第9話 その1

 翌日からの朝と夕のめしの用意は、小華の体調を慮って摯はおのれの仕事にした。

「私の仕事だよ」

 すると、案の定というべきか、小華はごねた。

 摯と丁に、こんこんと説得されても、すんなり納得できないようだった。

「動いているほうが、気分は晴れるんだけどねえ」

「それでまた、痛い痛い、となってしまったら元も子もないじゃないですか」

「そうですぜ、奥さま。また、苦い薬の汁のお世話になりたいと仰られるのなら、話しは別ですがね、いやその全く、奥さま、あの臭くてたまらん汁をまた作るとか、わしはもう金輪際、勘弁願いたいんで、その、頼みますから横になっていてくだせえや」

 説得されて、と言うよりは、やいのやいのやられてのやられ負け、と言った方が正しいだろう。

 笑い声を弾けさせながら、摯はめしの準備に取り掛かった。

 そういえば、種類が違うとはいえ、料理に使えば香りを馥郁たるものとして可能性を無限に広げ、味わいを深め増幅させてくれるのに、いざ、薬のみで使用すると、ああも臭くて、苦くて渋くてえぐくて、この上もなく不味い品に変貌するというのは、何という不思議の力が働いているのだろうか。

 ――面白いな。

 喉を鳥のように鳴らして笑った。

「さて」

 気合いを入れると、先ずは昨日乾しておいた帛を手にとった。

 ちゃんと乾いているか確かめてから、丁寧に畳んで胸元に仕舞う。

「若さま、何をなさっておられるんで?」

「何でもないよ」

 摯は慌てて、帛が見えないように腹の上から手で押さえた。

 家族同然、年の近い叔父のような存在の丁であるが、これだけは知られたくなかった。

 商氏の公子との、思い出すだけで甘くなるやり取りの数々は、おのれだけの秘密にしておきたかった。

「じゃあ、早速始めよう。丁は粟を挽いてきて」

「どうなされるおつもりで?」

「麺にしようと思う」

「成る程、麺ですか、そりゃあ良いや」

 粥も良いが、つるりと喉を通っていく麺の方が、初夏らしい暑さの憂さを晴らしくれるだろう。

 丁の肩が弾んでいる。

「汁は魚醤で作ろうか。後は、そうだな、お腹の為にも、梅酢をとった後の梅を黒焼きにして出そう。それから、また、桑の実を採ってこようか」

 桑の実、と聞いた丁は、更にやる気を出した。

 一事が万事、明るい男である。小華の朗らかさとの相乗効果で、家の中はいつも賑やかだ。

 仕事から帰って来た伊風は、疲れて帰ってきた主人に対して、この騒ぎはなんだ、喧しい、騒々しい、と常に渋い顔をする。

 が、そのくせ、どちらかの姿が見えず、しんと静まりかえっていると、なんだ、なぜこんなにも静かなんだ、不気味すぎる、と気味悪そうに背を丸め、亀のように首を引っ込めるのだ。

「ほい、わっせ、わっせ、ほいほい、わっせ、ほいのほい」

 粟を挽き始めた丁の掛け声は、伊風いわく、がちゃがちゃと喧しくて騒々しい。

「お城の方は、大丈夫ですかねえ」

 ふと、丁が漏らした。

 ――そうだった。

 今頃、夏后の正式な使いとして、あの王子と商の公子が訪れている筈だ。

 ――父さまは、どんな料理で、もてなしておられるのかな。

 父の両手から繰り出される珍味佳肴、この世のものとは思われぬ美味に目を白黒させているに相違ない。いい気味だと思うが、その時の王子の顔を拝めないのが、かなり悔しい。

 ――あの、豚の丸焼きも、供されているのかな?

