夏の始まりに

そろそろ体力の限界だ。

合宿2日目の朝。

昨日のだるさが残っているのを感じながら、ふかふかのベットから出る。

少し体を動かせば筋肉痛が私を襲う。

昨日の疲れがまだ取れていないのだろう。

時計を見ると午前5時半。

起きるのには少し早いだろうか。

しかし、この時点ですでに気温は上がっていて、これから寝るのは辛い。

それに、すっかり目が覚めてしまっている。

どうせ他の人は寝てるだろうから、誰かの部屋に行くことも出来ない。

どうしようか。

洗濯をしても良いけど旅館にあるやつしか使い方が分からないし、料理は何を作れば良いか分からないし、朝から練習なんてやっていたら迷惑だろうし。

本なんて持ってきてないしなぁ。

取り敢えず鞄から紺色のジャージを取り出して着替える。

お気に入りのTシャツを被る。

この「迷子中」っていう文字が良い。

センスが悪いとか言われるが、かなり面白くて良いと思う。

通販で手に入れたものだ。

髪を縛り、伸びをする。

鏡を見ると間抜けな顔をした自分の姿。

1日で随分焼けたと思う。

前までは自分でも驚くほど白かったのに。

まあ、あれだけ外を走れば、これくらいは焼けるだろう。

毎年引きこもっていた夏休みが、今年は外に出ることが多い。

これはこれで楽しいかもしれない。

正直辛いけど。

着替えたは良いが、これからどうしよう。

起床時間は6時半。

少しお散歩でも行こうか。

筋肉痛は痛いけれど、恐らく今日も昨日のように走らされるだろうから体は動かしておかないと。

靴下を履いて玄関に向かう。

それにしてもこの別荘は大きい。

すぐに迷ってしまう。

階段だって無駄に多い。

何故あの先生がこんな大きな別荘を持っているのか分からない。

思考を巡らせながら、何とか辿り着いて重い扉を開けた。


外に出た瞬間モワッとした空気に包まれ、汗を流していく。

「うわっ。暑っ!え、まだ朝だよ?時計合ってるよね。」

少し大きめな声で独り言を呟く。

こんな時間だというのに、蝉はもう鳴き始めてしまっている。

これはここ最近で1番暑い日になるのでは。

嫌だなぁと思いながら足を進める。

この中を走らされるのだと思うと、一気にだるくなってくる。

熱中症で倒れたりしたらどうするのだ。

こんな中1人で走らせて。鬼教師め。

今更中に戻るのは嫌になり、近くの森林を歩き始めた。

先程までは暑かったが、ここまで来ると流石に日が当たらず涼しい。

鳥のさえずりと木々が揺れる音が聞こえる。

その音全てが1つの歌に聞こえる。

それくらい、今の私は音楽に溺れていた。

ここら辺は初めて来たけれど、真っ直ぐ歩いてきたから迷って帰れないということにはならないだろう。

日頃から方向音痴なのでは、と囁かれている私もそこまでは酷くない。

そんなことを考えていると、何かが鼻をくすぐった。

「·····潮の匂い·····?」

一瞬考えたが、これは明らかに潮の匂い。

この先に海があるのだろうか。

気になって少し早足で歩く。

海が大好きな私はいつの間にか走っていた。

暫らくすると眩しい光が見えて、林を抜けたのだと理解する。目の前に広がる草原と、そこに建てられた柵。

走ってその柵に手をつくと、瞳にはキラキラと輝く真っ青な海が映った。

「ほああああ!」

今までに見たことないくらい綺麗。

でも、この景色はどこかで見たことがある気がする。どこかは分からないが。

前にも来たことがあっただろうか。

どうしても思い出せず、私は考えることをやめた。

潮風に当たって涼しい。

ザザっと波の音が聞こえてくる。

やはり、夏といえば海だろう。

まさか、こんな辛い合宿中にこんなに美しい海を見れるとは思っていなかった。

「何か、良い詩が書けそう!·····あ、でも書く物ないや·····あ、スマホ!」

ポケットに忍ばせておいたスマートフォンを取り出し、メモのアプリを開く。

「これは·····良い!」

自画自賛。

だけど、本当に良い言葉が浮かんでくる。

作詞に困った時は海を見ることにしよう。

何個か言葉を打ち込むと、強くて柔らかい風が吹き、ふと空を見ると花弁が飛んでいた。

花の名前は知らないけど、とにかく綺麗だったと思った。

「私、少しでも変われたかな。」

無意識に呟いた言葉。

高校生活が始まって約4ヶ月。

