第16話 その2


 羊は、べえべえ鳴きながら呑気に草を食んでいる。

 羊だけが我関せずである。

「隣に座りなさい」

 手招かれた摯は、高鳴る胸を押さえつつ、言われた通りに腰を下ろした。

 帯の後ろに手を回した天乙は、小さな袋を取り出した。

 広げると、針と糸が仕舞われてあった。

 針も糸も、大変に高価で貴重な品である。家の家宝にもなる位なのだが、摯にとって、針と糸は母の仕事道具の一つであった。

 なので、天乙が針仕事を行おうとしている事が信じられなかった。

 ――公子さまのような身分のお方が、針をお持ちになるなんて?

 期待よりも不安の方が大きい。

 だが天乙の手は淀みなく動き、すいすいと布を繕ってゆく。

 視線に驚きが滲み出たのだろうか、天乙は悪戯小僧のように笑いかけてきた。

「われが針を使えるのが、そんなに不思議か?」

「はっ!? あの、いえ、その、はい」

「ははは、嘘がつけぬとは、可愛いな」

 天乙のような身分の者がおのれの衣服を自ら繕うなど有り得ないと思われがちであるが、商氏は旅をこよなく愛する民族である為、実際には身分の高い低いの差なく、基本的に己の事は己で解決するように幼少時より厳しく仕込まれているのだった。

 その為、天乙も服を繕う位は朝飯前、というわけなのだった。

 べえべええ、と鳴きながら草と戯れている羊に見守られながら、のんびりとした時間が流れていく。

 ――そういえば、こんなに、のんびりと過ごすのは、本当に久しぶりだ。

 その時間の中に、天乙と共に在る。

 ――幸せ過ぎる。

 摯は何度も今のおのれの状況を疑った。

 もしかしたら気が変になっていて、そのせいで垣間見ている夢なのでは、と恐くなってきた。

「そちの母上だが」

「は、はい」

「わたしの子のうばとして、よく仕えてくれている」

「公子さまの、和子さまの」

 商氏に匿われているとは聞いていたが、母が宮殿で公子の子に仕えていたとは初耳である。

 それにだいたい、天乙に子があったのも衝撃の事実であった。

 母の味が懐かしいとまで言っていたのだから、長らく帰っておらず、商氏の土を踏んでいないのならば、婚礼もまであろう、とどうしてか勝手に思いこんでいた。

「われは、十二の歳に許嫁のむすめを得たのだが、その女が三年ほど前に子を宿してな」

「はあ」

 ――三年近く前というと、公子さまの和子さまは、公女さま方と同じ年の頃、わたしが服忌している間に誕生されたのか。

 ここで、肆は不可思議さを感じ取った。

 莘公の二人の公女、翡翠と琥珀に対する態度から子供好きであるのは容易に想像出来るのに、今の天乙の口調からは吾が子に対してどこか遠慮しているというか、距離を置こうとしている様子が垣間見える。

 ――三年前に生まれた、とか、和子さまを得た、と仰られるのならば分かるけれど……子を宿された、とは?

 将来の商氏の君夫人となるべき、しかも幼少時から添っている伴侶に、こんな言い方をするだろうか?

