第10話 その2
五馬分屍
頭、両腕、両脚に紐を括り付けて馬に引かせ、体を割り裂く刑罰である。
主に反逆や戦犯に与えられる最も重い刑の一つである。
暴れる桀王子を前に人々は恐怖は勿論であるが、困惑もしていた。
――莘公の宴で、斯様な粗相が起こりうるのか?
この疑念は、誰もが抱くものである。
莘公が厨師である伊風は、遠く九夷にまで名が轟く名人の腕前である。
そんな彼が、こんな初歩的な過ちを犯すなど到底、有り得ぬ事であり、誰もが首を捻って当然だった。
疑問は、まだある。
嘔吐と腹下しにあったのは、何故か桀が夏后氏から率いてきた家臣たちに限られていたのである。
伊風の饗応料理が原因であるのならば、同じ宴の料理を口に入れた、その場にいた全員が苦しまねばならない。
だが、莘公は無論の事、他国出身の随身たちは何ともない。
夏后氏出身の者だけがのたうち回って、逆に彼らの方にこそ原因があるのでは、と勘ぐりだす者も出始めた。
その筆頭が、商の公子である天乙である。
こうして、桀の前には、共に訪れた諸侯の太子や公子たちが厨師の助命嘆願の為に、ずらりと並んだ。
しかし、桀は聞く耳を持たない。面白くないからだ。
結果、火に油を注ぐ形になってしまった。
「厨師も人の子、手と目が届かぬ誤ちもありましょう。何卒、寛大なお言葉をお掛け下さい」
「おのれ厨師め。天乙を動かして生き延びんとするか。何という狡猾さ。面憎き奴め、益々もって許し難い」
「嗣君、どうか広き御心を取り戻して下さい」
「うぬ、五馬分屍如きでは飽き足らぬ。どうやって殺してくれようか」
「嗣君、落ち着かれよ」
「そうだ、奴めを徹底して辱めて殺してやろう。この世の恥という恥を味合わせて殺してやる!」
「嗣君、なりません!」
「聞こえなんだか! 厨師を殺せ! 厨師を殺さねば、われの心は安らがぬ!」
「嗣君!」
「殺せ! 殺せ! 殺すのだ!」
最早、誰にも、天乙にすら止められない。
桀の怒りが有莘氏すべてに降り注ぐ前に、遂に莘公は決断した。
「伊風よ、
涙ながらに命じる莘公を前に、伊風は深々と頭を垂れた。
そして昨日、日が昇ると伊風は口にするだに怖ろしい刑に処されたのであった。
※
「わらしよ、許して欲しい。われは、そちの父上を助けることが叶わなんだ」
静かに語り終えた天乙の前で、摯は泣き伏した。
体全てが涙に濡れた。
この涙は、永遠に父を失ってしまった事による悲しみ故なのか。
それとも、父を理不尽に奪われた事への怒りによるものなのか。
その、どちらもなのか。
どちらでもないのか。
分からない。
摯には分からなかった。
だが涙を流しながら、摯は確信している事があった。
――父さまが誤って毒を用いたなど有り得ない。
己ほど父を知り、且つ父を理解している者はないと、摯は自負している。
命を尊ぶ父が命を軽んじ命を奪うなど、そんな愚かな行いをする筈がない。
――誰だ。
誰が父を貶めたのだ。
誰が父の仕事を卑しめたのだ。
そして、父の命を卑しめた者。
夏后氏の王子。
桀
――許さない。
決して許さない。
この怒りと恨みは魂に刻みつける。
――死んでも忘れない。
震える摯の前に、馬から降りた天乙が立った。
「よいか、よく聞くのだ。もう直ぐ、嗣君の使いがやってくる。その前に、そちは、われの丁となるのだ」
ほんの数刻前の肆であれば、天乙の丁になれるのであれば諸手を挙げて喜んだであろう。
「嗣君は、そちの父を、あろうことか生きながらにして膾にし、まだ意識があるまま猟犬の餌場に放りこんだのだ」
しかし出来なかった。
「そちの父を食らった、その犬を、そちに食わせる気なのだ、嗣君は」
出来るわけがなかった。
「斯様な、人倫にもとる鬼畜の所業を見て見ぬふりなど、われには出来ぬ。わらし、逃げるのだ。われの丁になれば、嗣君も深追いはせぬ」
「嫌です」
摯は即答した。
「逃げません」
「わらしよ」
事の重大さが理解出来ぬのか、と天乙は焦りをみせた。
しかし、摯は風のない沼の表面のように落ち着いており、そして、炭の奥で真っ赤になっている炎の如く怒りに燃えていた。
「わたしは、莘公が厨師にして宰人の伊風が息子の摯です。故に、息子として恥じぬよう生きます」
少年の気迫に、天乙のみならず商の名だたる武将たちまでもが、気圧され言葉を失っていた。
※
桀王子自らが馬を駆り伊風の家に到着した時、既にもぬけの殻であった。
竈からは、仄かな熱が漂わせる優しい香りが広がっており、着物や履き物、食器が無造作に転がっている。
食事の準備の最中に慌ただしく去っていったであろう土間の様子を見た時、彼の従者として長く仕えている商の公子の姿が、桀王子の脳裏に浮かびあがった。
「天乙!」
おのれの側に常に控えている筈の天乙の姿が消えてから、こうなるであろう予感はしていた。
だが、出しぬかれた証拠を実際にまざまざと見せつけられた時、桀の中で何かが音を立てて弾け飛んだ。
「謀反人を庇いだてして逃すとは! おのれ、天乙! なんじも許さぬ! 断じて許さぬ!」
馬に乗ったまま、桀は伊風の家の中に踏み入った。
怒りのまま呪詛の言葉を吐き続け、馬の蹄を使って竈を蹴り崩し、壁を打ち砕く。
さながら、家の中に暴風の目が出現したようなものである。
暴れだした桀は悍馬よりも手がつけられない、と家臣たちは知っている。
彼の怒りを買ってしまった厨師一家の不幸に些かの同情を覚えながらも、とばっちりを恐れ、一定の距離を保って身を縮こまらせながら見守るしかなかった。
やがて、ようやく疲れが見えてきたと覚しき桀は、全身で息をつきながら、小さくなっている家臣たちに怒りの矛先を向けた。
「何を阿呆面を晒しておる! 奴らはまだ遠くには行っておらん! 早う厨師の妻と息子と探し出せ!」
「はっ!」
家臣たちは三々五々に散った。
「莫迦どもめ、われの指示なくば動けぬのか! 無能者どもが! よく恥ずかしげもなく、われに付き従えるものだ!」
散々に喚き散らした桀は、それでも物足りなかったのだろう。
最後の腹いせとばかりに門扉まで破壊し、家に火を放った。
小さな家は、あっと言う間に炎に包まれた。
折からの夏風を受け、囂々と燃え盛る火の勢いは留まるところを知らない。
桀は哄笑した。
顔面を炎の緋色に染め、怒声を放ちながら笑い、笑いながら罵倒した。
やっと落ちつきを取り戻した頃、桀は敷地内に大量に残された蹄の跡を発見した。
「まだ、新しい」
おのれの呟きに我が意を得たりとなった桀は、目を見開いた。
「やつらが馬を使ったとは考えられぬ。誰かが訪ねて来たのだ。考えられるのは、只、一人!」
叫びながら桀は馬に蹴りを入れた。
「天乙!」
蹄の跡を辿る先に天乙がいる。
その天乙の元に厨師の一家がいる。
「待っておれ、天乙! なんじもわれの手で殺してやる!」
高らかに笑いながら、桀は馬を走らせた。
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