過ぎて、蹲っている千春の元へ駆け寄った。

見上げた顔は酷く疲れきっていた。

涙の跡が残り、目が腫れている。

ふと目に入った千春の机には落書き。

僕がされたように、ゴミが机の中に押し込まれている。

「だ、大丈夫。何にもないから。辛くないから、さ。」

明らかに顔は辛いって言っているのに、薄っぺらい作り笑い。

千春には似合わない。

「大丈夫なわけないでしょ·····強がるのもいい加減にしてよ。」

ギュッと抱きしめる。

冬だというのに、水なんてかけられて·····。

気付いた時には千春に水をかけた人達は教室にいなかった。

「·····どうしたんだよ。これ。」

扉の方から聞き慣れた少しだけ低い声が聞こえた。

「公哉······。」

顔を青ざめて僕達を見ていた公哉だが、汚れた机とひっくり返っているバケツを見て何かを察したらしく、ため息を吐いた。

「千春·····お前も虐められてるのか。」

公哉の言葉に違和感を覚え、首を傾げた。

「お前も······?」

僕の言葉に驚いたのか、目を見開いた。

「もしかして自覚ない系?」

「え?」

あまり意味が分からない僕。

公哉は金色の髪をわしゃわしゃした。

「お前、あれどう見ても虐められてただろ。楽しそうだったからMなのかなって黙ってたけどさ。」

「·····僕、虐められてたの?」

だからあの時、千春は辛くないかって訊いてきたのか。

僕が虐められてるから。

「でも、暴力は奮われていない。」

「暴力だけが虐めじゃないよ。」

千春を見ると、涙目で震えている。

ほら。大丈夫ではないじゃないか。

「お前、水こそかけられてないけど、上靴隠されたり画鋲入れられたり、椅子壊されたりしたじゃん。」

そうか。

あれはやはり虐めだったのか。

ポジティブに考えすぎていた。

いや、それが虐めなのだと気付いていた。

認めたくなかっただけで。

「千春はいつから虐められてた?」

「······1ヶ月前くらい。」

走る電流。

1ヶ月もこんなことを、されていたのかと思うと背筋が凍る。

「今まではこっそりしたことだった。シャープペンがなくなったり傘が折られたりとか!だから今日初めてこんなことされたの!」

「あお君はいつもこうなんだよね」と呟く。

何か言わないと。

とにかく謝らないと。

1ヶ月も辛い思いさせて、気付かないでごめんって言わないと。

なのに。

口が動かない。

何も掴めないくらい震えている右手を、左手で覆う。

「·····僕は虐められてたの?2人とも、僕を捨てるの?僕はまた独りぼっち?」

涙が止まらない。

襲いかかる恐怖。

本当に泣くべきなのは千春なのに。

申し訳なさと恐怖で声が出ない。

「俺達はずっと碧音の隣にいるから。守るから。俺が2人を。」

その顔は真剣な顔そのもの。

僕は公哉に頼るしかないと思った。

本当は背負わせたくなかったけど、千春がこのまま虐められるのは嫌だ。

それに、公哉が一緒ならなんとかなると思ったのだ。

「·····ごめん。ありがと·····。」

優しく背中をさすってくれる手が温かい。

僕はその日、泣き続けた。


その日から僕達は、虐めをしっかりと認識するようになった。

僕に対する虐めも再開した。

次はもっと酷い。

給食だって与えられない。

毎日、給食の時間は抜け出した。

そんな体内時計も出来上がってしまった。


「あお君。」

「ん?」

今日も放課後に散々罵倒を浴びた後。

夕暮れの教室で千春は笑っていた。

「私ね、鳥になりたいの。」

汚れのない笑顔。

いつもなら安心するはずなのに、今日は何だか胸騒ぎがする。

「何言って·····」

千春によって教室の窓が開かれる。

「私、あの空を泳ぎたい。」

「千春······!」

掠れた声で千春の名を呼ぶ。

蚊の鳴くような声だったけど、千春はそれが聞こえたのか微笑んだ。

「公哉に言っといて。いつもありがとうって。ごめんねって。」

「何言ってるんだよ!」

引っ張ろうと足を上げた瞬間、大きな声で僕の名前を呼ばれた。

「動いたら······ここから落ちるから。」

当然、動けなくなる。

窓までは結構距離があるから、動けば本当に落ちる可能性がある。

「私、嬉しかったんだ。あお君みたいに優しくて、公哉みたいに明るい友だちが出来て。本当に楽しかったよ。」

「じゃあ、これからも楽しもうよ。もっともっと喋って、遊んで、笑おうよ。」

口で勝つしかない。

千春は死なせない。

「······私、もう駄目みたい。私はこんな世界で生きていけるほど強くなかった。」

肩を竦める。

どうしてそんなに笑っているんだろう。

どうしてそんなに平気なのだろう。

「私ね、ちゃんと虐められてる理由があって。親がいないんだ。赤ちゃんの時に捨てられて。それからはずっと、変な目で見られるようになった。」

初めて知った事実。

だって、あの日、いじめられたのは1ヶ月前からだって······。

「·····そんなこと1回も聞いてない·····。」

「言ってないもん。」

ということは、千春が虐められてたのはずっと前からなのだろうか。

何故気付かなかったのだろう。

後悔が押し寄せる。

「僕は千春がいないと生きていけない。僕は弱いから。·····ねえ。だからそんなことやめてよ。こっち来て?」

きっと、今僕の顔は酷いことになっているだろう。

涙が零れる。

やめて······。

死なないで!

