第16話 その1

 この上ない栄誉ある言葉を賜り、うきうきしながら厨房に戻る途中の摯と方丹たちの背中に、べえ、と羊の鳴き声が注がれた。

「や、ぬしは」

 振り返ると、あのときの羊が立っているではないか。

 べえ、べええ、と鳴く羊の瞳は、どこまでも大きい。青く輝く空を写し取り、吸い込まれそうである。

「……行かなくては……」

 ――公子さまが、呼んでおられる。

 どうしてそう思ったのだろう。何故か、肆にもよく分からない。

 だが、羊の瞳の色を通して、天乙が語りかけてきているような気がしてならなかった。

 羊は、くるり、と向きをかえると、一歩一歩、地を踏みしめて歩いてゆく。摯が後に続くものと、信じて疑っていないようである。

「お、おい、摯よ、どうしたのだ?」

 歩きはじめた摯は、均衡を崩して膝をふらつかせた。

 危うくひっくり返りそうになるのを方丹に支えてもらい、摯は気恥ずかしさの照れ隠しに苦笑いを浮かべる。

「あの羊に、何かあるのか」

「はい」

 摯は、唇を堅くした。

「呼ばれているのです」

「ぬう……?」

 真剣な摯の眼差しに口を閉ざした方丹だったが、やがて、肩に手を置いた。

「分かった、どこに行くつもりなのか知らぬが、行って来るが良い」

「はい」

「わしらは、厨房で待っておるからな」

 方丹たちは肆に手を振ると、伊風が取り仕切っていた厨房へと悠々と歩きだした。

 方丹たちにしてみれば、殆ど凱旋に等しいのだから、この気取った態度も今回ばかりは許してやるべきだろ。

 方丹たちを見送ってから、摯は、羊と共に歩き始めた。

 空は、秋特有の吹きつけてくる。

 風に流されてくる雲は、幾度も姿形を変えている。

 太陽の光は雲に遮られたり逆に照らしたりと、目まぐるしく変容していく。

 時折、頬に陽光の温もりを感じ、時に腕に冷たい風を受けながら、摯は羊と歩き続ける。

 暫くついて歩いていた摯は、不意に、見た事がない景色の庭に出くわした。

 丁寧に手入れされた草花に、うっそうとした木々。

 飛び舞い歌う小鳥と、巣離れを促されて寂しさを隠しもせず鳴く狐の子の声。

 明るさの中に、しっとりとした閑さがある。

 不思議な庭に放りこまれた摯は、戸惑った。

「どこなのだろう」

 流石に、咎められるかもしれないという畏れが胸に起こった。気後れから後ずさりする。

 するとその時、がさがさと植え込みが蠢いた。

「おっ!?」

 ――獣でも飛びだしてくるか?

 身構えた摯の前に現れたのは、何と商氏の公子、天乙であった。

「おお、わらし」

「公子さま」

 天のは相も変わらず、明るく爽やかである。おまけに眩しく、清々しい。摯は無自覚のまま平伏した。

「よい、よい、立ちなさい」

 摯に立つように促した天乙の両手は、塞がっていた。

 幼きむすめ二人と、手を繋いでいたからである。

 二人の幼女は、実によく似ていた。

 やはり、あの時に生まれた公女たちなのだろう。

 ――や、あのお方は。

 一人は、摯に父の室を指し示し、且つ木の実を残して去っていった、あの幼女であった。

 摯を誘った幼女は、やはり翡翠の佩玉を身に着けている。

 もう片方の幼女は、琥珀の佩玉を着けていた。

 翡翠には、太陽と月と北斗七星を胸に抱く三本足の烏が掘られており、琥珀には、天の中心である北極の八角星と睦み合うように咲く蓮の花が掘られている。

 翡翠も琥珀も、神通力や霊力を宿していると信じられている宝玉であり、魔除けとして高貴なる身分の者はおのれの神獣や霊獣を玉環のかざりとするのが常識であるから、翡翠をまとう公女は神獣の烏を、琥珀をまとう公女は八角星と蓮花を守護霊としているのだろう。

