第8話 その1
肆と男たちの間を割るように馬を進めた天乙は、辺りを一瞥し、どんな非道が行われたのかを悟った。
「ここは莘公が領内であると知っての無法なる振る舞いか」
天乙の声は透き通っている。
「その方らは罪を犯した。嗣君を貶め、卑しめる行いである。この罪は重い。この罪は更に、有莘氏との諍いに発展する可能性もある。それら全ての責を背負えるという者のみが、続けるが良い」
天乙の登場に面食らった集団だったが、彼から頭ごなしに叱責されると、鼻白んだり胡乱げな目で睨みつけた。
それでも、ややあってから申し合わせたように顔を見合わせると、ぷいと走り去っていった。
たとえ夏后王の嗣子の直属の部下であろうとも、さすがに商公の太子である天乙に対して尊大な態度に出るのは憚られるようだった。
この程度の事で責任の所在を追求されて、折角の旨味ある身分を手放すような馬鹿を見るつもりはない、と言う方が正しかったかもしれない。
無法者どもが去っていくのを見届けた天乙は、馬から降りた。
そのまま倒された若木へと歩み寄ると、おもむろに痛めつけられた桑の木を起こし始めた。
傷を治すように折れた枝を小刀で優しく払ったり紐で結わえたりしながら、最後には根本に土を寄せて立たせてやるのである。
まだ、
やがて、一際、幹が補足弱弱しい一本に手をつけた。
その若木は、何度手を差し伸べてやっても腰から砕けるように倒れてしまうのである。
幾度も手助けしてやっていた天乙だったが、とうとう手を引いた。そして、慈しむように木の幹を撫でる。
立ち直らせてやれないかと手を尽くしたが、手遅れであると諦めたのである。
「この若木は、枯れるに任せるしかないようだ」
天乙は悲しそうに言い、か細い桑の木の腹を、そっと撫で上げた。
「あっ」
短い叫び声が出てしまった。
何故なら、寄り添うようにして桑の木を撫でている天乙の背に、更に添うようにして立っている幼女の姿が見えたのだ。
幼女の横顔は哀惜に濡れており、その姿は半ば以上透けていた。
まるで薄布を被って眺めているように、向こう側が見えているのである。
つまり見方によっては、天乙と幼女は二人で一体のようになっているのである。
しかし幼女の姿が見えたのは、ほんの一瞬であった。
恐れた肆が目を瞬かせた僅かの間に、幼女の姿は忽然と消えてしまっていた。
――見間違いか。
呆然としていると、天乙がこちらを振り返っていた。
そして、両手を握り拳にして荒い息をしている肆の方へと、ゆっくりと近づいてきた。
「わらしよ、駆け付けるのが間に合わなかった、愚かなわれを許して欲しい」
天乙は真摯に頭を下げたが、それでも肆は震えていた。
目付きが獲物を狙う獣さながらである。
天乙は不思議そうに肆を眺めた。
いつもであれば、おのれが謝れば周囲は畏れいる。
とんでもございません、どうぞ頭をお上げ下さい、と意を受け容れてくれる。
だが、このわらしは違う。
振り返った時は呆けたような顔を僅かにしてみせたが、今はまた鬼気迫る顔で立ちつくし、天乙を睨んでいる。
「わらし……」
戸惑いつつ、天乙は手を伸ばす。
しかし、その手は勢いよく払い退けられた。
ここに至り、天乙はようやく、肆の心の内の有り様に思いが至った。
「ここは、大切な神域だったのだな」
言うなり天乙は、摯の前で片膝をつき、頭を下げた。
そこでやっと、摯の、頑なな態度が解れた。
両目から大粒の涙が零れ落ちる。
「あああああっ!」
抱きついてきた手負いの野獣のような肆を、商の公子は無言で、ただ優しく抱きとめる。
天乙に背中を摩って貰った摯は落ち着きを取り戻し、しゃくりあげながら名乗ると、この桑畑の由来を語り始めた。
この倒れた桑の木に守られて、おのれは流されてきた事を。
そのお陰で、両父母に出会えたのだという事を。
養父が居ぬ間に、急に養母の具合が悪くなり臥せっている事を。
そして自分は、彼女の為に桑の実を求めてやって来たのだ、と話した。
最も、七歳の子供の能力であるから、どこまで理路整然としたものであるか怪しい。
しかし、天乙は笑ったり揶揄したりしなかった。
一言一言、噛みしめるよう話す摯の言い分に、真摯に耳を傾けてくれた。
聞き終えた天乙は、静かにほほ笑むと、背負っていた弓を下ろして差し出してきた。
意味が分からず胡乱げな目付きで首を傾げる摯に、商の公子は、ははは、と声をたてた。
「将来、商氏を担うべき男子はな、皆、邪悪から心身と魂とを護るちからがあるとされている木で出来た弓を与えられるのだが」
「はあ」
「桑の木なのだ」
「桑の木」
「そうだ。伝説では、巨大な桑、すなわち扶桑樹には、東の果てより太陽を招く強き霊力が宿っており、この世のあまねく悪しきものから我らを護り、邪な者どもや魔物どもを倒してくれるのだ。それにあやかっておる」
全身で落雷を受けとめたような衝撃を、摯は覚えた。
桑の木に破邪討魔の力があるなどと、摯は、初めて知った。
養父母の伊風と小華は、摯を慈しんでくれている。
確かな愛を感じている。
しかし本当の両親に捨てられた生贄であったという事実は、摯の心身と魂に暗く淀んだ汚れを付着させ、泥染みのように食い込んで落ちてくれなかった。
だが、もしも、自分は、生贄ではなかったとしたら?