「逃げないでよ。僕、もっと千春と生きたいよ。千春と公哉と一緒に生きたいよ。僕を殺さないでよ。心臓は動いてても、千春がいないと死んでるのと同じなんだから。」

大事な人だから。

守りたい。

一緒に生きていきたいんだ。

なのに君は、「プロポーズみたい」だなんて笑う。

何なら、結婚したって良い。

千春がこのまま変わらず生きてくれるなら。

「そろそろ行かないと夜になっちゃう。」

「千·····春?」

「絶対に生きてね。辛くなっても。私見てるから。君は1人じゃない。」

どうしてそんなことを言うのだ。

まるで、死んでしまうように。

「ごめん。これ以上喋っちゃうと名残惜しくなっちゃうから·····」

「千春!」

走って窓に走っていく。

手を伸ばす。


「さよなら」


目の前が真っ暗になった。

もう少しで掴めたのに。

掠った指先。

あともう少し腕を伸ばせば助けれたのに。

君は僕を置いて去ってしまった。


「うあああああああああああああああ!」


膝を抱え込んで叫ぶ。

最期に見た顔が頭から離れない。


千春は涙を流していた。

笑いながら、透明な雫を綺麗な白い頬に伝わせて落ちていった。


自分の手を見ると、手が赤く染まっていた。

きっと幻覚だ。

僕が直接殺めたわけではないのに。

僕が殺したんだって思った。

外がざわつき始めて、僕は窓を覗くことは出来ない。

ただ立ち竦んでいた。

バンっと大きな音がしたと思ったら、汗を流した公哉がいた。

血相を変えて。

「·····碧音?これはどういうことだ?」

とにかく怖かった。

ゆらりと歩く公哉は、まるでゾンビになったようだ。

でも、僕はただ縋り付くことしか出来ない。

今、僕の味方は公哉しかいないから。

「死んじゃった。千春、自分から落ちて、死んじゃったよぉ!僕が·····僕が殺したんだ。僕がしっかり腕を伸ばさなかったから!間に合わなかったから!」

「·····1回座ろう。」

それから僕は公哉にあの時のことを話した。

その間、ずっと背中をさすってくれたおかげでいくらか落ち着いて話せた。

まだあの感触が残る指先を見る。

「僕が·····僕が殺したんだ。自首しなきゃ。」

そろそろ誰か来るだろう。

もう5分は経っているのに、逆に誰も来ないのがおかしい。

誰も来ないなら僕から行かないと。

ゆっくりと立ち上がると、腕を掴まれた。

「お前は悪くない。自首とかすんな。」

やけに優しい声。

「これは自殺。お前は殺していない。千春が自ら望んだことだ。」

「どうしてそんなに落ち着いてるの·····?」

「落ち着いてなんかないさ。俺だって悲しい。辛い。どうしてって思う。でもな?」


お前までいなくなったら、俺はどうすれば良いんだよ。


悲しそうに微笑む。

「公哉······。僕自信ないよ。千春なしで生きていけるかな。」

「安心しろ。俺がいるから。それに、生きろって言われたんだろ?だったら維持でも幸せに生きて見せろ。それで千春に死んだことを後悔させてやれ。」

そう言う公哉も泣いていた。

初めて見た公哉の涙。

ドタドタと音が聞こえ、2人で振り向く。

警察の人と先生方。

「こいつが、千春が落ちる瞬間を見た人です。しっかり話を聞いてやってください。」

公哉が泣きながら僕の肩を叩く。

僕は頷いてから説明を始めた。


千春の死が公表されることはなかった。



1つ学年が上がって、3年生になった。

残念ながら、クラスは変わらない。

千春が死んでからも僕は虐めを受けていた。

雪の中に飛ばされたり、机がなくなることだってある。

万引きだってした。

そこのお店の人はたまたま知り合いで、事情を察してか、謝ったらすぐに許してくれた。

先生達は気付いているだろうけど、助けてくれない。

いつも助けてくれるのは公哉。

助けるって言っても、虐めっ子達に立ち向かうとかはさせていない。

僕が泣きそうな時、辛い時にそばで笑ってくれるなら、それで僕は救われている。

「碧音、高校は決まった?」

「緑丘はやめておこうと思って。逃げるみたいになっちゃうけど。」

「そっか。」

僕達2人はまだ進路が決まっていなかった。



「緑丘高校は······」

学校説明会の日。

この日が僕の人生を変えた特別な日。

いくつかの高校が直接中学校に説明をしに来るイベント。

1番興味のない緑丘高校の説明が終わると、やる気のなさそうな先生がマイクを持った。

「春風高校の木下です。」

春風高校とは、ここら辺では少し離れた場所にある高校。

学力は中の上くらいだろうか。

僕は説明を聞いているうちに、のんびりとした声に眠気を誘われた。

