第2話 その2

 厨房が更に活気がついた。

 莘公の後宮において、新たな生命が誕生しようとしているのだ。

 祖霊に捧げる供物の品々の他に、いつでも誕生を祝う宴を開けるに常に準備をしておかねばならず、不眠不休で気を抜くいとまもなかった伊風たちだったが、遂にその生活にも終わりを告げる時が訪れたのである。

「ご安産にて、公女さま、ご誕生のよし」

「おお」

 慶びよりも、安堵のどよめきが厨房に溢れる。

 此度のお産は、莘公の後添いとなった年若い夫人の初産だった。

 当然、嗣子の健やかな誕生が望まれていたのだが、何と、夫人は実に一週間ちかくも陣痛に苦しめられたのだった。

 途中、幾度となく気を失い、果ては陣痛が散逸したりという難産中の難産であったので、母子が安泰であった奇跡に、生まれてきたのが公女であったという事実など何処かに吹き飛んでしまっていた。

 差配の者たちの顔は、明るい笑顔で満ち満ちている。

 日を跨ぎに跨いだ陣痛に、もしやという不安が色濃かっただけに、より一層、厳つい男たちの笑みには一種の愛らしさがある。

 二人の公女は、夫人に似て美しいであろうと思うと、厳つい男たちの胸も華やぎ、浮かれ、場に艶やかな色がゆらいだ。

 しかし、ただ一人、表情を曇らせている男がいた。

 伊風である。

 厨房への使者が、夫人の安産を伝えたまでは良い。

 だが、公女誕生の後に続くべき言葉がなかったのが気にかかった。

 ――ご満足にお生まれなされなかったのか。

 伊風の胸の内側に暗い影がかかった。

 打ち消すべきであったが、伊風には何故かそれが出来なかった。



 厨房の裏手に回った摯は、屠られるのを待っていた羊と目があった。

 安産祈願の供物としての捧げものは、お産が進むにつれて変わっていく。

 今日は、この羊の番なのだ。

 摯は、刀を取りだした。

 通常であれば、ここらで刀の臭いを察知した供物たちは、己の末路に恐怖して騒ぎはじめる。

 酷いと、刀を持つ者に大怪我を負わせて遁走したりするのであるが、どういうわけか、摯が役目を負う時だけは獣たちは静かになって為すがままに屠られて行くのであった。

 観念した、というよりは我が身を差し出すことを不幸と感じておらぬようである――というのが、伊風の目から見た光景であった。

 そういう訳で、いつの頃からか供物を屠る仕事は摯の役目になっていた。

 一点の曇りのない澄んだつぶらな瞳で、羊は摯を見詰めてくる。

 刀を持ち上げ、肆はゆっくりと羊に近づいた。

 そこに、伊風の部下の一人が駆け寄ってきた。

「待て、待て、君夫人がご出産あそばされた」

 上げた時と同じく、ゆっくりと刀をおろす。

「ご安産だ」

 肆は、満面の笑みを浮かべた。

 父の心労のなにがしかは、これで軽くなるだろう。

 しかし、この先の料理は祖霊への感謝の供物と、母親に対する滋養の為の物に切り替わる。

「では、鯉をさばかねばなりませんね」

「おう、なのでな、ちょっくら、わしは奥の池までひと走りしてこねばならん。ぬしは、早う父君のところに戻れ」

 微笑んだまま、こっくりと摯は頷く。

 頼んだぞ、と言い捨てた部下は慌ただしく走り去っていった。

 気が急いているのだ。

 これから、更に目まぐるしい時間が怒涛の如くに流れていく。何日経ったかなど、数えていられない位にだ。

「忙しくなるな」

ぞんざいに扱われたといって、文句を言っている暇すら惜しいのだ。

 刀をしまった摯は、手の甲に湿り気を感じた。生贄となる筈であった羊が、懐いてきていた。

「おまえ、生き延びたな」

 羊は舌を伸ばして、ぺろりぺろりと摯の肌を味わっている。

 この世に零れ落ちた時から、供物として捧げられる運命の生命ではあるが、その瞬間を迎えるのが先延ばしになった以上、捧げられるまで、より良く生きねばならぬのも、また定めである。

「それが生きるという事だものな」

 つぶらな瞳で見上げてくる羊の額を、摯は指の腹で優しく掻いてやった。


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