第8話 その2

 商の公子に抱かれながら、摯はまた、ぽつぽつとおのれの身の上を語った。

 莘公の厨房にて父の仕事を手伝うようにまでなっている、此度の夫人の祝いの宴の料理も手伝ったのだ、と自慢げに話すと公子は目を細め、優しく頭を撫でてくれた。

「ほう、父さまが仕事を継がせんと、今から手解きされておるとな? それは凄い。わが弟は期待されておるのだな。兄として嬉しく思うぞ」

「公子さまも、そうではないのですか?」

「む?」

「貞人とは、太子さまの意味であると父さまに教えてもらいました」

「そうか」

「だから、公子さまも」

「いや、それは違う」

 珍しく、天乙は肆の言葉を遮った。

 ちょっと困ったようにし、肩をすくめた顔は、年相応の少年のものであった。

「わたしは、商公の期待に応えられぬ、不肖の子なのだ」

「不肖の子?」

「つまり、父さまから期待されても良い子だとも思われておらぬのさ。溜め息が似合う情けない子、詮無い子、という意味だ」

 哀しそうに、商の公子は一度口を閉ざした。

「公子さま?」

「その点、わらしのような親思いの良い子を持った父さまや母さまは、心強いであろう。わらしは立派だな」

 優雅な風をうけながら、商の公子は摯を褒めてくれた。

 真正面から言われて、照れてしまう。

 手の平にほんの少しだけ採ることができた桑の実を、うっかり落としてしまいそうになるほど、摯は舞い上がっていた。

 馬の蹄の音がのどかに揺れる夢見心地の楽しい時間は、しかし、瞬く間に過ぎてしまった。

「あそこが、童の家か」

「はい」

 ――桑畑から家まで、こんなに近かったのか。

 馬に乗って初めて知った。

 ――もっと、公子さまと一緒にいたいな。

 少年らしいはにかみと共に摯は願ったが、家で苦しんでいる母を放ってはおけない。

 抱いて馬から降ろしてもらった摯は、あらん限りの丁寧さで、深々と頭を下げた。

「有り難うございました」

「母さまが早う良くなるよう、われも祈ろう」

「あっ、有り難うございます」

「また会える日を楽しみにしておるぞ」

 商の公子は颯爽と去っていった。

 帽子の飾りと服の袖が風を受けて踊り、本当の鳥のように見える。

 ――そうだ、風だ、鳥だ。

 商の公子は風を運ぶ鳥のようだ、と摯は思った。

 時に体を温めてまどろませ、時に大地を厳しく揺るがし、時に心に静謐さを齎す。

 見えず、掴み取れぬ、なのに心には確かに感じとれる、そんな風のようだ。

 そして、風をこよなく愛している鳥のようでもある。

 軽やかに、爽やかに、伸びやかに飛ぶ鳥のようなのだ。

 馬蹄の音が聞こえなくなるまで手を振って見送った摯は、家に駆けいった。


 ※


 ちょうど、丁が薬師から受けとった母の薬を摺り潰す為に、摺り石と摺り皿を用意しているところだった。

「阿衡かい?」

 家の中を覗き見ると、小華が身動ぎした。幾分、気分が戻ってきたらしい。

 殆ど這いつくばりながら家に上がった。

「母さま、ご気分は如何ですか?」

「ああ、阿衡や、余程良いよ」

 追い払いはしたけれど、やはり、子が側に居てくれるのは頼りになるらしい。声が、明るい。

 摯は嬉しくなった。

「母さま、これを」

「なあに?」

「口に含めませんか?」

「あら」

 肆が手の平を広げて見せると、まあ、と小華はくまが出来た目元を緩めた。

 摯の手中にあるものを見て、少女のように無邪気に笑う余裕は持てるようなってきたらしい。

「桑の実」

「はい、今年初めてのものです」

「よく、摘んでこられたねえ」

「どうぞ、召し上がってください」

 勢い込んで口元にもっていったが、だが小華は、また疲れたように口を閉ざしてしまった。

「……ありがとうね、阿衡」

「今、召し上がれませんか?」

「……また、後でね」

 小華は、力なく目を伏せた。喋って、一気に気力が萎んでしまったようである。

 ――少しで良い、何か、腹に入れさせなければ。

 摯は焦る。

 もどかしく思いながらも、表面上は素直に引き下がり土間におりた。丁と代わるつもりだった。

 そこでふと、気になって、丁にたずねた。

「母さまは最近、お腹の薬を貰ってきていたの?」

「へえ? あ、はい、いえ、首ねっこやら背中やら肩やら腰やらが、こう、固くなって、冷えてしくしくと痛む、と仰っておられまして。その薬を、頂いてらっしゃったんで」

「お腹の薬じゃなく、体の痛みと冷え?」

「へえ」

 気分が悪そうに身をもんで、吐き気すらもよおしていたから、てっきり腹の具合が悪いのだとばかり思い込んでいた。

 だがそういえば、母はよく首の筋を違えて痛がっている。摯も請われて、肩を叩いたり背中を揉んだりと孝行している。

 ――背中の薬を飲んで、お腹が痛くなった?

