第7話 その2
頼まれた鰻をぶつ切りにしていると、家からの遣いが来た、と城の丁から耳打ちされた。
伊風が宴を統括している間、厨房は二番手である方丹によって切り盛りされる。
二十年近く修行しているのだから、方丹からすれば摯などは、ひよっこもひよっこ、生まれたての尻に殻をのっけた産毛の乾ききらぬ雛同然である。
だが、彼もであるが、皆、摯をもう一人前として扱っている。
師匠である伊風の味を素直に飲みこみ感動する力量を持っている摯を、子供とみなして軽く扱えない、というのが一致した認識となっていた。
無論、男の世界であるから、痛烈な嫉妬は存在している。
しかしそれ以上に、伊風と摯の父子の絆を、低俗さで汚してはならぬと互いに戒めていたのであった。
「丁が」
――どうしよう。
宮殿に仕えている丁以外の丁を、城内に入れる事はご法度だ。話しを聞くとなれば、摯が外に出るしかない。
ところで、丁というのは奴隷だとか成人男子だとかいう意味もあるが、伊風に仕えている丁は、おのれの名まで、丁、にしていた。
彼にとっては、武人が主君を支えるのと同く、命がけの意気込みで伊風に従事しているのであり、その決意を表明しているつもりのようだった。小賢しいが、可愛くもある。
迷っていると、隣で同じように鰻をさばいていた方丹が目配せをしてくれた。
「出てやれ」
「……はい」
頭をぺこりとさげ、摯は厨房を出た。
摯を見つけた丁は、ほとんど泣きそうになりながら駆け寄ってきた。ただならぬ事柄なのだ、と摯は背筋に冷たいものを感じた。
「どうした?」
「へ、それが」
母の小華が、背中を痛めてしまったので、といって薬を飲んだが、横になっているという。そんなことで、と言いかけた摯だが、思い直した。
養母の小華は、昔の人が総じてそうであるように、我慢強い。
具合が悪そうだから休むように勧めても、動いていれば平気になるからと言うような人である。
そんな母が、横になっている。
――ただ事ではない。
「痛がっておられるのか?」
「奥さまは呼ぶに及ばずと仰っておられますが、どうにも、お辛そうで。見ちゃあ、おられんのです。旦那さまがご無理なら、せめて若さまだけでも、お帰りくだせえ」
うずくまった丁は感極まったのか、大粒の涙を流し始めた。
「分かった」
摯は頷いた。
「帰ろう。厨房に、家に下がると伝えてくる。おまえは先に帰って、母さまを看ていてさしあげるように」
一転、安堵感で顔を輝かせた丁は、何度も頭を下げつつ家へと走り去った。
こうなると、摯も得体のしれない感情に全身を巻き取られていくような気分になってくる。
――母さま。
大丈夫だ、今朝は、あんなに笑っておられたではないか。
平気だ、大丈夫だ、何ともないに決まっている。
きっと、重いものを持ち上げた時に筋をちがえたとか、そういう、よくある類いに相違ない。少し、背中をさすってさしあげれば良くなる、絶対に良くなる。
――そうとも、父さまが帰ってこられたら、めしの時の笑い話になる。
高鳴りはじめた胸を押さえながら、摯は厨房に戻った。
厨房で、こうこうこうで母が大事だと伝えると、方丹たちの方が仰天した。
「早く帰るがいい」
「親は大事にせねばならぬ」
善意に甘え、全速力で家に帰った摯は、小華の姿に衝撃を受けた。
相当に呼吸が苦しいらしく、顔が真っ青で血の気というものがない。脂汗を全身に滲ませて横になっている。
いや、横になっていると言うよりも、悶え苦しんでいる、と言った方が正しい。
「母さま」
駆け寄って、背中を擦った。
すると、小華は薄く目を開けた。じっとりと汗ばんだ額に前髪が幾本か張り付いているが、それを払う気力すらないようだった。
「まあ、阿衡や、おまえ、なぜ、こんな所にいるの?」
咎める口調に、摯は仰け反った。安心したと喜んで貰えるとばかり思っていたのに、よもや叱られるとは。
「母さまの具合が悪いと、丁が伝えに来たのです」
「余計な事を」
息も絶え絶えなくせに、小華は舌打ちせんばかりに溜め息を吐いた。
途端、激しく嘔吐く。
必死になって背中を摩るが、吐き気は止まらないようで、小華は何度も何度も嘔吐いた。
背中を摩って励まし続けると、やっと少し落ち着いてきたようで、徐々に呼吸の乱れが和らいできた。
