第3話



 馬車が庭先にやって来る音がした。

 刺繍をしていたアデライードは、立ち上がる。二階から外を見ると、ラファエルが馬車から降りる姿が見えたので、すぐにショールを羽織り、螺旋階段を降りて下へ迎えに行った。

「やぁ、アデライード。ただいま」

「ラファエル様、お戻り下さったのですね」

 アデライードが安心した表情で出迎え、仲のいい兄妹は抱き合った。

 彼女は屋敷に一人で残っていても不安を覚えるようなことはないけれど、やはりラファエルが戻って来て屋敷にいてくれると、安心した。

「手紙受け取ったよ。よく城からジィナイースを連れ出してくれたね」

「そうなのです、お兄様。お戻りになったばかりだけれど、来て下さい」


◇   ◇   ◇


 客間の寝室で、ネーリが眠っていた。

 客間といっても、ネーリが一度この屋敷を訪れてからは、ラファエルはネーリのために寝室を整えるようになったから、ここは彼の寝室だ。

 彼がすぐに描きたいと思ったときに絵が描けるよう、画材も棚に置いてあるのだ。

 調度品なのを揃えさせたのはラファエルで、アデライードも選ぶのを手伝った。

 彼が好みそうな色などを探して、ラファエルは楽しそうだった。

 優雅な天蓋付きの広い寝台で、柔らかなクッションに埋もれてネーリは眠っていた。

 すでに仮装は解き、寛ぎやすい部屋着に着替えている。

 ラファエルは眠るネーリの額に、手の甲を優しく触れさせた。

 すぐに分かる、熱さだ。

 昏々と眠っているようなので、苦しそうではなかったが、明らかに熱があった。

「……お戻りになってからなのです。少し疲れたと仰っていたので、紅茶を飲んだ後、数時間眠って下さいと寝室に案内したのですが、様子を見に行ったら、お熱があるようで……」

 ラファエルはネーリの肩まで、毛布を上げた。

「ジィナイースも久しぶりに城の夜会など出たから、疲れたのだろう。元々は彼は城にいるべき人だが、ここ十年は社交界から離れていたようだからね」

「申し訳ありません。お疲れなのを、もっと早く気づくべきでしたわ」

 ラファエルは微笑み、心配そうなアデライードの頭を撫でてやった。

「君のせいじゃないからそんなことは気にしないでいい。それに夜会の間、ジィナイースは楽しそうだったよ。この人はそういう時、虚勢を張ったりはしない人だ。久しぶりの夜会を楽しんでいたのは間違いないからいいのさ。さあ、もう少し眠らせてあげよう。起きたら、また君の紅茶を淹れて安心させてあげてくれ。明日一日ここでゆっくりすれば良くなるよ」

 ラファエルが落ち着いているので、アデライードもホッとした。

「はい。ラファエル様にも今、紅茶をお入れいたしますわ」

 寝室を出て、扉は半分、開けておく。

 歩きながら、ラファエルは庭で涙を見せたネーリを思い出していた。

 あんなにも、彼が野放しになる【シビュラの塔】のことを気に病んでいたと、気づいてやれなかった。きっと、そういう気苦労もあるのだと思う。

 アデライードが紅茶を持ってきてくれた。

 冬の訪れと共に、ソファは暖炉の側に移動させてある。

 温かい紅茶が自分の為に注がれて行くのを眺めた。


「【シビュラの塔】を見てきたよ」


 紅茶を飲んで、しばらく暖炉の火を見ていたラファエルが、妹が刺繍を持って側の一人がけのソファに座って落ち着いた頃合いで、そう告げた。

 アデライードは入れ直した自分の紅茶のカップを、テーブルに戻した。

「妃殿下のお許しをいただいてね。中には入っていないけれど、すぐ目の前まで、扉の側まで行った」

「……それは……。どんな場所でした?」

 ラファエルはソファに両足を上げ、伸ばし、寛いだ様子で頬杖を突いた。

「うん。深い森の先にあるとても静かな所で、海の音と、森の音しか聞こえない、聖域のような場所だった。

【シビュラの塔】は……そうだね、確かに巨大だった。中腹の辺りまでしか見上げても見えない。ずっと霧がかかって、不思議なんだ。白大理石造りの、神殿のような雰囲気だよ。

 恐ろしいほど、巨大な扉だった。間違いなくフランスの巨大な城の、どんな荘厳な大聖堂の、どんな門よりも遙かに大きい。しかもそれが黄金で出来ていて、一体どうやって開くのかも分からないような」