 磨り潰す途中の薬草を凝視する。

 摯の時代の薬は、薬効がある草木や木の実が徐々に知れ渡りだした頃である。

 そして薬といえば、症状を緩和したり改善したり出来る草や木や実を数種類、まとめて磨り潰して小さく丸め、そして飲む。

 これしか方法がなかった。

 だが、この手法には重大かつ深刻な欠点があった。

 磨り潰すといっても粒の大きさは均一ではないし、ましてや、丸薬とした際に薬の成分となるものが偏ってしまうのである。

 そして、丸薬というのは得てして飲み込みにくい。

 飲み込めずに嘔吐いて吐いてしまう場合もあり、そうなると、体に余計な障りが出てしまう。

 小華が腹痛と吐き気で苦しんだのは、まさにそれだった。

 無論、摯がそこに気がつけるはずもない。

 ただ、磨り潰す前段階のこの薬草から、もっと効率良く、そして最大限に薬効を引き出し、且つ口に含んでも成分が均一になるようにし、更には体に染み渡らせやすいように出来ないものかと思ったのだ。

「口に、含んで」

 摯は考えている事を、声に出して呟いてみた。

 思いをはっきり表明すると名案が浮かんで来る。そんな予感がしたのだ。

「そうだ、それだ」

 予感は燦めいて、閃きとなってすとんと落ちてきた。

 ――父さまのようにしてみたらどうだろう?

 伊風は様々な工夫を凝らして、まるで違う要素の味を一つにまとめ上げていたではないか。

 そう例えば、鶏の丸ごと蒸しだ。複雑な織物に、更に刺繍を凝らしたかのような味わいだった。

 あの味付けのように、一つにして火を通してみたらどうだろうか。

「一つにして、火を、通す」

「へっ?」

 屈み込んで、まさに磨り潰しにかかろうとしてた丁は、握り拳を作り、わなわなと立ち尽くしている摯を見上げた。

 突然、摯は丁の手から薬草を奪った。目にも留まらぬ早さである。

「わ、若さま?」

「丁、火だ」

「へえ?」

「薬の汁を作る」

「へっ? 薬汁?」

「そうだ」

「何ですか、そりゃ」

「いいから作るぞ」

 何がなんやら、という顔をしながらも丁は素直に竈に走り、火を起こし始める。この辺りは、伊風に叩き込まれた反射的な動きである。

 摯の方は、鍋に薬草を全てぶち込み、水を入れ、起きたばかりの火にそれをかけた。

 じりじりしながら沸騰するのを待つ。

 待つうち、隣の丁にまで摯のじりじりが感染ってきた。腕組みや目付き、揺らす爪先の速度まで同じになって、水面を見ている。

 沸騰すると、摯は直ぐに火を弱めた。

「ありゃあ若さま、それじゃあ、湯がぬるくなっちまいますぜ」

「いいんだ」

「はあ」

 慌てる丁に、摯は穏やかに言ってきかせる。

 粥用に豚の足の汁を作らせた時、伊風は湯を強く沸かした後、一旦、火を弱めていた。

 あれはきっと、豚の足の味を損なう事なく、旨味を最も引き出す方法だったに相違ない、と肆は見当を付けたのである。

 そこで、粥用の汁の技法を薬草にも活かしてみたら、と考えたのである。

「父さまが、得意とされている方法なんだ」

「旦那さまが、然様で」

 納得がいかない顔をしているが、伊風の名を出されると丁は素直に引きさがった。

 火にかけられているうちに、薬草から濃厚な茶色の汁が出始めた。

やがて、何とも言えぬ臭気が竈付近に充満し始めた。ようは、我慢ならない程、酷く臭い。

「ひゃあ、こりゃ、たまらん。若さま、まだ、やりなさるんで?」

「もちろんだ」

 どのくらい火にかけるべきか、摯にもその当たりまで見当を付けているわけではない。

 だが、少し煮詰まるくらいまでは火にかけた方が良いような気がした。

 殆ど直感という名の閃きである。

 肆はそれに従った。

 それは、烰人になるべく生を受けた者の本能と、天に愛された者の証である才能とが為せる技だった。

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