第4話 その2

「持て」

「はい」

「一尾をそれぞれ八つに切り分けよ」

「はい」

 父に命に、やっと摯の緊張が解けた。

 鯉を掴んだ摯は、目を閉じ無言で立った。

暫しそのままの姿でいたが、目を見開くやいなや、板の上に戻して父の手から調理刀を借り受けた。

 そして、まるで絵筆をすべらせているかのように、すらすらと調理刀を振るう。

瞬く間に、鯉は均等に切り分けられた。

 生まれて初めて、鯉に刀を入れるというのに、まるで何十年もこれのみをさばいていた達人のようなさばき方である。

 これこそが、養母に阿衡と呼ばれている所以であった。

 摯は、はかりを持たずとも手に持てば重さを知り、長さを測らずとも均等を見極める事が出来るのだ。

 神に愛された者のみが許される天賦の才能がこの世にあるのならば、摯のこの才能こそ、正しく、天に愛されし者の特権であろう。


 十匹、全ての魚を切り分け終えた摯は、意を決して気になっていた事を伊風に尋ねた。

「父さま、これは大き過ぎませんか? 火が均等に入る頃には、身から汁が逃げてしまいそうです。どう料理なされるおつもりなのですか?」

「ふむ」

伊風は唸った。よくぞ、そこに気がついた、と言いたげである。

「来なさい」

命じると、切り分けた鯉を乗せた皿を手に別の板へと移動した。

「今度は、切り分けた身を細かく叩く」

 つまり、魚膾にする。

 この時代、魚でも肉でも、生食は一般的であり、中でも膾は特に好まれていた食べ方の一つであった。勿論、なかなか味わえないご馳走である。

「身を剥がした後の骨は、捨てずに皿の上に戻すのだ」

「はい」

 別の刀を手渡された摯は、伊風と並んで鯉の身を叩きはじめた。

 だん、だん、だん、と節を伴った音が、まるで音楽のように厨房に響きわたる。

 均等に叩き終えた鯉の身を、伊風は楕円形に整えだした。

「焼き物の準備をせよ」

 部下の一人が窯に鍋をかけ、油を満たして熱し始めた。

「丸めた身に、砕いた米をはたき付けて塗すのだ」

「父さま、先程、食材にごとに切り方を変えるように命じておられましたが、あれは何故ですか?」

「例えば、豆や蔬菜、これらを共に煮るとする。しかし、堅さが全て違う。そうなると、一度に同じように煮ても一つは煮潰れし、一つは煮えきらぬままだろう。すると、どうなると思う?」

「味が均一にならず美味しく食べられません」

「そうだ」

 淀みなく答えた摯に、伊風は嬉しそうに目を細める。

「だからだ。均等に味が染みていくよう、蔬菜ごとに、大きさを別にするのだ」

 成る程、と摯はうなずいた。

 が、どうしても一つ、釈然としない部分も残った。

「父さま、それならば、先に別々に火を通して柔らかくしておいてから、最後に味を含ませてやれば、同じ大きさで味わえるのではないですか?」

 摯の疑問に、伊風は目を丸くした。ついで、うむ、うむ、と満足げに頷いた。場が違えば、手を叩いていたかもしない。

「よくぞ気がついた。料理によっては、そのようにする場合もあるのだ。料理によって、その時々に、火入れから味の含ませ方まで、一つの技法に囚われていてはならん。古き技が最良ではないが、さりとて、新しき技が全て幸いとも限らぬ。料理とは、無限に変幻してゆく、実に面白きものなのだ」

 伊風は、まるで酔っているときのように、上機嫌であった。


「ここから先は、危険ゆえ、下がれ。先ほどの卵の嚢をよく塩もみし、水の中でほぐしたら、皿の上に広げておくように」

「はい」

 伊風は鯉の身を、鍋に投入した。熱せられた鍋の中で、鯉の身は一瞬で焼きあがっていく。香ばしい匂いが摯の鼻先をくすぐった。

 焦げ目がほんのり付くと、伊風は身を摘まんで皿にあげた。

 摯は首を傾げた。

 どうもまた、父は何やら面白げな用具を開発したらしい。肆の視線に気が付いた伊風は、珍しく、得意そうに笑った。

「高熱での調理の時、箸だと掴み難いのでな」

 伊風が手にしているのは、竹を熱でゆがめて『凹』の形に仕上げた箸のようなしゃのような物だった。

 摯の時代の箸というのは、食事にも用いられてはいたが、むしろ大皿盛りにしてある料理を取り分けるための道具としての側面が強かった。現代でいえば、菜箸のような使われ方が一般的である。

 伊風のような宰人は箸を使う名人でもあるが、それでも探究心が尽きない事に摯は感動した。

「工夫してみたのだが、なかなか良い。厨房の者たちにも持たせるつもりだ」

 思い描いた通りの使い勝手に、伊風は上機嫌である。

 鯉は形を崩さないように、丁寧に揚げ焼きにされた。

 ところで、この頃には基本的な調理方法、焼く、揚げる、蒸す、燻す、煮る、が成立しているのであるが、これも昆吾氏のお陰である。

調理器具の発明発達は、味の進歩発展と直結していた。

 父のやり方を見逃すまい、と摯は目を凝らしている。

だが、手は休めずに卵の嚢をほぐし終えた。

「鍋を用意せよ」

 鍋が置かれると、こちらに来い、と伊風は摯を呼び寄せた。

「おまえが、卵を炒るのだ」

「えっ!?」

 料理の中の一工程、それもほんの些細な一部分でしかないと分かってはいる。

 だが、それでも莘公の祝いの大宴席に饗される、大切な料理だ。

 ――公子さまが口にされるかもしれない料理の、一端を担わせて貰える。

 摯は、凄まじい感激に打ち震えた。

「すぐに火が通るゆえ、焦がさぬよう手早く、しかして急がぬように慎重に」

「は、はい」

 しかし現実に鍋を目の前にすると、急に膝ががくがくしはじめてきた。

肆は、心底情けなく、恥ずかしくなった。しかしそれ以上に、心が弾んでいる感じていた。

「落ち着いてやれば良い。誰にでも初めの一回目はある」

「はい!」

 父の叱咤激励を背に、肆は皿の上のほぐし卵を鍋にあける。

次に、摯の手ほどもあるさじで丁寧に炒っていく。

 ぼんやりと曖昧な色合いだった卵は、甘く鮮やか黄色に染まり、卵の良い香りが漂いはじめた。

 ――卵は、こんなにも優しげな香りがするのか。

 しかし、摯に感動する間を伊風は与えない。

容赦ない叱責が飛んでくる。

「卵は火が入りすぎると、一気に味が落ちると言うたであろう」

「は、はい」

「炒めた魚の卵は、まとまり難い。零さぬよう注意せよ」

「は、はい」

 今の摯には、上手く出来ているのかどうかを判別する余裕はない。

 肩を使って息をついた時、全身がまるで雨にうたれた後のように、濡れそぼっているおのれを知った。

 この短かな間に、大量の汗をかいていたのである。

 頬に熱が集まるのを感じながら、摯は、皿の上にとった炒り卵を父に差しだす。

 嘗めるようにながめた伊風は、うむ、うむ、と頷き、目を細めた。

「初めてにしては、まとも《・・・》な出来だ」

 息をのんで、親子のやり取りを聞いていた厨房の者たちの顔の上に、笑顔の花が咲き誇る。

 彼らの師匠にとって、最高の部類に近い褒め言葉だったからである。

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