「黄金なのですか?」

「不思議だよね。あれはヴェネトが建国される前からあそこにあった。

 国の出来る、もっと前から。

 よくもあんな黄金の塊が、略奪されずそこに在り続けたと思う。

 扉には細かい装飾がなされていて、古代には黄金をあそこまで精巧に削り取る技術があったのかと驚くばかりだ。

 ……ジィナイースがいたらなあ。

 きっとあの模様を目を輝かせて何時間でも眺めただろうね。

 彼はそうやったものは、たった一度見たものでもすぐに自分で描き出せる。

 彼がいたら再現して、君にも見せてあげられただろうけど、僕には無理だ。残念だよ。

でもとても見事だった」

「そうなのですか……」

 アデライードはため息をついた。

「わたしは、何やらもっと恐ろしげな場所なのかと思っておりましたわ」

「そうだね、曰く付きではあるようだよ。あの島にはヴェネト王家が守番を置こうとしたらしいが、その守備隊が一夜にして、正体不明の獣のようなものに殺されたことがあるんだって。いかにも神聖な場所に付け足したような作り話に見えるけど、気の長くなるほど遠い昔からあんな黄金の塊が、誰にも略奪されず、削り取られたりもせず、あそこにあると分かった今は、少し信憑性がある。また犠牲者が出てはならないから、だから今もあそこには誰もいない。静かなままなんだ」

「獣……ですか?」

「黄金の扉を、古代の時代から守ってきたのは、彼らなのかも」

「でも神話、なのでしょう?」

「いや、実際に人が命を失ったのも、その有様もどうやら本当らしいんだ」

「まあ……」

「でも僕は、静かで綺麗なところだなと思ったよ。

【シビュラの塔】は巨大で、確かに圧倒された。

 ……もっと嫌な気持ちにもなるのかと思ったけど、そうでもなかった。

 帰りの馬車の中で少し眠っていたら、同行したロシェル・グヴェンに【シビュラの塔】を見た直後にそんなに寝こける奴は初めて見たとか呆れられてしまったよ。僕はフランスでも大礼拝の直後はぐっすり昼寝が出来るんだけどなあ」

 一瞬、不安そうな顔をした妹が、目を丸くして笑った。

「ラファエル様らしいですわね」

「僕が思ったのは、やはりあの塔も、要するに誰の手に委ねられるかなんだと言うことなんだ。あれを殺戮に使わない人間からしたら、あそこは単なる、静かな森の聖域だよ。ずっと古代からそこにあり、この地上の国々を見守ってきた。

 兵器として使ったのは人間なんだ。

 あれは誰の手に入ってもいけないもの。……そういうことは感じたよ」

「ラファエル様の他にも、あの塔を見た方はいらっしゃるのでしょうか?」

「スペインや神聖ローマ帝国の人間には、妃殿下はお許しになっていない。そして僕が許可されたからといって、フランスに気を許したというわけでもないんだろうね」

 それだけで、アデライードにはその塔を側で見上げることが、どんなに貴重なことか、理解できたようだ。

「ラファエル様は、恐ろしいとは思われませんでしたのね?」

「圧倒はされたけど、嫌な場所だとは思わなかったよ。静かで、不思議と心惹かれるような所だね。散歩に許されるならまた行ってみたいくらい」

「まあ」

 アデライードが微笑む。

「……きっとジィナイースも、ああいう雰囲気は好きなはずだ。彼は人が賑やかな場所も好きだけど、ああいう聖堂のような場所も好きだから」

「何故、見に行こうと思ったのですか?」

 ラファエルは紅茶を飲もうとした手を止めた。

 揺れる暖炉の火の方を見る。

「……実は【シビュラの塔】のことを、ジィナイースがひどく気にしている」

「ネーリ様が……」

「彼は僕と再会した時、こう言ったんだ。ヴェネトを離れるつもりはない、って。

 そしてフランス行きを断った。でも、あれは本心じゃないと僕は思ってる。

 彼は色んな場所を訪れるのが好きな人だよ。国を問わず、自由に旅をして、自由に人と友情を結び、その国々の美しいと思った景色を自由に描く……そういう暮らしが好きな人なんだ。