それからの記憶はない。


「帰ろうかな。」

真っ暗な道を歩いていく。

すっかり冷えきった指を息で温めてから、花屋の前を歩くと、一輪の花が目に止まった。

白い美しい花。


スノードロップ


蘇る記憶と共に、僕はそこから立ち去った。

目立たないような角に蹲って泣く。

手に零れる涙が寒さで冷えてしまうが、そんなの気にならなかった。

公哉も誰もいないこんな夜に1人で泣いてしまうのはとても辛い。

ふと、千春に会いたいと思った。

でも、生憎千春は会ってくれない。

迎えにも行けない。

あの輝く星々の中に、千春はいるだろうか。

寒さと涙で朦朧としてきた頃。


「何で泣いてるの。」


星が流れたかのように空気が変わった。

「え?」

ゆっくりと顔を上げると、男が立っている。

よく見ると、今日の学校説明会に来ていたやる気のなさそうな先生だ。

確か、春風高校と言っただろうか。

どうしてここにいるのだろうか。

「中学生がこんな夜に·····不良か。」

「あの······僕は······。」

もう、補導でもなんでも良いかな。

「······不良はこんなとこで泣かないよな。」

先生は僕の頬を撫でる。

そして、屈んでから僕と目を合わせた。

「どうして泣いてるか、言えるか。」

吸い込まれるような瞳。

何故か、この人には全てを話せると思った。

「······実は·····」

僕はゆっくりと言葉を紡いだ。

僕が話している時も、先生は黙って聞いてくれた。

全て話し終わると、なるほど、と呟いてから僕の頭に手を置いた。

「春風高校に来ないか。」

「······え?」

突然の勧誘に戸惑う。

「どうせ緑丘高校は行かないだろ。進路が決まってないなら春風高校に来い。お前なら···何かが変わる気がする。」

「何かって何ですか。」

先生は僕の問いを無視して頷く。

「名前は?」

「へ?ぼ、僕は中岡 碧音です。」

肩を上げながら答えると、先生はほぅと目を細めた。

「中岡碧音、な。覚えとく。あ、それから入学するまで歌を聴きまくれ。」

「歌·····を?」

「そう。お前だけの課題な。」

先生は頭をポンポンと叩いてから、フラフラと去っていってしまった。

「春風高校か······。」



「公哉。僕、春風高校に行くよ。」

「そうか。」

僕が嬉しそうに伝えると、公哉は悲しそうに僕を見ている。

「俺は残念ながらそこには行けない。」

それには深い理由がありそうだったけど、何も訊かなかった。

「そっか。じゃあ、離れ離れだね。」

いつか人には別れが来るから。

そろそろ1人でも笑っていられるようにしないといけない。


いつかまた会った時は、太陽のように誰かを照らせるようにするんだ。


♪♪♪


「それで春風高校に入学して、雰囲気が千春に似てる春架と出会って、駿や舞に会って今に至るんだ。」


碧音は全て話してくれた。

私達は黙って聞いていたけど、駿は膝の上で拳を握っているし、舞はずっと俯いていた。

私は泣いている。

言葉が耳に届く度に、想像力が広がっていった。

「あ·····ご、ごめん。今まで傷付けてたかも。無神経なことも······。」

いつも明るくて、笑っている碧音はこんなにも抱え込んでいたのか。

なのに、私は勝手に自滅して悩んで泣いて。

儚げに笑った碧音はじっと見つめた。

「別に良いよ。」

私はとにかく泣きながら謝った。

今までどれだけ傷付けただろう。

きっと、かなり辛い思いをさせたのだろう。


「批判を受けないための方法。何もしない。何も言わない。存在すらしない。」


碧音が突然大きな声で言うものだから、部屋にいた人皆、驚いて肩を揺らした。

「アメリカの作家、アーティストのエルバート・ハバードの言葉。」

碧音は花瓶から白い花を取り出した。

どうやら造花らしい。

「人は生きている限り、必ず傷付く。批判だってされる。僕はそれを知らなかった。」

春架もね、と笑う。

「僕は千春に自慢出来るような生き方をしたいんだ。」

しっかりとした意志が瞳に映っていた。

「皆、心配かけてごめんね。じゃあ、練習を再開しようか。」

碧音がベッドから降りようとするのを、私達は止めた。

「今日は休んで。明日からまた頑張ろ?」

「僕、ベースに触りたい。春架の歌聴きたいよ。休んでいる方が神経にくる。」

不満そうな顔をする。

本当は休ませたいけれど、本人がそう言っているのなら仕方ない。

「じゃあ、やろうか。」

「うん!」


いつも通りの碧音。

その笑顔が、私達を救っているのだ。

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