 ただし、翡翠色の瞳が消えていた。

 二人とも、まともな瞳の色をしている。

「そちらの方々は」

「うむ、そちを探していると、どこからやってきたのか、われの手を掴んで離れようとせぬ」

 天乙は苦笑しているが、まとわりつかれるのは嫌でないらしい。

 逆に楽しんでいるようである。

 どうやら子供が好きなようで、眼差しには稚さを思いやる深く大きな慈しみがある。

「わらはは、莘公がむすめ、琥珀じゃ」

 突如、もう片方の幼女が名乗った。

 名の通り、陽光を浴びた髪が、琥珀色に輝いている。

 無表情であるもう片方の幼女と違い、琥珀と名乗った幼女は思った事が直ぐに顔に出るようだった。

 しかも、仰々しい。

 美しさは同じであるが、大げさな程に感情が表面に現れるので、顔貌は常に忙しくくるくると変わる。

「こちらは、姉女の、翡翠じゃ」

「では、われも名乗らねばならぬか。われは、商氏が公子の天乙である」

「さようか」

 大人びた口調の公女である。

 摯の方には、はなから見向きもしないのは、奴であると思っているからだろうか。

 摯は、微かに小首を傾げた。

 各々の名を示す環佩を着けているのは分かったのであるが、あの時と同様、翡翠、という名の公女は、一向に口をきこうとしないのだ。

 誰かが喋ると、ぴくり、と身動ぎするし、じっ、と口元の動きを目で追っているから、耳は聞こえている様子ではある。

 だが、喋らない。

 すると、摯の思惑を悟ったのか、琥珀と名乗った公女が続けてこう言った。

「翡翠は、話さぬのじゃ」

 天乙と繋いでいた手を離した琥珀は、おのれが帯びていた佩玉を握って掲げ持った。

 察するに、二人の母である君夫人が、口をきかぬ公女の為にと宝玉を身に着けさせたのだろう。

そうであるならば、母の愛情は何とおおらかに柔らかく幼女を包んでいるのかと心が温まってくる。

 天乙は優しい目で、琥珀の額を撫でている。

 しかし、おや、と摯は思った。

 ――話ぬ、ではなく、話ぬ、とは?

 幼い子供の言葉であるから、言い間違いもあるだろう。

 しかし摯は、どうにも引っかかった。

 摯の胸の内を知ってか知らずか、翡翠という公女は天乙と摯を交互に見詰めてくる。

「これ、これ、斯様に見詰めるものではない。こそばゆくなるだろう」

 あまりにまじまじと見詰める翡翠を、天乙がほほ笑みながら窘める。

 すると、初めて翡翠が表情を露わにした。

 瞳を大きく見開き、ついで潤ませ、頬をほんのりと赤く染める。前髪で目元を隠すようにうつむき、かと思えば、ちら、と見上げてくる。ほぅ、と小さな溜め息を吐いたかと思えば、仄かな笑みを浮かべるのである。

 そして、翡翠の瞳の色が、その名の通りに変幻した。

 ――ああ。

 未だに平伏しながら、摯も、ほほ笑んだ。

 翡翠は、この一言で、天乙に恋をしたのだ。

 ――分かります。

 恋する乙女のように、天乙に焦がれ続けているからこそ、肆には分かるのだ。

 魂がおらぶように恋い焦がれる気持ちに、幼いのにだとか、子供だからだとか、年端もいかないだとか、身分がどうこうだとかなど、何一つ関係がないのだ。

 天乙と翡翠のやり取りを見ていた琥珀は、最初、酷く剥れていた。

 互いに視線を絡め合うように見詰め合っている二人が面白くないようで、えい、とばかりに爪先で地面を蹴り上げる。

 砂が飛び、目に入りそうになったので、摯は身を捩った。

 と、胸元から帛が、まろび出た。

「あっ」

 急いで帛を引っ掴み、胸元に押し戻す。

 怖ず怖ずと見上げると、にこ、と笑う天乙と翡翠の目と、視線が合った。

「まだ、持っておったのか」

「は、はい」

「そうか、うん、そちならきっと、そうするだろうと思っていた」

 ここで突然、ああん、と琥珀が泣き声を上げた。

「おや、小さき方よ、如何されたかな」

 天乙は慌てる事なく、琥珀をあやしだした。

 だが琥珀は、むずがるばかりだ。

 ああん、ああ、ああ、とむずがるばかりと思いきや突如、天乙の手を振り払うと、摯に向かって突進してきた。

 そして、やにわに胸元を押し広げ、乱暴に帛を掠め取った。

「ああっ」

 雛を盗まれた親鳥のように、摯は帛を取り返そうと鋭く腕を伸ばす。

 帛は、端と端を掴み合う状態になり、びり、と甲高い音をたてて引き裂かれてしまった。

 刹那、琥珀の瞳が、らんらんとした輝きをはなった。

 熱波のような吐息を漏らし、毛を逆立てた猫のように興奮している。

「あああっ」

 反対に摯の喉からは、悲痛な呻き声が搾り出される。

 戦慄く摯の姿に衝撃を受けたのか、琥珀は打って変わって、石のように固まってしまった。

 そして次の瞬間、憤怒の表情になった。

 千切れた帛を放り投げ、地面を蹴りつけながら、うあん、わあん、と大声で泣きじゃくる。

 感情の起伏の激しさに、天乙と摯が呆気に取られていると、大仰な琥珀の泣き声を聞きつけた宮女たちが藪を突っ切って次から次へと現れた。

「翡翠さまに琥珀さま」

「あれ、まあ、斯様な所に」

「あれ、あれ、なりませぬぞえ」

 殆ど奪うようにして翡翠と琥珀を抱き上げた宮女たちは、そそくさと頭を下げると、旋風のように連れ去っていってしまった。

 台風が過ぎ去った後のような空気が漂う中、どことなく気恥ずかしさを覚えつつ摯は立ち上がった。

 天乙が差しだした片手には、半分に裂かれた帛があった。

「新しい帛を渡そう、と言うても、そちの事だ、受け容れぬであろうな」

「……」

 見透かされている。もじもじしていると、天乙は朗らかに笑った。

「縫うてやろう」

「えっ?」

「貸しなさい」

「は、はいっ」

 全身が、かっかと熱くなっている。

 夢見心地の摯の前で、天乙は腰を下ろした。

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