 彼は【シビュラの塔】が世界を傷つけたことを気にしている。心を痛めているんだ。

 ……これからもまた、同じことがいつ起こるか分からない。そういう中で自分だけが、自由に望む生活を楽しむ……そういうことを、考えられないんだろう」

 アデライードは紫水晶アメシストのような瞳を瞬かせる。

「……けれど……【シビュラの塔】が他国を襲ったのは」

「そう。ジィナイースのせいじゃない。彼は、別に何の罪悪感なんて感じなくていいんだ」

 それでも、彼は感じている。

 城から恩恵など、もう何一つ受けていない。

 ラファエルは信じていないが、ジィナイースはユリウスから遺産も、少しも譲られていない。実際貧しく寂しい暮らしを十年も続けてきた。


 ……それでも彼の心は、ヴェネトを見捨てたことがない。


 煌びやかな王宮にも戻らず、海の上で五十年も、ヴェネトのために戦い続けたユリウスの、最も愛した子供。だが、生憎ラファエルは五十年も、ジィナイース・テラをヴェネトにくれてやるつもりはないのだった。

(もう頃合いさ)

【シビュラの塔】の扉はとりあえず、閉じていた。

 そして扉を開く者が……王妃の手の中にないにせよ、存在が分からないというような感じではなかった。探しているというわけではなく、手の中に訪れるのを待っているような感じだ。

 それが、王太子ルシュアンの花嫁として来る見立てが立っているのか、それとは全く関係が無いのかは分からないが、王妃セルピナは一応は、今現在は落ち着いた状態にある。

 扉はすぐには開くことはない。これは王妃もロシェルもそう言っていた。

 来年の王太子の戴冠式で、事態は動くことになるだろう。

 ……今年は静かな冬になるはずだ。

 眠るジィナイースの表情を思い出した。

「……このまま、年明けまでジィナイースにはうちにいてもらおうかなぁ……」

 ラファエルが紅茶を飲みながら、何気なくそう呟くと、アデライードは目を輝かせた。

「わたしは、大歓迎ですわ。ネーリ様は夜会でも色んな話をして下さいました。とても楽しかったです。ラファエル様がお城に留まられることが多いのでしたら……」

 そうだね。すっかりアデライードもネーリと打ち解けているようだ。

 ラファエルは微笑む。

「一度、頼んでみるよ」

 ふわぁ、と彼は欠伸をした。

「先ほど温かい湯を用意していただきましたわ」

「ああ、いいなぁ。湯浴みしてくるよ。戻ってきたら今日はジィナイースの部屋で一緒に寝るからね」

 子供のようにそんなことを言ったラファエルに、アデライードが楽しそうに笑った。

彼はいつもは貴公子然としており、優雅なのに、本当にジィナイース・テラが関わると少年のように一緒にいたがるのだ。まるで兄弟のように親友のように、いや、もしかしたら大切な恋人かのように隣にいることを望む。

 ラファエルとジィナイースのような関係を、修道院育ちのアデライードは今まで見たことが無かった。

「まあ、私が今日はお世話をしようと思ってましたのに、邪魔者扱いですの?」

「うん。今日はね。二人だけで寝たい」

「お熱がおありになるんですから、起こして話し込んだりしては駄目ですよ、ラファエル様」

「そんなことしないよ。側にいたいだけ」

 ラファエルは立ち上がった。

「明日はジィナイースもゆっくりここで過ごすから、明日の朝は温かいスープを用意しといてあげてくれるかな。城に行くつもりだったけど、お呼びがかからないなら僕も明日は屋敷にいるつもりだ」

「かしこまりました、ラファエル様。どうぞゆっくりお過ごし下さいませ」

「うん、ありがとう」

 ラファエルは立ち上がった。

「僕は湯に浸かってくるよ。君は気にしないで刺繍の続きを。

 ――今日はよくジィナイースを城から連れ出してくれたね。

 あの後、少し王宮では騒ぎがあったようだ。君たちが居合わせなくて良かったよ」

「まあ……そうなのですか?」

「うん。でも妃殿下もあまり気になさっておられなかったから大したことじゃない。気にしなくて大丈夫だ」

「はい。分かりました」

 ラファエルが去って行くと、アデライードは立ち上がった。

 そっとネーリの寝室を覗く。彼はまだ深く眠っているようだ。

 側の燭台の鑞と、奥の暖炉の薪が十分であるのを確認し、アデライードは音を立てないように離れると、もう一度温かい暖炉の前へと戻った。刺繍の続きを始める。

 明日は屋敷にラファエルとネーリがいてくれる。


 彼女は幸せを感じた。





【終】


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