そう、例えば、桑の木に乗せられたのは親の愛情からだったとしたら?
せめて、吾が子だけでも助かって欲しい、という祈りからだったとしたら?
深く激しい狂おしいまでの愛情の形であったとしたら?
希望の光が摯の心の奥深くに差しこみ、一気に爆裂するように広まって満ちた。
「遠く、渭水の方角から求めた品だという。もしかしたら、わらしのこの母なる木とわれの桑弓は、親子であったやもしれぬな」
弓を背に戻した天乙は、挨拶を交わすかのように桑の葉を撫でている。
「だとすると、われとそちは、きょうだいという事になる」
――公子さまと!? わたしが!? きょうだい!?
生贄ではなかったかもしれない、という希望の光に加えて、新たな夢のような言葉が爆発しながら降り注いできた。
この青年の言葉には、本当にそうだ、と強く信じさせる、摩訶不思議な力がある。
爽やかな春風のような笑みをうかべている商の公子を仰ぎ見ながら、摯は、感動していた。
「弟の慈母ならば、われの母、尊いお方よ。敬わねばならぬ」
そう言って、商の公子は桑の実を探して採ってくれた。
それだけでなく、おのれの馬に摯を乗せると、家まで送ってくれるまで申し出てくれた。
「遠慮などせずともよい。兄は弟に、愛を与えるものだ」
もう、摯は夢見心地である。
こうして摯は、天乙の懐に抱かれて共に馬上の人となった。
――尊い身分の方々は、こんな高みから物事を見ておられるのか。
馬の背に揺られながら恍惚となった。だがその浮かされたような熱の最中にも、ひやりとした物を感じて、そら恐ろしくなった。
――勘違いしてしまいそうだ。
弟
とまで、呼んでもらえた。
何故か気に入ってもらえて、優しく扱ってくれた。
しかし、この抜けるような視界の広さはおのれの所有物ではない。
天乙のものなのだ。
――間違っても、同じであると思い違いをしてはいけない。
それでも、一刻の夢に揺蕩い恍惚となった。天乙から伝わる胸の鼓動を心地よく聞きながら馬の鬣を握っていると、腹にまわしていた手に、力が入れられた。
「わらしよ。どうか、嗣君を許してほしい」
そして夢は、霧が晴れるが如くに散った。
桑畑の惨状を言っているのだろうが、天乙がおのれを愛しんでくれているのと、それとこれは別問題である。
さらに摯は、続く天乙の言葉に仰天した。
「嗣君を恨みに思わないでほしいのだ」
「嫌です」
「どうしてもか?」
「できません」
「兄の頼みでもだめか?」
「無理です」
摯はにべも無く答える。
きょうだいを足蹴にされたのだ。折られ倒され、滅茶苦茶にされたたのだ。
恨みに思わずに、いられようか。
爪先から脳天まで、一気に血が駆けあがっていく。
頬を火照らせている肆を見た商の公子は、寂しそうな笑みを浮かべ、そして項垂れた。
「……そうか。いや、済まぬ。そちの気持ちは当然だ、無理を申した」
「……」
「だが、わたしは嗣君を見捨てられぬのだ」
「……」
「どうしても」
天乙の姿を肩ごしに見、怒りに身を焼いているおのれの方こそが悪者であるような錯覚を覚えた肆は、どうしようもなく戸惑ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます