第5話 それぞれのバイト事情②

広大な畑、青空。

照りつける太陽。

流れる汗。

植えられていく植物の種。


俺は今、部活の顧問である木下先生を恨んでいる。いや、恨むなら春架の方だろうか。

臆病なあいつのせいで、パソコンが必要になったのだから。

本当に気に食わない。

いつもヘラヘラしてるくせに、自分の責任で抱え込んで、悲劇のヒロインみたいな顔をするのだ。

思い出しただけでむかつく。

俺はハッキリしない人間が嫌いだ。

その点、碧音は良い。一番の友人だ。

出会った頃から気が合いそうだと思ったし、実際その通りだった。

いつも綺麗な目で前を見据えている男だ。

たまにヘタレな部分もあるが、それも愛嬌というやつだ。

しかも、あいつの勘はよく当たる。

ただ、そんなあいつにも俺とは違う考えがあった。


星野 春架


碧音は春架の事を気に入っているらしい。

他の人とは何かが違うのだとか。


当たり前だ。


病んでるんだから。


あそこまで病んでいる人間はなかなかいないと思う。割と真面目に。

碧音は言ってた。

夜、川辺で一人泣いていた、と。

まずそこでおかしいと感じる。

女子高校生が何をやっているんだ。

傍から見ると絶対に、何かやらかすと思うだろう。

確かにあの日は言い過ぎたかもしれないけれど、言いたい事など沢山あった。

認めたくはないが、碧音が選んだ奴だ。

少しは可能性があるのだと思う。

でも、そんな人間が、しかもボーカルがそんな調子だとこっちまで病んでしまう。

それを危惧したのだ。

なのに、泣けば勝てるとでも思っているのだろうか。案の定泣き出し、碧音と舞は俺を睨み、敵に回した。

仲間に見放されるべき人物は俺じゃないはず。臆病者のボーカルだ。

なのに、何故あいつをかばうのだ。

俺はそんなに悪者か。

俺だってあんな事言いたくなかった。

でも、止められなかったんだ。

嫌いだ。

春架も、最低な自分も。

碧音だって、俺にとっては大切な友人なのに、それすらも失うかもしれない。

あいつまで離れて行ったら俺はまた一人になってしまう。

それだけは避けたい。

全てはあのクズのせいだ。

ボーカルが違う人ならば、こんな事にはならなかっただろうに。


そして、もう一つ。

これは顧問である怠慢教師に向けた文句。


何で農家なんだよっ!