肆は丁を手招きし、水を持ってくるように命じる。
「母さま、酷い汗です。水を少し飲まれては」
「……いいよ、気分が悪くて、何も口には入らないよ……それより、早く城にお戻り……」
「大丈夫です、お側におります」
「……いいから、父さまの所へ、お行き……」
「母さま、方丹さまの許可は頂いております」
「……父さまのお役に立てず、何が跡取り息子なの……」
「……」
「ほら、早く」
「……」
言葉使いは優しいが、小華は摯を睨め付けた。
それでも躊躇している肆に苛立ったようで、遂に勢いよく手で押し退ける。
「うわ!?」
姿勢を崩して尻餅をついた摯は、戸惑いながらも、背中をむけてしまった小華を前に、どうすることも出来なくなってしまった。
結局。
殆ど放り出されるようにして、摯は家を出た。
出るしかなかった。
しかし、城に向かう気分になど到底なれない。
当て所なく彷徨い歩いているうちに、とうとう桑畑まで来てしまった。
例の、摯が流されて来た時の巨木から広がっていった桑の若木たちだ。
――そうだ。
摯は、枝の間に潜り込むようにして、桑の若木を見て回った。
もしかしたら、大好きな桑の実だったら、口にできるかもしれない。
そうしたら、気持ちもすっきりして起きあがれるようになるかもしれない。
昨日はまだまだだったが、昨日は良い天気だったし、気温も高かった。
僅かであっても、色んだ実があってもおかしくない。
「頼む、きょうだいたちよ、母さまを助けたいのだ」
祈りを捧げた後、摯は目玉をぎょろぎょろさせながら、一本一本の木を具に、舐めるように見回りだした。
「やった!」
すると、日当たりの良い本に黒々と熟れた実を発見できた。僅か数粒であるが、無いよりずっと良い。
「ありがとう、きょうだいたちよ」
実を積もうと、そっと手を伸ばした。
その時であった。
荒々しくも猛々しい馬の嘶きが耳を貫かれ、摯は身を縮こめた。
馬はあらゆる作業に必要な家畜であるが、肆たちの身分の者が乗る事はない。
むしろ、戒められている。
乗馬を許されているのは、戦時に槍や弓矢や剣を構えて戦う武人のみである。
馬に乗れるという事実は、それだけで相当に身分が高い、特権階級であると名言しているのだ。
摯は反射的に這いつくばっていた。
馬の蹄の音は、桑畑を縦横無尽に駆け回り荒らしていく。
それでも、顔を上げられない。身分がそれを許さないからだ。
――やめろおっ!
怒鳴りつけ、破落戸どもを一人残らずぶん殴り、地面に叩き伏せ、懲らしめてやりたかった。
ここは摯にとって神聖なる場所だ。
養い親である伊風と小華は、事あるごとにここに連れてきた。
自分たちに拾われるまでの間、懐に抱くようにして命を繋いでくれた桑の木の慈しみの心と、侘しく思うなとでも言うように多くの種を零して若木を残してくれた深い愛情、それに対する感謝の念を忘れぬように、と諭す為にである。
だから摯にとって、この枯れた巨木は老いた母であり、若木たちは共に育ったきょうだいなのだ。
――おのれ、おのれっ。
馬蹄の音が、乗り手たちの囃し立てる声と混ざり合う。音は土を跳ね上げ、木々の枝葉を薙ぎ払って行く。
――何たる事をっ!
這いつくばっているのだから視界は地面の色をしている筈なのに、摯の視界は真っ赤な血の色であった。
ドウン。
まだ細い若木の一本が、剣で斬られ、馬で蹴られ、倒された音が周囲に響く。
――この無法人どもめっ!
「うぐぅ……」
我慢の限界だった。
暴れているのは恐らく、夏后の嗣子、桀王子の部下たちだろう。
そんな彼らに逆らったら最後、どうなるか。
無事では済むまい。
だが、それがどうした。
何だというのか。
母と、きょうだいたちを守らずして何とする。
腕を切られても良い。
腹を蹴られても良い。
首をはねられても良い。
脳天を割られても良い。
命に替えても守らねばならぬものは、この世にはあるのだ!
――やろう。
摯は立ちあがった。
そこに、高らかな馬蹄の音と共に一人の青年が現れた。
「その方ら、何をしておる!」
駆けつけたのは、商の公子、天乙であった。
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