第2話 その1


 七年が経った。

 拾われた子は少年となって、桑の木の前に立っている。

 といっても、揺籠の代わりであった巨木ではなく、その種から生じた桑の木である。

 少年を守っていたあの古い巨木は、男と妻が子を家に連れて行くのを見届けたのち、崩壊するように枯れ果てていた。

 少年の方はというと、大方の予想を大きく覆して育った。

 大した大病もせず、ここまで育った。養い親の厳しくも温かい愛情のお陰だろう。

 しかし、黒々とした肌の色だけは変わらぬままである。養い親は深く慈しんでくれているのにも関わらず、体付きはいつまで経ってもか細いまま、背は同年代の女児よりも低いときていた。

 生まれて直ぐに実母からの乳を含ませて貰えなかった事実は、残酷である。終生、少年の体型を矮躯に留めてしまうのであった。

 その代わりと言っては何であるが、少年は美貌だった。

 花顔というべきかもしれない。

 しかし、この美貌に直ぐ気がつく者は稀であった。

 地黒な上に髪も手入れされておらず、衣類も着潰しのものばかりとくれば、端から見てくれに期待など持たないからだ。

 所で、着物が着潰しなのは、養い親たちのせいではない。

 二人は、少年を愛してくれている。我が子同様に手をかけ、心を込めて身奇麗にさせてくれる。

 少年の方がいけないのだ。

 興味を引く食材を発見すると堪らなくなる気質のせいで、山の中から畑から、川やら沼やら野原やら、果ては木の上から土手の穴に崖っぷちまで所構わず歩き回るのだ。なので、直ぐに襤褸になってしまうのである。

 そんな少年が見つめているのは、桑の木が零した種から生えてきた若木たちの枝先である。

「やあ、去年以来だね」

 二年前から若木の何本かが、実をつけるようになっていたのだった。指先で、まだ熟れる前の実を突く。

「早く、色めよ」

 桑といえば蚕を育てる為のもの、と思われがちである。実は食用になるし葉と根は薬になるし、重宝される万能の木なのである。

 特に実は、ただ食するのみあらず。

 酒に漬けて利用したり、果泥に加工し甘味として利用したりと幅広く楽しめる。

 そして桑の実は、養い親たちの大の好物でもあった。

 初夏の夜の一時、家族の団欒を甘いものにしてくれる爽やかな果物は、勿論、少年の好物でもあった。

 何よりも、この若木たちは、大洪水からおのれを守ってくれた揺り籠であった桑の木から育った木々である。

 つまり少年にとって桑の木は兄弟同然なのだった。

「おお、よ、実はいろんだかね」

「いえ、まだまだです。食べ頃になるまで、もう少しですね」

 通りすがりの老人に声をかけられた少年は、にっこりと笑みを浮かべながら答えた。

「そうかね、まあ、摯が言うのならば間違いなかろうて。いや、楽しみだの」

「はい」

 荷を背負った老人も、笑顔で去っていく。

 少年は、いつの間にか、摯、と呼ばれるようになっていた。

 摯

 とは、まこと・・・、とか極まる事という意味であるが、他に、生贄、という意味がある。

 桑の木から生まれた生贄であったろう子は、そのままの名を持ったのである。

 その、肆の耳に、慌てているのかいやに急いた足音が届いた。

阿衡あこうや、また、ここにいたの?」

かかさま」

 母に呼ばれた摯は、振り返った。

 ただし、少年は養母からは、阿衡、と呼ばれていた。

 衡

 とは、はかりの事であり、阿とは誰それちゃんという親しみと愛情を意味するものであるので、母親は「可愛い衡ちゃん」と呼んでいるつもりなのだろう。

だが実は、阿には別の意味があった。

 川、を指すのである。

 拾われ子は二重三重に、おのれの出自を体現した名をつけられていたわけだ。

 もう一つ、この摯少年は他人には真似できぬ技を持っていた。

養父にも出来ぬ特技であり、その技の力を養母は名に込めて呼んでいたのだった。

「母さま、どうされましたか」

「お城から、お使いの丁がきてね」

「丁が? 何と?」

ととさまが、とても手が足りぬらしくてねえ。困っておられるらしいの。阿衡や、一走りしてきておくれでないか」

「分かりました、参りましょう」

 養母に手を合わされた摯は、素直に頷いたのだった。



 養父の職場に摯が駆けつけると、殆ど戦場のような有様であった。

 まるで餌を運ぶ蟻のように右往左往している者たちの中で、養父だけが毅然とした面構えで指示を出していた。

 ――どこに居ても、父さまを一目で見つけられる。

 養父の事を養い親だからという理由以上に敬愛していたし、長く共に居られるこの戦場も愛していた。

 摯にとって養父は、生きていく上での全てにおいて規範にすべき尊き人であり、実の父であったのだ。

 たとえ、賤人と蔑まれる職についていようとも、である。

 摯の養父の名は、伊風いふうといった。

 尊貴な名である。

 もとより、貶められる身分のものに名だけは気品を与えるのは為政者の常套手段である。もっとも、莘公は穏やかで出来た知られる人物であったので、本心から伊風を愛して名を与えたのかもしれないが。

 摯の姿を認めた伊風は、鋭い一瞥をくれた。

「何をしに来おった」

 とは、伊風は言わない。

「さっさと手伝え」

 とも、伊風は言わない。

 数年前から、摯はこうして偶に呼び寄せられては、蔬菜を切ったり肉を解体する手助けをさせられていた。

 この厳格で堅物な職人気質の父にとって、既に学びに入って数年経っている以上、やるべき事柄は見抜いて当然であった。

 それにしても、四、五歳の頃から城の仕事を一端に手伝わせているのだから、仕事を仕込むつもりにしても早過ぎる。

 その上、伊風の摯への指導は手厳しく容赦がない。

 だが部下たちは、己たちの上司の性格を熟知していたので、摯に対して辛く厳しいのは当前だと感じていたし、少年をどう使うべきかも心得ていた。

 甘やかしも特別扱いもない。

対等の仲間となるべく奮闘中の、只のちび《・・》である。

 伊風が預かる戦場の中をぐるりと見回した肆は、さっ、と何処かに走った。

 ところで、摯の養父の仕事は厨師であると先に述べたのであるが、この頃の人々にとって料理人とは即ち、生き物の命を奪う存在である卑しい体であった。

 同時に、神への供物を捧げるげきに近しい畏るべき人でもあり、宴を披露する際に尊貴な身分の者が憩う場の話術を取りしきる、さい人でもあった。

 祭祀の際に捧げられる供物は、最終的には一族のものたちの口にはいる。

 折々に触れて振る舞われる供物の調理方法にはじまって、長老から生まれたての子に至るまで、如何様に取り分を仕分けるべきか。

 一から十まで熟知しておらねばならない。

 また、宴とは政治における裏舞台の戦いであるともいるのであるが、政争により目まぐるしく上下する来客の尊貴貧富の順を過たずに料理を振る舞わねば、仕える主上の恥となってしまう。

 どちらも正しく料理を采配せねば、怒りと死を買うという点において、意味あいは似ているであろう。

 とにかく、職業的には卑賤の部類に入るが、尊敬の念を多いに集める人。

 中でも、希代の天才として他国にまで名を知られている人。

 それが、肆の養父である伊風という男だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る