舞は服屋、春架は旅館、碧音なんて駅前に出来たあの評判の良いパン屋だ。

なのに、何故俺だけこんなに重労働をさせられているのだか。

別にこの職場が嫌だとかを言っているわけではない。ただ、他のメンバーのアルバイト先を聞くと、どうしても自分だけ違うと思ってしまう。

分かってはいる。

それぞれの場所には意味がある。

舞はいつしかライブ衣装を作る為の修行。

碧音は落ち着き良くする為。

春架はコミュニケーション能力を上げる為。


では、俺は一体何の為なのか。


さっきから種を植える事しかしていない。

従業員達もせっせと働いていて、話す人などいない。腰も痛いし。

いつも家に引き篭もってゲームばかりしている俺にとっては、地獄そのものだ。

午前11時。

昼食にはあと1時間もあるのに、腹の虫は鳴き続ける。

「くっそ·····」

空腹と部活の事で苛立ちは最高潮だ。

ポケットに隠していたチョコレートを一つ口に含む。

口の中で広がる甘さが癒してくれる。

あと1時間頑張ろう。

汗を拭って空を見上げる。

「駿君。」

「ん?」

服を引っ張られ、見下ろすと小学生くらいの男の子が立っていた。

ここの農家の息子さん、竜太君だ。

俺は軍手をしているが彼は軍手を持っていない。先程まで一生懸命働いていたのに。

「どうした?」

袖で額の汗を拭ってから、しゃがんで背の低い彼と目線を合わせる。

「あ、あの!疲れてないかなって!」

顔を赤くして懸命に話す彼は愛らしい。

一人っ子の俺にとって、弟くらいの歳の子がいるのがとても嬉しかった。

半日様子を見ていると、この子はとても優しいと分かった。

怪我をしている野良猫の足に包帯を巻いてあげていたし、先程のチョコレートだってこの子がくれた。

「休憩しないのかなって·····。」

俯く彼を見て、悟った。

「寂しかったんだろ?」

優しく笑いながら頭に手を置くと、少し照れたようにそっぽを向いた。

小学生は遊びたい時期だ。

だけど、ここは畑。

近くに住んでいる友達もいないのだろう。

「お昼休憩の時に沢山遊んでやるからな。」

今、ここにいる俺は学校にいる時とは全く違う人間。

素直に笑える。

「うん!」

無邪気なその笑顔を見て、先程まで感じていた苛立ちなどとっくに消えていた。


「それでね、駿君!」

嬉しそうに話しかけてくれる。

今日の昼食はそうめん。

暑い日にはもってこいだ。

細いそうめんをツルツルとすすり、一生懸命な彼の話を聞く。

話しているのは、今時流行りの戦隊モノについて。

正直見た事はないが、あまりにも楽しそうに話すものだからこっちまで楽しくなる。

「それでね!」

子供のその嘘のない目。

高校生になればそんな瞳まず見る事はない。

俺も昔はこうだったのか。

「駿君?」

話を聞いていないと思ったのか、下から可愛らしく覗き込む。

「ん?ああ、聞いてるよ。」

「駿君ごめんね。竜太がお世話になっちゃって。疲れてるだろうに。」

竜太君のお母さんが、お菓子とジュースを持ってきてくれた。

「あ、おばさん。いえ、俺も楽しいんで。」

笑顔で振る舞う。

同じ学年の人とかはあまり話せないけど、これこそ大人の力だ。

大人となら普通に話せる。

俺はコミュニケーション能力が低いと言われるが、そんな事はない。

話したくないだけで、話せないわけではないのだから。

「お疲れ様。疲れたでしょう?」

細い腕で盆に乗った大量のお菓子をテーブルに置く。

目を輝かせてお菓子を頬張る竜太君を見ながら、俺も笑いながら手を伸ばす。

黄色の袋を開け、口に入れた。

俺の大好きなバウムクーヘンだ。

しかも結構高級な。

「美味しいです。」

俺がそう言うとおばさんが嬉しそうに笑う。

「それは良かった。」

お昼休憩が終わるまでまだ時間はあるし、もう少しだけゆっくり出来る。

この農場のスタッフ達さんはとても良くしてくれる。

今、買出しに行っているおじさんも気難しそうだけれど面白いし。

そういう面ではあの先生にも、感謝するべきなのだろうか。

碧音と似ているあの先生が決めたのだ。

間違えはないのだろう。

「美味しいね!」

竜太君にも会えたし。

「駿君は進路とか決まっているの?」

「いえ。決まってないです。」

進路の話とかは嫌いだけど、親戚の人達のように指図してこないから良い。