 その場に居られないのが、悔しくてたまらない。

 だが、おのれは青臭い半人前以下の腕前なのだと心底、思い知った。

思い上がりも甚だしいおのれが厨房にあったとしても、邪魔にこそなれ活躍できるとは思えない。

 ――いいさ、いつか必ず、公子さまの為の料理をお出しするから。

 その日まで焦りは禁物である。

 堅実に一歩ずつ技を磨いていく。

 これ以外に道はなく、これ以外は外道だ。

 それには先ず、伊風が作り出す味わいの全てを理解し、再現できるようにならなくては話にならない。

 だが、これこそが最も至難中の至難の技である。

 しかし傍目には艱難辛苦に満ちている、この茨道が、肆には途轍もなく楽しいものに思えてならなかった。



 父に近づく第一歩とばかりに、肆は本格的にめしの用意に取り掛かった。

 漬けにして酢を出させた後の梅を、竈の端で燻にする。

 腹が痛む時は、これが一番だと、よく小華も作ってくれる品である。医者にかかれない民間の療法であるが、食事にも供される。

 美味であるし、夏場の食欲がわかぬ時期にあって、食い気を刺激してくれる品であるから重宝するのだ。

「そうだ」

 小華が出してくれた、例の謎の木の実。

 肆は、あの味が忘れられないでいた。

 もしも、本当に商の旅人から齎された品だとしたら、あの木の実は商の公子とおのれを繋いでくれる架け橋ではないか。

 ――使ってみたい。

 探してみると、籠の中にまだ幾つか転がっている。

 手に取ってみた。

 形的には、梅の種に似ている。が、やたら大きい。赤子の握り拳くらいある。そして、硬い。

「こんな物を、母さまはどう利用されたのだろう?」

 手の上で転がしてみたり、透かしてみたりしたがまるで手掛かりがない。割るか砕くしかなさそうである。

 そこらを見回してみると、どうやら母も活用したと覚しき木槌があった。

「ようし」

 早速、叩いてみる。

 しかし、この形は難儀するぞ、とやってみて分かった。つるり、ころり、と転がって逃げてしまうのだ。そもそも、木槌の腹の部分が上手く当たってくれない。

 さんざん試したが、汗をかいて息が上がっただけだった。

 激しく上下している肆の背中に、部屋の奥から小華の声が飛んできた。

「阿衡や、その木の実はねえ、殻ごと乾煎りするのだと父さまが仰っていたわよ。するとねえ、継ぎ目の所に隙間が出来て、割りやすくなるんだよ」

「母さま、そういう事は、もっと早くに教えて下さい」

 膝から崩れ落ちそうになるのを堪えながら火を起して竈に鍋をおき、十粒ばかり放り投げてみた。

 鍋の中を覗いて実の変化を目で追っていると、丁もやって来た。

「何をされておられるんで?」

「うん、昨日食べた木の実だけど、松の実のように使ってみたら美味しいかもしれない、と思って」

「はあ」

 伊風は麺に肉汁を利用したが、家には、そんなご大層なものはない。

 そこで摯は、味が濃い魚醤を利用し、松の実の代わりにこの木の実を磨り潰してかけてみたら、と思いついたのである。

 この木の実も松の実も、どちらも油分が多い。

 油分とは、味の力である。どちらも独特の風味とこくがある。代用としての組み合わせだが、申し分ないと摯はにらんだのだ。

 ――父さまが作られた穀醤なら、もっと面白い味になるのだろうけど。

 それも、ぜひ一度、試してみたい。

 が、今は母のための麺料理を作らねばと集中する。

 殻が焦げた所で板の上にうつす。

 熱が冷めるまで木の実を眺めていると、成る程、殻の継ぎ目の所に僅かであるが隙間が出来ていた。

 摘まみ上げて隙間に刀を入れる。

 木槌を当て軽く叩くと、乾いた音をたて、木の実はあっさり二つに割れた。

「おっ!」

 乳白色の実が、こちらを見詰めている。

 喜び勇んだ肆は、箸を使って実を穿り出した。紛うことなき、小華が出してくれた木の実である。

 小さく割れた生のままの木の実の欠片を、口の中に含んで味見をしてみた。

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