 普通はしない。

 天乙は商氏の貞人となる身なのだから、和子が誕生し、しかもその子が男児であれば、おのずと嗣孫となるべき尊貴な身である。

 となれば、周辺諸国も莘公も、ここぞとばかりに祝いの品々を贈る筈で、摯にあれやこれやと噂話を運んできてくれた人々の目耳に届かぬわけがない。

 なのに、誰一人として噂を口の端に乗せる者はいなかった。

 ――どういう事なのだろう。

 謎は深まるばかりである。

 摯の煩悶を知ってか知らずか、天乙は変わらぬ笑みをたたえている。

「母さまに、会いたかろうな」

「……はい」

 ――母さま。

 くるくると表情をかえる母。

 これ、と語気強く窘める母。

 気が強いくせに虫が嫌いで大騒ぎする母。

 不手際や怠け心を容赦なく叱る母。

 ころころと陽気に笑う母。

 些細な成功も喜んでくれる母。

 一緒になって泣いてくれる母。

 勉学を叩くように厳しくおしえる母。

 そして、父との事を惚気ては少女のように頬を赤く染める母。

 どんな母の姿も忘れていない。

 ――お会いしたい。

 会いたいに決まっている。

 だが、今、商氏に行けば、きっと、母の愛情に甘え、べろべろに溺れてしまう。

 ――きっとわたしは、駄目になってしまう。

 そうなれば、父の味を再興するという、厨房の皆との悲願を見捨ててしまう事になる。

 そして、父の味を見捨てたおのれを、母は決して許すまい。

 ――母上に堂々とお会いする為にも、父上の味を蘇らせるのだ。

「会いたい、です」

「うむ」

「ですが、今は、まだ会えません」

「そうか」

 逡巡もせず、きっぱりと答えた摯に、天乙は何度も頷いた。

 その間も、帛は丁寧に縫われてゆく。

 はー、と溜め息を漏らしつつ針先を見詰めていると、天乙は、手元から視線を上げずに呟いた。

「そちも、おのれの身を整えること全般、よくよく覚えて身に付けておくがよい」

「はい」

 それは、まだまだ母には甘えられぬから、という意味なのか。

 それとも、商氏に引き寄せられる時が、いずれ必ず来るであろうから、という意味なのか。

 ――ああ、どうしてわたしは、公子さまのお言葉にいちいち反応しては勝手に懊悩してしまうのか。

 返答しながら、おのれの浅ましさと煩悩の強さに目眩を覚えた。 

 そうこうするうちに、天乙は糸を噛み切った。

 無言で差しだされた帛を、摯は恭しく受けとる。

 指先が、何かを感じとった。

 ――何だろう?

 指を移動させ、撫でる。

 縫い合わせた端に、何か縫い付けられているようだ。

 ――文字?

 伊風と小華のお陰で、摯は、この身分でありながら文字に明るい。

 指先が触れた字を口に出す。

「尹」

「ほう、読めるのか」

 天乙に褒められた摯は、全身を赤く染めた。

「は、はい、父と母に教わりましたので」

「そうか、では、意味は分かるか?」

「意味?」

 流石にそこまでは分からない。

 戸惑っていると、やにわに手首が掴まれた。天乙は、広げさせた手の平に『尹』の文字を書いてみせる。

「尹、とはな、神の御心を伝え広め、世に調和と平安を齎す者を指して言う」

「神の御心を伝え広め、世に調和と平安を」

 天乙の教えを、口の中で復唱してみる。

 素晴らしい言葉である。

 だがどうして天乙は、この文字を縫い付けてくれたのだろうか?

 意味を教えてくれたのだろうか?

 真意が見えてこない。

「文字には、一つ一つに意味があり、意味は力を宿している」

「はい」

 それは、分かる。

「故に伊風が息子の摯よ、われはそちに、この文字を贈りたく思う」

「わたしに、尹の文字を?」

「そうだ。そちの料理に、われは深く感動したのだ」

 興奮に、全身の血が沸騰する。

 ――口から心臓が飛び出してしまわないか。

 つまり、素晴らしい料理を作った褒美として、尹という名を与えよう、と天乙は言っているのだ。

「尹という文字は、神の御心を降ろす際に杖を使う姿をも現しておる」

 立ちあがった天乙は背中から弓を取ると、天に突き上げた。

 眩しく輝く蒼穹あおきそらに吸い込まれていきそうだ。

 摯は、手でかばいながら目を細めつつ見上げる。

「そちが料理刀を手に奮っておる姿こそは、まさしく、と、われには見えたのだ」

 ――わたしが、尹。

 伝えねばならない、この熱き思いを。

 分かっているのに、唇は震えるばかりで声が出ない。

「そちの料理を食した時、われの胸にはまざまざと言葉が降りて来たのだ。

生きるという事は、食べるという事であり、

 食べるという事は、生きる事を許されたという事であり、

 生きる事を許されたとは、生きとし生けるものを食らい続けることを許されたという事であり、

 生ける物を食らって生きる以上、口に運ぶならば、最大限の敬意を払わねばならぬのだ、とな」


『料理は、して、楽しいものだ。完成して、嬉しいものだ。食してもらい、心が弾むものだ。旨いと言われて、踊り出したくなるものだ。泣きたくなるような、その気持ちを忘れなければ、きっと、おまえは良い烰人になれる』


 父の声が摯の中で満ち、それは涙の奔流となった。

 身をもんで、泣いた。

 号泣した。

 伝わっていた。

 父の教えが、思想が、情熱が、おのれの腕を通して天乙に伝わっていた。

 ――父上、聞いていらっしゃいますか、公子さまのお言葉が、聞こえていらっしゃいますか。

 天にいる伊風に天乙から賜った賛辞を聞かせたい。

 ――何という感動なのだろう。

 なのに呼吸が苦しくなるばかりで、目の前が霞むばかりで、ただただ、木偶の坊のように声を張り上げて泣くしかないとは。

 ――一人でも多くの人に、天乙さまの様に感動して貰うのだ。

 背中を撫でる天乙の大きな手の平を感じながら心に誓った摯は、これ以後、伊尹、と心の中で名乗るようになった。


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