「そう。まだ一年生だしゆっくり、ね。」

そう笑ってくれるのだ。

「竜太君は?夢とかあるの?」

「う、うん。」

恥ずかしそうに俯く。

「何になりたいの?」

彼はきょろきょろと周りを見回し、俺を見上げて俺の耳に口を寄せる。

「·····ヒーロー·····。」

「ヒーロー?」

「あ、変だよね!ヒーローだなんているわけないのにさ。」

何故か焦りだす竜太君。

俺はとても良い夢だと思うのだが。

ヒーローだなんて、そう簡単になれるものではないのだし。

おばさんは苦笑して見ている。

きっと子供っぽい、非現実的なただの妄想だと思っているのだろう。この親子は。

もしかしたら、その夢を語る度に馬鹿にされてきたのかもしれない。

ただ、その顔が大嫌いなあいつに似ていて笑えなかった。

「俺は良いと思うけど。」

あいつみたいにはならないで欲しい。

真っ直ぐ生きて欲しいんだ。

「え?」

「その夢、叶えば良いな。」

「····馬鹿にしてる?」

ほら、もう信じられなくなっている。

やはり、今まで馬鹿にされ続けたんだ。

「俺は人の夢を馬鹿にしたりなんかしない。ヒーローになるだなんて最高じゃないか。」

俺ってこんな事言う人間だっただろうか。

最近、悪者になった事実を思い出すと自然と笑みが零れてくる。

せめて、この子の前では良い人でいよう。

「駿君は応援してくれるの?」

「当たり前だ。ヒーローなんて変身しなくてもなれるんだから。」

クシャっと頭を撫でる。

「何だって、俺はヒーローだからな!」

「えっ!」

竜太君の顔が一瞬で明るくなった。

「駿君、ヒーローなの!?え!何で何で!」

よほど嬉しかったのだろう。

目の前で目を輝かせて、飛び跳ねている。

自分でヒーローだなんて言うのは恥ずかしかったが、喜んでもらえたなら良い。

それに、あながち嘘ではない。

「見たいか。」

「う、うん。」

少し自分でハードルを高くしてしまったが、なんせあのメンバーだ。

こうでもしないと張り合いが出ない。

「じゃあさ······。」

俺は竜太君に、学祭の日付とライブの時間を耳打ちして教えた。

おばさんは俺が何の事を言ったのか分かっていたのか、それを微笑ましそうに見ていた。

俺にとってのヒーローはまだ見つからない。

だったら、自分でなってしまえば良い。

もしかすると、悪者である俺はずっとなれないままかもしれない。


どうしたものか。

もしこのまま部活が上手くいかなかったら、追い出されるのは、俺なのだろうか。

それは想像したくない。

やっと気が合う友人に出逢えて、好きな事を出来る場所を見つけたのだから。

春架は色々抱え込んで悩んでいるのだろうけど、それは春架だけではない。

俺は俺なりに悩んでいるのだ。

歌が好きなのだ。


もう、譲れない。


♪♪♪


例えば、誰かを幸せに出来る魔法があったとする。

その魔法をかけられて、幸せになった人はどんな顔をするだろう。

魔法をかけた人は幸せになれるのだろうか。人の幸せを羨むかもしれない。

では、両者が幸せになれる方法とは。

物を買う。歌を聴く。お金を貰う。歌を歌う。料理を作る。料理を食べる。

需要と供給が交わる瞬間。

どんな事でもそうだろう。

ライブだってきっとそうだ。

私達が楽器を弾きたくて、春架が歌いたくて歌い、お客さんが聴きたいから聴く。

それの繰り返し。

しかし、その繰り返しが始まるまでは、それは長い道のりがあるのだ。


私は今、服屋でバイトをしている。

可愛い服が沢山並ぶ。

特にお勧めするのはこのワンピース。

パステルカラーのレースの付いた、可愛らしい清純なワンピース。

欲しい。

でも、私は売る側。買う事は出来ない。

いつもは服を買って、家に帰ってすぐに来ているはずなのに、今は出来ない。

服を選び、満面の笑みで手にするお客さんを見ては、羨ましくなる。

ファッションが大好きな私の事を思って、木下先生はこのお店にしてくれた。

ライブの衣装なども作る予定で、その修行にもなる。

大好きな服に囲まれるのは、幸せではある。

ただ、羨ましい。辛い。

私も新しい服が欲しい。

そんな思いを抱きながら、私の隣で鼻歌交じりに作業をする一人の男性を横目で見た。

「羽山さん、何やってるんですか。」

「ん?ああ、ミサンガ作ってんだ。」