すぐに傷付いて、クヨクヨしていたあの日から私は、少しでも強くなれただろうか。

「強くなれてたら良いな。」

太陽の光が強くなって一層輝きを増した海が「大丈夫」と言ってくれている気がした。

「帰らないと。」

時計を見ると、もう6時を過ぎていた。

イヤホンを耳に入れ、大好きな歌をかける。

今日1日、また頑張れる気がする。

爽やかな朝の林の中を走っていった。


食卓には山のように盛られた白米と、卵焼き。そしてお味噌汁とサラダ。

これら全て舞と駿が6時に起きて作ってくれたのだとか。

私も舞達が起きるまで待って、朝食の方を手伝えば良かった。

綺麗な海を見れたからいいけど。

「いただきます!」

寝癖のついたまま手を合わせる碧音に続いて私達も食べ始める。

駿と舞は飄々としているが、碧音はかなり疲れているように見える。

口の中に広がる卵焼きの甘さを感じながら、メンバーを見る。

先生はまだ寝ているらしい。

私達には早く起きろと言ってきたくせに。

先生に対しての不満は駿などもあるらしいが、先生がいなければこの合宿は出来なかっただろう。

起きてこないくらいで怒っていたら、残り3日を無事に過ごすことは出来ない。

ここで鍛えられるのは身体、スキル、そしてメンタルだ。

これを機に広い心を手に入れるのだ。

これから少しでも、平和で、快適な高校生活を送るために。

「そういえば春架は朝早くに、どこに行ってたの?」

「少し散歩に。近くに綺麗な海があったんだよ。気分良かった。」

朝の景色を思い出して少し興奮気味に言う。

「そうなんだ。それは良かったね。」

上品にお米を口に運びながら優しく微笑む舞は、まさにお母さん。

ご飯も美味しい。

きっと良いお嫁さんになれる。

包容力のある人って良いなと思う。

高畑先輩もその類だ。

「舞ってお母さんみたい。」

思っていることを口にしてみると、舞は照れたように慌てだした。

「おい、春架。あまり茶化すな。舞は驚くと思考回路停止するんだから。」

本を読みながら珈琲を飲む駿。

珈琲だなんて大人だ。

「駿はお父さんみたいだね。」

「意味分かんないこと言うなよ。」

本に目を落としながらそう言うが、顔は真っ赤に染まっている。

舞がお母さんで駿がお父さんだとすると、お兄ちゃんが先生、末っ子が碧音だろうか。

私は真ん中。

そういうのも良いかもしれない。

「ふふっ。本当の家族みたい。」

「お前は子供か。」

駿が呆れたように言う。

「だってまだ子供だもん。」

「春架、子供っぽいもんね。」

「子供っぽいんじゃないんですー。ただ20歳未満なだけで心は大人なんですう!」

4ヶ月前まではこんな茶番、出来なかっただろうに。

この部活にも慣れてきた証拠だ。

3人で笑っていると、隣からカシャンと音がして、私達は黙った。

碧音が俯いていた。

そのまま何も喋らない。

最近は目も合わせないし、笑わない。

私は、学校を休んだあの日から様子がおかしいと感じていた。

あの日に何かあったのだろうか。

それとも、風邪が長引いているだけなのだろうか。

どちらにしろ、心配ではある。

舞と駿は不思議に思っていないようだ。

いや、実は気付いているのかもしれない。

言わないだけで。

この2人はそういう気遣いが出来るから。

碧音もプライドが高いところがあり、弱みを見せようとしない性格。

首を突っ込まれるのが嫌なのだろう。

手の動きを遅くしながら周りを見る。

メンバーは同じはずなのに、立場がすっかり変わってしまった。

私が変わったからなのだろうけど。

私が変われたのは碧音のおかげ。

だから、今度は私が助ける番だ。

「そろそろ、今日のスケジュールを確認しておこうか。」

声を発した碧音の手元を見ると、もうほぼ食べ終わっている。

それに比べ、全然進んでいない私は焦って食べ始めた。

そんな私を見て碧音は笑う。

「焦らなくて良いよ。」

その笑顔が実に不自然で、私は無意識に首を傾げた。

笑っているのに、辛そう。

ただ、ここで何か言われるのは碧音も嫌だろうから黙っていた。

「えーと、今は7時半で·····9時から腹筋。9時半からは個人練習。11時から買い出しと昼食作り。それから休憩で2時から3時まで作曲。春架はランニング。3時から5時までは合奏。それからはフリーで!」

相変わらずのハードスケジュール。

聞いているだけでも眩暈がしてくるが、ランニング以外は苦ではない。

1日中歌えるだなんて天国だ。

碧音の手を叩く音とともに駿と舞は立ち上がる。どうやら食べ終わったみたいだ。

「春架、ゆっくりで良いからね。」

まだ食べ終わっていない私は1人、食卓に取り残された。

悲しく食べ始める。

終わるまで待っててくれたって良いのに。

「良いもん······。」

不貞腐れていると、足音がした。

足音の正体がすぐに分かった私は、振り向きもせずに名前を呼ぶ。

「木下先生。起きるの遅すぎです。」

「いやぁ。昨日寝るのが遅かったからさ。」

まだ眠そうな声。

先生の足音は特徴があるからすぐに分かる。

逃げ回っている時とかに役に立つ。

「今日は山城も来るぞ。まあ、洗い物とか、スケジュール管理とか料理とかだけど。」

「別に料理はしなくて良いです。」

「あいつの料理、上手いぞ。」

顔が整っていて、成績優秀でフレンドリーで、おまけに料理が出来るなんて、認めたくないがイケメンだ。

チャラくなければ私の理想なのに。

「で、何食べれば良い?」

新聞を広げながら椅子に座る。

前言撤回。

この人はお兄ちゃんなんかではない。

ただのおじさんだ。

「ご飯よそって、お味噌汁と卵焼きありますから。勝手に食べてください。」

「相変わらずの扱いだな。」

ふんと鼻で笑う。

「そういえば、最近お前、よく碧音のこと見てるけど、好きなの?」

突然の問いかけに飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。

「は、はあ?何言ってるんですか。そのお味噌汁、頭からぶっかけて欲しいんですか。」

「あ、ご、ごめん。ごめんって!俺が悪かったから許して!」

焦り出す先生が面白い。

「いや·····気にかかるんだろ?星野は何か気付いてるんだろ?」

「え·····ああ、まあ·····。詳しいことは分かりませんが、様子がおかしいとは思います。先生は何か知ってるんですか。」

「え?あー·····少しだけな。」

ニタッと笑う。

これはきっと全て分かっているパターンだ。

そして、それを教えてもらえないパターンだろう。

「少しくらい教えてくれって良いじゃないですか。心配してるんだから。」

軽く睨んでやる。

「お前じゃあ、何も出来ないよ。」

真面目な顔で放たれた言葉に、不覚にも泣きそうになる。

「そんな悲しいこと言わないでください。」

私が無力なことくらい、自分でも分かっている。分かってるけど。

恩返し、したいのだ。

助けたいのだ。

あの日、碧音が私を助けてくれたように。

仲間なんだから。

「ああ、すまん。言葉が足りなかった。星野だから何も出来ないってわけじゃない。俺だって何もやってられない。家長も桜田も。」

そう言って私の頭を撫でる。

·····皆、どうして子供扱いするのだか。

「彼を助ける方法はないんですか。」

この人なら何か知ってるはず。

先生と碧音は仲良いし。

だが、そんな期待も裏切られる。

「分からんなあ。あいつが何か言ってくるまでは。」

「そうですか·····。」

酷く落胆した。

折角、舞も駿もいなくて心置きなく思っていることを言えると思ったのに。

肝心なことが分からないんだったら、私も何も出来ないではないか。

落ち込んでいる私を見て先生は笑う。

「まあ、そのうち分かるさ。」

肩を優しく叩かれる。

美味しそうにご飯を頬張る先生を置いて、私は自分の部屋に戻った。


ベッドにダイブする。

ぼふっと私を受け止める布団にしがみつく。

このまま寝てしまおうか。

いや、自主錬までに起きれなかったら怒られるしやめておこう。

でも、少し疲れた。

朝起きるのが早かったのもあるけど、それよりも先生に言われたことが思った以上にショックだったのだ。

分かりきってたことなのに。

調子に乗って、抱え込んでいるかどうかも分からない状態で、「助けたい」だなんて。

やはり子供なのかもしれない。


「春架、ちょっと良いかな。」

ノックされ、ドアを開ける。

そこに立っていたのは珍しい人。

「ああ、駿。どうしたの?」

「ちょっと話があって。入って良いか?」

「どうぞ。」

駿の方から来るだなんて珍しいと思いながら、部屋の中に入れる。

駿は椅子に座り、私はベッドに寝転がった。

「お前、部屋に他人がいるっていうのにくつろぎすぎだろ。」

「何か、足がだるくて。」

そう言うと、ベッドの上で正座をした。

駿の声量や声の低さから、真面目な話なのだと思ったから。

「·····まあ、良いや。今、動画再生数いくらくらいだと思う?」

「前見た時は1万だった。」

「だったよな?」

嬉しそうに笑う駿。

今日は随分と機嫌が良い。

「なんと、1万5千だ。」

「おお、それは凄い。······で?本題は?」

1万5千とか凄い·····。

とは思ったものの、こんなことを言いに来たのではないだろう。

そんなのミーティングで言えるし、私個人に言わなくても良い。

これはただのオマケ。

本題はきっと違うこと。

「·····碧音のこと。」

私に察しられたのが悔しかったのか、不貞腐れているように外を眺める。

正直笑いそうになったが、笑ってしまえば私に命はないと思い、必死に堪えた。

「あいつ、最近おかしいんだよな。作り笑いをするようになったというかなんというか。白々しいというか······。」

「うん。分かる。分かるよ。」

やはり、思うことは同じか。

「何か知らないか。」

「え?知らないよー。私が知るわけないじゃん。」

手をヒラヒラさせながら言うと、何故か駿は不思議そうに見つめてきた。

何かおかしなこと言っただろうか。

「いや、碧音とお前仲良いから。」

「ま、まあ、悪くはないよね。」

確かに仲は良いけれど。

いくら仲良しでも、碧音は簡単に胸の内を打ち明けてくれるような人ではない。

「少し気を付けて見てみる。」

「ああ·····。俺も。」

心配なのは碧音だけではないのだけど。

皆、無理しすぎなのだ。

いつか誰か倒れる気がする。

私は夏バテは酷いけど、今のところ精神も安定しているから大丈夫だ。

だけど、この部活は抱え込む人が多いから、つくづく不安になる。

平気そうにしている駿でさえ、最近は周りに気を配りすぎて辛そうなのに。

「駿も気を付けて。抱え込まないでね。」

「お前が言うか。」

駿はテーブルの上に一つの封筒を置いて、笑いながら部屋を出ていった。

不思議に思いながら封筒を開けてみる。

「ん?」

中身を取り出した瞬間つい笑ってしまった。

中から出てきたのは沢山の写真。

学祭の日に撮った写真や活動中の写真など。

こんなの、ミーティングの時にでも渡せば良いのに。

きっと彼は、1人ずつ渡したかったのだろう。

照れ屋な彼のことだから、あまりお礼を言われるのは慣れていないからかもしれない。

こっそりと、さり気なく行動するのが彼のスタイル。

そんな行動に頬を緩ませていると、窓から何かが見えた。

女の子のシルエット。

顔までは見えないがあれは確実に女の子だ。