ほら、と作りかけのミサンガを掲げる。

二十歳を過ぎてる人が、仕事を放棄して何をやっているのだか。

アルバイト生の方が仕事をしてるとか、どういう事だ。

「そんな事してたら店長に怒られますよ。」

ここの店の店長はとにかく怖い。

笑いながら鞭を打ってくるような分類。

碧音や木下先生と似ている。

ああいうタイプが1番怖いのだ。

「ああ、大丈夫だ!怒られた時は、その時だし!」

少年のように笑う。

その、能天気さがどこから来るのか、是非教えて欲しいと思う。

それでも私は、無理やり辞めさせたりはしない。私的には怒られているのを見るのは耐えられないから、仕事して欲しいのだけど。

それでも、一応私より年上で経験もあるし、楽しそうだから良いかと思ってしまう。

ため息を吐き、目の前にある在庫表に目を通す。

そういえば、今も春架や碧音、駿は違う場所でバイトしているのだろうか。

きっと汗水流して働いているのだろう。

私も負けていられない。

と思ってはいるが、肝心な指導者である羽山さんがこの調子では出来る事も少ない。

どうしようかと考えていると、ある服が目に止まった。

「わ·····可愛い·····。」

星の模様が入った赤いパーカー。

初夏の今にはピッタリな生地。

値段もそれなりに安くて、欲しいと思った。

「それ、羽山君が考えたのよ。」

店長が笑って言う。

「羽山さんが······。」

すぐに春架が頭に浮かんだ。

やはり、赤といえば彼女だし彼女は星が大好きだ。それに、私から見ると星のように輝いているし。

心の底から笑っている時は、彼女の瞳はまるで星のように輝いている。

駿は春架の事を病んでると思っているけれど、私はそう思わない。

だって、春架の気持ちが分かるから。

すぐ他人と比べてしまうところは、かなり私と似ている。

でも、春架は私以上に抱え込みやすく、人を信じやすい性格だ。

それが逆に苦しめているのだろうけど、私はそれが羨ましくて仕方がない。

彼女はひねくれ者だと言っているが、あんなに純粋な人はなかなかいないと思う。

優しくて友達思いで素直な彼女だからこそ、抱え込んで悩んでしまう。

今だって不安だ。

この時間だとまだバイトだろうけど、そこでまた抱え込んでしまっていないだろうか。

負担にはなっていないだろうか。

人と関われば関わるほど苦しむから、見ていてこちらまで辛くなる。

そう思っていると、余計心配になってきた。

今すぐ電話をしたい。会いたい。

元気な声を聞かなければ、安心出来ない。

しかし、今は仕事中。

集中しなくてはいけない。

「先輩、暇です。」

「ん?ああ、じゃあ、店の掃除頼む。」

「·····分かりました。」

黙々とミサンガを編む。

一体何の為に作っているのやら。

先程も遊んで店長に怒られていたし、この人は怒られたいのだろうか。

世に言うドMなのだろうか。

大きく息を吐く。

さっきよりも長くなったミサンガを睨み、モップを取り出す。

今日は日曜日だからかお客さんが多く、埃も溜まりやすい。

少しだけ丁寧に掃く。

一日で覚える事が多すぎて頭が重いが、天気が良いせいか清々しい。

「舞ちゃん、そろそろお昼休憩にしたら?」

「あ、店長。そうさせてもらいます。」

店長は基本優しい。

お言葉に甘えてお弁当を持って、羽山さんの隣に座る。

「それ、何の為に作ってるんですか。」

気になっていた事を訊いてみた。

「んー···友達の恋が叶うように。」

予想外。

てっきり、自分のおしゃれの為に作っているのだと思っていた。

「好きな人がいるんだってさー。やっぱり友人としてこれくらいの応援は、したいじゃんか。」

意外と友達思いなのか。

そういうところが春架に似ていると思う。

子供のように無邪気に笑うところとかも。

その完成しかけたミサンガを、まじまじと見てみる。

私もミサンガを作った事はあるが、こんなに綺麗に作れた事はない。

この人は服のデザインや制作もしているらしく、かなり器用なはずだ。

先程見つけた赤いパーカーもこの人が作ったと言っていた。

何だかんだ言って、尊敬するべき人物なのかもしれない。

「そうだ。店長に新しい服のデザインを頼まれていた気がする。」

こういうのがなければ、私も素直に尊敬するのに。

「ミサンガなら家で作ればいいのに。」

私の不満げにつぶやいた言葉も羽山さんには届いていなかったらしく、指を動かし続けている。

「ワンピースのデザインとか言われてもなあ。俺、男だし分かんない。」

困ったように息を吐く。

「今までやった事なかったんですか。」

「まあな。パーカーとかTシャツとか。」

私がお茶を口にした時、いきなり手を叩く音が聞こえて思わず吹き出しそうになった。

「な、何ですか·····。」

音の犯人を睨みつける。

「桜田って女だよな?」

「そうですけど。」

この人は何を言っているのだ。

1度、精神科に行った方が良いのでは。

「じゃあデザイン、手伝え!」

まさかの命令。

衣装作りの修行の為に来ているから、出来るのならやってみたいが·····。

「それ、店長怒りません?」

勝手に決めてはいけないだろう。

私はたかがバイトだし。

「大丈夫、大丈夫!多分許してくれるし!」

その"多分"が不安なのに。

その確信はどこから来るものなのか。

「良いだろ?ライブの衣装、手伝ってやるからさ。」

半ば強引だが、そこまで言うのなら。

承諾の返事をしようとした時、ある事に気付いてしまった。

「何でライブの事知ってるんですか!?」

まだ学祭の案内も配られていないし、私が軽音部だという事も言っていないのに。

私が狼狽えていると羽山さんは一瞬キョトンとし、大声で笑った。

「そうか、桜田は知らないのか。軽音部の顧問の木下さんは俺の兄ちゃんの友達でな!よく遊んでいて仲良いんだよ。」

だからここを勧めたわけか。

木下先生と仲が良いなら、こちらとしても都合が良くなってくるはず。

現に今、ライブの衣装作りを手伝ってくれると言われたのだから。ありがたい話だ。

ど素人の私を、指導してくれると言っているのだ。甘えないわけにはいかない。

「·····分かりました。お願いします。」

私はもちろん、服のデザインなんてした事ない。だからこそ、これから沢山学べるのだ。

あのメンバーに似合う衣装を作りたい。

私の作る衣装を着て、ステージに立ちたい。

羽山さんとならそれも可能だ。

あのパーカーをデザインした人なのだから。

きっと、少し頭がおかしいのは天才だからだろう。

すっかり上機嫌になり、脳内で褒め称える。

「いつから始めようか。」

「ワンピースの方はいつまでなんですか。」

「いつだっけな。」

一旦手を止め、ファイルの中を漁り出す。

これで仕事を続けていられるのが凄い。

根は良い人だから、店内でも信用されているのだろうけれど。都会の会社に行けば、きっと通用しないだろう。

「ああ、来週の土曜日までだ。」

「私、休日しか来れませんけど。」

「問題ない。今日考えてしまえば!」

いそいそと片付け始め、机の上に紙とペンを用意した。

「あの、お昼休憩終わっちゃいます!」

「あ、昼食べてないな。まあいいや。少しくらい遅れても怒られないから。」

恐らくこの人の"少し"は少しではない。

休憩終了まであと10分だというのに、それまでに間に合うわけがない。

私は今日、初勤務にして店長からのお説教を受けるだろう。

「桜田はどんなのが着やすい?」

でも、不思議と悪い気はしない。

楽しくなっている気もする。

いざとなれば、この人のせいにしよう。

「うーん····短すぎないのが良いです。あと生地が優しいの。」

「確かに生地は大切だよな。」


どんなに遠回りでも。大好きなあの人達が笑って着てくれるように、努力し続けよう。

いつか私の作る衣装を着て、輝く舞台にステージに立つ為に。


♪♪♪


香ばしい匂いが僕を包む。

ガラス越しに並べられたパンは、まだ作りたてで温かい。

宝石のようなそのパンを眺めながら、レジ打ちを行う。

食べたい衝動を抑える。


これは仕事なのだ。


それにしても鬼畜ではないか。

僕以外のメンバーは旅館やら農家やら服屋で、バリバリ働く所。

空腹だって動いていれば紛れる。

でも、僕はそうはいかない。

ずっと美味しそうなパンを身の前にして、食べられずにいるのだ。

他の人には羨ましがられたが、言うほど良い仕事場ではない。

それは決して雰囲気が悪いと言っているのではなく、長い間食べ物を見ながら空腹を耐えるのはとても辛い。それだけだ。

青と白の仕事着に付けられた「中岡 碧音」というネームプレートを見る。