この近くに住宅なんてなかったはずだけど。

「あれ?」

一瞬瞬きをすると、そのシルエットは消えてしまった。


白い花が飛んでいた。


「さあ。誰が料理する?」

今は大切なミーティング。

誰が昼食を作るかの争いだ。

2人が料理をして、もう2人が買い出しをすることになっている。

もちろん、こんな真夏の暑い日に1キロほど離れたスーパーに行きたいなんて言う神経が狂った人はいない。

私だってこれからランニングがあるから、体力は温存したいところだが。

舞は何故か、それを許さない。

「春架は絶対に料理はしたらダメ!」

そして、私の味方はいない。

皆、舞の言葉に強く頷くのだ。

「えー、何でさー。」

私だって料理したい。

「私達、食中毒で運ばれても良いの?」

「それはダメだけど······。」

食中毒と私が料理するのとは、全然関係ないだろう。

「じゃあ、買い出しね。」

「う、うん。」

どうしても買い出しは嫌だったけれど、舞も駿も怖い顔で見てきたから従った。

碧音はうわの空だ。

珍しい。

「じゃあ、碧音も買い出しで良いかな。」

「ああ。うん。」


♪♪♪


ああ、辛い。

ただでさえ精神が安定していないのに、こんなに暑い中買い出しなんて。

しかも、春架と一緒に。

春架のことは嫌いではない。

むしろ好き。

でも、今は嫌なのだ。

前まではすぐにクヨクヨして、泣き虫な彼女が最近は明るくて、良い方向に変わった。

あのライブの日から。

そして、僕は分かった。

彼女は"あの子"に似ている。

僕が愛してやまなかった、あの儚くて優しい陽だまりのようなあの子に。

だからこそ、春架の目を直視できない。


辛い。痛い。苦しい。


そんな僕の心を知らずに、春架は暑いね、なんて言って僕に笑いかける。

硝子のような笑顔だ。

「春架、買い出しなんて出来るの?沢山買うんだよ?」

笑顔という仮面を被って、平然を装う。

からかわれて無意識なのか頬を膨らませる春架を見て、脳裏に"あの子"が浮かぶ。

「平気だよ!毎日鍛えてるからね。」

細い腕を見せつける。

鍛えてるとは言えないくらい筋肉がない。

真夏とは思えない肌の白さ。

まるで白雪姫みたいだ。

「······春架はさ、鳥なりたい?」

「え?」

急にどうしたの?と顔を覗いてくる。

「鳥に、なりたいと思う?」

真面目な顔に驚いたのか目を見開いた後、唸りながら空を見上げた。

「思わない·····かな。」

「え?」

予想外だった。

春架なら、目を輝かせて「あの自由な空を飛んでみたい!」とか言うと思ったのに。

「だってさ」

真面目な声が聞こえた。

「歩いてなきゃ分からないこともあるでしょう?······まあ、少し前の私だったら鳥になって自由に飛び回りたい、とか思ったかもしれないけど。」

「·····へぇ?」

春架の答えは興味深かった。

どこか、他人と違う。

元から人並外れた想像力を持っているんだろうなとは思っていたけど、不思議な感じだ。

あっ、と声を上げる春架を見る。

目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。

「空なんて飛んでたらさ、この綺麗な花にも気付くことはなかったんじゃないかな。」

指差す方を見ると、1輪の黄色い小さな花が道端に咲いていた。

「でしょ?」

一瞬、強めの風が吹きつけた。

目の前にいるはずの春架はいない。

その変わり目の前にいたのは"あの子"だった。

笑っていて、でも悲しそう。

「·····え?」

先程まで鳴いていた蝉の声も今は聞こえず、ただ無音の澄んだ空間に、2人きり。

咄嗟に手を伸ばしたが彼女は消えていった。

砂のように。

風のように。

ああ、懐かしいな。

ずっと、ずっと会いたかった人。

今でも変わらず愛している人。


「碧音?大丈夫?」

はっと我に返る。

「春架·····?」

目の前には不思議そうにしている春架。

あれは幻だったのだろうか。

春架を"あの子"と重ね合わせすぎた結果なのかもしれない。

春架に申し訳ない。

「無理しないでね?」

心配そうに見つめてくる。

春架の方が辛そうなのに。

額に浮かぶ汗が太陽の光で輝く。

今日はこの夏1番の暑さだとかニュースで見た気がする。

「早く行こうか。」

僕達は春架の提案でスーパーまで走って行った。


「よいしょっと。」

箱詰めのスポーツドリンクと袋にパンパンに詰められた食材。

それを2人で持ちながら、急な坂を登っていた。いや、正確には山登りだ。

汗水垂らして買い出しをする意味。

昨日来る途中に買ってこれば良かったものの、先生が「買い出しだって大切なトレーニングだ。筋力はもちろん、金のやりくりだって学べる!」とか言うから······。

たった1キロでも辛い。

息を切らしながら春架も頑張っている。

「暑い·····。何で先輩、午後からなの。」

不満たらたらな様子。

それを見て苦笑しながら前を向くと、少し遠くから聞いたことのある声が聞こえた。

ぼくはその声を忘れたことはない。

熱かった体が一気に冷える。

嫌な予感がして後ろを振り向く。

「お、おい。やめようぜ。だって、この先は廃墟だぜ?危ないって。」

「昼間だから大丈夫だって!」

こちらに向かってくる男子が何名か。

どうやら、先生の別荘に行くらしい。

僕を。"あの子"を地獄に落とした人達。

ずっと、許してはいけない人達。

前までの生活を思い出しては眩暈がする。

激しい頭痛を感じて、ついしゃがみ込んでしまう。

担いでいた箱も熱されたコンクリートの上。

グラグラとした視界を定めようと上を見る。

目線の先には焦っている春架。

目から生理的な雫が流れ、春架は何かを察したらしく、僕の頭にタオルをかけてくれた。

そして、1歩2歩と彼らに近付く。

「なんだお前!」

怒りで満ちた声。

春架が危ない。

そう思っても手足が動かない。

「ここから先は私達の合宿所だから。廃墟じゃなくてちゃんと所有者がいるから来ないでくれますか。」

遠くからだけど、はっきり聞こえた。

人見知りのはずなのに、噛まずに、こんなこと言えるだなんて。

つくづく春架の成長には驚く。

「ったく。分かったよ!」

遠ざかる声に、春架が追い返したのだと理解する。

でも、僕はまだ立ち上がることも出来ない。

頭が痛くて、手足が震える。

止まらない涙と激しい眩暈、吐き気。

熱中症ではない気がする。

「せ、先生!碧音が大変なんです!迎えに来てください。あ、少し登った所です。」

春架が先生に電話する。

先程の声とは全然違う、急かすような声。

僕の為に必死になってくれてるのだ。

「もう少しで先生来るからね。」

ゆっくりと背中をさすってくれた。


どれくらい経っただろうか。

きっと、10分くらいなのだろうけど、感覚的には1時間だった。

先生が来るまで迎えに来て、僕を乗せてから買ったものを積んだ。

今は部屋のベッドに沈んでいる。

少しは落ち着いたが、部屋には誰も入らないようにと伝えた。

少し眠たい。

そう思えば瞼は簡単に閉じる。

僕は花の香りを感じながら、夢の世界へと旅立った。


「あお君。」

白いワンピースが揺れる。

海の見える丘で、誰かが立っている。

顔は霧で見えないけど、誰かはハッキリ分かった。

懐かしい声と香り。

優しい空間に包まれて、僕も微笑んだ。

「おかえり。」

ずっと、帰りを待っていた。

焦がれるような気持ちを我慢して、ずっと待ち続けていた。

「やっと会えたね。最近はどう?」

「ああ、最近はね·····」

久しぶりに会ったから、高校生になってからのことを話すのは少々照れくさかった。

僕は自分の髪を弄る。

「軽音部を作って、動画投稿したりあとはライブをしたりしてるんだ。」

霧が晴れてきた。

顔が見える。

綺麗な顔が。

「そっか。それは楽しそう。」

優しく微笑む彼女はやはり僕がずっと会いたかった人。

「んー。まあ、楽しいっちゃ楽しいよ?でも、やっぱり何かが足りないんだよなぁ。」

それが何かはもう分かりきってるけど、わざとにイヤミっぽく言ってみる。

「カルシウムでも足りてないんじゃない?」

クスクスと笑いから冗談を言う。

それにつられて僕も笑った。

久しぶりなのに自然な会話。

ずっと一緒にいるかのよう。

でも、 彼女はもう僕の隣にはいない。

「あお君、何か変わったね。」

「え?そう?」

嬉しそうに肩を揺らす彼女を見て、鼓動が早くなる。

「背も伸びたし、声だって変わった。それに、前よりも楽しそう。」

普通に笑って言うが、僕は悲しかった。

「でも、君といる時だって楽しかった。」

「·····ありがと。でも、私はもう良いよ?」

悲しげに首を傾げる。

その言葉の意味は僕には分かった。

分かってしまった。

だから、この空間を崩したくはなかった。

彼女にまた会えなくなるのは嫌だ。

「僕は君が好きだよ?」

「私もあお君が好き。だからこそ幸せになって欲しいの。今、あお君には素敵な仲間がいる。でも、もっと幸せになってよ。」

何も言えなかった。

涙をこらえてるように見えたから。

気を緩めたら僕まで泣いちゃいそう。

このままサヨナラは嫌だよ。

「ねえ、あお君は今幸せ?」

このまま幸せだと答えたら、きっと一生会えなくなる。

でも、幸せじゃないと言えば彼女は悲しむ。

とても優しい人だから。

拳を握る。

「ねえ、幸せ?」


「僕は········」


僕が最後まで言い終わる前に、この世界は崩れ落ちていった。


コンコンとノックの音がして目が覚めた。

「中岡。入って良いか。」

「どうぞ。」

寝起きの声で返答する。

「碧音!大丈夫!?」

勢いよく扉が開いて春架が飛び込んでくる。

その後ろで駿と舞が呆れた顔で見ていた。

「ああ、大丈夫だよ。」

また作り笑い。

これも、もう嫌だな。

大事な仲間の前でも素を出せないなんて。

頑張って起き上がろうとした時。

春架は真剣な顔でベッドに飛び乗ってきた。

「ん!?」

驚いた僕は春架を見つめる。

春架は僕と目を逸らさずに訊いた。

「碧音、何抱え込んでるの?」

「え?」

その真っ直ぐの瞳は全て知ってるかのように僕を見つめてくる。

「どうしても言うのが辛いなら無理して話させない。でも、私達は仲間だよ?同じ音を奏でる人間だよ?私達は信用出来ない?」

「そ、そんなことは·····。」

何だ、全て見透かされていたのか。

じゃあ、話すしかないではないか。

「·····じゃあ、僕の隠していた過去をこれから全て話すね。」


────これは僕とある女の子の話し。

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