この店に来たのは今日が初めてで、しかもお客さん側ではなく、バイトとして。

まだ1個も食べれていない。

ここのオーナーは朗らかな人だが、ずっとパン作りをしていて世話などしてくれない。

唯一の先輩も、先程からカウンターでスマートフォンを弄っている。

やる気など一欠片も伺えない。

オープンしたばかりで忙しいというのに。

お客さんで賑わう店内を見る。

その中にはクラスメイトもいたり。

正直羨ましい。

部活の為だから仕方がないとは思う。

しかし、これは酷すぎる。

木下先生とは気が合うから、それぞれのバイト先の理由だって分かる。

僕をここに選んだ理由を聞いたら「集中力を上げる為」だとか言っていた。

パン屋で集中力を上げるとかよく分からない。集中力あるし。

勉強だって8時間は余裕で集中出来る。

なのに、まだ僕には集中力が足りないと!

もう空腹で倒れそうだし、とにかく辛い。


「ねえ。お前さ、いつまでそこにいるの?」

カウンターに立っていると、先程までスマートフォンを弄っていた先輩が、笑いながら話しかけてきた。

こっちはずっと立ってレジ打ちをしていたというのに。

ネームプレートを見るとこの人は春岡 湊という名前らしい。

「はるおか先輩·····」

「······ぷっ······わはははは!」

怒りを込めてその名前を呼ぶと、先輩は突然笑い出した。

「何ですか。」

睨みつける。

初日から少々態度が悪いだろうか。

「ぷぷっ。俺はしゅんおかだよ。はるおかじゃなくて。しゅ・ん・お・か。」

可愛いなぁなんて言いながら、ずっと笑っている。


羞恥心


顔が赤くなるのが分かる。

悔しい。これは悔しい。

先程まで随分と大人しかった人が、涙を流しながら笑っている。

帰りたい。

一応1つ上の先輩で、顔は見た事あったけれど、名前なんか知るわけもない。

逆にこの人は、僕の名前を知っているのだろうか。

「君、面白いね。名前は確か······中岡 碧音君だっけ。」

何故知っているのだろう。

しかもフルネームで。

「僕達、知り合いでしたか。」

「へ?いやいや、新人の名前くらい覚えるっしょ。それに君、面白いからねぇ。」

何なんだ、その上から目線。

まあ、実際年上なのだけど。

「だってさ、君、軽音部の部長でしょ?1年生で新しい部活作るとか凄いじゃん。」

やはり。軽音部の存在は知られているのか。

まあ、それはそうだろう。

あんな小さな学校で、新しい部活が作られたのだ。生徒からしたらそれは革命もの。

興味を持ってくれているのだろう。

「で、先輩は何で仕事しないんですか。」

「ん?ああ、可愛い後輩がやってくれてるし、まあこちらもやる事があってね?」

スマートフォンを弄っていたくせに。何が、やる事だ。遊んでるだけではないか。

オーナーに怒られてしまえば良いのに。

そしたら僕の気持ちも落ち着く。

「仕事を放棄してまで、やるべき事があるのですか。バイトをしに来てるんでしょう?」

今、きっと僕は嫌な後輩だ。

僕が先輩だったらこんな後輩、叱りつけているかもしれない。

でも、先輩だからといって、丸投げはダメだろう。丸投げは!

「まあ、君たちにとっても利益になる事だしね。損ではないよ。」

ウインクを決めてくる。

正直むかついたが、何とか抑えた。

先輩の言う"君達"とは話の脈絡から考えて、バンドメンバーの事だろう。

こんな全く関係のない人が、バンドの利益になる事などあるのだろうか。

「まあまあ。それぞれの場所にそういう人間がいるっぽいしさ。あの、何だっけ、家長君?は別だけど。」

木下先生か。

あの先生はさり気なくそういう事を仕掛けるのが上手い。僕も言われるまで気が付かなかった。

でも、この人が何をやってくれるというのだろう。普通の高校生が。

「それでも、仕事はして欲しいですよね。」

バイトと学校は別。

とにかく僕は空腹だし、疲れてるのだ。

「分かったよ。」

諦めたようで、肩をすくめる。


レジを打ちながら、部活の事を考えた。

僕が作ったバンドを壊しはしない。

誰も見捨てない。

まだ最初の1歩も踏み出せていないけど、きっと彼女は歌ってくれる。

信じているから。

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